今回は調べものが難航しているので、名将言行録トンでもエピソード紹介復刻版をお送りします。
戦国随一の有名武将織田信長。(今、BGMでダースベーダーのテーマが流れていることにしてください。)
信長と言えば様々な逸話に彩られ、今更取り上げるようなトンデモ系な逸話などあるのか。しかしそこは戦国の覇者、信長公。そんな我々の小さな不安など一発で吹き飛ばされます。さすが天下布武。さすが第六天魔王。全てを焼き尽くす男だけあります。
『根来法師』
織田信長が根来寺へやってきた時、法師達は、
「信長は器量の大きい人だと聞く。なので、できる限り大きな進物を贈ってみてはどうか。」
と話し合い、大きな餅を作って折詰にして進上した。
信長は馬上から折詰を見て、
「これは変わっとるがや。」
といって蓋をあけ、簪(こうがい=かんざし)に餅を2・3個突きさして自ら食べ、その他を家来達に
「食え」
と言って道にまき散らした。
道にある馬糞の上にも餅は散乱したが、全て家臣達が撒き散らされた餅を拾い上げ、有り難く頂戴しているのを根来の法師達は見て、「すごい大将がいたもんだ。」と感心した。
後に信長が根来へ攻め込んだ時、根来の法師達は恐れて、すぐに降伏した。
・・・。
この根来寺というのは、現在の和歌山県にあり鉄砲を大量に装備して信長を苦しめ、信長亡き後、豊臣秀吉に焼き討ちされて徹底的に壊滅させらました。(秀吉も焼き討ちやってるんですね。さすが部下。)そんな寺と対立する前に信長が会っていた時の逸話な訳です。
さすが人間五十年。やりたい放題の信長の面目躍如といった感があります。
なぜ部下に配る際に道に撒き散らすのか。
なぜ馬糞も落ちているというのに撒き散らすのか。
なぜ部下は馬糞が付いているにもかかわらず争って拾い上げたのか。
こうした我々の常識に捉われた疑問など鎧袖一触。そんな常識は焼き討ちしてくれるわ、とでもいわんばかりの信長軍団です。やはりこの現場に居合わせて、驚き呆れた根来法師達は、まだまだ悟りが足らなかったのでしょう。もはや教祖の位置にまで登りつめた信長とその崇拝者達の行動を宗教家であるはずの法師達は理解できなかった、といっても良いのかもしれません。そう、信長軍団にとって馬糞は、アンコと同じであり、むしろ「信長様は俺に、この俺だけには牡丹餅をくださったのだ!」と至福の喜びを感じていたに違いありません。きっとそうです。
その時点で法師達は既に信長に負けた、といっても過言ではありません。
この理解を超えた事態に対する恐れが、後に根来法師の降伏につながっているわけです。しかし、降伏の証に餅を献上することだけは、きっと避けたでしょう。
必ず信長は2・3口食って「喰え」と撒き散らすに違いないからです。
たとえそこに馬糞があっても。。。
ところで、この逸話に関して、愛知県、特に東三河在住の人達には「これって…。」と思い当たる節があると思います。
そう。
「餅投げ」です。
名古屋の嫁入りで昔は屋根から通行人に向かって菓子を投げましたが、現在ではほぼ絶滅した風習といえます。が、私が一番驚いたのは、長篠方面へ引っ越してきたら、何か慶事があると、餅を投げる風習がまだ残っていたことです。
餅をくばる、ではなくて、投げる、です。
ひょっとすると信長は、ただ単に餅投げしたくらいのつもりだったのかもしれませんが、根来寺付近では餅撒きの風習が廃れており、法師達は私と同じように「えええ!」と驚いたのかもしれません。
最後にこれだけは忘れてはいけない指摘が1点あります。
この馬糞餅のインパクトに紛れてしまっていますが、そもそもは、法師達の謎の行動が全ての原因だと思うのです。
『器量が大きい人だから、大きな餅を作りました。』
なんで!!?
戦国随一の有名武将織田信長。(今、BGMでダースベーダーのテーマが流れていることにしてください。)
信長と言えば様々な逸話に彩られ、今更取り上げるようなトンデモ系な逸話などあるのか。しかしそこは戦国の覇者、信長公。そんな我々の小さな不安など一発で吹き飛ばされます。さすが天下布武。さすが第六天魔王。全てを焼き尽くす男だけあります。
『根来法師』
織田信長が根来寺へやってきた時、法師達は、
「信長は器量の大きい人だと聞く。なので、できる限り大きな進物を贈ってみてはどうか。」
と話し合い、大きな餅を作って折詰にして進上した。
信長は馬上から折詰を見て、
「これは変わっとるがや。」
といって蓋をあけ、簪(こうがい=かんざし)に餅を2・3個突きさして自ら食べ、その他を家来達に
「食え」
と言って道にまき散らした。
道にある馬糞の上にも餅は散乱したが、全て家臣達が撒き散らされた餅を拾い上げ、有り難く頂戴しているのを根来の法師達は見て、「すごい大将がいたもんだ。」と感心した。
後に信長が根来へ攻め込んだ時、根来の法師達は恐れて、すぐに降伏した。
・・・。
この根来寺というのは、現在の和歌山県にあり鉄砲を大量に装備して信長を苦しめ、信長亡き後、豊臣秀吉に焼き討ちされて徹底的に壊滅させらました。(秀吉も焼き討ちやってるんですね。さすが部下。)そんな寺と対立する前に信長が会っていた時の逸話な訳です。
さすが人間五十年。やりたい放題の信長の面目躍如といった感があります。
なぜ部下に配る際に道に撒き散らすのか。
なぜ馬糞も落ちているというのに撒き散らすのか。
なぜ部下は馬糞が付いているにもかかわらず争って拾い上げたのか。
こうした我々の常識に捉われた疑問など鎧袖一触。そんな常識は焼き討ちしてくれるわ、とでもいわんばかりの信長軍団です。やはりこの現場に居合わせて、驚き呆れた根来法師達は、まだまだ悟りが足らなかったのでしょう。もはや教祖の位置にまで登りつめた信長とその崇拝者達の行動を宗教家であるはずの法師達は理解できなかった、といっても良いのかもしれません。そう、信長軍団にとって馬糞は、アンコと同じであり、むしろ「信長様は俺に、この俺だけには牡丹餅をくださったのだ!」と至福の喜びを感じていたに違いありません。きっとそうです。
その時点で法師達は既に信長に負けた、といっても過言ではありません。
この理解を超えた事態に対する恐れが、後に根来法師の降伏につながっているわけです。しかし、降伏の証に餅を献上することだけは、きっと避けたでしょう。
必ず信長は2・3口食って「喰え」と撒き散らすに違いないからです。
たとえそこに馬糞があっても。。。
ところで、この逸話に関して、愛知県、特に東三河在住の人達には「これって…。」と思い当たる節があると思います。
そう。
「餅投げ」です。
名古屋の嫁入りで昔は屋根から通行人に向かって菓子を投げましたが、現在ではほぼ絶滅した風習といえます。が、私が一番驚いたのは、長篠方面へ引っ越してきたら、何か慶事があると、餅を投げる風習がまだ残っていたことです。
餅をくばる、ではなくて、投げる、です。
ひょっとすると信長は、ただ単に餅投げしたくらいのつもりだったのかもしれませんが、根来寺付近では餅撒きの風習が廃れており、法師達は私と同じように「えええ!」と驚いたのかもしれません。
最後にこれだけは忘れてはいけない指摘が1点あります。
この馬糞餅のインパクトに紛れてしまっていますが、そもそもは、法師達の謎の行動が全ての原因だと思うのです。
『器量が大きい人だから、大きな餅を作りました。』
なんで!!?