長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

『病が語る日本史』と新型コロナウイルス感染症

2020年04月12日 | 日本史
新型コロナウイルスの猛威で、社会が機能不全になるという未知の経験をしています。
人が集えないということが、どれほど影響が大きいのかを思い知った感じです。3月末ぐらいの流行が収束しそうな時に、色々とお店で状況を聞くと、仕事にならないので大変だ、と、いう話をよく聞きました。そこで収束してくれれば、と、思っていましたが、4月に入って、より感染者が増えて、政府や県が緊急事態を宣言する状況に。早くこれが過去のものになってくれると良いのですが…。
将来、当時の市井の人々の認識はこんな感じだった、という意味でも、自分の知りうる範囲を書いてみました。

さて、やはりコロナウイルスと対比で出てくるのが「スペイン風邪」。
Wikipedia(2020.4.12現在)では、「スペインかぜ(スペイン風邪、英語: Spanish Flu (influenza) )は1918-1920年に世界各国で極めて多くの死者を出したインフルエンザによるパンデミックの俗称である。第一次世界大戦時に中立国であったため情報統制がされていなかったスペインでの流行が大きく報じられたことに由来する(スペインが発生源という訳ではない)。」とのこと。
全世界で流行し、次々と罹って社会をパニックに陥れるという意味で似ていると言えます。

こんな病気は、文明の発達した現在、ありえないだろう、と、たかをくくって40年を越えて生きてきましたが、今でも十分起きうることに慄然としている訳です。
昔もインフル大流行はあっただろうし、どんな状況だったのか知りたいな、と、思って本棚を何気に眺めていたら、積読になっていた本を発見。


『病が語る日本史』(酒井シヅ、講談社学術文庫、2008.8、1050円+税)

ぱらぱらとめくってみると、やはりある。「万病のもと風邪」(142ページ~)
862年(貞観四年)に
インフルエンザの流行が記載されており、「咳逆を患い、死者多数」と『三代実録』にあったそうです。この時は、3年程度大流行したとか。貞観十四年には「京に咳逆が発生。死亡者多数」だそうです。その時は、渤海国の客がインフルを持ってきたとの噂があったそうです。平安時代にも、鎌倉時代も大流行で多くの人が亡くなったそうです。この時も、流行した際には、外国人がやってきており、外国からもたらされる、と、認識されているとか。
江戸時代は鎖国で大流行の記録がなくなるそうですが、1730年(享保十五年)に鎖国の窓口長崎から流行が始まったそうです。その前の年からロシア、ドイツ、スイス、イタリアでインフルが世界的流行だったとか。そして、怖ろしいことに、その3年後の享保18年、6月から7月にかけて全国的に大流行し、江戸の町では夏の一か月で死者が8万人を越えたそうです。火葬も追い付かず、海に死骸を流して対応したとか。
その後もインフルは定期的に大流行するそうですが、愛称をつけていたとか。
そして、スペイン風邪では、1918年から1919年に世界的大流行で、日本の大正7年、8年、9年の死亡原因の第一位がスペイン風邪による肺炎だったそうです。

上記からは以下のことがわかります。

・数年かけて流行していること
・6~7月という夏でも流行ること
・数年後に再度流行することがあること


と、いう事実です。
今回のコロナも、同様の可能性がある訳です。新薬開発のスピードは以前に比べれば早いので、それに期待したいところですが、そうでなければ、相当な長期戦の覚悟が必要ということです。

正直、この近代化の時代では、そのうち治まるだろうと思っていましたが、そういうものではない、と、言えるのかもしれません。少なくとも、感染者が倍々ゲームで増えていく今、警戒しすぎることはない、と、言えるのかもしれません。
とにかく、手洗いと口・鼻・目に手をもっていかない、を徹底しつつ、人との接触を避けまくるしかないのかもしれません。

自分で本の紹介ブログ書いて、怖くなってしまいました。
くわばらくわばら。

徳川家康と武田氏

2020年03月29日 | 日本史
コロナウイルスの影響で色々と生活に支障を来している人も多いかと。
自分も頼まれていた講演が延期となりました。奥三河の戦国時代について城と絡めて、という依頼でした。
実は、あまり公にしてはいませんが、こうしたご依頼を頂くことが稀にあり、年に1回程度、人前で話す機会があるのです。
あくまで、私の場合は素人としての立ち位置で、城を巡ってると楽しい、という自分の体験をお話しするような感じです。

ところが、最近、別分野で大学院へ行っていたこともあり、歴史関係から離れていました。
そんな状態で話などできない、と、いうことで、慌てて買ってきて読んでいた本が、この本。


本多隆成『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』吉川弘文館、2019年 1800円+税

近年、武田に関する研究が猛烈な勢いで進んでおり、数年前の知識では古くなってしまっているので、とても人前で話すことなどできない、と、考えて、この本と、以前ご紹介した『戦国大名武田氏と地域社会』を買ってきて読んでいました。
泥棒を見て縄を綯う。泥縄とはまさにこのこと。

この本多氏の本は、不思議と読んだことがなかったのです。
徳川家康の研究者として有名な方だというのは知っておりました。
奥三河について考える上で、家康の存在は大きい。そこで、改めて家康研究の本をしっかりと読んでみようと思った訳です。
これが、正解。
本多氏は研究者としての立場を大事にされており、学説に対して真摯に向き合う姿勢を打ち出しているため、この本では様々な先行研究を紹介し、それらについて、自説との違いや修正点などを丁寧に書いています。

例えば、信玄による遠江侵攻。元亀二年の武田氏による奥三河侵攻を否定したことで衝撃を与えた鴨川達夫氏による新説のうち、遠江侵攻軍のどのルートに信玄がいたか論争について、ていねいに解説をしています(107ぺーじ~120ページ)。
鴨川氏の論点と本多氏の論点を整理して、信玄は信州から南進してきたとする鴨川氏に対して、駿河から西進したとして反論し、結果的に、西進軍が信玄本体であると結論付けています。このあたりは、根拠となる論文を併せて読みたいところです。残念ながら、鴨川新説に対する本多氏反論と鴨川氏再反論、本多氏反再反論は入手できていません。

また、個人的に一番興奮したのは、南進軍(山県・秋山別動隊)のルートとして、「信濃から青崩峠ないし兵越峠を越えて遠州に入り、さらに浦川(浜松市天竜区)から三河へと進出した」(123ページ)という一文です。この侵攻ルート、今一つわかりやすく解説した本を読んだことがなく、一体、どうやって奥三河に入り込んできたのか、不思議だったのです。浦川から侵入するとすると、現在の東栄町を突っ切って設楽町や旧鳳来町へ進出したことととなります。山家三方衆という奥三河の有力国人衆である、奥平氏や菅沼氏はこの時は、あっさりと降伏していますから、一気に奥三河は武田方に塗り替わったと言えます。
自分としては、東栄町に当たる部分が、今一つ不明確で不思議に思っていたのです。結構、徳川方だったんですよ、という民話などが残っていたりして、東栄町だけぽっかりと徳川方の領土として残っていたように感じられたからです。東栄町史を読んでも、当時の資料が残っていないため確たることがいえない、という見解です。
ただ、文書が残っていない、ということは、徳川時代に不都合な文書を捨てたと考えるのが普通なので、徳川氏に対して見せられない文書が多い=徳川に敵対した領主の文書が多かった、と、考えられる。また、東栄町の中設楽地区にある設楽城の形状は、加藤理文氏によれば規模からみて武田氏の手による、との見解でした。この時期の徳川氏は東海道沿いの城を確保しつつ、山間地方面からの武田勢がどこから現れるかわからない状況の中、防御しなければならない、という厳しい状況であったといえます。

と、まぁ、奥三河を調べている人間としては、近年の学説動向も知ることができて、なおかつ家康に関する動きも正確につかめる本として、非常に参考になりました。
延期になったので、これで、じっくりと資料作成に取り組めそうです。

戦国大名武田氏と地域社会

2020年03月01日 | 日本史
奥三河の戦国時代を考える上で、武田氏の影響は当然大きなものとなります。
この本自体は、静岡県が舞台なので直接的には奥三河は関係ありません。ただし、奥三河の歴史を考える上で、武田氏がその時、どのように動いていたのかがわかれば、奥三河の歴史を考える際の参考になるのではないか。
そんな訳で購入してみました。


『戦国大名武田氏と地域社会』(小笠原春香・小川雄・小佐野浅子・長谷川幸一、岩田書院、2014.5、1500円(税別))

はしがきにもありますが、2013年の武田史研究会シンポジウム「戦国大名武田氏と地域社会」における報告を活字化したものとなっています。
高天神城の小笠原氏の動きから、巨大勢力の境目国衆が大名の介入を受けて、家中が分裂する様が明らかになっており、奥三河の菅沼氏や奥平氏も同じといえます。しかし、反徳川の動きを江戸時代に隠さないといけなくなり、徳川に背いた人たちの取り扱いに困って、色々と脚色して家系図に残っていることを推測するなど、上に忖度する、ということが、今も昔も行われていたことが窺えて、人間って変わらないねって思ってしまいます。

また、海の無かった武田氏は、駿河を手に入れて水軍(海賊)を編成します。伊勢方面からヘッドハンティングしていたりと、海関係の国衆は自由な動きをしてるな、と、感じます。興味深い点としては、海上軍事は海上交通と結びついており、太平洋海運は伊勢神宮・富士山という二大信仰圏と密接な関係があり、聖地を抑えると海上交通も抑えられるという点です。単に強いから、ではなく、富士山信仰の拠点を武田氏が抑えたので、海賊の援助が受けられたのであり、同じく海に面した三河を抑えながらも信仰の聖地を領国内に持っていない徳川勢は、脆弱な水軍しか編成しえなかった、と、結論付けています。
愛知県史資料編の文書を読んでいて、なぜ徳川方の水軍が少ないのか不思議に思っていた点を解き明かしてくれて、実に感心しました。今川家が発給する文書に、やたら「白山先達」に関するものが出てきて、なんじゃこれ?と、思っていましたが、宗教の重みが現在と違う、という点だけでなく、巡礼者の存在が経済的にも大きな影響を与えており、交通支配とも密接に関係していたことが窺えます。
こうした点に配慮しながら歴史を見直すとちがった視点が楽しめそうです。

さらに、修験者が他国への使いに利用され、その際の旅費を依頼主の武田氏が出すのか、それとも修験者が出すのか、という点を考えている内容には驚き。
修験者に棟別役の普請役を免除して特典を与え、聖地巡礼をする客を案内するついでに手紙を頼むときは旅費を出さず、特別に出向く必要がある際には武田氏が支払う、と、いう、ある意味、必要経費は払ってる、という状況なのが、そんなに大名といえども無茶はいえないのね、と、納得。

内容は結構専門性が高く、とっつきにくいかもしれませんが、あんまり今まで見たことのない視点を切り口にしている本なので、オススメです。
これを読んで内容を理解しても、人生が左右されることは、まず、ないと思いますけど。

中世の罪と罰

2020年02月14日 | 日本史
個人的な事情で長らく休止しておりましたが、復活することとなりました。
また、くだらぬ駄文を書き連ねていく所存です。

さて、復活一発目は、網野善彦等『中世の罪と罰』(講談社学術文庫、2019年)の御紹介。



だいぶ歴史系の本読むのから離れてたので、いざ、再開、となってもなかなか勢いがつかない。
久々に本屋をぶらついていたら発見したのが、この本です。
笠松宏至氏が書く第1章のタイトルが「お前の母さん・・・」。
悪口罪が御成敗式目に明文化されており、軽い悪口で拘禁、重い悪口は流罪だったとか。ただ、この笠松氏、興味を覚えたのは、現代刑法との比較とかではなく、当時の訴訟資料からわかる中世の具体的な悪口の事例についてのようです。
そこで笠松氏が拘った表現が「母開」。
やたら出てくるこの表現は何ぞや、ということに疑問を抱いた笠松氏、様々な文書にあたり調べていきます。
結果的に、わかった内容は、万国共通の相当に下品な悪口、アメリカのラップなどで使用されている「motherf●●●er」だったことを、学術的に立証していくのです。

講談社学術文庫で、まさかのフレーズ解説。
立ち読みで思わず笑ってしまい、気づいたら買ってました。

中世の法は、撫民法で、民間自警団の方が過激な刑罰をしてしまうので止めるように作られた条文があったり、「死骸敵対」という謎のフレーズの意味が解き明かされたり、盗みがなんでこんなに罪が重いことになってるのか、とか、家を焼くのはなぜか、とか、正直、知ったところでどうしようもない知識がオンパレード。

しかし、鎌倉時代~室町時代の、現代とは違ったおっそろしい世界を垣間見ることができて、「馬庭の末に生首絶やすな」で有名な鬼畜「男衾三郎」の世界へ誘ってくれます。(※男衾三郎・・・『男衾三郎絵詞』の主人公。武辺一辺倒で家の近くを歩いている旅人を捕まえては首を切って馬小屋近くに備えて荒々しさを保とうとしたり、兄が京都へ出張途中に山賊に襲われて死ぬと、兄の妻子を奴隷のようにこき使ったり、と、かなり鬼畜な所業を行う。ちなみに絵詞は途中で失われており、仏様の力で兄の家族は救われるといった話ではなかったかと推測されながらも、結果的に鬼畜男衾一代記で終わってしまっている。)

中世は現代から見ると「北斗の拳」の世界そのものといっても良さそうな感じ。
中世を法令から読み解くこの本。文章は学術的ですが、内容は相当にくだけてるので、お勧めです。

小学館 少年少女日本の歴史の宣伝がツボに来る。

2015年12月27日 | 日本史
妻の実家で新聞読んでたら吹き出した。
小学館のまんが日本の歴史のシリーズの宣伝で。


見慣れた画。
そして、記憶のあるシーン。
おお、一番興味をひきそうな場面を抜き出してサンプルとして載せているのか、と、思って、よくよく読んでみると。。。




何の話しとんじゃ、羽柴秀吉と黒田官兵衛。
そして、徳川家康、大人買いの指示を本多佐渡に出したし。

ちなみに、この2つのシーンは続きページではありません。
最初は本能寺の変の通知を受け取った秀吉が動揺するも黒田官兵衛が天下取りを勧めるという、あの場面のページ。
そして、2つ目の家康と本多佐渡の話は、小牧長久手の戦いが起こる前に織田信雄から支援要請が来て秀吉との対決を決断する場面のページです。

両方ともに自分が読んだ時代ですから、既に30年近く前の内容ですが変わってないようです。
懐かしいし、元ネタを知っているので個人的には爆笑してしまった訳です。

ちなみに2つ目の写真で家康が回想している場面。
初めて気がついたのですが、逃げる家康の後ろで奮闘している本多忠勝の後ろ姿がある。


確かこのシーンは三方ヶ原の戦いで負けて逃げ帰る家康を思い出している時だったかと思います。

まだまだ続いているのが嬉しい限り。昔は全20巻だったのですが全23巻なので近現代史が増えたのかなと。以前、吉野ケ里遺跡でこの1巻の新装版を読んだ時、フグ中毒で死んでしまう一家の話がなくなっていたので、同行していた団にょと2人で大騒ぎになったことがあります。(こんなことで大騒ぎする2人を冷静に見ていたのは紀伊と佐渡)

きっと、新発見などがあって改定されている話もあるのかもしれませんが、小学校時代に読んだ漫画というのはいつになっても正確に思い出せるものです。自分が歴史好きになり、そして城好きをこじらせることになった出発点は、この小学館のシリーズに間違いありません。

自分の子供たちが小学三年生位になったら読ませよう、と、虎視眈々と狙っています。
そして、子供を日本史好きにして自分が行きたい場所へ思うまま行こうと企んでいる、悪い父ちゃんなのです。

ちなみに、このシリーズを読んで歴史の流れが頭に入ったおかげで、日本史は私の安定した得点源となり、一度だけですが高校時代の全国模試で日本史の偏差値が80を超えたこともあります。
お子さんが歴史を苦手としている方は、家康公も仰る通り大人買いを。笑。

小牧長久手の戦い

2015年10月29日 | 日本史
古宮城の整備活動も終わり、若干惚けておりブログの更新が止まっておりました。

その間ですが、小牧長久手の戦いについて少々整理しておりました。
なぜかといえば、うちの会社では職場の親睦を図るために課内サークル活動というものがありまして、今年は私が城サークルを開催しております。

そこで、小牧長久手の戦いの跡をウォーキングしたいので、ついでにガイドして欲しい、という要望がありました。で、せっかくなのでやりましょう、と。

数年前にも一度小牧長久手の戦い跡を巡ったことがあり、今回はガイドを頼まれたのでレジュメなどを作って戦いを自分なりに整理しておりました。

すると、前には気づかなかった点が出てきて面白いのです。
例えば、

小牧長久手の戦いも、結局のところ小牧山城と清洲城を拠点に籠城する織田・徳川連合軍を羽柴軍が誘いだそうとして失敗した、ということか、とか、

池田恒興の動向が小牧長久手の戦いを左右していますが、秀吉は池田の動向をどこまで掴んだ上で出陣していたのかがよくわからない、とか、

秀吉は織田家の簒奪を決めた状態で出陣したのか、織田家の主導権争いとして考えていたのか、とか、

色々と疑問も含めて出てきます。

特に、この今まで抱かなかった疑問に気がついて調べるという作業が至福の時。
先行研究で既に解き明かされているのかもしれませんが、今の時点では専門家でも研究者でもない自分としては、こうした疑問を考えていると退屈しません。

数年前は地図を眺めていて、「なぜ戦場が国道41号や19号沿いなのか。通常岐阜などの西へ向かう際は国道22号を使うのに、戦場が東にずれている。」と、不思議に思って調べたところ、美濃を抑えていた池田恒興が羽柴方になり、東濃から進撃することが可能になり徳川としては防衛上戦場を東にずらさざるをえなかったれ、ということがわかりました。

今回も色々と疑問が湧いてきましたので俄然興味が。
ちなみに、古宮城は小牧長久手の戦いの際に防衛を強化した説がありまして、こうした観点からも今回は調べています。

こんなことで幸せを感じられる幸せ。
金がかからなくて良いです。
妄想してるだけで良いですから。

井伊直虎 ~大河ドラマになる女戦国武将~

2015年08月27日 | 日本史
再来年の大河ドラマに柴咲コウが主演で『井伊直虎』が決定したそうです。

どエライマイナーやな、と、思うものの、奥三河にも結構影響があるかもしれませんね。

ちなみに、井伊直虎という名前で、なぜ柴咲コウ?と、思われる向きもあるかと。この人、実は女性です。直虎という名前ですが。井伊家の当主がいなくなってしまい、女性ながら井伊家を継いだ際に、男っぽい名前を名乗ったそうです。ゲームで人気が出たような感じ。

※戦国無双の井伊直虎。こんな武将は現実にはありえないが、柴咲コウにこの格好して欲しいかも。

ウィキペディア情報ですが簡単にまとめると、
井伊家の当主の家に生まれるが女性なので次郎法師と名付けられ、いとこの直親を許嫁にして当主を継がせることが決まっていた。しかし、井伊家が今川義元に疑われて直虎の父直満は殺害され、直親は信州へ逃亡。信州へ逃亡している間も操を守った次郎法師でしたが、直親は信州で結婚してしまい、次郎法師は婚期を逃してしまい、結局生涯結婚をしていないことになってしまったそうです。
さらに直親も今川氏真に疑われて殺害されてしまい、さらに跡を継いだ傍系の直平までもライバルに毒殺されてしまい、とうとう当主候補がいなくなり直虎として当主就任。
ちなみに、直親の子供を養育しており、その子と共に鳳来寺に逃げ込んだりしているようです。
結果的に家康を頼り、井伊谷三人衆を味方につけた徳川家康が遠州へ侵攻した後に、家康に養育していた子供を見出され所領の返付を受けます。が、武田信玄の遠州侵攻でまた奪われるなどの苦労をしますが、最終的に養育してた子供が、後に徳川四天王の筆頭に挙げられる『井伊直政』となって、最後は安寧に暮らせたようです。

と、まぁ、かなりドラマチックな人生の上に、奥三河もめちゃくちゃ関係しているんですよね。

鳳来寺に逃げ込んだり、遠州攻略の際は東三河の徳川勢、特に山吉田の鈴木氏なども活躍しますから。

ところで、後家好きの徳川家康ですが、井伊家再興の際に直虎に目をつけた訳ではなく、直政に目をつけます。やはり、後家好きだけに未婚の直虎には食指が動かなかったのかもしれません。
浜松で鷹狩りしたあと、家康が見かけて「ありゃ誰じゃ?」と、聞いたところ「井伊家の後継です」と聞いて驚いて部下にしました。

で、家康は、その後井伊万千代を寵愛するのです。。。
その後、井伊直政は「男色無双」との称号を得たようで、当時の武将たち(男性)から相当モテてかなり言い寄られていたようです。

まぁ、井伊直政はその後大活躍しますので、ある意味人を見る目があったようですが、直政自身は結構なパワハラ上司になったため、部下にされた井伊谷三人衆も苦労したことでしょう。
※井伊直政の話はこちら「やさぐれひこにゃん」「続やさぐれひこにゃん」。

さぁ、奥三河の皆様!
再来年の大河ドラマ特需に備えて、今から御準備を!!

ミネルヴァ書房の人々

2015年07月25日 | 日本史
いま、こんな本を読んでいます。


山名宗全。

名前位は聞いたことがある、という方も多いかと。歴史の教科書で応仁の乱西軍の大将としてその名が登場します。

戦国時代を読んでいるうちに、最近、徐々に室町時代に興味がシフトしてきまして、なんだか妙に興味が湧いて読み始めています。

期待にたがわぬ面白さ。
感想はまた別に書きます。

今日は、この本を出しているミネルヴァ書房のシリーズについて。
前々からいろんな歴史上の人物を取り上げているこのシリーズの存在は知っていました。
今回の山名宗全も本屋で見て「マニアックな。」と思って手に取ったのですが、よくよくこのシリーズに出てくる人々を見ると、相当なマニア度が高いことに気がつく。

例えば、

阿倍比羅夫、阿弖流為、平維盛、慈円、足利義詮、満済、細川ガラシャ、三好長慶、和宮、山東京伝、ペリー、永田鉄山、中山みき・・・。

古代から現代まで満遍なく網羅されてますが、教科書ではなく参考書を読み込んで名前がようやく発見されるレベルの人かと。

ちなみに、阿倍比羅夫は蝦夷征伐したけど白村江の戦いで負けた人、阿弖流為は坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の大将、平維盛は平清盛の孫で光源氏並みの美男子だったとか、慈円は愚管抄、足利義詮は室町時代第2代将軍、満済は室町時代のフィクサー、細川ガラシャはキリシタン、三好長慶は一瞬天下人、和宮は公武合体、山東京伝は戯作者、ペリーは黒船、永田鉄山は軍人、中山みきは天理教教祖。

これらの人々を調べて一冊の本にしてしまう人がいるのだ。。。

まして、
九条道家、宗峰妙超、冷泉為恭、海老名弾正、辰野隆、長谷川如是閑、サンソム夫妻とか、
『誰⁉︎』
って、いうレベルの人も目一杯。私が知らないだけで知ってる人いるのかもしれませんが。

でも、これで本一冊書いてる人がいる。
一体、どこでこの人たちを知り、そして興味を覚えて本を書くにまで至ったのか。
その作者の動機と熱意の在り処こそ、むしろ興味を覚えるわ、という感じ。

そして、たまにまとめ売りされてる人達もいる。
藤原四子、平時子と時忠、曾我十郎と五郎、真田氏三代、幸田家の人々、
と、いうのもあります。

このシリーズを全て読んだら、凄いことになるだろうな、と。

侮れないシリーズです。

戦国の三角関係

2015年04月22日 | 日本史
満光寺の鶏を調べていた際、「へぇ。」と思ったことがあります。

それは、
織田信長


徳川家康


武田信玄


この三人の三角関係状態。

最終的に、武田信玄の遠江・三河侵攻から長篠合戦、そして武田滅亡、という軌跡から、織田・徳川と武田が敵対したということは理解していましたが、では、敵対はいつからか?、ということは意識することがなかったのです。

よくよく考えても見れば隣国同士、一触即発になることだってある。
織田信長は武田信玄を刺激しないように、贈り物を欠かさず、それも細心の注意を払った物を贈っていた、という逸話もありますから、信長が信玄の歓心を買うことにつとめ、信玄が東国に集中している間に、信長は勢力を拡大してしまい、信玄が気づいたときには寿命、というのが私の従来の理解でした。

が、どうもそれでは理解が浅かったようです。
よくよく読んでもみると、さまざまに既に先行研究で明らかにされている部分ではありますが、自分なりに文書を読んで整理した内容をブログに書いてみようかと。

永禄11年(1568年)2月に家康と信玄が血判を交わしています。(愛知県史資料編11 文書番号594)
何を血判したのか不明ですが、なんか約束、しかも結構重要な約束をしたんでしょう。
この年の12月頃には、家康は三河から遠江に進出していること(愛知県史資料編11 617~620)、三河物語等の話から大井川を境に今川領の分割統治を持ちかけたようです。

ところが、翌永禄12年(1569年)の1月に、信玄は家康と信長に変な文書を出してます。(愛知県史資料編11 625・626)かなりな意訳をすると・・・。

信玄は家康に対し、信玄配下の武将、秋山虎繁率いる信州部隊が遠州にいることについて
「ワシが遠州を奪るつもりは無いよ。秋山達はワシが呼び寄せたら最短距離で移動しようとしたみたいで遠州にいるだけなんだよね。ちなみに、掛川城の今川氏真を落としちゃって。そこんとこヨロシク。」

と、信長に対しては、
「こないだは大層なお歳暮もらっちゃって、どうもありがとう。で、駿河の今川を攻めたら、氏真弱すぎ。一戦もせずに掛川城へ逃げてまった。それで追いかけたら、家康がなんかワシが氏真じゃなくて遠州狙いで進出してきたって疑ってんだよね。。。それで遠慮してワシは駿府で待機してるんで、家康にもよく言っといて。」

と、言ってます。
信玄は家康の兄貴分である信長とは姻戚関係にあったため、今川侵攻の際に遠州分割協定を信長にも了解を得て、弟分の家康とも直接やりとりをしたようなんですが、どうも、二枚舌を使って遠州まで侵略する方向で動いたことが上記の文書から窺えます。
たぶん、信玄にしてみれば「協定は結んだが、基本は切り取り次第。」という感覚もあって、なんだかんだで取ったもん勝ち的な考えもあったんだと思います。しかも、最初は小田原北条氏に今川侵攻を持ちかけて断られての織田・徳川への持ちかけだったようです。北条、今川、武田の三国同盟により北条氏の娘が今川氏真に嫁いでいたことから信玄の今川侵攻は北条を激怒させ、駿河にいる武田を北条が攻撃。今川は掛川で頑強に抵抗を続けたことで信玄の目算は大きく外れたようです。

と、いうか、目算が外れたどころか、北条氏によって駿河ー甲府間の通路を遮断されそうになって、駿河に閉じ込められそうになる、という危機的な状況になりつつあったのが、この永禄12年頃のよう。このときに上杉謙信が活発に活動したら信玄も相当大変な状況になったのですが、幸い冬。雪で謙信は動かなかったようです。そのため、信玄は信長に上杉謙信と武田信玄の和睦の斡旋を足利義昭を通じて頼んでおり、上杉・武田双方に対する和議勧告が将軍から出たようです。

5月になって信玄は、信長が今川氏真・北条氏康と和睦しないよう、信長の側近に催促しています。(愛知県史資料編11 658)   
「掛川城が落城して、今川氏真は駿府の東に逃げてった。昨年、ワシが駿府へ攻め込んだら氏真はすぐ逃げて、遠州も大半がワシのものになって掛川城だけになった状態だったけど、それから10日くらいして家康が『信長の先遣隊』と言って、『前の約束どおり遠州の領主達の人質を受取りに来ました。』と言うから渡したった。その後、北条氏政が氏真を救うと言って、薩埵山へ出陣してきたからワシ北条と戦争になった。掛川城が落城するときは、氏真を殺すか、家康か信長で氏真を確保して欲しいとお願いしてたのに、北条と徳川が会談して、氏真の降伏を認めて掛川城に籠城していた奴らを無事に駿河へ逃がしてしまい驚いた。だって今川と北条と和睦しないって、家康約束してたし。今更しょうがないから、せめて織田は今川と北条へ、敵なんだ、とはっきり言ってくれるよう、信長に催促してくれ。」

今川氏には父信虎追放に協力してもらったり、長男義信の妻に今川家の娘を貰ったりしていながら、信玄の今川氏真に対する残酷な依頼状況が解る内容で、少々ひく。

この信玄→信長の文書は5月23日付けなんですが、翌日24日に、徳川家重臣酒井忠次あてに北条氏政からこんな文書が出ています。(愛知県史資料編11 659)
「氏真が帰国してきたので家康に誓詞を届けた所、すぐに返事来たんでありがたい。特に氏真とワシらへ仲良くしてくれるとの事、大変うれしく、特に掛川城を氏真が出たときに、そちらが証人を立てて和議にしてくれれ嬉しかったですわ。これからは、家康にも仲間になってほしいと思うんで、黒馬のいい奴を一匹進呈します。」


しかも、翌年の元亀元年(1570年)に、家康は前々から打診していた上杉謙信との同盟をします。
その際、面白いことを家康は謙信に約束します。(愛知県史資料11 739)
「・・・信玄との関係を必ず切ります。信長には謙信と仲良くするよう意見し、信玄と信長は縁談してるけど辞めるように諌めます。」

流れからすると、武田、上杉、北条、徳川、今川、織田、と、戦国スター達が、それぞれの思惑で駆け引きしていることがわかります。
また、徳川家康は対信玄を巡って信長と方針が異なっていることもわかり、この時期の家康外交は独自性が強いこともわかります。ただ、信長的には京都へ将軍義昭を奉じて進出し、畿内情勢が不安定な時期だっただけに、家康から「信玄の野郎、言ってる事とやってる事が違うじゃねぇか。やっぱあいつヤバイっすよ。」と言われても、「そうですね。」と、家康の言うことが聞けない時期であったと考えられます。美濃と信濃と領国を接している武田信玄の怒りを買うと面倒なので、家康からの連絡を黙殺したのではないかと思われ、それが、上杉や北条と徳川氏との独自外交となったと思われます。
これが、信玄の家康に対する怒りとなっており、後の徳川領国への侵攻=三方原の戦いなどに繋がって行くのだと思われます。

一方で信玄は、北条と今川の結びつきを軽視して今川に侵攻したり、分割協定を約束した遠州を狙って家康の離反を招くなど、戦略に粗さが目立ちます。この粗さが信玄最大の危機を招き、将軍擁する信長を利用せざるを得ない状況となります。

信玄>信長という力関係だけで理解をしていましたが、信長にしてみると信玄に貸しを作っている時期とも言えるでしょう。ただし、信玄はどうも家康は信長の家臣に近い感覚があった様子も書状からわかります。
そのため、信玄的には「家康の動きを見てると、信長は二枚舌を使ってるんじゃないか?」と思うことになったのではないかと。

それが、後に信玄が織田・徳川領国へ突然侵攻を開始することに繋がったといえます。
しかし、信長にしてみれば、別人格の家康のことだし、むしろ色々と信玄に骨折ってやったのに、突如侵攻してきて裏切られた、という感覚があって、信長は決して武田氏を許さず滅亡まで追込んだ原因になった、と、平山優氏等の先行研究で明らかにされています。

とにかく戦国大名の虚虚実実の駆け引きのせいで、敵・味方がめまぐるしく入れ替わる時期のため、このあたりの状況がわかりにくくなっていたのですが、満光寺の鶏話を調べるために、読み込んでいたところ、上記のように整理することができたのは大きな収穫でした。

もっとも、こうして整理してから、蔵書を様々に読んでみると、ちゃんと書いてある。
意識が薄い状況で読むと、読んでるようで読み飛ばしているものだなぁ、と、改めて認識すると共に、自分の理解の浅さを恥じるばかり。

自分の備忘録的に書いた記事ですが、この記事にまとめるまでに、これまた1ヶ月以上かかっていたりします。
調べた物を整理して、文章にまとめて、再確認して、修正して、再構成して・・・、と、やっていると、いつまでたっても終わらなかったんですが、なんとかまとまりました。

国郡境目相論 ~ 奥平が武田と徳川を振り回す ~

2015年04月11日 | 日本史
相変わらず織田信長に関して面白い視点を提供してくれる、神田千里氏の『織田信長』(ちくま新書)。


今回面白かったとして紹介するのは「国郡境目相論」。
要は
信長の戦争は、国境紛争の解決をめざした結果として相手方を滅ぼしたのであり、全国制覇を目指して他大名を征圧しようとしたわけではない。
と、いうこと。

この考え方から、毛利氏と武田氏の戦いを国境の境目で発生した相論が全面抗争に発展してしまった、と、説明しています。

・・・従来はともすれば、織田信長の戦争は全国平定と言う信長自身の意図から説明され、周囲の情勢の方が信長を開戦に追込むという構図は想定されて来なかったように思われる。しかし信長だけが宣戦も和睦も意のままという特権的な地位にいたはずはなく、周囲の大名から戦争に追込まれる場合もあり・・・」(124頁)

信長中心史観に嵌ると、全ての信長を取り巻く事象は、「信長は○○した。」と全て信長が能動的に動いたという解釈になってしまう。信長は、そこまで有利な立場じゃないでしょう、と、いうことです。

武田信玄との関係では、

① 東美濃の遠山氏を巡る国境紛争
② 遠江を巡る徳川氏との紛争

が、信玄と信長の対立を引き起こした、というもの。

実は、愛知県史や戦国遺文武田氏編で確認できる、当時の古文書を読んで、私も同じような感想を抱いていたのでした。遠江の領有を巡って、徳川と武田は、仲が最悪になります。しかし、信玄と信長は友好的な雰囲気を保つというねじれ現象が発生していた、と、いえます。

そして奥三河も①や②と同じく武田と徳川の国境地帯のため、同じように山家三方衆が、それぞれの家庭の事情で武田や徳川をバックに抗争を始めてしまい、親分である家康や信玄の出動を招き全面戦争に突入して行った、というものです。

そう。
奥平氏を始めとする山家三方衆は『風になびく葦』のように大国の狭間で揺れ動いた。
と、いう従来の評価ではなく、一寸の虫にも五分の魂。

奥平が徳川、武田を振り回すことだってあるんじゃないの、という私の前からの疑問に答えてくれています。
そうだとすると、信長にしてみれば、徳川や遠山に振り回されて信玄との抗争が始まってしまった、と、いえる。

過大評価は禁物ですが、こうした国境紛争→全面戦争論、というのは案外真実を突いていると思えます。
やっぱりこの本、あなどれません。