長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

前向き思考でいこう ~神流川の戦い~

2012年09月05日 | 日本史
鉢形城へ向かう前に、関東最大の野戦ともいわれる神流川の戦いの場へ。


長篠合戦における設楽原決戦場もそうですが、野戦の現場なんてあちこち移動してるので、古戦場碑は一つの目印に過ぎません。が、当時を偲ぶよすがにはなります。

神流川の戦いは、天正10年(1582年)6月16日から6月19日に行われた戦いで、本能寺の変で動揺する織田家の隙をついて、北条氏が関東の覇権を取り戻すべく上野へ侵攻したことが発端です。
織田方の部将で関東方面司令官的な立場である滝川一益は迎撃を開始。
先遣隊の北条氏邦を一度は退けたものの、北条氏直の本隊が到着し北条勢5万6千VS滝川勢2万弱となってしまうと、どうにもならなくなったようです。
滝川勢は旗下に加わってから日が浅い混成軍だったこともあり、北条本隊到着後の合戦で陣形の伸びたところを伏兵にやられて大敗。滝川方関東勢はこの様子見をしつつ戦場離脱。滝川は箕輪城へ逃げ帰り、その後なんとか居城の長島城まで逃げ帰ったようです。(戦いの顛末はwiki参照)

これにより、滝川一益の織田家における発言力が低下し、豊臣秀吉の天下へと動き出します。そして、結果的に秀吉の小田原征伐まで話がつながってしまう訳です。そういう意味では、戦国史に大きな影響を及ぼした戦いと言えます。

この戦いで滝川一益にケチがつきます。


清須会議に出席を許されず、気が付けば織田家重臣の列から転落していた一益。
柴田勝家と歩調を併せて失地回復を狙うも羽柴秀吉に負けて出家する一益。
出家して隠居してたら小牧・長久手の戦いの余波で秀吉に召喚されて蟹江城を攻撃する一益。
舟で海上から敵の真っただ中の蟹江城に侵入する一益。
家康の素早い反撃に会い、戻ろうにも潮の満ち引きに翻弄され孤立する一益。
結果的に降伏⇒開城という情けない展開になる一益。

一益。。。

信長にすら鼻白まれたあざといまでのキレが、信長死去後は全くありません。
少し気の毒なくらいです。

ところで、碑の隣に石碑で謂れが彫られており、世情不安のときにこの近くの宿には暴徒が発生せず不思議だった。それは、きっとこの戦いの戦死者の霊が守ってくれたからだとありました。戦死者の霊が地域を救った、という考え方がちょっと新鮮でした。

長篠合戦後では、戦死者を生めた塚から蜂が大量発生して、戦死者の祟りと考えて鎮魂の祭(火おんどり)が始まったという伝承がありますが、おかげさまで、というのは聞いたことが無い。
そういう意味では、神流川近くの人達は、ポジティブシンキングなのかもしれません。

資料が見つかりませんが、蟹江城攻撃時の一益は、あまり乗り気でなかったという話があった記憶があります。
もし、そうだとするならば、神流川住民を見習ってポジティブシンキングで行けば、ひょっとして・・・。

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