前から奥平の歴史を資料から探っているのですが、ずーっと疑問に思っている一つの文書があります。
※奥平家家紋 軍配団扇
それは、愛知県史資料編10の天文16年(1547年)に採録されている1627の文書です。
8月25日 今川義元、奥平仙千代・同貞友に、三河国山中の新知行を安堵する。
一六二七 今川義元判物写 松平奥平家古文書写
参河国山中新知行之事
右、医王山取出割(刻カ)、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也、弥可専勲功状如件、
天文十六
八月廿五日 今川義元也 治部大輔 判
作手仙千代殿(奥平定能)
藤河久兵衛殿(奥平貞友)
私は詳しくは判りませんが、どうやら
『医王山砦を攻撃した際、忠節をぬきんでるならば(たので?)、先の約束どおり、なんかあっても、あの土地のことについては、永く間違いなく保障するので、もっと手柄を立ててくれよ』
と、言っている様子。
そこで、私が参考にさせていただいている上に、このブログにコメントをつけてくださる『歴探』高村様のHPを拝見すると、
『三河国山中新知行のこと。右は、医王山砦の際、忠節にぬきんでるべきことについて、先の判形をもって給与の上、当国は東西の紛争で時によって変化があるとはいえ、あの地のことは永く相違ないように。ますます勲功を専らにするように。』
とのことです。
「就可抽忠節」の部分ですが、既にぬきんでたのか、これからぬきんでるのか、が、素人の私にはよくわからないところなんですが、歴探様の解釈では「可」があることから「ぬきんでるべき」となるため「これから」っぽいと解釈してよいのかな?と、思います。
ちなみにこの文書、奥平貞能(定能)が11歳のときくらいの文書になります。
さらに、不可解なことに、この翌年、奥平貞友は今川に叛乱を起こし、奥平貞能は父の貞勝によって今川家の人質にされています。(愛知県史資料編10 1654文書)
実はこのブログを書くまで、私は「ぬきんでた」と解釈してたので、既に勲功を貞能・貞友が挙げたのだ、と、考えていました。しかし、ブログ書いてる最中に、「いや待てよ。ひょっとしてこの文書っちゃ、約束手形なのか?」と気づいたわけです。要は今川義元に「砦落としたら山中の地をくれるよね?」と確認したところ、「ああ、落としたらね。」と保証してもらった文書の可能性もある、と気づいたわけです。
ちなみに、この文書で疑問なのが
①奥平貞能の年齢
②奥平貞勝と貞能親子の関係
③奥平貞友の立ち位置
の三点です。
①ですが、奥平貞能は11歳のときの文書になります。
当時の元服は15歳前後らしいですので、10~11歳で活躍することも考えられなくも無い。
でも、現在の年齢で言えば9~10歳の子どもが・・・?と、いうのが疑問です。これは、この文書を「既に砦を落とした」と解釈していたので、そんな若い子どもが既に兵を率いて活躍したの?と、考えたことが発端です。
②ですが、この後、今川義元は奥平貞勝宛に文書を発給しています。しかも出家前の『奥平監物』名義あてで。この時点で当主が貞勝だとすると、何故貞能あてに領地安堵の文書が発給されたのかが疑問です。
同じような疑問を持ったのでしょう。この文書を旧作手村史(補記:『中津藩史』を参照にしていると思われる。)では貞勝宛てと解釈しています。しかし、その後の義元⇒貞勝宛文書の愛知県史資料編10 1654文書で「千々代為人質出置」という文言が出てきており、「仙千代を人質として出し置き」と読めるので、1年前に出された文書の『仙千代』とは『千々代』と考えて間違いはないと思えます。そうなると県史の解釈が正しいことになります。
③ですが、なぜ仙千代と貞友宛なのか。
実は、翌年、今川家に貞友が叛き、仙千代は今川家の人質となります。そして貞友の裏切りに対して素早く貞勝が人質を出して忠誠を誓ったことに対しての、今川義元発奥平貞勝宛の礼状が1654文書なのです。
そして、後に貞友貞友の兄彦九郎(3/12に貞友が射殺されたと誤記していましたので訂正します。)は貞勝に騙されて射殺されます。そして、貞勝はそのことも今川義元に褒められています。
この愛知県史資料編10の1627文書は、時系列で奥平家の文書を並べると宛名が非常に異質なのです。
それで、ひときわ目立つので気になってしょうがない。
その理由を1年半くらい、ずーっと考えていたのでした。
で、解明されたらブログに書こう、と、思っていたのですが、これが、全く解明できない。
仕方なしにマンガなどを思いついたので書いたりしていたのです。
私は、3年前に奥平家の歴史を読んでいて、一つ思いついたことがあります。
それは『奥平貞勝、貞能親子は仲が悪かったのではないか?』と、いうことです。
なぜかと言うと、今川家滅亡後は徳川家に臣従した奥平家ですが、武田家の奥三河侵攻に伴い武田家に臣従を余儀無くされます。
その際、隠居していた筈の奥平貞勝が突然発言して武田家臣従を決めてしまっています。
貞勝次男で貞能の弟、常勝はそのかなり前に奥平家を出奔して武田家に仕えますし、奥平家の筆頭重臣和田家が突然武田家に出奔するなど、奥平家内部ではゴタゴタしているイメージがありました。
また、武田家を裏切って徳川家に再度臣従する際、貞勝は武田家、貞能・貞昌親子は徳川家へと主君が別れてしまいます。この時のエピソードを読んでいると、明らかに貞勝と貞能は意思疎通を欠いています。
この辺りを真田家の昌幸・信繁(幸村)と信之のように家を残すため、苦渋の選択をした、との伝承を取っているものもありますが、これは、明らかに後世の作り話でしょう。最終的に貞昌が長篠合戦で籠城して徳川家康の長女亀姫を貰い徳川家の一員となったので、奥平家の不都合な部分を画すためだと思います。
そんな観点で愛知県史資料編を読んでいくと、後に奥平家が今川に叛いた際、貞能は高野山に追放され、貞勝は谷に引きこもって今川家に許しを請うている文書が出てきます。これは貞勝が今川家に許しを請うており、貞能のせいにしているように見えます。
一体、なんでこの文書を今川義元は奥平仙千代、貞友の連名に与えたのか。
その前後の文書でこの連名が見当たらないのは何故か。
貞勝が貞能や貞友に対して冷たいのは何故か。
今川家は貞友の叛乱を奥平家全体の問題とは捉えていないのは何故か。
と、ここまで考えたとき、一つの仮説が思い浮かびました。
それは、幼少の仙千代を担いで貞友が奥平家を乗っ取ろうとし、それを貞勝は防いだのではないか。
だから、仙千代・貞友という連名の文書が突然発給され、その後は貞勝宛の文書しかなく、仙千代(貞能)は貞勝の強い影響力の基に置かれているのではないか。
今川義元が貞友討伐について貞勝を褒めていることも奥平家の当主として一族間の紛争を抑えた当主として認めたことを意味しているのではないか。
と、いうことです。
もっとも、ならば貞能を廃嫡して常勝などに継がせればよかったのに、という疑問もありますので、あくまで一つの推論にすぎませんが、この文書が意味する私の謎はかなりこの推論で解決されます。
さぁて、どうなんでしょうねぇ???
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※奥平家家紋 軍配団扇
それは、愛知県史資料編10の天文16年(1547年)に採録されている1627の文書です。
8月25日 今川義元、奥平仙千代・同貞友に、三河国山中の新知行を安堵する。
一六二七 今川義元判物写 松平奥平家古文書写
参河国山中新知行之事
右、医王山取出割(刻カ)、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也、弥可専勲功状如件、
天文十六
八月廿五日 今川義元也 治部大輔 判
作手仙千代殿(奥平定能)
藤河久兵衛殿(奥平貞友)
私は詳しくは判りませんが、どうやら
『医王山砦を攻撃した際、忠節をぬきんでるならば(たので?)、先の約束どおり、なんかあっても、あの土地のことについては、永く間違いなく保障するので、もっと手柄を立ててくれよ』
と、言っている様子。
そこで、私が参考にさせていただいている上に、このブログにコメントをつけてくださる『歴探』高村様のHPを拝見すると、
『三河国山中新知行のこと。右は、医王山砦の際、忠節にぬきんでるべきことについて、先の判形をもって給与の上、当国は東西の紛争で時によって変化があるとはいえ、あの地のことは永く相違ないように。ますます勲功を専らにするように。』
とのことです。
「就可抽忠節」の部分ですが、既にぬきんでたのか、これからぬきんでるのか、が、素人の私にはよくわからないところなんですが、歴探様の解釈では「可」があることから「ぬきんでるべき」となるため「これから」っぽいと解釈してよいのかな?と、思います。
ちなみにこの文書、奥平貞能(定能)が11歳のときくらいの文書になります。
さらに、不可解なことに、この翌年、奥平貞友は今川に叛乱を起こし、奥平貞能は父の貞勝によって今川家の人質にされています。(愛知県史資料編10 1654文書)
実はこのブログを書くまで、私は「ぬきんでた」と解釈してたので、既に勲功を貞能・貞友が挙げたのだ、と、考えていました。しかし、ブログ書いてる最中に、「いや待てよ。ひょっとしてこの文書っちゃ、約束手形なのか?」と気づいたわけです。要は今川義元に「砦落としたら山中の地をくれるよね?」と確認したところ、「ああ、落としたらね。」と保証してもらった文書の可能性もある、と気づいたわけです。
ちなみに、この文書で疑問なのが
①奥平貞能の年齢
②奥平貞勝と貞能親子の関係
③奥平貞友の立ち位置
の三点です。
①ですが、奥平貞能は11歳のときの文書になります。
当時の元服は15歳前後らしいですので、10~11歳で活躍することも考えられなくも無い。
でも、現在の年齢で言えば9~10歳の子どもが・・・?と、いうのが疑問です。これは、この文書を「既に砦を落とした」と解釈していたので、そんな若い子どもが既に兵を率いて活躍したの?と、考えたことが発端です。
②ですが、この後、今川義元は奥平貞勝宛に文書を発給しています。しかも出家前の『奥平監物』名義あてで。この時点で当主が貞勝だとすると、何故貞能あてに領地安堵の文書が発給されたのかが疑問です。
同じような疑問を持ったのでしょう。この文書を旧作手村史(補記:『中津藩史』を参照にしていると思われる。)では貞勝宛てと解釈しています。しかし、その後の義元⇒貞勝宛文書の愛知県史資料編10 1654文書で「千々代為人質出置」という文言が出てきており、「仙千代を人質として出し置き」と読めるので、1年前に出された文書の『仙千代』とは『千々代』と考えて間違いはないと思えます。そうなると県史の解釈が正しいことになります。
③ですが、なぜ仙千代と貞友宛なのか。
実は、翌年、今川家に貞友が叛き、仙千代は今川家の人質となります。そして貞友の裏切りに対して素早く貞勝が人質を出して忠誠を誓ったことに対しての、今川義元発奥平貞勝宛の礼状が1654文書なのです。
そして、後に
この愛知県史資料編10の1627文書は、時系列で奥平家の文書を並べると宛名が非常に異質なのです。
それで、ひときわ目立つので気になってしょうがない。
その理由を1年半くらい、ずーっと考えていたのでした。
で、解明されたらブログに書こう、と、思っていたのですが、これが、全く解明できない。
仕方なしにマンガなどを思いついたので書いたりしていたのです。
私は、3年前に奥平家の歴史を読んでいて、一つ思いついたことがあります。
それは『奥平貞勝、貞能親子は仲が悪かったのではないか?』と、いうことです。
なぜかと言うと、今川家滅亡後は徳川家に臣従した奥平家ですが、武田家の奥三河侵攻に伴い武田家に臣従を余儀無くされます。
その際、隠居していた筈の奥平貞勝が突然発言して武田家臣従を決めてしまっています。
貞勝次男で貞能の弟、常勝はそのかなり前に奥平家を出奔して武田家に仕えますし、奥平家の筆頭重臣和田家が突然武田家に出奔するなど、奥平家内部ではゴタゴタしているイメージがありました。
また、武田家を裏切って徳川家に再度臣従する際、貞勝は武田家、貞能・貞昌親子は徳川家へと主君が別れてしまいます。この時のエピソードを読んでいると、明らかに貞勝と貞能は意思疎通を欠いています。
この辺りを真田家の昌幸・信繁(幸村)と信之のように家を残すため、苦渋の選択をした、との伝承を取っているものもありますが、これは、明らかに後世の作り話でしょう。最終的に貞昌が長篠合戦で籠城して徳川家康の長女亀姫を貰い徳川家の一員となったので、奥平家の不都合な部分を画すためだと思います。
そんな観点で愛知県史資料編を読んでいくと、後に奥平家が今川に叛いた際、貞能は高野山に追放され、貞勝は谷に引きこもって今川家に許しを請うている文書が出てきます。これは貞勝が今川家に許しを請うており、貞能のせいにしているように見えます。
一体、なんでこの文書を今川義元は奥平仙千代、貞友の連名に与えたのか。
その前後の文書でこの連名が見当たらないのは何故か。
貞勝が貞能や貞友に対して冷たいのは何故か。
今川家は貞友の叛乱を奥平家全体の問題とは捉えていないのは何故か。
と、ここまで考えたとき、一つの仮説が思い浮かびました。
それは、幼少の仙千代を担いで貞友が奥平家を乗っ取ろうとし、それを貞勝は防いだのではないか。
だから、仙千代・貞友という連名の文書が突然発給され、その後は貞勝宛の文書しかなく、仙千代(貞能)は貞勝の強い影響力の基に置かれているのではないか。
今川義元が貞友討伐について貞勝を褒めていることも奥平家の当主として一族間の紛争を抑えた当主として認めたことを意味しているのではないか。
と、いうことです。
もっとも、ならば貞能を廃嫡して常勝などに継がせればよかったのに、という疑問もありますので、あくまで一つの推論にすぎませんが、この文書が意味する私の謎はかなりこの推論で解決されます。
さぁて、どうなんでしょうねぇ???
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古文書からだけの観点でいくつかご指摘しますと、奥平久兵衛尉(貞友)は、永禄3年に反今川方として氏真書状に登場します(ここの解釈を当時の私は誤っていたので、これは来週訂正します)。天文18年に謀叛が発覚した久兵衛は、弘治2年に今度は奥平彦九郎の逆心に絡んで登場します。この時「久兵衛尉事、内々可加成敗之処、令欠落之条、不及是非」とありますから、定勝が逃がしているようです。
ちなみに、翌年以降は「日近」と書いている義元がこの文書だけ「藤河」と当て字をしているように見えるのが気になっています。日近の別称として藤河という表記はあったのでしょうか。ないとすると、義元は苗字も把握しないまま慌しく判物を発行したことになります。もしご存知でしたら教えて下さい。
高村様から鋭い指摘と言われて素直に喜んでしまいました。
藤河(藤川)ですが、旧作手村史では、天文10年(1541年)12月5日付で今川より久兵衛尉が知行所として、藤川(岡崎市)の領地を受けたことによる、と、しています。
愛知県史で探しましたが、天文10年の文書は残念ながら採録されていないようです。
なんらかの史料に基づいて旧作手村史も記載されていると思われますので、こうした文書が何かにあるのだと思います。
日近と藤川の地理関係を調べるのを忘れており、場所が同一かどうかがわかりませんので、ちょっと家に帰ったらもう一度調べたいと思います。
久兵衛宛判物についてですが、戦国遺文今川氏編で天文年間を一通り見たところ掲載されていませんでした。ただ、1541(天文10)年近辺で奥平氏に対して今川義元が判物を出すというのは、うーん。ちょっと違和感がありますね。まだ後北条と交戦中ですし、西遠江近辺への文書発給が西限なので……。もしかしたら年欠文書で外されているのかも知れませんので、とりあえず今年秋の戦国遺文今川最終巻を待ちましょう。
ちなみに、古くなりますが、永正二年に今川氏親から奥平家に遠江に関する知行について文書が発給されています。(愛知県史中世3 283頁)この時の遠江は斯波氏のもので今川は実効支配していないと思われますので、切取勝手次第の文書だと思われます。
この文書を見たので、今回の天文16年文書も同じではないか、と、疑ったわけです。
天文10年を東の方から見ると、6月に駿府へ武田信虎が追放されてきたり、7月に北条氏綱が死去したりしていますね。義元はそっちに目が行っているような気がします。また、ご存知かも知れませんが、山紹さんという方のブログ『今川雑記』に詳細な年表がありますが、天文10年6月に「今川氏、奥平氏に三河山中の地を宛行う。『作手村誌』」という記述があります。作手村史にはこの文書も紹介されているようです。お互い繰り返しになってしまいますが、文書を見るまでは何とも言えないかなあと思います。
永正2年の遠江はほぼ今川方かと思います。明応年間から今川方の東遠への進出が始まっておりまして、1501(明応10/文亀元)年には浜松周辺も征圧されている状況です(斯波義逵の巻き返しもありますが、永正6年頃からです)。奥平氏に渡された土地は実際に給与されたと思います(約束手形だと「本意の上は~」とか「活躍してくれたら~」とか入りますが、あの文書はそれもないので)。
※完全に与太話ですが、奥平久賀斎が久兵衛尉の後身……って可能性もあるかとふと思いました。どちらも謎の人物なので。
作手村史をちょっと調べる必要がありますね。
近いうちに図書館で調べようと思います。手持ちはコピーしかないので。
久賀斎=久兵衛尉説は面白いですね!久賀斎は、奥平信昌の寛政重修諸家譜の項に家康とのやりとりで出てくる以外、私は知らないのですが、有名なんでしょうか?家康も習ってたということは、そこそこ三河、遠州のあたりでは有名な人だったんですかね?謎は付きませんね。笑。
彦九郎についてですが、久兵衛尉の兄ということは、定勝の次弟ということなのでしょうか。
もしお時間ありましたらお教え下さい。宜しくお願いします。