長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

岐部城 ペトロ岐部の故郷 ~中年男4人旅 in 豊後 その1~

2015年09月26日 | 落城戦記
毎年開催される中年男4人の城旅。
今年は豊後。

常ならば飛行機で飛んで、と、なるところなのですが今年は一味ちがう。
神戸からフェリーに乗って豊後入りすることに。当初は関ヶ原で負けた島津を体験しよう、という紀伊守の提案で大阪南港から出港する予定でしたがチケットが取れず、神戸から大分市入りすることに。

時間があったので新幹線を使わずに金山から芦屋まで新快速を乗り継いでの旅。
ちなみに4千円でした。安い。
神戸からは国内フェリー旅行。初めての経験です。


4人一組だと1室を取ることもできる。
船内には大浴場もあって快適。
夜景を見ながら「島津義弘もこの辺りだと、一息ついているあたりかね?」だの「ちょっとでも舟が見えると「敵?!」と、怯えることだろうよ。」と、付近のカップルの振る舞いを遠慮のない視線で眺めるオッサン4人で島津義弘の心境をひとしきり皆で楽しんだ後、ベットに横たわると船の揺れもあって爆睡。
この揺れが慣れない人もいるようですが、私にはちょうど良い揺り籠のよう。
翌朝目が覚めると5時半。ジジィなので眼が覚めるのが最近早い。
折角なので日の出をみようとデッキに。すると、他のメンバーもやってくる。流石同年代。一緒にジジィになりつつあるのがよくわかる。

※日本の夜明けぜよ!と叫びたくなるが、それとはちがう場所へ。

船上でGPSの場所を表示させるとこんな感じに。


この歳になると時間をかける、ということが最高の贅沢に感じます。
さて、大分に上陸して駅までのバスに乗ろうとすると、妻子を騙して参加する佐渡守が気づく。

メガネがない!

妻子を騙した報いか。
聞けば最近買い直したばかりのメガネだそうで、それを無くしたとなると妻の詮索が厳しくなってしまい、奈良の大学のスクーリングに通っているという嘘が破綻してしまう可能性が。
慌てて船内に戻る佐渡守。
幸い見つかりました。

さて、北へ向かうか南へ向かうか。
まずは私が前から見たいと言っていた「ペトロ岐部」関連施設に。

ペトロ岐部とは?

※ペトロ・カスイ・岐部記念公園にある銅像。

戦国時代に歩いてローマまで行き、最後は凄絶な殉教を遂げるキリスト教徒です。
天正15年(1588年)の豊臣秀吉によるキリスト教禁教令が出た年に国東半島に父母がキリスト教徒の産まれます。その後、主君大友吉統が石垣原の戦いで敗れ浪人となった一家は長崎へ行き、有馬で司祭になるべく修行するも弾圧が激しくなり、慶長20年(1615年)にマカオへ渡航。しかし、マカオでは修行が進まないと見た岐部は総本山のローマを目指します。そのため、インドのゴアへ船で向かい、さらにゴアからは一人陸路でローマを目指します。途中エルサレムにも立ち寄ったようです。この辺りの記録がないそうですが、どうにかこうにかでゴアからエルサレムへの横断に成功。エルサレムからは船でローマに向かい、浮浪者のような姿で到着したようです。
そして、遠く日本から途中陸路を使ってエルサレムにも立ち寄りローマまでやってきた無謀な冒険野郎の強烈な情熱にイエズス会も共感したようで、ローマで岐部は修行を積み司祭となります。
しかし、日本での布教の意欲に燃える岐部は、殉教覚悟で帰国。
寛永7年(1630年)7月に日本に到着し、仙台に向かったようです。伊達家は比較的キリスト教に穏やかだったことが理由のようです。が、幕府の禁教令の締め付けが厳しくなり伊達家も取り締まりが強化。密告を奨励したことから岐部も捕らえられ、江戸に送られます。
寛永16年(1638年)に幕府のキリシタン奉行井上筑後守の取り調べが始まりました。

※ペトロ岐部を詮議する井上筑後守の銅像。(記念公園内)

どうも、この井上奉行、極度のサディストのようで、とんでもない拷問を繰り返していたようです。
肉体的だけでなく精神的にも追い詰めるタイプのようで、数々の有名キリシタンを転ばして(転教)させていました。

ペトロ岐部は、まず穴吊るしの刑に処せられます。


まず、逆さに吊るします。すると、頭に血が行き目鼻をふさいでしまい窒息死してしまうので、それでは拷問にならないため耳に穴を開けて血が少し抜けるようにします。そして、首から頭を地中に掘った穴の中に入れ、首だけ入るようにした板を填め込みます。
真っ暗な地中に首だけ入れて、逆さに吊るされることで肉体的だけでなく精神的にも不安で追い詰められるようで、岐部と一緒に穴吊りにされた2人は転びます。
しかし、岐部だけは全く動じず、それどころか残る2人を励ます始末に呆れた井上筑後守は、岐部を穴から引き出し、地面に寝かせた岐部の腹の上に火のついた薪を置くという火あぶりにします。
それでも転ばない岐部は、とうとう腸が体外に出てしまうという凄絶な状況になりながらも棄教せず、そのまま殉教してしまいました。
そして、平成20年(2008年)に、ペトロ岐部はキリスト教の「福者」に列せられました。

ペトロ岐部の話を聞いて、あまりの凄さに「一体、どんな奴なんだ?」という興味だけから、わざわざ名古屋から国東半島の資料館を目指した我々。彼の生まれ故郷は静かな街でした。


ひとりきり資料館の中を見学した後、どうも、資料館の隣の山が城らしいと判明する。
城に情熱があるのが私と佐渡守であるため、2人で向かう。紀伊と珠光は資料館2階の畳の部屋でまったりと待つことに。

どうも、ペトロ岐部は岐部地区の領主の息子のようでして、岐部屋敷とその詰めの城に該当する岐部城がある場所で産まれたようです。

公園として整備されているようで、すでに道も整備されていることから、あまり期待せずに登る佐渡と私。

※この石垣は近年のものだろうと推測。

ところが、ここで我々は驚愕の城郭遺構を発見することになる。


ものすごい堀切が登場!
写真では伝わりづらいもどかしさ。
かなり掘り下げた人工的な堀切に興奮する佐渡と私。思わず
「うぉぉぉぉぉぉ!なんじゃこりゃあああ!」
「スゲー、こりゃスゲー!なんじゃこれぇ!」
と絶叫。

しかも、この堀切が連続して登場するのですよ。


この深さ、そしてこの広さ!
相当な意図を持たねばこんな堀切は作らない。しかもこれが4つくらい連続している。
あきらかに尾根筋を登ってくる敵を遮断するために尾根を人工的に分断しています。虎口的な遺構は確認できませんでしたが、これだけ巨大なものだと、戦国でも末期の時代のものでしょう。大友氏と島津氏の戦いのあたりか、その後の石垣原の戦いで黒田官兵衛の軍勢を迎え撃つための岐部氏の城であれば、時期的にも一致するのではないかと思います。

そして遮断遺構とは反対側には尾根の末端がありますが、ここからは綺麗に海が見えます。
きっと、海上からの敵も想定していたでしょうし、岐部氏自身も水軍的な性格があったかもしれません。

なんにせよ、ペトロ岐部を見られれば、それだけで満足だったにもかかわらず、ものすごい城を見ることができたという、一粒で2度美味しい場所。

その後、近くの道の駅でたこ飯を買って食べましたが、タコが柔らかくて絶品でした。


幸先の良いスタートを切ったこの旅。
報告はまだまだ続きます。

この中に一人、嫁に嘘をついて旅に出た人がいます! in 2015

2015年09月21日 | 日記
この中に一人、嫁に嘘をついて参加している人がいます!


この話、すでに3年目位になるため今回例のメンバーで城旅に出る、と、いう話をしたところ
「え?ひょっとして、また、奥さんに嘘をついて行くあの人がいるやつですか?」
と、いう反応が多い多い。

そうです。
今年もその無駄な(少なくとも我々はそう考えている)嘘をついて、佐渡守は参加しました。

今まで、、佐賀の城旅に行くのに嫁には偽って上司に誘われて長野の別荘へ泊まりに行ったことにしたために、新大阪を出た新幹線の車内から「今、恵那インター」と、いう嘘の電話をしたり、はたまた、小倉、中津の旅を行くのに合わせて妻子だけを妻実家に帰省させて、自分は名古屋で仕事をしているふりをしてこっそり参加をしました。

そして、今年も彼はやってくれました。
「今年はどんな嘘を?」
と、聞くと、
「スクーリングに参加したことにした。」

とのこと。

彼は、現在、奈良大学の通信教育課程で歴史を学んでおり、結婚前から始めていたことから、どうやらスクーリングに参加することは妻に対する既得権として説明できるそうなのです。

しかし。

今回の旅は、本来は、妻子持ちの私といらぬ嘘をつかねばならぬ佐渡守の要望で2泊3日とする予定が、行きの行程を紀伊守たっての希望で神戸から夜発でフェリーに乗って移動することとなる。

まぁ、夜だから、と、思っていたところ旅のコーディネーター役の珠光から帰りの飛行機チケットが抑えられない、ということで、なんと更に最終日の朝に帰る旅に変更となってしまいました。

私も今更キャンセル料を払うのも癪なのと、毎年参加している城旅なのとで妻にお願いをして参加可能になったのですが、佐渡守は、そもそもスクーリングに行くという嘘をついていたので、変更ができない。

聞けば、初日夜の日程に変更になったことは、翌日朝早くの実習だから、と、嘘の上塗りをして出立することとなったそうです。そのため、彼は、通常、奈良へ車で向かうことから家を車で出ざるをえず、家から大阪へ向かう近鉄の最寄駅の駐車場に車を止めて、参加。そのため、帰途、セントレアから家を通過して近鉄の駅まで行き、車を取ってから帰る、という羽目に。

また、道中のお土産が買えないのも例年のこと。
こっそりフェリー「さんふらわー」の運行表を彼の荷物に入れ込もうとしたら、全力で
「止めろ!!!」
と、止められる。

彼の密航の出発は、確かに成功しました。

※洋上でのGPS画面。

しかし、帰り1日延びてしまったことは言ってないそうです。
どうやら、この旅の最終日に奥さんに電話をして土壇場で押し切るようです。

果たして彼の嘘は成就してしまうのか。
はたまた、バレて修羅場を迎えるのか?!

我々もドキドキしながら観察をすることとなりそうです。
かえって、これでバレたら洒落にならんと思うんですけどね。毎回思うんですが。

さて、本日は国東半島でペトロ岐部の地からスタートして、岐部家の城、富来城、安岐城、杵築城の4城と杵築城下町、安国寺遺跡などを巡ってきました。明日は臼杵城やらを目指す予定。


※杵築城模擬天守。

しかし、毎年思うんですけど、妻子に嘘をつかなければならない状況で、佐渡守は旅が楽しめるのだろうか?


懐中電灯で巡る鍾乳洞が怖すぎ ~縄文洞~

2015年09月13日 | 日記
来週のシルバーウィークに毎年恒例の男四人城旅が開催決定。しかも、今年はチケットの関係で、初日から最終日まで拘束されてします。
当然気になるのが妻の視線。

痛いを通り越して怖い。

今年は城旅に出てしまうことが多く夫妻の負債が貯まっているので、少し返済しないと、と、いうことで子供を連れて3人旅を挙行。一泊二日の旅で、前回行けなかった福井の恐竜博物館へ行こうと思う。今年こそ。

ゆっくり気味に出発しても間に合うだろうとのんびり走っていると、なぜか渋滞表示。関で渋滞?何故?と、思うと


事故か。
事故に遭った人には気の毒ですが、行楽シーズンは交通量が増えるので気をつけてもらわないと多くの人に迷惑がかかるので注意しましょう。

それで時間がなくなってしまい、初日の恐竜博物館は消える。

さて、どうしたものか。
と、思った時に気がつく。

鍾乳洞なんてどうだろう。

しかし、6歳児はともかく3歳児はどうなのだろう。。。
聞いてみるとあまり興味がなさそうな返事。「行って(やっても)良い」的な。
何故か釣り堀が併設されており、娘はそちらに食いつく。
と、いうわけで郡上の大滝鍾乳洞を目指す。

真夏に涼を求めて、という感じが多く既に季節外れ感がありますが挑戦。


なんとこんな列車に乗って登っていく。


これだけでも楽しそう。
そして、いよいよ入場。入り口から冷風が吹いてきて子供が風邪引いたら嫌だな、と、思う。


暗闇の中に入っていくと洞窟探検感満載。
娘息子大興奮。


足元が滑るといけないのでゆっくり慎重に。
でもあまりの非日常に子供ながら感じるものがあるようです。


洞窟の中で滝を発見して驚く娘。なぜか股間を抑えている息子。


2km位あるようですが、全く疲労を見せずに子供達終了。
そして、釣り堀。
300円で竿を買い、糸が切れるまで釣れる。釣った魚は無料でもらえる、という内容。
案の定、糸が弱い。あとすこし!というのが3回ほど。全て切れて終了。


これで十分楽しめたのですが時間がかなりある。
帰途、『縄文洞』という表示が。

ここも鍾乳洞らしい。
あまり聞いたことがないが。。。

子供に聞くと行っても良い、という反応。
で、行ってみる。


かなり人もおらず、ひっそりとした感じ。
隣の大滝鍾乳洞は、賑やかかっただけに一抹の不安が。

入り口に大量の懐中電灯がある。
これでいろいろ照らしながら見学するのか、と、思って中に。


と、中、電気が来てない!

懐中電灯は補助的利用ではなく、懐中電灯こそが頼り。
真っ暗闇を電灯の光だけを頼りに進んでいくわけです。

足元悪いし頭上は注意だし、いやいや、これは中々今時見られない施設。
貴重だ!

停電時は留まって待って、と、いう看板が虚しい。


よく見れば非常灯も付いてない。
ほんと、何かあったら懐中電灯が頼り、と、いうか、既に懐中電灯が頼り。

先ほどの大滝鍾乳洞とは格段に違う難易度。しかし、子供らは嬉々として進んでいく。
が、先頭は怖い、とかいうところが面白い。

たまに娘が勇気を出して先頭を進むと、その時に限ってこんなものが居て悲鳴が。


縄文時代にこの洞穴に人が住み着いていたようで、それを再現したオブジェがあるのですが、真っ黒で大人が見ても怖い。こんなものが懐中電灯で照らされて暗闇に突如浮かべば、下手なお化け屋敷よりも恐怖。

とにかくこの怖さと涼しさとB級さと愛しさと切なさと心強さと兼ね備えた縄文洞が凄すぎる。
自分的にはツボにはまりすぎて、終始笑いながら進んでました。

が、最後にこんな看板が。


おお、ここ、多数人骨が出てたのね。。。
急に涼しげだと思った冷気に冷ややかさがプラスされて霊気を感じる。

ここも息子、娘共に興奮状態で歩いていました。
とにかくオススメです。

翌日は恐竜博物館を目指すも、またしても化石発掘に捕まる。
今回は、発掘を現地でさせてくれるとバージョンアップしたのですが、とんでもないぬかるんだ山道を行くことになり、スタックの恐怖。


残念ながら見つからない上に、大雨が降り出して終了。
体が冷えて、今回も恐竜博物館へ行くことに失敗。

果たして博物館へ行くのはいつになることやら。
でも、縄文洞が楽しすぎ。
オススメです。

織田信長の思考回路がどS過ぎて謎。

2015年09月09日 | 戦国逸話
武将感状記を読んでいると、いろんな知らなかった昔話が出てまいります。

その中で、信長様のエピソードが出てくるのですが、思考回路がドS過ぎて、もはや謎の域に達している話を発見。


〇秀吉の大志、小辱を忍ぶ(続武将感状記)
 信長が鷹狩りに出かけて鶉を取ろうとした。鶉の多そうなところを秀吉に見張らせて、まず左右の鶉を取ってから秀吉の場所へ取り掛かったところ、鶉が遠くに這って行ってしまい犬を入れてもどうしようもなかった。信長はこれに怒り、

「猿!お前、何やっとっんだ!立ちながら寝とったか!真菰で皮膚をこすると、どえらい腫れるらしいと聞いたで、やったれ!」

と、信長は命じて秀吉の服を脱がせて裸にし、真菰でこすらせると皮膚が細かく切れて血が流れた。家に帰ってから熱を出して傷がうずくこと甚だしかった。

秀吉はその夜、夜警当番だったので城に行って泊まった。

恨み言を言ったり、うらんでいる様子は無かった。

翌日、信長は秀吉を見つけて笑いながら呼んだ。

秀吉は目も腫れあがって塞がり、見ることもできなかった。足も腫れて歩くこともできず、柱にぶつかって倒れ、起きあがって這って進んだ。

これを見て皆は「なんと恥知らずな。」と嘲った。
しかし、ある人は
「大志がある人は小さな屈辱を憂えない。これは後に大将軍となった古代中国の武将韓信が街のごろつきに絡まれて、ごろつきの股をくぐれといわれたが、自分の将来が大事と恥を忍んでくぐり、身を大事にして出世した。きっと秀吉もそうなるだろう。」
と、いい、そのとおりになった。

と、いうお話。
秀吉が小さな屈辱は耐え忍んで天下を取った、と良い話のようですが、自分としてはどういう経緯で信長は真菰で体をこすると腫れあがるという話を聞き、それを秀吉が鶉の見張りに失敗したときに応用しようと考えたのか、という思考回路が謎過ぎる点が気になってしょうがない。

真菰


たぶん、秀吉が失敗する1週間くらい前に信長は真菰の話を聞き、
『うわー、そりゃ、一体どうなるんかね?気になるね。』
と、思い続けてたところに秀吉が失敗をやらかしたので思わず試した、ということなのでしょうか。

その結果、秀吉は熱は出るは全身腫れあがって目は開かず、歩行困難で這いずり回る羽目になり、しかもその夜当直が当たってたので当直もこなしています。そして、秀吉はそんなになりながらも信長への恨み言を言わない。

しかし、そんな秀吉を見て、信長は笑いながら呼び寄せる。

信長、どんだけサディストだ。

きっと、秀吉が黙って耐えていたか、耐えられずに「勘弁してください。」と言ったかは、わかりませんが、真菰でこすらせているときにも、信長はニヤニヤ笑っていたことが想像されます。

こんな状況が日常茶飯事の織田軍団だったのかもしれません。
こうした恨みつらみが鬱積して、本能寺の変後に秀吉が、織田を見捨てて独立し始めることに繋がったのかもしれません。

なんにせよ、信長の思考回路は、極度のサディスト仕様になっていることは間違いないです。
皆、ようこんな恐ろしい主君に仕えたものです。

敵に塩を送る ~美談の裏側~

2015年09月05日 | 戦国逸話
世の中、美談の裏側には実は大いなる打算が隠されていたりします。

武将感状記なる本を読んでいたところ、かの有名な上杉謙信の敵に塩を送る送る話、実は謙信に隠された意図があって、単なる美談ではなかった!と、いう話を発見。



『謙信、塩を甲信に送る』(巻之三)
北条と今川とが相談して、静岡や関東からの塩商人を足止めして、武田信玄の領土である山梨や長野に塩がいかないようにした。塩を止めて信玄の兵を困らせようとした。
上杉謙信はこれを聞いて、謙信領国(新潟)に命じて塩を山梨や長野に運ばせた。
謙信は言った。
「ワシは戦で信玄と雌雄を決したいと思っている。塩を止めて困らせる事はせぬ。」
と、言って送ったので、信玄はこの措置をありがたく受けた。
しかし、信玄は、
「これは謙信の義によるものであり、かつ、勇気あることだと言っても、必ず深慮遠謀がある。
信玄は謙信より年上で、北条、今川を侵略できる力があるのは、まず信玄だ。だから、信玄を敵とすること、中国古代の春秋戦国時代の秦に他の六国が合従して対抗する時のようだ。
信玄が困ることになると、今、信玄と戦っている北条、今川等の連合体は謙信と戦うこととなる。信玄が連合体と戦っていれば、謙信はその間に北陸地方を制圧して勢力を強大にすれば、東海地方の国々が力を合わせて一つになっても、恐るに足らん、という思惑だろう。」
と、言ったとか。

謙信が敵に塩を送る送り、義将としての評価を高めたこの話。
信玄は隠された意図があると考えたようです。
武田、今川、北条の三国同盟を結んでいたものの、今川義元が桶狭間の戦いで敗れ、今川氏真が今ひとつ領国を抑えきれない中、謙信との戦いが膠着状態に陥り、海に出られなくなった信玄は家中の反対を押し切って今川との同盟を破棄して駿河へ侵攻。
今川氏真とその妻は城から這々の体で逃げ出して浜松方面の掛川城へ逃走します。これに怒ったのが氏真の妻の父、北条氏康。信玄と断行して駿河出兵中の信玄の甲斐との通路を遮断して駿河に閉じ込めてしまいます。
信玄最大の危機となります。この後、なんとか脱出して甲斐に戻りますが、北条、今川との戦いにより苦戦させられます。

塩の話はこの時期のことだったでしょう。

実際、昭和の初めころまで、山の民にとって塩を入手することは難しかったようで、塩漬けの魚を何日にも分けて食べて塩分を確保していたという話が宮本常一の書籍などに出てきます。塩漬けの魚が塩辛いのは塩だけ運ぶよりも塩漬けにして付加価値をつけることで商売としていたようです。それだけに、今のように塩が簡単に手に入る時代、昔のような塩漬け魚を食べればあっという間に高血圧になりますわね。

信玄にとって塩が止められることで、領民生活が脅かされ、かなり困る事態になるでしょうが、謙信から「ワシはお前と戦場で白黒つけることのみを望む。」と言われて塩が送られてきて、受け取りながらも謙信の隠された意図を読む訳です。

信玄が関東、東海の敵と戦っている間に謙信が北陸を抑えてしまうと、越後一国ですら関東諸将を翻弄しているのに、北陸を抑えた日には関東、東海の国々では止められない。そのために、信玄を使って時間稼ぎをしているくせに、フンっ。

と、肚の中で笑いながら塩をもらったとのことです。

塩を送った話ですが、謙信は塩を同時期に止めなかった、ただし高値で売らないようにさせた、とかで、実際には手紙をつけて塩を送ったという話自体が嘘、という話も。

まぁ、謙信も金山開発や海運で大儲けした武将。一筋縄ではないでしょうから、仮に信玄に塩を送ったとしても単なる美談だけで行動するようなことはしないでしょう。信玄が思ったようなこともあったかもしれません。

ただ、謙信が本心から信玄を哀れんだのであれば、信玄は性根のねじ曲がった人間であることを自ら白状してしまった話にもなります。

塩をめぐるこの話。
塩を送った謙信は、信玄が死去してしばらくしたら、脳卒中で便所で倒れ数日後に亡くなります。
やっぱり塩が豊富にありすぎる地域だったからか?

熊本城 ~やっぱり天下の名城はスゴかった~

2015年09月01日 | こどもと百名城
城が好きならこの城へ行っていない、というのはありえないのではないか。


そう、熊本城。

そして、城オタだなんだと言っていながら、実は厄年になるこの歳まで熊本城を訪れていないことは、私の心の重荷になっていた。根が貧乏性なのと山城が好き、という2つの特性が合わさることで、近場の城を攻めるだけでも数が大量にありすぎて、遠くの城を攻める余裕がなかったのです。

しかし、子供に百名城のスタンプラリーをさせる、という天皇からの治罰綸旨を得た戦国大名のような大義名分を得た今、まずは天下一の称号を得ることも多い熊本城を攻めるべきだろうと考える。

長年の憧れの城。
二泊三日の最終日で疲労もピークでありながらも、父親一人は元気一杯です。


二の丸駐車場から本丸へ向かう途中の堀!
この綺麗に手入れされた芝を見るだけでも、この城がいかに大事にされているかがわかる!

さて、熊本城について簡単に。
大永、享禄年間(1521年~1532年)の頃、鹿子木寂心という地元領主が隈本城を築いたようです。

※熊本城天守閣資料館展示パネルより。鹿子木寂心。近所のおじいちゃん的感じ。

天文19年(1550年)に鹿子木氏は肥後国守護菊池氏を擁立して豊後大友氏に背いて隈本城に籠城したものの落城。その後、城という苗字の一族が城主となり転生6年(1578年)に島津氏に従います。そして大友氏にのこうげきを受けるようです。天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐により城氏は降伏。秀吉は隈本城に3泊し肥後国を佐々成政に与えるも国人領主の反乱にあい鎮圧に手間取った佐々は改易。天正16年(1588年)に肥後国を加藤清正と小西行長に分割して与えられます。

※熊本城天守閣資料館展示パネルの加藤清正。この絵はあまり見たことがない。これが実物に近いような気もする。と、なると、よく歴史資料集に載っている清正の肖像画は現在で言う所のフォトショ修正かけすぎの盛りすぎ的な感じか?

清正が熊本城を大改修して、現在の形の基礎ができ、江戸時代に加藤氏が改易されたのちは細川氏が入城し、手を加えて現在の形が整います。

さらにこの城が終わらないところは、明治時代になり西郷隆盛が江戸時代の武士層(士族)の不満から西南戦争を起こした際、熊本城に籠る新政府軍を攻撃します。
しかし、熊本城は落城させられず手間取るうちに応援部隊がやってきて田原坂で敗戦。
熊本城を攻めた西郷隆盛が「清正公と戦っているようなものだ」と言ったとか言わないとか。

実戦で強さを発揮したことも熊本城の評価が高い理由の一つです。西南戦争の熊本籠城戦が始まる直前に謎の出火で天守が燃えてしまったのは残念。どうも大砲などの標的になることを恐れた政府軍が自焼させた説が有力です。
(このあたりの話は『熊本城みてある記』(熊本市広報課)参照)

さて、この名城へいよいよ侵入。
この日は7月31日。猛暑が続く時期。大変暑かった。

※照りつける直射日光。

子供は今までの旅の疲労もあわさってグロッキー。
娘が「城嫌だぁ。」などと言い出す。
「スタンプ押せるから!」
と、宥めすかしてなんとかお金を払い入城。

「ほら、すごいお城だよ。」
と機嫌を取ろうとするが、
「もう、お城嫌だ!」
と、娘が言う。

ショックを受ける私。
そして、もう思う。
「子供が城好きでなくても構わん。もはやこれまで。厄年まで待ち続けたワシはここで諦める訳にはいかん。」と思う。
クズリまくって騒ぐ娘。さらに意味もなく同調して嫌だと騒ぎ始める息子。暑さと子供のぐずりで怒り出す妻。娘が城を嫌だと言い出したショック。

カイジの「ぐにゃあ」というシーン並みに思考回路が混乱し始めた私。
「ほんなら、もう帰れェ!!」
私は、気づいたら子供に怒鳴っていた。

帰れと言われても、熊本城から名古屋市までは帰りようがないわな、と、気づく。
子供は黙ったので、そのまま進む。

※目が死んでいる子供ら。

我ながら酷い父親と思いながらも、自分の小さい頃は、こんなに旅行など連れて行ってもらえず贅沢三昧のくせに我儘を言いおって、と、怒る自分もいる。
やはり子供が小さいと仲々城巡りは大変なものだと改めて思う。
前々からわかっていましたが。

そして宇土城の櫓を移設したと言われる宇土櫓。

※もはや天守。ちなみに重要文化財。

熊本城は他の城ならば天守並みの櫓が連立する様が壮観です。
中に入ると昔からの櫓だけあって、特に何かある訳ではなく、往時の様を見せてくれているだけ。
子供連れなのでやはり子供には伝わりづらい。ただ、歴史が持つ雰囲気は伝わったようです。あと、直射日光からも逃げられたことが大きいかも。


それにしても、宇土櫓って櫓の割には天守が見える。


櫓と天守のちがいは、四方に窓があるのが天守、天守や本丸方向に窓がなく主君を見下ろすことができないようになっているのが櫓、と、いう機能のちがいを聞いたことがありますが、宇土櫓はそうではない。不思議だ。

天守を移設したものとして名古屋城北西の清洲櫓も清須城の櫓を移設したものと言われています。しかし、これはセオリーどおり、天守方向には窓がないのですよね。徳川系の城は官僚化した発想で作られたからでしょうか?そういう細かいところに気がつく人が偉いというか、そういう細かいところを指摘して自分の権限を誇る小さい人間が組織の中にいたのか。
それは、わかりません。

宇土櫓を登り、反対側の大天守と小天守の連結天守を惚れ惚れと見る。


よくよくみれば、大天守って石垣からはみ出してる。
「熊本城みてある記」によると、石垣から四方に大きな桁(柱)を張り出させて、石垣平面より大きく造った特異な建築です、とのこと。

清正の築城技術を持ってすれば石垣と天守の一階平面を合わせるだけの力はあったと思われる。石落としがある訳でもなく、不思議な作りです。石垣作り出してから「あ、やっぱりもう少し広い方が。」と、言い出したのか。謎です。

そして妻子を引きずって本丸御殿へ。

行きたがらなかった妻子ですが、本丸御殿入り口にクーラーが効いており、入る。現代科学の勝利です。
内部はほんとに見事。大きな梁がむき出しでかっこいい。


内部の装飾については資料が残ってない部分は装飾が描けないので素障子の素襖。


佐賀城の本丸御殿も同じでした。
名古屋城はその点、そうした資料が豊富に残っており再現できるだけに期待できますね。

熊本城本丸御殿で壮麗なのは昭君の間。


一説には豊臣秀頼を迎え入れ、徳川軍と最後の一戦を交えるために設けられた部屋という伝承も。昭君は将軍を意味して、という説もありました、最近では否定されていたのを見ました。

残るは大天守と小天守。


ここで妻子はギブアップ。下の曲輪でかき氷を食べる、と、のこと。私も大天守と小天守は再建なので妻子を連れ回すことを諦める。自分だけで行ってきました。
中は…。


ビル。

名古屋城天守と同じ。
しかし、名古屋城にはエレベーターがあるが熊本城にはない。
ここまで中がビルだと、エレベーターが欲しいと思ってしまうのは悲しい現代人の性。

展示物を見ながら博物館内部を見て回る感じです。


同じ階段でも宇土櫓だとこう。


再建天守だとこう。


天守の見学を終え、どうしても気になる竹之丸からの天守をみたい。竹之丸は天守からの最下段の曲輪だけに登り下りの時間が。妻子を待たしているもののどうしても気になるので、一人で向かう。

この眺め!


お見事。石垣の重なりが見るからに強そう。
しかも、この角度だと天守に唐破風があるのが見えます。格調高そうなのを狙っているのがわかります。
折角なので、竹之丸からの天守まで登る際に動画を撮影しつつ歩くことにする。
2分半かかりました。
動画を編集して、大河ドラマ風林火山のオープニングテーマを被せたら丁度良い長さ。ただし、著作権の問題があるので個人で楽しむことしかできません。私と直接お会いした方にはお見せできるかと。

天守が素ビルでありながら、あまりガッカリしたという評価を受けない熊本城は、多分、こうした天守を取り巻く縄張りのきめ細かさが評価されているのではないかと。

やはり天下の名城にはちがいない。
今度は城好き同士か一人で来たいところ。
一番良いのは「お父さん、熊本城をちゃんと見たいから連れてって!」と、子供に再度言われることですけどねぇ。