長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

趣味の効用

2015年01月28日 | 日記
ブログを振り返ると、今年度は夏の終わりから本業が忙しく、現在も出口が全く見えない状態で仕事してるので当然のことながらストレスが溜まります。

帰宅後、一人で飯を食った後、長篠に関係する古文書の翻刻などを読んでいる時が至福の時。

とにかく読んでいる最中は仕事から完全に離れられるのが良いです。今年はいよいよ本厄に突入していますので、公私ともに重圧がかかってくるという世間の話のとおりになっています。

座りっぱなしなので背中が張るもんですから、椅子にこの上に腰掛けると自然と姿勢がよくなります、というグッズを買ってきて早速職場に用意して座りました。なるほど、たしかに背筋が伸びて喜ばしい、と、思っていたら、このグッズ、すこしお尻のあたりに空間ができるんですね。

要はお尻の中心に重圧がかかるのです。
血が集まる形に。

背筋が伸びて気持ちいいからと、長時間残業の時期にも関わらず使っていたところ、久々に訪ねてきたのが、地主さま。幸い、すぐに気がついて使用を中止し、以前もらっていた座薬により、本日ようやく完治した様子でホッとしました。
寒かったので、スーツの下に筋肉補強用の締め付け型タイツを履いて座っていたのがよくなかったのだと思います。思えば前回の人生初地主の時もこのタイツを履いていた。基本運動時に着用する奴なので、血の巡りが悪くなっている歳に座りっぱなしの時に着用するのは良くないようです。

と、まぁ、厄年っぽい(?)状況の中にあって、精神的な救いが趣味。

例えば、愛知県史には天正3年の5月18日の日付の書状は収められていないのですが、別の日付の書状を見ていると5月18日に突然武田軍が長篠城を攻め始めたけど撃退したのでよくやった、という感状が出てきます。と、いうことは、武田軍は5月18日に長篠城を攻撃し、城内と戦闘があり、しかもそれは感状を発給するような結構な戦いだった、ということが伺えます。

こういうのを見つけて、
「ほぉ。。。」
と、天正3年5月18日に思いを馳せる訳です。一体、どんな感じだったんだろうか。甲子夜話だか武功雑記だかに長篠城は城内の壁が武田軍の攻撃でズタボロになってたという話も残っています。
こんな感じだったのか、とか、考えていると、仕事のイライラもなくなって眠気が訪れる。

ほんと、安上がりな趣味を持っていて良かった、と、思う今日この頃です。

さて、今から、肝心の満光寺関係の調べ物をせねば。



古文書のよみかた

2015年01月25日 | 日本史
これも買ってました。


古文書をスラスラ読めるようになるとは良いと思いますが、しょっちゅう古文書を目にするような生活をしているわけでなし。

ただ、ミミズののたくったような、くずし字を活字に直している「翻刻」は、結構読みます。

その際に使われている言葉がわからない、ということがある。

例えば、
「相働」(あいはたらき)

自分の今までの経験からすると「相」にはそう意味がなく、時代劇などで「あいわかった。」などと言っている奴だろう、だから、ちょっと攻めたった位に思っていたら、ある郷土史を読んでいたところ、「誰かが攻めてきたので、こちらからも…」と、いうニュアンスで捉えて話が書かれている。

「え?」

と、なる訳です。
独学者ですから。
しかし、自分が調べたいと思ったところで重要な役割を果たす文書だけに、ここの解釈でえらいこと差が出る。

で、保留。

と、いうことが起こる。

ところが、この本には用語の読みと意味の章があり、「相」は、

「動詞につく接頭語で、語調を整えたり語勢を強めたりする。」

と、明言してくれています。
やっぱり「あいわかった。」的な解釈で良かったんだ、と、納得。

それこそ、解体新書作ってる杉田玄白とかと状況は一緒な私としては、貴重な翻訳コンニャクなのです。

※翻訳コンニャクは食べると通訳なくても言葉の通じない相手と話ができる便利グッズ。byドラえもん

まぁ、こんな感じで遅々として進まないのですが、大まかな奥三河の戦国時代研究は猛烈な勢いで学者さんたちが解き明かしており、それを読めば良い、という状況になっており助かります。

が、自分などが気になってしまう、ほんとどうでも良いようなこと、となると、誰も調べていないようなものも多い。

で、現在調べている最中なのが
「満光寺の鶏はいつ鳴いた」
と、いうもの。

多分、ここだろう、ということを書こうと思ったのですが、折角だから、と、その近辺の長篠周辺の状況を翻刻で総まくりしていたら、全然ブログに書けません。

ただ、近々まとまりそうなので、そのうち書きます。

相変わらず、細かすぎる部分にしか興味がいかないもんですから。。。

古戦場は語る 長篠・設楽原の戦い

2015年01月22日 | 日本史
読み終えました!



もう、今更ここで書かなくても、あちこちで評判になっているようです。

この本、新城市の広報誌「ほのか」に連載されていたものを下敷きにされていますが、連載開始時には自分もほのかを読んでおりましたので、
「うわっ!なんちゅうすげー連載が始まったんだ。」
と、驚いたものです。

何がって、最新の長篠・設楽原研究の成果が惜しげもなく出されているのです。
一番びっくりしたのが、信長公記の「千梃なのか三千挺なのか」という疑問の元となった資料の写真が掲載されていたことです。

これは、今回の本にも収録されています。あちこちの本で、このくだりは紹介されているのですが、実際の写真を載せているのは初めて見たので、知人に会うたびに「こんどのほのか、レベル高すぎ。」と吹聴して回ったものです。

が、かといって、文章が難しいわけではないのです。

むしろ平易。

これは本の巻末にも書かれていますが、市民向け広報誌のために意図的にわかりやすい表現に気をつけられたからだそうです。

実際、ご家族に読み聞かせて文章を修正されている、と、お聞きしたことがあります。

ただ、中身は相当にディープなところまで突いており、十分歴史好きにも読み応えある内容となっています。

新城に来た時に思ったのが、この地域の郷土史研究の厚みです。
日本でも有数の戦いがあった場所だけに、地元の人達が営々と積み重ねてきた独自の研究があり、そうした視点を踏まえつつも、最新の学説動向をちりばめて書かれているのがすごいところ。

また、地元ならではの写真の豊富さも類例がないといって良いでしょう。
富永館とか井代城とか柿本城とかは結構マイナーですし、火おんどりという長篠合戦の戦死者を弔う祭の写真などもあったりと、かなり地元でなければ写真取れない、というレベルのものが多いです。
古宮城の写真があったのも個人的に嬉しいところ。笑。

また、馬防柵と実際の戦闘場面の推測や武田軍の描写なども、長い布陣の割に激戦地が限られている点から書かれており、この辺りも個人的にオススメのくだりです。

あと、設楽原歴史資料館は火縄銃の収蔵数日本一を誇っており、長篠・設楽原鉄砲隊もいるだけに、火縄銃に関する考察もかなり詳しく書かれています。この辺りは、実際に火縄銃撃ってる人だからこその話もあります。

最近、歴史関係の本や雑誌が溢れており、長篠合戦のについてはくさるほど本が出ています。中には「あんた現地全く見てないでしょう。」と、一発でわかるような内容だったり、ひどいと間違っている雑誌を見たことがあります。

そんな中、久々の良質な本です。
アマゾンでも買えるので、私はアマゾンで買いました。

この本持って、設楽原歴史資料館行って、著者の湯浅さんのお話を聞くのが最高の贅沢ですね。

ちなみに、宮城谷昌光の大ファンだった私は、風は山河よりを読んだ際、あとがきで、湯浅さんが考証にかなりの協力をされたくだりを読み、新城に行ったら湯浅さんに会う、というのを楽しみにしていました。
意外とあっさりと実現して嬉しかったものです。

是非、皆様もチャレンジしては?
勝手にこんなこと書いたら湯浅さんに怒られるか。笑。


長篠合戦のときの武田軍

2015年01月17日 | 戦国逸話
最近、久々に戦国の逸話集「常山紀談」を読み返しておりました。

常山紀談とは、江戸時代中期、岡山藩池田氏に仕えた湯浅常山という人がまとめた武将達の逸話集で、幕末に編纂された名将言行録に比べると、あまり著名で無い武士や細かい内容も乗っています。
その時期に流布していた話が書かれているので、真実が書いてある、というよりは、そういう話があったとさ、的なものとして捉える必要があります。

が、読み物になっているので、面白いは面白い。


で、たまたま読んでおりましたら設楽原合戦時の武田布陣を見た、織田信長や徳川家康の反応について記載しているものがあったので、ご報告。

〇長篠合戦に武田勝頼人数を出す事
 長篠合戦で武田勝頼が五月二十一日に人数を出してきた。(うらにわ注:設楽原に現れたことを指しています。)
 織田信長は武田勢を見て
 「敵も大勢だ。三万はいるのでは。」
 と、いう。
 徳川家康が言うには、
 「今回は味方の勝ちかと。敵が丸く固まっているときは難しいが、人数を散らして大勢いる様に見せかけるのは、勢を頼みにするので大方勝ちになる。」
 酒井忠次は、それを聞いて
 「もっともだ。」
 と、感心した。

 設楽原合戦で一番議論になるのは、
「なんで武田勝頼は、わざわざ馬防柵がある設楽原に出てきたのか。」
と、いう点。

 こればっかりはその時の勝頼の考えを直接的に示す史料がないため、全て状況証拠の積み上げで、それぞれに議論が展開されています。また、信長は自信満々で来たのか、それとも結構不安を抱えながら来たのか、と、いう点も同様です。

 実際に常山紀談の発言を信長や家康がしたのかはわかりませんが、信長は武田勢を過大に見積もり脅威を感じているようにも見えます。しかし、家康は敵が広く薄い、と、見て勝てると踏んだわけです。

 結果的に、設楽原の合戦の状況は、家康の言ったとおりになってるわけですが、江戸時代に編纂された物だけに、家康のすごさをたたえるために後から作った話の可能性も高い。信長だって歴戦の勇将。敵勢を見ての判断は、そう家康に劣るとも思えません。まぁ、対武田経験の豊富さでは家康には負けるので、こうした差が出る、ということも、絶対無いとは言えないですが。ただ、こうした話が江戸時代にあった、ということは間違いないのでしょう。

 この話が真実かどうかは別として、非常に興味深かったのが、家康がなぜこういう判断をしたのか、と、いう点。よくよく考えて見ると、家康は勝頼の立場を経験済み、と、言えます。
 
 三方原の合戦で家康は、数で圧倒的に優位な勝頼の父武田信玄を相手に、浜松城を出て会戦。待ち構えていた信玄の大軍に、木っ端微塵に打ち砕かれます。
 その時、武田勢は魚鱗の陣形と言う密集隊形をとり、家康は鶴翼という横に広がる隊形を取ったとも言われています。通常、軍勢が多い方が包囲陣形を取るといわれているだけに、このとき、なぜ家康が数で劣るにも関らず(武田2万5千、徳川1万3千程度)鶴翼を取ったか、という理由もよく分かっていません。数が少ない方が包囲しても包囲陣を破られて、かえって陣形が乱れて収集が付かなくなる可能性が高いですよね。

 家康は祝田の坂を下っているであろう武田軍の背後を襲えば勝ち目ガあると出てきたら、信玄はそれを予想して待ち構えており、徳川軍は進むこともできず、退けば武田軍に追い崩されてしまうため、大変に困ったとも言われています。そのため、中央が凹む鶴翼であれば、大将である家康が逃げやすいから、ということを書いてある小説などもあります。

 しかし、今回の長篠における家康の発言からすると、

 「兵を多く見せようと思った。」

 と、いう考えだった可能性が高い。
 
 話が逸れましたが、設楽原では織田信長は兵力を少なく見せかけるようにしている布陣している様が『信長公記』に見えます。

 敵に数を少なく見せようと思った織田・徳川軍。
 敵に数を多く見せようと思った武田軍。

 こうした対比も考えられる逸話だけに、面白い話かと。

長霊癋見

2015年01月13日 | 日本史
「長霊癋見」

ちょうれいべしみ、と、読むそうで能面だそうです。


※福岡市博物館所蔵品写真

熊坂長範という盗賊と牛若丸の話を描いたもので、牛若丸と一緒にいた金売吉次の荷を狙うのですが、かえって牛若丸の返り討ちにあい、死んでしまう、という話のようです。

上記の写真からも、若干ユーモラスな感じがする面で、実際、能面の解説などを読んでおりますと、滑稽味が強い面、との説明が付いています。

能に全く詳しくない私がなぜ、こんなことを書き出したかといえば、甲子夜話を読んでいて、上杉謙信が関係する話が出てきたから。

江戸も末期の平戸のお殿様が、それこそブログ書くように残した文書で、裏付けの全くない風説のようなものから、自分で見た珍しいものを書き散らしています。

そういう意味では、私のブログと似たようなものが。

本日の話はこれ。

○長霊癋見(ちょうりょうべしみ)
能に長霊癋見(ちょうりょうべしみ)という面がある。悪相なる面である。ある日、金剛大夫のところへ見物に行き、熊坂の能を見たとき、脇の高安彦太郎が桟敷に来て話すには、
「上杉謙信が陣中で常にこの面を持参し、戦場ではこれを被ったという。(思うに面頬の代わりにしたのでは?)その面がこの大夫に伝わっており、今日用いた面は、その模作だとか。もっとも、異聞というレベルですが。」
戦場では威貌を尊ぶので、この面を用いて敵を屈服することもありうる。これは蘭陵王の昔に倣ったようなものだ。

※蘭陵王;中国の王様で強いのだがイケメンで怖さが出ないので、怖そうなお面をいつも被っていた、という伝承のある人。

上杉謙信が被っていたという伝承が残るお面ってどんな奴だ、と、思って検索してみると、上記のお面な訳です。
ただ、ぱっと見、これって威厳を出すお面じゃないわな、というのが第一印象。実際、解説みると「ユーモラス」と書かれている。そして、最後には殺害されてしまう役どころ。

果たして、そんなもの験担ぎする武将がかぶるのか?という疑問がありますが、「いや、そういう説もある、という程度」と、説明を受けています。(異聞)。

甲子夜話作者の松浦静山も
「…。ちょっと、その説は違うのでは?」
と、疑ったからこそ、わざわざ異聞、と、書いたのかもしれません。
でも、蘭陵王の話を出してくるあたり、上杉謙信ならやりかねん、と、思ったのかもしれません。
このあたりは直接松浦静山に聞かないと、どうにも判別できません。

ちなみに、どうやら、熊坂長範の話が越後の住人で大薙刀を扱う藤沢入道の話が下敷きになっている、と、wikiに書いていあるので、そのあたりが、伝承の始まりなのかもしれません。

あと、上杉謙信の兜に「三宝荒神形兜」なる異形のものが伝わっています。


※仙台市博物館所蔵品

最初、この兜の写真を見たとき、上杉謙信の常軌の逸し加減がわかって度肝を抜かれたものです。
こんなん被ってたら、顔の上に顔がある、という感じがですし、酒好きで有名な謙信だけに、酒で赤ら顔している上に、三宝荒神の赤い顔、という、赤ら顔つながりの兜になっているのかもしれません。戦国時代の変わり兜としては、相当有名な部類に入る兜です。

こんなあたりの話が、江戸時代の末期ともなればごちゃ混ぜになってきて、逸話として松浦静山が残すことになったのではないか、と、推測されます。

あくまで推測ですが、有名武将ともなると、いろんな話が敷衍してくるものですね。

しかし、三宝荒神の兜をかぶりつつ、長霊癋見のお面を被っている殿様を見た部下からすると、

怖がらせたいのか、ウケたいのか?

と、反応に困ったことでしょう。

名奉行 新見伊賀守

2015年01月11日 | 日本史
甲子夜話続編を読んでいたら、 名奉行について書いてあるのですが、その内容の一部にとんでもないことが書いてあったのでご報告。閲覧注意。

〇 大坂の刑罰


※十手の折畳み傘
 ・・・
 新見伊賀守が大坂町奉行のとき、巡視の時牢屋の構えが江戸と違い湿気の酷いところで、さらに造りも悪かった。
 そのため、入牢した者は、皆病気になって十人のうち一人でも無事に刑期を終えることができたら良い状況だった。そのため、自他ともに入牢=死を覚悟していた。
 新見伊賀守が言うには、
「入牢が刑罰を下す場ではない。その罪の軽重により、或いは死罪、或いは遠島などの刑罰が課されるのである。それが処分であり入牢ではない。これでは天命に背き、あまりに酷い。よって、江戸と同じような造りにせよ。」
 しかし、同僚たちは賛成しない。
 そこで新見は江戸の幕府に申し出て、遂に大坂の牢屋の改善を行った。
 また、大坂での火あぶりの刑は、銅壷のような物の中に火を入れ、罪人を壷に縛りつける。そのうち壷の中の火が激しくなって、罪人は熱さに耐え切れず絶叫して焚死する。また、鉄の環を立てた銅柱に通し、鎖で罪人を環に繋ぐ。そして、火を四方から焚きつけると、罪人は熱さに耐えかねて柱の周りをぐるぐると走り回り、遂に悶絶死する。
 これらは刑罰とはいえ、残忍であるのでやめよう、と、同僚に提案したが、またも無視されたので、これまた江戸に東西で刑罰が違うのはいかがなものか、と、申し出て改善された。
 ・・・

ここに出てくる新見(しんみ)伊賀守は、天保年間に大坂西町奉行を勤め、安部川を浚渫して日本一低い山として有名な天保山を作った江戸時代の幕府の役人で、将軍の御側御用取次などをやっており、江戸に強い人脈を持っていたことが想像されます。

しかし、江戸時代も末期に近い時期、大坂の牢屋は「入牢=死」を意味するような状況で、なおかつ、銅の壺を罪人に抱かせて、壺の中で火を炊くだの、暑さに耐えかねてぐるぐると走り回って焼け死ぬような火炙りの方法が残っていた、というのがおどろきです。しかも、それは江戸の新見からすると江戸の方法と違い、残忍極まりなく見えた、ということのようです。

大坂の人達は当たり前だと思っていたようですけど。。。

今では残忍な方法による死刑は禁止されていますが、まだ200年前の日本でも結構な方法が執行されていたようです。

しかしまぁ、そんな光景を見せられていた庶民、というのも、それに慣れるんでしょうね。
だから大坂の役人は「なんで変えないかん?」という感覚だったのだと思います。

でもまぁ、怖ろしい方法を考えつく人もいるもんですわ。

極寒の備え

2015年01月10日 | 日本史
最近、暖冬と言う言葉がどこかにいってしまったかのように寒いです。
最近、本業が多忙でブログ更新もままならない状況ですが、うちの職場は時間外になると冷暖房を切ってしまいますので、大変に季節を感じることができます。

感じたくなど無いのですが・・・。

そのため、今の季節、心底冷える。
早く帰れる場合は、さほど影響が無いのですが、残業残業また残業、という状況での冬の寒さは、パソコンを打つ手がかじかんで、うまく打てなくなることもあって、大変困ります。
こんな職場では身も心も凍りつくというもの。

さて、最近、歴史ネタが少なくなってしまった反省から、久々に甲子夜話を読んでみる。
甲子夜話続編8を読んでいると、寒いときの話があって、思わず目が行く。

〇寒いときの鉄砲
 冬の平戸で軍事訓練を行った際、降雪があり寒さが激しく、兵の手が凍え鉄砲を打とうとするが指が自由に動かない。火縄を挟むのも引き金を引くのも不都合な時、種村某率いる一隊は、指揮に応じて即座に撃ったので皆が驚いた。
 なぜか、と聞けば、
「途中で寒さが厳しいので予め士卒に命じて右手を懐に入れさせておりました。」
 聞いた人は皆感心した。
 この種村は山鹿素行の弟子だった。
 また、このときあまりに寒いので兵に粥を与えることになり、めいめい粥を陣鍋で作って食べた。
 このとき、陣鍋のありがたさを皆がはじめて知った。
 平和が続くとこうなる。

 手がかじかむ、ということは戦場では生死を分ける重大な事態だったんですね。
 しかし、平和が続く江戸時代では、そうした注意事項もいつしか廃れて、「さびー」とか言いながら待ち構えて「くそっ、うまく火縄が挟めない。」とか「引き金がうまくひけん!」などと、大方の人が騒いでいた、という光景が目に浮かびます。

 そんなとき、木下藤吉郎よろしく懐で温めておいた種村組は、即座に鉄砲を放ち面目を施した、と、いうお話。

 竹中半兵衛は、座っているとき、常に手足を動かしてせわしない状況だったが、それは痺れを防ぐためにやっているのだ、と、言ったとか。戦国時代ならば、懐に手を入れるなど手がかじかまないようにするのは当たり前だったのかもしれません。しかし、いつしか平和な時代に忘れられていった、ということでしょう。

 それを確認するのが訓練なので、まぁ、良いといえば良いですが、昔も今も、使わない技術はいつしか廃れていく、ということなんですね。そんなところが人間くさい話だな、と、思った次第です。

 が、手がかじかんでうまく対応できないという大方の兵の状況に、なんとなく朝方の暖房が効くまでの間とか夜間の残業中に、やたらとパソコンの打ち間違いが発生したりする時の自分を思うと、やたら共感してしまいます。

 今度から、懐に手を入れてパソコンを打つようにしようかと思いましたが、変態と思われるかもしれないし・・・。

 変人だということは、既に皆知っているとは思いますが。

本当に実現。正月ラジオで城話。

2015年01月03日 | 
本当に実現して今年一番驚いた(今年一番認定早すぎ)のが、FM豊橋での正月ラジオで城話。
今回、豊橋へ向かうにあたり、ふと気づく。

「帰省ラッシュは3日、4日がピークです。」

結構正確に予測を当てる渋滞予測を見ると行きが「岡崎ー音羽蒲郡10km」、帰りが「豊川―岡崎間30km」とある。
行きも大概ですが、帰りは地獄の渋滞距離数。この分では、23号へ逃げる車もいるだろうから国道23号も使えないだろう、と、予想。

結果的に往復切符が激安の電車にしました。
340円払えば新幹線にアップグレードも可能。

電車なら大丈夫やろう、と、思っていたら、この日は京都方面で大雪のため30分程度の遅れが生じている!
げぇ、と、思っていたら、予定していた電車とほぼ同時刻に30分程度遅れて発車する新幹線が停車中。
結果的に、何の不都合も無く豊橋に到着。しかも、こだまは空席が結構あって、快適に座って豊橋まで行けました。
名古屋ー新城・豊橋間の往復を、もう相当な期間繰り返していますが、名古屋―豊橋間は新幹線がお得感が強くてお勧めです。なにせ足元は広いしシートはリクライニングするし、楽できます。

そして、豊橋駅からは正月の食べすぎをリセットするために駅から小畷のFM豊橋のスタジオまで歩く。


1,7kmくらいの距離で、これまた丁度ウォーキングにぴったりの距離。
もっとも、スタジオに着いたときには汗だくになってしまいましたが・・・。

先についていた藤本さんと簡単な流れを打ち合わせ。
今回は、渡辺さんのザバーン、ということで、いつものモエモエさんのスヤンコイトルとは違うので、うまく話せるだろうか、モエモエさんのFBなどを見ていると、厳しさと愛情を併せ持つ師匠として描かれることの多い渡辺さん。スタジオ外でお見かけはしたことがあるものの、怒られたらどうしよう、などと、勝手に妄想を膨らませておりましたが、スタジオに入ると、妄想は誠に勝手な妄想だったと判明し、リラックスして話をすることができました。

私は、とりあえず話し出す癖があるため話がぐるぐるすることがあったり、考えながら話していると「あれ、今何を話してたんだっけ?」ということも多い。自分で自分の話が何言ってるんだか全くわからんな、と、いうことが多いことを知っております。そんな私の話に「今、うらにわさんは、関係者への配慮を考えて発言をしています。」等のフォローを入れてくださるなど、さすがはプロ、と、腹の中で感謝しておりました。
こういうフォローをしてくださると、素人のこちらとしては焦りが抑えられて、落ち着きを取り戻して話をすることができます。

と、取り留めの無い私の話に皆様お付き合いいただいていたら、結果的に、なんと、2時間も出演させていただきました。

ええのか、ええのか、こんな素人が2時間も公共の電波で話をして。

と、帰りの電車で少々不安に思う部分もありましたが、やっぱり、通常のサラリーマンがラジオで話す、という経験は大変貴重なので、新年早々面白い経験ができまして、大変感謝しております。

また、私のブログをご覧の方からのお話などもお聞きできて大変嬉しかったです。
ラジオを聴いていただいていた方に感謝、感謝です。

今年も早速良いことがあった一日でした。

と、ここまで書いて、本日スタジオ外で作業されていたモエモエさんのブログ見たら「どっ楽しい」とのコメントが。嬉しい限り。
「レギュラーやっとくれんかやぁ」とのコメントも。
いつでも豊橋行きますよ~。って、あんまり調子に乗ると怒られますね。

瓢箪から駒

2015年01月02日 | 奥三河
以前、古宮城の清掃活動をのんほいタウン藤本さんのFM豊橋の番組「よろしくボタ話」でさせていただいた時、城の話をし始めたら一晩では終わらない、と、述べたところ

「では、正月に特番で城の話を。」

と、いう話が飛び出しました。

冗談だろう、と、思っていたところ、

本当に話が来ました。

FM豊橋、恐るべし…。
恐るべしFM豊橋と、言うべきか。

と、言うわけで、明日の14時頃から私、FM豊橋さんで城的な話をさせていただくことになりました!
今回はのんほいタウンにこれまた四コマ漫画を連載されている、よっちゃんこと渡辺さんの番組で藤本さんを交えておっさん3人、ゆるく話をする、というコンセプト、と、聞いております。

FM豊橋が入らない地域でも、アプリをダウンロードすれば聴くことは可能です。

こんな素人が話をしても良いものか、と、思うところもありますが、素人ゆえの恐ろしさ知らず、ということで、お話をさせていただきます。

明日は高速が大渋滞予測なので、電車で豊橋へ移動する予定。

豊橋駅に到着すると、なんか「ああ、帰ってきた。」と豊橋に住んだわけでは無いのに思ってしまいます。新城時代、よく経由駅でしたから。

なんだかんだで東三河に行くきっかけを作って頂ける幸せ。

ありがたい限りです。
少し、本を読んで予習しておこう。

※長篠城の堀

あけましておめでとうございます。

2015年01月01日 | 奥三河
あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。

今年の元旦名古屋は雪が降る寒さ。
幸い積もりはしませんでしたが、暖冬、という言葉はどこへ行ってしまったのか。

さて、今年は、どんな城へ行けるのか。楽しみです。
子どもと百名城も行きたいですし、個人的には行ったことのない山城も行きたい。戦国時代系の本も読み込みたいし、愛知県史とかも調べたい。やること一杯で困ったもんです。本厄の歳にどの程度できるか見ものです。

さて、のんほいタウンの冬号が出ています。私の連載も無事に3回目を迎えています。是非、ご覧ください。


さぁ、今年も良い年にしていきましょう!