長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

作手への距離的イメージ

2013年04月27日 | 奥三河
古宮城が好きすぎて、作手地区を始めとする新城市が好きすぎて移住までしてしまった私です。
(現在は仕事の関係で名古屋に召還されてしまいましたが。)

※まだ下の息子がおらず、下の息子くらいの歳の娘と。

古宮城の関係である方と話をする機会が少し前にありまして、その際、尾張部で生まれ育った人の視点だと作手はどう?、といったことを聞かれまして、折角なので、ちょっと詳しく考えてみたいと思っておりました。
4月は生業がクソ忙しい状況となってしまい、なかなか考えることができなかったのですが、GWに入ったら考えたいと思っていたところでした。

あちこちの城や観光地を走り回って15万km。

※韮崎でぶつけられて今は無きフォレスター。


このようにあちこち運転してきた感覚から、
「名古屋起点で考えた場合、作手ってどこと一緒くらいだろうか。」
と、考えてみる。

ドライバーとしての感覚からすると、奥美濃、伊勢、掛川あたりを目的としたドライブを行うのと一緒くらいかな、と。
このカテゴリーは、当日思い付きでぷらっと出かける場所ではなく、少なくとも前夜までくらいに「あ、行こうかな。」と思いついて行く場所、という感覚です。できれば、朝8時台、最悪9時15分位までには出発したい日帰りスポット。

「ああ、遠出して楽しんで車も十分に運転してすっきりした。」
と、思える場所です。

京都だと行きすぎ、岐阜、知多、長浜だと近すぎ。この辺りだと、当日朝に「はっ。」と思いついて出発しても楽しめる、という日帰りスポット。岐阜、知多だと旅情が少し薄い。
実際、どんぴしゃで一致する場所、と、考えた場合、大津と松阪が該当しそう。

そんな分類を行った後、
「実際どうなんだ。」
と、思う。

幸い、最近ではネットで目的地と出発地を入力すると簡単に距離と時間が出る。
で、調べて見ました。

起点は、尾張名古屋は城で持つため名古屋城に。

すると、作手(高里)は『約80km。約1時間30分』との結果が。
では、私の中の同カテゴリーはどうなのか。

奥美濃 約100km、約1時間15分。※白鳥あたりです。
伊 勢 約133km、約1時間40分。
掛 川 約135km、約1時間45分。
と、いう結果となりました。

おお。
1時間半を挟んで15分前後の場所だったではないか。

では、注目の松阪、大津はどうなのかというと。
松 阪 約105km、約1時間25分。
大 津 約120km、約1時間30分。

おおおおお!
ほぼ一致。誤差は5分まで短縮されてますし、大津は時間で一致。

しかし、いずれも距離は100km。
作手の距離は80kmなので、距離の割には時間がかかる、ということがはっきりしました。

このあたりは、新東名高速道路の開通がなんとかしてくれる、というのが期待されます。
そうなってくると、知多、長浜、彦根と同じ「当日の朝『はっ』と」カテゴリーに入ってくることが考えられます。

まぁ、今日は、単純に時間感覚のみの話であり、行先の魅力としての分析まではしてないです。

人間の感覚って、案外、馬鹿にできないもんですね。

ゴールデンウィーク!

2013年04月27日 | 日記
やっとゴールデンウィークに突入です!

部署異動を経験しますと、GWが待ち遠しくなります。
慣れない業務に謀殺(これでは宇喜田)、いや、忙殺されておりますと一息入れたくなる。
そんな時にGWは救世主のように現れるわけです。

プールに突き落とされて、ようやく水面に顔が出て大きく息を吸うような感覚ともいうべきか。
異動していないときと、異動したときのGWの待ち遠しさには、若干差がある気がします。

しかし、気が付くとあっという間に終わってしまうのもGW。
ここは大事に使いたい。

城に関する調べものをどうしてもやりたいのですが、案外家族イベントなどで消費されていく日が多いのも事実。
余裕があれば、昨年度までの本業に関するまとめなども行いたいところですが、そこまで果たして手が回るか・・・。

まぁ、子どもが小さいうち、子どもが親になついてくれる時期は短い、と、先輩方から脅されているので、子どもと過ごす時間も大事しなければならないですしねぇ。
あと5年もすれば子ども達の世界ができて、親とべったり、という今のような状況は夢のまた夢になってしまうことでしょう。
それまでに、子どもを城で洗脳しておく必要があるのです。。。

そういえば、5月5日は長篠城でのぼりまつりが開催されます。
米沢から鉄砲隊がやってきて、口径のでかい雷砲をぶっぱなしますので迫力があります。
何度も足を運んでいる身としては、鳶ヶ巣山に登って音を聞いてみたり、武田勝頼本陣のあった医王寺で聞いてみたりすることで、実際、どのように戦闘に影響を与えるのかを、一人思いふけることも好きです。

今年は行けるかどうかわかりませんが、やっぱり気になるところです。

こんな風にあれこれ考えることのできる初日前の夜が、一番楽しいですね。

名古屋城本丸御殿建設現場

2013年04月20日 | 落城戦記
「お城行きたい。」

先週、名城公園に遊びに連れて行ったところ、名古屋城天守閣を指差して娘が言った。

※尾張名古屋は城で持つ。

堀を挟んで反対側にいたため、城へ行くには回り込まねばならない。
「お城と言うのは迷路みたいになっているから簡単にあそこには行けないんだよ。もうすぐ夕ご飯だから帰ろう。また来週来ようね。」と約束をして、その日は終わる。

金曜日娘を風呂に入れていると、
「城に行くんだよね?」と娘が念を押してくる。

『なんと・・・。』
娘は本当に城に行って見たい様子。
この千載一遇のチャンスを逃してはならない。

『娘に『城は楽しい』と植えつけなければならない。』
熱が醒めないうちに連れて行かねばならない。
絶対に。

本日、朝方娘が外で遊びたがっていたので
「じゃあ、お城行こう。」
と、いうと
「わーい。」と喜ぶ。

「わーい。」と内心喜んでいるのは父である。
『娘が城好きになってしまえば、これから先、行くのは城ばかり。ククク。』
と、悪い顔で笑う自分がいる。

とにかく常であれば娘のワガママは一切許さないのであるが、今日は特別。
孫を見る祖父のように優しい父と化す。

「お城って迷路なんだよね。」
と、先週父が発した何気ない一言を覚えて反芻している。

「そうだよ、お城は迷路なんだよ。よく覚えていたねぇ。」
と、大げさに誉める。
そう、全ては娘を城好きにするために。。。

そうこうするうちに二の丸へ入る枡形虎口(東鉄門~ひがしくろがねもん~)が現れる。


「ほら、綺麗な石だよね。」
と、切込ハギで並べられた石垣を指差す。この辺りの石垣は濃尾地震のときに崩れたらしいので、昔からそのとおりの積み方かどうかはわからないものの、見る人に「綺麗だ」と思わせるための意匠だと思われるため、
「来る人を綺麗だね~、と、思わせるためだよ。」
と、独り言のように言う。

娘はそのころ、歩道と車道を分けるコンクリの上を落ちないように歩いており、父の話どころではなさそう。
が、そんなことは関係ない。

父は年間パスポートを購入。
『これで、何度も城に連れてこれると言うもの、ククク。』
年パスは2千円。頻繁に訪れればお得。
ちなみに、中学生以下は無料なので娘は関係なし。

ちょうど『名古屋おもてなし武将隊』による催しが始まっていた。


「ほら、なんかやってるよ。見て行こうか?」
と、娘が興味を持つかと思って聞いてみると、
「早くキンキラのところに行きたい。」と、武将隊無視。

※キンキラ=金の鯱のこと。


父的には何やってるか位見たかったのですが、娘に促されて天守へ向かう。
まぁ、城そのものを純粋に好きになってもらいたい、というのが父の願いなので、武将隊より天守、という娘の姿勢は父にとって望外の喜び。

清正が石曳きをしている様子を再現した像の前で、
「同じ格好をしてごらん。」
と、水を向けるが、
「恥ずかしいから、嫌。」
と、拒否される。


そして、戦災でも焼けずに残った東南隅櫓の写真を撮っていると、堀に現在修復中の石垣の石が並べられているのを発見!


珍しいので写真を取っていると
「早くお城行こうよ。」
と、娘にせっつかれる。

そして大手馬出から表門をくぐる際に「ほら、高麗門が周りの塀の屋根と同じ高さ。これは初期型で珍しいんだけど、見栄えがあまりぱっとしないよね。」と、またしても独り言のように娘に一方的に話す。

で、とうとう再建中の本丸御殿が!


「綺麗だねぇ~。」と娘も言う。


戦災で焼けなければ、間違いなく国宝・世界遺産であり、名古屋が観光都市になっていたはずの建物。
賛否両論あるものの、当時の立て方を再現したものであれば間違いなく価値はあると個人的には思うので作った以上は大事にしてもらいたいもの。
本丸御殿建築を開始してからの名古屋城は見たことがなかったのですが、今まではだだっ広い広場だったのが一気に建物で埋まり始めており、興奮する。

当然のことながら建築現場訪問を行う。

※安全のため、見学にはヘルメットを。

中では立派な木が組み合わさる様が見学できます。


組み合わせる部分もしっかりとした仕事が。


素晴らしい。


娘的には高いところから見下ろす、というのが楽しかったようです。
そして、いよいよ娘にとって行きたかった名古屋城天守閣。
小天守から入るので「?」となっていたようですが、こういうつくりなのだ、と、説明をする。

で、建物の中で石垣を触らせたりして、迷路になっている様などを説明。

※石を割るために穴を開けた部分であることを説明中。

中にエレベーターがあることについて、娘も驚いておりました。
で、最上階から外を見下ろさせると、喜んでいる。
いつもならば絶対にモノなど買わないのですが、みやげ物店で「何か欲しいものがあったら買っていいよ。」と、言って、カピバラさんと金シャチがセットになった妙なキーホルダーを欲しがったので妙だと思いましたが娘がそれで喜ぶならばと買い与える。

その後、信長の絵などを見て「パパ、この人好きだよね。」などと言う。
さんざん、茶化している方ですが・・・。

娘的には金シャチそのものとご対面したかったみたいですが、屋根には登れないので会えないよ、と、説明をする。
不満そうでしたが仕方が無い。
でも、こんな写真撮影スポットがあるんですよね。


当初、前の人達が写真撮影をするのを待つ間、別のところを見に行って時間潰そうとしたら、列が伸びて娘に「だから並んでいればよかったのに。」と、なじられました。
が、金シャチに乗れて娘は大変喜んでおりました。

帰りは歩くの疲れた、座りたい、と、行っていたので仕方なしにおんぶ。
でも、まぁ、体力増強の錘代わりと思えばなんてことはない。

とにかく、娘が城に行きたいと自分で言い、一応楽しめた様子。
これからに注目です。

活字中毒

2013年04月16日 | 日記
こないだの土日でようやく引越しの後始末も9割がた終わりました。
最後の1割がなかなか強敵ですが、これが終われば人を呼べる家になる予定です。

さて、引越しに伴い新聞の購読を止めておりました。

ネットもあることだし、なんならこのまま止めてしまおうか。
そんなことを考えておりました。

そして新聞の無い生活を本日まで続けておりましたが、どうにもリズムがつかめない。

朝起きる⇒お湯を沸かす⇒新聞を取りに行く⇒朝飯を食いながら新聞を読む⇒着替え⇒出勤。
このリズムを社会人になってからずーっと続けているわけです。

よくよく考えても見れば、この習慣は中学生くらいまで遡ってしまう訳です。

うちは夕刊も取っていたので、夜も読む。
この習慣がひどくなったのが学生時代。

モテない貧乏学生にとって、飯時は新聞を読みながら、という風習に染まってしまいました。

そして気が付けば、読み物がないと飯時に退屈してしまう体質に・・・。

夕刊がない土日や新聞休刊日などは地獄。
食卓の上にある活字を読んでしまいます。

なので、どうでもいい勧誘チラシだの解説書だの。
とにかく目に入った活字を読まずには居られないのです。
そして、妻の話しかけに「うん、うん」言ってるのですが、聞いちゃいない。

たまに妻が「今聞いてないでしょ?」と聞かれて「うん。」と何を聞かれたか判らずに返事していることもある。

そういえば、昔、会社の同期とスキーに行く道すがら、目に付く看板などについて話をしているらしく「全ての目に入る看板を読み上げてるな。」といわれたことがあります。

数字を見ると3で割らずにはいられない人がいるそうです。

どうやら似たような症状で「字を見ると読まずにいられない人。」というのもいるような気がします。
そして、自分はそれではないか、と。

気が散りやすい性格なのかもしれません。
小学校時代、通知表に常に「落ち着きが無い」と書かれてたしなぁ・・・。

それもこれも、きっと活字中毒のせいだ。
たぶん。

そういうことにしといてください。

しんしろ戦国絵巻 ~なぜ作手亀山古城まつりが長篠設楽原合戦と関係するのか?~

2013年04月12日 | 奥三河
設楽原歴史資料館のフェイスブックを見ていて、今年もこの季節がやってきたことを知る。

火縄銃撃ちまくりの季節。


5月5日 長篠合戦のぼりまつり(鳳来:長篠城址)
5月12日 作手亀山古城まつり(作手:亀山城跡)
7月7日 設楽原決戦場まつり(新城:設楽原決戦場跡)

長篠合戦の発端から設楽原の決戦までの、それぞれの現場となった場所で祭が行われます。
折角長篠の戦関連について訪れるのであれば、上記の日を狙ってはいかがでしょうか?

ちなみに、長篠の戦いは5月21日(旧暦)。
5月にちなんだのが長篠合戦のぼりまつりと作手亀山古城まつり。
旧暦5月、新暦7月にちなんだのが設楽原決戦場まつり。

長篠の戦いで籠城していた現場が長篠城址。
長篠城の後詰として登場した織田・徳川軍と包囲していた武田軍が激突したのが設楽原決戦場。

鉄砲が三千丁なのか1千丁ばかりなのか?
武田の騎馬隊はいたのかいないのか?
様々な議論を呼んで、歴史好きのハートをわしづかみにしているのが長篠・設楽原の戦いです。

では、作手亀山城と長篠・設楽原の戦いの関係は?

歴史好きの方ならお解かり頂けると思いますが、一般の方だとイマイチご存知ないことが多い。
長篠城に籠城していたのは奥平貞昌(後の信昌)。
この奥平家の居城が作手亀山城なのです。

「なんだ、そんだけかい。」
と、思われた方々。

そんだけではありません。

奥平家は奥三河では当時最大勢力といってよく、この家の帰趨が奥三河地域の支配権と密接に絡んでいます。
長篠前夜は徳川家についていたものの、武田の侵略を受けやむなく武田方に。
しかし、信玄死去による武田家中の動揺とその隙を狙った織田・徳川方の猛烈な調略によって奥平家は武田から徳川に寝返ります。
その際、亀山城や古宮城といった作手城館群を舞台に、武田と奥平の間で緊迫したやりとりが行われます。見事に武田の監視の目を潜り抜けた奥平家は亀山城から大脱走し、武田軍を宮崎(岡崎市)で迎え撃ちます。徳川の援軍もやってきて武田軍を撃退。奥平家は徳川に臣従します。

武田勝頼にすれば「自分を軽く見て裏切った」奥平家が、これまた信玄時代にとったものの代替わりの際に奪い返された長篠城の城番として配置されたわけです。

「憎たらしいわぁ~。」
と、思って、つい入れ込んで拘ってしまい、織田信長の出陣を招いてしまった・・・、か、どうかはわかりませんが、長篠城に籠もった奥平貞昌にすれば、降伏しても殺されることが目に見えているだけに降伏できない。通常、籠城戦は1ヶ月程度持ちこたえれば名誉と考えて降伏することが多かったそうですが、この場合は特殊事情により降伏できない。
そのため、武田勝頼を結果的に足止めする形になり、設楽原決戦を招く結果となった訳です。

作手亀山は長篠前夜、と、言えるわけです。

こうした経緯を踏まえ、旧新城市・鳳来町・作手村が合併して新・新城市が誕生し、折角一緒になったのだから、と、連携してアピールすることを観光協会が始められたのが「しんしろ戦国絵巻」なのです。

実に意義深い。。。(感涙)


そういえば、長篠付近に住んでいて驚愕したのが、この地域の火薬消費量。
火縄銃の演武はしょっちゅうあるわ、手筒花火はガンガン打ち上げるわ、これだけ火薬を消費している地域って珍しいのではないかと思う。


名古屋では火縄銃撃つ、というと、人がわんさか集まってくるのですが、長篠近辺では当たり前すぎて普通。
始めは、このギャップに驚きました。

この火薬消費量と長篠合戦自体も結びつくといえば結びつきます。
長篠合戦で織田徳川連合軍が勝つ⇒織田信長本能寺で滅ぶ⇒諸々あって徳川幕府になる⇒徳川幕府のお膝元である三河地域は武器である火縄銃から派生する花火など火薬の消費について他の地域より規制が緩やか⇒手筒花火などの伝統文化が花開く。

と、いう図式です。

そんな様々な事情を踏まえた上で、実際に合戦の現場で火縄銃演武や合戦武者行列などをご覧いただけば、相当に迫力を感じていただけるのではないかと思います。

ぜひ。

部屋と引越しと私

2013年04月10日 | 日記
引越し。

※養生中の引越し前の部屋の様子。

モノが部屋に溢れております。

「○○が無い!」⇒ダンボールを開ける⇒あれこれダンボールを開ける⇒「見つからん!」⇒モノだけ床に散乱

と、いう悪循環が起こるのが引越し。
前回の轍を踏むわけにはいかない。

なので、かなり慎重に箱詰めを行い、事細かに中身を記載しました。

が、引越しの日が近づくにつれ、時間が無くなってくると
「とりあえず詰める。」
と、いう状況にならざるをえません。

で、結果的に「○○が無い!」という状況になっております。
どうせ溢れるならば、笑顔か愛にしたいのですが、残念ながら今回もモノが溢れることになりました。

なにせ、前の部屋より狭いのです。
引越しにあたり、ダンボールで10箱程度、本だの何だの整理したのです。

残念ながら「焼け石に水」ということわざを思い出すだけの結果となりました。

なんでこんな話をしているのかというと、「歴探」の高村様がコメントを附けてくださりました。
史料から奥平家と今川氏の関係を歴探で考察されています。(高村様すいません。私もリンク事後承諾となってしまいました。)

コメントに日近久兵衛と彦九郎の関係について話されており、私も一度しっかり調べたいな、と、思っていたので資料を探そう、と、思って立ち止まる。

『はて?あれはどこにしまったのか?』

コピーした資料を綴ったファイルの映像は頭に浮かぶのです。
そして、それを箱に大事にしまっている自分の映像も浮かぶのです。
でも、その箱をどうしたかに差し掛かると途端に真っ白になるのです。

仕方なしに箱を開けてみる。
すると、「しばらく開けない」と書いていないダンボールまで、妻が勝手に押入れにしまいこんでいる。

『ああ!このダンボールの本は、このダンボールの本だけは本棚に並べようと思っていたのに!』
と、憤慨する。

が、私も妻のいないときに勝手に「こりゃしばらく使わないな。」と判断してしまいこんだダンボールがあります。
後で妻が「ないない」言いながら探し回り、私がしまいこんだダンボールを見て開けて「あった・・・。」と言っていることもありました。

お互い様、ということなのでしょう。

しかし、肝心の頭の中で鮮明に浮かぶファイルが出てきません。
子供たちが寝ているので、あまりおおっぴらにガタガタとダンボールを探ることもできません。

残念ながら今度の土日を待つしかなさそうです。

これも引越しに伴う風物詩と思うしかないですね。

復活!

2013年04月09日 | 日記
長篠から引っ越してようやく新しい生活がスタートしました。
新たな部屋は1日から借りていたものの、引越しの手配がつかず7日日曜日に引っ越しました。

そう、7日。。。

昨日は、なぜか台風並みの低気圧が通過したんですよね。。。
そして、尾張は風が強いものの晴れ間がのぞいていたそうですが長篠付近は暴風雨だったんです。
引越しの日だと言うのに・・・。

荷物は濡れるしける。
作業者の効率は下がる。

大学時代、引越しのバイトをしていたことがあります。その経験から行きますと、晴れの日と雨の日では3倍ほど能力差があるような気がしていました。

果たして、引越しは9時からスタートしたのですが、予定の3時で全て終了、という約束を大幅に超過し2時の段階で新城発。終了は20時でした・・・。

3時で終わってくれれば、トイレの便座を自前のウォシュレットに付け替えられる、と、目論んだのですが、当然できる訳が無い。なので、今週は冷たい便座に座らなければなりません。

作業が長引いたため、昼前には出発するはずが昼にかかり、子供たちが腹を空かせる。困っていたところ、お隣さんが「うちで食べてきん。」と言ってくださる。期せずして、アパートの子どもが居る四家庭が集合して最後に集まることができました。

ここまで仲良くなる関係は、都会ではちょっと考えられません。
本当に新城は住みよい街だったな、と、実感しています。

さて、本日も残業後に飯を食い、その後すぐには寝付けないのでダンボールを開けて中身を整理し、一つ潰しました。とりあえず、1日1段ボールを最低、と、考えています。
しかしまぁ、本業の方はえらいことになってまして、爆弾低気圧の中にいるような感じです。もっとも、職場までの距離が近いので助かりますけどね。

そういえば。
最近、全く更新していないのでアクセス数も下がってるんだろうなぁ、と、7日にタブレットでブログを見てみたら「1066」という謎の数字が・・・。
なんだかよくわかりませんが、何かで突然爆発しています。昨日は「797」ですので、そのうちに沈静化するものと思われますが、コメント欄が荒れている訳ではないので、炎上したわけではなさそうです。

今回はアクセス解析機能もないため、一体何が閲覧を呼び込んだのかさっぱりわかりません。
折角お越しいただいたので、ちょくちょく覗いていただければ幸いです。

常連の方々も今後とも益々のご贔屓を。