日本百名城に選ばれている今治城。
来島海峡を意識した造りとなっている「海の城」。
城から瀬戸内海が見えます。この城に来るのに利用した「しまなみ海道」は村上水軍(因島村上、能島村上、来島村上)を辿る道。その四国側の今治が来島村上水軍の根城。海上交通に対して睨みを利かせていたことでしょう。
そして、この城を建てたのは築城名人藤堂高虎。
関ヶ原で徳川家康のために奔走した功を称され伊予半国20万石をもらい建てたのが今治城。(byパンフ)
家康的には島津と毛利を牽制する意味でも江戸に向かう途中に食い止める城がいるのでしょう。瀬戸内海を行きかう船もこの城の偉容を常に見て、徳川の力を見せられる政治的効果があったでしょうし、高虎も家康の意図を意識していたに違いない。
最終的に今治城が徳川家康の異父弟久松松平の城になったことからも家康が高虎を配置して城を作らせた意図がわかります。要衝の地には血縁関係のある譜代大名を配置するのが徳川家。その城は外様大名に作らせてその技術力と経済力を収奪していたわけです。
ところで久松松平家というと「・・・。」という方も多いかと思いますが、久松家は鳳来寺に参篭して家康を産んだ於大の方が松平家から離縁された後に嫁いだのが久松家。なので、家康の異父弟になる訳です。ちなみに、元NHKアナウンサーの松平定知氏はこの家系につながるそうです。(by ウィキペディア)
さて、この城、妙に馴染みがある。
①壁が白い
②四角を基調とした整然とした縄張
③広い堀
④枡形虎口の門
⑤層塔型の天守
そう、私の小さい頃からよく見ている名古屋城に似てるんです!
・・・、て、大半の人は「なにそれ。」ということかと思いますので解説を。
①壁が白い
「豊臣の黒、徳川の白」といわれますが、下見板張り、一部漆塗りなどで黒色が多いのが豊臣系の城。
※豊臣系の城、熊本城。
に対して、漆喰の白が映える徳川系の城。
寺院建築などに用いられる高級な漆喰の白を使い権威の象徴性を高めたといわれています。
要は徳川系の城なんですな。今治城。
②四角を基調とした整然とした縄張
四角い。下の図の方がわかりやすいか。
自然地形を利用すると四角くはなかなかならない。城を作る動員人数が大量でなければできない技。
そして、四角く作るのにも技術がいります。本丸を二の丸、三の丸が四角く囲み、一方は海により守られる、というのは強いとわかっているけど、金と技術がないとできないわけです。
関ヶ原が終わって大名の優勝劣敗が決まり富の再配分が行われないと大名としてもなかなか造れないでしょうねぇ。
そして何がすごいって、この城は海から吹き揚がって積もった砂を固めて造った城のため、今治城の別名は「吹揚城」だとか。それだけ脆弱な地盤に石垣を積むため犬走りが石垣の周りにあったりと工夫が見られますが、なかなかできるこっちゃない。すごい技術だ。さすが高虎。
③広い堀
とか
広く取る、ということは大砲等も意識しているのかもしれません。火砲が出てくると飛距離が伸びるので大きく堀を取っています。
なによりこの堀がすごいのは「海水」
満ち引きがあるそうです。
④枡形虎口の門
入ったら絶体絶命の枡形虎口。
手前の橋を渡ってきた敵は・・・、
このように上から狙撃されるわけです。実際に撃つわけにいかないのでカメラで狙ってみました。(ひどい)
しかもこの門は黒鉄門で火や鉄砲にも強い。
枡形虎口を多用するのは近世城郭に多いです。
でも、この枡形虎口は戦争技術の中から発達してきたわけでして、新城市作手の古宮城などには、土作りの立派な枡形虎口があります。
こうした技術が生きてるんですねぇ。(渡辺篤史風。渡部篤郎と勘違い禁止。建物探訪の方。)
ちなみに枡形を上から見るとこう。(写真左上の方)
ところで城の入口には、よく人を驚かすために大きな石をおきます。
今治城にもありました。(写真中央)
これ、渡辺勘兵衛了が建築しておいた石という伝承があり、勘兵衛石と呼ばれているそうです。
⑤層塔型の天守
今治城の天守は立てた後、すぐに藤堂高虎が伊勢伊賀へ転封となったため、解体されて持っていかれてしまったそうです。なので、さびしく天守台が残るのみ。ちなみにこの天守は伊賀城に使おうと持ってくる途中、家康が丹波亀山城を作っている最中だったので、そこに献上してしまったとか。だから、伊賀城にも天守台はあっても天守がなかったとか。へぇ~~~。なので、現在の上記写真の天守は「こんなんあったんじゃね?」的なものだそうです。ちなみに、伊賀城の天守台にも「こんなんあったらよかったのにね。」的な後世の人が作った天守が載ってます。後世の人達が不思議と一致した行動を見せているのが面白い。
ところでこのすぐ分解された天守、層塔型の走りだそうです。
層塔型。
要は、四角い箱をぽんぽんと積み上げていく技法です。なので高く早く積める技法のようです。従来は望楼型というのが主流で、1階に平屋を作って、その梁に四角い2階を乗っけてから、3階、4階・・・と積んだのです。これは、当初天守台の石垣を綺麗に四角に作れなかったので、1階は天守台に添った形せざるをえなかったからだそうです。そうしないと1階部分の歪んだ形が上に行くほど増幅された部屋になって住みづらいから、とうのが理由とか。なので、石垣を綺麗に四角に積まないと層塔型は作れない。
ちなみに、城と言うと三角形やちょっとうねった形の屋根(破風(はふ)といいます。)がありますが、あれは望楼型の1階部分がどうしても屋根を作るのでできる形なので層塔型にはできない。ただ、あの三角形がないと非常に素っ気無い。だから飾りとして破風をつけて威厳を出すことが後期の層塔型には増えてきます。
※破風がないと写真の櫓のようになってしまいます。
と、まぁ、大喜びで見た今治城。
この他にも見事な野面積みの石垣
海水だらけと思われるのに井戸
塀がきちんと再建
などがありまして、じっくり見れば1日潰れてしまう城でした。
しかし、まだまだ城を沢山見ねばならんので、見所と思われるところだけを駆け足で約1時間見学し、いよいよメインの伊予松山城へ移動することに。
さすがに名古屋を3時起きで車を運転してきて朝食としてSAで買ったパンを一つ食べただけなので腹が減る。
今治では焼豚玉子丼なるものがB級グルメで推しているらしいので食べてみました。
ご飯の上に焼豚を敷き、その上に目玉焼きを乗せて焼き豚のタレをかけたもの。
美味いに決まってるだろぉぉぉぉぉっ!!!
来島海峡を意識した造りとなっている「海の城」。
城から瀬戸内海が見えます。この城に来るのに利用した「しまなみ海道」は村上水軍(因島村上、能島村上、来島村上)を辿る道。その四国側の今治が来島村上水軍の根城。海上交通に対して睨みを利かせていたことでしょう。
そして、この城を建てたのは築城名人藤堂高虎。
関ヶ原で徳川家康のために奔走した功を称され伊予半国20万石をもらい建てたのが今治城。(byパンフ)
家康的には島津と毛利を牽制する意味でも江戸に向かう途中に食い止める城がいるのでしょう。瀬戸内海を行きかう船もこの城の偉容を常に見て、徳川の力を見せられる政治的効果があったでしょうし、高虎も家康の意図を意識していたに違いない。
最終的に今治城が徳川家康の異父弟久松松平の城になったことからも家康が高虎を配置して城を作らせた意図がわかります。要衝の地には血縁関係のある譜代大名を配置するのが徳川家。その城は外様大名に作らせてその技術力と経済力を収奪していたわけです。
ところで久松松平家というと「・・・。」という方も多いかと思いますが、久松家は鳳来寺に参篭して家康を産んだ於大の方が松平家から離縁された後に嫁いだのが久松家。なので、家康の異父弟になる訳です。ちなみに、元NHKアナウンサーの松平定知氏はこの家系につながるそうです。(by ウィキペディア)
さて、この城、妙に馴染みがある。
①壁が白い
②四角を基調とした整然とした縄張
③広い堀
④枡形虎口の門
⑤層塔型の天守
そう、私の小さい頃からよく見ている名古屋城に似てるんです!
・・・、て、大半の人は「なにそれ。」ということかと思いますので解説を。
①壁が白い
「豊臣の黒、徳川の白」といわれますが、下見板張り、一部漆塗りなどで黒色が多いのが豊臣系の城。
※豊臣系の城、熊本城。
に対して、漆喰の白が映える徳川系の城。
寺院建築などに用いられる高級な漆喰の白を使い権威の象徴性を高めたといわれています。
要は徳川系の城なんですな。今治城。
②四角を基調とした整然とした縄張
四角い。下の図の方がわかりやすいか。
自然地形を利用すると四角くはなかなかならない。城を作る動員人数が大量でなければできない技。
そして、四角く作るのにも技術がいります。本丸を二の丸、三の丸が四角く囲み、一方は海により守られる、というのは強いとわかっているけど、金と技術がないとできないわけです。
関ヶ原が終わって大名の優勝劣敗が決まり富の再配分が行われないと大名としてもなかなか造れないでしょうねぇ。
そして何がすごいって、この城は海から吹き揚がって積もった砂を固めて造った城のため、今治城の別名は「吹揚城」だとか。それだけ脆弱な地盤に石垣を積むため犬走りが石垣の周りにあったりと工夫が見られますが、なかなかできるこっちゃない。すごい技術だ。さすが高虎。
③広い堀
とか
広く取る、ということは大砲等も意識しているのかもしれません。火砲が出てくると飛距離が伸びるので大きく堀を取っています。
なによりこの堀がすごいのは「海水」
満ち引きがあるそうです。
④枡形虎口の門
入ったら絶体絶命の枡形虎口。
手前の橋を渡ってきた敵は・・・、
このように上から狙撃されるわけです。実際に撃つわけにいかないのでカメラで狙ってみました。(ひどい)
しかもこの門は黒鉄門で火や鉄砲にも強い。
枡形虎口を多用するのは近世城郭に多いです。
でも、この枡形虎口は戦争技術の中から発達してきたわけでして、新城市作手の古宮城などには、土作りの立派な枡形虎口があります。
こうした技術が生きてるんですねぇ。(渡辺篤史風。渡部篤郎と勘違い禁止。建物探訪の方。)
ちなみに枡形を上から見るとこう。(写真左上の方)
ところで城の入口には、よく人を驚かすために大きな石をおきます。
今治城にもありました。(写真中央)
これ、渡辺勘兵衛了が建築しておいた石という伝承があり、勘兵衛石と呼ばれているそうです。
⑤層塔型の天守
今治城の天守は立てた後、すぐに藤堂高虎が伊勢伊賀へ転封となったため、解体されて持っていかれてしまったそうです。なので、さびしく天守台が残るのみ。ちなみにこの天守は伊賀城に使おうと持ってくる途中、家康が丹波亀山城を作っている最中だったので、そこに献上してしまったとか。だから、伊賀城にも天守台はあっても天守がなかったとか。へぇ~~~。なので、現在の上記写真の天守は「こんなんあったんじゃね?」的なものだそうです。ちなみに、伊賀城の天守台にも「こんなんあったらよかったのにね。」的な後世の人が作った天守が載ってます。後世の人達が不思議と一致した行動を見せているのが面白い。
ところでこのすぐ分解された天守、層塔型の走りだそうです。
層塔型。
要は、四角い箱をぽんぽんと積み上げていく技法です。なので高く早く積める技法のようです。従来は望楼型というのが主流で、1階に平屋を作って、その梁に四角い2階を乗っけてから、3階、4階・・・と積んだのです。これは、当初天守台の石垣を綺麗に四角に作れなかったので、1階は天守台に添った形せざるをえなかったからだそうです。そうしないと1階部分の歪んだ形が上に行くほど増幅された部屋になって住みづらいから、とうのが理由とか。なので、石垣を綺麗に四角に積まないと層塔型は作れない。
ちなみに、城と言うと三角形やちょっとうねった形の屋根(破風(はふ)といいます。)がありますが、あれは望楼型の1階部分がどうしても屋根を作るのでできる形なので層塔型にはできない。ただ、あの三角形がないと非常に素っ気無い。だから飾りとして破風をつけて威厳を出すことが後期の層塔型には増えてきます。
※破風がないと写真の櫓のようになってしまいます。
と、まぁ、大喜びで見た今治城。
この他にも見事な野面積みの石垣
海水だらけと思われるのに井戸
塀がきちんと再建
などがありまして、じっくり見れば1日潰れてしまう城でした。
しかし、まだまだ城を沢山見ねばならんので、見所と思われるところだけを駆け足で約1時間見学し、いよいよメインの伊予松山城へ移動することに。
さすがに名古屋を3時起きで車を運転してきて朝食としてSAで買ったパンを一つ食べただけなので腹が減る。
今治では焼豚玉子丼なるものがB級グルメで推しているらしいので食べてみました。
ご飯の上に焼豚を敷き、その上に目玉焼きを乗せて焼き豚のタレをかけたもの。
美味いに決まってるだろぉぉぉぉぉっ!!!