長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

宇利城シンポジュームが開催されました。

2016年02月22日 | 
宇利城シンポジュームが開催されました。


宇利城麓の中宇利多目的集会施設で50名以上の地元の方々にお集まり頂き、盛況に開催されました。
今回のシンポの目的ですが、基調講演で安形会長が言われた

「宇利城について解説できる地元の人が一人でも増えると良い。」

ということに尽きます。

本日の参加者の方は宇利城に登ったことがある方が結構お見えで、関心の高さが窺えました。


基調講演の後、宇利城址保存会の森さんから今年までに行われた宇利城保存活動について報告がありました。
本丸からの眺めがよくなり、歩きやすいように階段が付けられる等、地道ながらも宇利城の魅力を高める活動について知ることができました。

さて、その後がシンポジューム(シンポジウムではなくジュームという拘りが個人的には好きです。)。
なんと言ってもシンポ最大の目玉は、地元中宇利出身で㈱ジェイテクト社長の安形哲夫氏。
来場者も昔を知っている安形社長を見に来た、という方も多かったのではないかと思います。

本日は一城好きとしての立場でのご参加。日本百名城を選定したことで知られる日本城郭協会の会員でもあり、各地の城を訪れているということで宇利城についても解説をしていただきました。

御馬平で敵兵が2分割されて本丸などへ攻めかかる兵を分散させる機能や尾根を断ち切る堀切について全てを掘ってしまうのではなく片側に細く土橋として残す形態、尾根伝いの防御などを城のことをあまり知らない方にもわかりやすく説明されるのを聞いて、これは本格的に踏査されている城好きだということがよくわかりました。

また、城のまわりの状況について説明する際、字名などの超地元な話をされていても、聴衆の方達も普通に『あ、あそこね。』的な反応をされているのが個人的には面白かったです。
地元の方同士だからこそ通じる話、というのも本日の「地元の方に宇利城をより好きになって欲しい」という目的に適っていました。

地元ラジオ局パーソナリティの原田さんには、どちらかというと聴衆の方に近い感覚で参加してもらい、城好きだけにわかる話にならないように話を整理してもらう役割をしていただきました。
また、地元の東郷や千郷といった新城市の他地域の状況をお話いただき、八名地区や中宇利区との比較の参考となりました。
やっぱりしゃべりが本職だけあって、聴衆を盛り上げるのもさすが、といったところ。

そして、古宮城を含む作手亀山城下町の景観復原に取り組んでいただいた大学四年生の吉田さんからは、景観に関する話から宇利城の下に広がる街並みに関する視点をいただき、安形社長と宇利城だけでない麓集落全般の景観に関する話で盛り上がりました。

安形社長からは、宇利城だけでなく附近の比丘尼城や慈眼寺館といった全体的な保存状態が良好な中宇利区全体で保存を考えていくと面白いのではないか、というご意見も頂きました。



パネリストの皆様が大変に素晴らしく、一般の人には馴染みが薄い「土の城」がテーマであるにも関らず、結構会場からは笑いが起きるなど、ただ単に話をするだけでなく聴衆を沸かす話をしていただきました。

しかも、よくパネルディスカッションではパネリストが暴走気味に時間超過で話すことが多いにも関らず、本日のパネリストは全て明快かつ簡潔にまとめて話をしてくださるおかげで、当初予定していた時間が大幅に余ってしまい、ファシリをしている身としては時計を見ながら冷や汗がだらだら流れて止まりません。
あまりにさくさく話が進んでいくので、こちらも当初予定に無いことを聞いてしまったりしてパネリストの方々もさぞ迷惑しただろうな、と、思いながらも、私自身が大変楽しんで話を聞いていました。

後で時間があったならばフロアから質問を受け付ければよかったのに、と、指摘されて
「ああ、その手があったか。」
と、事前には想定していたにも関らず、慣れないファシリということもあって、完全に頭から飛んでました。
自分自身は反省すること多々あり、従来どおりの裏方仕事に徹しようと心に誓ったところです。

しかし、パネリストや聴衆の皆さんが素晴らしかったことに助けられてなんとか最後までたどり着きました。
また、今回は市民活動として開催されており、会場準備などをしてくださった皆さんに感謝申し上げます。
忙しい中、わざわざ他行事から駆けつけてくださった地元代議士の今枝議員や区長さん始め地域の役員さん方にも感謝申し上げます。

宇利城、古宮城、亀山城は国道301号で繋がり、国道151号と交差して、野田城、新城城、長篠城とも繋がります。
新東名も開通しましたので、長篠・設楽原の戦いの跡へ訪れたついでにどこか城を訪ねるのも面白いかと思います。
是非奥三河へ。

古宮城のEテレ放映内容が愛に溢れていた件

2016年02月13日 | 古宮城
2月9日(火)の午後9時半から「趣味どきっ!」の「お城へ行こう」という番組で古宮城が放映されると聞いて、どきどきしながら見てました。

事前に入手した番組テキストでは古宮城は見開きで4頁分。躑躅ヶ崎館よりも少ない。
まぁ、そら天下の武田信玄の本拠地が相手では、と、思って放送を見たところ

古宮城の方が放送時間が長いっ!!

驚いたのなんの。
しかも、古宮城の見所を余さず、そして簡潔に、かつ、わかりやすく古宮城を知るには、この番組を見て頂くのが一番!という内容でした。

※丁寧な解説をする千田嘉博奈良大学長。

最大の見所、両袖枡形虎口の映像に門の画像をはめ込んで、実際がどういう状況だったかが大変わかりやすく矢が飛んでくる様も矢印で一目瞭然。千田先生は、大堀切や北側の入り組んだ堀の解説の後、西の曲輪を馬出の進化版として解釈し武田式城郭の到達点として捉えられていました。

松村邦洋さんの「難攻不落にも程がある」というコメントが画面表示されていたときには「やっぱりそうだよねぇ!!!」と画面を見て言ってしまいました。


千田先生は実際には戦闘経験がなく自焼陥落した歴史にも触れられており、古宮城の全てが語り尽くされていました。


すっかり興奮して作手山城案内人で今回の番組づくりにも参加されていた原田純一先生にメールすると、速攻で折り返しの電話が。

「躑躅ヶ崎館が約10分、古宮城が約15分で古宮城の方が放映時間が長かったんですよ。」
とのコメントには、やはり同じ視点で見られていたなと思うと同時に、正確に時間を計られていたことに、上には上がいるものだ、と、感服。

「ディレクターの人が古宮城への愛を込めた編集をしたと言ってました。」とも。
確かに。時間もさることながら古宮城の見所全てが盛り込まれており、見ていて「好意的に紹介してくれているな。」と感じていただけに、編集している方も魅了した城だったのか、と、改めて古宮城の実力を知る。

「やっぱり愛情は見ていて伝わりましたよ。」と、話をしてましたら、原田先生は
「これも地域の皆さんや古宮城が好きな皆さんが草刈りなどをして見やすくしてくれたおかげですよ。昨年千田先生が見えたときに城が綺麗になって見やすくなっていたのが、数ある武田の城の中で今回古宮城が取り上げられた理由じゃないかと思います。」
との感想を述べられてました。

古宮城は土の芸術とまでNHKテキストに書かれていますが、まさにそう。

その埋もれていた宝物を磨こうという活動を立ち上げたのが当時新城JCだった加藤さん。
地元作手の原田先生や加藤さん、新城市の作手地区以外の皆さん、愛知県立大学の皆さん、市外のボランティアさんの協力で、少しずつ見やすくなっていった経緯を私も一緒に体験できたことが嬉しい限りです。

「姫路城や名古屋城、大阪城と並んでの古宮城ですからねぇ。国宝と並んでいるというのが信じられない。」
と、原田先生は言われてましたが、私も全く同感です。
これからも古宮城を好きになってくれた人達が一緒になって活動できると良いなぁと、思った次第です。

ここまで読んで「うわ、見逃した!」と思った方。

安心してください。再放送があります。

2月16日(火)のEテレです。
今度は忘れずに録画を。(笑)。

宇利城の保存を考えるシンポが開催されます。

2016年02月04日 | 
宇利城。

※宇利城石垣

どんなお城かと言えば
徳川家康が天下を取ることができたきっかけのお城
と、言ってよいかと。

① 徳川家康が江戸幕府を開けたのは松平家が三河国の支配者として戦国大名化できたから。
   ↓
② 松平家が三河国の支配者となったのは、家康祖父の松平清康が三河国を統一したから。
   ↓
③ 清康が三河国を統一できたのは、三河で松平家に最後まで抵抗した宇利城の熊谷氏を滅ぼしたから。

よって、家康が江戸幕府を開けたのは宇利城による、と、証明されました。(?)
風が吹けば桶屋が儲かる的な発想なのは否定しません。

宇利城攻めは、天下の御意見番として有名な大久保彦左衛門が書いた『三河物語』に詳しく記載がされているため、歴史好きにはそこそこ知られた戦いです。

吉田城の牧野氏を討った松平家は東三河の武士達をかなり帰服させますが、宇利城の熊谷家は松平家になびく気配がない。
この熊谷家は、源平合戦の一の谷の戦いで平家の若武者平敦盛を討取り武士稼業の業の深さを嘆いて出家した熊谷直実の末裔だそうです。この末裔の気概がぽっと出の松平家に従うことを潔しとしなかったのか何なのかよくわかりませんが、周囲の領主達と違い松平家に抵抗します。
そこで、松平清康は軍勢を率いて戦いを挑みますが、熊谷家も武名で有名な家なので激戦になります。
特に松平家の歴戦の特攻隊長松平右京亮親盛が大手口で孤立し討死。
右京と同じく大手口を担当していた清康の叔父松平内膳信定が救援しなかったことに激怒した清康は「一国にも代えがたい右京を討死させるとは!」と信定を激しく非難します。

以上の経緯が『三河物語』にはもっと詳しく記載されています。

ちなみに、宇利城で恥をかかされた信定は清康を恨み、この遺恨が松平清康が尾張織田家を攻めようとした際に部下に暗殺される「守山崩れ」を引き起こす原因となります。松平家は大混乱に陥り、織田家や今川家から侵略され孫の家康は人質生活を送る羽目になってしまいます。

清康が死ななければ徳川家が天下を統一したのはもっと早かっただろうに、というのが大久保彦左衛門の見解でした。

なお、熊谷家は織田家と結び松平家と対抗したという説を唱えているのが『改正三河後風土記』です。このあたりは証拠となる文書も無いので何とも言えません。

ちなみに、搦手口を担当していた清康は、内膳が助けず右京亮が討死する様を見て

「「内膳はどうして助けないのか」とこぶしをにぎりしめ、目をみ開き、顔をあからめ、歯をくいしばり、白泡をふいて、突立ち、にらみ、汗をおながしに」(ニュートンプレス社 原著:大久保彦左衛門 訳:小林賢章『原本現代訳 三河物語(上)』81頁)

なったそうです。

清康、激怒しすぎて血管キレそうになっています。

と、まぁ、こんなキレッキレな逸話を持つ宇利城の戦いですが、享禄三年(1530年)に松平清康は宇利城の熊谷備中守直盛を滅ぼした、と、『徳川実記』と『改正三河後風土記』に記載されています。『徳川実記』は徳川家の公式見解のようなもので、徳川家に都合の悪いことは書きません。『改正三河後風土記』も様々な既にあった文書をまとめたものなので、両書とも信憑性には注意が必要です。愛知県に関係のある古文書を集めた「愛知県史資料編10 中世3」の享禄3年を見ても特に宇利城に関する文書はありません。ただし、清康が文書を発給していない、あるいはこの時期の文書が散逸しているだけなのかもしれず、愛知県史にないから無いとも言えないため、通常は享禄三年が宇利城攻めの年とされます。

さて、この宇利城。
産廃施設を麓に作る計画があり、史跡としての保存が危ぶまれた時期もあったのですが地元中宇利区の尽力もあり、現在も見ることができます。
さらに、住民活動により間伐整備が進み、史跡としての整備も進んでいます。

こうした状況を踏まえ、今一度、地元の方や興味のある方に宇利城の歴史や保存活動を知っていただくとともに、今後の保存のあり方を考えるシンポジウムが開催されます。


2月21日(日)の午後2時から4時まで。
中宇利集落センターで行います。

宇利城保存会会長の安形伊佐男氏による基調講演や地元中宇利出身で㈱ジェイテクト社長の安形哲夫氏や地元ラジオ局アナウンサーらによるシンポです。
なお、安形社長は相当な城好きだそうでして、今年1月にはNHK大河ドラマの歴史考証等で有名な小和田哲男氏と対談もされているそうです。安形社長の宇利城トークも聞ける貴重な機会となっています。

参加は無料。
事前申込は不要です。
お気軽にお越しください。

なお、当日の同時間帯に、設楽原歴史資料館でも長篠・設楽原合戦を巡る最新の研究動向についてのシンポが開かれています。偶然日にちが重なってしまったのが大変残念です。
歴史資料館のものは今後の学説に影響を与えるようなスゴイ内容ですし、宇利城シンポは宇利城の保存活動を知っていただくとともに今後の保存を考えるための第一歩的な内容です。
それぞれ特徴がありますので、是非歴史にご興味のある方は、どちらかに参加して新城市の歴史デーを楽しんでいただけたらと思います。

開催日には、既に新東名も開通してますよ!

Eテレ『趣味どきっ!』に古宮城が登場するので見逃せないっ!

2016年02月02日 | 古宮城
NHK教育テレビの火曜日の「趣味どきっ!」という番組で、2月から奈良大学学長の千田嘉博氏が講師、バウバウの松村邦洋氏が生徒役となってお城の魅力を解説する「お城へ行こう!」が始まります。
午後9時半から。

2月9日放送の第2回目に「人は城、人は石垣、人は堀?『武田家の城造り』」として、

なんと古宮城が登場します!

躑躅ヶ崎館とのセットで。
古宮城の清掃活動を一緒に行っている原田さんから、年末にNHKが取材にやってきて案内した、と、連絡がありました。こうした活動で城が見やすくなっているので良かったと喜んでくださいました。

※昨年の整備活動の様子。

最近、千田先生があちこちで古宮城を取り上げてくださっています。
昨年の新聞記事だったと思いますが、武田家の城造りと織田家の城造りの違いを解説する中で、大将が最前線に移動する織田家は居城が強固な造りに、大将が代々の居城を動かない武田家は最前線の城が強固な造りになる、と、比較対象をされていました。その例として織田家が清須城、小牧山城、岐阜城、安土城、武田家が躑躅ヶ崎館、高天神城、丸子城、古宮城が示されていました。

おそらく、今回躑躅ヶ崎館とセットで紹介される、ということはこの辺りを詳しく説明してくださるのでしょう。古宮城は徳川家の改修があった説が最近では有力ですが千田先生は武田家の城として整理されているようで、その辺りのお考えもわかるといいな、と、城オタク目線では期待しています。

ちなみにこのシリーズ。
第7回目には「徳川家康が目指した理想の城」として名古屋城も登場します。

空襲で燃えてしまい観光客の評価は今ひとつの名古屋城ですが、実は大砲にも対応した最新鋭の「要塞」としての性格を備えた最高峰の城。このあたりをしっかり説明してくれることでしょう。再建するならな天守よりもっと大事な部分がある、ということも説明するのではないでしょうか。大手馬出の復元とか。

詳しくは、下記の番組ホームページをご覧ください。

※上記の画像をクリックするとNHKのホームページへ飛びます。

しかし、全く無名の時代に出会った古宮城がこうして有名になっていくのを見るにつけ、なんとなくアイドルを応援する人達の気持ちがわからんでもないなぁ、と、思う今日この頃です。