長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

浅野文庫諸国古城之図から日本古城絵図を経て天保国絵図へ。

2013年01月27日 | 
城を探訪される方ならば、一度は目にしたことがあるのが「浅野文庫諸国古城之図」の図面だと思います。


※二連木城跡大口公園案内看板掲載図面。

上記のような感じで、さりげな~く利用されているんですね。
で、この図面。

「全部見たい、全部みたい。」
と、思っていると、所蔵している広島市立図書館さんがWebギャラリーで全図を展示してくれていたりします。

浅野文庫諸国古城之図Webギャラリーリンク

177城あります。
で、久々に画図面をネットで眺めていたところ、この古城之図。

やたらと三河の城が多いことに気がつく。

額田地区から7城、設楽地区から8城、宝飯地区が14城、八名地区が6城、渥美地区が3城、加茂地区が8城、幡豆地区4城、碧海地区4城。
実に54城。

3割近くを占めていることになります。

で、作手の亀山城だったり古宮城だったり、鳳来医王寺裏手の医王寺城(長篠合戦のときの勝頼本陣陣城)だったりと、かなりマイナーな城についてまで掲載されています。細かいことはともかく、結構現状と似ています。

なんでこんなに三河の比重が高いのかは、ネットで調べりゃすぐ出てくるだろうとタカを括っておりましたが、わかりません。広島藩主の軍事研究用に作成されたらしい、と言うことくらいまでは広島県立図書館の企画展のチラシのデータで確認が取れましたが。
まぁ、徳川将軍家のお膝元だけあって神聖視したのか、それとも「徳川コノヤロー、いつかみてやがれ。」という浅野家の物騒な深層心理から調べたものかはわかりません。

で、名古屋城とかメジャーどころがあれせんがや、と、不思議に思っていたら、これとは別に「当城之図」という154城の絵図面があるそうです。これは電子データが確認できません。

これとは別に「日本古城絵図」というものが国立国会図書館デジタル化資料にあります。(※リンクは愛知県の城に飛んできます。)
220城余りが収録され、
「道、国順に23帙におさめる。諸藩の兵学者たちが藩用の甲州流兵学研究の資料として、江戸詰の期間などを利用し、つてを頼って写し集めた城郭図集の一例。寛文から貞享、元禄ごろに多く行われた。編纂時期における当城と古城に分けられている例が多いが、本図集は両者が混淆し、城郭のみの図、城下町を含む図などが混在、一部、古戦場図も含む。」だそうです。

こちらは浅野古城之図のようにマイナー城は少なく、三河ですと、岡崎城、刈谷城、田原城、吉田城と並んで、なぜか「田峯城」が掲載されています。
なぜかはわかりませんが、掲載されています。やるな田峯。

田峯をそれぞれ比較すると違いますので、出典が違うのでしょう。

などと、調べて「ほーん。」と感心してましたら、同じく国会図書館の絵図面で「国絵図」というのも掲載されています。これは幕府が諸藩に「お前の国の詳しい地理条件を報告せよ。」というもので、「叛乱したらこの図面があるから、すぐ攻め込むからな。」というためのもの。
天保の国絵図には三河国が見れるようになっています。

で、見てみると主要幹線道路や河川などが描かれていると同時に「長篠村」だの「布里村」だの馴染みの地名が!現在の行政区名(新城市では自治会・町内会のことを行政区と呼んでいます。)と一致する名称がたくさんでてきます。

なるほど。
よく見れば現在の国道301号によく似た「臼子⇒和田⇒戸津呂⇒川合⇒北畑⇒市場⇒鴨ヶ谷」なんてルートがあります。ただ、その道は「大和田⇒塩瀬⇒上一色⇒下一色⇒布里」と来て、海老から田口(設楽町)へ行くルート、門谷(鳳来寺方面)へ行くルート、大海(設楽原古戦場方面)へ行くルートと別れていきます。

天保だから大塩平八郎の乱だの水野忠邦の「天保の改革」だのなので幕末一歩手前くらいとはいえ、きっと戦国時代とさほど道は変わらないだろうから、こんな感じのルートを武田軍が辿ってきたのかね、と、現在のようにトンネルや橋で変えられてしまったルートに比べると想像がしやすい。
本などを読んでいても、いまひとつピンと来なかったのですが、この図面を見ながら考えると、よく理解できます。
その他、見代、今出平、石田、一鍬田だの、新城市民だと「おお。」という地名が満載です。
だから何だ、と、言われると困りますが。。。

城を考えるにしても、道路や集落の状況をある程度想像してみないと、なんでこんなとこにあるんかね?と、なってしまいます。そうしたときの一助になるサイト群かと思います。

なかなか時間がないと見られませんけどね。

大谷城と国広城

2013年01月21日 | 落城戦記
先週子どもがぐずったので車に乗せて眠らそうとしたら、長篠落武者逃走経路と思しきルートを走ってしまった、というを書きましたが、その前に「そうだ、行きたくて行けてない城へ行こう。」とJRの広告のようなことを思いついて訪ねてみたのです。

その名も大谷城(おおやじょう)と国広城。
苗字みたい。

大谷(おおや)と言えば、中学時代、大谷(おおや)君が数学教師から1年を通じて「おおたにぃ~」と呼ばれ続けていました。大谷君もめんどくさいのか「はい」と答え続けていました。
国広と言えば「噂の刑事トミーとマツ」のトミー役だった人、国広富之を連想してしまいます。

ものすごく、どうでもいい上に全く今回の話と関係のない連想でした。。。

さて、大谷城。
山家三方衆というこの地域の有力国人集の一人である田峯菅沼氏の城です。
場所がわかりにくく、適当に探しているのでは全く見つからない。今回は気合を入れて史料を用意して臨みました。が、車で訪ねたところ、道がどんどん狭くなっていく。


長年の相棒フォレスターならば相当アグレッシブに攻めるのですが(古い車なのでちょっと位擦っても平気でしたし。)、新しい相棒フリードでだと、どうにも限界の車幅や回転半径が体に叩き込まれておらず無理攻めができない。通常ならば車を捨てて山を登るのですが、今回の目的は城ではなく息子。息子を寝かせなければならないので、やむなく断念。遠くから眺めるのみ、と、いたしました。


で、この大谷城について書こうと思ったところ詰ってしまい、先に落武者行を物すこととなったのです。
それは、大谷城に田峯城主が住んでいる時期があるからです。

田峯菅沼氏の三代目当主定広、四代目当主定継、この二人は大谷城に住んでます。
私の感覚からすると、田峯城のある設楽町田峯地区は完全な山の中です。そして、この大谷城は平野を目前にして海へ向かう場所。どちらが今後の発展を見込めるか、と、考えた場合、大谷じゃないのか?と、思ったわけです。しかも、定継は豊川沿い、現在の新城橋のたもとに新城古城を天文元年(1532年)に作っています。
やっぱりそうだよね、平野部に出て行くよね、と、思いきや、定継は何がしかのタイミングで田峯城に戻っています。その後、今川氏に叛乱を起こしますが、今川の援軍を得た定継弟の定直に滅ぼされ、自刃だか今川に誅殺だか諸説ありますが定広より先に、弘治2年(1556年)で亡くなります。
この田峯菅沼氏は定直により定継の息子定忠が立てられ田峯で継続します。

で、この大谷城の創建時期を探しているとはっきりしない。
新城市役所のHPを覗いて見ると2代目の定忠が永正年間に作ったとも、3代目定広が作ったとも言われ判然としない、と、ある。

はっきりしていない、という、私の結論は新城市のHPとも一致したわけです。笑。

私の手元にある千郷村史系の資料では「永正5年」説です。
そうなるとですね、菅沼定盈で有名な野田菅沼氏の初代、菅沼定則が野田城の築城を始める時期と同じになるんです。で、富永家へ定則がマスオさんとして入るのが永正2年なので、田峯菅沼氏は富永家を菅沼のものにしてから一気に勢力を新城市に浸透させた、と、見ることができます。
と、いうか、富永家が菅沼氏から跡継ぎを迎える話をよく読むと、なんだか富永家内部で揉めている感がありますので、それに乗じて田峯菅沼氏が平野部へ進出してきた、と、いう感じがします。
しかし、野田菅沼の誕生とともに田峯菅沼が譲った土地を見てみると、田峯はそれ以上南進できなくなってるんですよね。もっとも、田峯菅沼は現在どんぐりの里稲武がある武節城周辺も抑えています。そういった周辺も抑えることを考えると大谷城では遠すぎる。田峯のほうが近い。

ま、最初は自分の子どもを配置したつもりでも、代替わりをするにつれ、配置した子供同士がいがみ合ってしまえば、むしろ骨肉の争いで他人の敵より厄介な状況になります。野田と田峯が協力して、と、いう当初の目論見が狂ってしまったのでしょうか?

そのあたり、奥平については結構調べましたが、菅沼氏についてはさほど調べていないので、空白地帯になっています。このあたりも年表で整理をしはじめていますが、奥平の年表と比較すると「あれ?」というのも結構出てきます。

城所道寿だの奥平だの田峯菅沼だの、ああ、しっかり理解しようとすればするほど、ドツボに嵌っていくものばかり。時間がどんだけあっても足りやしません。

さて、大谷城の丁度目の前に国広城は位置しています。


現在は削平されて原形をとどめていないようです。


よくわからない城のようですが、大谷城だとめんどくさいので、手前に住みやすいところを作った、という感じなんでしょう。その前には夷ヶ谷城があり、なんだかやたらめったらの城ゾーンです。

ああ、もっとスパッと書くつもりだったんですが、調べれば調べるほど深みに嵌ってしまい、とりあえず今わかっているところだけ書いたので、なんだか歯切れの悪い内容になってしまいました。

て、いうか、今までのブログの内容、そういうのばっかな気がしてきた。。。

長篠落武者行

2013年01月16日 | 日本史
息子が昼寝に失敗。昼の3時頃眠さのあまりぐずぐずになってしまった成人の日。
昼寝をさせようと車に乗せました。

あてもなく車を走らせていたのですが、いつの間にやら設楽原決戦場に!
何故?!

何故も何も、歴史ヲタが本能の赴くままにハンドル握ればそうなりますわな、と。。。

いつもと同じコースを走っても面白くないので、柳田前激戦地跡から設楽原歴史資料館を目の前にして左折すると、馬防柵を対岸から眺めることができます。


いつもは馬防柵側に行くので新鮮です。
「結構走って行くには距離あるなぁ。」
などと思いながら、武田勝頼観戦地下辺りを通過しているときに、
「武田軍はこの辺りから突撃したのか。」としみじみ思う。
いつもは織田側の視点ですが武田視点でじっくりと見たことが無い訳です。

そのまま連吾川に沿って北上を続けて何気に道を東にとる。地形的に大宮前激戦地を通過し、丸山砦跡から東西に走る道です。この道の左右は高台ですがここだけ平坦。そんな地形を眺めていると。

「あれ?これって武田軍の兵士が敗走するときも同じようなルートを辿るのではないか?」
と、思う。なんとなく、必死に斜面に逃げようとする兵士達の映像が頭によぎるのです。
現在の道なので当時とは違うでしょうけど、高低差はそんなに変わるもんじゃないでしょう。
そのまま走っていくと東郷東小を右手に五反田川が現れます。

この川が渡れずに北上した者もいるだろう、と、思って左折し北上。五反田川沿いに北上すると、真田兄弟の墓があるではないですか。


これにはびっくり。

※真田墓から五反田川を南に望む。

そりゃ、墓も正確な戦死地ではないでないでしょうし、区画整理もされているので当時の地形とは違うでしょうが、ひょっとして、と、思ったルートがやっぱり敗走ルートと考えて良かった訳かな、と。

ちなみに、『口語文全訳 三州長篠合戦記』(長篠城址保存館発行)には、
「・・・鳳来寺の方を指して退いていきました。その道の橋辺(場)と言う所に来ると、大河で前を阻まれてみなぎる水を渡ることはできません。小さな橋はあるが道は狭く、押し合いへし合い渡りかねるところへ、味方(うらにわ注:織田・徳川連合軍)が追い迫ったので防ぎようもなく、滝川へ落ちて溺死する者は夥しい数であり、このあたりで武田家の名の有る武士もかなり討死しました。・・・真田源太左衛門は渡辺半十郎政綱が討取り、かくて武田勢の多くの将が討死しました。・・・」
と、ありますが、この辺りのことでしょう。

そして、そこから鳳来寺方面へ向かうと、名将馬場美濃守信房最期の地が現れます。

※川沿いにある看板

今まで、馬場美濃守の墓はこの上、と、看板があるものの柵もありどうやって登るのか?と、不思議に思っていたのですが、山道を整備されたためか、そこから数メートル北上した場所に山へ上がる道を最近発見。ひょっとしてここから登れるのではないかと思っていたので、そのまま猛ダッシュで駆け上がる。
すると、ありました。

名将馬場美濃守信房最期の場所が。

おいたわしや・・・。

そんな彼が武田勝頼が逃げ行くのを確認し、最期力尽きて敵に頸を渡した場所。
どうしてもひと目見ておきたかったのです。

なぜそんなに馬場美濃守信房が好きなのか。

昔、太閤立志伝、というゲームがありました。
秀吉としてロールプレイングゲームをやるんですが、あまりにも早く出世してしまうと歴史が狂います。そのため、よく武田の家臣団を引っこ抜いて自分の部下にしていました。さらにこのままでは本能寺の変のイベントが起きないので、突然信長に対して謀叛を起こして遊んでいました。謀叛を起こす際、結構部下が離反するのですが、馬場美濃は常に離反せず、その高い能力で織田軍を撃破してくれるため重宝していたのです。
そんな経緯から馬場美濃に対して私は少なからず好意を抱いておりました。
信長の野望でも軍師として使い倒しましたし。
(どんな経緯だ。)

まぁ、ゲームのキャラの顔や声が武将の人気を決める時代ですから、こういう武将に対する好意の寄せ方、というのは、ある程度の方には理解していただけるのではないかと。。。

馬場信春がどうやら最期の頃に名乗っていた名前のようですが、私の中では信房でインプットされている以上、信房なのです。だから頑固に信房を使い続けているのです。訳知り顔に「信春でしょう?」と言う人もいますが、私の中で彼は信房なのです。それでいいのです。
これが私の拘りなのです。

そんな私の拘りはどうでもいい訳でして。

期せずして武田の敗走ルートを辿る旅をしたようです。
でもなんか終始、リアルに逃げる兵士達の映像が頭に浮かんだのは、気のせいなのでしょうかね?

今まではこんなにリアルに想像できなかったんですが・・・。

Kindleで読む『鳳来寺紀行』

2013年01月13日 | 奥三河
鳳来にある名刹鳳来寺。
1300年も前に利修仙人により開山されたとされ、松平広忠がその妻於大の方と子授け祈願で参篭をしたお寺でもあります。結果的に寅の年寅の日寅の刻に産まれて来た子どもが、後に徳川幕府を開くことになる徳川家康なのです。
そのため、江戸時代は徳川幕府より手厚い庇護を受けた大寺院となる訳ですが、明治時代になると敵方の保護を受けた憎き寺、と、いうことで特典を一挙に剥奪されてしまい、さしもの大寺院も荒れ果て、最後には火災で焼失します。(困窮した僧侶が寺宝横流したことの発覚を恐れてとの説もある。)
その後、再興が試みられ、寺領として巨大な山林を保有したことから復活を果たし今に至ります。

さて、その鳳来寺に若山牧水がやってきたことがあるそうで『鳳来寺紀行』なる話を書いています。

若山牧水?

※出典:ウィキペディア

そう。
皆さんの国語の教科書で落書きの餌食になった彼です。(それは私とその周辺だけか?)
歌人として有名ですが、改めてwikiで彼の生涯を見てみると「一体、この人はどうやって食っていたのだろう?」という疑問が頭を離れません。
貧困にあえいだようですが、よくもまぁ、生活ができたものだ、と、他人事ながら感心してしまいます。
まして、結構旅行してるんですよね。
しかも、かなりの酒好きで飲みまくってるんです。死後遺体から腐臭がしなかったことから「生きたままアルコール漬けになったのでは。」といわれたという逸話がwikiにあります。
そこまでの逸話を残せたら酒飲みとして本望でしょう。

そんな彼が死の数年前に新城にいる友人のお見舞いを兼ねて鳳来寺で有名な仏法僧の声を聞こう、という旅に出ます。その時のエッセイが『鳳来寺紀行』です。
そんなマイナーな本、読めるんかい、と、思っていたら著作権が切れた本をボランティアの方々で出している無料電子書籍「青空文庫」の中に収録されておりKindleで読めるようになっていました!
こら読まな、と。


※携帯画像なので画質が悪いですが、白黒反転させて表示させています。

さすが歌人。
文章のリズムが心地よく、少ないページ数とあいまって20分程度で読み終えてしまいました。
地元のことが書いてあるだけに「弁天橋。はいはいはい。舟着と新城を繋ぐ橋ね。」とか「湯谷ホテル。あの湯谷温泉駅の建物ね。」とか「鮎滝。はいはいはい。」とか「門谷(かどや)。はいはいはい。」と、大変わかりやすい。読んでいると目の前にカラーで情景が浮かんでくるようです。
ちなみに、鳳来寺山道の石段の数は1,425段と聞いていたのですが、これによりますと1,877段と書いてあります。
かなり鳳来寺を調べて書いたようで、地質から歴史まで、立派な鳳来寺の案内になっています。
最終的に仏法僧の声を聞くことができたようで何よりです。今となってはなかなか聞くことができないだけに貴重です。

ちなみに、私はどこへ行っても「ここの情景ってなんとなく岐阜の山奥に似てる。」とか「ここの感じって名古屋の円頓寺みたい。」とか似た情景を連想して口走る癖があります。そして、別にそれはそれでいいと思うのですが、なぜか妻は「いちいちうるさい。」と突っかかってきます。
「アンタの家族は皆そうだ。」となぜか非難してくるので余計なお世話だ、と、思いつつも、似た情景を思い出さない方が世の中のスタンダードなのか?と、不思議に思っておりました。
すると、この牧水さん。嬉しいことに連想するタイプのようです。
「再び豊川線に乗って奥に向ふ。この沿線の風景は武蔵の立川駅から青梅に向ふ青梅線のそれに実によく似てゐた。」だの、
「豊川流域の平原が次第につまつて来た奥に在る附近一帯の主都らしく、さうした位置もまた武蔵の青梅によくにてゐた。」だの、
「この橋の様子は高さから何から青梅の萬年橋に似て居り、」といった感じ。
世の中、つい似た風景を連想して楽しむ人はいるのだ、と、嬉しくなりました。

何度読み返しても飽きない感じの名文。
鳳来寺にお越しになる前には、一度ご覧になることをお勧めします。

有難味が増すでしょうから・・・。

二連木城 ~長篠合戦との関係性~

2013年01月05日 | 落城戦記
先月のことですが、たまたま骨格矯正に向かう途中発見した城「二連木城」です。

※雨の日、かつ、携帯写真なので画像が粗いのはご容赦ください。


※浅野家絵図でしょう。現在は本丸と二の丸が公園となっており、その他は住宅地となっていました。

前々から興味があった城です。
現在は大口公園となっていまして整備されています。

※整備されまくり。


※近場の公園としてはGOODでしょう。

ですが、意外と曲輪の配置状況がわかり土塁なども残っており、まんざら捨てたもんじゃありません。

※こんな見事な土塁が!結構綺麗に残っています。


※公園と老人福祉センターの間の道。これは本丸と二の丸の堀切を利用したもの。


※本丸前の南曲輪との間は現在道となっています。写真右側が二の丸で現在は老人福祉センター跡。

さて、どんな城かは公園の案内表示を転載。
明応2年(1493)に戸田宗光によって築かれた城。その後多くの戦乱に巻き込まれ天正18年(1590)に戸田康長の関東移封に伴い廃城。
位置的には吉田城の東に位置しており、支城的な役割を果たしたことは十分想定されます。

実際、二連木城の戦い、と呼ばれる合戦があり、吉田城を攻めた武田軍に対して徳川軍が籠城。その際、支城の二連木城も攻撃対象となりますが徳川軍が後詰し城兵を収容。吉田城へと引き上げたとされています。

で、この戦いはブログタイトルにも関連する『長篠の戦い』に大きく関係しています。
「当代記」という資料では武田勝頼は長篠侵攻に当たって、足助侵攻⇒野田落城⇒吉田城攻撃⇒二連木落城⇒長篠城包囲、という流れが記載されているそうです。(『武田氏研究』第37号 武田氏研究会 「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」柴 裕之氏)

武田勝頼の目的が最初から長篠城だったのか、それとも吉田城が攻め落とせず長篠城を包囲したのか、諸説ありますが、二連木城を落とすことで長篠城を武田軍が包囲したときに、吉田城に対する武田側からの圧力としたことが想定されます。吉田城から長篠城に向かうにあたっては、たぶん、勝頼も現在、豊橋から長篠へ向かう場合に利用することが一般的な国道151号沿いではなく、地元民が抜け道としてよく利用する現在の豊川用水沿いの経路を利用したのでしょう。
実際、自分は野田城方面から豊橋の整骨院へ向かう際、石巻を経由して飯を食い、そこから豊橋駅前へ向かう途中に二連木城をナビで偶然発見したわけです。

ところで二連木城の戦いをwikiでは「元亀二年(1571)二月」に発生したことになっています。
これは最近否定されつつある元亀二年武田東三河侵攻説に基づいていると思われます。私は二連木城の戦いは長篠合戦時のものだと考えます。
(否定説の詳細はこちら。)

と、まぁ、偶然発見した城で結構楽しめました。これも城好きの特権ですな。他人にはなかなか理解されないでしょうけどね。。。

謹賀新年 ~偉大なり古宮城~

2013年01月02日 | 日記
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

年末年始は両家の実家に帰省しておりまして、スマホではない悲しさ。
ネットに繋がる環境は家しかなく、と、いうことで本日謹賀新年申し上げる次第です。

名古屋方面から帰宅しようとして高速道路標示を見ますと、
「岡崎-三ケ日 渋滞30km 110分」

て、ことは、
「岡崎から三ケ日まで車繋がってる、ってことじゃんねぇ・・・。」
と、唖然とする。
岡崎-音羽蒲郡間が暫定三車線化されてから上りの岡崎がこれほど渋滞しているのを見たことがない。
中央道の事故の影響などもあるのかもしれんな、などと思っていましたが、いやいや帰らねばならん。

すぐ頭の中で浮かぶルートは301号を迂回して作手経由で帰宅する方法。
しかし、高速道路渋滞は曲者で、渋滞の距離数と通過時間は微妙なところがある。距離数が長くても流れている場合があって、じたばたするより高速を使ったほうが早い場合も多い。
我が家も妻実家の津へ帰省するときなどは、岡崎、四日市という現在日本でも有数の渋滞ポイントを2箇所も通過しないといけないだけに、渋滞に関しては少しうるさいのです。

うるさくなりたくなどはないのですが。

そんな経験値から「110分」表示は久々にみた危険信号。
では、最近大枚叩いて購入したナビ様が相当スグレモノだという販売店の兄ちゃんの言葉を信じて自宅を設定すると
「作手経由で」
と、ご託宣が。

伊勢湾岸、東名高速の合流地点はスムーズ。
「これなら・・・。」
と、いうローレライ並の誘惑がありましたが、その直前の高速道路掲示板でも「30km 110分」と無情の表示があったので、
「いやいや、これで騙されて何度痛い目にあったか。」
と、様々な人生の場面で使えるフレーズを呟いて合流地点を通過。松平インターへ向かう。

松平からは快適そのものでしたが、松平インターから利用する国道301号の唯一の不安は「酔い」。
前のフォレスターの時には全く無かったのですが、別の道を走っていたとき、今のフリードに換えてから、娘が二度吐く。体調の悪さもあったのかもしれませんが、酔いが最大の原因の様子。

4WDからFF、なおかつ走りのスバルからファミリーユースのミニミニバンでは、そりゃあねぇ・・・。と。
だからお父ちゃんはデリカD:5が良いといったのに、などと言おうモノならば妻からの不機嫌光線で焼き尽くされる(妻がでかい車が運転できないというのでフリードに。)ので、とにかく、できるだけ車を揺すらないように気をつけて運転を。

と、言っても名うての山道。

慎重に運転していても気がつくと「たーのしー。」と振り回しそうになるで我慢する。

ちなみに、この国道301号。
私は密かに「山城街道」と名づけていまして、松平郷松平城、大給松平大給城、作手川尻城、文殊山城、塞ノ神城、古宮城、亀山城が点在する、愛知県内有数の城ポイント。中でも、古宮城、大給城、亀山城の三城は必見の城。私的には愛してやまない国道なのです。

さて、娘は寝てしまったので危機は去った様子。

そして走っていると妻が「気持ち悪い・・・。」
と、言い出す。

普通、後部座席の方が酔う、というイメージがあるのですが、この車は助手席の方がよろしくないらしい。娘もよくよく考えれば二度とも助手席。うちの妻は結婚前、生涯で3度しか吐いたことがない、というのが自慢でしたが、その妻が気持ち悪いと言い出す。(もっとも妊娠してつわりが酷く、現在では数え切れないくらい吐き歴がありますが。)

しかし、平坦地に到着して「まだ大丈夫」となったので安心して旅を続ける。

ふと「そういやうち、まだ初詣してないな。」
と、気づく。

折角国道301号を走っているのだし、古宮城にある白鳥神社で初詣をするか、と、気が向く。


立派な門松がありまして、普段は開いていない拝殿が開いておりまして参拝することができました。誰もいませんでしたが。

2013年の幕開けにふさわしい初詣場所だったのではないかと思っております。
ちなみに、

こんな看板もありまして、地域整備が地元の手で進められているようです。

その後、無事に帰宅しましたが、
「古宮城で初詣してくれて良かった。あれがなかったら吐いてた。」
と、妻が言う。

やはり古宮城は偉大だな、と、思った次第です。