長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

天海僧正の呪い

2012年08月30日 | 
久々の大規模城攻めを挙行しました。
今回の標的は北関東。参加武将は、紀伊守、佐渡守、珠光と私(丹波守)の、ほどよいおっさん四名。(ちなみに、それぞれの名乗りは僭称です。)


当初の予定では『小田原征伐 北陸隊』がテーマ。
紀伊守が書き出した紙には「箕輪城、鉢形城、神流川合戦跡・・・」など15の候補が上がっていました。

皆、その内容を見た瞬間発した言葉が。「そりゃ無理。」
一つの城をじっくり見たり、途中の資料館などで捕まれば、2泊3日で15箇所など従来の経験から不可能に近いことは誰もがわかっている。が、そう書き出さずにいられないのが、我々城オタクなのです。

初日、スタンプラリーマニアの佐渡守が
「今、SAで『FAIRY TAIL』のスタンプラリーをやっている。ついては、SAごとに立ち寄ってよろしいか。」と、いう。
確実に15箇所が不可能となることが決定する。

まぁ、腰が痛いだ目が疲れるだと言い出す年齢なので、ちょうどほどよい休憩になって良かったのですが、「初日は1城も陥落できないのではないか。」と不吉なことを紀伊守が言う。

しかし、18時くらいまで明るいことが幸いして箕輪城を初日に落城させることに成功。
翌日は、神流川古戦場⇒鉢形城⇒杉山城⇒松山城⇒忍城⇒石田陣地跡、と大善戦。
最終日は、川越夜戦跡と川越城、そして最近流行の川越小江戸城下町めぐりを行う。

最終戦果報告は、6城、1陣地、2古戦場と、まずまずの成績でした。
もっとも、「ああ、松井田城!」「平井城は?!」「ああ、畠山重忠館が!」「八王子城を捨てるのかぁ!!!」「厩橋城がぁぁぁぁ」「足利学校・・・。」だのの阿鼻叫喚が車内で繰り広げられていたのでした。

さて、それぞれの城についてのご報告は別の会に譲るとしまして、今回の旅の不思議体験を2つ。

1.神流川に呼ばれる

 初日の宿を探す頃には日がとっぷりと暮れていました。
 汗だくで早く宿に入りたい一行でしたが、ナビもあまり性能がよくなくわかりにくい。
 佐渡の案内で車を進めていくと、とんでもない狭い道で「ここを右折。」という。
 「え?こんな狭いところ?」
 と、皆が不思議に思うが、佐渡が自信を持って言うので進む。

 そして、まっすぐ進むと行き止まり。と、いうか、ものすごい細い道の坂が目の前に。
「ここを直進。」
 佐渡はそういう。
 しかし、紀伊は
「流石に違うじゃないか?」と、いう。

 そのとき私がふと車外に目をやるとお墓が目に入る。
「これは、違うんじゃない?」と、私も言う。

「うーん、確かに地図ではそうなっているけどねぇ・・・。」と佐渡。

 すると紀伊は、
「他のルートをさがそまい。この道は多分川の中にざぶざぶ入っていく羽目になるはずだ。」と道路構造に詳しいのでいう。
 車をバックさせるのだが、紀伊の様子がおかしい。

 無事に車を方向転換させて細い路地を抜けようとしたとき、紀伊がぽつりという。
「わし、鳥肌が立ってまっとる。あの道は絶対にヤバイ。」
 と。
 
 見るとものすごい鳥肌。
 どうやら紀伊は何かを感じたようで、
「ありゃ、呼ばれたぞ。多分佐渡が『まっすぐ』と言ったときに、既になんか呼ばれてたんだぞ。」と、言う。

 全員総毛だつ。

 その後、宿に入る道が見つかるがぜんぜん違う。どうやら、紀伊の言うとおり、佐渡の見ていた地図の道は川の中に入ってしまう道のようだった。

 宿に入る道はものすごく狭く、門に蔦が絡まり鬱蒼としている。
「ほ、本当にここかぁ?」と私。
 宿の前に着くと、明かりがついているが、非常にひっそりとした宿でどきどきしましたが、特に問題は無く、翌日入り口は別にあり、そこは立派でした。

 ちょっと暑い夏が寒くなる話でした。


※煙草を吸う為外に出た紀伊。決して写ってはいけない人ではありません。

2.天海僧正の呪い

 最終日川越観光をしていると喜多院がある。
 折角なので観光をしたい、と、私が言い、4人でお参りに行くことに。

 しかし、珠光は「僕はいいわ。」と途中で言う。
 
 「なんで?」と聞くと、

 「僕、なんか徳川系の神社仏閣と相性が悪い。だからお参りはしない。」
 と、いう。

 「なんだそりゃ。」
 と、一同半分笑いながら境内へ向かう。

 「珠光。」
 と、私が呼ぶ。
 「何?」
 と、珠光。

 私がおもむろに後ろから珠光の両腕を掴んで本堂の方に向けて手を合わさせようとすると、
 「やめろぉぉぉ!」
 と、叫んで抵抗をして拝観は未遂に終わる。

 その後、本堂に皆で上がる。
 私は参拝をした後、
 「珠光。」
 と、私が呼ぶ。
 「?」
 と、珠光がやってくる。

 私はおもむろに珠光の後頭部を持って本堂の方へ頭を垂れさせようとする。
 「やめろぉぉぉぉ!」
 と、珠光は叫んだ。

 「大変だ。丹波が俺を参拝させてしまった。きっとよくないことが起こるに違いない!」
 珠光は、かなり本気で言っていた。

 「一体何があったんだ?」
 と、聞くと、曰く、参拝後、骨折をしたり、バイクで事故ったりしたそうだ。とにかく、相性が良くないらしく、行っても絶対に参拝しないようにしていたそうだ。

 「参拝が未遂だとはいうものの、ヤバイかもしれん。」
 珠光は心配していた。

 そして、車に乗り名古屋へ帰ることに。
 「道がよくわからないから、決して間違えて新宿に出ることがないように。」というのが合言葉だった。参拝未遂なので、新宿方面へ向かってしまうのではないか?と、我々は推理したのであった。

 ところが、中央道の看板はしっかりしており、また、途中大きな渋滞も無く、順調に首都圏を抜け始めていた。我々はそこから新東名へ入ることにした。

 「大月JCTで分岐し新東名へ合流しよう。」
 
 我々は大月JCTを目指した。
 全国各地を巡っている珠光は、日本各地の道に詳しい。そして、何よりしっかりもので、計画性もばっちり。そんな彼がナビをしているので我々は安心していた。

 しかし、Ipadの地図画面を見ていた佐渡が言った。
 「大月JCT、過ぎてない?」

 「え?」
 と、驚いた珠光が地図を開く。そして言った。
 「過ぎているねぇ・・・。」
 どうやら、大月ICへ向かわないとJCTにもいけないようで(もし詳しい方が見えましたら御一報を)、ICでは降りてしまうので通過したらJCTもぶっ飛ばしてしまったようだ。
 ひょっとしてJCTの看板もあったのかもしれないが、紀伊が近年の見せパンについて見せるくらいならば履くな、という過激理論を述べて皆で盛り上がっていたので見逃してしまったのかもしれない。

 「まぁ、まだリカバリーは効く。」

 と、いうことで次は一宮御坂ICを目指していくことにした。

 「次は絶対パンツ話は厳禁だ。」
 と、皆で確認をしあって、慎重に走っていた。

 はずだった。

 「・・・、また、過ぎてない?」
 Ipadを見た佐渡が言う。

 「ええ?!」
 一同驚く。

 「そんな馬鹿なしっかり見ていた筈なのに・・・。ああっ!過ぎてる!」
 と、珠光が悲鳴を上げた。

 「こ、これが、天海の呪いかぁ・・・!」
 我々は戦慄した。

 私が先週事故ったばかりの甲斐の国へ引きずり込まれてしまったのだった。
 我々は珠光の参拝未遂が引き起こした結果に、おののくばかりであった。

※甲府南ICで降り、最寄の道の駅で途方に暮れる一同。

 身延山、などという途中に素晴らしいものがありながら、我々は一路帰途に付く羽目となった。途中、えらいことノロノロした車に捕まるなど、かなり天海の呪い(?)を受けながら、多分1時間半程ロスをして到着をしたのだった。

 やはり城旅は戦死者を巡る旅だけに、はしゃぎすぎにはご用心、という教訓を思い出したのであった。

 では、次回からは、純粋に城機能の話に変わります。

新府城 ~後編~

2012年08月25日 | 落城戦記
で、前回の続きです。

本丸内部ににあったのが「蔀の構え」です。
これは本丸虎口より城内に一本土塁を構築して城の中を見通せないようにしたもので、実際見てみるとこんな感じで中が見えません。

※わかりにくいかもしれませんが、写真中央の高まりが「蔀の構え」

ただ、両袖枡形とかの方が武田らしいのに、と、思いますが。曲輪内部に隔壁を設けるのも武田の特徴の一つだそうで古宮城なんかにもあったりする訳ですが、それの亜流なんでしょうか?再現図を見ると攻撃導線を増やそうとする意図はわかるのですが、なぜこれ?という不思議さが残ります。

さて、本丸から降りて大手側に向かいます。
それぞれの曲輪が広く、武田特有のマニアックさが感じられない。古宮城、松尾城、上野南本城のような複雑怪奇な恐ろしさが見られず、どちらかというと名古屋城を連想します。一つ一つの曲輪が大きく整然と並ぶ感じです。
収容人数が多く火器の使用を想定した城が名古屋城ですが、それに近い。想定している軍勢の数や戦闘形態が違うのだと思います。

しかし、現地で感じたのは『これは居館ではないか?』というものです。
新府城の直前に躑躅ヶ崎館を見てきたこともありますし、守護大名から発展した武田家の居城という性格からすると、居館としての威厳も考えているのではないか、という感じを受けました。実際、後で『日本名城百選』(小学館)を見ると「新府城は本質的には館であって、純然たる軍事要塞ではない」とあります。私の見立てもあながち間違いではなさそうです。
言われてみれば、百選が指摘するように堀の使用が少なく敵の遮断力が弱い。それだけに、武田勝頼は折角作った城を捨てて彷徨ってしまい、名門武田の最期としては寂しい場面を迎えることになったのかもしれません。

さて、丸馬出+三日月堀+枡形虎口という武田城郭ならば必見ポイントに到達しました。
枡形でけぇ!!!

そして丸馬出土塁から下を望むと高低差があるし丸いしすごい。

馬出の角度がこんな感じで、手前の凹みが堀。見事!

馬出の大手への道側は虎口化しており、立派です。


素晴らしいなぁ、と思って帰ってきたのですが、百選によると、本来馬出と虎口の間にあるべき堀が省略されており、防御力がやや劣る、とある。確かに。馬出的な腰曲輪的なといったところ。中途半端感は確かに否めません。

七里岩を眺めようと下へ」降りましたが草木が多くて岩が見難い!!


そしてこの後災厄に遭うわけです。
降りなきゃ良かった・・・。

家族旅行の弱さ。時間制限があったため、搦手口の馬出+枡形や近くの魅力的な白山城、新府城の外構などが見られませんでした。

再挑戦したい城です。

新府城 ~前編~

2012年08月24日 | 落城戦記
武田勝頼が天正九年(1581年)一月終わり(『戦国武田の城』(中田正光著洋泉社)、現地案内板は二月)頃に築城を指示。同年十月(現地案内板は十二月)には一応の完成を見たようです。南北600m、東西550m、比高差80mだそうで、本丸は南北120m、東西90mとは現地案内板。
天正十年(1582年)二月に木曽義昌の離反により織田軍が信州へ侵攻。危険を感じた武田勝頼は小山田信茂の誘いにより新府城から岩殿山城へ向かう途中、小山田の裏切りに遭い、三月十一日、天目山麓で武田勝頼一行は滅びます。

新府城築城直接の動機は、上杉謙信亡き後に勃発した跡目争い、御館の乱の調停で北条を敵に回す失敗をしたのが天正七年九月。この後、北条への備えの必要性が生じ対徳川戦線で遅れを取るようになり、外敵への備えの必要性が新府城築城の動機のようです。
武田家滅亡の後は、本能寺の変の後、徳川家康がこの城を拠点に北条の大軍と渡りあっています。

さて、この新府城。こんな感じになるとか。

※現地案内看板
川に挟まれて台地の先端に築かれています。
武田家最期の城だけに、武田流築城術の最終形態はどうなるのかが気になるところ。

駐車場からは城の北側から入る形になり搦め手からの侵入となります。

広い堀に出構。
広い堀は明らかに火器の使用を念頭に置いたものと見てよいでしょう。
出構というのは始めてみました。堀の中に半島が突き出た感じです。上空からはこんな感じ。

※現地案内看板
案内看板によれば、堀を渡る兵士を掃射するための陣地と考えられるそうです。近世城郭にも屈曲を増やして攻撃力を上げる工夫がありますが、あれと同じ発想ですね。現在でも堀には水が残っている部分があり、

※出構から堀を見る。広い!
当時は足場が悪かったのかもしれません。それならば出構の存在は敵方には脅威だったと思います。

そして時間も無いので出構から城内へ侵入する。
出構内部は特に工夫が無く単純に高台となっているだけでした。

※出構から城内を望む。

多分柵などがあったとは思いますが、土塁状の構築物とかあってもよさそうなもんですけどね。

時間が無いのでこのまま本丸へ進む。しかし、本当は搦手口に馬出+枡形という素晴らしいセットがあったのですが見落とす結果となりました。無念。

さて城内ですが、広い。ところどころに虎口状のものが現れ、導線を遮断しています。そして曲輪の配置から迷路っぽいものが現れると、やはり武田はマニアックだなぁ、と、うれしくなります。

こんな感じは古宮城にも通じるものがあります。

そのまま進むと本丸の虎口に到達しました。

で、中に入ると広い!

方形で広々としています。大きさ自体は松尾城上野南本城で慣れましたが、奥三河の城にはない広さがあります。

城内には長篠でなくなった将兵の碑などがあり、

長篠からやってきた人間からすると、なんとなく気まずい部分もある。この感覚が、後の悲劇につながったのかも知れんな、と、思わんでもないです。

長くなりました。見所の丸馬出などは次回へ。

躑躅ヶ崎館 ~後編~

2012年08月20日 | 落城戦記
躑躅ヶ崎館の続きです。(前回はこちら
躑躅ヶ崎館の主郭には天守台もあるようですが、現在神域なので見学はできませんでした。途中に名水とか水禽窟とか観光客向けのものもありましたが、一瞥するだけで城機能の見学に向かいます。
主郭から西曲輪に向かう土橋部分がこんな感じ。

普通に繋いでいるだけ、という感じがします。しかし、両側の堀は結構深く、主郭の方が西曲輪よりかなり高いです。
主郭の西を守る馬出的な機能を持たされていることはよくわかります。
ちなみに西曲輪は天文二十年(1551年)に信玄の長男義信が結婚するのに合わせて新造されたそうです。(by 現地案内看板)
と、なると、ここに武田家御家騒動の元となった今川家からの姫が住んでいたわけなんですね。。。

西曲輪には城としての見所が南北に用意されています。
新城市作手の古宮城にもある両袖枡形です。曲輪内部に設置されていますので、内枡形になると思います。南側はこんな感じです。

そして、北側はこんな感じ。

南より北の方が大きく見ごたえもあります。
やはり土塁の両袖枡形を見ると「武田の城に来た」感があって良いです。
城の北側を出ると、現在は畑となっておりますが、曲輪が配置されていたことがわかるような状況になっています。時間があればぐるりと一周したいところですが、今回は家族旅なのでハードな行軍ができず、走って見られる範囲を見てきました。くたびれる。

躑躅ヶ崎館詰めの城といわれる要害山城を見ることも叶いませんでしたが、今後のために入り口だけは確認しておきました。

躑躅ヶ崎館を守る城塞群とあわせて、再度チャレンジしたいと思っています。

ところで、躑躅ヶ崎館は現在武田神社になってる訳ですが、祭神はといいますと・・・、

『武田晴信命(たけだはるのぶのみこと)』だそうです。
どストレートな祭神です。
なるほど、神社なので出家後の『武田信玄命(たけだしんげんのみこと)』は、ありえない訳か、と、納得。

それにこれじゃあ『武田信玄命(たけだしんげんいのち)』って誤読されて、どんだけ信玄好きだよ!って言われそうですし。。。

躑躅ヶ崎館 ~前編~

2012年08月19日 | 落城戦記
武田信玄の本拠地、躑躅ヶ崎館をとうとう訪問することができました。

嬉しい。なんせ小学生時代から行きたいと思ってましたからね。

信玄が言ったとされる「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」というフレーズから「信玄の根拠地は簡素な館である」と書いてある文章を読んだことがあります。さすが信玄、と、小学生くらいの頃は思っておりましたが、今回訪問してみて「よく城のことを知らずに書いたな」という感じがしました。

そもそも「人は城」のフレーズ。
信玄が言ったかどうかは疑義があるとされています。
「人の一生は重き荷を背負うて行くもの・・・」も徳川家康が言ったとされていますが、そんなことは言ってないらしい、というのが最近の説。
「人は城」について、『名将言行録』では伊達政宗も言ったとされています。

「ああ、彼なら言いそうだよね。」⇒「彼が言った。」
と、いつの間にか確定にされてしまうことは、現在でも、仕事してるとよくある話です。笑。
まぁでも、なんもかんも真実を追究すりゃいい、ってもんでもないでしょう。それが歴史を趣味にしてる素人のスタンスでいいのではないかと思っております。

さて、躑躅ヶ崎館です。
武田信玄の父信虎が永正16年(1519年)に石和からこの地に館を移したことが始まりだそうです。(by 現地案内看板)
現在は武田神社とされています。これは明治13年に明治天皇が巡行した際、信玄の勤皇心の篤さや天皇に随行していた三条実美(さんじょうさねとみ)の先祖に、信玄の正室三条の方がいたことなどから、神社にしたらどうだ、と、なったそうです。(参考:甲府市 まちミューガイドブック)
言われてみれば三条。つながるもんですね。


実際には武田家が滅びた後、徳川家康によって増築された部分もあり、結構大規模な城にまでなったようですが(その後甲府城へ移転)、現在の神社部分が武田時代の主要部分と考えてよさそうです。現在鳥居が立っている正面は後世の改変で実際には東側に大手が開いていたようです。
平地部分に土塁と堀だけなので「簡素だ」と思う人もいるかもしれませんが、曲輪の配置状況などを考えてみると、主郭とそれぞれの曲輪が馬出状に配置され、所々に両袖枡形が現在でも見られ、発掘調査では三日月堀が確認されるなど武田氏の典型的な築城技術が使われ防御的な面ではかなりなものです。相当立派な『城』と見ていいでしょう。
ただ、古宮城ですとか大島城、諏訪原城などといった軍事的色彩が強い前線基地の城とは違い、権威性や居住性が重視されていると考えられます。守護の屋敷は室町将軍家の花の御所との類似性が近年指摘されることが多く(『史跡で読む日本の歴史7』小島道裕編 吉川弘文館)、守護大名から戦国大名化した武田家なので、主郭の方形はその影響でしょう。躑躅ヶ崎館を取り囲むように支城網が張り巡らされていますので、各領主の軍事力が低い時代はそれで大丈夫だったのでしょう。

さて、まずは参拝。

とにかく人が多い。お盆期間ということもありますが、やはり武田信玄の人気の高さが窺えます。好き嫌いは別として戦国大名の代表人物の一人には違いありません。
ついでに宝物館によって色々と見てきました。涼しいのと、小さい割に所蔵物が多いので一見の価値があります。
一旦神社を出て、大手方面へ向かいました。

現在の土塁などの状況は、徳川時代の改変が大きい用ですが、発掘の結果から三日月堀が確認されるようです。

三日月堀・丸馬出といえば武田。
さもありなん。そうでなければ。
ちょうどこの辺りです。↓

で、再度主郭部分の神社本殿部分を通過し、西曲輪へ向かいます。
長くなりましたので、見所満載の西曲輪は次回。

甲州にて災厄に遭うの事

2012年08月18日 | 日記
代休を取得して「そうだ、甲府へ行こう。」と、突然思い立ち、念願の躑躅ヶ崎館と新府城を見に行きました。
が、早起きで車で寝るかと思った娘が寝ず、ずーっと起きてるなぁと思っていたら、朝方近くに寝る。で、躑躅ヶ崎館手前2km辺りの甲府市内で突然娘が吐く。それこそマーライオンのように。
動転しつつも近くの公園の水道で洗いまくり、近くのドラッグストアでファブリース買って旅を続行。
躑躅ヶ崎館を見た後、娘が汗だくなのでイオンに立ち寄り服を購入。新府城へ向かおうとしたところ、霰が降ってくる暴風雨に遭遇。すぐ近くに落雷するなどのかつてない経験をしました。
ま、これは濡れずに済んで良かったわ、と、災厄の一つには数えていなかったのですが、新府城を見学した後、県道で渋滞に嵌る。やれやれと、思っていたら、突然「ドン」と衝撃が。
こちらは止まってる、後ろはスタートしたばかりだったので、大怪我するとかそういった事態にはなりませんでしたが、こんな状態に・・・。

突っ込んできたのは軽なんですけど、この有様です。ナンバーを隠しているのでよくわからないかもしれませんが、かなりナンバープレートぐにゃってます。
こないだ実家の壁に車をぶつけてパンパー全とっかえしたばかりだったのに、また。。。しかも今回は後ろのドアまで傷がいってます。
そもそも対人での事故は大学時代にバイクにやられた時以来。旅先での事故、というのは面倒なことになるので気をつけてはいたのですが、一本道で逃げ場の無い道で渋滞停止中に後ろから突っ込まれるのは、どうしようもないものです。まぁ、大型トラックがすごいスピードで突っ込んで来なかっただけでも良しとしなければ。

やはり、長篠の人間が甲斐へ行くと、なんらかの作用が働くのかも知れませんねぇ・・・。

行った城についての話は、別の稿で。

野田城 ~武田信玄狙撃シーンの再現イベント!!~

2012年08月15日 | 奥三河
野田城といえば武田信玄最期の戦いの地。
わずか500の兵で天下最強の武田軍2万5千人の兵を釘付けにし、孤立無援の中1ヶ月の籠城を耐え、最後は水の手を断たれ無念の開城となりましたが、天下にその名をとどろかせた菅沼定盈の城として知られる野田城。
長篠の戦いはここから始まったと言っても良いでしょう。
最近では宮城谷昌光さんが小説「風は山河より」で菅沼定盈を描いたため密かな人気も出ています。

しかし、この城、なかなか表に出てこれなかったのです。
それというのも、人がわんさかやってくることでトラブルが発生することを懸念された地権者の方の同意が得られずイベントを打つことができなかったのです。
そんな中、野田城を世に出そうという熱意ある方々が、時間を掛けて地権者の方から信頼を得て、イベントを実施できる運びとなったそうです!

地元には、野田城で武田信玄が毎晩演奏される笛の音に誘われ出てきたところを鉄砲で狙撃され、死亡したとされる伝説があります。
実は狙撃された場所などが地元に残っています。

そんな伝説を再現しようと言うイベントが9月9日(日)に野田城で開催されます。
14:00と16:00からの2回は、新城市教育委員会のガイドにより野田城の案内も実施されます。(予約不要。無料。)
その他、五平餅や合戦おにぎりなど様々なお店も出展しており、11時から6時までは様々な催しが無料で行われます。
そしていよいよ午後6時半からは火縄銃演舞と篠笛などにより信玄狙撃を偲ぶというイベントが実施されます。こちらは、大人1,500円(前売1,000円)、高校生以下800円(前売500円)が必要です。

やっと世に出てきたイベント。
多くの方がご参加されることを願っております。

場所:愛知県新城市豊島本城23番地1
プログラム
第1部「野田城古の宴」(入場無料)
 午前11:00~午後6:00
 催し物
  琴、三味線、居合い演舞、和太鼓、大道芸、篠笛演奏
  ※演奏時間、場所は各演者にゆだねられています。
 歴史探訪
  ガイドによる野田城の歴史案内(予約不要)
  開始時間 1回目14:00~、2回目16:00~
 出店
  五平餅、合戦おにぎり、「芳休まんじゅう」等新城銘菓、ぜんざい、地元新鮮野菜、野田城伝Tシャツ、甘酒、野田城巻き、うどん、芋煮、竹細工、その他
第2部「野田城 語りと篠笛コンサート」(入場料必要)
 午後6:30~午後8:00
 火縄銃演舞、雅楽、語り、しのぶえ

※やぶ蚊が多い可能性がありますので、長袖長ズボンがお勧めです。足場が悪い部分もありますのでサンダル・ミュール等での参加はお控えいただいたほうが良いと思います。

戦国のブラック企業 宇喜田直家

2012年08月14日 | 戦国逸話
 宇喜田直家。

 ああ、あの暗殺名人ね、と、ピンと来る人が多いのがこのブログをご覧頂いている方々ではないかと思われます。
 そうでない人も見えると思いますので、ちと解説を。
 岡山県付近を治めた戦国大名で次々と敵を暗殺で潰していったことで有名です。結構エグイやり方をしています。敵Aを倒すためAと仲の悪い別の武将Bに自分の部下を偽って投降させ、その際、部下は見知らぬ老婆を「おっかさん!」と勝手に呼んで良い暮らしをさせ安心させた後、偽って投降したBに人質として差し出します。その後、部下はBを裏切ってAに投降します。Bは人質のおっかさんを殺害し、部下はそれを見て「母親の仇をA様の力で。」と涙を流すのでAはすっかり信用します。そして隙を見て部下はAを殺害して宇喜田家に帰還します。
 
 複雑なので説明するのが大変でしたが、とにかく浮浪者の老婆はちょっとした良い暮らしと引き換えに殺害される目に遭っています。それは宇喜田の指示な訳です。なかなかに恐ろしい技を繰り出してくるものです。そして、その指示に従って密命を遂行する。スパイのようといえばかっこいいですが、ブラック企業、という捉え方もあるかもしれません。
 そんなブラック企業に勤めてしまった場合、社長が死ぬ間際は気が弱くなってくるようでとんでもない指令が降りてきます。

○殉死のこと
 直家が病が篤くなり治らないと思い、近臣を呼んで言うには、
「お前、ワシが死んだら殉死してくれるか?」
と聞いて回った。
 聞かれた者は、君恩浅からず、ということから
「願わくはあの世までお供致しとうございます。」
と、皆答えたため直家は大いに喜び、約束の証じゃ、と、いって皆に盃を与えて名前を札に書き、「ワシが死んだらこの札を棺の中に入れてくれ。」と言う。
 そして戸川肥後守秀安を呼び、
「彼等は皆死んでくれると言う。お前はどうじゃ?」
と、聞くと秀安が言うには、
「人にはそれぞれ才能があります。私は若輩ながら軍に当たっては堅塁を破って敵の鋭鋒を挫くことは、常に皆に劣ることはありません。これは私の才能です。しかし、殉死はなかなか難しいですな。これは私の才能が劣るからです。
 殿が殉死の者を求めるならば、むしろ日頃帰依している法華宗の僧侶がよろしいかと思います。冥途はこの世とは違いますが、僧侶が引導を渡すのは成仏できるからです。いわんや殉死して殿を導けば、必ず極楽へいけることでしょう。私らは武士です。多くは修羅道に落ちてしまいます。僧侶に比べれば駄目なのはお分かりでしょう。
 僧侶は首を失うような危ない目にも遭わないのですが殿の尊敬・寵愛は私らよりも十倍と言っても良いかもしれません。私らが矢玉の雨をくぐって、万死に一生を得ても僧侶には寵愛が及びません。殿の寵愛が篤い者が殉死するとすれば、そりゃ坊主共が一番でしょ。」
 
 これを聞いた宇喜田直家は大変困り、
「ま、まぁ、お前が言うことは、もっともじゃな・・・。」
と、言い、戸川の諫言を受け入れた。

 どうやらこの直家殿、死ぬときに部下に「ワシと一緒に死んでくれるよね?」と念を押して回るという暴挙にでてしまったようです。そして部下達に「お供致します。」と言わせて、口先だけで終わらないように、盃を交わして名前を書いた札を棺桶に入れろと指示するあたり、かなりの本気度が窺えます。
 部下達も「ああ、やべぇなぁ。しょうがねぇなぁ。」という感じだったのでしょう。
 しかし、そこへ社長へ直言できる部下、戸川秀安が登場して「そんなに一緒に死んで欲しいならば、命かけて戦ってるワシらよりも厚遇されている僧侶達の方がふさわしいでしょうが!武士は修羅道に落ちるけど僧侶なら極楽へいけるんだから、あんたを間違いなく連れてくことでしょうねぇ。」と皮肉たっぷりに言われてしまいます。
 この諫言を受け入れたことで、宇喜田家は最優秀ブラック企業認定を免れたといえるでしょう。

 しかし、宇喜田直家。
 あんだけ際どいことやってますけど、坊さんを厚遇していたんですね。地獄へ堕ちるのが怖かったんですかねぇ。戦国梟雄ランキングでは上位間違いなしの宇喜田直家の意外な一面を見た気がします。