長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

初の万単位当選報告!長篠城の威力を思い知る。 ~縁起のいいらしいまち新城 長篠城編4~

2014年02月28日 | 縁起のいいまち新城
長篠城編もいよいよ最終回。
武田勝頼本陣跡、医王寺にやってまいりました。
駐車場すぐ前にある池の中にある弁財天。
「財」と名の付く神様には、やはり祈りを捧げずにはいられない。


そして、削る。


「あれ?」

H川女史が真剣な声をあげる。
先ほどまで疲労の極地にいた人の声とは思えない声だった。
そして、滲み出る笑顔。

※人間の表情は素直だ。

五千円当たった。


どよめく一同。
※この模様は動画でも確認できます。この記事の下の方の動画で是非チェック。

静かに差し出されたスクラッチにはちびまる子ちゃんの絵柄が、5千円の当選を告げていた。
このシリーズ始まって以来、史上最高金額の当選です。
おめでとう!!
やったぜ姉さん!

前々回の千円当選2名の報告に続く3人当選。
長篠城編は、今までのシリーズとちょっと違う。いや、だいぶ違う。

入口の弁財天で5千円。

その本堂に祈ったならば、いかほどの御利益を得られるだろうか。
期待に胸を膨らませ医王寺へ入る。


我々は欲の塊と化して本堂へ向かい、祈りを捧げた。


しかし、スクラッチは当選しなかった。
本尊は薬師如来。病気怪我には強いが宝くじ当選は守備範囲ではない。
と、いうより、本来お寺は清浄を好むからだろう。
欲望剥き出しの我々に、引いてしまったのかもしれない。

次に向かったのは、本堂手前の『片葉の葦』。


葦は通常左右双方向に葉が生えるはずなのに、ここの葦は片側にしか葉が生えていないものが多い。
これは、武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍との決戦を決意した夜、この葦の精が夢枕に立ち「負けるから止めとけ。」と言ったところ勝頼が怒って葦の精を刀でなぎ払ったため、との伝承が地元には残されています。

折角のご託宣。勝頼も言うこと聞いときゃ良かったのに。。。

ここでも大通寺の盃井のように宝くじを浮かべてようとしたところ、ヤマカガシらしきものが逃げていくのを発見。

浮かべることは断念して、慌てて戻ってきました。

ところでこの医王寺、本堂の裏山はちょっとした遊歩道になっています。
この遊歩道の頂上が、また、素晴らしい城跡なんです!!
年代的に武田軍が構築した城と特定されており、この地方では珍しい武田式築城術がよくわかる城なのです。
見所は本丸に入るのを遮る長大な一本土塁。
城好きの方は是非ご覧ください。
今回、流石に城に登るほどの力は無いとのことだったので、残念ながら断念。

千円が2名。
そして、5千円が出た。
計3名が千円以上の当選を得た。

我々は、その事実に驚くとともに、これが荼枳尼天の御加護であったらどうしよう、という一抹の不安がよぎった。
一時の栄華しか与えぬと言う荼枳尼天。

しかし、5千円の栄華であれば、そんなに反動もないのかもしれない。。。

そう思いなおした我々は、さらなる効果を求め、近くにある天神山に向かう。
医王寺の手前にある神社ですが幟が目に付く。
武田軍の陣地だったようで、今では神社となっております。


「さぁ、行こう!」
と、降りたのは良いが、目の前にはかなりな急斜面の階段が・・・。

本日は大概歩いているので、皆の疲労もピーク。
なのに、また、迫り来る怪談。いや、階段。

例のごとく、膝のCM的画像が得られる。

※ここまで来ると、お約束に近くなってきます。

ようやく到着すると絵馬が奉納されており、結構信仰が厚そう。

※結構繁盛している様に驚く一同。そして、人の願いを読む。

こんな片隅の神社でこれだけの絵馬。
効果があるのかもしれない。。。
この神社、願い事を石に書いて奉納するような演出まである。無住の神社なのですが、結構頑張ってます。そして、早速願いを書き込む一同。


当然、内容は・・・。

※宝くじが当たりますように。

既に様々な人達が書いた石が境内の片隅に積みあがっていました。


ちょっとした、賽の河原気分。
中に「助けてください」とだけ書かれた石が複数あったりして、少々薄気味悪さも覚えます。一体何があったのだろうか。ここの石に書くよりも、もっと別のしかるべき相談機関なりに同じ文言を述べた方が即効性が高いようにも思われるのですが・・・。
さすがに、写真を撮るのは憚られる。

そして参拝。

※深々とお辞儀をするS田氏。一番神が降臨しやすそう。

ここではスクラッチはここで尽きており、オータムジャンボの当選を祈願するのみ。

さて、今回の旅。最期を締めくくるのは郷土の英雄、鳥居強右衛門勝商様。
彼の最期の地へ。

※立派な碑!

長篠城の対岸に鳥居強右衛門の磔死地跡(たくしちあと)があります。
よく誤解されているのですが、叫んだ場所で磔にされたと思っている方が多いようです。
稀に、磔台の上で叫んだ、とか。
流石に、磔台の上で「おのおの方、徳川殿の援軍は参らん。降伏されよ。」と叫んでも、城方からすれば「ありゃ、脅されて嘘言ってんだろう。」と思われるかと。
伝承として、叫んだ場所と磔にされた場所は別とされています。

本丸から対岸でよく見える場所です。
現在は木々が生い茂り、よく見通せないのですが木が無ければ丸見えです。

見事な死に敵すら感動し、敵がその姿を自分の旗印にしたほどの最期。
そんな最期の地であれば、きっと、パワーもMAXではないか。

我々は、強右衛門への鎮魂と、そして、我々の欲望祈願を兼ねて祈りを捧げた。

※後ろから。

※横から。まるで畑中葉子の歌のよう。(爆)

我々の真剣さと必死さは、果たして天に届いたのであろうか。

百間滝で現代の強右衛門と化したI泉氏より、その日の夜に報告があった。

「本日、参加された皆さん、お疲れ様でした!
またもや、あの後サークルKへ寄り、アトム5枚‼
1000円キターーーー‼
(≧∇≦)」(原文そのまま転載)


おお!5枚で千円。と、いうことは損はしていない。
千円の当選者が3名に増えたのだった。
これで、今回は、既に、千円の当選者3名、そして5千円の当選者が1名と言う結果。

ここまでの様子は是非動画で確認を!↓


これだけでも、従来とは一味違う結果で、めでたし、めでたし、となるのだが、今回はそれだけでは終わらなかったのだった。

後日、オータムジャンボの当選日。

共同購入の宝くじは、残念ながら300円のものしか当選をしなかった。
が、これまた、I泉氏より個人購入分の報告が。

「有難う御座います!
サンキューキタァーーー‼
長篠城編の時に買った18枚から出ましたよぉ~‼(≧∇≦)」
(原文そのまま転載)


なんとぉ!
とうとう、万単位の当選が出ました!

共同購入分ではありませんが、オータムジャンボで設定された「サンキュー賞39,000円」の当選者が現れました!

しかも、そのくじは300円のくじとも番号が被っており、更にその他に3,000円の当選もあったのです!

※証拠の明細書。

実に42,300円。

3回目にして、とうとう万単位当選が現れました!
返す返すも、共同購入分でないことが残念です・・・。

ただ、若干、荼枳尼天の御加護だとすると複雑な気分もある、というコメントもありました。
しかし、4万円強の栄華であれば、さほど影響もないことでしょう。

長篠城近辺は相当に効果があることが判明しました!

そして、結果を見る限り、百間滝で褌+鳥居強右衛門に効果が高いように見受けられます。
時間のある方はお試しあれ。
きっと、今の年末ジャンボの時期であれば、寒行がプラスされるので、より高い効果が見込まれることでしょう。(心臓麻痺等にお気をつけを。ご自身の責任の範囲内でどうぞ。)

長篠城編は素晴らしい成果とともに終了しました。
3回目ともなると、結構効果がでますね。

そういう、書いてるあんたは?
と、いわれそうですが、私もこの後、スクラッチ5枚買ったら、1,200円が当たりました。


実に当選者が5名。
すごすぎる長篠城。
これからここに絞ってもよさそうなくらいの力があるようです。

しかし、われわれはこれでは満足していない。
まだ見ぬ億を求めて。。。

(長篠城編 完)

九之坪城

2014年02月27日 | 落城戦記
用事があって北名古屋市健康ドームへ行く。

※陽が落ちているので暗めの画像です。

事前に貰った地図を見ると字名が書いてある。

「西城屋敷」「南城屋敷」「松馬場」「市場」。

これは・・・。
鉄板で城があった場所と見て間違いない。
市場の地名から領主が住んでいた城と考えられる。と、なると結構大きな城なので、と、見当をつける。

城の名は?
そして城にまつわる有名人はいるか?

早速ググる。

「九之坪城」
と城の名は判明。聞いたことがあるな、くらいで、地図を見た限り城郭遺構はなさそうなので城そのものに対する興味は特に湧かず。しかし。

簗田政綱

の名を見たことから、思わず膝をうち俄然色めき立つ。

『誰やねん。』
と、いうツッコミをされる方も多いかと。

簡単にご説明しますと、桶狭間の戦いで織田信長から勲功第一に認定されたことで有名な人。

信長は、今川義元の首を取った毛利新介とか服部小平太よりも、今川義元の現在地情報を伝えた簗田の勲功を第一としたとか。当時の勲功認定では大将首とれば最高として認定されるのが当然の時代。そんな時に、情報を重視した信長の戦術的先見性を評価するエピソードとして有名です。
ただこの話、甫庵信長記にあるそうですが、信頼できる資料の裏づけが乏しいらしく信憑性に欠けるとも言われています。
しかも、確かこの人信長に評価されて出世するも、領地統治に失敗してその後冷遇される人だったと記憶しており、こんなマイナー武将ゆかりの地を発見したことでテンションがあがったのでした。

さて、そんな九之坪城を見ようと急ぎましたが、日の落ちるのは早い。
夕暮れの写真撮影となりました。

※夜なんで暗いです。心霊写真ではありません。

説明看板には
「室町時代から戦国の時代に移りつつあった頃、尾張の国の守護、斯波氏の家臣であった梁田政綱は、主家衰退後織田信長に仕え、戦功により九之坪城を与えられ、この地を領有することになった。有名な桶狭間の戦いには敵の今川義元の動静を探り、この戦いの勝利に大きな貢献をした。その後、柴田勝家、木下藤吉郎等とともに各地に転戦して数々の功績を残した。その拠点となった九之坪城は、これ以前、当地の地侍の有力者が『此壷城(このつぼじょう)』と称し、この地に構えていたとされる館を、増改築したものと伝えられている。廃城の時期、経緯についてはあきらかではない。(北名古屋市)」
と、あります。

没落の話がないなぁ、と、思い、取り出したるは一冊の本。

『織田信長家臣人名辞典』
谷口克広氏の本で、織田信長家臣団が一網打尽の本。
こないだの東京古書店街巡りで入手した逸品です。

どこで没落したのやら・・・、と、「やなだ」の頁をめくって驚愕の内容を発見。

『後の別喜右近大夫である簗田広正については、桶狭間の戦いの功労者簗田出羽守ととかく混同しがちである。・・・父と思われる出羽守は天正初年までは健在だが、信長の馬廻として戦場で活躍してきたのは、子の左衛門太郎広正のほうだったのであろう。』(織田信長家臣人名事典 吉川弘文館 谷口克広 455頁)
とのこと。

桶狭間の簗田とその後出世して「別喜」の姓を賜って没落した簗田は別人で、親子だと!

なんと・・・。
美濃の斉藤道三も同じで一代で国盗りしたのではなく、親子二代に渡った国盗りだったと近年明らかにされています。これと同じようなもの。ただ、斉藤道三ほどの知名度がない簗田の話は、世上にあまり流布されていないということでしょう。

親とされる簗田出羽守は九之坪城主で桶狭間で活躍したとされるその人。
信長の馬廻りとして抜擢され、「別喜」の姓を得て重臣の列に加わり、加賀の支配を任されるも一向一揆の制圧に失敗。罷免されて柴田勝家と交代。尾張国への召還命令がでて、九坪に引き籠もり歴史の表舞台から去ったのは息子の簗田広正。

ちなみに、加賀制圧失敗の原因は小身の馬廻り衆から抜擢されて軍団長クラスになったものの兵力整備が追いつかず、次から次へと襲い掛かる加賀一向一揆に対応しきれなくなったから、と、「信長と消えた家臣たち」(中公新書 谷口克広 74頁)にあります。
そもそも、信長の敷いたこの体制が無理だった、簗田は軽臣だったので(「信長軍の司令官」中公新書 谷口克広 164頁)、とのこと。そして、簗田広正は尾張召還3年後に亡くなるようです。(「信長と消えた家臣たち」76頁)

どうも、信長は加賀一向一揆の情勢分析を誤ったのか軽く見た体制整備を行ってしまい失敗。その責任を簗田に押し付けた、とも、見れます。不運なり簗田。
その簗田の跡に登場した前田利家は、結果的に加賀百万石の大名として存続しています。

九之坪城そのものには城郭的な面白さは残念ながら無かったのですが、簗田広正の栄枯盛衰を見るにつけ、人間万事塞翁が馬、好事魔多し、と、いう言葉が浮かんで仕方ありません。

まさか九之坪城で、ここまで話が膨らむとは。

大通寺城藪稲荷 ~縁起がいいらしいまち新城 長篠城編3~

2014年02月21日 | 縁起のいいまち新城
長歩きで疲労気味だった我々。
今回も当選は期待できないのか、と、心に暗雲が漂い始めた一堂。
しかし、長篠城本丸土手にある旧城藪稲荷でスクラッチくじ千円当選者2名の出現したことにより、やる気が一気に吹き返したのだった。
先ほどまで歩くことに嫌気が差して重い足取りだった一堂。今や軽やかなステップを踏みながら駐車場へ向かい、次なる場所、現在の城藪稲荷が移築されている大通寺へ車で移動する。

『現金なものだ。』
とは、よく言ったもの。

大通寺へ向かう車中、誰も口には出さないが、思いは同じ。
『旧の城藪稲荷でこれだけの御利益を得た。と、いうことは、現在祀られている場所で祈ろうものなら・・・。』
同床異夢、という言葉がぴったりくる我々は、大通寺に到着した。


現在の城藪稲荷がある大通寺は、国道151号線を挟んで丁度対角線上にあります。
ここは、長篠合戦のときに、名将馬場美濃守信春(信房)が陣取った場所としても知られます。
馬場美濃守のお墓の話については、長篠城編第1回を参照のこと。

この寺から長篠城を見ると、現在は木々に邪魔され見通しが悪くなっていますが、木が無ければ城内丸見えなのが実感頂けると思います。そして、城からとてつもなく近い場所であることもおわかりいただけるかと。
ここまで攻め込まれていれば、長篠城籠城軍は相当にプレッシャーを感じたはずです。

歩き疲れて疲労感が漂う中、長篠城旧城藪稲荷の結果によって気力は十分に回復した一同。
目だけ異様にギラギラとさせ、尋常じゃないくらいの期待を胸に、現在の城薮稲荷へ向かう。
ありったけのよこしまな思いをたぎらせ稲荷社へ突進。

「ちょっとまて。手水で清めるのが先だ。」
その言葉に我に返り、手を洗い身を清める。


必死すぎるほど必死に祈る一同。
思いあまって、自らの財布をお稲荷様に捧げるものまで。

※お狐様に財布を咥えさせるとは!

さて、ここまで必死に祈った。
結果は?!動画で確認できます。↓


我々が長篠籠城軍に対する武田軍並みのプレッシャーを城薮稲荷にかけてしまい、おとら狐がドンビキしたのか。
はたまた、過去から霊力が宿っている地の方が強いのか。

残念ながら現在の城薮稲荷では、旧城薮稲荷のような結果を得ることはできなかった。。。
無念。
しかし、
「荼枳尼天というのは、反動が大きいのだろう?ならば、これはこれでよかったのでは・・・。」
と、いう声が一部にあったのも事実。

期待の城薮稲荷はこれで終わりましたが、この大通寺には必見ポイントがあります。
それは、稲荷の奥にある大通寺の盃井跡。


ここは一体どういう場所なのか。

簡単に申し上げますと、長篠合戦の際、武田勝頼が設楽原で織田・徳川連合軍と決戦すると決めてしまったため、「これで武田家も終わりだ。」と、武田家の重臣達はここに集まって水杯を交わした、と、言われている場所です。

もう少し状況を細かく説明しましょう。

長篠城を包囲していた武田軍。武田の侵攻を想定して鉄砲やら兵糧やらを十分に貯め込み、壁やらも直して準備万端の城となっていたためがなかなか落城させられない。手間取っていたところ、長篠城の援軍として織田・徳川連合軍がやってきてしまいます。
ところが、織田・徳川連合軍は、長篠城を包囲している武田軍を逆包囲するかと思いきや、なぜか設楽原で進軍を停止して、陣地を作り始めます。

通常、攻城戦を行っているとき、城方の援軍(長篠合戦の場合、織田・徳川軍)が到着して攻城軍(武田軍)がサンドイッチ状態になると、城(長篠城)からと援軍(織田・徳川軍)の双方から攻撃を受けることになってしまい著しく攻城軍(武田軍)は不利になります。

しかし長篠城の場合、城の近くは川だの山だのに囲まれており大軍を展開させにくい。
数で勝る織田・徳川連合軍であっても城近くにおびきよせれば、合戦の場所は狭くなり、ぶつかり合う同士の兵数で武田軍が劣ることはありません。そうなれば、兵隊同士の強さがモノを言いますが、昔から尾張は弱兵で有名な地域。そして武田は戦国でも随一と言っていいほど強兵で有名。尾張兵3に対して甲州兵1で良い、とも言われていました。

こうした状況を踏まえ、信玄以来の古参の重臣達は、設楽原までわざわざ出向かずとも長篠で待機し長篠城を落とせばよいと主張します。仮に織田・徳川の連合軍がやってきても戦場が限定されるので十分に勝てる。それに、この頃の信長は本願寺一向一揆など各地で強敵と戦っており、そんなに長く滞在できるとも思えない。
ならば設楽原の敵は放置して眼前の敵に専念することが良いと判断したようです。

ところが、武田勝頼は設楽原へ向かうことを主張します。
織田方が様々に謀略の手を打っており、織田方の佐久間が寝返ることを申し出る策略に引っかかっただの、信玄から代替わりしたものの勝頼の子どもの信勝が正式な武田の当主であり、勝頼はあくまでその名代としての役割しか与えられなかったため、織田・徳川連合軍を叩くことで自分の地位をゆるぎないものにしようとしただの、馬防柵を築き始めたのを見て武田軍を怖がっていると分析しただの、信玄以来の重臣達と対立する勝頼の寵臣にそそのかされただの、色々と言われていわれていますが、こればっかりは勝頼に直接聞かないとわかりません。

理由はともかく、勝頼は設楽原へ向かおうとして重臣達と意見が対立します。
そして勝頼は自分の意見を押し通すため、武田家重来の家宝、『御旗(みはた)』、『楯無(たてなし)』に決戦を誓います。
御旗は古くから伝わる日の丸の旗、楯無は古くから伝わる楯が要らないほど丈夫といわれる鎧です。
この二つに武田家当主が自分の考える施策を宣誓した場合、家臣団は判定に不服があっても従う、という武田家のしきたりがあったそうです。

御旗・楯無に誓われてしまっては、どうしようもない。
負けを覚悟した重臣達は、ここで別れの水杯を交わして戦いに向かった、と、いう逸話が地元に残されています。

このしきたりから解るのは、武田家の意思決定の際、家臣団と主君の意見は同等に近い、ということです。
織田信長のように主君の一声で部下達が転がり出るように走ってくる家であれば、信長が言えば家臣団は有無を言わさず従うことになりますが、武田家の場合、御旗・楯無に誓わなければ、家臣団は主君の言うことを聞かない、状況にあります。
それだけ、武田家の場合は織田家に比べて専制君主化されていないといえます。

もっとも、当時の武士が勝算もなく決戦場に向かうとは考えにくく、水杯の話は後世の創作だ、という意見もあります。
真相は薮の中ですが、伝承として残っていることだけは確かです。

だいぶ話が逸れました。
どうも、歴史の話になると長くなります。

さて、我々はこの無念の泉に宝くじを浮かべ、沈むか浮かぶかで占ってみました。


浮かびました!

しかし、結果は残念なことに・・・。。
負けを覚悟した場所で当選を期待しちゃいかんな、と、後で気がつきました。

※すごすごと戻る一同。

さて、狐の稲荷社で取らぬ狸の皮算用を行った我々。すごすごと戻りながら、武田勝頼が長篠城包囲中に本陣を置いた医王寺へ向かいます。

そして、そこで我々は過去最高額の当選を見ることになります。
次回医王寺。お見逃し無く!

子どもの病気

2014年02月19日 | 日記
昨日、時間外に来客対応をしておりまして終わった後に携帯を見るとメールが。
『娘が先ほど吐いた。幼稚園で頭を強く打ったと言われて吐かないか気をつけてみていて、と、言われた。』

このところ出張だ打ち合わせだ飛び込みの仕事だ、で、本来業務が進まず業務進行がカチカチ山になっているので残業をしたいところですが、こんなメールを見た以上、仕事より家庭の優先順位を高くしている私としては仕事を放り出して帰宅。

帰宅すると娘は青ざめてはいるものの、ケロッとした表情をして飛び跳ねている。
妻が言うには、幼稚園から帰るときにものすごく調子が悪そうにみえ、おなか痛いと言っていた。途中で歩けないとへたり込んでしまい、家に帰るなり眠いと言うものの吐きそうだからとぼんやりしていた。そして暫く寝たと思ったら吐きそうと言うのでトイレに連れて行ったら吐いた。
吐くまでは今まで見たことないくらい調子悪そうで、なおかつ、幼稚園の帰りに先生からはいつもより元気が無く、思い切り頭を友人とぶつけてしまったこともあるかもしれない。頭に異常があると数時間後位に吐くかもしれないのでそうしたら病院へ、と、言われた。
そしたら本当に数時間後に吐いたので病院へいこうかどうか悩むが、娘の様子を見ているとそんな大騒ぎする必要はなさそう。

とのこと。

私から見ても
「この元気さで病院まで連れて行くのは・・・。」
という感じだったので、様子を見ることとする。

結果的に朝まで何とも無かったのですが、食欲が全くなさそう。
それで妻が病院へ娘を連れて行くと
「胃腸風邪です。」
とのこと。

確かに。
娘が調子悪かった日の朝、妙に幼稚園に行くのを嫌がりぐずっていたので『ひょっとして体調が悪いのか?』と、思っていたのですが、単なるいつものぐずりとも判定がつかず、結局幼稚園へ連れて行ったのでした。
そしたら、その日たまたま頭を強くぶつけてしまったので、余計に判定がつかなくなり親が焦った、というのが真実のようです。

ああ、驚いた。

ちなみに病院で教えてもらったのは、
頭を強くぶって吐く場合は、一回吐いたら終わりではなく、ずっと吐き続けます。
とのこと。
おお、これはわかりやすい目安。

私も小さい頃から頭をぶって吐いたら危険、というのは何度も聞いていましたが、具体的にどういう吐き方になるのかは知りませんでした。頭を強くぶったことは何度もありますが、吐いたことはないので。

それにしても、自分ではなく子どもの病気というのは、親にとってやきもきさせられます。
なんにしても、大事無くてよかったです。

しかし、仕事の山は更に高さを増しており、山を前に先ほどまで悩んでおりました。
悩む前に粛々と仕事を進めるのが一番なんですけどね。。。

旧城藪稲荷の奇跡 ~縁起がいいらしいまち新城 長篠城編2~

2014年02月15日 | 縁起のいいまち新城
武田軍に囲まれ落城寸前となった長篠城を救うため、武田の包囲網を突破し織田信長、徳川家康へ救援を求める使者となった鳥居強右衛門勝商。無事に報告を終え、織田・徳川連合軍が援軍に向かうことを武田軍につかまり、武田勝頼から取引を持ちかけられます。
「援軍は来ないと言え。そうすれば、城内の士気は下がり落城する。褒美も沢山やる。」
強右衛門は取引に応じ、武田兵に連れられて城近くまで来ますが、叫んだ内容は驚くべき内容でした。
「城内の方々。まもなく援軍は来る!それまで持ちこたえられよ!」
どよめく長篠城。慌てる武田軍。
鳥居強右衛門は武田軍に磔にされて殺されますが、奮起した城内は籠城を継続。援軍が来るまで長篠城に武田軍を釘付けにし、長篠の戦いにより武田軍は殲滅され無事に長篠城は解放されます。

この郷土の英雄鳥居強右衛門が叫んだと言われる場所、実は特定されています。
長篠城の本丸入口に立てられている長篠城址保存館から眺めることができる、この場所。

※画面中央木の先端部分の道あたりです。

長篠城址記念感は城の中枢である本丸の入口にあたるといわれています。
こんな近くまで攻め込まれていたのか!?
と、いうのが正直な感想です。
それくらい逼迫していたからこそ、強右衛門を使者として派遣し徳川家康に援軍要請をする必要があったわけです。
このもう少し詳しい経緯は、こちら

ちなみに、もっとマニアックに詳しく述べると、鳥居強右衛門は城の中に入る前に既に狼煙をあげ援軍来る、という情報を城内に伝えていたようです。しかし、より確実の状況を伝えるために城の中に入ろうと様子を窺っているところを狼煙が上がったことで警戒を強めていた武田軍に怪しまれて捕まった、と言われています。

既に情報を伝えたならばなんで城の中に入ろうとしたのか。ただのうっかり強右衛門じゃねぇか。

と、思った、あなた。
それは違います。

この戦いの前に高天神城が同じような状況となります。同じように使者が派遣されて援軍来るの狼煙を上げるのですが、結果的に援軍は来ませんでした。こうした話が伝わっており「強右衛門の狼煙は上がったけど、高天神と一緒じゃね?」と、疑っている可能性があると思った強右衛門は、どうしても直接伝えたかったから入城を試みた、と、言われています。ちなみに、強右衛門のほかにもう一人、鈴木金七、という人も使者として派遣されていますが、こちらは狼煙を上げたあと、城には入らず家に帰り、そのまま農民になった、と、言われています。

後世に名を残して死ぬか、勤めは果たして寿命を全うするか。
不惑となった私としては、どちらが正しいとも思えず、むしろ金七に親近感を覚えますけどね。

話が逸れました。

さて、強右衛門が叫んだ場所まで来た我々は、ある思いに捉われた。

強右衛門様並の気合で叫べば、当たるのではないか。


と。
では、誰かが叫ばねばならぬ。

満場一致で鳳来寺山のときに裂帛の気合で「当たれ!」と叫び、見事、『自らの』宝くじの方を当選させたS田氏で決まり。

S田氏は祈りを捧げた後、おもむろに叫んだ。

「当たれ!」


声は十分に長篠城の本丸にまで響きました。
鳥居強右衛門もかくやの叫び。
さすがです。


※叫んだ後、恥ずかしさが込みあげてきた様子のS女史。

あれだけ立派な声ならば当たるのではないか。
S田氏が個人的に購入した方が・・・。

さて、強右衛門様といえば、長篠城入口にある看板。


この看板の強右衛門様は、強右衛門の最期に感動した敵方(武田方)の落合左平次という侍が強右衛門に承諾を得て自分の旗指物にしていた絵。
その絵を忠実に看板にしたところ、
「強右衛門様のギャランドゥーがすごすぎて、公序良俗的にいかがなものか。」
と、いう意見により、少し控えめになった、という噂を聞いたことがある。

実際、3年前に見た際には、上から塗った部分が見えた記憶があったため、改めて見に行ったのですが・・・。風雨に晒され続けたためか、よくわからない。無念。

その後、長篠城の本丸に移動。
500の兵で1万5千の兵を防いだ舞台です。
武田に備え鉄砲の装備や兵糧が充実しており、城の修理も終えて要塞化していたようです。
また、城近くは山が多く平地が少ないため大軍が展開できない地形。
織田・徳川方では武田勢が設楽原に出てきてくれて助かった、長篠城の付近で待ち構えられたら軍勢が展開できずに大軍のメリットが活かせないところだった、と、述懐する話なども残っています。
長篠城籠城軍から武田勢を見れば、同じことが言えるでしょう。

城将奥平貞昌は当時21歳。
城兵をよく統率して防いだと言えます。
実際、織田信長から「信」の字を貰い、徳川家康から長女を嫁に貰うなど、かなりの褒美を貰っていることからも、奥平が果たした役割の大きさが窺えます。
長篠を取られてしまえば、徳川家は領土が寸断されてしまいます。徳川の領土防衛が不安定になれば、織田は領土の東側が不安定になってしまい、領土拡張戦争に専念できません。
長篠とは、このように重要な場所だったのです。

奥平氏は、給料が安く抑えられている譜代大名としては異例の10万石という大きな領地を貰い、なんだかんだで明治時代まで生き残ります。

こんな開運の城であれば、きっと効果が高いはず。

我々は祈りを捧げずにはいられなかった。

※宝くじを崇め奉る一同。

夕暮れの長篠城。
熱心に祈りを捧げる集団。

異様な光景かもしれない。
が、しかし、長篠城という奇跡の地が、我々をそうせざるを得ない心境にさせたといえる。

さて、その後、旧城藪稲荷へ向かう。
長篠城本丸には立派な土塁が残っています。
この土塁の上に昔、おとら狐という狐を祭る城藪稲荷という稲荷がありました。

※跡、です。

おとら狐は城を守る狐と言われている割には、寂しくなるといたずらしたりするようです。
この稲荷が朽ちてきたので、近くの大通寺に改めてお祭りし直した時期と、市内の宝くじ売り場で億単位の当選を連発するようになった時期が一緒だ、という情報を我々は掴んでいた。

おとら狐は、結構霊力が強いので、危険な気もする。
しかし、一時の栄華も見ずに死ぬのか、一時とはいえ栄華を見てから死ぬのか。
その選択を迫られた場合、一時の栄華でも良い、わんぱくでもいいたくましく育って欲しい。(by30年近く前のハムの宣伝)
我々はそう思い、城藪稲荷様への参詣を行うこととした。

土塁上のこの場所は、既に場所を移され魂は入っていない。
が、こうした場所は、長年祈りを捧げ続けられてきたことから、案外と力が残っている可能性は高い。
我々はそう考え、まず、ここを訪れた。


祈りを捧げ、そしてスクラッチを削る。
様々な欲望が渦巻く中、結果は出た。
そして、驚きの結果が!

縁起かいいらしい開運のまち新城 長篠城編2



「え?!」

「こっちも・・・?!」


なんと、当たれと叫んだS田さん、そして、鳳来寺で0.1tの巨漢を運び上げたM田氏の両名に千円の当選が出た!
にこやかに笑みを浮かべる両名。


※当選者を眺めながら、自分のハズレを再確認するI泉強右衛門氏は画面一番右。

この結果には、正直、我々は驚いた。
スクラッチくじは10枚買うと200円は必ず当たる。
しかし、今回は、5枚とか7枚とか、皆、端数の購入をしていたため、そもそも当選が出にくい状況だったのです。
そんな状況下、200円ではなく1,000円、しかも同時に2名。
こんな事態は今まで無い。確率から考えても相当な結果。

今まで、さんざんスクラッチ削ってきた我々だけに、この事態に驚きを禁じえなかった。


※画面右側2名は笑顔。それを羨ましそうに見つめる左3名。(撮影者の私も羨ましい組)

『これはすごい・・・。』

我々全員の心の中では、同じフレーズが響いていたに違いない。
そして、今後宝くじが発売されるたびに、密かにここで祈るメンバーをあなたは目撃するだろう。

さて、歩きつかれて疲労が溜まり始めていた我々が、俄然やる気を取り戻す。
そして、さらに上回る結果が!

目が離せない次回をお楽しみに。

電子書籍をパブーで出してみた。『ツッコミの日本史』

2014年02月12日 | 日本史
キンドルで一瞬だけ販売した幻の本
『ツッコミの日本史』


無料で出したいと思ったのですが、アマゾンだと最低価格が99円からになってしまうため、別のところから出せないかと探していたら、
「パブー」というサイトからなら無料で出せることが判明。

なので、出してみました。
上記の”「パブー」というサイト”部分のリンクを押していただければ、画面が読む先へ飛んでいきます。
キンドルなどにも対応した形式もあります。
ダウンロードしていただけたら幸いです。

内容は、本ブログで書いた戦国武将の逸話を加筆修正したものとなっております。
皆様にはおなじみの話も多いかもしれませんが、まとめて読める形になっているところが楽、という感じです。

分量もそんなにありません。
無料ですので、お気軽にダウンロードを是非どうぞ。

できれば、パブーサイトで「いいね!」とかツイートしていただけたら幸いです。

リニア・鉄道館へ行ってみた。

2014年02月11日 | 日記
最近、息子が鉄ちゃんです。

乗り物全般に興味を持っており、飛行機だの電車だの車だのに反応する。
娘はそんなことがなかっただけに、男女差というものを目の当たりにして面白い。

最初は飛行機が好きだったようですが、最近は電車に興味が移りつつあるようです。
と、いうことで、行ってきました名古屋の新名所、
リニア・鉄道館。


一度は自分も行ってみたいとは思っていましたが、電車よりも自動車が好きなお父ちゃんとしては、オープン当初の激込みが予想される時期に行く気はない。人ごみも大の苦手ですし。
最近、客足が落ち着いてきた、という話を聞いて行く気がでる。
多分、早い時間の方が客が少なかろう、と、名古屋高速を使い10時45分位に入館しました。

入館するとまずは、SLのつばめやリニアがおでむかえ。
そして、更に中に入ると電車一杯。


場所見知りしやすい息子なので、おとなしいですが静かに興奮しているようで、目はキラキラ。
憧れの新幹線に乗り込み大喜びです。
娘も嬉しそう。
ただ、電車の中には入れるのですが、座席はおすわり禁止。
通路を歩くだけのものが多くて、立って歩き続けるだけに少々くたびれる。
子どもも3つくらい車両を見たら明らかに疲れた様子。

ドクターイエローの旧車も展示されており、そこでは座って保守点検の作業の映像を見ることができます。

保守点検の映像も面白いのですが、何より座れるのが嬉しい。
実際、周囲の客も「やっと座れる。」と、言ってるのが聞こえました。いずこも同じか、と、内心苦笑。

その後、車両を見つつ、電車のパーツごとの動きを解説するものを体験しつつ1時間近くになると、
「おなかすいた」
と、娘が言い出す。
駅弁が売っているので、子供向け駅弁を購入。
娘は食べてくれるのですが、息子は興奮状態もあってかまったく食べない。
そして、飲食スペースの隣がなんとプラレールの展示場。


息子釘付け。
息子は何よりヒットしていたようです。(笑)。
普段ならば食べ終わればすぐに席を立って歩きたがりますが、今回は全くちがう。食い入るようにプラレールを眺めて、遮断機が降りると「かんかんかん」と指差してました。

きりがないので、席を立ち2階から電車を見おろすと、結構壮観。


待合の座席が電車の座席を使っているところもあって面白い。
その後、もう一度一周すると、息子がへたり込む。
どうやら、興奮のあまり体力の限界を越えて歩き続けてしまったようです。いつもならこうした時は激しくぐずるのですが、電車が一杯だからでしょう。全くぐずりません。へなへなと地面に腰を下ろしている。
すると、娘が「もう帰ろう」と、いうので終わりにしました。

流石に午後に入って人も増えてきたので、丁度良い潮時でした。
3時間くらいは父と娘・息子の3人で過ごせました。

車両の保存がメインのせいか、立ち入り禁止区域と座席の着席が禁止が多すぎて、車両内部の見学がしごくあっさりになってしまう。また、体験型の施設のバラエティーも少ない。
アミューズメント施設ではないな、という感じでした。
私自身がさほど電車に興味がないということもあるのかもしれません。

ただ、全天候型で寒暑も関係なく数時間子どもと過ごせる施設、というのは貴重。
妻を独りにすることができる、というのは妻の機嫌もよくなるので助かります。

帰ってきてから息子に
「楽しかった?」
と、聞くと、
「うん。」
と、言ってうなづく。
「また行きたい?」
と、聞くと、
「うん。」
と、言ってうなづく。
「何が一番楽しかった?」
と、聞くと、
「うん。」
と、言ってうなづく。

まだ、2歳前で文章を述べる能力がない息子に一番楽しかったことを聞いても答えられませんでした。
ちなみに、娘に
「楽しかった?」
と、聞くと、
「うん、楽しかったけど、でも、ちょっとだけ楽しくなかった。」
と、言う。あまり興味がない分野のようです。

あまり建物自体は広くないのですが、小さい子供連れには丁度良いサイズと言えます。
子どもが一人だけ連れていれば、もっと楽しめたと思います。やはり2人の子どもを1人で見るのは、小さい方に合わせざるを得ないので、上の子の行動が制約されてしまい少々かわいそう。

今後、平日に休みが取れたときなどは空いてそうなので狙い目かな、などと思っております。

長篠中央露頭 ~縁起のいいらしいまち新城 長篠城編1~

2014年02月08日 | 縁起のいいまち新城
なぜか億単位の当選がない。

「何故だ。」
我々は悩んだ。

鳳来寺山。


百間滝。


パワースポットだの、御利益ありそうな場所だの、を巡れば、きっと高額当選できるだろう、そう考えた我々は、恥も外聞も忘れ、様々な場所で心から祈りを捧げた。

結果は、いつもとちがう手ごたえを感じた。

・祈願中にサンリオファミリーコンサートの当選通知が来た。
・通常よりの当選確率よりも高めでスクラッチくじの千円が当選した。
・コンビにでくじをひいたら1等が当たった。
・祈願翌日のパチンコで大勝ちした。
・難度高めの仕事を無事にクリアした。
等々。

これはこれで確かにすごい。
しかし、我々は当初の
「宝くじ当たるといいね。」
から
「宝くじどうしても高額当選当てたい。」
になり
「はよ高額当選しろ。なぜ当たらん。」
になっていた。

そして、いつしか共同購入分よりも各人が自分の分として購入する宝くじの方が高額になっていった。
そして、皆で出資した宝くじよりも、自分で購入した宝くじの方を熱心に祈っている。

※証拠写真サンプル。

人の弱さ、を、まさに今、ブログを読んでいるあなたは目撃しているのだ。

我々の弱さを哀れんでくれ。
僕達はまだ億単位の当選番号を見ていない。

何かの歌詞のように、ちょっとかっこ良く言ってみた。
が、所詮、修羅の群れ。
実は既に高額当選を果たしているが、それを口にすると今まであったことがない親戚が増えることを懸念して、口外していない者がいるかもしれない。

そんな疑いの目でこっそりとお互いを見ているようになっていた。
今のところ、常日頃の言動を見る限り、そのような演技をしている者はなさそうであり、そう信じるしか、我々の切れそうな結び目をかろうじて繋ぐものはない。

修羅道に落ちた我々は戦い続けるしかない。

そんな我々が今回目指すのは、郷土が誇る『長篠城』。

※鳶ヶ巣砦から望む。画面中央の森が長篠城。

戦いの場として、これほどふさわしい場所があろうか。

なぜ長篠城が今回選ばれたのか。
きっかけは、あるメンバーの報告だった。

「新城市内で宝くじの高額当選を連発する売り場は、長篠城付近の『何か』を移転した時期と一致するらしい。」
「『何か』って何だ!」

我々は色めき立つより殺気立った。
太陽にほえろの聞き込みのシーンさながら、我々は人を訪ね歩き情報を収集した。
そして、それは判明した。

長篠城に祀られている稲荷様だという。

「それは『おとら狐』のことだな。」
「おとらきつね?」

地元でもなかなか知られていない『おとら狐』の伝承。
説明しよう。

お虎狐は、長篠城のお稲荷様のお使いとして住んでいました。
ある日、城中で何やら評定の最中でした。お虎狐は立ち聞きしていましたが、思わず身をのり出しましたので、切りつけられて左足に大けがをして、それ以来足をひきずるようになりました。
また、合戦がひどくなったとき、流れ弾にあたって片目になりました。
やがて戦いが終わると、お城は新城へ引っ越していしまいましたので、お虎狐はさびしくてたまりません。近くの家や畑でいたずらをして人々を困らせました。
お虎狐にとりつかれると、その人は長篠合戦の話をするということです。
(出典:「新城文化財案内」 新城市教育委員会)

なんだか、かわいそうな狐さんです。
この本では可愛らしく話がかいてありますが、結構霊力が強いという話を別の本で読んだことがあります。(残念ながら出典が探せない。)

どうもお稲荷さんというのは,城の守り神として祀られることが多いようです。
そこから派生した話なのかもしれませんが、今となっては、狐が先か稲荷が先かわからない。

おとら狐を祀る『城藪稲荷』は、長篠城の土塁上にあったのですが、古く荒れてきたので近くの大通寺に新しい稲荷を造って移転したという。その時期と市内の売り場で高額当選が出始めた時期が一致している、という一部の噂があるらしい。

「これは・・・。すぐにお参りに行かねば。」

皆が一斉に色めきだつ中、私には一つ気がかりな点があった。

お稲荷様って荼枳尼天(だきにてん)と同一視されるのではなかったか。
荼枳尼天。

※出典:ウィキペディア

荼枳尼天は、一代限りの栄華を与えるがその末路はよろしくない、という。
『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』という話の中で、

平清盛が狩りをしていて追い詰められた狐が突然話し掛けて来ます。
「私を助けて、おまつりしてくれるなら、お前を出世させてやろう。」
その時、清盛はあまり裕福ではなく、
「荼枳尼天は一時の栄華を与えると言うが、まぁ、このままくすぶっているよりも、一時でも夢を見た方が良い。」
と、考えて狐を助けます。
すると清盛は、あっというまに出世して栄華を極めますが、さいごには源氏の叛乱により一族は滅んでしまいます。

その他、建武の親政で鎌倉幕府を倒して天皇親政を実現したものの、すぐに足利尊氏に叛乱を起こされて、結果的に天皇家が南北朝に分かれて争うことになったきっかけを作った後醍醐天皇も、その護持僧である文観が荼枳尼天を祀っていたと言われます。
ちなみに、この文観は相当強烈なエピソードを持ってます。
本筋から外れる上に、お子様にはとても読ませられない内容なので書きませんが、興味のある方は「文観 立川流(もんかん たちかわりゅう)」で検索。
立川談志の立川流(たてかわりゅう)とは全く別物ですので要注意。

ひょっとすると、近年の一発屋と呼ばれる方々も稲荷にお祈りしたのかもしれない。

荼枳尼天の威力はかように強烈、と、私の頭に刷り込まれていたため、
『そんなものに祈願をしてしまったら、大変なことになりはしまいか。』
と、懸念した訳です。
そして、私は事前に皆に警告を発した。

「今回は本当に大当たりしてしまう可能性がある。が、その結果は怖いことになるやも・・・。」

当日。
私が集合場所に行くと、皆は大はしゃぎしていた。

「うらにわさんが言うには、今回は当たるかもしれんて!!」
『え・・・。』

人間、見たいものしか見ない、という。
私の警告は、自らが見たい部分しか顧みられていなかったようです。

それもまたよし。修羅の群れだし。
私は納得した。

さて、城藪稲荷があった長篠城といえば、
落ちなかった城
として、有名。


なにせ、500の兵で当時天下最強といわれた武田兵1万5千の攻撃に持ちこたえたのです。
そして、長篠城救援にやってきた織田・徳川連合軍と設楽原で武田軍は決戦に及び大敗。
この時点で、織田信長は天下統一の覇者として決定的になったと言われています。

長篠合戦後、奥三河に対する武田氏の脅威が去り長篠城の重要性が薄れて廃城となった際、長篠城の廃材を近隣の城が争って欲しがったとの話があります。
当時、建物の資材は貴重で使い回されるのが普通でした。
なので、廃城になれば使える物は転用されるのが普通なのですが、特に長篠城は『落ちなかった城』としてあまりにも有名だったため、希望者が殺到した、という訳です。

この城を守りぬいた奥平貞昌は、織田信長から「信」の字を貰い信昌と改名した上に、徳川家康の長女を嫁にし、大坂城代や京都所司代も勤め、江戸幕府では枢要の地位を占めつつ、結果的に10万石もの所領を得ます。徳川家臣の譜代大名は給料を安く抑えられており、多くても2万石、とかが多い中の10万石は異例。

>落ちない上に出世する城。

この城で受験祈願するとすごいのではないか。
うちの子ども達が受験年齢に達したら連れて行こうか、と、真剣に考えております。

こんな城と荼枳尼天。

これだけの材料が揃っていれば、皆が浮かれるのも無理は無い。
そして、今回、いつもとは違う結果をご報告することになります。

舞い踊る一堂。
そして気になる結果は。
驚愕の事実は、ジャンボ宝くじの結果発表後!
最後まで目が離せない長篠城編。いよいよスタートです!
(やっとかい!)

いつものように共同購入分の宝くじを購入する。

※当たりますように。

そして、争うように始まる個人分の購入。

※毎度毎度の修羅の群れ。三度目ともなると、もう風物詩です。

当たる可能性が高そうなところは巡れるだけ巡ろう、
と、我々が最初に向かった先は、
「中央構造線長篠露頭帯」

※こんたく長篠の向かい側にある看板。

さて、このシリーズでやたらと出てくる「中央構造線」。
日本を作ってる地層が大きく二つあって、その境目、と、言ったら意訳しすぎか。
で、この中央構造線が剥き出しになっている、露出している部分が「露頭帯」といわれるもので、なかなか無いものだそうです。

ちなみに長野の分杭峠にせよ、新城の百間滝にせよ、結局は中央構造線上にあることがそのパワーの源だという。そのため、中央構造線が露出している場所である「露頭帯」は、相当なパワーが出ていると言う話を聞いたことが、今回の訪問のきっかけだった。

これは祈らずにはいられない。

それに、長篠城を拝むにしても、まず大地の気を取り込んでからお参りしたほうがよかろう。
大地の気って、何やわからんけど。

足元の悪い道を抜けると、そこには足場が組んである。


積載400kg、大人6名まで、との記載が見える。我々は思わずM田氏を見た。
M田氏は0.1t。3桁クラブの会員です。
大人6名までという表記を信じても良いものか。一瞬迷う。しかし、女性陣が平均値を下げたためか、崩落はしませんでした。

で、実際の露頭帯はというと。


こんな感じ。

写真下が灰色っぽく、上が黄土色っぽいのがお解かりいただけますでしょうか。
領家帯だのなんだの帯だのとそれぞれ、名前がついているそうです。
正直、どっちがどっちだかよくわからない。とにかく、日本列島を構成する二つの地層がぶつかり合っている様が直視できる貴重な場所。ぐにゃりと曲がった地層を見ると相当な力が加わっている様が見て取れます。

と、なれば、
「その相当な力をオイラに分けてくれ!」
ドラゴンボールの孫悟空のように叫ぶ。
孫正義のようになりたいのだ。
孫つながり。

そして、恒例のなすりつけタイムが始まる。

※われもわれも。

※ハッスルハッスル~。踊り子さんにはお手を触れないようにお願いします。

そして気になる結果は!


やはり、褌じゃないから駄目なのかな?、という結果でした。

が、なにぶん珍しい場所だけに、長篠城へお越しの際は忘れずにお立ち寄りを。
ちなみに、注意深い方はお気づきかと。
中央露頭帯の看板は「馬場美濃守の墓」の案内表示とセットになっています。
(確認し忘れた方は、今すぐスクロールで確認を!)

実は、私、このお墓の位置を不思議に思っておりました。
馬場美濃守信房(信春)といえば武田四天王の筆頭にも位置する名将中の名将。
この方、長篠合戦で負けて討死してしまいますが、討死したと言われる場所は、もっと北側の出沢(すざわ)のあたりです。新城総合公園へ向かう途中に石碑があり、その石碑を更に北に行くと「馬場美濃守殿戦地」というものがあります。落ち行く武田勝頼を見届けて、静かに敵に頸を渡した最期の場所がそこだと言われています。(花の木公園の近く。)

その場所からここは結構遠い。
はて?何故こんな場所に墓が?と、不思議に思っていたのです。

すると、「奥三河の伝承 熊谷丘山遺稿集録」なる本とめぐり合いまして、この中に「二箇所になった馬場美濃守信房公の墓所」という話がありました。
明治時代に馬場美濃の子孫が訪れた際、地元の人があまり確認をせずに長篠城の馬場だった場所にあった墓に案内してしまった誤解の場所がある、という話があります。で、この墓の主についても出典を明らかにして述べています。
詳しくはこちら
位置関係からして熊谷丘山説の方が正しいと思われますので、今回の宝くじ祈願はパスしました。

さて、その後、郷土の英雄鳥居強右衛門勝商が長篠合戦で叫んだと言われる場所へ。
強右衛門様、かなり城の中核本丸近くまで連れてこられています。
よくこんなところまで攻め込まれて耐えたな長篠城!
すごいぞ!
どの程度近いかは動画で確認!↓

縁起がいいらしい新城ー長篠城編1ー


さて、いよいよ城にやってきた我々。
果たしてどのような結果が待ち受けているのか!?
次回は意外な結果が!

乞う、ご期待!

佐村河内守氏

2014年02月06日 | 日記
最近、新聞をにぎわしている

『佐村河内守(さむらごうち まもる)』氏。

最初の頃、真剣に

『佐村河内守(さむら かわちのかみ)』氏

と、読んでいました。
歴史好きはきっと、皆、そう勘違いしたと思います。

すごい、どうでもいい話を書いてしまった。。。