長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

FM豊橋に県大の学生さん達と出ました!

2015年04月25日 | 古宮城
作手の戦国期の城下町を自主的に調査した素晴らしい学生さん達。

そんな彼らに藤本さんからありがたいお話が。
「折角ですから、学生さん達にラジオに出て作手の話をしてもらうって言うのは、どうでしょう?」

ラジオで話をするなんていう経験、なかなかないので喜んでいただき出演となりました。
色々と流れ的なところを説明するような感じで私も一緒に出していただけることに。


学生さん達は就活中のところ、万難を排して出てくれました。
そんな模様はこちら。
「スヤン♡コイトルorz」電波!城好きがこじれ気味
※youtubeに繋がります。

今回、私が出演するに当たって、
なんとコーナータイトルまで付いて、専用のジングルまで作ってもらってるし!
しかも、かなりかっこいい!(youtubeはスタジオ内音源なので残念ながら流れてません。)

いや、ありがとうございます。
びっくりです。笑。

さて、今回は、どちらかというと今まではゲストとして出ていましたが、DJのモエモエさんの隣で進行っぽい感じで座ったので、従来と違うためかなり緊張してしまいました。

そのため、youtubeで自分を見るとめちゃくちゃ落ち着きが無い・・・。

緊張で汗が出るんでしょうね、めがねがずり下がるので眼鏡を頻繁に上げるしぐさをしています。始まる前もめちゃくちゃ手が動いてるし。

それに引き換え、学生さん達の堂々とした受け答えときたら!
落ち着き払って、全く緊張感を感じさせず、話の内容もしっかりと組み立てられてます。

恥ずかしい限りです。
丁度、出演前に県大の先生が「自分、めちゃくちゃ話してるとき、相当動くんですよ。」と話して爆笑してましたが、人のこと笑えん自分に気がつきました。

進行を普通にこなしてるモエモエさんとか掛け合いを綺麗に流す藤本さんとかのすごさがわかります。
学生さん達もあっという間に時間が過ぎたと喜んでくれました。

その後、もっくる新城へ。
ちょっと開店から遅くなりましたが、ようやく来ました。噂にたがわぬ混雑。


ただ、見知った顔を見なかったので市外の客が多いのだろうな、と、推測しておりました。

その後、学生さん達と長篠城へ。


長篠城へ行く、と、行って特に抵抗が無いところがすごい。
しかも、ちゃんと事前に資料の準備までしてあるし。
そして、長篠城に着くなり第一声が、土塁と堀を見て

「かっこいい!」

土塁と堀を見てかっこいい、と、いう感想をすぐに言える人に会える事が嬉しいです。

そして、若いな!と、思ったのがこの図。


青春か!
と、ツッコミタクなる図。
野牛郭から豊川降りたら清流なので入りたいという欲望に素直に従う学生さん達と先生。
私も入りましたよ。そしたら川底の石が足ツボマッサージになるので激痛。
でも、足を冷やすとあっという間に体が冷える。この日は車の温度計が30度近くあったのですが、涼しく過ごせる。

川でかなりまったりした後、医王寺城へ。


今、新城市の地域自治区制度による市民活動交付金で櫓を新設したそうで、近くの木々が薙ぎ払われて大変見通しが利きます。素晴らしい!
また、風が出てきて涼しく虫が少ない時期だけに最高の眺めです。

その後、馬防柵や石坐神社を見学して、帰途に着きました。

学生の皆さん、先生。
そして藤本さんとFM豊橋の皆さん。
ありがとうございました。

戦国の三角関係

2015年04月22日 | 日本史
満光寺の鶏を調べていた際、「へぇ。」と思ったことがあります。

それは、
織田信長


徳川家康


武田信玄


この三人の三角関係状態。

最終的に、武田信玄の遠江・三河侵攻から長篠合戦、そして武田滅亡、という軌跡から、織田・徳川と武田が敵対したということは理解していましたが、では、敵対はいつからか?、ということは意識することがなかったのです。

よくよく考えても見れば隣国同士、一触即発になることだってある。
織田信長は武田信玄を刺激しないように、贈り物を欠かさず、それも細心の注意を払った物を贈っていた、という逸話もありますから、信長が信玄の歓心を買うことにつとめ、信玄が東国に集中している間に、信長は勢力を拡大してしまい、信玄が気づいたときには寿命、というのが私の従来の理解でした。

が、どうもそれでは理解が浅かったようです。
よくよく読んでもみると、さまざまに既に先行研究で明らかにされている部分ではありますが、自分なりに文書を読んで整理した内容をブログに書いてみようかと。

永禄11年(1568年)2月に家康と信玄が血判を交わしています。(愛知県史資料編11 文書番号594)
何を血判したのか不明ですが、なんか約束、しかも結構重要な約束をしたんでしょう。
この年の12月頃には、家康は三河から遠江に進出していること(愛知県史資料編11 617~620)、三河物語等の話から大井川を境に今川領の分割統治を持ちかけたようです。

ところが、翌永禄12年(1569年)の1月に、信玄は家康と信長に変な文書を出してます。(愛知県史資料編11 625・626)かなりな意訳をすると・・・。

信玄は家康に対し、信玄配下の武将、秋山虎繁率いる信州部隊が遠州にいることについて
「ワシが遠州を奪るつもりは無いよ。秋山達はワシが呼び寄せたら最短距離で移動しようとしたみたいで遠州にいるだけなんだよね。ちなみに、掛川城の今川氏真を落としちゃって。そこんとこヨロシク。」

と、信長に対しては、
「こないだは大層なお歳暮もらっちゃって、どうもありがとう。で、駿河の今川を攻めたら、氏真弱すぎ。一戦もせずに掛川城へ逃げてまった。それで追いかけたら、家康がなんかワシが氏真じゃなくて遠州狙いで進出してきたって疑ってんだよね。。。それで遠慮してワシは駿府で待機してるんで、家康にもよく言っといて。」

と、言ってます。
信玄は家康の兄貴分である信長とは姻戚関係にあったため、今川侵攻の際に遠州分割協定を信長にも了解を得て、弟分の家康とも直接やりとりをしたようなんですが、どうも、二枚舌を使って遠州まで侵略する方向で動いたことが上記の文書から窺えます。
たぶん、信玄にしてみれば「協定は結んだが、基本は切り取り次第。」という感覚もあって、なんだかんだで取ったもん勝ち的な考えもあったんだと思います。しかも、最初は小田原北条氏に今川侵攻を持ちかけて断られての織田・徳川への持ちかけだったようです。北条、今川、武田の三国同盟により北条氏の娘が今川氏真に嫁いでいたことから信玄の今川侵攻は北条を激怒させ、駿河にいる武田を北条が攻撃。今川は掛川で頑強に抵抗を続けたことで信玄の目算は大きく外れたようです。

と、いうか、目算が外れたどころか、北条氏によって駿河ー甲府間の通路を遮断されそうになって、駿河に閉じ込められそうになる、という危機的な状況になりつつあったのが、この永禄12年頃のよう。このときに上杉謙信が活発に活動したら信玄も相当大変な状況になったのですが、幸い冬。雪で謙信は動かなかったようです。そのため、信玄は信長に上杉謙信と武田信玄の和睦の斡旋を足利義昭を通じて頼んでおり、上杉・武田双方に対する和議勧告が将軍から出たようです。

5月になって信玄は、信長が今川氏真・北条氏康と和睦しないよう、信長の側近に催促しています。(愛知県史資料編11 658)   
「掛川城が落城して、今川氏真は駿府の東に逃げてった。昨年、ワシが駿府へ攻め込んだら氏真はすぐ逃げて、遠州も大半がワシのものになって掛川城だけになった状態だったけど、それから10日くらいして家康が『信長の先遣隊』と言って、『前の約束どおり遠州の領主達の人質を受取りに来ました。』と言うから渡したった。その後、北条氏政が氏真を救うと言って、薩埵山へ出陣してきたからワシ北条と戦争になった。掛川城が落城するときは、氏真を殺すか、家康か信長で氏真を確保して欲しいとお願いしてたのに、北条と徳川が会談して、氏真の降伏を認めて掛川城に籠城していた奴らを無事に駿河へ逃がしてしまい驚いた。だって今川と北条と和睦しないって、家康約束してたし。今更しょうがないから、せめて織田は今川と北条へ、敵なんだ、とはっきり言ってくれるよう、信長に催促してくれ。」

今川氏には父信虎追放に協力してもらったり、長男義信の妻に今川家の娘を貰ったりしていながら、信玄の今川氏真に対する残酷な依頼状況が解る内容で、少々ひく。

この信玄→信長の文書は5月23日付けなんですが、翌日24日に、徳川家重臣酒井忠次あてに北条氏政からこんな文書が出ています。(愛知県史資料編11 659)
「氏真が帰国してきたので家康に誓詞を届けた所、すぐに返事来たんでありがたい。特に氏真とワシらへ仲良くしてくれるとの事、大変うれしく、特に掛川城を氏真が出たときに、そちらが証人を立てて和議にしてくれれ嬉しかったですわ。これからは、家康にも仲間になってほしいと思うんで、黒馬のいい奴を一匹進呈します。」


しかも、翌年の元亀元年(1570年)に、家康は前々から打診していた上杉謙信との同盟をします。
その際、面白いことを家康は謙信に約束します。(愛知県史資料11 739)
「・・・信玄との関係を必ず切ります。信長には謙信と仲良くするよう意見し、信玄と信長は縁談してるけど辞めるように諌めます。」

流れからすると、武田、上杉、北条、徳川、今川、織田、と、戦国スター達が、それぞれの思惑で駆け引きしていることがわかります。
また、徳川家康は対信玄を巡って信長と方針が異なっていることもわかり、この時期の家康外交は独自性が強いこともわかります。ただ、信長的には京都へ将軍義昭を奉じて進出し、畿内情勢が不安定な時期だっただけに、家康から「信玄の野郎、言ってる事とやってる事が違うじゃねぇか。やっぱあいつヤバイっすよ。」と言われても、「そうですね。」と、家康の言うことが聞けない時期であったと考えられます。美濃と信濃と領国を接している武田信玄の怒りを買うと面倒なので、家康からの連絡を黙殺したのではないかと思われ、それが、上杉や北条と徳川氏との独自外交となったと思われます。
これが、信玄の家康に対する怒りとなっており、後の徳川領国への侵攻=三方原の戦いなどに繋がって行くのだと思われます。

一方で信玄は、北条と今川の結びつきを軽視して今川に侵攻したり、分割協定を約束した遠州を狙って家康の離反を招くなど、戦略に粗さが目立ちます。この粗さが信玄最大の危機を招き、将軍擁する信長を利用せざるを得ない状況となります。

信玄>信長という力関係だけで理解をしていましたが、信長にしてみると信玄に貸しを作っている時期とも言えるでしょう。ただし、信玄はどうも家康は信長の家臣に近い感覚があった様子も書状からわかります。
そのため、信玄的には「家康の動きを見てると、信長は二枚舌を使ってるんじゃないか?」と思うことになったのではないかと。

それが、後に信玄が織田・徳川領国へ突然侵攻を開始することに繋がったといえます。
しかし、信長にしてみれば、別人格の家康のことだし、むしろ色々と信玄に骨折ってやったのに、突如侵攻してきて裏切られた、という感覚があって、信長は決して武田氏を許さず滅亡まで追込んだ原因になった、と、平山優氏等の先行研究で明らかにされています。

とにかく戦国大名の虚虚実実の駆け引きのせいで、敵・味方がめまぐるしく入れ替わる時期のため、このあたりの状況がわかりにくくなっていたのですが、満光寺の鶏話を調べるために、読み込んでいたところ、上記のように整理することができたのは大きな収穫でした。

もっとも、こうして整理してから、蔵書を様々に読んでみると、ちゃんと書いてある。
意識が薄い状況で読むと、読んでるようで読み飛ばしているものだなぁ、と、改めて認識すると共に、自分の理解の浅さを恥じるばかり。

自分の備忘録的に書いた記事ですが、この記事にまとめるまでに、これまた1ヶ月以上かかっていたりします。
調べた物を整理して、文章にまとめて、再確認して、修正して、再構成して・・・、と、やっていると、いつまでたっても終わらなかったんですが、なんとかまとまりました。

タケノコ掘り

2015年04月20日 | 日記
新城に引っ越してから始まった我が家の春の催事。
それはタケノコ掘り。

※2012年4月の写真。

やつもつさん(注:『やつもつさん』とは行きがかり上呼ばれるようになった職場先輩あだ名。)一家に誘われて、今年は、刈谷でタケノコを掘ってきました。


やっぱり、これをやらないと春が来ない気がします。
雨続きの今年ですが、幸いタケノコを掘りに行った土曜日だけ快晴に。
実は、やつもつ夫妻は結構な雨に祟られる系で、その昔、やつもつ夫妻と我が家夫婦で熊野古道へ行った際、大豪雨の中歩く羽目になった事もあります。
しかし、互いに子どもができてからというもの、今までの天候不良が嘘のように晴れる日ばかりに。
きっと子ども達の中に極度の晴女、晴男がいるのでしょう。

雨後のタケノコ、という言葉がぴったりで、あちこちに生えていました。


父親組みはタケノコを掘る。

※写真はやつもつ氏。

残念ながら3歳のわが息子が1時間で飽きてしまい、帰りたいコールを連呼したため、無念の1時間リタイア。
が、収穫は両家併せて30本近くに。

そんなに広くない範囲でこれだけのタケノコが見つかるってすごいな、と。
自分が最後に掘ったタケノコは2連のもので珍しいと掘っていたら土の中からもう一つ現れて3連でした。写真撮りたかったんですけど、息子がぐずってるので慌てて掘ったため写真撮れず。

その後、刈谷ハイウェイオアシスで子どもらを遊ばせた後、妻は湯がき地獄へ。
今年から、娘がタケノコの皮むしりに参戦したため、妻の負担が少し減ったようです。

その後、社宅の娘の同級生のお宅にタケノコをおすそ分け。
都心でおすそ分けできる環境というのも、なんとなく新城っぽくて嬉しい。

あちこちのフェイスブック投稿記事でもタケノコ美味し、との記述が多数あって羨ましい限りでしたが、ようやくこちらもありつけました。

後は早く晴天が続くのを待つのみです。

Damonde TRAIL

2015年04月15日 | 奥三河
トレイルラン。


ただでさえ歩くのが困難な山の中を走り回るという狂気の沙汰。


しかし、気の迷いから一度、OSJ新城トレイル11kmに出たことがある私。


※完走の証。

しかしながら、完走と引き換えにした代償は大きかった。
膝に過度の負担をかけてしまい、その夜に高熱を発し、熱は下がったものの1週間程度歩行困難になってしまったのです。

それもこれも、
40のおっさんが何の準備も練習もせずに、太った体型のまま挑んだから。

一言で言えば自業自得。
そんな経験から二度とトレイルランなど走らない、と、懲りておりました。

今年に入り、「Damonde TRAIL」なるトレイルラン大会が新設されたそうで、「出ませんか?」とも言われたのですが、上記の経緯から即答で「出ません。」

この大会は初心者向けで6kmですよ、と、聞いても無理としか思えず断る。

ところが、第1回大会参加者のフェイスブック投稿を見ていると、大変に楽しそう。
実際「楽しかった。」とのコメント付きで笑顔の写真が多い。

いや、そんなトレイルランで笑顔ってありえんだろう、と、自分の経験から思ったのですが、聞けば、やはりルート等が初心者向けになっている、とのこと。
そして、通常はタイムを競うのですが、3時間でグループで何度でも好きなだけ走ればよく、それこそ3時間でゆったりと1周でもよい、という従来の競技方法とはかなり違うものだそうです。

それを聞いて
『残念。』という思いが少しあったとき、第2回大会開催のお知らせが。
しかも、職場で参加者募集という。

丁度前の職場で忙しさのストレスから太ってしまった体をリセットする必要もあったことから、何か目標を必要としていたので「参加」と書き込みました。

と、いうわけで、今週から体を絞り始めています。
基本エレベーターは使わず、全て階段。早歩き。大股。

しかし、階段を1段飛ばしで降りたら、やはり、膝に不安が・・・。
まぁ、とにかくダイエットの目標はできた。
5月末までにどこまで体重が落とせるか、そして、筋力をつけられるかが勝負です。

今度は膝が死なないように頑張ります。

国郡境目相論 ~ 奥平が武田と徳川を振り回す ~

2015年04月11日 | 日本史
相変わらず織田信長に関して面白い視点を提供してくれる、神田千里氏の『織田信長』(ちくま新書)。


今回面白かったとして紹介するのは「国郡境目相論」。
要は
信長の戦争は、国境紛争の解決をめざした結果として相手方を滅ぼしたのであり、全国制覇を目指して他大名を征圧しようとしたわけではない。
と、いうこと。

この考え方から、毛利氏と武田氏の戦いを国境の境目で発生した相論が全面抗争に発展してしまった、と、説明しています。

・・・従来はともすれば、織田信長の戦争は全国平定と言う信長自身の意図から説明され、周囲の情勢の方が信長を開戦に追込むという構図は想定されて来なかったように思われる。しかし信長だけが宣戦も和睦も意のままという特権的な地位にいたはずはなく、周囲の大名から戦争に追込まれる場合もあり・・・」(124頁)

信長中心史観に嵌ると、全ての信長を取り巻く事象は、「信長は○○した。」と全て信長が能動的に動いたという解釈になってしまう。信長は、そこまで有利な立場じゃないでしょう、と、いうことです。

武田信玄との関係では、

① 東美濃の遠山氏を巡る国境紛争
② 遠江を巡る徳川氏との紛争

が、信玄と信長の対立を引き起こした、というもの。

実は、愛知県史や戦国遺文武田氏編で確認できる、当時の古文書を読んで、私も同じような感想を抱いていたのでした。遠江の領有を巡って、徳川と武田は、仲が最悪になります。しかし、信玄と信長は友好的な雰囲気を保つというねじれ現象が発生していた、と、いえます。

そして奥三河も①や②と同じく武田と徳川の国境地帯のため、同じように山家三方衆が、それぞれの家庭の事情で武田や徳川をバックに抗争を始めてしまい、親分である家康や信玄の出動を招き全面戦争に突入して行った、というものです。

そう。
奥平氏を始めとする山家三方衆は『風になびく葦』のように大国の狭間で揺れ動いた。
と、いう従来の評価ではなく、一寸の虫にも五分の魂。

奥平が徳川、武田を振り回すことだってあるんじゃないの、という私の前からの疑問に答えてくれています。
そうだとすると、信長にしてみれば、徳川や遠山に振り回されて信玄との抗争が始まってしまった、と、いえる。

過大評価は禁物ですが、こうした国境紛争→全面戦争論、というのは案外真実を突いていると思えます。
やっぱりこの本、あなどれません。

天下布武 ~信長の野望(?)~

2015年04月07日 | 日本史
『天下布武』
と、言えば、織田信長が天下統一に向けた意思表示として岐阜城攻略後に使い始めた朱印、と、いう理解をしておりました。


※天下布武印判

しかし、こうした歴史の授業で、なんとなしに違和感を覚えたのですが、深く考えることなく今日に至る訳ですが、この「なんとなしに違和感」を見事に解説してくれた本に出会いました。



神田千里氏の『織田信長』(ちくま書房)です。
新聞の書評欄などで既に評判になっておりましたが、多忙で読むのが延び延びになってた奴です。

まだ、途中までしか読んでないのですが、現時点での信長研究を抑えた内容となってるので、これから色々と考えるのに便利です。

さて、私が「おお!」と思わず目から鱗の話がこちら。

・・・名だたる大名らに対して「天下統一」の野望を公言することは、余りにも不用意だという印象はぬぐえない。・・・たかだか将軍の家来としかみられていない信長が、全国の征服を公言すれば、信長は将軍足利義輝を暗殺した三好三人衆の同類としか思われないのではないか。・・・普通の感覚からいえば宣戦布告ともとられかねないだろう。・・・」(99~101頁)

それそれ!
私が高校時代に日本史の資料集を暇に飽かせて読んでいたときに抱いた、漠然とした違和感は。

俺、これから日本を武力征圧するんで、そこんとこヨロシク!

って、征圧する相手方に対して印鑑をボーンっと押したものを送りつけたら、普通、

アホか、こいつ。

と、思われるでしょう。

不良の集まる高校で、今まで各地の中学のワルのトップが集まってきて最終決戦を行う時に無名のビックマウスが登場して・・・、と、いうマガジンかジャンプ(サンデーにはない。)のマンガじゃあるまいし。

織田信長が全国制覇直前に使い始めたら、「うわっ、とうとう本性現しやがった。」となるでしょうが、美濃を統一した時点の信長ならば、信長よりも大きな勢力は、北条氏や毛利氏がいますし、武田や上杉も上でしょう。
そんな時点で、天下布武、とか言われても、言われた方も困るかと。
そんな武将に推戴された足利義昭も、早晩信長は自分をないがしろにするだろう、と、すぐ解るはず。
岐阜と尾張だけで全国制覇を唱えるのは早すぎるし、まして、それを身内に言うならともかく、制覇する相手方に伝えるなんて常軌を逸している、と、いうことが私の漠然とした違和感で、そこを綺麗に解説してくれた本だったわけです。

従来は「信長は革命児。常軌を逸してるから日本統一直前まで言ったんだ。」という解釈で全てが許されるところがあったわけですが、その見方に疑問を呈して、一つずつ新たな見方を提供しているのがこの本です。

当時、「天下」とは畿内(近畿地方)を指す用語で、将軍による秩序を「天下=畿内」に樹立するというスローガンとして信長が使い出したのではないか、と、いうのがこの本の解釈です。

「天下=畿内」という考え方は、三好一族の関係する本を読んでいたときに始めて知りましたが、なるほど、天下布武の天下も、その発想、というのは気が付かなかった。そして、布武は将軍を奉じて秩序再建を行う、というスローガン、ということであれば、確かにこれから将軍を奉じて上京しようとする信長の置かれた状況と一致する。

思わず膝を打つ、というのは、まさにこのこと。

この本、まだ半分ほどしか読んでませんが、内容濃い。
今後の新研究でひっくり返される可能性もある内容かもしれませんが、私的には、天下布武のくだりは大変しっくり来る説明で目から鱗だけに、この感動を伝えたくて、ついついブログに書いてしまいました。

残りを読むのが楽しみです。

新年度に思う。

2015年04月03日 | 日記
気が付けば定年まで勤めるとすると折り返し地点に来てます。

かつて上司に
「半分まで来たら、後はあっという間だよ。」
と言った人がいます。

そのときは、
「いや、まだ半分もあるじゃないですか。」
と、返した記憶がありますが、確かに気が付けば退職されていたことを思うと、実際早いもんだ、と、実感したことがあります。

と、いうことは、これで私も定年まであっという間なんでしょう。

ひゃっは~!

かつて上司は寂しそうでしたが、入社したときから
「早く隠居して好きなことしたい。」
と、願い続けていた身としては、これであっという間に願いが叶うのか?!と、思うと、わくわくします。

まぁ、遅くに結婚したため、子育てという大きな責務がまだ残っておりますが・・・。

ところで、勤め人には定年がありますが、自営業の方には定年がない。
自分や周囲の環境で自分で幕引きをせにゃならん、という点では、定年という強制終了ボタンが仕込まれている勤め人とはかなり違う気がします。

ふと、戦国大名も定年が無いわな、と、思う。
徒然なるままに思い浮かべると、

① 自分が元気なうちに家督を譲って、相談役となるタイプ。
② 病気で正確な判断ができなくなって、強制退去タイプ。
③ 突然死して突如後継者が跡を継ぐタイプ。
④ 親子で揉めるタイプ

が、あると思います。

最近は〇塚家具の騒動で④がすっかりお馴染みかと思いますが、伊達家がこのタイプ。
3代続けて親子で争い続けた、というのが、すごい話かと思います。
有名な伊達政宗の親の輝宗は父や祖父を見ていやだと思ったのでしょうか、自分は①を選択したら突然裏切った同盟者に拉致され、追ってきた政宗の軍勢に敵ごと殺害されてしまいます。
このあたり美化されている、という話もありますが・・・。
しかし、3代続けて揉めたにも関らず、家が存続した、というところに伊達家の特異性を感じます。普通、3代も続けて揉めれば、家は潰れてるかと思います。

武田信玄も④か。
父信虎と争って父を追放。長男義信と意見が相違して長男を自害に追い込む。

①の一番の成功例は徳川家康と秀忠かと。
大御所政治と呼ばれるタイプ。この場合、家督は譲っても実質的な権限が親側にあり、息子が控えていたことが成功している原因かと思います。が、そんな家康もよくよく考えても見れば、長男信康は自害に追い込んでいますので、④を経験しての①、と、いえる。家康と信玄は、結構似ています。

織田信長と信忠も①を目指している最中に本能寺に遭遇したと言えるでしょう。

②だと織田信秀と信長、北条氏康と氏政などが思いつきます。
北条は①の最中に氏康が倒れてしまったと思います。

③だと上杉謙信か。
便所で倒れて人事不省に陥り、ほどなく死亡、というパターンかと。

大変に単純に類型化してしまったので、細かいところを考えるとツッコミも入るかもしれませんが、まぁ、あくまでパターンわけの便宜上のものとお考えを。

他にも色々とあって、北条氏綱と氏康、氏政と氏直は①ですし、今川義元と氏真は③。

理詰めで考えるならば①が良さそうに見えながらも、武田信玄や徳川家康と信康の関係など①の状況を実現することが難しい上に、実現しても家を潰してしまった北条氏政や天下統一目前に遭難した織田信長などの例もあります。また、絶対絶命のピンチと思われる②や③でも天下統一直前まで行った織田信長の例もある。

結果的に、これだという答えはなく、譲る人・譲られる人の能力や周囲の環境に対応できなければダメ、ということなんでしょう。

戦国武将って大変だわ、と、思う。

新年度に思ったのは、戦国武将って、どんだけ思考に偏りがあるのか、と、我ながら呆れる。
と、言うわけで今年度もよろしくお願いします。