長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

今治城 ~弾丸四国その2~

2014年04月28日 | 落城戦記
日本百名城に選ばれている今治城。


来島海峡を意識した造りとなっている「海の城」。

城から瀬戸内海が見えます。この城に来るのに利用した「しまなみ海道」は村上水軍(因島村上、能島村上、来島村上)を辿る道。その四国側の今治が来島村上水軍の根城。海上交通に対して睨みを利かせていたことでしょう。

そして、この城を建てたのは築城名人藤堂高虎。

関ヶ原で徳川家康のために奔走した功を称され伊予半国20万石をもらい建てたのが今治城。(byパンフ)
家康的には島津と毛利を牽制する意味でも江戸に向かう途中に食い止める城がいるのでしょう。瀬戸内海を行きかう船もこの城の偉容を常に見て、徳川の力を見せられる政治的効果があったでしょうし、高虎も家康の意図を意識していたに違いない。
最終的に今治城が徳川家康の異父弟久松松平の城になったことからも家康が高虎を配置して城を作らせた意図がわかります。要衝の地には血縁関係のある譜代大名を配置するのが徳川家。その城は外様大名に作らせてその技術力と経済力を収奪していたわけです。

ところで久松松平家というと「・・・。」という方も多いかと思いますが、久松家は鳳来寺に参篭して家康を産んだ於大の方が松平家から離縁された後に嫁いだのが久松家。なので、家康の異父弟になる訳です。ちなみに、元NHKアナウンサーの松平定知氏はこの家系につながるそうです。(by ウィキペディア)

さて、この城、妙に馴染みがある。

①壁が白い
②四角を基調とした整然とした縄張
③広い堀
④枡形虎口の門
⑤層塔型の天守

そう、私の小さい頃からよく見ている名古屋城に似てるんです!


・・・、て、大半の人は「なにそれ。」ということかと思いますので解説を。
①壁が白い
 「豊臣の黒、徳川の白」といわれますが、下見板張り、一部漆塗りなどで黒色が多いのが豊臣系の城。

※豊臣系の城、熊本城。

に対して、漆喰の白が映える徳川系の城。

寺院建築などに用いられる高級な漆喰の白を使い権威の象徴性を高めたといわれています。
要は徳川系の城なんですな。今治城。

②四角を基調とした整然とした縄張

四角い。下の図の方がわかりやすいか。

自然地形を利用すると四角くはなかなかならない。城を作る動員人数が大量でなければできない技。
 そして、四角く作るのにも技術がいります。本丸を二の丸、三の丸が四角く囲み、一方は海により守られる、というのは強いとわかっているけど、金と技術がないとできないわけです。
 関ヶ原が終わって大名の優勝劣敗が決まり富の再配分が行われないと大名としてもなかなか造れないでしょうねぇ。
 そして何がすごいって、この城は海から吹き揚がって積もった砂を固めて造った城のため、今治城の別名は「吹揚城」だとか。それだけ脆弱な地盤に石垣を積むため犬走りが石垣の周りにあったりと工夫が見られますが、なかなかできるこっちゃない。すごい技術だ。さすが高虎。

③広い堀

とか

 広く取る、ということは大砲等も意識しているのかもしれません。火砲が出てくると飛距離が伸びるので大きく堀を取っています。
 なによりこの堀がすごいのは「海水
 満ち引きがあるそうです。

④枡形虎口の門

 入ったら絶体絶命の枡形虎口。
 

 手前の橋を渡ってきた敵は・・・、

 このように上から狙撃されるわけです。実際に撃つわけにいかないのでカメラで狙ってみました。(ひどい)
 しかもこの門は黒鉄門で火や鉄砲にも強い。

 枡形虎口を多用するのは近世城郭に多いです。
 でも、この枡形虎口は戦争技術の中から発達してきたわけでして、新城市作手の古宮城などには、土作りの立派な枡形虎口があります。



 こうした技術が生きてるんですねぇ。(渡辺篤史風。渡部篤郎と勘違い禁止。建物探訪の方。)

 ちなみに枡形を上から見るとこう。(写真左上の方)
 

 ところで城の入口には、よく人を驚かすために大きな石をおきます。

 今治城にもありました。(写真中央)
 これ、渡辺勘兵衛了が建築しておいた石という伝承があり、勘兵衛石と呼ばれているそうです。

⑤層塔型の天守
 
 今治城の天守は立てた後、すぐに藤堂高虎が伊勢伊賀へ転封となったため、解体されて持っていかれてしまったそうです。なので、さびしく天守台が残るのみ。ちなみにこの天守は伊賀城に使おうと持ってくる途中、家康が丹波亀山城を作っている最中だったので、そこに献上してしまったとか。だから、伊賀城にも天守台はあっても天守がなかったとか。へぇ~~~。なので、現在の上記写真の天守は「こんなんあったんじゃね?」的なものだそうです。ちなみに、伊賀城の天守台にも「こんなんあったらよかったのにね。」的な後世の人が作った天守が載ってます。後世の人達が不思議と一致した行動を見せているのが面白い。
 ところでこのすぐ分解された天守、層塔型の走りだそうです。
 層塔型。
 要は、四角い箱をぽんぽんと積み上げていく技法です。なので高く早く積める技法のようです。従来は望楼型というのが主流で、1階に平屋を作って、その梁に四角い2階を乗っけてから、3階、4階・・・と積んだのです。これは、当初天守台の石垣を綺麗に四角に作れなかったので、1階は天守台に添った形せざるをえなかったからだそうです。そうしないと1階部分の歪んだ形が上に行くほど増幅された部屋になって住みづらいから、とうのが理由とか。なので、石垣を綺麗に四角に積まないと層塔型は作れない。
 ちなみに、城と言うと三角形やちょっとうねった形の屋根(破風(はふ)といいます。)がありますが、あれは望楼型の1階部分がどうしても屋根を作るのでできる形なので層塔型にはできない。ただ、あの三角形がないと非常に素っ気無い。だから飾りとして破風をつけて威厳を出すことが後期の層塔型には増えてきます。

※破風がないと写真の櫓のようになってしまいます。

 と、まぁ、大喜びで見た今治城。
 この他にも見事な野面積みの石垣

 海水だらけと思われるのに井戸

 塀がきちんと再建
 
 などがありまして、じっくり見れば1日潰れてしまう城でした。
 しかし、まだまだ城を沢山見ねばならんので、見所と思われるところだけを駆け足で約1時間見学し、いよいよメインの伊予松山城へ移動することに。

 さすがに名古屋を3時起きで車を運転してきて朝食としてSAで買ったパンを一つ食べただけなので腹が減る。
 今治では焼豚玉子丼なるものがB級グルメで推しているらしいので食べてみました。


 ご飯の上に焼豚を敷き、その上に目玉焼きを乗せて焼き豚のタレをかけたもの。
 美味いに決まってるだろぉぉぉぉぉっ!!!

村上水軍博物館と能島城 ~弾丸四国旅~

2014年04月26日 | 落城戦記
伊予松山城へ向かうにあたりしまなみ海道を利用することとする。名古屋からは最も遠い四国へ渡る道。
瀬戸内海にちらばる島々を繋ぐ道路。
そして、この道路が連なる島々を拠点に「海賊衆」がいたわけです。

「のぼうの城」で知られる和田竜氏が最新刊「村上水軍の娘」を上梓して話題のポイント。(読んでませんが。)
村上水軍博物館などもあるといえば寄るしかない。

今回は伊予松山城が最終目的なので水軍博物館のみとしましたが、村上海賊ツアーと称してこのあたりだけを徹底的に巡る、ということもアリだな、と、思う。

運転時間も5時間を過ぎていい加減飽きてきた頃なので丁度良い。

まずは手前の伯方島で降りる。
「♪は・か・た・の・しお」のCMでおなじみの伯方。塩でも買おうかと立ち寄りました。
恒例のご当地スーパー巡り。

やっぱり現地のスーパーに入るのって、なんかわくわくします。

店先ではこんなん売ってますし。

やっす!ありえん金額。そもそもこんなの売ってないし。
七輪とかあれば、それこそ海岸べたで焼いて喰うのに・・・。
どうせ一人旅。好きにやればいいのですが、そんなことしてると伊予松山城は攻略不可能になる。
残念ながら断念する。定年後に計画しているキャンピングカー全国一周城の旅の時には絶対にやってやる。(一酸化炭素中毒にならないように要注意ですな。)

肝心の塩ですが、全国展開されてるだけに、なんか現地で購入したスペシャル感があまり得られなかったのが残念。

※近所のスーパーにもありますもんね。

伯方の塩を瀬戸内海バックに撮影しようと車を停めた場所でふと振り返ると野良犬が。

※でらかわいい。

道端で寝そべる猫もいたりして、都会と違ったのんびりさを実感。
旅情を感じ始める。

続いて大島へ。
ここに村上水軍博物館があるようですが、なにぶん行き当たりばったりの旅。詳しい場所なぞ調べていない。ナビに従って進むと絶対ここじゃないでしょ、という場所に案内される。

※路地裏って感じ。漁師町だ。

案内されたのは役場。想像するに元々はここに博物館があったんでしょう。

※違うポイントにあった看板。

こじんまりと。ただ、事前にネットで見たのと違いすぎる。そこで、闇雲に走って見つけることにする。どうせそんな大きくないしすぐみつかるだろうと思ったのですが、かなり時間をロスした上に見つからない。もういいか、と、諦めかけたときに見つかりました村上水軍博物館!

※最近新しくしたようですね。



小早船が展示されていました。博物館のパンフを見ると
「小早船とは、村上水軍の機動力として活躍した小型の船をいう。」
要は駆逐艦、ということなんでしょう。
そして、
「この船は、日本一の水軍レース大会を目指し、平成2年(1990年)に、小佐田哲男先生(東京大学名誉教授)の監修の下、・・・」
と、ある。

小和田哲男先生、村上水軍まで手広くやってますね、と、思って「あれ、静岡大学名誉教授の誤植か?」とよくよく読んでみると「小田哲男」先生と、いう、ぱっとみよく似た名前の方だったんですね。
そこで驚くとともに「日本一の水軍レース大会」てなんじゃい、と。。。

ところで村上水軍ですが、パンフによりますと
「村上氏は、南北朝から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した一族である。俗に三島村上氏と呼ばれる、能島・来島・因島の三家からなり、互いに強い同族意識を持っていた。戦国時代になると、村上氏は、その強力な海の武力を背景に、瀬戸内海の広い海域を支配し、国内の軍事・政治や海運の動向をも左右した。」

海賊、と、いうと積荷を奪う悪党的な感じですが、実態としては陸と同じように海を支配した国人領主で、むしろ海運を支配して豊かな一族だった、といえるようです。用心棒として海賊を乗せると他の海賊は襲わない、という約束があったとか。陸路であっても100m単位で関所があった、と、言われていますので物を運搬する際に交通量的なお金を支払うのは当時は常識に近いようです。まぁ、金が無くて払わないと運が良ければ逃げられるでしょうけど、まず無理だったでしょう。運送コストが高くつきますねぇ。

パンフの内容をまとめると、来島は伊予河野氏、因島は大内からの毛利氏に仕えるものの、本四から離れている能島は独立して特に村上武吉の時代にはどの大名にも従わなかったそうです。
結果的に豊臣政権化で海賊停止令が出されて活動を終えることになります。

全国政権の成立とともに、全国的な秩序が重視されるってことでしょう。海賊停止令により平和な海運が可能になったといえますが、なんとなく地域の自主性がなくなった、ともいえる。国が税金を一手に集めて地方へ配分する。その配分権限こそが国の権力の源泉、という図式は、今も昔も変わらないといえますね。

さて、多分その国の補助金を受けたであろうと思われる村上水軍博物館の中に入るとこんな展示が。


これは、海賊衆が敵の船を手繰り寄せて攻撃する様を立体模型で再現しているのですが大変わかりやすい。
発泡スチロールでここまで再現できるんですね。

そして、海賊衆が船に積んでいた大砲。

朝鮮式の大砲を和式に改造した、と、あります。
弾が飛んでいくだけですから殺傷よりも敵船の破壊に使われたのでしょうか。

さらに進むと、船の戦陣について教えてくれるところがあり、なんとマニアックなことに戦陣をお互いに組んで戦わせてみよう!などという素敵なコーナーがある。


これは、やりだすと時間がどんだけあっても足りないな、と、思い、泣く泣く断念。
安宅船、なんちゃら船(忘れた)、小早船と、あるので、これは、戦艦、巡洋艦、駆逐艦と置き換えて考えれば良いのでしょう。どうやって包囲陣を形成するのかだよなぁ、と、思いながらも安宅船の攻撃力と小早船の機動力がどの程度かがわからないので、シミュレートしようがないわけです。このあたりを資料館の方に聞きながら実際に船の動くさまを見たら面白かろう、と。動画で流してくれんかと思います。

そして、こんな立体模型と混ざれる展示もある。


うむ、これはワシ好み。だが、一人旅なので写真を撮ってもらえない。こんな写真をいちいち見知らぬ人に頼むのはよっぽどか大概な人だと思われるので流石に恥ずかしい。
ほんとうならば、ふんどし一丁で混ざりたいくらいだが・・・。

そして、年に1回だけしか上陸ができない島全体が要塞化されているという能島城の模型。


水軍の城、というものに興味があって、見てみたかったのですが、なんと前の週に上陸イベントやっていたそうで、なんとも残念な結果に。。。いつか日程あわせて見に行ってやる。
潮流体験で身近に見に行くこともできるようですが、残念ながら出航時間が合わずこれも断念。

と、いうことで、能島城は遠くから眺めるだけに。


船が停泊できるように島の周りに桟橋が囲われていたりしたようです。三の丸まであるようですが造りはわかりません。枡形とか馬出とかあるのかが知りたいところです。

その後、島を巨石を積んだダンプが。

石垣とかに使ったんでしょうかね・・・。

最後に道の駅でじゃこ天を喰らう。

※うまし。

まぁ、行き当たりばったり特有の時間ロスが相当なものでしたが、一人旅だしええか、という感じ。
次はいよいよ四国上陸。今治城へ。

不惑だって車中泊

2014年04月21日 | 日記
妻が実家に帰る。

別に何かあった訳ではなく、久々に子どもを連れて帰省することになったのです。
先に実家へ行って、後から私が追いかける形を想定していたのですが、私が2月後半位から本業が多忙で、つい歯磨きしてるときに「疲れた・・・。」と独り言を言っていたのを妻が義母に言ったところ、

たまには夫を自由にしてあげなさい。

と、いう、ありがたい言葉をのたまったそうで、おかげさまで迎えに行かずとも、独りで自由に過ごして良い、という、信じられない状態となったのが、先の土日。

当初は城仲間と、どこぞにいこうと計画をしましたが、急すぎてメンバー集まらず。
しかし、ここで気がつく。

「別に一人で行ったって良い訳だ。」
そして
「え、一人ならば車で好き勝手に行って車中泊しても良い訳だ。」
と、思う。

家族連れではいけなさそうなところ、日帰りでは難しいところに行こう、と、思い、検討した結果、春日山城か伊予松山城か、で悩む。

そして、道後温泉にも入りたい、と、思った瞬間、伊予攻め決定。


とか、

とか、

とか、

とか、

とか、

見てきました!

また、それぞれの落城戦記については詳しく載せるとしまして、どっかのビジホなどで素泊まりしようと思ったものの、結果的に移動時間が稼げる車中泊となりました。
さすがにフリードでは狭かった・・・。

が、40で一人旅で車中泊で往復1,100km程度を運転できるんだ、と、気づかされました。

やはり、自分でできないと決め付けてはいかんですね。やってみるもんです。
ただ、学生時代や若い頃、金が無かったのと、あまり冒険を好まない性質だったので、こういうことはしなかったのですが、逆に歳取ってくると「ああ、なんか思い出のない人生だのぅ。」と反省することが多く、振り子が逆に触れ始めた感があります。

昔、やんちゃだった人が歳取って穏やかになるのの逆か。

お陰で、100名城のうち6城を落城させてきました。今後の四国攻略の目標も立てやすくなりました。

今後も機会を見つけては挑戦してみようかと思います。

風邪か花粉症か

2014年04月17日 | 日記
ピタゴラスイッチを見ていると「♪るかろかるかろかるかろかるかろか・・・。」という重厚な歌とともにひらがなで字が書かれていき、最後に「る」という字が現れて、「る」か「ろ」かという疑問に答えている、というコーナーがあります。

この時期、風邪か花粉症かの判断がつきかねて迷う人も多いのではないかと。
実際、本日職場で後輩がどっちかわからん、と、言ってました。

かくいう私もそう。
昨日(もう一昨日か)、風呂に入っていると突然鼻がムズっとしまして、鼻水が止まらなくなる。
『うわ、花粉か。アレルギーか。』
と、思って、風呂から出て鼻炎薬を飲んで寝る。

ところが、夜中に目が覚めると鼻がムズっとしたかとおもうと、鼻水が。
そして頭痛まで・・・。

ここで始めて
「あ、風邪だったのか。」
と、気づく。

花粉症だと鼻炎薬で一発で止まるはず。
それが止まらない上に、重い頭の痛み。
そしてだるい。

これはもう風邪の症状。

よく考えても見れば、窓締め切った風呂場に途中から花粉が入り込むことなどないし、そもそも湿気の高いところでは花粉が下に落ちるから花粉症の時は風呂に入ると一時避難場所になってる訳で、そこで突然鼻がおかしくなった時点で、風邪を疑うべきだったのでしょう。

仕方ないので、寝てみる。

朝起きると頭痛は寝たせいか楽になっていたので、風邪薬飲んで出勤したら午前中にはいつもどおりの体調になっていました。

風邪なのか花粉症なのか。
ほんと、「♪るかろかるかろか・・・。」という感じで困ります。

前から気になっていた広告

2014年04月15日 | 日記
 カメラの中を探ってたら、こんなものを撮影していました。



 いろんな意味でツッコミどころが満載過ぎて、思わず撮影してしまった広告です。

 小林旭の若き頃の信長。
 無理がありすぎて、どうしても、親子ほど年齢が離れているはずの斉藤道三と織田信長・濃姫が同年代にしか見えません。
 しかも、松方弘樹の笑顔が何かをたくらんでいる顔過ぎる。

 そして濃姫。ちょっと怖い・・・。

どちて坊や。 ~子どもがなんでなんでと聞く時期~

2014年04月10日 | 日記
娘は「なんでなんで」期です。
なので、なんでなんでと聞いてくる時があります。
特に接触時間が長い妻にはよく聞いているようです。

で、妻が言うには、

「こないだ、『はーちゃん、なんで、なんでなんで聞くんだろう?』と聞いてきた。」

とのこと。

うーん。この発想は自分にはなかった。
娘、すごい、と、感心してしまった自分の親バカ度120%。

しかし、
「なんでなんで聞くの恥ずかしいんだけど。」
という意見とセットでの質問だったそうです。

なので、世の中出たら、自分で質問を設定して解決することが重要になるだけに、物事に対して疑問を持つことは重要でなんら恥じる必要は無い、と、話しておきました。
理解できたかどうかは知りませんが、こうした時に子ども扱いをせずに話しかけることとしているのが、私の教育方針です。

その後、子どもとアンパンマンを見ながら、息子のオムツを替えていてていて、ふと思う。

バイキンマンは綺麗なものや美しいものが嫌いで、カビルンルン(カビ)だのを撒き散らしたり、町を泥だらけに汚したりと汚くするのが大好き。
ばい菌なので、繁殖できるような環境が好きみたい。

と、言うことは、

バイキンマンは「うん〇」が好きなのでは?

と、思い至る。

そして、隣にいた娘に疑問を聞いてみる。

「バイキンマンにう〇こぶつけたら、どうなると思う?」

5歳の娘、だまる。

ので、
「①喜ぶ、②悲しむ、③普通」
の三択にしてみました。

娘、しばし考えた後、
怒ると思う。
と、答えました。

そうか。
怒るのか。

その考えはお父ちゃんには無かった。
意外と人間くさいんだな、バイキンマン。
と、妙に納得。

その後、同じ「なんで?」でも、
不惑の父親より5歳の娘の方が圧倒的にレベルの高い質問をしている
ことに気づいて、ちょっとブルー。

城好きの華麗な日常 ⑦

2014年04月09日 | 戦国マンガ道場

なんにせよ、こだわりを持った人達と話しをすると、何が地雷になるのかわからないことがあります。
そういう意味では厄介な人種です。
しかし、城=建造物、という理解が強すぎて、土塁や堀の構造物が持つ城本来の機能を楽しむ、ということがもっと浸透すると良い、というのが個人的な感想です。

「うなごうじ祭り」からの「牧野城」

2014年04月06日 | 落城戦記


↑ こんな祭りが豊川でやっている、と、いうことを知ったのは長篠付近に住んでいたとき。

その名も「うなごうじ祭り」。

うなごうじ。
日常生活で絶対に発音しなさそうな響き。

どんな祭りなのか。
牛久保の若葉祭【うなごうじ祭】」というHPによりますと、

「『若葉祭』の起源は、永正2(1505)年4月8日、一色城(旧牛久保城)主・牧野成時(古白)が、氏神・若宮殿(現牛久保八幡社)に参拝し、柏葉に御酒を献じ、連歌の発句を短冊に認めて若葉に結びました。
その折、駿河の大主・今川氏親の使者が来て、今橋に城を築くことを命ぜられ(後の吉田城)、成時は、これを名誉に思い、この日を祭礼と定め、以降、4月8日に氏神・若宮殿に連歌を献じるようになったと言われています。

しばらくして、成時によって始められた『若葉祭』は中断されてしまいます。

中断されていた『若葉祭』が復活するのは、牧野氏が関東に移った天正18(1590)年から百年近く経った貞享3(1686)年のことです。
『牛久保八幡社々伝』は、「この年の四月八日、長山村熊野権現(下長山熊野神社)から獅子頭の迎送始まる」と書き記しています。
そして、宝永2(1705)年に神輿が完成し、宝永5(1708)年には「笹踊」が始まりました。
その後、「神兒舞」「隠れ太鼓」等が始まり、変遷を重ね、現在に至っています。

『うなごうじ祭』は『若葉祭』の俗称であり、
「うなごうじ」とは「尾長蛆」の変化した語で、笹踊の囃子方「ヤンヨー神」が笹踊の囃子にのって所かまわず「うじ虫」のように寝転がる様子から付けられたと言われていますが、定かではありません。
  
歴代の牛久保領主は、領民をことのほか大切にし、時に領民の苦労をねぎらうため、城内に召し酒食をふるまい、領民たちは、その酒に深酔いしまっすぐ歩けず、ごろごろ転がりながら助け合って帰ったと伝えられます。
その時の喜びを神事に盛りこみ、善政を忘れない領民のこころを今に伝えていると言う伝説があります。」

とにかくこの寝転がる様子が面白い祭りとして一度は見たいと思っており、今年度チャレンジ。
妻子を近くの場所で遊ばせて、自分だけダッシュで祭り会場付近へ。
山車が出てお囃子が流れています。


しかし、私が見たかった
「領主が領民をねぎらい飲んだ様を再現している」という寝転がりが見れない。

なかなか始まらないので、そろそろ妻子の元に戻らざるをえんと思い、一度戻るが
「今、祭りに行く人が多いから、これからじゃない?」
と、いうことで、今度は妻子ともに祭り会場へ戻る。

すると、さきほどまで見なかったこんな一行を発見。

そして、見学していると後ろで詳しい人が祭りについて話をしている。
聞き耳を立てていると、
「行列の最後の方に笹踊りといって、寝っ転がる人達が来る。」
とのこと。

『それだ、それだ!』

と、いうことで、行列の後ろのほうへ一家でダッシュ。

すると、カメラの行列。

いましたよ、寝転がる人々が。


※柔道の受身のように寝転がる。



※ちょっと寝起きに疲れたそうなので長めの寝っ転がり。
 ちなみに、起こす役の人が呼びかけるまで、寝てないといけないそうです。


※交差点には謎の草履が。。。

爆竹もすごい鳴らします。
アットホームで見ていても楽しい祭り。

郡上の徹夜踊りなどは見ているだけでは楽しめませんが、この祭りは見てるだけでも楽しいお祭りでした。
最近、注目度が高まっているようです。

一家で珍しい祭りを見学できて大喜びで帰宅する途中「牧野城」の看板を発見!
長篠付近に住んでいた際、今までこの道は何度も通っているのですが一回も意識したことがない看板だけに驚く。

看板の言うまま進むとT字路で行き止まり。
『し、城は・・・。』
と、昔ならばうろたえますが、ここは落ち着いて周囲を見渡しましょう。
すると、正面のビニールハウスの向こうに不自然な土の高まりが・・・。

アレに間違いないと見当をつけて道を曲がると史跡の看板登場。


立派な土塁です。



※史跡碑の写真を撮れば落城。

史跡碑に上がる土塁の切れ目。向こうは民家なので構成に切られたものか、それとも昔からか?


この城、うなごうじ祭の起源である牧野氏の最初の城であり、この城のある地名「牧野」を苗字にしたそうです。
単郭方形の屋敷に近いつくりのようですが、土塁は相当に大きい。
この後、牛久保に近い一色城の波多野氏を撃って牧野城から瀬木城へ移り、その後、今橋城(豊橋)を今川の命で築くことになるのが牧野古白。
名将だったようですが、豊橋築城を命じた今川氏に滅ぼされてしまいます。
が、子孫は継続し松平清康と争ったりしたようです。

うなごうじ祭りを見たら、偶然に牧野城を通りかかる。
これは「呼ばれたねぇ。」と、妻と話しておりました。

まれに、今回のように偶然の立ち寄り地が話で繋がっているときがありまして、我が家では「呼ばれた」と称しています。
偶然だとは言うものの、なんか縁を感じてしまいます。

STAP論文

2014年04月01日 | 日記
STAP細胞の新聞報道を見たとき「すげぇ世の中になったもんだ。」と思ったものです。
ところが一点、本日、理化学研究所の調査報告で論文は不正であると言う発表がなされたとか。

要は、

STAP細胞は、エイプリルフールですわ。

って、オチをつけた、ということですかね?
ま、真偽の程は素人なんでよくわかりませんので、今後の展開を見守っていきます。