長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

麦飯と北条氏政と武田信玄、と、北条氏康。 

2013年02月24日 | 戦国逸話
小田原を拠点に伊勢宗瑞から始まる北条家を、鎌倉幕府執権の北条氏と区別して「後北条家」と呼ぶことがあります。その後北条家は関八州を治める勢いを見せますが、豊臣秀吉への対応を間違え滅ぼされてしまいます。

滅亡時、隠居として後北条家の舵取りを担っていたのが北条氏政。

※出典 ウィキペディア

家を滅ぼすような人なので悪行が多いのか。
それとも、家を滅ぼしたため全ての悪行を背負わされたのか。

謎は多いですが、色々とヒドイ話が後世に伝わっています。

例えば、宴会中に参加者にトイレに行くことを禁じた話
当然、大惨事になったという結末です。

最も有名な話は『汁かけ飯』の話。有名すぎてあちこちで紹介されていますので簡単に。

北条氏政の父親氏康が嘆いて言うには「うちは息子の代で終わりじゃ。」
なんででしょうか?と、聞くと
「息子の氏政は、飯を食うのに1回汁を掛けて、足りなかったのでもう一回注いだ。毎日飯食ってるのに、その目分量もできないような息子では国は保てぬ。」
実際、北条氏は氏政の代で滅んだ。

北条氏康。

※出典 ウィキペディア

と、いうもの。
ひつまぶし喰ってるのを見たら
「名古屋は終わりじゃ。」と、北条氏康に嘆かれそうです。
「名古屋だけに尾張じゃ。」と得意げに言われそうです。(爆)

さて、本日はこの話はどうでも良く、汁掛け飯の次に有名な話にこういう話があります。

○麦の話

『甲陽軍鑑』に記載されている話として農民が麦刈りをする様子を氏政が見て、「あの取れたての麦で昼飯にしよう」と言ったという話である。勿論刈った麦がそのまますぐ食べられる訳でなく、干し、脱穀し、精白するなどして、ようやく調理できるようになる。その話を伝え聞いた武田信玄はその無知ぶりを大いに笑ったというが実証はなされていない。(wiki参照)

ブログに書くにあたり、甲陽軍鑑で確認しようと本を漁っておりましたが、私の手持ちの本では確認できませんでした。(ニュートンプレス社の口語訳版)しかし、あちこちの雑誌等で紹介されており、『氏政愚者伝説』有名なエピソードとして広く人口に膾炙しています。
また、武田信玄、上杉謙信と互角の勝負を繰り広げた北条氏康の名将ぶりを讃える話としても捉えられています。

ところが。

江戸時代に松浦鎮信という人が書いた『武功雑記』なる本の翻刻版を読んでいて驚くべき話を発見しました。

○北条氏康と麦の話

笛吹峠で北条氏康と武田信玄が参会したとき、武田信玄が北条氏康に河越夜戦(北条氏康が8千の兵で8万人の軍勢を打ち破った戦い)のことを尋ねられ、北条氏康は詳細を語った。武田信玄は「それは『隠れ遊び』という謀計ですな。」と言った。
その時、北条氏康は武田信玄へ弁当を出し、近くで麦が実っているのを見た北条氏康は、
「折角だから麦飯にしましょう。」
と言った。
武田信玄は
「いやいや、麦飯はすぐに作れるものではないのです。麦はこれこれこうしないと食べられないのです。」
と、詳しく説明した。

「細かいことまで、よくご存知ですなぁ。」
と、北条氏康は感心した。


あれ?
なんか似たような話・・・。

実際、この本の欄外注に
「後年氏直が麦穂を飯に作れと言いしを氏康が歎せしは信玄より教えられし者なるか」
と、書かれています。(氏直は氏政の間違いでしょう。氏直は氏政の子。氏康の孫です。)

まぁ、古代の悪い王様は、ことごとく妊婦の腹を裂いて胎児を確認したことにされているわけでして、一つの不名誉な出来事は、不人気な人の逸話として統合されてしまう、ということがありますので、麦の話も信玄が細かいことを知っているという話から、氏政が下々のことを知らない話にすりかえられてしまった、という感があります。

しかし、大将が麦の精白方法を知っていることについてそれぞれの文脈を見てみると、武功雑記は「信玄は大名でありながらよく知っていますねぇ。」というスタンス。そして甲陽軍鑑は「大名家のボンボンの氏政はこんなことも知らんのか。」というスタンスです。

麦の精白方法を知っている大名と知らない大名。
どちらが戦国大名のスタンダードだったんでしょうか?

ま、私もよく麦の精白方法知らないので、あまり氏政のことを言えませんがね。

作手古城まつり 幟旗新調

2013年02月21日 | 奥三河
新城市作手地区にある亀山城。

当ブログを御覧になる方には近くの「古宮城」の方にどうしても興味を奪われてしまうかもしれませんが、亀山城も相当スゴイ城だったりします。


亀山城は、戦国時代に作手を本拠地に岡崎や豊川、新城などの一部地域を治め、長篠の戦いでは長篠城に籠城し武田勢を相手に奮戦した奥平氏の居城です。
しかしながら、武田の手が入っているのか主郭に対して馬出っぽく西と東に郭があったりとなかなかマニアック。
先の写真のように虎口の土塁の土木量たるや相当なもの。

古宮城さえ近くになければ、もっと評価されていい城かと。

ま、そんなけ近くにある古宮城の縄張ヲタっぷりがすごい、ってことなんでしょうけど。

さて、そんな亀山城では、毎年5月に「作手古城まつり」が開催されます。


設楽原鉄砲隊の演武や城郭解説などもありまして、なかなか見所満載です。
最近では歴史ブームもブームではなく観光の一ジャンルとして定着してきた感があることなどから、かなりの人気の祭りとなってきております。
実際、昨年度は過去最高の人出を記録したそうですし、自分も家族を連れて亀山城まで行ったものの駐車場が無く、新生児を抱えてシャトルバスにも乗れないために、あえなく帰宅する羽目に。

そんな古城まつりを盛り上げる幟旗が古くなってしまい、使用不可能なものも増えてしまったか。
で、今回幟を100本新調するそうでして、なんと、その申し込みを現在つくで手作り村で行っているとか!!

もちろん、速攻で申し込みました。


1本2千円。

紅白あるそうですが、平家の落武者伝説がある我が家としては当然「赤」を申し込みました。

今年の古城まつり、是非見に行かねば。

追伸
 予定の2倍の200本を上回る申し込みがあったそうです。
 嬉しい限りですね。


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新東名新城IC付近 道の駅名称公募中

2013年02月14日 | 日記
本業多忙と長篠近辺の歴史が袋小路に迷い込んでしまい、なかなか更新できていませんでしたが、sniperさんがコメント付けしてくださった「道の駅」名称について。

新東名の愛知県内区間の開通が後1~2年となっております。
なんと長篠付近にもインターチェンジができるのです!


※新東名新城東地区NEWS画像無断参照

と、いうことは、今以上に全国から長篠合戦を見学しやすくなる訳です。

素晴らしい。。。(涙)

さて、このインターチェンジを降りたすぐのところに、新城市が道の駅を開設する予定だそうです。
このブログをご覧の皆様には、
「武田勝頼が長篠城から織田・徳川連合軍と戦うために設楽原決戦場へ向かう途中の経路と思しきところから南下した辺り」
と、表現したほうがわかりがいいかと。

この道の駅。
現在、名称を公募しています。↓(新城市役所の公募HP画面へ)
http://www.city.shinshiro.lg.jp/events/index.cfm/detail.7.30149.html

折角なので、このブログをご覧の歴史好きの方々もご応募されてはいかがでしょうか?

sniperさん的には、「長篠」しか考えられない!とのことでした。

ちなみに私的には、
「長篠設楽原」も捨てがたいです。それぞれ戦いの形態が違うのと、遠方から訪れる人にとって、長篠城と設楽原決戦場は少し離れた場所ですので、そこをわかりやすくする、という考え。
その他、「道の駅 馬防柵」もありか?

いや、細かすぎて伝わらないかもしれませんが
「道の駅 騎馬隊は無かったかも」
「道の駅 鉄砲一体何丁?」
「道の駅 強右衛門のギャランドゥー」
と、いうのも考えられます。

採用されたらどうしよう。。。

赤羽根城 ― 正確には北赤羽根屋敷 ―

2013年02月06日 | 落城戦記
作手赤羽地区にある赤羽根城。
黒谷屋敷とも呼ばれる北赤羽屋敷の周辺に先日行きました。

仕事で行ったのですが赤羽根へ行くと聞いた瞬間、
『あの赤羽根城のか!』(ゴォォォォォ!!)
と、頭の中で炸裂。

※ゴォォォォ!!っていうのは、『花の慶次』の緊迫したシーンへ移る前のコマの絵的な奴です。

同行者に「赤羽根城って近くにありますかね?」と、聞いたところ、
「え・・・、そんなところに城あるって初めて聞きました。」
と、聞き返されました。

地元の人でもそりゃ知らんわな、というレベルのこの城。

※赤羽根公民館の近くにある天神社の前付近がそれだとか。現在、遺構は滅失しています。


※公民館となりにあるお寺。

なんでこのようなマイナー城に私が萌えたのかといえば、
『奥平氏、武田から徳川へ。深夜の決死の大脱走。』
の際に登場するからです。

簡単に申し上げますと、
新城市作手南部を拠点とする奥平氏は岡崎、豊川、新城にも勢力を伸ばしますが、今川、徳川、武田といった巨大勢力に挟まれて、自立までには至りません。武田の圧倒的な武力の前に心ならずも屈してしまう奥平家ですが、武田家に馴染めずにいたとき、巨星信玄が死亡します。
自家の勢力を守るため徳川氏は、奥平氏を必死に誘降します。

この当時、大名の勢力圏の周辺部は直接支配ではなく、その地域を治める小領主を味方につけることが主流でした。そのため、小領主達の動向如何では、一気に勢力図が変わることもあったそうです。

徳川家康は自分の正室の長女を妻に差し出す条件までつけて奥平氏を誘い、奥平氏も寝返ることを約束します。
しかし、これは、奥平家が巨大な武田勢の最前線で戦い続けることを意味し、武田に差し出した人質が犠牲になることも覚悟の上、という大変重い決断です。

しかも、この奥平が徳川に内通した、ということが、武田の中にもそれとなく伝わります。
徳川家康が武田信玄時代に奪われた長篠城を武田勝頼から奪還した直後、長篠城救援に向かった武田軍の裏を掻くように家康は逃走します。
この情報を漏らしたのは誰だ?と、詮索が始まり真っ先に疑われたのが奥平貞能(さだよし)。
実際、情報漏らした訳なんですが、貞能は武田援軍の総大将武田信豊の居る塩平城(現在の玖老勢コミュニティセンター)へ召還されます。

まぁ、ここで息詰まる問答が繰り広げられ、危うく虎口を脱する貞能ですが、本拠地の作手へ帰っても疑う武田からカマをかけ続けられます。が、見事にそれも乗り切り作手から額田宮崎まで一族大脱走を果たすわけです。
その際、奥平貞能・貞昌親子と奥平貞勝(貞能の父、貞昌の祖父)が合戦に及ぶなど、かなり一族間で複雑な様相を見せます。

この辺りは別に詳しく書くつもりなのですが、そのときの登場人物の心理状態を自分なりに想像するためには、まだ現地視察と資料の突合が不足していますので、それらの整理が終わったときに。

で、その後、徳川の援軍とともに作手にいる武田軍を攻撃。
この際、武田が築いた古宮城は支えきれず自焼落城。
武田軍は、赤羽根城、大和田城、島田城と次々と後退させられます。

ここで赤羽根城が出てくるのです。


現在はこんな道ですが、こんな感じのところを武田軍が必死に逃げていったということでしょうか?

しかし、この後も武田軍は作手地域を確保したことが文献からもわかるので、一体、この話はなんだったのか。
別の話が取り紛れたのか、一旦攻撃だけはして奥平家は放棄したのか。
この辺りはもう少し調べてみたいです。

でも、「風になびく葦」として大国の狭間で揺れ動くことしかできなかった「山家三方衆」というのが通説となっていますが、私はもう少し自分たちの意思というものがあったのではないかと考えています。
むしろ、大国にしても気を使わなければならない領主達であり、世上で言うほど、そんなに弱っちぃ人達ではなかったのではないか。

そういう視点で色々調べているんですが、調べれば調べるほどわからないことが増えていきます。
困ったもんです。

清正じゃない方の加藤 ~ 加藤嘉明 ~

2013年02月02日 | 戦国逸話
 ちょっとネタに詰ったので、名将言行録の気になったネタから。

 戦国時代で加藤、といえば『清正』。

 が、相場ですが、同時期に活躍した武将に加藤嘉明がいます。

※出典 ウィキペディア

 誰?
 
 と、言わないであげてください。

 この人、織田信長が本能寺で文字通り『炎上』してしまって後、織田家の主導権を巡って羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳合戦で大活躍し、『七本鑓』の一人として賞されています。(七本槍が実際には9人いたとか、そういうところをツッこむのは別の機会に。。。)

 また、豊臣秀吉の死去後、石田三成に恨みを持つ豊臣子飼いの7人の武将が三成襲撃を企てます。
 この時の七将にも参加してたりします。 
 嘉明は、最終的に会津四十万石まで出世しますから、大したものです。 
 ちなみに、清正も嘉明も、自分の死後、子どもの代で江戸幕府から領地召し上げを喰らっています。

 と、なると、
 「あ~、アレ誰だっけ?賤ヶ岳の合戦の七本鑓で、石田三成襲撃の武将で子どもの代で駄目になった豊臣秀吉子飼いの武闘派戦国武将で、加藤・・・。」
 「清正?」
 「えーと、それじゃないんだよな。」
 「だって、賤ヶ岳七本鑓で七将襲撃で死後改易って言えば清正じゃねぇか!」
 と、友人同士で不和の原因にもなりかねない人な訳です。

 この場合「伊予松山城作って会津で40万石」と付け加えれば「清正」ではなくなるんですけど、そんなの覚えられないよ!、このままじゃ俺友人無くしちゃうよ!とご不安のアナタには以下のエピソードをご紹介します。 

『焼火箸』

 家臣達がたき火をして火箸を焼けた灰の上に立てて置き、(熱せられた)火箸だとは知らずに誰かが触って驚くのを見よう、と、いうイタズラを考え、火箸をよく熱して誰か来るのを待っていた。

 そしたら、なんと主君の嘉明がやってきて、知らずに火箸を取ってしまった。

 手から煙が立ったが嘉明は騒がず、灰に「一」の字を書いてから、火箸を灰に差し込んでから、何事も無かったように、いつもと同じような体で皆と談笑した。
 その後、医者にかかって治したが、犯人を捜すこともなく、そのままとなった。


 いやいや、豪快なエピソードです。

 焼火箸ドッキリを仕掛けようとしたら、主君が来ちゃった、という、ある意味、逆ドッキリが発生してしまった訳です。

 意図せず。
 
 しかも、原文では「手より烟立ちしかども」。
 手から煙出たって・・・。
 ほんなら「じゅ~」と音も出るだろうし、ちょっとした焼肉パーティー的な匂いが立ちこめたのかも知れません。
 
 その現場に居合わせた部下の動揺たるや、相当なものだったでしょう。

 嘉明は騒がなかったようですが、医者に見せたくらいですから相当な重傷です。
 
 触った瞬間『あっつ!』と思ったんでしょうけど、それで騒ぐと戦国武将としての自分のプライドが許さなかったんでしょう。手から煙だしながら「一」なんて書いてしまったようです。

 余計なことを。。。

 「物語常の如くして」ということですが、そんな酷い火傷した状態だから、さぞかし痛かったことでしょう。
 『嗚呼、早く冷やしてぇ。でも、でも、ここで俺が騒いだらこいつら一生俺のことを『ひとり焼肉』とか変なアダ名つけるだろうから、ここは我慢せねばぁぁぁぁ!』
 そんな心境だったと想像してしまいます。

 戦国時代の武将に産まれなくてよかった。
 そんな気にさせられてしまうエピソードです。

 これからは「あの、賤ヶ岳七本鑓で石田三成七将襲撃で死後改易された、あの、加藤・・・。ひとり焼肉の方!」て、言えば通じます。

 多分。