以前、野田菅沼氏の前の領主、富永氏に関する話を書きました。
その富永氏の有力家臣富永半五郎勝光が頼った先が、吉良義昭。
吉良義昭が徳川家康と対決姿勢を示した際、善明堤の戦いで松平好景を敗死させますが、藤波畷の戦いで家康勢に破れ流浪したようです。
その吉良義昭の家老として武勲を讃えられたのが富永伴五郎忠元。勝光さんとは違うようです。
享年25歳と大変に若い忠元さんは、大久保彦左衛門が書いたことで有名な『三河物語』で、敵・味方もともに「伴五郎が死んだら、(吉良の)落城は近い」と記して忠元を褒めたたえています。
ウィキペディアには「富永氏は伴氏の後裔で設楽郡富永荘の領主。東条吉良氏の譜代の家臣であり、代々室城主を務める。」とあり、やっぱり野田の富永氏とは何らかの血族関係があったんだと思われます。足利家の一族として勢力を振るった吉良に近い富永一族は服属せざるを得なかったのではないかと想像されます。
野田の富永氏関係での最後の華ともいえる室城を一度見たいと思っておりました。
ので、見に行ってきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/66/f56ee0e20d16555e8776206d17c9a0e0.jpg)
※ 遠景
現在は神社になっている部分が浅野家の「諸国古城之図」では蔵屋敷と呼ばれる場所のようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/8a/158448379832996e130a6cc91e212867.jpg)
立派な神社です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/16/2b8b9b36ac7136125837c84d52c06d59.jpg)
『愛知の山城ベスト50』(サンライズ出版)の「室城」の項には、
「大手門の外にあるきおとでは、籠城用の米蔵というよりは、恐らく地域の年貢米を収納するセンターなどの場所であったと思われる。」
とのことです。
もっとも、この神社は相当な高台にありまして、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/c0/08398c8b719b91577c350cc6be6a913f.jpg)
※神社から南を望むとこの高低差。
結構な防御力があったのではないかとも思われます。
さて、神社の東側には駐車場がありました。神社か地域の倉庫として使われているものも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/a9/02a1a854f3a573dbbb7936cee5e254af.jpg)
しかし、古城之図を見ると、ここも結構複雑な曲輪として構築されていたようです。
が、今では道も通ってしまい相当削平されており城っぽさはない。
さて、ここから階段がありまして、上に登ることができます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ab/c7d370a20185af6caa43e86a98ca58aa.jpg)
ここを登っていくと、おお、曲輪を改変したんだ、ということがわかります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/e8/5791b3e65743e083d8f8023c0b29b346.jpg)
そして、階段が90度折れ曲がり上に到達する前に、土橋っぽく道を細くしている部分らしきものが見られる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/9c/375e77fd1392e5687086f20a6a66fe85.jpg)
階段を登るとそこには墓場が。
お城の主郭が地域の墓場になっている例は多く、ここもそうなのでしょう。
土塁と思しき高まりが見られました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/46/7c7bac33ea74e71895b5ba566c1c516e.jpg)
※とてつもない蚊に襲われる。デング熱の恐怖に怯える。
この曲輪は相当厳しく切岸を切り立てていました。
古城之図では馬出のようにも見える曲輪ですが、実際の形状を見てみると、馬出というよりは連郭式の城で曲輪を土橋で繋いだ城に思えます。
周りは深田に囲まれていたようですから、ぽっかりと水の上に浮かぶ城のように見えたことでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/75/06977d60c0423a4beb4554c0037210b7.jpg)
※旧道っぽい道。
防御力は相当高い城ではなかったかと思います。
富永保の領主として三河に勢力を誇った富永氏の最期の華ともいえる忠元の居城。
一見の価値がありました。
その富永氏の有力家臣富永半五郎勝光が頼った先が、吉良義昭。
吉良義昭が徳川家康と対決姿勢を示した際、善明堤の戦いで松平好景を敗死させますが、藤波畷の戦いで家康勢に破れ流浪したようです。
その吉良義昭の家老として武勲を讃えられたのが富永伴五郎忠元。勝光さんとは違うようです。
享年25歳と大変に若い忠元さんは、大久保彦左衛門が書いたことで有名な『三河物語』で、敵・味方もともに「伴五郎が死んだら、(吉良の)落城は近い」と記して忠元を褒めたたえています。
ウィキペディアには「富永氏は伴氏の後裔で設楽郡富永荘の領主。東条吉良氏の譜代の家臣であり、代々室城主を務める。」とあり、やっぱり野田の富永氏とは何らかの血族関係があったんだと思われます。足利家の一族として勢力を振るった吉良に近い富永一族は服属せざるを得なかったのではないかと想像されます。
野田の富永氏関係での最後の華ともいえる室城を一度見たいと思っておりました。
ので、見に行ってきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/66/f56ee0e20d16555e8776206d17c9a0e0.jpg)
※ 遠景
現在は神社になっている部分が浅野家の「諸国古城之図」では蔵屋敷と呼ばれる場所のようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/8a/158448379832996e130a6cc91e212867.jpg)
立派な神社です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/16/2b8b9b36ac7136125837c84d52c06d59.jpg)
『愛知の山城ベスト50』(サンライズ出版)の「室城」の項には、
「大手門の外にあるきおとでは、籠城用の米蔵というよりは、恐らく地域の年貢米を収納するセンターなどの場所であったと思われる。」
とのことです。
もっとも、この神社は相当な高台にありまして、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/c0/08398c8b719b91577c350cc6be6a913f.jpg)
※神社から南を望むとこの高低差。
結構な防御力があったのではないかとも思われます。
さて、神社の東側には駐車場がありました。神社か地域の倉庫として使われているものも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/a9/02a1a854f3a573dbbb7936cee5e254af.jpg)
しかし、古城之図を見ると、ここも結構複雑な曲輪として構築されていたようです。
が、今では道も通ってしまい相当削平されており城っぽさはない。
さて、ここから階段がありまして、上に登ることができます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ab/c7d370a20185af6caa43e86a98ca58aa.jpg)
ここを登っていくと、おお、曲輪を改変したんだ、ということがわかります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/e8/5791b3e65743e083d8f8023c0b29b346.jpg)
そして、階段が90度折れ曲がり上に到達する前に、土橋っぽく道を細くしている部分らしきものが見られる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/9c/375e77fd1392e5687086f20a6a66fe85.jpg)
階段を登るとそこには墓場が。
お城の主郭が地域の墓場になっている例は多く、ここもそうなのでしょう。
土塁と思しき高まりが見られました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/46/7c7bac33ea74e71895b5ba566c1c516e.jpg)
※とてつもない蚊に襲われる。デング熱の恐怖に怯える。
この曲輪は相当厳しく切岸を切り立てていました。
古城之図では馬出のようにも見える曲輪ですが、実際の形状を見てみると、馬出というよりは連郭式の城で曲輪を土橋で繋いだ城に思えます。
周りは深田に囲まれていたようですから、ぽっかりと水の上に浮かぶ城のように見えたことでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/75/06977d60c0423a4beb4554c0037210b7.jpg)
※旧道っぽい道。
防御力は相当高い城ではなかったかと思います。
富永保の領主として三河に勢力を誇った富永氏の最期の華ともいえる忠元の居城。
一見の価値がありました。