長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

名古屋城本丸御殿 一般公開開始

2013年05月29日 | 
名古屋城本丸御殿を見てきました。

娘を幼稚園に送り、その後息子を連れて名古屋城へ向かう。
息子は抱っこ紐で拘束。歩いている振動が気持ちよいのか寝てしまいました。

で、雨が降っていたせいか、はたまた水曜日だからか、はたまた朝の9時台だからか。
様々な要因があったためか、そんなに人はいない感じ。


※雨が降っていたため、一般公開の客待ちようにテントが張ってありました。助かる。

で、もらったのはピンクの札。


そうこうしているうちに、結構人が集まってくる。


で、いよいよ9時50分頃から動き出す。この頃には小雨になってました。


寝ている息子を抱っこ紐で縛りながら本丸御殿車寄を通り過ぎる。

いい感じです。

いよいよ、入館。
出入り口は先の写真の車寄からではなく、その奥にあるところからとなります。


檜の良い香りが漂っており、いい感じです。初代の義直もええ香り、と、思ったことでしょう。


今回公開されているのは第1期工事分なので、表書院と車寄せを中心にしたゾーン。
下の写真で黄色い部分です。


いよいよ中に進みます。


最初にお出迎えするのは、重要文化財の玄関一の間の障壁画。
名古屋市長が本物を公開することに拘っており、保存か展示かで揉めている奴です。

豹が虎のメスだと思われていたので、子どもを舐めているのが豹で描かれています。かわい。


気になったのが「展示品を守るためにフラッシュを炊かないでください」と再三再四注意されているにもかかわらず、フラッシュ炊く不注意な人がいること。中には注意を聞いていないのか、フラッシュ撮影を続けている人もいました。最初の頃はスタッフも慣れていないのか注意をしないので、かなりのフラッシュが。途中から警備の方が厳しく注意しだしたので収まりましたが、こういう人達がいる状況で現物展示をしつづける、というのが良いのか悪いのか。撮影禁止ゾーンにすればいいのかもしれませんけどね。

その後、再現された中を見ましたが想像以上に立派でした。
檜の香り、高い天井、金襴豪華な障壁画。


正直、圧倒されます。

上の障壁画は最初に本物が展示されていた奴です。
個人的には復元品でも十分。むしろキンピカな分だけ復元の方が立派に見えてしまうのは、素人の悲しさか。笑。


障壁画を見ていると、かわいい物好きな息子が「お。」「お。」と指差して反応している。

試しに抱っこをやめて床におろして見ました。

やはり子どもながらに金色と言うわかりやすい豪華さ、当時の曲線の多い、どちらかというとねまっこい感じすらある日本画に反応していたようです。

それに新品の檜の床は歩きやすいようで、ご満悦な感じ。

表書院に移動。三之間を見ると、ところどころに、とんでもなくかわいい意匠があるので、見逃せません。




さらに一之間方面へ移動すると、豪華さに圧倒されます。

天井もこんな細かく。良い仕事。


こんなにキンキラキンの中身だとは想像していませんでした。
やはり戦国時代の余韻が覚めやらぬ時代。侘び寂びとは違う、わかりやすい豪華さです。
今で言えば成金趣味なのかもしれません。
こんな取っ手まで。


しかし、和風建築の中、特に本日は雨で薄暗かったのですが、暗闇の中の金色(こんじき)というものは、陰影が妖しく漂う空間となって、成金趣味的というか豪華だけではない、何か威厳を醸し出している感があります。檜の香りとあいまって、建物全体を感じるという行為は写真や絵、障壁画だけの展示だけとは違う、迫力があります。
そういう意味で、やはり当時の技法にできる限り忠実に再現された建物というものは、価値があるのではないでしょうか。

そして、当時のものを嵌め込んで展示するのも良いでしょうけど、現代の人達が当時の絵師達に挑戦する気概で作られた展示用模写品は、この建物の新しい歴史を飾るに、十分に相応しいものだと思えます。

そんなことを思いながら、檜の香りに癒されて本丸御殿を後にしました。


※ご満悦の息子。多分、現時点で本丸御殿来訪者最年少記録保持者。

まぁ、なんだかんだ言うより見た方がいい、百聞は一見にしかず、ということわざどおりでした。

名古屋に寄られた際、わざわざ立ち寄ってでも見る価値はあると思います。

名古屋城本丸御殿明日一般公開

2013年05月28日 | 
明日、いよいよ名古屋城本丸御殿の再建御殿が一般公開されます。

最近疲れが溜まっていましてどこかで休みを取ろうと思っていたので、折角なので明日休みにしてみました。
なので、明日の初日に行ってくる予定です。

ま、もしこの本丸御殿が400年後にも残っていることがあれば、その一般公開初日に見学できた、というのもなんとなく価値が出そう。
生きてはいないでしょうし、私がみたなど誰も知らないかもしれませんが、個人的には死ぬ直前に「ああ、取り立てて何と言う人生ではなかったかもしれないが、本丸御殿の初日を見たんだよねぇ。」と思うかもしれませんし、思わないかもしれません。

で、前日の状況はどうなんだろうか、と、思いまして、昼休みを利用して見てきました。


なんだかいよいよ公開、という感がありまして、なんとはなしにワクワクしてしまいました。

ところで、私が城好きということから、聞かれることがあります。

「名古屋城で作ってる本丸御殿。あれについてどう思ってるの?」
というもの。

聞いてくる人の意図は大きく分けて二つのようです。
城好きなので、
①再建されることは現物に近いものが再現されて嬉しいのでしょう?
②再建などは所詮偽者で嬉しくないのでしょう?
と、いうニュアンスです。

で、私の回答は
「再建してもしなくても、それぞれ意味があってよろしいのです。」
と、いうもの。

再建してくれれば、単純にイラストや写真で見るのではなく実物を見ることができる。
それなりに焼失前の建物に忠実に作られているのであれば、こんなにうれしいことは無い訳です。

では、再建してなくてもいい、というのはどういうことなのか。
再建してなくても、想像で補えばよく、そもそも、なぜ焼失してしまったのか、WWⅡにより、折角の世界遺産クラスの城を失ってしまった。その意味をよく考えるきっかけになる訳です。

コンクリ造りでエレベーターがある天守閣。
これもよく批判にさらされていますが、なぜコンクリ造りのものとなってしまったのか。天守閣が落雷による火災で多数失われている中、戦前まで日本最大の床面積の天守閣が壊れずに残っていたのに、戦争で失ってしまった。その意味からしっかりと現代史をみつめなおすきっかけにもなりますし、戦後の復興の中で市民の力でなんとか失った天守閣を取り戻そうとして、コンクリ造りとは言え再建をしたという歴史的経緯もあるわけです。
最近では、昭和の遺産としての価値がある、という考え方も出てきています。

まぁ、こういうことを色々と考えるきっかけになるのが個人的には最も望ましいと考えておりまして、ただ単にハコノモができた、というのでは勿体無い、というのが一番の感想です。

ただ、本丸御殿については懸念が一点。

焼失前の本丸御殿は、創建当初は今回の再現のように檜皮葺の屋根でしたが、檜皮の調達や葺き替えの必要性から管理経費がかかることから、江戸中期に瓦葺になっているのです。
と、いうことは、今回の檜皮葺の屋根も一定年数がくれば手入れが必要になるはず。
はたして、の経費は捻出できるのか?
そこが心配。

でも、瓦葺になっても良いかと。
結果的に同じ理由で同じ経過を辿った、と、なれば、それはそれで一興かと。

作るのは維持したり辞めるより簡単なんですよね。
果たして、今後の経過がどうなっていくのか。

そこが一番の見所になるのかもしれません。

マダニ感染症

2013年05月25日 | 
重症熱性血小板減少症候群(Severe fever with thrombocytopenia syndrome: SFTS)

なんじゃそら。

少し前に話題になっていましたが、日本でも数例死者が出たと言う感染症。

厚生労働省のHPの記述を転載しますと、

問:SFTSとはどのような病気ですか?
答:2011年に初めて特定された、新しいウイルス(SFTSウイルス)に感染することによって引き起こされる病気です。主な症状は発熱と消化器症状で、重症化し、死亡することもあります。

・・・

問:SFTSウイルスにはどのようにして感染するのですか?
答:中国では、多くの場合、ウイルスを保有しているマダニに咬まれることにより感染しています。

こ、こぇぇぇぇぇ!

なんでそんなに怖がっているのかと言うと、城旅スト(城巡りする人)は山野の中を駆け巡るため、こうしたものに出くわす可能性が高いからです。

と、いうか、数年前、私、マダニにやられているのです。


※出典 wiki

私の見た奴とwikiの画像では少し違います。

いきさつを話しますと・・・、


それは、私がまだ山林の本当の怖さを知らない時期のことでした。

それまでも熊野古道などは歩いておりまして、ある程度山道を歩いていたのですが、ダニになど遭ったことは幸い無かったのでございます。

それでも、山の得体の知れなさ、というものは経験したことはあったのです。

一度、織田信長が金ヶ崎の撤退の時に朽木谷を通過する際、松永弾正が朽木氏を説得に向かっているときに信長達が潜んでいた場所を見に行ったところ、気がつくと靴下が真っ赤な血に染まっていたのです。

静脈を蛭に噛まれたのでした。

ヒル 出典:wiki

蛭は血を固めないようにする成分を出すため、血が止まりません。
私の血を吸って満足した蛭が、靴の中に居ましたので仇はとったのですが、その後の温泉では血が止まらず流血しながら体を洗う羽目になりました。

泉鏡花の「高野聖」で、蛭に襲われるくだりを読んだ際、身の毛がよだつ思いがしたのは、やはり自身の経験があったからか。よくスキーで行く「ひるがの高原」が「蛭ヶ野」という意味だということを再認識させられる。

そんなことで、城歩き(一般には山歩き)は舐めてはいかん、と、思ってはおりました。

そんな私ではあったのですが、どこかに油断があったのでしょう。
新城市の長篠城から武田勝頼の本陣跡(医王寺城)へ歩きに行った後のことでした。

たまたま夜、ちょっと車にものを取りに行くため、丁度出ていた城用のトレッキングシューズを素足で履いて外へ出たのでした。

その時、なんとなし、左足の親指と人差し指の間にちくりと痛みを覚えたのですが、すぐに痛みが消えたので忘れてしまいました。

ところが、そのうちにやっぱり痛みがでる、感覚としては「トゲが刺さった」ような感じ。
それも、結構大きなトゲが。

この痛み、痛いときと痛くないときが結構はっきり分かれまして、痛くないときのほうが多い。
不思議なトゲもあるもんだ、と、思いながら仕事してました。

しかし、どうにも夜になって痛むので、場所を触ったところ・・・。

変なぶよぶよとした、それでいて毛が生えているような感覚が。

動悸が激しくなり、ひどく動揺したことは覚えております。
なんか変なできものができているのか?
と、思ったのですが、どうにも「生き物のよう・・・。」という嫌な予感が。

勇気をだして足を見てみると、そこには地球外生命体のような、気持ちの悪い生き物が付いているではないですか!

地球外生命体を見たことは無いのですけど。

ただ、そのときは、既に30代の後半に差し掛かっておりましたが、年甲斐も無く真剣に地球外の変な生き物ではないか、と、思ったことを覚えています。
だって、足がえらいこと沢山あって、胴体が膨れてて、なぜか離れないのです。

しかし、トゲではないことは確認できました。
が、これは放置しておくとえらいことになるのではないか。
どうえらいことになるのかは全くわからないのですが、とにかく、自分の体から引き剥がす必要があるのではないか。そう直感的に感じて、気がつけば引っぱっておりました。

すぐ取れるだろう。

やはり30代の半ばまで、都会で虫などもあまり見ることなく育ってきた人間の甘さです。

これが取れない。
取れないどころか、猛烈に痛い。

なんていうのでしょうか、肉をむしりとる様な痛さなのです。

『刺さっているだけだろう。その刺しているのが痛いだけで、なぜ、なぜ、こんなに痛いのだ。』

しかし、自分の経験則からトゲを抜くときと言うのは、多少痛くても我慢しないと取れずにいつまでも苦しむ、というのがあったので、肉も削げよと思い切り引っぱったところ。

ぶち、っという感触がありました。

手に持った物体を見ると、やはり気持ち悪い。
すぐに靴で踏みつける。

ところが、痛みは全く引かないどころか、かえって痛い。
歩くときに力が入る場所なので、歩くたびに痛みが走る。

医者には滅多なことではいかないのですが、珍しく医者に行きました。
なぜか直感的に皮膚科へ。

皮膚科でトゲに刺されたこと、地球外生命体のようなものが付いていたこと、痛みがひどいことを申告したところ。
先生は、すぐに思い当たる節があったよいうで、図鑑を取り出してきました。

「これじゃないですか?」
と、指をさすところには、まさしく私が見た地球外生命体が!

「マダニです。」
先生は地球外生命体の名前を教えてくれました。
いや、この時点で地球外生命体ではなかったことが判明したわけですが。

ダニ、と、いってもハウスダストの原因となるダニとは別の奴だそうです。

「どこか山道を歩きませんでしたか?」
すぐに医王寺へ行く道を思い出して申告すると
「そうでしょう。そうした山道に多く生息しています。これに噛まれたら無理やり取ると口が残ってしまうのです。そうなると、放置して自然に排出されるのを待つのみです。」

なんと、私の足の中には口が残ってしまっていたのでした。
そして、その口は、一旦刺すとコンクリみたいな成分を出してがっちり固まり、ちゅーちゅーと宿主の血を吸い続けてぶよぶよとし続けるわけです。

「先生、これ、かなり痛いのですが、なんとかなりませんか?」
と、聞くと、
「相当痛いですか?方法はあるのですが、そこを麻酔して冷却して、肉ごとくり貫く、ということになります。その痛みも結構なものですが。」
と、さらっと言われた後、
「どうします?」
と、聞かれたので、
「我慢します。」
と、即答しました。

1ヶ月ほどは痛かったのですが、いつしか痛みがなくなっていることに気がつきました。

たまたま当時の職場には森林業務に従事したことがある方が見えて詳しく教えてもらいましたが、とにかくマダニや蛭はどこからともなく侵入して食いついてくるので、帽子長袖長ズボンは当たり前。長靴は足がゲートルのようなものか、マジックテープなどでしっかりと口が閉まるもの。そして首にはタオルを巻いて侵入を防ぐようにしていたとか。
最初の頃は、その方も背中にマダニが食いついていたことがあったようで、そのときは医者で取ってもらったそうです。

ただ、最近まで、マダニは痛い、という程度の認識だったのですが、マダニで死者が出た、との記事を見て驚いて調べてみると、「つつがなきや」の語源ともなった「ツツガムシ病」(ツツガムシ病などに感染しておらず元気ですか?、というのが『つつがなきや』の語源だそうです。)もダニから来る病気だとか。
結構病原菌を持っているので、要注意な生き物だそうです。

そういうことを知るにつれ、城はやっぱり冬が一番だなぁ、と、思う次第です。
そんなわけで、最近の私は城に行く際、ファッション性よりも機能性を重視しております。

結局、山で作業している人達の装備が一番優れているのだな、と、改めて感じる次第です。

これからの季節、城へ行かれる方は十分にご注意を。

英才教育

2013年05月20日 | 
英才教育。

日本にお茶を伝えた人。
それは栄西。

※ 頭の形が・・・。インパクト強すぎ。

栄西は関係ないのです。

娘が城に興味を持ち出しております。
発端はキンキラ。


金鯱様のおかげなのです。

キンキラのいるお城へ行きたい行きたい、と、いうので、年パス買ったこともありまして、こないだの日曜日も連れて行きました。
二回目とあって、今回は違うルートで。

前回は二の丸方面から入りましたが、今回は大手門から。
途中、二の丸枡形虎口にある笑い積み的な巨石を娘に説明する。


「これは城に入ってくる人を驚かすために、大きな石を積んだのだよ。」
と。

娘はわかったのかわからないのか「ふーん。」と、いう。
ただ、「大きいねぇ。」とは言ってました。

その後、天守閣を見る。


コンクリ作りにする際に、礎石を取っ払ってしまい、その礎石が天守閣北側に並べられています。

そこを飛び石として楽しく利用させてもらう。

そして、「ここ!ここに変わった印があるよ!」
「ほんとだー。」
と、天下普請の城にある刻印について説明。前回も説明したので
「持ってかれないようにするためだよね?」
とか復唱している。
ついでに、「ここに変なギザギザがあるよね。これは石を好きな大きさに割るために、ここに鏨(たがね)を打って火をつけて、一気に水をかけて割ったときの鏨を打った跡なんだよ。他にもあるかなぁ。」
などといって探させる。
ついでに「ここのは割ろうとして割れなかったところ。」
と、娘が理解していようがしていまいが関係なく教え込む。

良い哉、良い哉。

飛び石を楽しんでいたら踏み外して足をすりむき泣き叫ぶが、しばしあやしてから天守閣へ。
こないだとは違う階を見せて帰宅。

娘にとって城は楽しい場所のようです。
ふふふふふ。

そういや、途中の愛知県体育館前に変なオブジェが。


いつ見ても奇妙。


そして、じっくりと観察してみる。


動きに忠実に作ってあるようでした・・・。


どんなオチや・・・。

筍と旬

2013年05月12日 | 奥三河
昨日、筍を大量にいただく。

今年は新城総合公園の筍掘りの申し込みに間に合わず、筍が入手できなかったためガッカリしておりました。
新城の友人が筍を大量に貰った、とのことだったので「いいなー」となにげに呟いたところ、昨日のBBQには都合で参加できないが、参加者に託した、と、大量のゆがいた後の筍が。

新城に来る前は、正直筍がさほど好きではなかったのです。

筍の水煮パックのものは、やはり採ってから時間が経っているためか、保存用の水の中に何か入っているためか、なんとなく癖があって苦手。蕨も同じ。よく年配の人達が「うまい」と言っているのが理解できなかったのです。

が、新城に来て自分で掘ってきた筍と朝取ってきたからと頂いた蕨を食った蕨を食った衝撃ときたら。
「ワシが今まで食っとったもんは、なんじゃったんじゃぁぁぁぁ!」
と、絶叫するレベル。(妻は筍をゆがいたりするので「なんでこんなにあるんじゃぁぁぁ!」と絶叫するレベルでしたが。)

息子は昨年度筍を少しあげたら『もっと。』と言うので好きに食べさせたら、体中にじんましんが出て、たまたま翌日検診日だったので医者に聞いたところ「筍はアクが強いので、赤ちゃんには食べさせすぎてはいけません。」といわれる。

で、頂いた筍と買ってきた蕨、そして、これまた頂いたつくで手作り村の油揚げを一緒に煮物に。(妻が)
筍ご飯にも。(妻が)
さらに大量に買い込んだエシャロット(らっきょう)を添えて。(妻が)



できあがったものを食しましたが、
「おおおおお!こ、これじゃぁぁぁあ!これを喰ってないから今年は何か調子がでんのじゃぁあ!」
と、ミスター味っ子か美味しんぼの登場人物が、絶叫しているかの状態に。

まさに体の中に春が入り込んでくると言いますか。

妻も全く同感だそうです。
食べ物って言う物は、やはり採ってから時間が経ってないと、美味。
そして、旬のものを食べると美味。
筍と旬って字は一緒ですし。

そういえば、名古屋へ転勤するにあたり、
「3年新城に住んだと言えども、これ知らんらぁ。」と言って貰ったパンがありました。


『コルネ』と言うそうです。チョココルネです。

新城市の学校給食で出る、新城市のソウルフードとか。

喰ったら一家で
「どうめぇぇぇぇぇぇぇ!」

と、なってその感動をくれた方に伝えていたところ、昨日その差し入れ(大量)までもが。
しかも、『デセール』という新しいものまで。



これまた懐かしい味。1歳の息子は最後まで離さず全部食べきりました。

なんとも新城づいた1日です。

5月12日(日)は、つくで古城まつりの日。

2013年05月11日 | 奥三河
5月12日(日)はつくで古城まつりです。
本日の作手は雨でしたが、明日は晴れ予報。
是非、皆さんおでかけを。
(残念ながら私はいけないのですが。)

さて、本日は1ヶ月ぶりに新城へ。
私は作手へ前の職場の人達とのBBQをしに、妻子は前住んでいたアパートでいつも一緒に遊んでいた4世帯との再開。

やっぱり良いですね。新城市は。
前住んでいた場所の近くにあって、よく子どもを散歩に連れ出していた神社を見た瞬間に娘が「あ!ちんちろ!」と叫んで興奮MAX。そのままアパートに行くと、勝手にお隣さんの家の扉を開けて入っていこうとする。

私は私で作手へ行きましたが、亀山城の隣のつくで手作り村でBBQやってたんですが、頭の中の様々なことがいっさいがっさい抜けていく感じ。山や緑を見ると、人間気分が落ち着くもんなんですねぇ。

私だけかもしれませんが。。。

そして、こんな酒の差し入れがあったり。

※亀山城をバックに清酒亀山城。

明日の古城まつりのために、作手の人達が準備をされていました。
明日は晴れそうです。昨年度は過去最高の人出で盛り上がっておりました。今年も期待されます。

仕事でのイライラからすっかり解放されまして、その後、「新城に住みたい。」と呟いて目に涙をためている娘に「温泉へ行こう。」と言って、なんとか連れ出し、名古屋へ帰還しました。

新城からの帰り道、妻と話をしておりました。
「なんだか、仕事で故郷を離れて、久々に帰省して古くからの友人達と再会したような感じだな。」
正直、3年間住んだだけですが、第二の故郷というより、本当の故郷のような感じがして仕方が無いのは何故なんでしょうかね。

空気が良いからか、水が良いからか、食べ物が美味いからか、人が良いからか。
そして、城が良いからか。

今日お会いできた方も、お会いできなかった方も本当にありがとうございました!

と、いいつつ、私は用事がありまして、来週も一人で作手に行くことになっていたりします・・・。

そろそろ、新城市内に活動拠点がいるのかなぁ、と、夫婦で話している今日この頃です。

趣味と仕事

2013年05月08日 | 日記
最近、本業が多忙を極めておりまして、歴史の本を読む時間も無ければ気力もない。

家帰って、風呂入って、飯喰って、寝る。そして起きて会社行く。

業務中にはなんだかんだとしてる訳ですが、生活そのものは大変単調な訳です。
まぁ、たまにはブログの更新をせねば、と、思ってブログに向かうのですが、これが不思議なことにネタが思いつかない。ネタとなるものに目を通していないから、というのもあるのでしょう。

しかし、最大の問題は『発想が硬くなっている』せい。

自分で書いた文章を読んで、
「つまらん!」
と、消去する。

陶芸家ができの悪い陶器を割るようなものイメージか。
こんなことが続くと、なかなか更新ができません。

つまらなさ、というものを考えて見ると、自分が心底楽しんで書いているわけではない点に自分が共感できないのだろう、と、思う訳です。
いつもならば楽しんで書ける内容であっても、自分のノリが悪ければ
「ふーん。」
と醒めた目で読んでしまう。

で、
「つまらん!」
と、なってしまっている気がします。

なんていうんですかね、感情が冷えている状態なのかもしれません。

仕事を長年やっていると、いちいち感情に左右されると身が持たない、というのが経験でわかっているため、感情をどこかにおいて仕事している部分があります。(と、いっても、喜怒哀楽の表現が人より激しいと今でも言われますが。)
余裕があるときは趣味に没頭する時間があったりする訳でして、趣味に没頭しているときと言うのは余計なことを考えることも無く、心底楽しんでいる状況になる訳です。

やっぱり、こういう時間が無いと、仕事も楽しめないわなぁ、と、思う訳です。

『忙しい』と言う字は「心を亡くす」という意味らしいですが、どれだけ忙しくても、どこかに余裕がある状況でいたいものです。

まぁ、小心者としては、常にテンパッて生きてますんで仕方ないことなのかもしれませんがね。

加藤清正 ~シチュエーションが大事~

2013年05月06日 | 戦国逸話
 加藤清正。

※出典:wiki

 朝鮮での虎退治、地震加藤、梅毒で鼻欠ける、日本の関羽等々、様々なエピソードに彩られているこの人物。
 こんな彼に、いい話なんだけど、所々「?」が入る話があったのでご紹介します。

『長雪隠』

 清正が熊本城にいたある夜、雪隠(トイレ)へ行った。

※熊本城 出典:wiki

 小姓が2・3人手洗い場に控えていた。清正は、いつも雪隠に行く時は高下駄を履いて入っているが、今夜はしきりに下駄をとんとん踏みならす音がする。
 小姓達は何事かと思って不思議に思っていると、清正が「忘れていて思い出したことがある。早く庄林隼人を呼んできてくれ。」という。

 庄林は夜中の上に、風邪で寝ていたが、清正の使いとともに髪ぼうぼうの状態で登城した。

 清正は昔から痔のためトイレが長く、まだ雪隠から出ていなかった。
 庄林は「ただいま参上しました。」
 というと、清正は雪隠の中から
 「お前を呼びだしたのは他でもない。お前の家来に20歳くらいでいつも茜色した袖無しの羽織を着ている者がおるが、何という名だ?」
 というので、
 庄林は、「出来助と申し賢い者なので草履取りにしており、かなり使えます。」

 というと
「そいつのことだ。
 いつぞや川の畔で能をお前と一緒に見にいった時、出来助が小便するのを見たら、鎖帷子を着込み、脚絆のかわりに脛当てをつけていた。天下が治まり皆平服が当たり前なのに、下僕としては珍しい心掛けと感心して名前を聞こうと思っていたが、他事に取り紛れて忘れておった。
 今晩便所で能の足踏みをしていたら、川の畔の能を思い出して、奴を思いだした。彼に褒美をしてこそ武備の心がけが上達するというもの。よくよく考えれば、人の人生などわからん。忘れている間に儂か庄林が死ねば、このことが無になってしまう。それで夜中だがお前を呼びだしたのだ。大儀であった。早く帰って出来助にこのことを聞かせ、同僚の妬みを買わない程度に褒美をしてやってくれ。
 また、お前の家中も何だろうと思っているから、暖かい酒を振る舞って返してやれ。」
 といって麦の塩漬けを肴に酒を与えた。

 庄林は清正の心配りに涙し、「殿もお休みください。」と言いうと清正も寝床へ向かった。
 庄林は近習たちに「殿は長雪隠だから風邪など引かぬよう、気を付けてくれ。」といい、家に帰って出来助に清正の言葉を伝え、60石に取り立て近習としたところ、出来助はありがたさが身に染みて、いっそう奉公し、度々比類無い働きをみせたとさ。

 いい話なんですが、シチュエーションが・・・。
 しかも、痔でトイレが長いとかばらされてるし、トイレで能のステップ踏んだりしてるし、しかも、家臣を呼びにやってもまだトイレ出てきていなかったりとつっこみどころ満載。
 
話の中でも出来助が小便するところをなんで見ていたのかも疑問です。さらにこの出来助、主君(庄林)とその主君(清正)がいるところで平気で小便してたわけですよね。

 そういや、庄林に話している最中トイレに清正は居たわけですから、
 「他事に取り紛れ…(ぷぅ。)…て忘れておった。今晩便所で能の…(ぶりっぶりぶりゅぅ)…イテテテテ、足踏みをしていたら、川の畔(がさがさがさ)の能を…あいてぇ!うわ、紙真っ赤!…思い出して、奴を…。」

 みたいな感じになっていた可能性もあるわけです。

 それに足が痺れなかったんですかね?まぁ、痺れ予防に能をやっていたのかもしれません。
 
 いい話なんだけど、どうでもいい事を考えさせられてしまう話ですな。(了)

娘の登園

2013年05月02日 | 日記
まだ下の息子が小さいので、上の娘の幼稚園の登園を私がやってみようかと思いたつ。
職場の近くに幼稚園があるため送ることは不可能ではない。

ありがたいことに、私の会社には勤務時間変更という制度があり、始業時間と終了時間を前後15分間ずらすことが可能となっているのです。
制度がある以上、使ってもよい筈。

そのため、5月から後ろへずらすこととしたのです。

で、本日が初登園。

娘をママチャリのシートに乗せて走り出す。
前と後ろに子どもが乗せられる3人乗せ自転車のため、大変に重たいし、バランスが取りにくい。
なんていうのか、長いセダンを運転しているような感じ。

急な進路変更はできないし、重いのでなかなかスピードが出ないのですが、スピードが出ないがゆえに安定しない。
前々からこの3人乗り自転車と言う物は危なそうだ、と、思って、妻が購入する際にも私は大反対をしたのですが、どうしても車を運転したくない妻は自転車を購入。

私にしてみれば、自動車の方がよっぽど安全だと思いますし、せっかく新城で運転できるようになったのだから、運転習慣をつけて欲しかったのですが、名古屋は怖いの一点張りで運転をしてくれないのです。

まぁ、うだうだ言っても始まらないので自転車を運転する。
途中、「あ、今日はお父さん?いいねぇ。」と娘と同じ園服を着た子どもさんを連れている方に声を掛けられたり、会釈をしたりする。やはり、男性が地域社会と隔絶されてしまう最大の原因は、子育てへの関与が薄いからであり、子育てというものが、いかに地域とかかわりを持ちやすいのか、ということを実感させられます。

妻に聞いていた話では、お父さんが連れてきている子も多い、と言う話だったのですが、私が到着したときはお母さんしかいない。稀に祖母と思しき方が連れてきている子もいるのですが、祖母と思しき方は、ギョッとした表情で私を見る。やはり物珍しいのでしょう。。。

若干の居心地の悪さを感じながらも、「おはようございまーす。」を連呼しながら娘を連れて幼稚園の中へ。
娘の部屋にまで連れて行くと、まだ二人目でした。もう少し遅くに来たほうがよかったか、と、思う。

母と別れるとき、娘がギャー泣きした、という話を聞いていたので、恐る恐る娘に「じゃあ、パパは行くね。」というと、心細そうに「うん。」という。
ああ、よかった、と、思って玄関に向かい始めると、娘がなんだか呼びかけて追いかけてくる。

いや、これは困った、と、思って時計を見ると、まだ出勤リミットまで時間はある。
それで、娘がなにやら幼稚園の中を一所懸命に説明しているのに相槌を打つ。

どうやら、父親を引きとめようとしている様子。

ここで強引に振り払ってギャー泣きされても困るので、「うんうんそうだねぇ。砂場にお砂が一杯だねぇ。」などと相槌を打っているが、気が気ではない。

「パパは会社に遅刻しちゃうから行くね。」
と、再度言うと
「うん。」
というのですが、やはり歩き出すと追いかけてくる。

ひぃぃぃ、と、内心思うのですが、ここでギャー泣きされても困るので、少し娘に付き合う。
が、時間が迫りつつあるので、
「パパは会社に行くね。」と言って歩き出すと、今度は娘は観念したのか何も言わない。

私ら親子の様子を心配してみていた先生が、娘を宥めながら部屋のほうに連れて行っていました。
なんともしょんぼりした様子の娘を見て、よよよ、と、思うのですが、親がそんな状況では娘も泣き出してしまうと思いまして、足早に園を去っていきました。

常々、時間に追われている父は母と違い、ごねてもすねても時間が来るとどっかへ行くと言うことがわかっているのでしょう。父親だとあまりわがままを娘はいいません。

まぁ、そいう意味では父親が送り届けた方が良いのかもしれません。

で、そうやって明日も送り届けようと思って自転車に乗って帰宅してきたら、段差を乗り越えるときに、いつもの癖で前輪をよいしょっと持ち上げて、後輪は段差にそのまま乗り上げる、ということをしたら、子どもを乗せるシートがついているためか、自転車後部が重たかったようで、段差に「がん」とぶつかる音がした後、「ぷしゅー」という音が。。。

バーストしてしまったようで、あっという間に空気が抜けてしまいました・・・。

と、言うわけで、明日は折角休みを取ったので娘をゆっくり送り届けようと目論んでいたにも関らず、自転車の修理をしなければならなくなりました。

後輪は修理がめんどくさいんですよね。

自転車屋に持っていくか、それとも自分で直すか。
悩んでおります。

まぁ、慣れないうちは仕方ないですね。