久々の大規模城攻めを挙行しました。
今回の標的は北関東。参加武将は、紀伊守、佐渡守、珠光と私(丹波守)の、ほどよいおっさん四名。(ちなみに、それぞれの名乗りは僭称です。)

当初の予定では『小田原征伐 北陸隊』がテーマ。
紀伊守が書き出した紙には「箕輪城、鉢形城、神流川合戦跡・・・」など15の候補が上がっていました。
皆、その内容を見た瞬間発した言葉が。「そりゃ無理。」
一つの城をじっくり見たり、途中の資料館などで捕まれば、2泊3日で15箇所など従来の経験から不可能に近いことは誰もがわかっている。が、そう書き出さずにいられないのが、我々城オタクなのです。
初日、スタンプラリーマニアの佐渡守が
「今、SAで『FAIRY TAIL』のスタンプラリーをやっている。ついては、SAごとに立ち寄ってよろしいか。」と、いう。
確実に15箇所が不可能となることが決定する。
まぁ、腰が痛いだ目が疲れるだと言い出す年齢なので、ちょうどほどよい休憩になって良かったのですが、「初日は1城も陥落できないのではないか。」と不吉なことを紀伊守が言う。
しかし、18時くらいまで明るいことが幸いして箕輪城を初日に落城させることに成功。
翌日は、神流川古戦場⇒鉢形城⇒杉山城⇒松山城⇒忍城⇒石田陣地跡、と大善戦。
最終日は、川越夜戦跡と川越城、そして最近流行の川越小江戸城下町めぐりを行う。
最終戦果報告は、6城、1陣地、2古戦場と、まずまずの成績でした。
もっとも、「ああ、松井田城!」「平井城は?!」「ああ、畠山重忠館が!」「八王子城を捨てるのかぁ!!!」「厩橋城がぁぁぁぁ」「足利学校・・・。」だのの阿鼻叫喚が車内で繰り広げられていたのでした。
さて、それぞれの城についてのご報告は別の会に譲るとしまして、今回の旅の不思議体験を2つ。
1.神流川に呼ばれる
初日の宿を探す頃には日がとっぷりと暮れていました。
汗だくで早く宿に入りたい一行でしたが、ナビもあまり性能がよくなくわかりにくい。
佐渡の案内で車を進めていくと、とんでもない狭い道で「ここを右折。」という。
「え?こんな狭いところ?」
と、皆が不思議に思うが、佐渡が自信を持って言うので進む。
そして、まっすぐ進むと行き止まり。と、いうか、ものすごい細い道の坂が目の前に。
「ここを直進。」
佐渡はそういう。
しかし、紀伊は
「流石に違うじゃないか?」と、いう。
そのとき私がふと車外に目をやるとお墓が目に入る。
「これは、違うんじゃない?」と、私も言う。
「うーん、確かに地図ではそうなっているけどねぇ・・・。」と佐渡。
すると紀伊は、
「他のルートをさがそまい。この道は多分川の中にざぶざぶ入っていく羽目になるはずだ。」と道路構造に詳しいのでいう。
車をバックさせるのだが、紀伊の様子がおかしい。
無事に車を方向転換させて細い路地を抜けようとしたとき、紀伊がぽつりという。
「わし、鳥肌が立ってまっとる。あの道は絶対にヤバイ。」
と。
見るとものすごい鳥肌。
どうやら紀伊は何かを感じたようで、
「ありゃ、呼ばれたぞ。多分佐渡が『まっすぐ』と言ったときに、既になんか呼ばれてたんだぞ。」と、言う。
全員総毛だつ。
その後、宿に入る道が見つかるがぜんぜん違う。どうやら、紀伊の言うとおり、佐渡の見ていた地図の道は川の中に入ってしまう道のようだった。
宿に入る道はものすごく狭く、門に蔦が絡まり鬱蒼としている。
「ほ、本当にここかぁ?」と私。
宿の前に着くと、明かりがついているが、非常にひっそりとした宿でどきどきしましたが、特に問題は無く、翌日入り口は別にあり、そこは立派でした。
ちょっと暑い夏が寒くなる話でした。

※煙草を吸う為外に出た紀伊。決して写ってはいけない人ではありません。
2.天海僧正の呪い
最終日川越観光をしていると喜多院がある。
折角なので観光をしたい、と、私が言い、4人でお参りに行くことに。
しかし、珠光は「僕はいいわ。」と途中で言う。
「なんで?」と聞くと、
「僕、なんか徳川系の神社仏閣と相性が悪い。だからお参りはしない。」
と、いう。
「なんだそりゃ。」
と、一同半分笑いながら境内へ向かう。
「珠光。」
と、私が呼ぶ。
「何?」
と、珠光。
私がおもむろに後ろから珠光の両腕を掴んで本堂の方に向けて手を合わさせようとすると、
「やめろぉぉぉ!」
と、叫んで抵抗をして拝観は未遂に終わる。
その後、本堂に皆で上がる。
私は参拝をした後、
「珠光。」
と、私が呼ぶ。
「?」
と、珠光がやってくる。
私はおもむろに珠光の後頭部を持って本堂の方へ頭を垂れさせようとする。
「やめろぉぉぉぉ!」
と、珠光は叫んだ。
「大変だ。丹波が俺を参拝させてしまった。きっとよくないことが起こるに違いない!」
珠光は、かなり本気で言っていた。
「一体何があったんだ?」
と、聞くと、曰く、参拝後、骨折をしたり、バイクで事故ったりしたそうだ。とにかく、相性が良くないらしく、行っても絶対に参拝しないようにしていたそうだ。
「参拝が未遂だとはいうものの、ヤバイかもしれん。」
珠光は心配していた。
そして、車に乗り名古屋へ帰ることに。
「道がよくわからないから、決して間違えて新宿に出ることがないように。」というのが合言葉だった。参拝未遂なので、新宿方面へ向かってしまうのではないか?と、我々は推理したのであった。
ところが、中央道の看板はしっかりしており、また、途中大きな渋滞も無く、順調に首都圏を抜け始めていた。我々はそこから新東名へ入ることにした。
「大月JCTで分岐し新東名へ合流しよう。」
我々は大月JCTを目指した。
全国各地を巡っている珠光は、日本各地の道に詳しい。そして、何よりしっかりもので、計画性もばっちり。そんな彼がナビをしているので我々は安心していた。
しかし、Ipadの地図画面を見ていた佐渡が言った。
「大月JCT、過ぎてない?」
「え?」
と、驚いた珠光が地図を開く。そして言った。
「過ぎているねぇ・・・。」
どうやら、大月ICへ向かわないとJCTにもいけないようで(もし詳しい方が見えましたら御一報を)、ICでは降りてしまうので通過したらJCTもぶっ飛ばしてしまったようだ。
ひょっとしてJCTの看板もあったのかもしれないが、紀伊が近年の見せパンについて見せるくらいならば履くな、という過激理論を述べて皆で盛り上がっていたので見逃してしまったのかもしれない。
「まぁ、まだリカバリーは効く。」
と、いうことで次は一宮御坂ICを目指していくことにした。
「次は絶対パンツ話は厳禁だ。」
と、皆で確認をしあって、慎重に走っていた。
はずだった。
「・・・、また、過ぎてない?」
Ipadを見た佐渡が言う。
「ええ?!」
一同驚く。
「そんな馬鹿なしっかり見ていた筈なのに・・・。ああっ!過ぎてる!」
と、珠光が悲鳴を上げた。
「こ、これが、天海の呪いかぁ・・・!」
我々は戦慄した。
私が先週事故ったばかりの甲斐の国へ引きずり込まれてしまったのだった。
我々は珠光の参拝未遂が引き起こした結果に、おののくばかりであった。

※甲府南ICで降り、最寄の道の駅で途方に暮れる一同。
身延山、などという途中に素晴らしいものがありながら、我々は一路帰途に付く羽目となった。途中、えらいことノロノロした車に捕まるなど、かなり天海の呪い(?)を受けながら、多分1時間半程ロスをして到着をしたのだった。
やはり城旅は戦死者を巡る旅だけに、はしゃぎすぎにはご用心、という教訓を思い出したのであった。
では、次回からは、純粋に城機能の話に変わります。
今回の標的は北関東。参加武将は、紀伊守、佐渡守、珠光と私(丹波守)の、ほどよいおっさん四名。(ちなみに、それぞれの名乗りは僭称です。)

当初の予定では『小田原征伐 北陸隊』がテーマ。
紀伊守が書き出した紙には「箕輪城、鉢形城、神流川合戦跡・・・」など15の候補が上がっていました。
皆、その内容を見た瞬間発した言葉が。「そりゃ無理。」
一つの城をじっくり見たり、途中の資料館などで捕まれば、2泊3日で15箇所など従来の経験から不可能に近いことは誰もがわかっている。が、そう書き出さずにいられないのが、我々城オタクなのです。
初日、スタンプラリーマニアの佐渡守が
「今、SAで『FAIRY TAIL』のスタンプラリーをやっている。ついては、SAごとに立ち寄ってよろしいか。」と、いう。
確実に15箇所が不可能となることが決定する。
まぁ、腰が痛いだ目が疲れるだと言い出す年齢なので、ちょうどほどよい休憩になって良かったのですが、「初日は1城も陥落できないのではないか。」と不吉なことを紀伊守が言う。
しかし、18時くらいまで明るいことが幸いして箕輪城を初日に落城させることに成功。
翌日は、神流川古戦場⇒鉢形城⇒杉山城⇒松山城⇒忍城⇒石田陣地跡、と大善戦。
最終日は、川越夜戦跡と川越城、そして最近流行の川越小江戸城下町めぐりを行う。
最終戦果報告は、6城、1陣地、2古戦場と、まずまずの成績でした。
もっとも、「ああ、松井田城!」「平井城は?!」「ああ、畠山重忠館が!」「八王子城を捨てるのかぁ!!!」「厩橋城がぁぁぁぁ」「足利学校・・・。」だのの阿鼻叫喚が車内で繰り広げられていたのでした。
さて、それぞれの城についてのご報告は別の会に譲るとしまして、今回の旅の不思議体験を2つ。
1.神流川に呼ばれる
初日の宿を探す頃には日がとっぷりと暮れていました。
汗だくで早く宿に入りたい一行でしたが、ナビもあまり性能がよくなくわかりにくい。
佐渡の案内で車を進めていくと、とんでもない狭い道で「ここを右折。」という。
「え?こんな狭いところ?」
と、皆が不思議に思うが、佐渡が自信を持って言うので進む。
そして、まっすぐ進むと行き止まり。と、いうか、ものすごい細い道の坂が目の前に。
「ここを直進。」
佐渡はそういう。
しかし、紀伊は
「流石に違うじゃないか?」と、いう。
そのとき私がふと車外に目をやるとお墓が目に入る。
「これは、違うんじゃない?」と、私も言う。
「うーん、確かに地図ではそうなっているけどねぇ・・・。」と佐渡。
すると紀伊は、
「他のルートをさがそまい。この道は多分川の中にざぶざぶ入っていく羽目になるはずだ。」と道路構造に詳しいのでいう。
車をバックさせるのだが、紀伊の様子がおかしい。
無事に車を方向転換させて細い路地を抜けようとしたとき、紀伊がぽつりという。
「わし、鳥肌が立ってまっとる。あの道は絶対にヤバイ。」
と。
見るとものすごい鳥肌。
どうやら紀伊は何かを感じたようで、
「ありゃ、呼ばれたぞ。多分佐渡が『まっすぐ』と言ったときに、既になんか呼ばれてたんだぞ。」と、言う。
全員総毛だつ。
その後、宿に入る道が見つかるがぜんぜん違う。どうやら、紀伊の言うとおり、佐渡の見ていた地図の道は川の中に入ってしまう道のようだった。
宿に入る道はものすごく狭く、門に蔦が絡まり鬱蒼としている。
「ほ、本当にここかぁ?」と私。
宿の前に着くと、明かりがついているが、非常にひっそりとした宿でどきどきしましたが、特に問題は無く、翌日入り口は別にあり、そこは立派でした。
ちょっと暑い夏が寒くなる話でした。

※煙草を吸う為外に出た紀伊。決して写ってはいけない人ではありません。
2.天海僧正の呪い
最終日川越観光をしていると喜多院がある。
折角なので観光をしたい、と、私が言い、4人でお参りに行くことに。
しかし、珠光は「僕はいいわ。」と途中で言う。
「なんで?」と聞くと、
「僕、なんか徳川系の神社仏閣と相性が悪い。だからお参りはしない。」
と、いう。
「なんだそりゃ。」
と、一同半分笑いながら境内へ向かう。
「珠光。」
と、私が呼ぶ。
「何?」
と、珠光。
私がおもむろに後ろから珠光の両腕を掴んで本堂の方に向けて手を合わさせようとすると、
「やめろぉぉぉ!」
と、叫んで抵抗をして拝観は未遂に終わる。
その後、本堂に皆で上がる。
私は参拝をした後、
「珠光。」
と、私が呼ぶ。
「?」
と、珠光がやってくる。
私はおもむろに珠光の後頭部を持って本堂の方へ頭を垂れさせようとする。
「やめろぉぉぉぉ!」
と、珠光は叫んだ。
「大変だ。丹波が俺を参拝させてしまった。きっとよくないことが起こるに違いない!」
珠光は、かなり本気で言っていた。
「一体何があったんだ?」
と、聞くと、曰く、参拝後、骨折をしたり、バイクで事故ったりしたそうだ。とにかく、相性が良くないらしく、行っても絶対に参拝しないようにしていたそうだ。
「参拝が未遂だとはいうものの、ヤバイかもしれん。」
珠光は心配していた。
そして、車に乗り名古屋へ帰ることに。
「道がよくわからないから、決して間違えて新宿に出ることがないように。」というのが合言葉だった。参拝未遂なので、新宿方面へ向かってしまうのではないか?と、我々は推理したのであった。
ところが、中央道の看板はしっかりしており、また、途中大きな渋滞も無く、順調に首都圏を抜け始めていた。我々はそこから新東名へ入ることにした。
「大月JCTで分岐し新東名へ合流しよう。」
我々は大月JCTを目指した。
全国各地を巡っている珠光は、日本各地の道に詳しい。そして、何よりしっかりもので、計画性もばっちり。そんな彼がナビをしているので我々は安心していた。
しかし、Ipadの地図画面を見ていた佐渡が言った。
「大月JCT、過ぎてない?」
「え?」
と、驚いた珠光が地図を開く。そして言った。
「過ぎているねぇ・・・。」
どうやら、大月ICへ向かわないとJCTにもいけないようで(もし詳しい方が見えましたら御一報を)、ICでは降りてしまうので通過したらJCTもぶっ飛ばしてしまったようだ。
ひょっとしてJCTの看板もあったのかもしれないが、紀伊が近年の見せパンについて見せるくらいならば履くな、という過激理論を述べて皆で盛り上がっていたので見逃してしまったのかもしれない。
「まぁ、まだリカバリーは効く。」
と、いうことで次は一宮御坂ICを目指していくことにした。
「次は絶対パンツ話は厳禁だ。」
と、皆で確認をしあって、慎重に走っていた。
はずだった。
「・・・、また、過ぎてない?」
Ipadを見た佐渡が言う。
「ええ?!」
一同驚く。
「そんな馬鹿なしっかり見ていた筈なのに・・・。ああっ!過ぎてる!」
と、珠光が悲鳴を上げた。
「こ、これが、天海の呪いかぁ・・・!」
我々は戦慄した。
私が先週事故ったばかりの甲斐の国へ引きずり込まれてしまったのだった。
我々は珠光の参拝未遂が引き起こした結果に、おののくばかりであった。

※甲府南ICで降り、最寄の道の駅で途方に暮れる一同。
身延山、などという途中に素晴らしいものがありながら、我々は一路帰途に付く羽目となった。途中、えらいことノロノロした車に捕まるなど、かなり天海の呪い(?)を受けながら、多分1時間半程ロスをして到着をしたのだった。
やはり城旅は戦死者を巡る旅だけに、はしゃぎすぎにはご用心、という教訓を思い出したのであった。
では、次回からは、純粋に城機能の話に変わります。