長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

川尻城

2014年10月24日 | 落城戦記
奥平氏が始めて群馬県から作手にやってきて築いたとされる川尻城。



現在公園化されておりアスファルト舗装された道が本丸と思しき曲輪まで続いています。


実際の城郭としての道がショートカットされてるため、城の印象がかなり変わっていると思われます。たぶん、上記の写真の冠木門からつづく舗装道はなく、冠木門から東へ回り込む形で本丸へ登るのが正しい登城ルートだと思います。
ちなみに、このアスファルト舗装された道路。なれた人だとアルファードで上がってしまいますが、

※同乗者にとっては絶叫アトラクション。

慣れない方には絶対にお勧めしません。川尻城の東側に大きな駐車場があり、そこから足で登っても5分もかからないだけに、歩いて登ることをお勧めします。
なお、駐車場奥の城山ハイツは子宝アパートとして有名です。

この川尻城、愛知県中世城館調査報告Ⅲの縄張り図を見ると東側に土塁を複数に入れて防御を厳重にしているさまが窺えます。今回、草がしっかりと刈られており城が見やすくなっていました。
比較写真。
前回


今回


前回夏の真っ盛りの際は、腰近くまで草が茂り、地面形状など見ることは不可能。蚊もすごい。いかに『城の草刈を実施する』ことが、城を見やすくするかお解かりいただけるかと。笑。
(川尻城は公園なので公園管理者か地元の方が草を刈ったのだろうと思われます。)

前回は宝くじの祈願、今回は城郭状況確認。気合の入り方が違います。
私も前回は素足にサンダル。今回はトレイルラン用のシューズに山城探索用の格好。どんな薮の中でも突っ込んでいけます。まして、今回は大学生の皆さんが同行。天然の蚊取り線香が一緒にいてくれる訳です。蚊は若い人の血を好むようで、加齢臭が漂い始める前厄のおっさんには来ない。

さて、草がないので本丸に回りこむ曲輪の下の腰曲輪がしっかりと見学できる。
ので、知らず足はそちらの方へ。


土塁と濠の高低差が失われつつあるものの、色々と複雑にやってくれています。
この手の込みようからすると、とても奥平が最初にやってきた時の城の状態とは思えない。後世に明らかに改修を加えているのだろう、と、推測が立ちます。

このようにしっかりと土塁が。


ここは腰曲輪から回りこんで本丸へ向かう際に遮蔽するようにある土塁です。
そして、我々は驚愕の光景を目にします!


長さがわかりやすいのはこちら。


愛知県中世城館報告Ⅲの縄張り図では、直線的に描かれさほど高さが無く東(本丸とは反対方向)へ方向性を見失ったように伸びる土塁が一本描かれています。
が、現地を実際に目にしたところ、この土塁、本丸東の曲輪の北側を防御するように結構な高さでしっかりと築かれている!しかも、上記の写真を見てわかるように折れが途中に入り、横矢が掛けられるように意識していると思われます。

しかも、この土塁は明らかに自然地形とは違い、そのままこの曲輪と思しき部分が谷で落ち込むところまで続く。
たぶん、この土塁を作る際に、併せて曲輪北側の防御面を強化したのでしょう。切岸が作られて斜度がきつくなっています。

※わかりにくいですが、かなりの高低差を切立った状態にしています。
 なお、画面の中央から少し右上にある水色は精霊ではなく学生さんです。

これは大発見!
現地に行かなければ絶対にわからない!

私も3回目で始めてみることができました。そのため、めちゃくちゃ興奮して「なんじゃこれー!」「すげー!」を連発。城館調査報告の図面では土塁は行き場を失うような形ですけど、現物ではちゃんと切岸に沿って屈曲しながら土塁が続いていますので、山城マニアの方は、是非、その目でご確認ください。

そして、興奮のあまり、もっと何かないのかと全速力で学生さんを置き去りにして走り出す。
すると、やはり本丸の北側にこんなものが。


こんなものが、と、言われても大抵の方は「は?」という代物だとは十分にわかっております。
これ、横堀的な感じです。土塁の上が細くなり、まるで関東の方の城に出てくる馬出チックな感じ。

いや、川尻城。
しっかり見なくてごめんなさい。

この城すごいわ。
どう考えてもこんな土木量でマニアックに作るのは奴らしかいないと思う。

武田。

曲輪が丸い、やたらと超絶技巧を使いたがる。そして、情念を感じる。

大島城だの丸子城だの諏訪原城だの新府城だの武田の城を訪れると感じる、あの妙な感覚。
あの感覚が蘇ってきました。
今まで川尻城も本丸に上がる前の土塁や土橋

※写真右側の切立った部分が本丸。その手前の高いところが土橋。冠木門から進むと左手に見える光景です。

を見て
「なんか結構手が入っているんだが、規模の割りに手数が少ない。」
と思っていたのは、草が多くて地表が見られなかったから。
今回の屈曲した長大土塁や本丸西北の腰曲輪の馬出チックな土塁。

古宮城や亀山城と共通する技術を感じます。

本丸が広々としていますが


現在忠魂碑が立っている高まりは、元々櫓台があったのでは無いかと想像させてくれます。
ただ、妙に忠魂碑下の地面が高いのは、忠魂碑を作る際に西側を削って盛ったのでは?と、思う部分もある。

なお、川尻城から古宮城、亀山城が見えます。
古宮城と塞之神城に挟まれた国道301号を過ぎると亀山城下。川尻城を造った後、すぐに奥平は亀山城に移ったようですが、想像するに市場が既にある地域へ入り込むことができたのが亀山城に移った原因では、という作手山城案内人原田さんの説は、川尻城に立つとよくわかります。

こうしてしっかりと見てみると、川尻城は北側に重点的に防御面を置いており、方向的には岡崎につながる方面となります。

今回の川尻城の印象で、根拠は何も無く今まで山城を巡ってきた勘でしかありませんが、
「武田は作手地域を軍事拠点として要塞化しようとしていた。」
という印象を強く受けました。
今までは古宮城を拠点に、と、思ったのですが、今回の川尻城で、作手地域そのものを軍事拠点としていたという感が強くなりました。

川尻城から古宮城+塞之神城、亀山城、文殊山城。
この4つの城は、同じ技術を持った人達が作り、その技術は明らかに三河の他の城と違う。
奥平がこんな技術を単独で開発することは考えられないので、やっぱり武田でしょう。下山と作手が武田と徳川の境界線になるような気がしますので、もう一度下山の城をしっかりと見てこないといかんな、と、思った次第です。

いや、川尻の屈曲土塁で大興奮したので、文章に力が入りすぎているかもしれませんが、それくらい見事だ、ということ。

絶対に見てくださいね!

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。