長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

娘の謎

2012年11月28日 | 日記
本日は戦国系とは一切関係ありません。
うちの娘の話です。

幼稚園からおゆうぎ会の案内を貰いました。
娘のクラスの演目は
「おにぎりさんがね・・・。」
だ、そうです。

「おにぎりさんがね・・・?」

別のクラスは「おおきなかぶ」とかで「ああ、あの話ね。」と、すぐ想像がつくのですが、この演目の内容を私は知りません。しかも「・・・。」で締める、という何とも意味深な感じも。

一体どんな内容なのか。

妻に聞いても「私も知らない。」
と、言う。

で、娘に聞いてみる。

私:「今度幼稚園でおゆうぎ会があるんだって?何の役をやるの?」
娘:「あのね、○○ちゃんはね、パンの役をやるの。パンの役でね、出るの。」
私・妻:「ふーん。パンの役なんだ。」

おにぎりさんを中心とした何らかの演目なのか。そりゃ、パンだの麺だの出てくるのかな、と、夫婦で思う。
まぁ、松、とかじゃなくて良かった、と、思った程度でした。

しばらく経ってから、幼稚園でママ友に話を聞いた妻が言うには、

「おにぎりさんがね・・・。という話は、おにぎりの具の中身がどうこうという話であって、パンの出番なんかないんだって。一体、○○ちゃんは何と勘違いしたんだろう?ってママ友に言われた。」

夫婦で頭を捻ったのは、言うまでもありません。
一体娘は何を考えて言っていたのか・・・。

うちの娘は大丈夫なんだろうか、と、考え込んでいたら、一つだけ心当たりがありました。
質問をする前の日は、私が風邪で寝込んでおり、あまりの退屈さに昔録画した「爆笑レッドシアター」を見ておりました。その中で「劇団ジョセフィーヌ」ネタがあり、「コッペパン」という役が出てきます。

娘も見ていたので、おゆうぎの記憶とネタがごっちゃになったのではないか、と、いうのが現在の推測です。

しかし、あまりにスラスラと言われて信じ込んでしまいました。
子どもの頭の中と言うのは面白い発想をするもんですね。

戦国ダジャレ道場 ~織田信長の場合~

2012年11月26日 | 戦国逸話
 戦国の覇王、織田信長。
 どちらかというと世紀末に空から降ってくる恐怖の大魔王的な存在として記されるような彼でございますが、ちょっと親しみを覚える、オヤジ的なエピソードを名将言行録で発見しました。

その名も「おおぬるやま」。

『大緩山(おおぬるやま)』

 天正元年(1573年)八月、信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めた際、義景は2万の兵で刀根山に陣をしき、信長軍の先鋒は刀根山の麓である大緩山に陣を敷いた。

 信長は櫓に登り、敵陣を見てから言うには、

「敵を見てみたらよー、絶対今夜撤退すると思うんだわ。ほんだで、先鋒の奴らは気を緩めたらいかんぞ。わかっとるな?」

と、何回も先鋒に使者を送った。

 部下達は
「なんで殿はそんなことを言うのだろうか?敵は大軍で山に陣取って地の利を得ているし、大合戦を前にして、引くとは思えないのだが・・・?」
 と疑っていた。

 しかし、夜になっても信長は櫓にいて、敵陣を睨み続ける。

 丑の刻(午後2時くらい)に「おお、敵が引いとるて!」と叫んで、法螺貝を吹かせる。
 信長は馬に乗り、
 「ワシが何回もいっとるのに、大緩山に陣取る先鋒の奴等信用しとらんでかんわっ!!! あのくそたわけ共が油断してまっとるなら、ワシの馬回りのお前らは、逆に手柄のチャンスだわ。かかれぇっ!」
と、叫んで真一文字に敵陣に突入していった。

 大緩山の先陣は信長親衛隊に遅れて突撃する羽目になり、親衛隊で勝利をおさめた戦いとなってしまった。
 これ以降、常に信長は、油断している者に「大緩山」と言って、笑ったとさ。

 と、いうことは、

とか、

とか、

とか、言ってたんでしょうか?

 あの信長様が。

 おおぬるやま、という響き。
 これがまた、ぬるさ爆発で、そんなところも気に入ったのかもしれません。

 でも、きっと上機嫌の時だけだったのでしょう。

 なぜなら、この合戦は朝倉氏を滅亡に追い込んだ越前攻略戦の始まりの戦いのことだと思われます。
 そして、このとき、どうやら親衛隊に遅れて到着した前線武将達を信長は激しく叱責したようです。
 その時、当時織田家中では最大勢力とも言ってよかった佐久間信盛が、よせば良いのに、
「そうおっしゃっても、私ほどの者は家臣として持つことはできないでしょう。」
と怒って反論してしまったようです。

 そして、7年後、突如として佐久間信盛は織田家を追放となり、あちこち追い回されて悲惨な最期を遂げることになります。

 そんな状況を知っている羽柴秀吉や柴田勝家にしてみれば、
「この大緩山が!」
 と発言した信長の目が笑っていないことを見て、脂汗を垂らしながら、
「は、ははははは。う、上様、参りましたなぁ。あははははは。あはははは。」
と、上ずった声で笑っている様子が目に浮かびます。

 ちなみに、この名将言行録に収録されている大緩山とは、山田山が正式名称のようです。

 一度、登ってみたい山ですね。

訪問者 481 IP?!

2012年11月24日 | 日記
細々と城に関する話を載せているこのブログ。

だいたい、一日平均の訪問者数は 70 IP 程度。ロボット検索もカウントされるので、知り合いか、たまたまうっかりと検索してしまった方が見られるのだろう、と想定されるわけです。

体調不良が続いていたこともありまして、本日なにげにネットを開いて自分のブログを見てみると、

「閲覧数 665 PV」
「訪問者 481 IP」

と、いう数字が。。。

「え・・・・?」

見間違えたかと思って二度見しても、そのまま。

幸いなことに、現在、gooブログではアクセス解析が無料で提供中。
慌ててアクセス解析を見てみる。

すると最も閲覧されたページは「シンデレラ城」。

どうも、このシンデレラ城に関する内容が拡散したようです。
コメント欄が炎上していなかったので、どうやら好意的に拡散していただけたものではないかと勝手に推測しております。(笑)

きっと本日にはいつもの様子に戻るでしょうけど、驚きました。

こんなこともあるんですねぇ。

新城古城・石田陣屋

2012年11月19日 | 落城戦記
愛知県新城市。

「しんじょうし」
と、言われることがあります。

苗字で「しんじょう」という人も多いですし、ぱっと「新城」と見せられたら反射的にそう読んでしまう方が自然かも。

なぜ「しんしろ」と読むのか。

この地域には城が多く、新しい城ができて「しんじょう」と呼んでいたら、さらにその後新しい城ができてしまい区別するために「しんしろ」と呼び、それが定着したから、と、一般的に言われています。

では「しんじょう」とは何か、と、いいますと、今回ご紹介する「新城古城」です。
これは、田峯菅沼氏が新城市平井まで進出し大谷城を築きます。さらに天文元年(1532年)現在の石田字万福に城を築きます。この城を大谷の本城に対して新城(しんじょう)と呼んだとされています。
ちなみに「しんしろ」は、長篠合戦で篭城に成功した奥平信昌が現在の新城小学校の場所に築いた城です。

城が多い地域、ということがお解かりいただけるかと。
城ヲタが移住してくるのもお解かりいただけるかと。

さて、石田を歩こう会で石田城を見学したことは前回書きました。
その後、旧道を経て

※お好きな方にはたまらない、この曲がり具合!

石田陣屋跡へ向かいました。

※現在は普通の民地です。偲ぶよすががありません。


※覗き込んでいると怪しい人と思われそうなくらい普通の畑です。

ここは江戸時代の陣屋ですので戦国期の城とは役割が違います。役所と言った方が良いでしょう。
石田陣屋(1648年~1827年)は、菅沼定盈で有名な野田菅沼氏の後裔が治めていました。
野田菅沼氏は嗣子断絶になってしまし、取り潰しになるところを「あの菅沼定盈の家系だから」ということで、最後の当主の弟達に少ないながらも家を継ぐことを認めます。新城七千石と海老三千石です。
この人達、交代寄合衆です。大名は1万石以上を指しますので大名ではありませんが、参勤交代をする大名並の格式を認められた人達です。

海老(旧鳳来町海老)を治めた菅沼氏は石田の渡船場に陣屋を作り、年貢米などを運び出したりしていたそうです。
そのため、この辺りは物流の拠点として大変賑わいを見せたそうです。

※渡船場へ降りていく道。今は草が生い茂っています。

三千石でありながら体裁は大名並み、ということなので、金が要ったのか海老菅沼氏の統治は厳しかったと言われています。現地事務所の石田陣屋に対する不満が嘆願書として江戸へ出された記録が残っているそうです。
石田の十王堂と併せてみることで、当時の賑わいを偲んでみると良いかもしれません。

さて、いよいよ新城古城です。
私も訪ねようと思って行きましたが、人家の中に入っていく感じがして行けてなかった場所です。

※ほんと、入りにくい雰囲気なんです!

人の敷地を行くような感じの中、

※畑の道と言う感じです。


※人の庭へうっかり入り込んだような・・・。

しばらく行くと幽玄川にぶち当たります。

※ここらの川は崖に近い落ち込みをしますので天然の要害です。

東は幽玄川、南を豊川で防御し、東、北、西の三面に土塁を築き北面に門を構えたそうですが、大正2年に土塁を崩して堀を埋めてしまった為、今では東側の土塁が残るのみ、と、なってます。

※写真左手の高まりが土塁。

で、今回の歩こう会に併せて、土塁際の道を整備してくださったので、我々は歩くことができました。
石田合戦は、この辺りで行われたのだなぁ、と、想像しておりました。

城郭遺構的な楽しみはありませんが、市の名前の由来になった場所だけに、お時間があれば見てみるのも一興かと。

石田城

2012年11月18日 | 落城戦記
『長篠落武者日記』を名乗っておりますが最近長篠付近の話がない、と、我ながら思っておりました。

久方ぶりの新城市内の城についてです。
少し前になりますが「石田を歩こう会」というイベントがあることを知りまして参加してきました。
地元の方々による歴史案内ガイド付き健康増進大会。

長篠、設楽原、と、言えば教科書レベル。
古宮城、作手城塞群、と、言えば城縄張萌えの当然レベル。
宇利城、と、言えば「風は山河より」読者公認レベル。

しかし、石田城、新城古城、石田陣屋、と、なると、「え?」という人も多いのではないかと。

石田地区は、非常にざっくりと申し上げますと新城橋という豊川を結ぶ橋の辺りの地域です。
武田信玄最期の戦い、野田城攻めの際、宇利方面から侵入した武田軍は対岸の野田城を囲むため、豊川が浅くなる石田付近で渡河し、道目記城(現在横浜ゴム社員寮)に本陣を置いたといわれています。
この辺りで鮎を取るための網漁に参加したことがあるので豊川へ入ったことがありますが、実際、歩いて渡れます。

さらに、風は山河よりを読まれた方には「石田合戦」というとお解りいただけるかと。
永禄五年(1562年)に今川方になっていた野田城を菅沼定盈が奪還。奪われた今川勢は城を取り返そうとするが失敗。そこで、近くにあった新城古城を攻め落とすことで今川氏真に申し開きをしようと考え、攻め寄せたところ、城主菅沼定氏が近くの万福寺に潜んで迎撃。今川勢を撃退。体勢を立て直した今川勢は再度攻め寄せますが菅沼勢に大破されてしまい大将稲垣十郎左衛門が討死をしてしまいます。

そんな石田地区の城達はどんな城なんでしょうか。

まずは「石田城」からでした。

※中央のこんもりがそれ。

※標柱もあります。

※堀。結構広いです。

石田城は天正18年(1590年)7月に池田輝政が吉田城主となった際、家老の片桐半衛門正義は、新城市平井、杉山、野田7千石を与えられ、石田西金国という変わった地名の場所に城を築きました。これが石田城です。
もともと、現在の新城小学校の辺りに長篠合戦後に奥平信昌が築いた城があった訳ですが、なぜか半衛門は一旦入場するもののこの城を使わず、石田城を築きました。
関ヶ原の戦いの後、池田輝政は姫路城へ移封され半衛門も移封。石田城は廃城となります。

なぜ半衛門は石田城を築いたのか。
一説には、徳川の影響力が非常に強い地域(奥平信昌の正室は徳川家康長女亀姫)だったので、豊臣大名であった池田輝政には徳川色一掃の使命があったことから、新しい時代を知らしめるためだった、と言われています。
また、片桐半衛門は池田輝政から養子を迎えており、養子に新城城を譲り自らの隠居城とするために作ったのではないか、とも、言われています。

石田城ですが、豊川と道目記川に挟まれた長篠城に似た選地。
幅の広い堀と土塁に囲まれた方形単郭の城です。
大手側からの道はクランク状になっており、横矢を意識したものと思われます。

※土塁上から虎口を臨む。

また、現在は無くなっていますが、古図面を見ますと大手口は枡形になるような構築物があったようです。

※城内は茶畑です。

また、城の北側にも虎口が開いていますが、こちらは道の曲げ方と土塁の構築の仕方が見事です。

※横矢を掛けるんでしょう。

北側には吉田往還が走っており、豊橋と信州、遠州を繋ぐ重要な街道だったそうです。
領主の館、という感じですが、堀幅の広さは鉄砲を意識したものでしょうし、単なる館ではなく防御機能はそれなりにある城です。

その後、泉蔵寺へ。



※四脚門が立派。写真右は大銀杏。

秋葉街道とも繋がり、常夜燈があったそうです。その隣には大銀杏が。
説明で始めて知りましたが、銀杏は水気の多い木だそうで火伏せの役割があったそうです。なるほど。
もっとも、足元には銀杏爆弾が散っておりまして、そのまま家に帰ると家の中が異臭騒動になりそうでした。

寺の中には、長寛2年(1164年)に領主の命令で竹下一族が石田村を開拓した時期からある十王堂があります。

※閻魔様を始めとする十王様。

新城市内にはやたらと十王堂があります。
それだけ、十王信仰が厚かったということでしょう。

ちなみに、この泉蔵寺。酒の飲みすぎで遺体が腐らなかったと言われている、あの若山牧水の歌にも詠まれているそうです。

「豊川の ほとりにいます 泉蔵寺」

う、うーむ。
ほんとに牧水の歌なのか?
どうにも短歌などには疎いので・・・。

寺を出ますと吉田往還が。

このうねり具合。
きっと旧道のままなのでしょう。
旧道萌えには堪らないと思います。(実際そういう人を見ました。城に限らずいろんな人がいるんですね。)

さて、長くなりましたので、石田陣屋や新城古城は次の回へ。

シンデレラ城

2012年11月11日 | 落城戦記
浦安にある鼠の国へ少し前に行ってきました。
一応、これでも父親をやっておりまして、身内の攻撃にはやはり弱く、やむを得ず行く羽目に。

夢と魔法の国との話ですが、アニメのキャラクターに馴染みが無い身としては興味が全くない場所。
そして中学校の修学旅行で行ったとき、あまりの激込みぶりと並んでばかりの印象が強く残っており、今まで妻が行きたがっても拒否をし続けていた場所です。

しかし、妻だけでなく娘も行きたい、と、言い出すと旗色が悪い。
妻が全て金を出す、とも言う。

やむなく行くことになりました。

子ども連れで行く場所は、比較的空いており、自分は息子の世話をしているので並ぶことも無く、妻娘がアトラクションに行っている間に園内をうろついているだけです。

歴史の本などを座って読んでいたのですが、体調不良だったこともあり飽きてきました。

その時、ふと、シンデレラ城が目に入る。
「城、か・・・。」と、思う。

城、と名乗る以上、それなりの装備があるのだろうか。
そんな疑問が沸く。
丁度読んでいた本が「村人の城」という本だったこともあるのかもしれません。

さて、シンデレラ城とはこんな城。


堀(池?)が敵の侵入を拒んでおり、そこを石橋で結んでいる。

おお!
ここから見ると立派な城じゃないか。

塔が乱立することで矢弾の攻撃バリエーションも増えるだろう。
しかし、建物は不整形に池から離れる方向に曲がっており、石橋に対して横矢をかける部分が存在しない。

これでは正面からの攻撃しかできないことになる。
しかも、池の反対側は陸地続き。若干防御面に不安を抱えているとみた。
このあたり、流石に夢と魔法でなんとかカバーできると考えたのか?

まぁ、この城は天守のような「権威の象徴」としての機能面の方が強いのであろう。
だから見栄えの方が重視されているのかもしれない。
安土城のように。

では、城へ入ろう。


お分かりいただけるだろうか。
私は写真中央の塔が両側に立ち並ぶ間を入ってきたことになる。
城正面に侵入する前に塔から激しい攻撃を受けることになるのだ!しかも両サイドから!つ、強い!
しかも、広場から城へ入るには、左右に分かれた半円状のスロープを使わねばならない!

こ、これは!!!

敵は侵入の際、分散を余儀無くされることになる。
そして、スロープはならだらかに上昇しており、高低差が敵に対する優位性を確保することになる。
また、上記の写真をさらにスロープ中央から撮影するとこうなる。


広場は左右と正面の三方に開いているが、4つの塔が睨みを利かせている。
そして、この広場を見下ろしたとき、私は気が付いた。

「こ、これは、馬出機能と同じではないかぁぁぁぁっ!!!」

正面に虎口を開けているのは感心しないが、城兵は一旦この広場で集結をし、そして三方から出撃することが可能になる。うう、これは、二重馬出機能なのか?!武田もびっくりの築城術だ。

また、城内へ侵入した敵兵は4つの塔=櫓と正面の城から攻撃を受けることになる。
そう、敵からすると枡形虎口に侵入したのと一緒の状況になる。
塔にいる城兵はきっと捨て殺しの兵なのであろう。
しかし、それゆえ、死兵となって荒れ狂い敵を苦しめることが想像される。

「お、おお。す、すごい。」
思わず唸る。

城そのものの防御機能はともかく、ちゃんと敵兵が侵入するであろう園の出入り口方面に向かっての防御は塔との連携により確保されている。

驚いた。

城の内部はこんな感じで

一気に城内に侵入できないようになっている。
水の確保が気になるところだが、池が近いので、城内のどこかの部屋を掘ればきっと水が湧き出てくるに違いない。井戸部屋があるのではないかと確信している。

さて、高低差の無い広場の反対側はと言うと、

店が立ち並んでいるだけとなっている。

若干弱いか。
そう、感じた。

いや、そうではない。
城の前に立ち並ぶ店が形成している城下町を見てすぐに考え直した。

この台地の先端に作られたのであろうこの城は、台地との接続部分については、店を並べることで、いざという時に城方の兵を込め、攻撃をさせることで敵を減殺したのであろう。

徳川幕府を憚り、砦を作れなかった豊臣大名達は、城の進軍経路に寺を集約し、寺を館並の防御力を備えさせることで、いざと言うときに城兵を寺にこめて敵を妨げることを想定している。
加賀前田家の金沢市にある寺町などが、その例。

江戸幕府のお膝元。
きっと幕府を憚って寺町ならぬ店街を構成することで敵の侵入を防ごうとしたのであろう。
たしかに、城に対してまっすぐではなく、若干斜めに道が付いているのは、そうした目的だったんだな。うん。きっとそうだろう。

やるじゃないか。


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マイコプラズマ?

2012年11月05日 | 日記
ここのところ本業が多忙なのは仕方ないとしても、空咳が出て辛い、という状況が続いておりました。
これが、更新が途切れていた原因でございます。

熱があるわけで無し、喉などの痛みがあるわけではない。

しかし、咳が止まらない。
仕事してると「ごふっ」と込み上げてくる。

一番辛いのが寝る時。
起きてるときは無意識でも緊張状態なのか、咳が抑え気味なんですけど、丁度寝入りばな位の「ああ、もう意識失う寸前」的な時に「げーほ、げほげほっ、がはぁっ!」と咳が出てきて寝られない。しかも大きく息を吸うと気管支が刺激されて激しく咳き込む。

こりゃたまらんな、と、思っていたのですが、仕事がクソ忙しくてとても医者に行ってられない。
たまに「お、今日は治ったのか?」と思うようなときもあるんですけど、夕方くらいから咳き込むのです。

そしていつまでたっても治る気配が無い。
しかも、なんだか気管支が腫れているような気もするし、咳き込むのも止まらない。
10月22日から10月28日は朝も晩も仕事が入る、という状況の中とても医者に行ってられない、そのうち治る、と思って過ぎて行きました。
唯一の通院のチャンス、10月29日は、前々から動作不安定だった携帯がとうとうウンともスンとも言わない状況になってしまい、携帯の修理を優先したので行けず。10月30日も社内診療施設へ受診するチャンスだったのが、引き止められて話が長くなってしまい、これも消える。
携帯もない、咳き込みも治らない、という最悪の状況の中、前々から計画していた家族サービスの旅行が10月31日から1泊2日でスタート。車で浦安ネズミ王国へ。

「休ませてくれぇ。」

と、心の中で絶叫していましたが、熱も無いのと妻と娘がずっと前から期待していた奴なので、そのうち治るだろうと強行。
車中も咳き込んでましたし、ネズミ王国でもひたすら咳き込んでアトラクション、という地獄のような状況。幸い、子どもが小さいので穏やかなアトラクションに付き合うだけでしたので助かりました。しかし、あまりに咳をしすぎて首が痛くなる始末です。

やっとのことで病院に行けたのが10月26日(金)の午後。

そこで、「風邪かもしれないし、マイコプラズマかもしれない。まずは様子見。」と言われる。

舞妓プラズマ?

と、思いましたが、ネットで検索してドン引き。
大人の場合、熱は出ずに空咳が続く、そして、子どもから感染することが多い、とのこと。

そういえば、自分が咳き込む1週間くらい前から娘がゴホゴホ言っていた。
そして、風呂に入れてるときや寝かしつけのときに、まともに顔にゴホゴホされていた。
飛沫感染なので、顔に咳込まれりゃうつります。

娘も私もマイコプラズマかどうか、正式に判定された訳でないのですが、ネットで症状見ていると、どうにもコレくさい気がします。
しかし、そうだとすると最もやってはいけない「症状が軽くて歩き回ってしまい近くの人に伝染すかも。」ということをしてしまったことになるので、大いに反省している次第です。
(※24日くらいからはずっとマスクをしてたのが、まだしも救いです。)

現在は、薬のお陰か咳もほぼ収まっています。
そして、携帯もようやく治り帰ってきました。
しかし、油断はできません。とりあえず様子見は続きます。(咳をする以外は全く正常なので、やっかいです。)

これからの季節が危ないようです。

皆さんもお気をつけを。