もう、相当前の旅。そう、お盆の城旅、
最後の城は佐賀城。
いまさらながらご報告。
『この歳で佐賀城を見ることができるとは!』
定年退職後にキャンピングカーで日本全国を巡って城を見ることを夢見ていたりする訳ですが、その年齢くらいまでになら無いと、きっと見られないだろうと思っていた城、佐賀城。
佐賀城と言えばコレ。
鯱の門。
石垣の上に立ってますが、通常、城郭施設は、登ってきた敵が活動できてしまうような部分を減らすため、石垣の天端ぎりぎりまで建てるのですが、鯱の門はかなり石垣の端から引っ込んで建てられているのがわかります。
平和な時代に建設したので、まぁ、ええやろ、と、石垣から控えて建築したそうです。
が、そういいながら、佐賀の乱で銃弾を撃ち込まれていたりする。。。
やっぱり城は堅固に造った方がよろしいかと・・・。
そして中に入る。
えらいこと立派な建物がある、と、思うと、それは、「本丸御殿」を復元したものでした。
熊本城、名古屋城でも復元していますが、佐賀城でも復元していたとは知りませんでした。
と、いうか、どちらかというと本丸御殿復元では先輩格。
二階建て、という変わった造りをしています。
何でも江戸も後期の頃、鍋島直正という名君が仕事をする時間を惜しんだため、とりあえず家と職場が近いほうがいい、的な感じで住まいに職場をぶち込んだらスペースが足りずに上に伸びざるをえなんだ、ということで2階建てになったようです。で、大変に広々とした感じ。
ここは結構拘って造られたそうで、釘隠しなどの意匠は写真や資料が残っていないので、無理にどこかのものを作るのではなく、取り繕わない、などの、徹底した「復原する」という姿勢が立派でした。下手に「こんな感じじゃない?」みたいなもので覆われて、皆が「ふーん、こんなんだったんだ。」と誤解させないようにしている配慮。
我々のような旅人には嬉しい限りです。こうした姿勢を是非多数の史跡でも取り入れていただき、中途半端なものや、全く無かったものを勝手に作り出したりすることは止めていただきたいものです。こちらも誤解するので。
中には、ボランティアガイドの方々がかなりおり、私達の頼んだ方は滞在時間を確認されて、目的や出身地を確認されてからのガイドとなりました。
ガイドの鏡!
我々は20分~30分というお願いをしましたが、女性の方で最近デビューされたとかでしたが、きちんと抑えるところを抑えて話をされるものですから、我々も『この人ならば』と好感を持ちましたので、あれこれ質問をしていましたら、実に1時間半くらいかかりました。
が、結局、ガイドの方の質によって我々も時間調整してしまいます。良いガイドの方に当たれば、多少他の見学スポットを潰してでも、そこでじっくり見たい、という思いになる訳です。
2階建てで込み入った造りだったと聞きますので、資金的な問題か、はたまた、現在の法令との関係でもあるのか、全てを復原するには至っていないそうです。
※空き地あり。この空き地には建物がみっちりあったということですね。
そして、生き残った建物も自由に撮影して良いとの事。
ブログやらFBやらラインやら全盛の時代にはありがたい配慮です。
※質実剛健ですなぁ。どこかに移築されていたものだったと聞いた気もしますが、数ヶ月前なので記憶が定かで無い・・・。
※こちらは再建された部分で殿様がいたあたり。現代の工場にもつながるレイアウトフリーの発想が活かされています。
ちなみに、佐賀の八賢人おもてなし隊なる人達がいました。
名古屋が発祥のおもてなし武将隊系だと思いますが、その八賢人が、幕末系なんですね。そういう意味では、武将隊ではない。
ただ、その面子の名前を聞いて「おお!」と思う人は、結構少なそうな・・・。
私的にはどうだったかと言いますと、
『大隈重信』これは有名ですよね。早稲田大学創立者。
『江藤新平』佐賀の乱で有名な法務官僚。歴史資料集に晒し首の写真が掲載されていたため、私的には強烈なインパクトがあるお方です。
『鍋島直正』閑叟の名前の方が有名ですよね。財政を立て直してアームストロング砲作ったりと開明的ですが、少々オタク的な主君。
『副島種臣』読みにくい名前、ということで記憶しております。ただ、業績はよく知らない。
『佐野常民』私は名前は聞いたことある、というレベルです。日本赤十字の創立者だとか。間違ってるのはわかってますが中江兆民とかとイメージが被ってます。最後に「民」がついてるのが一緒なだけですけど。
『大木喬任』知ってますとも。少年少女日本の歴史で「教育は大事だ。」とか考えながら歩いているシーンとともに、日本に学制を作った人とされていたため、学校が嫌いだった私は、小学校時代に漫画を読んで、彼をひどく憎悪した記憶があります。未だに「奴のせいだ。」と思っています。しかし、実際には文部卿に就任した期間は短く、そこまで憎むべき相手ではないはず、と、紀伊や団にょに止められました。
『島義勇』すんません。幕末にあまり興味が無く、通り一遍のことしか知らない私としては知らない人です。
『枝吉神陽 』誰・・・?
まぁ、私は幕末以前が好きなんです。幕末は群像劇的なところがあるので、イマイチ感情移入がしにくいのです。
八賢人にはそれぞれキャラ設定があるのですが、結構酷い附け方してまして、江藤新平などは「KYキャラ」とか言われてます。まぁ、確かに周囲と相容れない点など、そういわれればそうだけど・・・、そこまでいわんでも、という感が。
時間の都合の関係で八賢人のショーは見られませんでしたが、まぁ、こうしたおもてなし系は歴史に興味を持つきっかけとしては良いと思いますが、我々のように既に興味を持ってしまっている人間には、資料等を読んで自分の頭で作り上げたイメージと乖離している場合が多いので、迷惑な部分もあるもんですから、あまり興味が無い、ということがあります。
名古屋のおもてなし武将隊などは、かなり勉強しているようなので、そのあたりは好感が持てますけど。
こればっかりはそれぞれ個人の受け取り方ですし、実際各地で武将隊ができてるところを見ますと受け入れられているのでしょう。
その後、一旦鯱の門をくぐり、外へ出てから天守台を目指して移動。
石垣の虎口に萌える。
こう来ての
こう。
狭い。と、圧迫感を感じます。
バカとなんとかは高いところへ登りたがる、と、言いますが、(あ、隠す方を間違えた。。。)天守台へ登らねば城へ行った気がしない。
落城!
※城址にある「○○城」の碑を撮影できた時点で落城としている。
※更地。
天守台から鯱の門が見える。
天守ではあるものの、櫓に近い位置に置かれているように感じます。
落城させて満足しましたので、本丸から二の丸へ向かう。
※本丸が見えます。
こんな長い石垣が。
圧倒されます。
二の丸へ我々が向かった我々は、こんなものを見つけます。
※被弾する紀伊守
さて、我々が二の丸に来たのには、理由があります。
今回の佐賀遠征に併せて予習をしてきた紀伊守と珠光改め団にょは、肥前の熊龍造寺隆信関係の小説が見つけられなかったため、幕末の小説を読んできたところ、佐賀の乱に嵌ったそうです。
そう、あのKYキャラ、江藤新平の話です。
佐賀の乱は、明治政府になり武士の特権が剥奪されたりで不満が溜まった人達の叛乱と言えば一番ざっくりとした説明でしょう。彼らの暴発を止めに言った江藤新平は逆に大将にされてしまいます。
結局、江藤は負けてしまいますが、新政府への批判を裁判で展開しようと逃げずに捕縛されるのですが、政敵だった大久保利通は、法治国家にあるまじき粛清裁判を行います。
法を捻じ曲げて、急ごしらえの裁判所で江藤新平に主張をさせる機会を与えず、いきなり死刑宣告して、なおかつ、速攻で執行。しかも、法に無い晒し首にしてしまいます。なんと、その写真を全国にばら撒いたので、私が歴史資料集で彼の晒し首を見ることになった、という訳なんです。
なおかつ、江藤は判決を受けて「裁判長、私は。」と反論しようと立ち上がろうとしたら捕縛していた役人に引っぱられて尻餅をついてしまったそうですが、これを「気が動転して取り乱した。」的な解釈で世の中に広められてしまったそうです。
哀れ江藤・・・。
この江藤に同情した紀伊守は、どうしても江藤の足跡を辿りたかったそうで、最近、江藤が反論しようとした場所が佐賀城二の丸の辺りらしい、と、聞いて、やってきたのです。
そして、彼は、江藤の気持ちを理解したかったため、再現しようとしました。
※6秒で終わりますので是非ご覧ください。
気が済んだようです。
こうして、我々の佐賀の旅は終わりを告げた。
が、一人だけ終わっていない男がいた。
家族に嘘をついて参加した男を残して・・・。
最後の城は佐賀城。
いまさらながらご報告。
『この歳で佐賀城を見ることができるとは!』
定年退職後にキャンピングカーで日本全国を巡って城を見ることを夢見ていたりする訳ですが、その年齢くらいまでになら無いと、きっと見られないだろうと思っていた城、佐賀城。
佐賀城と言えばコレ。
鯱の門。
石垣の上に立ってますが、通常、城郭施設は、登ってきた敵が活動できてしまうような部分を減らすため、石垣の天端ぎりぎりまで建てるのですが、鯱の門はかなり石垣の端から引っ込んで建てられているのがわかります。
平和な時代に建設したので、まぁ、ええやろ、と、石垣から控えて建築したそうです。
が、そういいながら、佐賀の乱で銃弾を撃ち込まれていたりする。。。
やっぱり城は堅固に造った方がよろしいかと・・・。
そして中に入る。
えらいこと立派な建物がある、と、思うと、それは、「本丸御殿」を復元したものでした。
熊本城、名古屋城でも復元していますが、佐賀城でも復元していたとは知りませんでした。
と、いうか、どちらかというと本丸御殿復元では先輩格。
二階建て、という変わった造りをしています。
何でも江戸も後期の頃、鍋島直正という名君が仕事をする時間を惜しんだため、とりあえず家と職場が近いほうがいい、的な感じで住まいに職場をぶち込んだらスペースが足りずに上に伸びざるをえなんだ、ということで2階建てになったようです。で、大変に広々とした感じ。
ここは結構拘って造られたそうで、釘隠しなどの意匠は写真や資料が残っていないので、無理にどこかのものを作るのではなく、取り繕わない、などの、徹底した「復原する」という姿勢が立派でした。下手に「こんな感じじゃない?」みたいなもので覆われて、皆が「ふーん、こんなんだったんだ。」と誤解させないようにしている配慮。
我々のような旅人には嬉しい限りです。こうした姿勢を是非多数の史跡でも取り入れていただき、中途半端なものや、全く無かったものを勝手に作り出したりすることは止めていただきたいものです。こちらも誤解するので。
中には、ボランティアガイドの方々がかなりおり、私達の頼んだ方は滞在時間を確認されて、目的や出身地を確認されてからのガイドとなりました。
ガイドの鏡!
我々は20分~30分というお願いをしましたが、女性の方で最近デビューされたとかでしたが、きちんと抑えるところを抑えて話をされるものですから、我々も『この人ならば』と好感を持ちましたので、あれこれ質問をしていましたら、実に1時間半くらいかかりました。
が、結局、ガイドの方の質によって我々も時間調整してしまいます。良いガイドの方に当たれば、多少他の見学スポットを潰してでも、そこでじっくり見たい、という思いになる訳です。
2階建てで込み入った造りだったと聞きますので、資金的な問題か、はたまた、現在の法令との関係でもあるのか、全てを復原するには至っていないそうです。
※空き地あり。この空き地には建物がみっちりあったということですね。
そして、生き残った建物も自由に撮影して良いとの事。
ブログやらFBやらラインやら全盛の時代にはありがたい配慮です。
※質実剛健ですなぁ。どこかに移築されていたものだったと聞いた気もしますが、数ヶ月前なので記憶が定かで無い・・・。
※こちらは再建された部分で殿様がいたあたり。現代の工場にもつながるレイアウトフリーの発想が活かされています。
ちなみに、佐賀の八賢人おもてなし隊なる人達がいました。
名古屋が発祥のおもてなし武将隊系だと思いますが、その八賢人が、幕末系なんですね。そういう意味では、武将隊ではない。
ただ、その面子の名前を聞いて「おお!」と思う人は、結構少なそうな・・・。
私的にはどうだったかと言いますと、
『大隈重信』これは有名ですよね。早稲田大学創立者。
『江藤新平』佐賀の乱で有名な法務官僚。歴史資料集に晒し首の写真が掲載されていたため、私的には強烈なインパクトがあるお方です。
『鍋島直正』閑叟の名前の方が有名ですよね。財政を立て直してアームストロング砲作ったりと開明的ですが、少々オタク的な主君。
『副島種臣』読みにくい名前、ということで記憶しております。ただ、業績はよく知らない。
『佐野常民』私は名前は聞いたことある、というレベルです。日本赤十字の創立者だとか。間違ってるのはわかってますが中江兆民とかとイメージが被ってます。最後に「民」がついてるのが一緒なだけですけど。
『大木喬任』知ってますとも。少年少女日本の歴史で「教育は大事だ。」とか考えながら歩いているシーンとともに、日本に学制を作った人とされていたため、学校が嫌いだった私は、小学校時代に漫画を読んで、彼をひどく憎悪した記憶があります。未だに「奴のせいだ。」と思っています。しかし、実際には文部卿に就任した期間は短く、そこまで憎むべき相手ではないはず、と、紀伊や団にょに止められました。
『島義勇』すんません。幕末にあまり興味が無く、通り一遍のことしか知らない私としては知らない人です。
『枝吉神陽 』誰・・・?
まぁ、私は幕末以前が好きなんです。幕末は群像劇的なところがあるので、イマイチ感情移入がしにくいのです。
八賢人にはそれぞれキャラ設定があるのですが、結構酷い附け方してまして、江藤新平などは「KYキャラ」とか言われてます。まぁ、確かに周囲と相容れない点など、そういわれればそうだけど・・・、そこまでいわんでも、という感が。
時間の都合の関係で八賢人のショーは見られませんでしたが、まぁ、こうしたおもてなし系は歴史に興味を持つきっかけとしては良いと思いますが、我々のように既に興味を持ってしまっている人間には、資料等を読んで自分の頭で作り上げたイメージと乖離している場合が多いので、迷惑な部分もあるもんですから、あまり興味が無い、ということがあります。
名古屋のおもてなし武将隊などは、かなり勉強しているようなので、そのあたりは好感が持てますけど。
こればっかりはそれぞれ個人の受け取り方ですし、実際各地で武将隊ができてるところを見ますと受け入れられているのでしょう。
その後、一旦鯱の門をくぐり、外へ出てから天守台を目指して移動。
石垣の虎口に萌える。
こう来ての
こう。
狭い。と、圧迫感を感じます。
バカとなんとかは高いところへ登りたがる、と、言いますが、(あ、隠す方を間違えた。。。)天守台へ登らねば城へ行った気がしない。
落城!
※城址にある「○○城」の碑を撮影できた時点で落城としている。
※更地。
天守台から鯱の門が見える。
天守ではあるものの、櫓に近い位置に置かれているように感じます。
落城させて満足しましたので、本丸から二の丸へ向かう。
※本丸が見えます。
こんな長い石垣が。
圧倒されます。
二の丸へ我々が向かった我々は、こんなものを見つけます。
※被弾する紀伊守
さて、我々が二の丸に来たのには、理由があります。
今回の佐賀遠征に併せて予習をしてきた紀伊守と珠光改め団にょは、肥前の熊龍造寺隆信関係の小説が見つけられなかったため、幕末の小説を読んできたところ、佐賀の乱に嵌ったそうです。
そう、あのKYキャラ、江藤新平の話です。
佐賀の乱は、明治政府になり武士の特権が剥奪されたりで不満が溜まった人達の叛乱と言えば一番ざっくりとした説明でしょう。彼らの暴発を止めに言った江藤新平は逆に大将にされてしまいます。
結局、江藤は負けてしまいますが、新政府への批判を裁判で展開しようと逃げずに捕縛されるのですが、政敵だった大久保利通は、法治国家にあるまじき粛清裁判を行います。
法を捻じ曲げて、急ごしらえの裁判所で江藤新平に主張をさせる機会を与えず、いきなり死刑宣告して、なおかつ、速攻で執行。しかも、法に無い晒し首にしてしまいます。なんと、その写真を全国にばら撒いたので、私が歴史資料集で彼の晒し首を見ることになった、という訳なんです。
なおかつ、江藤は判決を受けて「裁判長、私は。」と反論しようと立ち上がろうとしたら捕縛していた役人に引っぱられて尻餅をついてしまったそうですが、これを「気が動転して取り乱した。」的な解釈で世の中に広められてしまったそうです。
哀れ江藤・・・。
この江藤に同情した紀伊守は、どうしても江藤の足跡を辿りたかったそうで、最近、江藤が反論しようとした場所が佐賀城二の丸の辺りらしい、と、聞いて、やってきたのです。
そして、彼は、江藤の気持ちを理解したかったため、再現しようとしました。
※6秒で終わりますので是非ご覧ください。
気が済んだようです。
こうして、我々の佐賀の旅は終わりを告げた。
が、一人だけ終わっていない男がいた。
家族に嘘をついて参加した男を残して・・・。