長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

ちょんまげマーチ ~恐怖の月代(さかやき)~

2012年06月28日 | 日本史
 教育テレビ「おかあさんといっしょ」を見ていると、たまに♪ちょんまげちょんまげちょんまげマーチ、ござるでござるでござるでござる~…、と歌っている時があります。
 案外耳に残るんです。
 最初聞いたときは、なんとふざけた歌だと思ったんですが、2回ほど聞くと鼻歌歌ってるときがある。おそるべし。大体、ござるでござるでござるでござる、ってなんだよ、って言いたくなります。
 とにかく軽快な歌です。ユーチューブで検索されると聞けると思います。

 甲子夜話ばかり読んでいても疲れるので、目先を変えて積読になっていたルイス・フロイスの「日欧文化比較」を引っ張り出して読んでみました。
 日本の戦国時代に宣教師として来日したルイス・フロイス。彼の「日本史」は日本側の記録には現れない違った観点から書かれているため、面白い視点を提供してくれる史料として有名です。(織田信長の声が甲高い、とか。)
 そんな彼が、日本と西欧の文化の違いをまとめた天正年間に書かれた小冊子だそうです。
 誤解や勘違いがある可能性はあるにせよ、貴重な記録として残されているものです。

 そんな記録を読んでいたら、戦慄すべき話を見つけてしまいました。

『男性の髪型』(日欧文化比較第1章7 岩波書店 503頁)
 われわれ(ルイス・フロイス)の間では人々は髪を刈りに行き、禿頭にされると侮辱されたと考える。日本人は毛抜きを用いて、自分で毛の残らないように、全部抜いてしまう。そのことは苦痛と涙を伴う。

 えっ!!!!
 ちょんまげ、いわゆる月代(さかやき)ですが、前頭部から頭頂部の毛をなくし、側頭部と後頭部の毛を伸ばして髷を結う、というものです。

※参考画像
 これは、兜をかぶると蒸れるので毛をなくしたと言われていますが、剃っているとばかり思っていました。そうではなくて、抜いていたそうです。そりゃあ毛髪を抜けば痛いに決まってます。しかも泣いていた、と。
 この話の解説部分に「『慶長見聞集』に「…をのこの額毛頭の毛をば髭剃にてもそらず、けつしきとて木を以ってはさみを大にこしらへ、其けつしき頭の毛をぬきつれば、かうべより黒血流れてものすさまじかりし也。」とある」とあります。
 慶長見聞集は別の日本人が書いた話です。そうなると、フロイスが何か拷問現場に居合わせて、それがちょんまげ作りのスタンダードだと思ってしまった訳でもなさそうです。
 永禄・天正時代の人達って、巨大な毛抜きで髪の毛を引っこ抜いて血だらけになってあのちょんまげ頭を結っていた、という、かなりショッキングな事実が判明しました。

 で、ウィキで月代を調べたら「戦国時代になると、さかやきが日常においても行われるようになった。それまでは毛抜きで頭髪を抜いてさかやきを作るのが主流であったが、頭皮に炎症を起こし、兜を被る際に痛みを訴える者が多くなったため、この頃を境に毛を剃ってさかやきを作るのが主流となる。」とあります。
 そりゃ、炎症起こるわな。で、兜が被れなければ、ちょんまげにする意味がない。

 と、いうことは、織田信長も毛を抜いて血だらけになってた、て、ことなんでしょうか?ひょっとして本人が激痛に耐えながら髪の毛抜いていると言うのに、明智光秀ときたら禿頭なので抜かなくてもちょんまげが結える。それに腹が立ち「キンカ頭」とからかったり、果ては暴行を加えて本能寺の変の原因を招くことになったのか?!
 な、訳はないでしょう。
 血だらけの織田信長見たら家臣はドン引きだったことでしょう。

 しかし、なんで剃らずに抜いてたんでしょうか?しかも、あんな広範囲。
 想像するだけで恐ろしい話です。普通、剃るだろう、と。

 そりゃあ、フロイスも書きとめたくもなるわな、と、納得してしまいました。

 狂気の沙汰にしか見えなんだだろうて・・・。

鳥獣害対策今昔

2012年06月26日 | 日本史
 本日は作手地区へ行っておりました。途中、金属フェンスでぐるりと囲われて、集落への入口にフェンスの扉があり、口をあけている地域がありました。
 最初見たときはギョッとして、いつの間にか極秘基地でもできたのか、と、思ったのですが、さにあらず。
 農業をやっている方々の田畑へ猪鹿猿がやってきて食い荒らしていく、いわゆる『鳥獣害』の対策として、電牧柵の設置では間に合わないので集落そのものを囲い、柵の中で人が暮らす、という状況になっている訳です。
 都会の方々からすると可愛らしい猿や猪であっても、この辺りの人にしてみれば生活基盤を脅かす害獣な訳です。
 私は名古屋の都心部にも便利な場所で生まれ育った訳で、たまに田舎に来て野生動物に会うと「おお、素晴らしい自然だ。」などと言っていたわけですが、いざ、こちらに住んでみて鳥獣被害の深刻さを聞き、また、自分で家庭菜園にしては規模のでかい畑などをやっていると、鳥獣被害にあった場合の憎らしさや無念さがわかってくる訳です。幸い、私は鳥獣被害がない場所でやってますので、良いのですが・・・。
 で、作手の集落に築かれた「万里の長城」を見て、こりゃ大変だなぁ、などと思っていたところ、なんと、甲子夜話に鳥獣被害のことが載っていたので、ご報告いたします。

『鳥獣害対策 in 越前』(甲子夜話1 巻八 23 142頁)
 私(松浦静山)の医師で越前の生まれの者がいる。その者が言うには、越前は山国なので大変寒く雪も多い。また、鹿も多く生まれる。そのため、農夫達は雪が降る頃を見計らって、数百人が寄り集まり、鹿を山から追い出して谷間に追い込む。
 谷間の川の流れには予め竹で格子を作っておき、雪に埋めておく。鹿は流れを渡ろうとして竹の上に登ると四足が格子に嵌りこんでしまい、動けなくなる。
 その時に皆駆け寄って竹槍でこれを突く。
 一回で30頭、多いときは百四、五十頭にも及ぶ。
 そのため、寒さが強い冬の翌年度は必ず豊作となる。
 これは、雪による恵みだけでなく、通常ならば鹿が多くて穀物を食い荒らすのが、鹿が沢山取れるために豊作になると言うことだ。
 その国の人にとって見れば当たり前のことでも、山や川を隔てた場所ともなれば、同じ国でも知らないことが多いものだ。

 おおお。
 原文の翻刻では『常年鹿多くして穀を害す。』とあります。
 江戸時代には狼がいたり、周辺の植生がよかったので、あまり鳥獣被害がなかったのか、と、思っていたのですが、そうではなくて、結構鳥獣害にあっていたことがわかります。意外だ。
 そして冬に鹿狩りの有効な方法があることを紹介してくれています。
 作手にはそんなに雪が降らないでしょうから、難しいかもしれません。
 まぁ、鹿といえども今では天然記念物だったり、あるいは保護対象になっていたりするので、むやみやたらに取れないので、仮にこの方法を勝手に実行して、竹槍で「えい」とやってしまうと警察のお世話になるかもしれないので、お勧めできません。

 江戸時代であっても鳥獣害があり、そして庶民も知恵を使って対抗していた、ということがわかります。

 人間と動物の知恵比べはこれからも続くのでしょうけど、山間地の現状も多くの方に知ってもらいたいものです。

外科医 杉田玄伯 ~過去の合戦における負傷状況を分析す~

2012年06月23日 | 日本史
 最近、本業の多忙と子育てのため城などの史跡巡りもできず、何かについて根気よく調べることもできません。そのため、息抜きに甲子夜話を読み続けているため、どうしても日記の内容が甲子夜話に偏ってしまいます。

 そんな中「こりゃすげぇ。」と思った話を見つけました。
 あのターヘルアナトミア、解体新書を訳した解剖学者にして外科医の杉田玄伯が、過去の合戦における怪我の状況を分析していたのです!

『外科的見地による鎌倉権五郎の負傷状況分析』(甲子夜話 巻三 二十四 54頁)

 浅草寺で桑山修理という人と話をしている中で、桑山が言うには、
「前に千本吉之允と武辺談義をしていたとき、鎌倉権五郎景正が敵に目を射られてしまい、矢が兜のシコロ部分にまで届いてしまった状態で、その敵に対して矢を射掛けて倒した話が出た。
 その場には外科医の杉田玄伯がおり、彼が言うには
『目を射られれば矢は頭の中に入ってしまいます。兜のシコロまで届いたとすると、矢は脳を貫いて(いわば串刺し)いることになります。総じて人体の中で、脳と心臓部分に傷を負うと命はないものです。いわんやこれらの部位を貫くような状況であっては、いかに剛勇な人であってもそのままの状態で矢を射返すことはできる訳がありません。そうなると、目を射られたというものの、目尻の辺りであって頭蓋骨の脇を貫通してシコロの端へ射抜いた、と、思われます。それならば脳は損傷しないので、治療可能な傷であるといえます。』
 とのことだった。」
 その話を聞いて私(松浦静山)は、流石は外科医、と、感心したものだ。
 伝承をそのまま記録した文章であっても、実際に目撃すれば玄伯の言うとおりだろう。(ちなみに鎌倉権五郎の話とは後三年の役のときのことで、後三年合戦絵詞の文を書いておこう。相模国住人、鎌倉の権五郎景正と言う者がおり、先祖より知られたツワモノだった。わずか16歳で命を捨てて戦っている時に、敵の矢が右目を襲った。矢は頭を貫いて兜のシコロまで貫通した。しかし権五郎は矢を射返して敵を討取った後退いた。・・・この後刺さった矢を抜こうと、権五郎の顔を踏んづけたら権五郎が怒って、軍で死ぬのは名誉なことだが、大丈夫の顔を踏むとは何事とエライ剣幕でおこった・・・。)」

 ウィキで鎌倉権五郎を調べたら、こんな図がありました。

 まさに、杉田玄伯が解説していたときの状況でしょう。

 「矢が目から入って頭を貫いて兜のシコロまで届いてしまった」
 という文言を話題にしたとき、なんとなく皆、矢が顔の正面から襲い、眼球から後頭部を貫通して兜のシコロで止まった、と、思っていたのでしょう。だから、そんな状況で射返すなんて権五郎の強さは半端無い、と、話をしていたのだと思われます。
 しかし、外科医杉田玄伯はそれじゃ死んでしまうのでありえない、と考え、上記の文言と射返したという状況から、脳へのダメージが無かったと考え、脳を損傷しないで目からシコロへ矢が抜けるとしたら、矢は斜めに刺さり眼窩の横の側頭部を貫通し、兜のシコロといっても端に近い部分だろう。それなら矢を射返すことも可能だし、治癒も可能だと思う、と、見事な分析をしてくれました。
 手に紅茶を持っていたかもしれません。(それは杉下右京)

 なるほど。
 
 江戸時代に松浦静山が感心したのと同じように、私も感心しました。
 まさか、オランダ語を解読したということだけで知っていた杉田玄伯に自分が感心させられるとは思ってもいませんでした。

 たいしたもんだ、杉下、いや、杉田玄伯。

江戸時代の医療

2012年06月19日 | 日本史
先々週まで風邪によるものと思われる体調不良が続いており、熱がないだけで喉、鼻、だるさ、頭痛、という各症状はある、というやっかいな状況でした。
結果的に薬も飲まず、医者にもかからず、仕事しながら治す、という状態でしたが何とか治りました。
熱がある、あるいは、もう少し仕事に余裕があれば医者へかかったであろう、と、思いながら例により甲子夜話を読んでいると面白い話がありました。

『医者と山伏の口論』 (甲子夜話1 巻十 26 平凡社)
 私(松浦静山)の領内の村々には郷医と呼ばれる者がいる。この者は領内の人々を治療している。田舎の病には祈祷してもらう場合も多く、山伏に頼んで祈祷してもらう場合も多い。ある日、病人の家に郷医と山伏が鉢合わせして、病人が治ったのはワシの祈祷のお陰じゃ、いや、薬の効力だ、と、止まらない口論になった。
 しばらく後に、郷医が言うには
 「そこまで祈祷に効力があると言うのであれば、お前はまずワシを呪い殺してみよ。見事呪い殺せば皆お前の効力にひれ伏すことだろう。

 しかしだ。

 ワシはお前に毒薬を渡すから、今ここで飲め。薬の効能が証明されるのをワシは待つ。」と郷医がいったので、流石の山伏もこれに辟易してその場所から逃げていったと言う。

 とんち話、あるいは笑い話のような話です。
 医者の機転に座布団一枚、という感じです。

 しかし、この時代、医者にかかれず薬に心得のある街医者的な人や山伏に祈祷してもらうことを普通の人達はしてもらっていた、ということがわかります。
 もっとも、鉢合わせしてしまった、ということは、家族がそれぞれ信じるものを、てんでばらばらに頼んでしまったのか、それとも、とにかく治ればとやたらに頼んだかは不明です。
 そして、薬が直接効いたのか、はたまた、精神的な効果から祈祷が効いたのかわかりませんが、この人は治った訳ですね。まぁ、軽い風邪のようなものであれば、私のように何もしなくたって治るわけですから、どっちが効いたのかはわからんわけです。
 まぁ、最後は取り分を巡って争う訳ですが、直接的には薬の方が効く、という結果になっているようです。
 しかし、ここで一つ疑問が。

 この郷医、なぜか毒薬を持ってるんですね。
 なんで持ってたんだろう・・・?

年寄りの冷水 ~井伊谷三人衆の子孫~

2012年06月17日 | 奥三河
山家三方衆というのは、奥平、田峯菅沼、長篠菅沼、という奥三河の有力三家を総称した呼び名です。
対して、徳川家康の遠州侵攻時に大きな役割を果たした、鈴木、近藤、菅沼(長篠菅沼支流)の三家を井伊谷(いのや)三人衆と呼ぶ場合があります。
山家三方衆ほどの大きさではなく、また、ドラマがある訳ではありませんので地味な存在です。

そんな地味な三人衆近藤家の子孫が『甲子夜話』に逸話を残してくれていました。

○近藤石見守(甲子夜話1 巻二 42 39頁 平凡社)
 近藤石見守(遠州気賀領主。三千四百石程度で交代寄合)は、寛政年間中大番頭だった。この人、武術を嗜み大変に武張った男で、私(松浦静山)も知っている者だ。
 ・・・、常の楽しみは刀作りだが、結構折れ易いものだった。人々は「あいつの気象だから刀も剛に過ぎるんだろうよ。」と評していた。
 酔えばなんかあると「俺は部下を率いて気賀の関を守り、(攻めてくる)西国大名を一人も通すものか」と気勢をあげた。
 後に駿府城代に出世し、部下に武技を奨励した。矢の訓練の時には、高い木の枝に的を掛けたり、あるいは射る人を高いところに登らせて下の的を射させるなどした。そして、部下どもは水泳を鍛錬しておらん、と、城内の池を自ら泳いで若い人々を教えていたが、高齢だったので池の水が原因で病気になり、亡くなってしまった。

寛政年間中ですから『寛政の改革』で有名な松平定信の頃な訳です。そんな頃にやたらと武に拘った人が井伊谷三人衆の近藤家に現れたようです。自分で武器を作って、やたら実戦ぽい訓練をする。どうも、今なら結構な軍事マニア的要素を備えている感じです。世が世なら俺は頸取って出世した、くらいに思っていたことでしょう。
しかしながら、歳には勝てず、池の水にあたって病気になってしまったとか。そりゃあ、池の水だから澱んでいたことでしょう。そんな水の中に入れば、当然様々な病原菌がいるわけで、御高齢のために命取りになってしまった、という訳です。
まぁ、自分の生き様に殉じた、とも言えないことはない・・・。

こんな激しい人は一体誰なんだ、と、思って『長篠戦史 第三分冊 井伊谷三人衆』(発行 長篠城址保存館)で調べてみました。
寛政の頃の気賀近藤家当主は、7代目用和(もちかず)。
経歴を見ると大番頭かつ駿府城代になっている上に石見守の受領名を名乗っている。そして、寛政11年10月29日駿府城内で51歳で亡くなられています。
そしてこの用和の息子用恒(もちつね)の項を見てみると、29日に用和が病死して即日城内を引き払った、と、あります。
どうやら用和の病死は突然であり、死が穢れとされているので主君の城で死を迎えることが失礼なので即日引き払わざるをえなかった、と、思われます。

う~む。間違いなく、甲子夜話のいう近藤石見守は用和氏でしょう。

まあ、気が若いのはいいですが、自分の年齢と言うものは、そこそこ考えながら行動しないといけない、という教訓を残してくれているようです。

しかし、そんな池で泳がされた部下達。結構体調不良者が出たんだろうなぁ。
こんな上司は嫌だ。

長篠合戦図屏風

2012年06月13日 | 日本史
甲子夜話を読んでいましたら、ブログタイトルにも関連する長篠合戦図屏風についての記載がありました。

『火縄銃の撃ち方』(参考:甲子夜話5 巻七十七 十二 274頁 平凡社)
成瀬隼人正の家には長篠合戦の古い絵図があるときいており、あるとき思い出して借りることを申し入れたら、昔部屋住みだったときからの誼でと貸してくれた。
それで模写をさせている時にじっくり見てみると、長篠城から武田軍が負けて武田の武将が多数討死している様や兵馬や旗などの様が、実に迫真の図に見える。きっと、当時目撃した人が書いたものじゃないかと思う。
信長と家康公の兵が陣を並べて火縄銃を撃っている場面を詳しく見てみると、信長の兵は10人中1~2人だけであるが、家康公の兵は全て片目をつぶって撃っている。
最初に思ったのは、田付武衛流などは両目を開いて撃っているので、自分の領内撃ち方は田舎の昔風だと思って、今は全て田付武衛流にした。しかし、家康公の生存していた時期はもっぱら片目をつぶる撃ち方があったのが、これで知られる。
荻野長が言うには、先年系譜の修正の仕事をしていたら、稲富氏の系譜の中に片目で火縄銃を撃つ方法を家康公に申し上げた由が書かれていた。そしてその時、稲富氏に対して家康公が与えた御誓書は現在孫に伝わっているという。この稲富流は世によく知られている。昔稲富流を将軍家が採用したことはこの絵を見てもわかる。又、うちの領内に伝わった片目撃ちの流派は真柳流という。今は名前だけで伝わっていない。

江戸時代の大名松浦静山が成瀬家から借りた屏風を見ると、織田兵は両目を開けて鉄砲を撃ち、徳川兵は片目をつぶって撃っていた、ということを書いています。そして、屏風の迫力から実際に従事した人が書いた画と推定しています。
さらに、自分の領内の撃ち方が片目撃ちだったのを田舎くさいからと両目明けの流派に変えてしまったけど、昔の家康公のころは片目撃ちだったのか、と、感心しているわけです。

では、どうなのか、と、手元にある「絵で知る日本史 長篠合戦図屏風」

を見てみると、

確かに、徳川兵は片目をつぶっている!
実際「鉄砲を撃つ兵が皆、左目をつぶって照準を合わせているのがおもしろい。」との記載もある。
おお~、と、思って次に織田兵を見てみる。

お、織田兵も片目をつぶっている・・・???

ええ?と、思って妻がビーズ織りで使うルーペを借りてみてみる。
う、やっぱりつぶっているように見える。
念のため妻に確認を依頼するとやはりつぶっていると。
一人だけ開いているように見える人が屏風上方にいますけど、織田兵のほとんどがつぶってる。
ちなみに徳川方、大久保隊12名と大久保隊近くの山影近くの1名、榊原隊9名は全て目をつぶっているように見えます。(山影近くには火縄銃の銃身だけが見える人もいますが、顔が見えません。)
織田方、前田隊5名は全て目をつぶり、福富隊5名のうち下から2人目が目を開けているように見えますが、その他4名は目をつぶっているようです。

ちなみに、この屏風は犬山城白帝文庫の所蔵品。と、いうことは成瀬家所蔵品。
松浦静山の証言と食い違います。

複数作成されたと思われますので、ひょっとすると松浦静山が見たものと今伝わっているものが違うのかもしれません。

実は私は徳川美術館所蔵品の長篠合戦図屏風のミニチュア(㈱東京美術)を持っています。
よし、これならばひょっとすると。

調べてみると、織田方福富隊5名と前田隊5名全員が両目開いている!
おお!!!
では気になる徳川兵は?!
大久保隊6名が両目開いてるんですけど・・・。4名は確実に片目つぶってます。どちらか不明が3名。榊原隊は3名は確実に両目開いており、3名は確実に片目つぶってます。どちらか不明が3名。

え~と・・・。
一体松浦静山は何版を見たんでしょうね。

そういや、鉄砲隊は4箇所に分かれて描かれていますが、激戦地跡は、丸山、大宮、竹広、勝楽寺の4箇所。敵が渡りやすい場所に鉄砲を集中配備したのではないか、というのが最近の説のようですが、画的にもそれを再現してるんでしょうかね?

ところで、これを調べている間に気がついたのですが、鳶ヶ巣砦奇襲隊にも鉄砲隊500をつけた、と、信長公記に記載があるのですが、いずれの屏風にも奇襲隊に鉄砲は描かれていません。
写真じゃないから正確ではないでしょうけど、松浦は「迫真だ!」とべた褒めしているのが奇襲隊の辺りなんですけどね。まぁ、松浦公は平和な時代の人ですから想像で感想を述べたに過ぎないのかもしれません。

と、まぁ、屏風をじっくり眺めてみた感想を述べてみました。
専門家の方のご見解をお聞きしてみたいものです。

のぼうの城

2012年06月10日 | 
「のぼうの城」は一昨年くらいにヒットした小説だったかと。埼玉県の忍城が舞台で豊臣豊臣秀吉の小田原攻めの際、石田三成が高松城攻めを意識した水攻めをして堤防が豊臣側に切れて失敗に終わり三成の戦下手の評価を決定付けた戦いとも言われています。その戦いをライトノベルぽく書いた「のぼうの城」はヒットしまして、ライトな歴史小説と言う新ジャンルを開いたといわれていたものです。

さて、その忍城について甲子夜話を読んでいたところこんな記事がありました。

『忍城』
忍城は武州埼玉郡にあり。この城の案内をよく知っている人がいた。この城は堀が特に多く、家臣が城主のところへ出仕する際、多くは堀を船で渡って行くという。

もともと水や低湿地の足場の悪さを城の防御に活かす考え方も多くあります。もっとも、水はけが悪いと言うことは、水がつきやすい場所でもあるわけで、その弱点を大土木事業で攻撃材料に変えてしまったのが羽柴秀吉による高松城攻めだった訳です。
忍城も同じような地形であったため、豊臣秀吉におもねった三成が同じ攻め方で行ったところ、若干地形が違っていたのと、堤防の幅が小さかったのとがあったようで堤防が決壊。豊臣側に流れ込んでしまった、というのが通説でしたが、最近では、豊臣秀吉の指示に従って三成が実施し、失敗したので三成のせいにした、という説も有力のようです。
そんな城だけに、城で主君のところへ行くのに船を使うとは、流石です。
さらに、

城の上に流川があり、これを引き入れて堀の水としている。そのため、時期が来ると城の下の堀障子を開いて堀の水をことごとく出し、乾堀にして掃除し、また水を引き入れて満たしたと言う。この堀を開いたときに魚が沢山流れ出て、皆が寄ってたかって取り合い、にぎわったという。

私が「ほぉ~~。」と思ったのは、水堀はたまに掃除する、という点です。
そして、忍城は障子堀だった、ということもわかります。障子堀は堀底に土塁のようなものが築いてあり、歩きにくくしてあります。土塁が上から見ると障子の桟のように見えるわけです。で、その土塁の一部を壊して水を流す、ということをするのだな、と。

個人的には汚臭を放つほどぐだぐだになった堀であれば、敵も「うっ。」となってかえってよいかな、と思ったのですが、住んでいるほうもたまらないので掃除する、っていうことなんでしょうかね・・・。

城普請の御役というものは住民にとって重い負担だったようです。でも、魚を貰う、っていうのが役得だったんでしょうか。
城の維持って大変ですね。


鳴かぬなら・・・

2012年06月06日 | 日本史
江戸のブロガー松浦鎮信の子孫、同じくブロガーである松浦静山書いた『甲子夜話』を読んでいたら「なんじゃそりゃ。」というのを見つけましたのでご報告です。
「なんだよ、また『変態の日本史』かよ。」と思われた皆様。ご安心を。今回はお子様でも安心してお読みいただける内容となっております。

○「鳴かぬなら」異聞
夜話である人が言うには、誰かがある人に仮託して作ったものだろうけどその人の性格をよく現している、という。
お題「ホトトギスを送った人が鳴かなかった。さて、どうなる?」
織田信長『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』
豊臣秀吉『鳴かずとも鳴かして見せようホトトギス』
徳川家康『鳴かぬなら鳴くまで待てよホトトギス』
この他に、ちょっと憚られる内容なので誰のこととはいえませんし、仮託して作ったものなので作った人の名前も当然いえませんが、こんなのが2つありました。
『鳴かぬなら鳥屋へやれよホトトギス』
『鳴かぬなら貰っておけよホトトギス』
(参考:東洋文庫 甲子夜話4 巻五十三 八 平凡社)

あの三英傑の性格を端的に現したといわれる「鳴かぬなら・・・」の歌には、江戸時代別に2首あった!と、松浦静山は記しています。
①鳴かないならば鳥屋へ売ってしまえ
②鳴かなくても貰っておけばいいじゃん
という内容のようです。
ちなみに、この2首、誰のことかと特定するとちょっと気まずい人だ、とも言っています。①は金が好きだ、という内容ですし、②は蓄財が好き、という、どちらも貪欲さを表している内容だと思います。

一体誰なのか?

むむ、蓄財に熱心で江戸の殿様が憚られる人・・・。田沼意次?前田利家?・・・?
残念ながらその記載はありません。

もっとも、どちらも三英傑に比べるとかなりな小者感がありますし、何より、歌としての完成度が低い気がします。
と、なると、夜話中に三英傑のホトトギスの話になり「そんならアイツはさしずめコレだな。」と松浦静山とその仲間達で勝手に詠んだのではないか。私はそんな気がいたします。

城旅に行った帰り、ほどよく疲れて風呂も飯も済んだ状態で午前0時近くの車中に大ウケしていた内容が、白日の下に晒されると一体何をそんなに盛り上がっていたのか不思議、ということが良くあります。

2首もこれと同じなのかも。。。

バックヤードツアー Vol.2

2012年06月02日 | 奥三河
山城デジタルスタンプラリー感謝祭、当選者限定『湯浅主任学芸員による設楽原歴史資料館バックヤードツアー』の第2回目でした。これにてツアーは終了です。当選された方おめでとうございました。
本日も私は運転手ボランティアと言うことで同行が叶いました。
午前中は前回と同じく資料館内案内でした。

第2回目の方もいるので前回は詳しく書きませんでしたが、例えば、野田城で笛の音に誘われた武田信玄を撃ったとされる『信玄砲』なる戦国時代の火縄銃の銃身が地元に残されているが、火縄銃は自動車のようにリサイクルされるもののため、なんらかの伝承がないと残そうとする意思が働かない。島津では井伊直政を撃った鉄砲をわざわざ残していることから、信玄砲が残っているのは、早い段階から地元には信玄が撃たれたと言う伝承があったことがうかがえる。

※信玄砲を前に湯浅氏説明。この写真は第1回目のもの。
稲富流練習用鉄砲には鉄砲の中ほどにぽっちが付いていて、そこを持てば火縄銃が安定するよ、などの工夫がなされている、とか、

※写真奥の鉄砲が練習用。

※ぽっち部分拡大図
鳥居強右衛門は逆さ磔にされたとの説はもはや間違いと言っていい、とか、

※郷土の英雄、強右衛門。決してその格好のみに目を奪われてはいけない。
この他にも多数の最新の学説に基づいた湯浅主任学芸員の説明がありました。
その後は前回も行われた鉄砲の解体ショー。

相変わらずの高速作業でした。
その後、本日は前回と違い鳶ヶ巣砦へ向かいました。
ここもまた狭い道でしたが、なんとかクリア。鳶ヶ巣砦もなかなかわかりにくい場所にあります。



鳶ヶ巣砦から長篠城を望む。

設楽原鉄砲隊隊員でもある湯浅氏から実際に火縄銃を撃ったときの音などから鳶ヶ巣奇襲と設楽原合戦を想定した話もあり面白かったです。(音が設楽原までは聞こえなかったのではないか、というものでした。)
その後は長篠城を見学。

そしてあのわかりにくい武田勝頼観戦地へ。

最後は馬防柵復元現場で思いを馳せて終了、

と、いう運びとなりました。

こうした面白い企画が、またできるといいですねぇ。
山城デジタルスタンプラリーにご参加いただいた皆様、ありがとうございました。