長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

佐賀城

2013年10月29日 | 落城戦記
もう、相当前の旅。そう、お盆の城旅、
最後の城は佐賀城。
いまさらながらご報告。

『この歳で佐賀城を見ることができるとは!』

定年退職後にキャンピングカーで日本全国を巡って城を見ることを夢見ていたりする訳ですが、その年齢くらいまでになら無いと、きっと見られないだろうと思っていた城、佐賀城。

佐賀城と言えばコレ。
鯱の門。

石垣の上に立ってますが、通常、城郭施設は、登ってきた敵が活動できてしまうような部分を減らすため、石垣の天端ぎりぎりまで建てるのですが、鯱の門はかなり石垣の端から引っ込んで建てられているのがわかります。

平和な時代に建設したので、まぁ、ええやろ、と、石垣から控えて建築したそうです。

が、そういいながら、佐賀の乱で銃弾を撃ち込まれていたりする。。。


やっぱり城は堅固に造った方がよろしいかと・・・。

そして中に入る。
えらいこと立派な建物がある、と、思うと、それは、「本丸御殿」を復元したものでした。

熊本城、名古屋城でも復元していますが、佐賀城でも復元していたとは知りませんでした。

と、いうか、どちらかというと本丸御殿復元では先輩格。
二階建て、という変わった造りをしています。
何でも江戸も後期の頃、鍋島直正という名君が仕事をする時間を惜しんだため、とりあえず家と職場が近いほうがいい、的な感じで住まいに職場をぶち込んだらスペースが足りずに上に伸びざるをえなんだ、ということで2階建てになったようです。で、大変に広々とした感じ。
ここは結構拘って造られたそうで、釘隠しなどの意匠は写真や資料が残っていないので、無理にどこかのものを作るのではなく、取り繕わない、などの、徹底した「復原する」という姿勢が立派でした。下手に「こんな感じじゃない?」みたいなもので覆われて、皆が「ふーん、こんなんだったんだ。」と誤解させないようにしている配慮。
我々のような旅人には嬉しい限りです。こうした姿勢を是非多数の史跡でも取り入れていただき、中途半端なものや、全く無かったものを勝手に作り出したりすることは止めていただきたいものです。こちらも誤解するので。

中には、ボランティアガイドの方々がかなりおり、私達の頼んだ方は滞在時間を確認されて、目的や出身地を確認されてからのガイドとなりました。
ガイドの鏡!

我々は20分~30分というお願いをしましたが、女性の方で最近デビューされたとかでしたが、きちんと抑えるところを抑えて話をされるものですから、我々も『この人ならば』と好感を持ちましたので、あれこれ質問をしていましたら、実に1時間半くらいかかりました。
が、結局、ガイドの方の質によって我々も時間調整してしまいます。良いガイドの方に当たれば、多少他の見学スポットを潰してでも、そこでじっくり見たい、という思いになる訳です。

2階建てで込み入った造りだったと聞きますので、資金的な問題か、はたまた、現在の法令との関係でもあるのか、全てを復原するには至っていないそうです。

※空き地あり。この空き地には建物がみっちりあったということですね。

そして、生き残った建物も自由に撮影して良いとの事。
ブログやらFBやらラインやら全盛の時代にはありがたい配慮です。

※質実剛健ですなぁ。どこかに移築されていたものだったと聞いた気もしますが、数ヶ月前なので記憶が定かで無い・・・。

※こちらは再建された部分で殿様がいたあたり。現代の工場にもつながるレイアウトフリーの発想が活かされています。

ちなみに、佐賀の八賢人おもてなし隊なる人達がいました。
名古屋が発祥のおもてなし武将隊系だと思いますが、その八賢人が、幕末系なんですね。そういう意味では、武将隊ではない。
ただ、その面子の名前を聞いて「おお!」と思う人は、結構少なそうな・・・。
私的にはどうだったかと言いますと、

『大隈重信』これは有名ですよね。早稲田大学創立者。
『江藤新平』佐賀の乱で有名な法務官僚。歴史資料集に晒し首の写真が掲載されていたため、私的には強烈なインパクトがあるお方です。
『鍋島直正』閑叟の名前の方が有名ですよね。財政を立て直してアームストロング砲作ったりと開明的ですが、少々オタク的な主君。
『副島種臣』読みにくい名前、ということで記憶しております。ただ、業績はよく知らない。
『佐野常民』私は名前は聞いたことある、というレベルです。日本赤十字の創立者だとか。間違ってるのはわかってますが中江兆民とかとイメージが被ってます。最後に「民」がついてるのが一緒なだけですけど。
『大木喬任』知ってますとも。少年少女日本の歴史で「教育は大事だ。」とか考えながら歩いているシーンとともに、日本に学制を作った人とされていたため、学校が嫌いだった私は、小学校時代に漫画を読んで、彼をひどく憎悪した記憶があります。未だに「奴のせいだ。」と思っています。しかし、実際には文部卿に就任した期間は短く、そこまで憎むべき相手ではないはず、と、紀伊や団にょに止められました。
『島義勇』すんません。幕末にあまり興味が無く、通り一遍のことしか知らない私としては知らない人です。
『枝吉神陽 』誰・・・?

まぁ、私は幕末以前が好きなんです。幕末は群像劇的なところがあるので、イマイチ感情移入がしにくいのです。
八賢人にはそれぞれキャラ設定があるのですが、結構酷い附け方してまして、江藤新平などは「KYキャラ」とか言われてます。まぁ、確かに周囲と相容れない点など、そういわれればそうだけど・・・、そこまでいわんでも、という感が。

時間の都合の関係で八賢人のショーは見られませんでしたが、まぁ、こうしたおもてなし系は歴史に興味を持つきっかけとしては良いと思いますが、我々のように既に興味を持ってしまっている人間には、資料等を読んで自分の頭で作り上げたイメージと乖離している場合が多いので、迷惑な部分もあるもんですから、あまり興味が無い、ということがあります。
名古屋のおもてなし武将隊などは、かなり勉強しているようなので、そのあたりは好感が持てますけど。
こればっかりはそれぞれ個人の受け取り方ですし、実際各地で武将隊ができてるところを見ますと受け入れられているのでしょう。

その後、一旦鯱の門をくぐり、外へ出てから天守台を目指して移動。
石垣の虎口に萌える。

こう来ての

こう。
狭い。と、圧迫感を感じます。

バカとなんとかは高いところへ登りたがる、と、言いますが、(あ、隠す方を間違えた。。。)天守台へ登らねば城へ行った気がしない。


落城!

※城址にある「○○城」の碑を撮影できた時点で落城としている。

※更地。

天守台から鯱の門が見える。


天守ではあるものの、櫓に近い位置に置かれているように感じます。

落城させて満足しましたので、本丸から二の丸へ向かう。

※本丸が見えます。

こんな長い石垣が。

圧倒されます。

二の丸へ我々が向かった我々は、こんなものを見つけます。

※被弾する紀伊守

さて、我々が二の丸に来たのには、理由があります。
今回の佐賀遠征に併せて予習をしてきた紀伊守と珠光改め団にょは、肥前の熊龍造寺隆信関係の小説が見つけられなかったため、幕末の小説を読んできたところ、佐賀の乱に嵌ったそうです。
そう、あのKYキャラ、江藤新平の話です。

佐賀の乱は、明治政府になり武士の特権が剥奪されたりで不満が溜まった人達の叛乱と言えば一番ざっくりとした説明でしょう。彼らの暴発を止めに言った江藤新平は逆に大将にされてしまいます。
結局、江藤は負けてしまいますが、新政府への批判を裁判で展開しようと逃げずに捕縛されるのですが、政敵だった大久保利通は、法治国家にあるまじき粛清裁判を行います。
法を捻じ曲げて、急ごしらえの裁判所で江藤新平に主張をさせる機会を与えず、いきなり死刑宣告して、なおかつ、速攻で執行。しかも、法に無い晒し首にしてしまいます。なんと、その写真を全国にばら撒いたので、私が歴史資料集で彼の晒し首を見ることになった、という訳なんです。

なおかつ、江藤は判決を受けて「裁判長、私は。」と反論しようと立ち上がろうとしたら捕縛していた役人に引っぱられて尻餅をついてしまったそうですが、これを「気が動転して取り乱した。」的な解釈で世の中に広められてしまったそうです。

哀れ江藤・・・。

この江藤に同情した紀伊守は、どうしても江藤の足跡を辿りたかったそうで、最近、江藤が反論しようとした場所が佐賀城二の丸の辺りらしい、と、聞いて、やってきたのです。
そして、彼は、江藤の気持ちを理解したかったため、再現しようとしました。


※6秒で終わりますので是非ご覧ください。

気が済んだようです。

こうして、我々の佐賀の旅は終わりを告げた。
が、一人だけ終わっていない男がいた。
家族に嘘をついて参加した男を残して・・・。

現代に蘇る鳥居強右衛門 ~縁起のいいらしいまち新城 百間滝編4~

2013年10月26日 | 縁起のいいまち新城
前回、無事に百間滝滝行を終えた我々。
そのまま滝行は終了するはずだった。
その時、我々は対岸の崖上方に何かがあることに気がついた。

岩のくぼみを祠に見立てたかのように何かが置かれている・・・。

いかにも曰くありげなそれは、我々の興味を曳いた。

「ひょっとして、さっきのワンカップの蓋みたいに、気が出ている部分を示しているのではないか?」
と、誰かが呟く。

滝壺に近い方が大きな力があるのではないか。
我々は、舌切り雀が用意したつづらで、何の迷いも無く大きい方を選ぶであろう。
そんな我々にとって『滝壺に近い方』ということは、大いに興味をそそるものであった。

皆目を凝らし、カメラのズーム機能を駆使して確認しようとする。
が、遠くて何かわからない。
この、わからないという状態は、かえって我々の意欲というか欲を刺激した。

率先してふんどしとなり滝壺で修養を行ったI泉氏は、それが何なのかを確かめ、そして、あわよくば最もパワーを得ようと、険しい岩を登り始めた。

※角度によっては全裸にも見える。

このとき我々以外人がいなかったのは幸いだった。
他人がいれば、新城市の防犯メールで不審者情報として流されたことであろう。

しかし、かなりの斜度でそそり立つ崖は、その険しさで人を寄せ付けない。
いにしえの修験者達も険しさに挑み、克服することで力を得ようとしていた。
その険しさはI泉氏の挑戦意欲をより強固なものとするのみであった。

岩にしがみつき、その手で栄光を掴み取らんとする姿は、我々にある光景を思い出させた。

鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)。

※画像出典:wiki

郷土の英雄鳥居強右衛門。
長篠合戦で長篠城を救った漢(おとこ)。

天下最強を謳われた1万5千の武田軍に対し、長篠城に籠城する徳川方の奥平貞昌は500。
父信玄の死去とともに自らを裏切り徳川方に走った奥平家。その憎き奥平が、自分が家督を継いだ直後に奪われた城、長篠城に籠城している。武田勝頼は怒りに燃え、落城させるべく猛攻撃を掛け、長篠城の大半を落として、なおかつ兵糧を奪います。
このままでは長篠城は落城する。
この危機を徳川家康につたえ、援軍を確実に送ってもらわなければならない。
そのため、徳川家康への使者を募りますが、使者として城を離れているときに落城してしまえば、逃げたと思われてしまうこともあって、誰も行きたがらない。そんな時、主君が困っている様を見て志願したのが鳥居強右衛門。
夜中に密かに豊川を泳いで脱出。岡崎まで向かい徳川家康に情報を伝えることに成功します。そして、織田信長とともに徳川家康が援軍を率いてやってくることを長篠城に伝えようと城に入ろうとしたところを怪しまれ、武田軍に捕まってしまいます。

「『援軍は来ない。』と言え。そうすれば城の士気は落ちて落城させられる。お前にも褒美をたくさんやるがどうだ?このまま殺されるよりも楽しい人生が待っていると思うが。」

捕まった鳥居強右衛門は、武田勝頼から取引を持ちかけられます。
強右衛門はしばらく考えた後、取引に応じます。

そして城の近くまで引き出された強右衛門。城に向かって叫びます。
「皆もの、徳川殿は織田信長の兵とともにまもなく到着する!それまで城を堅固に保つのだ!」
沸き立つ城内。
慌てたのは武田軍。強右衛門が全てを言い終わる前に彼をぼこぼこにしてひきずって行きます。

その後、彼は城の対岸で磔にされてしまいます。
しかし、磔にされた彼を見て感動した武田方の落合左平次は息も絶え絶えの鳥居強右衛門に言います。「貴公の忠義には感動した。今の姿をワシの旗指物としても良いか?」
強右衛門は了承します。
その旗指物がこの絵なのです。


その後、武田軍は織田・徳川連合軍に設楽原で決戦を挑むも、馬防柵と大量の鉄砲によって壊滅させられます。
そして、長篠城を守り抜いた奥平貞昌は、徳川家康の長女を嫁にもらい、織田信長から「信」の一字を貰い奥平信昌となり、幕府の要職を歴任し、子孫は家康の血を引くことから優遇されます。

奥平家の栄光の礎となった鳥居強右衛門は、未だに郷土の英雄として語り継がれているのです。
どれだけ褌からギャランドゥーがはみ出していようとも・・・。

必死に崖を登るI泉氏を見た我々は、いにしえの鳥居強右衛門もかくや、と、連想させずにはいられなかった。
そして、強右衛門のような最期にならないように、とにかく無事に帰還してくれ、と願う。

現場に到着し確認をした彼は、そのまま降り始めた。


ところが、この降り、加藤清正の石垣のように逆バンクだったため、降るのに難渋してしまいます。
ハラハラと我々が見守る中、なんとか降りるルートを見つけ無事に降りたときには、皆安堵のため息。
ほんと、良い子は真似しないでくださいっ!


ところで、例のモノは一体、何だったのか。

「金髪の水着のお姉ちゃんが印刷してあるクリアファイルだった。」
とのこと。

・・・。
あれだけの苦労の結果はそれか・・・。
これは一体何を暗示しているのか。

これだけにことをやったのだ。きっと何か良いことがあるのではないか!
それとも、全ては徒労に帰す、ということなのか・・・。

I泉氏の努力を賭けて、スクラッチを削る!


が、特に奇跡は起こらず・・・。

そして我らとしては、サマージャンボの当選を祈るのみ。


パワースポットが集中するという中央構造線城にある滝。
きっと石にも力が宿っているのでは無いか。
そう考えた我々は石にはさんで祈りを捧げた。
そして、滝の水を汲んだペットボトルにもラベル代わりに貼り付けて、その力を得ようと考えたのであった。



その後、滝の上流にあるポットホールへ差し掛かる。


ポットホールとは何か。

説明しよう。

河底や河岸の表面が硬い場合、表面に割れ目などの弱い部分があるとそこが水流による浸蝕のためにくぼみとなる。このくぼみの中に礫が入ると渦流によってその礫が回転し丸みを帯びた円形の穴に拡大する。その後川底が侵食の影響で下がり、甌穴(おうけつ)のできた場所は水面より高くなる。その結果、甌穴が地表に見られるようになる。

と、ウィキペディアが言ってました。

要は、川底に石が入り込んで水流でぐるぐると回っているうちに川底を削り、その後石がどっかへいってしまい穴が開いた部分、ってことです。
なかなか珍しいものだそうで、天然記念物になってるものもあったりするそうです。

そんな珍しいものなら御利益があるのでは?!

いにしえに、森羅万象全てに霊性を感じ、敬い奉ったアニミズム信仰のように、我々はなんらかの珍しいものがあれば、全てに御利益を感じずにはいられなくなっていた。

ポットホールに宝くじを浮かべてみる。


すると沈まない!

これは、これこそはきっと何かがあるのではないか。
我々は期待を胸にこの場を去った。

結果は・・・。
また来るから。
当たるまで来るから。

いよいよ次回、百間滝最終回!
「へだまの水」
堂々の完結へ!

残念な人

2013年10月23日 | 日記
ツイッターなどに犯罪自慢などを書いてしまい炎上する人が多いことから、ツィッターやFBなどがネットの「バカ発見器」などと言われたりしています。

それと同じように、仕事で『あ、この人は仕事ができない人だな。』と、すぐわかってしまうことがあります。
それは、
「『てにをは』を直す」
人です。

説明を受けた後、本筋と全く関係の無い文章を直す。
「ここは『は』じゃなくて、『を』だろう。」
と、いいだす『残念な人』。

そこが「は」だろうが「を」だろうが「において」だろうが文章の意味が全く変わらない。
なのに必死にそこを直すことに拘る残念な人がいます。

別に本筋で全うな指摘をした後、文章の流れが明らかによくなる形での修正を行う人は別です。
昔は、結構こういう上司がいたりして、困らされる部下がいたと聞きます。
私も参加の年齢幅がそれこそ50近い人から20前半の人があつまる研修の際、皆が年長者から発言をと促したら、いきなり「てにをは」を直しはじめた方がおり、私と意見があった年齢でいえば30くらいの人が速攻で「あ、そういうことじゃなくて。」と遮ったので、私も乗っかって内容の話を持ち出して、無駄な時間が発生することを防いだことがあります。

それ以外にも、昔、仕事で話を持っていくと、瑣末なことに拘って全く話が進まない違う部署の役職上位者がおりました。あるとき、重要な案件が発生したのですが話が通じない。業を煮やして所属長と直接話す機会を作ってもらいましたら、一瞬で終わりました。
その際、彼は全く関係の無い冗談を飛ばしたりして落ち着きが無く、明らかに挙動不審でした。
どうやら、彼が内容を正確に把握できずに上司にうまく説明できなかったようですが、それを我々の部署のせいにしていたようです。

哀れむべし。

自分より倍近い年齢の人で給料もたくさん貰ってる役職上位者がそれか、と、思うと怒りを通り越して悲しくなったものです。後に、その人は更に役職上位に進んだようですが、そこで仕事をパンクさせて、あえなくどこかに行ってしまいました。

そういや、あの人も「てにをは」を直したなぁ、と、思いだしたものです。無視していましたが。

そんなことも最近ではあまり見かけず、と、思っていたらいました!
久々に。

本業でヘルプで入った仕事があるのですが、これが、関係者が多い仕事なんです。
経験上、残念な人による無駄な作業が発生しやすいことを知ってましたので、予め予防策として「今回は前回の文章と基本的に同じであるべき状況なので、よっぽど間違いがある、あるいは、状況の変化により変えざるをえない点のみにしてください。」と記載して、例示的に私が直さなくても、他部署で誰かが絶対に直すであろう部分を直したものを送りました。

「修正ありません。」と即日返してくれる人もいる中、残念な人が現れました。

「日本」を「日本国内」に直してました・・・。

たまたま、発言や進行に気を配りつつも、議事録を後で起こさなければならない立場での長丁場の会議(これも昨年度までは発言・進行役と議事録係は別人だったのですが、人員削減の影響で私1人が担当することに・・・。)の後で、疲れ果てて帰ってきて、職場のメールを開いたら、こんな回答があったので、つい職場で怒り狂ってしまい、
「出たよ。バカ発見器に引っかかったバカがっ!」
と、大声で叫んでしまいました。

そのメールは、担当から上司に転送されて、回答されたようで、その中身も添付してありました。どうやら察するに、そこのトップから内容を大幅に修正するような指示が出されていたらしいのですが、私の予防策でそれができなくなった、ということが見て取れました。

直す必要も無いのに無理に直そうとすると、無駄が発生する。
こういう無駄は最も憎むべきものと考えているので、やんわりと念を押しても

「日本」を「日本国内」

に、したいのだそうです。
日本が長期低迷して久しいですけど、正直、原因はこういうところにある気がします。

ま、回答期限後、どこの所属がどういう修正をしたかの一覧表をつけて再度送付しますので、他の所属も「ああ、あそこにはバカがいるな。」と一目瞭然になるでしょうけど。

倍返しだ!

百間滝で滝行 ~縁起のいいらしいまち新城 百間滝編3~

2013年10月19日 | 縁起のいいまち新城
百間滝で滝行を行う人を見た
始めて。

いち早く褌となり、滝壺の状況を確認しに行ったのはI泉氏。
滝つぼに着くなり滝行を始めたのは前回に詳しい。

正直なことを言えば、この日は暑かったので少々羨ましい。
自分も入りたいくらいだった。

そこへ、着替えが終わったO蔵氏も飛び込み、褌ユニットが結成される。

二人して滝壺へ近づいていく。


そして、滝まで来ると、真剣に祈り始めた!
ありえないくらい真剣に。

※若干写真が暗くてすいません。

どうして、ここまで真剣になれるのか。
どうして、ふんどしでなければならないのか。
どうして、滝を見ると打たれずにはいられないのか。
どうして、どうして僕達は出会ってしまったのだろう。

前回の鳳来寺のときと同じく、やっぱりリフレインが叫んでました。
○ーミンんもびっくり。
しかし、それは私だけではなかったようだ。

その証拠に、ありえない位、皆笑っている。
この状況は、是非、動画で確認していただきたい。
迫力が伝わるので。



会長の高笑いが百間滝にこだまする。

  こだまでしょうか、
  いいえ、だれでも。

金子みすず。
きっとこの状況を予言していたのでは無いか。
そんな錯覚すら覚えてしまう詩です。

ちなみに、お好きな方にはたまらないこの画像。


この二人は祈りを捧げているだけで、森蘭丸と織田信長、春日弾正(高坂弾正)と武田信玄、井伊直政と徳川家康、といった関係ではありません。

彼らの宝くじにかける暑い、いや、熱い思いに我々は度肝を抜かれた。
唖然としながら、彼らが事故・怪我がないように無事に帰還することを祈るのであった。

そして無事に帰還。


滝で洗われた宝くじは、無事に回収されたのだった。

※滝の下流で洗った宝くじ。

この日はうだるような暑さ。
滝に打たれた二人はその涼しさに満足し、そして、百間滝に何らかの力があるならば、きっと、その力を最大限に得たであろうと確信した様子だった。

しかし、その効果は、我々の当初の目的から離れ、個人的な購入部分に向けられたものかもしれない・・・。

ちなみに、O氏は、
「足を引っぱられるような感覚が。」
とのこと。

河童がいたのだろうか・・・。
それとも、強い気に包まれた感覚だったのだろうか。
それは、わからない。
ただ、川は気をつけないと危険です、ということが言えるかと。

そして、そのまま滝行を終了し、次のポイントへ移るはずだったのだが・・・。

次回『現代に蘇る鳥居強右衛門』。
お楽しみに!

代休をとって名古屋空港へゆく。

2013年10月18日 | 日記
ここのところ土日の出勤が毎週。
秋のイベントシーズンなので仕方が無い。

20代の頃と違い、休みが無いとキツイ今日この頃。
独身時代は自分の時間は自分のものとしてコントロールできますが、夜泣きをする子どもを抱えている状況で夜の会議やら土日も仕事となると、休みが休みで無いので体が休まらないわけです。

で、代休を取って久々に平日休み。
どうしたものかと思い、子どもがこないだ飛行機が見たいといっていたことを思い出して飛行場にでも連れて行こうかと思い立つ。

愛知県には空港が二つあります。
中部国際空港(セントレア)と名古屋空港です。

セントレアは国際線もあり、商業施設も充実しており遊べる空港という感じです。
名古屋空港は全国でも唯一だったかと思いますが、県営の空港。現在はフジドリームエアラインが根城にして国内線を飛ばしており、自衛隊基地色を薄めています。

さて、どっちに行ったものか。

自分の家からは名古屋空港の方が近いがセントレアの方が確実に遊べる。
が、セントレアの物価は高い。
最近通帳をチェックしたところ、支出超過に陥っていることが判明し(そりゃそうだ。あんなに旅行へ行きまくっていれば。)、ドッジラインか松方財政に匹敵する緊縮財政を余儀無くされている我が家としては、物価の高いセントレアは避けたい。

車のガソリン残量を見ても、少ないので名古屋空港にしました。

昼に名古屋空港へ到着し、
「さぁ、飛行機だよ!」
と、子どもにデッキから見せると、飛行機が全然飛んで無い・・・。

セスナやヘリがたまに飛んでく程度。

子ども達は明らかに退屈そう。
妻も「全然飛んで無いじゃん・・・。」
と、軽く非難してくる。

おかしい、出張での利用なども含めて何度か来ているが、ここまで飛行機が飛んでないのは経験がないが・・・、と、思い、ふと時刻表を見ると、14時台に発着便が集中していることが判明。

そりゃそうだ。

昼発着の飛行機の便なんか利用する客などいるわけが無い。
自分の利用状況に置き換えてみれば、行きは午前早い時間発、帰りは午後夕方発がいいに決まっている。どうも、自分は飛行機の動きが少ない時間帯に来てしまった様子。
これが国際線もあるセントレアならば、そこそこ動きのある空港だったと思うのですが、国内線の名古屋空港ではもともとの便数も少ないのでしょう。

静かな空港になっておりました。。。

「セントレアへ行き直そうか・・・。」
名古屋高速を使えば1時間強程度掛ければいけないことは無い。
が、帰りの渋滞も予測される。

悩んだ挙句、空港の国際線のターミナルを改装したショッピングモールで買い物を済ませたら帰ろう、という結論になりました。

建物が元空港施設だけあって、ショッピングモールにあるまじき堅牢さを誇っているのがアピタエアポートウォーク。ショッピングモールと言えばイオンですけど、ここのアピタは空港隣接と言う好立地もあってか、中のテナントも充実しています。

そして何より、平日なので客が少ない。

土日に来ると、子どもに飛行機を見せて誤魔化しつつ、親が買い物して帰る、という、極めて現在の我が家に近い年齢層の家族を中心にごった返す店なのですが、開店してから5年を経た今は、客数が落ち着いており、平日は空いている。
子ども達に飛行機を見に行こう、と、飛行場の近くの駐車スペースへ移動している間、妻は一人で買い物に行き、久々の買い物に満足をしておりました。
子どもは途中で「飛行機飽きた。」と言い出したので、こちらは大変でしたが・・・。

3時過ぎくらいからは客もかなり増えましたが、こちらは帰宅時間。

空いているショッピングモールと言うのは、小さい子ども連れには助かります。

金持ちだったら、「お、折角だから熊本でも行ってくるか。ははは。キミ、切符をくれたまへ。」といいながら飛行機に乗って買い物するなんて芸当もできますが、本日のオータムジャンボの結果、今までとなんら変わらない生活をすることが決定しましたので、相変わらずの緊縮財政です。

オチムシャノミクスは、しばらく続きそうです。

お通夜

2013年10月16日 | 日記
季節の変わり目だからでしょうか。
この一週間でお通夜が二件。

職場のお世話になっている方のご親族がお亡くなりになられたので出席してきました。

こういうのは経験則上、一件発生すると続く、というのがあります。
今回もやはり。

しかも、土日を挟んでいたので解らなかったのですが、先の三連休の間にも実は葬儀が行われていたのが一件ありました。
ま、この方の場合、行くかどうかと言われると行かないだろう、という間柄ですから、まぁよかったのですけど。

うちは夫婦ともに両親が健在です。
私などはさほど連絡を入れておりませんが、葬儀に参列するたびに「ああ、ちょっとは親孝行をせねばいかんなぁ。」と、殊勝なことを考えるわけです。

特に本日の方は写真が趣味で、などと、言われるので「うちのオヤジもそうだなぁ。」などと考えるとなんとはなしに遺影に勝手に父親の顔を当てはめてみたりして「少しは考えないといかんなぁ。」などと思う。

父親には勝手に殺すな、と、怒られそうですが。

とは、いうものの、一晩寝ると仕事もあるし家庭もあるしで、ついつい忘れがち。

10年位前は、全くの他人事と考えていましたが、この歳になってくると少々身近に迫ってきます。
肌寒くなってきましたし、ちょっと考えさせられる夜でした。

百間滝 ~縁起がいいらしい新城 百間滝編2~

2013年10月12日 | 縁起のいいまち新城
新城市最大のパワースポットと呼ばれる百間滝。

その威力は、かの有名な分杭峠を凌ぐとも言われる。

何がどう凌ぐのか。
それは、誰も知らない。。。

しかし、その滝の入口にある「気」の出る場所を、いともあっさりと発見した我々は、自らの欲望をなすりつけると満足し、ようよう滝へ向かうこととなった。

もっとも我々には、依然として一つ問題があった。
「パワースポット」が何かよく解っていない、ということである。

「で、パワースポットって何?」
「気分が良くなるんでしょ?」
「え。体にいいんでしょ?」
「え、あれでしょ、アレアレ。」
「ああ、アレね。」

結果的に年配の夫婦のようなアレアレで片付く。
アレアレ詐欺。
それはオレオレ。

もっとも、この旅に参加している人は、基本的に
「宝くじの高額当選すればいいのに。」
という点で共通している。

それでいい。
百間滝に向かうのには十分な理由だ。

ところで、百間滝に向かうこの道は、東海自然歩道だったりする。
なので、意外と本格的な山道。
足元には注意が必要。

足を挫きたい方はハイヒールで、というレベル。

結構急な階段を3分程下ると平坦な道となり、滝の上流に出ます。


今回、参加者が多く列が長い。
すると先頭の方から
「縁起がいい!」
との声が。

「何が?」
と、慌てて他の者が先頭に追いつき理由を聞く。

「ヤマカガシが川の向こうへ逃げてった。毒蛇と遭遇しないで済んだ。運良すぎ!」

ヤマカガシ

※出典:wiki

毒蛇です。
自然が一杯のこの場所には、こうした危険も潜んでおります。
wikiによれば、元来おとなしい蛇だそうで、刺激しなければ噛まれないそうです。
要は、ワイワイ言いながら歩いていけば逃げていく性質ともいえる。

この時点で我々は百間滝に過剰なまでの期待をしており、いつの間にか「全てを良い方向に捉える。」という状態となっていた。超ポジティブ思考。
きっと大怪我して血だらけで腕が変な方向に曲がっていても、「死ななくて良かったね。」と皆で喜び分かち合うことだろう。
まさに卑弥呼もびっくりな集団トランス状態。
宝くじ、いや、パワースポットの威力とは恐ろしい。。。

さて、まずは滝を見ることでパワーを貰うこととする。
宝くじ当選を祈願するのに最適な、滝全体を見渡せる滝壺方面へ降りていきます。

途中、土石流でちょいと危険な感じになっている橋の前で立ち止まる。


なぜ立ち止まるのか?

いやね、この橋の先に見える淵に、白い鯉が見えると好運が訪れる、という話がある。」
とのこと。


そんな話をどこで聞きつけてくるのか不思議だが、皆、色めきだつ。

目を凝らして淵を見る。
退職日まで数日となった老刑事が、長年追いかけている犯人を見つけようとしているかのように。

執念深く観察していたM田氏が言う。
「あ、あれ、そうじゃないか。」


「何!」

私は必死に駆け戻った。
私も見たい。
宝くじ当てたい。(結局それだ。)

全速力で駆け戻り、
「ど、どこだ!?どこどこどこどこどこどこどこ?!」
と鬼の形相で聞く。
「ほら、あそこらへん。見えない?」

彼の指差す方向を、写真やカメラのズーム機能を駆使して迫る。


が、無情にも、ズーム画面には何も映らず。
無念。
確かにそれは彼に見えたのか。それとも気のせいだったのか。
それは誰にもわからない。。。
しかし、彼に見えたのであれば、彼だけに見えたのであれば、彼にはきっと好運が訪れるのでは無いだろうか。
ちなみに、ここまでは百間滝編1の動画に収録されています。

そうこうしながら、ようよう、百間滝が見える場所へ到着する。

すると、先発隊のうちで、既に祈りを捧げている者がいるではないか!

※鬼気迫るものがあります。

そして、速攻でスクラッチを削る!

※やはり鬼気迫るものがあります。

やはり若いと早い。
いろんな意味で。

そして、出るのも早かった。
結果が。

その結果は、彼らの苦境を救うことにはならなかった。
彼の苦しい生活は、次の給料日まで続くこととなった。
うなだれる彼らを見てオジサン達は思った。

そうそう僥倖は訪れるものじゃないんだよ。
地道が一番。

と、思っていると、振り返れば祈ってる奴がここにもいる!

※振り返れば奴がいる。織田裕二もびっくり。

さすがに年季が入っているだけに祈りの姿勢が良い。
さすが前回も鳳来寺で祈りを捧げたM田氏だけのことはある。

スクラッチくじにマイナスイオンを浴びせて削る!

その結果は、彼に住宅ローンの繰上返済をさせようとはしなかった。
肩を落とすM田氏。

『皆、必死かっ!』
と、心の中で呟いていると、目を疑う光景がそこに。

『くらしっくぱんつ褌。』
え、褌?
一体何をなさるのですか?
目が点になる一同を横目に、I泉氏は、若大将のゆうゆう散歩よりも、悠々と着替え始めた!

そして、ふんどしに着替えた彼は、準備運動を済ませると、やにわに川へ飛び込んだ!



※お好きな方にはたまらない素敵な褌姿は2:08あたりから。

豪快な水しぶきがあがる。
思わず歓声をあげる一同。

そして皆が見守る中滝壺に近づいていく。

※良い子は決してマネをしない。

そして、彼は滝に打たれ始めた。
プールに入る前にシャワーを浴びた少年のように。


なぜ男は上から流れ落ちる水を見ると祈りだすのか。
それは男だから。

それ以上の言葉はいらない。

ちなみに、この模様は動画で詳細にレポートしていますので、是非動画を御覧ください。

次回、お好きな方にはたまらない、褌百間滝はいよいよ佳境へ!
ご期待ください。

クイズ織田信長

2013年10月11日 | 日本史
新聞の下段広告を見るのが好きなほうですが、こないだ「え?」となるものを発見。



『そのときどうした?!クイズ歴史英雄伝 織田信長』

だ、そうです。

その説明書きとして
「今川義元が桶狭間で休んでいる。そのとき信長はどうする_?」
というくだりから始まり、
「信長の人生を、クイズに答えながらたどっていく、まったく新しい偉人伝!キミが信長になったつもりで、クイズに挑戦しよう。下克上の英雄「豊臣秀吉」も同時刊行!」
だ、そうです。。。

て、いうことは何か。
「今川義元が桶狭間で休んでいる。そのとき信長はどうする_?」

に、対して、

①いちかばちか襲う
②部下を捨てて高野山へ逃げる
③人質を差し出して降伏する

みたいな選択肢があって、正解は「①」みたいなことなのか。
だいたい、織田信長が今川義元がそこにいるかどうかを本当に認識していたのか?
たまたま今川勢を襲ったら、義元がいて討取っちゃった、的な説も最近よく聞くけど、本当にこの質問で良いのか?

しかも、後半になると
「一向一揆が長島に立て籠もっている。そのとき信長はどうする_?」
①兵糧攻めにして干殺す。
②降伏を呼びかけると見せかけて射殺したり、焼き殺す。
③水攻めにする。

正解は「②」
解説で、①は羽柴秀吉の三木城攻めのときです。③は秀吉がよくやります。
とか、問題になっちゃうのか?

そうなると、こんな問題とか、ひょっとしてあったりするのか?

Q1:「義父が面会を申し入れてきた。そのとき信長はどうする_?」
①拒絶する
②会うと見せかけて謀殺する。
③ラフな格好で訪れて、実際の面会時には正装する。

Q2:「比叡山が逆らった。そのとき信長はどうする_?」
①天皇に頼んで降伏を促す。
②燃やす。
③高野山を取り立てて対抗勢力にする。

Q3:「黒人を始めてみた。そのとき信長はどうする_?」
①洗わせる。
②相撲を取る。
③国へ返してあげる。

Q4:「荒木村重が離反した。そのとき信長はどうする_?」
①家族を皆殺しにする。
②理由を聞いてもう一度家臣にする。
③家臣団を調略して孤立させる。

Q5:「松永久秀が裏切った。そのとき信長はどうする_?」
①大事な茶器を差し出したので許す。
②爆死させる。
③焼き殺す。

Q6:「朝倉義景と浅井長政を滅ぼした。そのとき信長はどうする_?」
①将軍に頼んで調停を持ちかける。
②墓を作って丁重に弔った。
③髑髏に漆を塗って金で装飾して皆に見せびらかした。

Q7:「本願寺を大坂から退去させた。そのとき信長はどうする_?」
①今まで頑張った家臣だけど、ちょっとむかついてたからぼろくそに言って追放した。
②大坂城を作った。
③守るものがなくなったことを良い事に、宿敵の本願寺勢力の大虐殺を行った。

Q8:「本能寺に泊まったら明智が包囲した。そのとき信長はどうする_?」
①あらかじめ用意した脱出経路で逃げた。
②反撃して部下を降伏させ、逆に明智を滅ぼした。
③「しょうがないね。」と言った。

なかなか、子供向けとしては辛い内容が多いのではないか?
ポプラ社さん。
もっともポプラ社さんだから、たぶん子ども向けにちゃんとしているでしょうけど。

しかし、この広告読んで、朝から新聞読んで笑ってしまった。
すごいインパクトだ。
て、いうか、今日のブログみたいなことを考えてしまう人の方が少ないのか?

正解
Q1③、Q2②、Q3①、Q4①、Q5②、Q6③、Q7①、Q8③
なお、このクイズは当然のことながら、うらにわの妄想で実際の本の内容とは無関係です。

日本モンキーパーク

2013年10月09日 | 日記
愛知県犬山市には日本モンキーパークという猿専門の動物園+遊園地があります。

たまたま、うちの娘が見ていたテレビでモンキーパークのワオキツネランドをやっており、それを見たい、と、言った、ということが発端になり、猿を見るだけでは一日持たないだろうが、遊園地とセットならば、と、先日曜日に行ってきました。

午前中に遊具乗り放題券で、あれこれ乗せる。
そして、お化け屋敷を見つけた娘が言う。

「あそこ行きたい。」

「怖いと思うよ。」と言うものの、
「行きたい!」
と、強く主張なさるので、連れて行くことにしました。

が、結構昔ながらのお化け屋敷でして、光を当てていないオブジェなども見えるのですが、それが、相当にグロい。子供向けのものだけ光を当てており、大人向けの時にはグロい方に光を当てるのかな?などと考えて見ていると、


娘、しゃがんでるし。

どうやら、怖くなって隠れてしまったようです。
そうこうしていると、結構気味の悪いオブジェも現れるようになり、最後の方は私にしがみついて目を開けてない。

「怖いの?」と、聞くとうなづいてました。

出てきたときには娘はボロボロ。

※見るものの哀れを誘う様子に・・・。

息子は怖いとかを認識できていないようで、ぼんやりしていました。
どちらかというと場所見知りでおとなしい状況でした。

その後は色々な乗り物に乗って、娘復活。

そして、ワオキツネランドへ向かう。
ここでは間近にワオキツネザルを見ることができる場所。

最初、ワオキツネザルの尻尾をまねしたストラップが日よけ傘にぶら下がっており、「ご好評につき完売しました。」とのお知らせが。残念、と、思いながら、次の日よけ傘に進むとまたぶら下がっている。ストラップあるじゃん、と、思って見上げると、本物が座っており、尻尾がだらんと下がっていたのでした。

で、おさわり禁止なのですが、近くには居ることができる。


こんな感じで一番涼しいところに固まっている。


かわいい。


案外とこじんまりとしていますが、でも、間近に見れて面白かったです。

で、その日の夜、娘が妻に言うには、
「お化け屋敷のお化けが目に浮かんで寝られないの。」

だから止めたほうが良いと言ったのですけどねぇ・・・。

島津陣地跡・堀秀治陣地跡・唐津城

2013年10月09日 | 落城戦記
相当な前の話になりますがお盆の肥前遠征旅を。

名古屋城ではない名護屋城を訪問した後、名護屋城周辺に集められた各大名の宿営地がそれぞれあるらしいが、どうも、それが結構立派らしい、という情報を得る。

名護屋城の築造にかかわり、各地の大名に城郭技術が伝播していった側面もあると思います。
さて、最初に向かうは石曼子(シーマンズー)の異名で有名な島津義弘。


圧倒的な武力で魅力な惟新入道。
彼の陣地や如何に。


結構な藪の中にあって、地形はかなり読みにくくなっておりましたが、随所に残る石垣が当時を髣髴とさせてくれます。ただ、やはりどういった縄張プランだったかは、私の眼力の未熟さゆえだと思い益す、よくわかりませんでした。残念。

その後は堀秀治陣地跡に。

小牧長久手の戦いでは見事な駆け引きで、大敗を喫した羽柴中入り軍の中で異彩を放つ名人Q太郎、いや、久太郎の跡継ぎです。
豊臣政権では重要視されていた大名だけあって、かなり立派な陣地でした。

そして、こちらは島津陣地と違って、かなり整備されている!

入口が既に虎口。


陣地跡もこんな感じで露出展示。いい感じです。しかし、でかい。。。


城的な造りで、堀家の威光を見せ付ける造りとなっていました。


なかなか立派な造りで一見の価値あり。
そんな陣地でした。

その後、唐津城へ立ち寄る。


唐津城といえば天保の改革の水野忠邦。
唐津藩は長崎警固の役を務めるため、幕府の要職に就けないので所領は減る覚悟で浜松城へ異動願いを出して異動。その後老中まで登りつめ、天保の改革を行いますが、海防警固重視のために上知令で江戸大坂近辺の領地の幕府直轄化を推し進めたところ各大名から反発を受けて失脚。
部下に妖怪こと鳥居甲斐守耀蔵がいたりします。結局この子飼いの部下に寝首掻かれるのですが、後にひょんなことから復権したので、鳥居は水野に復讐されています。
まぁ、なんだか最近の会社組織にもよくあるような話で、現実味を帯びすぎて面白くない。。。

そんな唐津城。
写真を見ると立派な天守があるので、これは見にいかねば、と、車を急がせて訪問したのですが、聞けば、唐津城は天守台はあったものの、天守が建てられた記録がなく、復元天守はいわば想像の産物だそうです。
なので上記の写真は「こんなんあったらいいな。」的なものとか。
ムムム。

しかも、結局無理に天守を立てたためか、石垣が孕んでしまい現在修復作業中とか。

※ジャッキアップされてる城って・・・。

もう少し遠くから見るとこんなん。

※浮いてます。

珍しいものを見た、という気もしますが、でも、無かった天守なんだよね、と、思うと、少々がっかり感が。
各地で根拠の無い復元天守がたくさんありますが、案外本来の城の形を壊してまで造ってしまう場合も多く、城郭機能を楽しみたい縄張派としては、本来のものとは関係の無いもので本当はあったはずのものが見られなくなるのは悲しい。
むしろ、天守台の石垣をしっかりと保存して、なぜ天守が作られなかったのか、などをあれこれ考える方が私的には好みです。

とはいうものの、こればっかりは地元の方達の城に対する愛情ゆえの行動という部分もあるので、部外者がとやかく言う話ではない。

山全体が要塞化されており、海に突出した形となっており守りやすい。
近くの川を掘削して堀の形にしたそうで、城郭としてはなかなか強いことが想像されます。

ところで、唐津城といえば寺沢家。
寺沢家と言えば天草の乱で取り潰された家、と、私の頭にはインプットされています。
小学館の「少年少女日本の歴史」で天草四郎側になる住民達が寺沢家の年貢取立てが厳しいと嘆くシーンが焼きついているからです。

そんな回想はどうでもいい訳でして、とりあえず博物館になっている城内を見学。
そして、こんなものを・・・。


て、寺沢広高がこんな萌えキャラに・・・。

年貢取立て厳しいんじゃないのか、と、一瞬頭をよぎる。が、私の頭の中のシーンの寺沢家は、既に息子の代。ま、いいか、思いながらも、よくよく見ると剣の持ち方が変。ご愛嬌か。

模造天守最上階からの眺めは流石に良い。


丁度、そこにはガイドさんが見えて、色々と説明をしてくださいました。
たぶん、歴史好きかが高じてガイドというタイプではなく、地域おこしの観点からのガイドをやっている方のようで、コンパクトに唐津城や周辺情報を判りやすく説明してくださり、大変よかったです。(やはりボランティアガイド養成講座を受けていると、他の方の状況が気になります。笑。)

その際、唐津城の反対側の島に宝当神社という宝くじが当たることで有名な神社がある、との説明が。
そのときは、特に知らなかったので「ふーん。」という程度で聞いていたのですが、我々が宝くじの高額当選を祈願する旅をやる発端となった、新城市で宝くじの高額当選を連発する売り場は、どうやらここから猫を貰ってきたり、店の方が参拝に行ったりしているようでした。

「なんだ自分一人抜け駆けできたのに。」
と、黒い想いが、今になってよぎりますが、そんな自分に嫌気が差したりします。。。

さて、この建物の中の展示物で驚いたのがこれ。


なんだかわかりますか?


なんと、本能寺の変で信長を刺した鑓だそうです!

信長に一番鑓をつけた明智の家臣安田作兵衛の鑓だそうで、作兵衛は、本能寺の変の後、小牧・長久手の戦いの森長可を経て寺沢家に召抱えられたので、この鑓が伝わっているとか。私の不勉強でそんな伝承を持つ鑓があること自体知りませんでした。
嘘の来歴で残せる代物でもないので、きっとなんらかの根拠めいたものがあったのではないか。

そう考えると、この穂先をじっと眺めてしまいました。

※これで信長が突かれたかもしれないと思うと・・・。

やっぱり、城旅で何が一番面白いって、こういう思わぬ出会いに会うことです。
真偽はともかく、非常に興味を曳きました。

ちなみにこの作兵衛さん。晩年はできものができて本能寺の変の日に無くなったとか。信長の祟りだと言われていたそうです。恐ろしい。

そんなこんなで唐津城。


なかなか楽しめました。