長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

鳥取城 ~40代からの弾丸一人旅 in 鳥取 その2~

2015年07月21日 | 落城戦記
『日本二ツ之御弓矢境』で城兵を助けるために切腹した吉川経家。


織田、毛利という当時の日本を代表する二大勢力の狭間で、兵糧攻めにより凄惨な状況が現れる中、城兵をよく統率して200日に及ぶ籠城を耐え抜いたという日本史の現場を見てみたい。

と、いう理由で今回の旅の最重点項目となった鳥取城。
太閤ヶ平(たいこうがなる)という秀吉本陣から山伝いに鳥取城を目指します。


道中、秀吉側が築いた土塁があるらしい、のだが、とても確認できるような状況では無い。

結構な険しさの道が続くのと草が生い茂っているので、下手に横道にそれると崖下に転落、あるいは来た道がわからず遭難、と、いうことにもなりかねない。


完全にトレイルランのコース状態。しかも前日までの雨でぬかるんでいるというおまけ付き。
前までならば死にそうになっていたのですが、この時までにダイエットと早朝ランニングを行っていたおかげで、楽勝とまではいかないものの、従来のように必死の形相で道を行く必要が無い。何と言っても、腿の筋力に余裕がある。これはありがたい。
と、言っても、そこは中国自然歩道。容易な道ではありませんでした。


こんなところを甲冑着て合戦するなんて正気の沙汰では無いな、と、実感。
籠城戦と言われる羽柴秀吉による鳥取城攻めですが、自分の移動している尾根筋上では小規模な戦闘が繰り返されていたそうです。

途中、草木が生い茂って『あれ?この道で大丈夫か ?」と、一瞬肝を冷やすような道を鳥取市歴史博物館で入手したパンフレットを頼りに歩き続ける。太閤ヶ平では人とよくすれ違いましたが、この道では誰一人すれ違う人はいない。やってくるとしたら野生動物しかない。熊でも来られたらやなので、鳴り響くのは三河弁。iPadでFM豊橋のスヤンコイトルを大音量で鳴らしながら歩く。藤本さんだのモエモエだののトークを聞きながら歩くのは疲労が減る。しかし、鳥取城で三河弁が聞けるとは便利な世の中になったものじゃ、秀吉もびっくりじゃ、などと独り言を言ってみる。

咳しても一人。

独り言を言っても一人。

気儘な一人旅だから構わない。が、途中で暑いはずなのに一瞬鳥肌が立つ。
空気が変わった感じがする。と、地図で確かめると秀吉陣地内から鳥取城内に入っている。ひょっとして、このあたりに避難してきた住民が
『とりわけ頭味わい宜しきとみえ』
と、いう、例の人の頭を奪い合う光景を秀吉軍に見せてしまったあたりではないか?と、いう思いがチラリと横切る。
どの辺りで繰り広げたかはよくわからないので、私の勝手な思い込みにすぎないのですが、なぜだかヒヤリとする場所があったのは確かです。たまに陰惨な光景があった場所を訪れた際に感じる奴です。

と、そんなこんなで、数十分のことだと思うのですが、ひどく長く感じていると、こんな物が目に飛び込んでくる。


石垣!
中世的な感じを受ける、宮部継潤が作った時代の奴ではないか、などと考える。
ここは、外神砦(十神砦)と呼ばれる場所で、関ヶ原の戦いの時などに亀井琉球守の軍勢を退けたり、山中鹿之介がやはり撃退されたりと、鳥取城を守る上で重要なポイントのようです。

そりゃそうでしょう。

ここに来るまでに尾根を結構上下させられてキッツイところを、急に登っていった先に、城郭機能を作られた日にゃ対応できませんわ、と、息を切らしながら思う。


※こんな虎口が。

しかも、まだ、鳥取城の山上ノ丸には到着していない。
どえらい険しい城だのん、と、三河弁で根を上げてみる。

根を上げても一人。

一人旅はくどくなる。なにせ本厄のおっさんですから。

そこからきつい斜度を登っていくと、とうとう出てきた鳥取城山上ノ丸!


こんな立派な石垣造りの虎口ががお出迎えしてくれれば、こちらの疲労も吹っ飛びます。
ちなみに、この日は朝食を取らずに登っているため、まさに、朝飯前。

要所要所に石垣が使ってある、というところが、なんとなく秀吉時代の城っぽい。
高さがそんなにないのも西国チック。造りそのものは、連郭式で虎口が石垣化されているという感じです。ただ、急斜面なのと足場の良い場所がすくない、ということで、なかなか攻めにくい感じがします。竪堀が縄張図で確認できないのも頷ける。敵が斜面を移動することを想定する必要があまりなく、城の入り口を防御すれば十分かと。石垣化は吉川時代ではなく、その後の宮部時代からその次の池田時代に行われたようです。

そして、三ノ丸、二ノ丸下の道を移動していくと、忽然と現れる立派な石垣!

※興奮するしかない。

こんな石垣をこんな山頂によく作ったな、と。
ちなみに山上ノ丸はこんな感じ。


ここで発見。


やっぱりな、と、思うと同時に、麓に書いておいてくれないと、登って来る途中で遭遇しちゃうじゃん、たまたますれ違う人すれ違う人、皆ラジオ付けてるから、熊がいるだろうと推定できたから良いものの、と、苦笑。

ようやく本丸に到着しますが、あまりの立派さに感動。
吉川時代に石垣があったかどうかはよくわかりませんが、現在目にする石垣は無かろう。
※涙目になるくらい立派な石垣。疲れが吹っ飛ぶ。

感動のあまり「すげー!こりゃすげー!」と大声で叫ぶ。
が、誰もいないと思った本丸にに登ると、人がいた・・・。
恥ずかしい。
今まで誰にも会わなかったのに。。。まぁ、鳥取城だけを登ってきた人がいるのでしょう。

本丸からの眺めは別格。
それまで木々に遮られてよく見えなかったのですが、鳥取市内が一望できます。


残念ながら曇ってよく見えない。
反対側は海もよく見て鳥取砂丘も。


正直、籠城戦の間、羽柴勢にぐるっと囲まれているのも一望できるわけです。
援軍も撃破されたことがあるようですので、絶望に追い込まれていった光景だったのかもしれません。平和な時代に呑気に眺められる幸せ。

天守台もあります。


だいぶ草が生い繁り、石垣が崩れている部分もありますが、宮部時代の石垣を池田氏が拡張した部分が伺えます。

天守台の上も広い。


日の本にかくれなき名山と言われる久松山。
確かにこの上に立てば鳥取平野や日本海が一望できて領主の城としてはぴったりだと思います。

この城で、山名禅高が家臣に追放されて、呼び込まれた吉川経家が切腹したのかと思うと感慨深い。まさに歴史の舞台にやってきた、という、この感動。
一人で名古屋から早朝発で車運転して来ただけのことはある。

戦闘の城から権威の城へと変貌したのも仲々珍しい。
そういう意味では、城としても、歴史の現場としても、二つの意味で楽しめる城です。

そして、いよいよこの過酷なトレイルランも終盤に。
城を下り、麓の近世城郭としての鳥取城を見学に向かう。


下りは膝に来る。
グルコサミンを膝にぶち込んでやりたい、と、思いながら、若干痛みがではじめた右膝をいたわりながら下る。

ようよう降ってくると、これがまた、なかなかの城。


完全に江戸時代の殿様の城、という感じです。
姫路を追い出されてなんだかんだで鳥取にやってきた池田氏。

もちろん祖先は小牧長久手の戦いで首を取られた池田勝入斎恒興。
一番驚いたのが、天球丸と呼ばれる郭の石垣。


何これ!

石垣が異常増殖してしまったかのような、この尋常ならざる石垣。
更にドン。


この石垣があるから天球丸と名付けられたのか、と、思ったら、さにあらず。
天球院という池田光政の伯母がいたからだそうです。その後の、この石垣が崩落しそうになり、積み直すと金がかかるからか、巻石垣と呼ばれるもので江戸時代の河川の制水施設や護岸に用いられる技術を使ったものだそうです。同時期に主要な場所は解体工事を行い、石垣を積み直していることから、安価に石垣の安定を図ったものと考えられているそうです。
ちなみに、この石垣は平成23年度、24年度の2ヶ年で復元をされたものだそうです。

山上の天守が落雷で消失したのちは、麓の三階櫓が天守に代わる象徴となったそうです。
残念ながら現在はありませんが、山陰初の層塔型の櫓だったそうです。

※現地案内看板より

全体を引きでみるとこんな感じ。


この、城と山が一体化した感じのお城って素敵。
平野部かつ徳川系の城が多い地域の人間としては、最期に抵抗するための拠点が政庁機能と一体化している城を見る機会が少ないのです。

外様大名系の城に行くと、毛利の指月城もそうですが、詰めの城と殿様が暮らす城と一体化したものを見ることがあり、違いを感じます。
なんていうんでしょうか、自分の暮らす地域と違う文化の場所に来た感が強く感じられます。

と、いう感じで鳥取城を堪能して太閤ヶ平から2時間半の道程。麓のボランティアガイドさんと話をすると、3時間位はかかるので早いねぇ、と、言われる。これもトレランの成果か。

この後、鳥取城に補給を入れようとする毛利軍を封鎖していた場所でもある鳥取砂丘を見学。


スタバは無いけど砂場はある、と、知事が言っただけのことはある。
めちゃくちゃでかい砂浜、という感じです。


今じゃスタバもあるようです。
と、ここまで来て時間が中途半端にあまる。さて、どうしたものか、と、悩んで地図をながめていると、城崎温泉が近いことに気がつく。

あの、ネズミが串刺しで川を泳がされるシーンが頭に焼き付いてしまっている城崎温泉に泊まりたい、と、おもってネットで検索すると、まぁまぁ安い宿が見つかる。午後4時に確保して泊まったりました。

夜、11時位に城崎温泉レポートをブログにアップして寝た後、隣の部屋から怪しげな声が。
ふーむ。
こうした温泉に旅館だと、このような経験をすることになるのか。子連れの旅の場合は、気をつけないといけないな、などと、考えながら、それをBGMにしながら就寝する。

一人旅は、人が多いところに泊まるものではないな、昨年の弾丸四国は車中泊だったからこのような寂しさを感じずに済んだのか、と、気づいた夜でした。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。