長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

富来城 ~暑すぎる妄想を楽しむには注意が必要~

2015年10月07日 | 落城戦記
ペトロ岐部の故郷を訪ねたところ、岐部氏の城郭が相当なものであることを発見してテンションが上がった我々は、石垣原の戦いを訪う旅を始めることとした。
石垣原の戦いとは、関ヶ原の戦いの直前に行われた別府を舞台とした戦いで、西軍石田方として旧地回復を狙う大友吉統と東軍徳川側としつつも九州制覇を目論んだと言われる黒田如水が争った戦いで九州の関ヶ原とも呼ばれます。

大友吉統は、九州の国東半島に到着し、周辺地域を制圧しようとしたところを黒田が攻撃、別府温泉のある石垣原で決戦。結果、黒田軍が勝利。黒田如水は島津征伐をしようとしたところ、関ヶ原の戦いが終了したとの連絡が届き、九州で自立を目論んだとも言われる黒田如水も戦いをやめたとか。(参考;Wikipedia)

国東半島から大分市にかけては西軍方が多く、ペトロ岐部と同じ名字の岐部氏も大友軍に従い、西軍方についています。
その西軍方の城の一つ、富来城。


石垣原の合戦時は垣見一直という秀吉配下の武将が城主。
朝鮮出兵の際に、秀吉の意向に沿って石田三成側となり、加藤清正達とは対立関係にあったそうです。
関ヶ原の戦いでは、一直は大垣城を守備し、配下の垣見理右衛門が城代として黒田如水に抵抗したものの、すでに関ヶ原で敗れていた主君からの勧告に従い開城した城とか。

ここ、「富来路(とみくじ)」として「開運ロード」として売り出しているではないか!


新城市は縁起がいいらしいまちらしく、多数あるパワースポットを巡っていた身としては気になる。

ので、富来城に立ち寄る。

と、既に遺構は相当破壊されているようで、現在は城趾公園があるのみ。


そして、ここの看板を見て我らは少々期待する。


こうした手作り系の看板がある場合、得てして、地元で熱心すぎる人が暴走した結果であること多い。
そして、地元に伝わる伝承等を調べた結果に自分の想像をMIXして『俺の史実』を語りだす。虚実ないまぜ妄想には、触れれば火傷する熱さがあり、その暑苦しさを楽しむのです。

例えば、


激戦の末、無血開城
無血開城しちゃったら、それは、激戦だったのか?

激戦で、結構な死傷者が出たとの伝承もあるようです。しかし、最後には主君の説得に応じて開城したことを言いたかったのでしょうが、筆が走り過ぎて無血開城と書いてしまったと想像されます。
そして、こうした部分が私のツボです。

後、なんとなくジブリチックな絵柄の黒田如水とか。


石垣もある、との看板に向かうとこのような石垣が。


この写真部分だけ見る限りでは、とても当時の石垣とは思えません。
他の城巡りブログを見ると、違う角度から撮った写真を見ることができ、石垣として見えるものがあります。時代や場所からいって石垣があってもおかしくない城なので否定はできませんが、少なくとも一部は後世に積まれた石垣が混在しているように見受けられました。こうした部分は、見学の際に注意が必要ではないかと思います。


※私と同様の感想を持った、妻子を騙して参加している佐渡守。

また、ありがたいことにこの看板を作った人と思われる人が作った資料が置いてある!
もう、読んでみると、色々と調べて伝えたいことが多すぎる内容で、この旅の途中、暇な時に読んでは楽しんでおりました。
裏面もあるのですが、もう、ここに至っては、NHK大河ドラマと絡めたがりすぎて、ひいきの引き倒しという感じ。『自由奔放』という表現がぴったり。
ああ、絶対この文章書いている時、この人楽しかっただろうな、と、思います。

ちなみに「2015.3.23邦前文吾」なるクレジットが記載されている。
きっと、このパンフを作った人なのだろうと思うのですが、読み方を考えたところ
「くにさきぶんご」さんなのではないかと思う。

国東半島(くにさきはんとう)
豊後国(ぶんごのくに)

きっと、この二つを合体させたペンネームなのではないかとの思いが頭をよぎる。
と、いうことは、きっとこの人、相当気合入れて活動してるな、と、邦前さんの人柄が偲ばれて、お腹一杯になりました。ここの教育委員会の人達は、かなり邦前さんの持論を聞かされているのだろうな、と、少々同情しつつ。。。

残念ながら富来城自体は、相当遺構が失われて当時のよすがを想像するしかない場所でした。


しかし、我々は、この富来の地を愛しすぎた暑すぎる思いに触れ、十分に楽しむことができました。

史実と妄想。。。
歴史好きの永遠のテーマですから。

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