長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

作手の戦国城郭と城下に関する学生調査報告

2015年03月31日 | 古宮城
こんな資料を待っていた!

今年、愛知県立大学の学生さん達が自主企画研究事業として作手の亀山城下町の復原に挑戦されていました。


とか


とか。

その結果をまとめたこの冊子。


昨日手元に届きまして、まだしっかりと読めてませんが

「これはありがたい!」

と、いう内容です。

古宮城などについて色々と調べようと思っていながらもなかなか進まない中、作手のことについて文献や聞き取りなどが収録されており、あれこれと妄想するのに最適な資料です。

これから作手の城に関して調べる場合、基礎資料の一つになっていくことでしょう。
誰よりも私が一番欲しかった資料といえます。笑。

古宮城について書こうと思っていたので、また、今回の資料を読んで練り直します。

しかし、まぁ、自分が驚くのは最近の学生さん達の自発性。
自分達で企画を立て、大学の助成金を獲得するためプレゼンし、先生の指導の下、あちこちと調整して聞き取り調査などを行い、報告書にまでまとめる。

大学時代、引きこもって信長の野望と提督の決断とダービースタリオンだけやっていた自分とのあまりの違いに驚かされます。(比較対象が悪すぎるか。)
自分ももう少し大学時代に色々とやっておけば良かった、と、後悔。

最近の学生さんらしく就職が心配との話も聞きましたが、採用を担当していたこともある自分からすると
「採用側から見たら、絶対に欲しい人材だと思うので大丈夫。」

素晴らしい若者達を見て、おっさんもやる気が出てきました。
来年度が明日から始まります。
まずは、今年度をしっかりと終えたいと思います。

歓送迎会シーズン

2015年03月26日 | 日記
永禄十二年の頃の武田や徳川の動きが複雑で面白い、と、いうことを書こうと思ったら、とんでもなく複雑なので書けずにいたところ、歓送迎会シーズンに突入してしまいブログの更新ままならず・・・。
ある意味、体力が試される時期です。

特に定年退職をされる方々を送る会、というのが集中するのもこの時期の特徴です。

やはり最後と言うことになると、こちらも義理を欠くわけに行きませんので優先順位は高くなります。
そうなると残業もできなくなり仕事もたまる。
と、いう状況となっております。

本日の方は、健康で定年退職を迎えることができたことが喜び、と、言っておりましたが、まさにその通り。
定年までの折り返し地点に来ますと、あそこが痛い、ここが悪い、というのも増えてきて話が身に染みる。

そして、最後に退職者を胴上げして終了。

もし、ここで落として怪我でもさせたら、折角の退職者挨拶が無駄になってしまう。

過去の例では、胴上げしたら買ったばかりのスマホがポケットから落ちて誰も気づかず、傷だらけの状態で後日発見された、という話もあります。

ま、近年では再任用も増えており、定年退職=会社との縁が切れる、というわけではないのですが、一つの区切りとしては変わらない。

自分としては早く定年退職して、好きな城を巡りたい、という野望があるだけに、送る会に出るたびに羨ましくてしょうがない、というのが本音です。

別に定年退職しなくても、宝くじが当たれば、すぐにでも辞めるんですが。。。

祝!北陸新幹線開通! 

2015年03月17日 | 日記
北陸新幹線が開通しました。
東京-金沢間が約2時間半。
近っ!!

大学時代の4年間を過ごした金沢。

※石川門。自転車で走り抜けていました。


※古宮城にもある枡形虎口なので最初の写真の門をくぐると次にこの門が出てきます。

社会人になってから、訪れるたびに街がバージョンアップしていく感じがありました。自分らの大学時代は、兼六園の1強で、ついでに長町の武家屋敷跡があるくらい、という感じでした。しかし、ひがし茶屋街の整備が進み、金沢城の整備、金沢21世紀美術館、などと、観光地としての拡がりを持ってきたなぁ、というのが、印象。

もっとも、大学選びにおいても城が影響している人間としては、金沢城から大学が移転させられてしまったことは、痛恨の極みです・・・。
わたしが 大学を選ぶ際、当時大学が城にあるのは『世界で2つ』。
ドイツのなんちゃら大学(知らない)と金沢大学。
私は教養課程を城内キャンパスで終了できた最後の世代で、専門課程からは角間と言う山の中でした。

鉛瓦の屋根などはあまり見たことがないので、「いやー、金沢城って桜の咲く時期にも屋根に雪があるんだね。」と大学案内の冊子の表紙を見て思ったことを覚えています。が、実際金沢に来て見ると年中屋根が白い。。。鉛が錆びると、あの独特の色になることを知ったのは、少し経ってからです。

そして、金沢城は石垣も立派。


手前左側の石垣と、正面奥の石垣の積み方が違う、ということがお解かりになりますでしょうか?
手前が打込接、正面が切込接ですが、技術力を誇示するために加賀前田家がわざとやったとか。

こんな刻印もあったりします。


ただ、自分の大学時代は、もっと黒くくすんで、こんな違いはあまり感じなかったが・・・、と、思っていたら、大学移転して公園化するにあたり復元工事で綺麗にした様子。

五十間長屋なども復原されていたり


HPをのぞいて見たら、自転車系の部活の人が猛スピードで降っていた河北坂にどうやら門ができた様子。うーむ、大学時代の形跡は跡形もなくなってしまったようですね・・・。
玉泉院なる庭園も大規模に復活されたようで、それも見てみたい。

あの、明らかにケモノのものとは違う糞がサークル倉庫にティッシュで隠された状態で落ちていて、皆がパニックになったりした旧日本軍の営倉跡なども無いですし、文化祭の準備のついでに、夜中の12時に肝試しと称して男5人で城内探索をしたら洒落にならないくらいの漆黒の闇に娘さんのような悲鳴を上げていた本丸も、こんな綺麗に。


独身時代は年に1回は金沢行って第7餃子を食う、ということをやってましたが、結婚してからというもの、名古屋から金沢は遠くてご無沙汰です。電車だとしらさぎで3時間以上かかったはずですし、車でも3時間半はかかる。子連れにはつらい距離・・・。

しかし、北陸新幹線開通ニュースを見て、テレビ等でも金沢特集が組まれることが多く、久々に訪れてみたくなりました。

金沢城は百名城だし、今年の子どもの百名城スタンプラリーは金沢城が目標だな。。。

幼稚園の送迎

2015年03月14日 | 日記
娘を幼稚園に自転車で送っております。が、娘は今年年長さん。

うちの会社には業務時間を15分前後にずらすことができる制度があるお陰で、私が幼稚園へ自転車で送ることが出来た訳です。

雨や雪の日などは、ぐずる娘と一緒に、それこそなだめたり、すかしたり、おこったりしながら送ったものです。

さすがに朝遅い出勤というのは、仕事のスタートダッシュができないことから負担が大きいので、息子はバス送迎の幼稚園に行くことになり、今年で幼稚園へ送ることは終わりになる。

月曜日は卒園式です。

ああ、きっとこの日に幼稚園へ自分が最後の送りをして、きっと感慨深い状態で朝から泣いちゃうかもな、とか、自分の中で、若干盛り上げていたのですが、

卒園式は集合時刻やその後のイベントの関係で、自分ではなく妻が送ることに。

え。
と、いうことは。


自分の送りは既に終わっていた???

と、いう衝撃の事実が判明。
なんだよ、ワシの盛り上がりは、ワシの泣きは、と、動揺。

まぁ、小学校の送りの時に、しばらくは保護者付き添いがあるそうなので、続くっちゃ、続くのですが。

相変わらず、お涙頂戴と縁遠い人生だなぁ、と、自分の立ち位置を再認識した次第です。

ちなみに、このブログを書いている後ろで妻が
「ああ、あなただけ良い人ぶって、あたかもイクメンのように、また、書いて。はんっ。」
と、冷笑しています。

名古屋で雪

2015年03月10日 | 日記
名古屋で雪。
渋谷で5時。
(↑言いたかっただけです。)

この時期名古屋で雪が降るなど、この歳になるまであまり記憶に無い。
道はまだ大丈夫ですが、屋根などはうっすら積もってます。

通常名古屋の冬は晴れることが多く、一時期金沢で暮らしていたときに晴れ間がなく蒲団が干せずに困っていた記憶が。晴れても雪が積もってたりして干す意味なし、みたいなことも。
今年の名古屋は異常で、晴れ間がほとんどなく常に強風吹いてるし「金沢か!」と空にツッコみたくなるような天候です。

職場で静岡からやって来た人が隣におり
「いつも名古屋はこんなもんかと思いました。」
とのこと。

「今年の名古屋は異常だから!」
と強調しておきました。

こんな寒いと春や夏も天候がおかしかったりしないか心配です。
ほんと、昔の人ならば「ケカチ、つまる」と、いう感じか。

ちなみに「飢饉で餓え死に」という意味です。

現代でよかったですわ。

満光寺の鶏 その5

2015年03月09日 | 日本史
前回までに、発生年次が曖昧な伝承が、いつ発生したのかを検証し、一つの可能性を提示しました。

が、調べているうちに、この満光寺の鶏の話は、作り話ではないのか、という疑念が湧いてきたのです。

それは、その3で信玄侵攻ルートを調べていたときのこと。
偶然、山住神社のHPにあたり、色々と読んでいると「三方原の戦いで負けた徳川家康がこの神社に逃げ込んだところ、山犬が吠えて山全体に共鳴し恐れをなした武田勢が逃げて行った。」という逸話がある。

いやいやいや、山住神社は浜松城から70km近くも離れてます。
家康、いくらなんでも逃げすぎでしょうよ。

で、更に山住神社で検索をかけると
「三方原の時に窮地に陥った家康を狼が守って無事に家康は逃れた。これは山住神社のお使いのおかげである。」
というものや、
「三方ヶ原の際に戦勝を祈願した」
と、書いてあるHPもあります。
戦勝祈願ならば十分にありえます。家康としては山住神社への神頼みを行ったのでしょうが、いつしか、神の霊力により直接的に家康が助けられた、という話が出現してきた、と考えられます。

で、ふと気づく。

私は、満光寺の鶏は、実際に家康が救われた前提で考えていましたが、そもそも発生していないのでは、と。

うまい話を聞くと「そんな話を信じるものか。」と冷笑するタイプですが、なぜか今回の話を考える際、その発想がなかったことに気が付く。

振り込め詐欺にひっかかる人の気持ちが少し理解できた気が。。。

と、言うわけで、もう一度、逸話をよく読んでみようと思う。
山吉田の部屋」なるHPが今まで見た中で最も詳しく書かれていたので、これを参考にする。

慶長6年(1601年) 徳川幕府が全国的に検地を実施。幕府直轄天領となっていた山吉田村は、検地奉行;伊奈備前守忠次による検地を受け、満光寺を止宿とした。このとき伊奈備前守が満光寺の由緒を尋ね、山家三方衆の誘引、柿本城開城など満光寺住職朝堂玄賀和尚の功績がわかり「御当家に附いて功有開山也、且又古跡の霊地なり」として三石の黒印を受領した。

※山吉田の部屋のHPから文書。

 上記の内容を解説します。

① 山吉田村は徳川幕府の直轄地。
② 江戸幕府が山吉田村の検地(すごく意訳すると税収を決めるための地価調査)を慶長6年(1601年)に実施。
③ 検地奉行は伊奈備前守忠次。
④ 伊奈の宿泊先は満光寺。
⑤ 伊奈は寺の由来を聞いた。
⑥ 山家三方衆(井伊谷三人衆の間違いと思われる。)を徳川家の味方にしたこと、初代和尚が武田軍と徳川方領主鈴木氏が柿本城から撤退する際、武田軍と交渉し話し合いをまとめた功績があった。
⑦ 伊奈備前守は「この寺を開いた和尚は、徳川家に対して大変功績があるし、由緒ある霊地。」として3石の所領を黒印状により保証した。

 あれ?
鶏の話は?
 鶏に三石を与えた、とは書いてないし、鶏を理由に寺に所領を与えたとも書いていない。。。

 まず、②の慶長6年(1601年)に注目。
 実は、宇利城の戦いで有名な宇利の慈廣寺にも伊奈忠次の黒印状が、やはり慶長6年に発行され寺領は3石となっていた、ということが新城市誌(昭和38年発行 115頁)で確認できます。また、蒲郡市のHPを見ると安楽寺というお寺に伊奈忠次が同年に寄進状を発行しています。

 蒲郡市のHPには「伊奈備前守忠次は、関ヶ原の戦いの翌年、三河各地の寺社に寄進状を出している。」との記載があります。

 なぜ、と、考えていると愛知県史資料編13に書いてありました。
領主変更にともない尾張・三河両国の武家領・寺社領では、徳川氏の奉行により知行地の確認や年貢確保などの作業が十一月末より進められた。これは家康の命により東海道に宿駅を設けた際、近辺の家康ゆかりの寺社に対し、寺領を寄進したものと推測され・・・」(631頁)

 なるほど!

 関ヶ原の戦いにより全国的に大名の再配置を行われ、尾張と三河は徳川家のものになります。
 これが慶長6年に寺社への寄進状(黒印状)が集中して発行された原因かと。
 寄進(寄付)の理由についても蒲郡市のHPでは触れられていますが、満光寺も同様の理由かどうかは定かでは無いです。なんにせよ、三河でいくら税収が取れそうかを伊奈忠次に調べさせ、その際、伊奈には一定の権限が委譲されて寺社領を保障することができたことが想像されます。
 
 ところで、この伊奈忠次って誰?

※ウィキペディア写真

 この人、三河の出で家康に仕えるのですが文官として出世します。二度ほど徳川家を出奔していますが、江戸の地割や河川の付け替え、検地など、民政官として抜群の活躍をし、伊奈流という流派が確立するほど民政の手腕に優れていたとされています。で、家康から信頼されて絶大な権限を任され、あちこちの税の徴集を行うための地価評価も行っています。そして、善政を行ったことでも知られており、名代官でもあったようです。
 どうも、仕事のしすぎで過労になり意識不明になってしまったこともあるようで、奇跡的に復活したり、と、意外と掘り下げると面白い人です。

 その後、満光寺は慶安2年(1649年)に、今度は20石の寺領の朱印状をもらいます。山吉田の部屋のHPにはこの際の朱印状の写しと思われる書状の写真が載っています。
 どうも、三代将軍家光の頃には、慶長年間の黒印状を基に加増の朱印状が全国的に発給されていたようで、慈廣寺も慶安2年にやはり15石6斗の朱印状を得ています。

 たぶん、伊奈忠次は家康の命を受け、基本的に寺社に所領を寄進する前提で、何か寄進する理由を探したのだろう、ということが考えられます。
 きっと、善政で知られる伊奈のことですから、相手の話を聞いて寄進するストーリーを自分で組み立てて相手に「それは、・・・ということなんだな?」と結論を誘導したのではないかと思われ、そうしたテンプレートを用意していた可能性もあります。

 ただ、伊奈の際に鶏の話は出てこない。
 そもそも、鶏に家康が感謝したのであれば、戦が落ち着いたらすぐに三石を寄進すると思われます。実際、山住神社では、天正元年に御礼参りしたとか天正四年に宝剣を奉納しただのの話があります。伊奈の際に三石が始めて出てくるので、家康を逃がしたこと三石の関係性の薄さが気になるところ。

 そして、山吉田の部屋でも言ってますが、山吉田地域は徳川氏の直轄領から海老菅沼氏領に代わり、圧政に苦しめられたようです。その際に、鶏が三石の扶持を貰っていたことから鶏を羨んで領主批判をする民謡ができた、と、されています。たぶん、直接的な領主批判ができないため、伊奈の際の話に尾鰭が付いて、いつしか鶏に三石、という逸話の形成につながっていったのではないか、ということが私の最終的な結論です。

 ただ、現地の話を聞いて回ったわけではなく、あくまで資料やらWEBの情報やらに頼って考えておりますので、本当は鶏の話があったんだ、という証拠がみつかるかもしれません。
 まぁ、個人的には伝承にケチをつける気は毛頭なく、単に面白そうだから、と、調べ始めた経緯と推論を載せているだけですので、このブログの内容を「そうか、これが確定的な結果か!」と思われてしまうと、変な歴史を私が作り出してしまうことになるので、それだけはご注意ください。笑。

 ぜひ、満光寺の鶏の話で「いやね、地元ではちゃんと証拠が。」などの情報があれば、コメント欄などにお寄せいただければ幸いです。

 あー、でも、昨年末くらいから、ずっと鶏の話関連のことを調べ続けていましたし途中で混乱もしましたが、なんとか自分なりの一定の答えがまとまって良かったですわ。本当に調べてる途中に違う視点が見つかって文書の修正を余儀無くされることも多かったので、読みづらい文書になっている可能性もありますが、ご容赦を。

 どっかのタイミングで、再度資料を読みなおして書き直してみたい、と、思うテーマでした。
 
 しかし、今回の件で、また書きたいことが別に大量に発生しました。
 当分、ネタに困ることはなさそうです。

満光寺の鶏 その4

2015年03月06日 | 日本史
いつもよりも早く鶏が鳴いて武田軍の攻撃から危うく逃げ去った徳川家康。鶏に感謝して所領を与えたという伝承が残る満光寺。
いつその事態が発生したのかを考える、という、誰も得しないこのシリーズもいよいよ4回目。
前回は元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いを巡っては発生していないだろう、ということを述べました。

翌元亀4年(1573年)に三方ヶ原で家康を破った武田信玄は、新城市の野田城を包囲します。城将の菅沼定盈は、わずか500の兵力で武田軍の約2万5千の大軍を相手に1ヶ月籠城し、大いに武名を高めます。
このあたりの話も武田軍が金堀衆で水の手を切っただの、渇水に苦しんだ菅沼軍が「卑怯だろ。」と信玄をなじったら「じゃあ、水やるよ。どれくらい欲しい?」と返事してきて本当に水をくれた、だの、色んな逸話があります。
そして最も有名な逸話と言えば、この戦いで信玄が鉄砲で撃たれて死んだとか死んでないとか、という話。

※信玄を撃ったという伝承がのこる信玄砲。設楽原歴史資料館所蔵。

この信玄砲、火縄銃としては古い形式のもので戦国時代に利用されていた可能性が高く、鋳潰されたりして再利用されてしまうことが多い火縄銃は、戦国時代のものは非常に貴重だそうです。それなのに、残っていた火縄銃、ということから、信玄を撃ったという附加価値から意図的に保存されたのではないか、という説明を設楽原歴史資料館の湯浅さんはされていました。

信玄が撃たれたことを否定する向きも多いですが、こうした伝承が残っていることは伝えていくべきではないかと。

さて、野田城の戦いを長々述べたのには理由があり、この戦いの時、家康が応援に来た可能性も考えられるからです。そこで『新城市三十年誌』を読んでみると詳しく書いてある。

「家康は笠頭山まで出馬し、金扇の馬印をひるがえしたが、甲軍の包囲陣を見て士気も振わず、酒井忠次の諫言を入れ吉田城へ引き退き、その後、賀茂の照山まで再三出陣したが自力では救援し得なかった。」(538頁)

この話は「菅沼家譜」に載っている話のようです。
これを読みますと、家康は定盈を救おうとうろうろしており、ここで頑張らないと他の家康配下領主にも「家康は頼りない。」と思われて、どんどん武田に寝返られてしまう。だけど、とても自分の力では武田信玄に勝てないので結果として救いたい気持ちを表現するにとどまった、ということがわかります。

ただ、吉田(豊橋)を中心に動いていおり、逃げるにしても山吉田を通過することは考えられないので、野田城を巡る戦いで満光寺の鶏逸話が発生した可能性もないと考えて良いと思います。

それじゃ、元亀4年も発生してないじゃん!

ご安心ください。まだ、最後の望みがあります。

武田信玄はここまで家康を脅かしながらも、寿命には勝てず元亀4年の4月12日に信州駒場で死んでしまったとされています。武田が当主の死で動揺している隙をついて家康は反撃に出ます。

まず、家康が奪還を目指したのが、その3で信玄が軍勢を集中させて総力戦を行って奪った二俣城。
残念ながら、ここを奪還しようとして付け城(攻撃方が長期戦に備えて包囲するための城)を築いてとりあえず終了。

そして、同時進行で武田の対応に不満を持っていたらしい作手を中心とした領主奥平貞能を寝返らせることに成功。

※奥平貞能(ウィキペディア画像)

奥平家は作手を中心に額田や新城、豊川の平野部への入口も抑えていた領主なので、武田方にしておくと、どこから攻められるかわかったもんじゃない、ということがあったと思います。奥平家は徳川家康にとっては長女を嫁にやってでも味方につけたい一族であったといえるでしょう。

そして、7月には武田方に奪われた長篠城を取り戻そうとします。
このとき、武田軍も大規模な応援部隊を送り込んで対抗していたようです。この時点で武田勝頼はまだ奥平の裏切りを知らないようで、7月末日で勝頼は奥平貞勝と貞能にあてて「家康がやってきたなんて超ラッキー。今色々応援出してるから家康を引き止めといてくれ!」といった趣旨の手紙を出してます。(戦国遺文武田氏編 2143)

ところが奥平は8月20日に家康から所領安堵の書状をもらっており明確に武田を離れた様が窺えます。(愛知県史織豊1 901)そして、長篠城は諸説有りますが8月から9月の間に落城し、家康のものになったようです。

この時の様子が、中津藩史や寛政重修諸家譜などを参考に作られた長篠城址保存館発行の「山家三方衆」には詳しく描かれています。

「・・・家康は、・・・七月十九日長篠城を攻撃した。城中では無人をよそおっていたが、家康の軍から放った火矢は、風にあおられて大火(野牛郭)となり、多数の兵器、食料も焼けてしまった。家康は、対岸の久間・中山(鳳来町乗本)に砦を築き、酒井忠次、菅沼定盈に守らせ、有海原・篠原(新城市有海)にも兵を配置し、自らは一旦浜松へ帰った。城将菅沼正貞・菅沼貞俊は家康の来攻を甲州に知らせた。勝頼は武田信豊を主将に山県昌景・馬場信房・小山田信茂・土屋直村・穴山梅雪らを遣わした。八月八日、家康は再び長篠に来た。十五日正貞、貞俊は飢餓に堪えず、鳳来寺方面に走った。救援の諸将は作戦が不成功に終わったことを恥じ、徳川勢殲滅の策を練った。信豊・昌次は作手に移り、設楽原に出て、二つ山(鳳来寺富栄)の信房と東西より、家康の通路をはばめば、家康は吉川筋(新城市吉川)へ出るであろう。そこをさしはさんで撃とうと謀った。貞能はこれを聞き、ひそかに夏目五郎左衛門治員を派遣して家康に伝えた。・・・中略・・・家康は、この諜報をきいて急遽、久間山より間道を抜けて浜松へ帰った。・・・」


若干、愛知県史や戦国遺文の文書と比較すると日付が1ヶ月ほど早い。(8月末や9月頭に勝頼から部下に対して長篠支援の文書が出ている。)また、勝頼は二俣城方面への手当てをしており、家康が一旦帰ったのは遠州二俣への対応が必要だったからか、という気がします。そこが落ち着いたので、改めて長篠へやってきた、という感じではなかったかと思います。

仮に「山家三方衆」の時系列を愛知県史等の書状の日付に置き換えて1ヶ月ずらした場合、山県昌景は二俣の救援から長篠へ向かっており、一旦家康が退却したときには長篠にいない可能性が高く、このときに家康が武田勢の山県隊に追い回される事態はなさそうです。

書状では、長篠城落城後に家康を討取ろうとした武田軍の動きはつかめません。が、仮にこうした動きがあった場合、家康は久間山から浜松へ帰った、と、されているので山吉田を通過する可能性が極めて高いのです。と、いうか、通らないと帰れない。

※上記の地図で黒い線が折れる地点が満光寺周辺。久間山の間道は単純に黒の直線で表しており実際の道はもっと複雑な経路になると思われます。(グーグルマップを加工)

長篠城落城時には山県もいたと思われます。

長篠から家康が逃げたときに武田勢が追いかけたどうかは「山家三方衆」の逸話からはわかりません。
が、役者は全て揃っています。

元亀年間について元亀元年からひたすら書状やら伝承やらを追いかけてきましたが、家康と山県隊が山吉田を舞台にできそうなときは、この時しか無い。

なので、満光寺の鶏の逸話が発生したと考えられるのは、元亀4年の長篠城攻めにより家康が長篠城を落城させた後、浜松城へ逃げて行ったときではないか、というのが結論です。

なぜ元亀年間、という非常に漠然とした表現になったのか、という疑問に対する私なりの推測ですが、

①実際に発生したと考えられる逸話は天正(元亀4年7月28日からは天正年間)の話であったこと。
②元亀2年に武田軍が侵入したという話が後世に広まり、武田軍侵入時点が混乱したこと。
③元亀3年の山県隊の記憶が武田軍の侵入として地元に強いイメージを持たせたこと。

の3点が考えられます。
これらがぐちゃぐちゃになり、どこで発生したか特定できなくなったのではないか、と思います。

と、いうことで、満光寺の鶏のお話しは、めでたし、めでたし。


と、なるはずだったのですが・・・。

実は、満光寺の鶏の話をあれこれ調べたところ、この逸話、そもそも完全な作り話ではないか、と、思われる状況を見つけたのです。

と、最後の最後に大きな問題が発生して次回最終回へ続きます

満光寺の鶏 その3

2015年03月01日 | 日本史
前回は、鴨川達夫氏の元亀2年に武田信玄の三河侵攻が無かった説を紹介しました。
元亀2年が武田信玄の徳川家康領国への初侵入とされていたので、元亀2年の武田侵入が無い、ということは、徳川家康が満光寺の鶏のお世話になる時期として、元亀元年と元亀2年はないことを確認しました。

次に考えられるのが元亀3年(1572年)です。
この年は、かの有名な『三方ヶ原の戦い』が発生した年。
浜松城に籠る徳川家康の目前を武田信玄がスルー。
傍若無人に武田軍に領国を荒らされた上に、武田信玄がスルーしても手も足も出なかった、となれば、家康にとっては武士の面目丸つぶれ。

「あいつ、信玄さんにボコボコにされて、家に引きこもって震えてたらしいっすよ。」

そんな噂が撒き散らされた日には、家康側の味方はいなくなる、と考えたとか考えてないとかで、なぜか軍勢の多い武田軍を相手に城を出た家康は野戦を行いフルボッコにされた戦いです。


※「しかみ像」家康はフルボッコにされて憔悴しきった姿を絵にして生涯戒めたという。

このときに食い逃げだの脱糞だのを行った逸話も多い家康。
満光寺に逃げ込んで鶏伝説ができた可能性も検討する必要がある。
(鶏伝説についてはその1参照のこと。)


まず、三方ヶ原の戦い当日(12月22日)ですが、夕方に浜松城の北側で戦争が発生し、その日の夜に家康は浜松城へ逃げ込んだとされています。
満光寺方面は浜松城と反対方面ですから鶏逸話は発生しようがない。

それでは、三方ヶ原の戦いを巡る戦いでの可能性も考える必要があります。
元亀三年の武田軍の動きですが、通説では、信州からの南下軍は、①山県昌景の先遣隊と②信玄本隊の2グループの動きがあります。
①の山県隊は、9月29日に出陣し信州から足助に侵入、そのまま南下して既に武田方となっていた奥三河の山家三方衆を吸収して更に南下。山吉田を通過して浜松市北部へ侵入。その後、東へ向かい信玄本隊が攻撃中だった天竜川上流の二俣城へ合流します。

②の信玄本隊は、10月3日に信州から現在の152号線とほぼ似たルートで青崩峠を南下。当時の秋葉道を利用したようで、水窪から秋葉へ向かい、武田方に降伏していた犬居城へ。そこで馬場信房軍を西へ向かわせ二俣城へ。信玄本人は犬居城から南下して袋井市を制圧し、天竜川を渡る前に要衝の二俣城の馬場軍に合流します。

①、②以外に、信州から岩村へ向かった秋山虎繁(信友)軍、駿河からやってきた穴山信君軍などもいたとされており、信玄的には総動員体制だったようです。

②の信玄が南下してきたルートを、現在の道で考えていくと水窪から犬居へ向かうルート、と、言われると「?」となります。水窪は国道152号または県道285号、犬居は国道362号で秋葉山が邪魔して全く違う道となっています。

※グーグルマップ

この当時、秋葉山には秋葉神社という火防の神様で有名な神社があり、かなりメジャーだったため、熊野古道のように秋葉道という秋葉神社へ向かう道があちこちにあったようです。どれくらいメジャーだったかですが、現在ヲタのメッカとしてしられる東京秋葉原。あの「秋葉」の由来は秋葉山から勧請した神社が由来だそうです。(ウィキペディア情報)

秋葉道のルートがどうなのかを調べたところ、ちゃんと国道152号から秋葉山を経由して犬居へ行くことができるようになっていました。(秋葉街道の詳細図。『浜松情報BOOK』のサイトへ。)

が、最近では、信玄本人は駿河方面から西上してきたという説(柴裕之氏、本多隆成氏)もありますし、それに関連して、秋山虎繁も山県と同行して二俣城に来ていたが、岩村城が武田方になったので急遽二俣城から派遣された、と、いう、当初から岩村城へ向かっていない説もあります。

あれだけ有名な戦いですが信玄がどうやって浜松城にまで来たかが実は学者の間で議論の対象となっていたり、秋葉道がどうなっているのかを調べたり、と、それぞれ整理した上で、今回のブログを書いております。そのため、時間がどんだけでもかかってしまうのです。

まぁ、面白いのでやっている訳ですから別に構いませんが、例えば信玄西上説だと、信玄が落とせず勝頼が落城させて有頂天になってしまった高天神城、これは元亀2年に信玄が落とせなかったとなっているので、一体、どう考えたらいいの?などと、新しい疑問が思い浮かぶのです。

調べれば調べるほど新たな謎が出てくる。

とは、いうものの、それを逐一調べていたら、いつまでたっても満光寺の鶏が鳴いた時期を考えることができないので、ここは別の機会に。

さて、様々に調べて確認したのは、①の山県隊は、信州→三河→山吉田経由→二俣城、というルートは、信玄信州南下説も信玄駿河西上説も変わりは無いようです。
と、いうことは、このときに家康が山県を迎撃していれば、家康が満光寺に泊まる可能性があるのでは!?

で、調べてみると、どうも、家康本人は信玄本人への対処が優先しており、信玄の動向を探るために偵察にでかけたら予想外に早く侵入してきた信玄本隊に遭遇してしまい、危なく殲滅させられそうになります。(10月13日の一言坂の戦い)

また、山県隊の山吉田通過時期ですが、山吉田近辺の領主鈴木氏は、武田方となった山家三方衆と山県軍と交戦して大敗を喫した記録が残っています。ただ、元亀2年の話としているものが多いので、元亀3年と勝手に私は読み変えています。なお、後世にまとめた記録には元亀2年となっているが、満光寺に残る位牌には元亀3年と書かれているので、年数が混乱しているとの指摘がある本もあります。当時、元亀2年武田侵攻否定説がないため、元亀2年を史実として捉えていたので混乱したのだと思いますので、元亀3年への読み替えは間違いが無いと思います。
この時は10月22日に山吉田に武田勢(山県隊)が攻め込んできたとの記録があります。
一言坂で敗れて信玄本隊が二俣城を囲んでいる状況下で、家康が山吉田方面に出て行けるような情勢では無さそうです。

実際、元亀2年の話を全て元亀3年の山県軍によるものと読み変えた場合、逸話には、一切家康は出て来ません。鈴木一族が武田軍と交戦し、かなりの被害を出していることだけが残っています。
この後、年末に三方ヶ原が発生。信玄は浜名湖近辺で一旦停止します。
そのため、元亀3年中に家康が山吉田へ出撃することは考えられない。

こうなってくると、元亀元年から3年までの間に、武田に追われた家康が満光寺に泊まる、というシチュエーションは発生していないことになります。

元亀3年の翌年は天正元年。

え、え、ちょっとまってくれ。
と、いうことは、一体この伝承は・・・。

しかし、ご安心ください。

天正元年は7月末からで、それまでは元亀4年が存在しているのです!
では、元亀4年に家康は武田軍と山吉田で交戦する可能性はあったのか?

それが、あるんです。(川平慈英風)

さて、元亀4年は。
はたして、そこで家康は泊まっているのか?

衝撃の結末まで、6割5分程度まで来ました!
乞うご期待。つづく