長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

信長と家康 ―清須同盟の実体

2012年10月29日 | 日本史
学研新書からの新刊『信長と家康 ―清須同盟の実体』を読みました。

筆者は谷口克広氏。『織田信長家臣人名辞典』などを物された方で、織田信長研究では独自の視点をお持ちなのとわかりやすい文体から、私は愛読しています。

特に『織田信長合戦全録』や『信長の親衛隊』、『信長の司令官』、『信長の消えた家臣たち』などで原田直政や万見重千代など、今まで見向きもされなかった重要な織田信長の家臣に光を当てて、信長家臣団の動向を教えてくれます。

で、そんな谷口氏の新刊が出たので、とうとう購入したのです。
しかも、そのテーマが『清須同盟』

織徳(しょくとく)同盟などと言う人もいますが、戦国時代に長く続いた同盟として非常に驚きを持って捉えられている同盟です。
本書の腰巻にも、

「信義なき戦国乱世の奇跡 20年に渡って結ばれた信長と家康の絆とは!?」

と、あります。

そうそう。

武田北条今川の同盟などすぐに崩れ去ったりする同盟が多い中、これだけ長期間結ばれていた理由は何か?
長篠合戦もこの同盟があったからこそ。
そんな同盟を、あの谷口氏が書く、というので、これは買わない手は無い。

読んでみると期待にたがわず面白い。
なにせ読みやすい。

織田家、松平家の歴史や信長、家康の置かれた状況を、近年進んでいる研究成果を交えながら解説してくれます。

桶狭間では正面からの奇襲(強襲)説、長篠合戦では鳶ヶ巣砦の奇襲が武田勝頼の退路を封じ、突撃を繰り返させる原因となった、という近年の説を取っています。
奥平貞能を「定能」としたり信昌で最初から統一したり、人質仙千代を千代丸、おふうをお安とするなど、地元からすると名前の記載方法に若干の違和感がありますが、話の流れとしては、大変よく整理されて、近年様々な説が出ており、自分の中では混乱しつつある長篠合戦の経緯をわかりやすく、また、説得力ある内容となっています。

しかし、長篠合戦の中身を検討するのが本書の目的ではなく、信長と家康の関係は一体どうだったのか、という点に主眼が置かれているわけで。

信長と家康の関係に変化が生じることに大きな影響を及ぼすのが長篠合戦とされています。
これまでは、なんとか対等な立場であったものが、長篠合戦による武田勢力の衰退以降、徐々に信長と家康の間に主従的な関係が生じ始めると谷口氏は考えています。
山室恭子氏の信長文書の記載方法や印判などの使用状況による客観データなどを用いつつ、長篠合戦後に現れる水野信元や家康正室築山殿と長男信康の殺害事件などからも読み解いています。

なるほど、一方的に家康が主従関係的に耐え続けたわけでなく、長年の間に変質していった、というのは、言われて見れば「そりゃそうだ」というもの。

そして、気になるのは、本書のサブタイトル「清須同盟の実体」。

腰巻で「戦国乱世の奇跡」とまで謳っているアレです。

本書の「おわりに」、

「21年間も続いたからといって、奇跡でも何でもない。「清須同盟」は、両者の利害がずっと一致していたからこそ長期にわたって継続したわけである。」


という身も蓋もない締めをしてくれています。
「戦国乱世の奇跡」とまで煽っておいて。

最後まで読んできて、「えー!」となってしまいました。
が、そりゃ、そうだわな。
そうでなければ命掛けてやってる時代ですから、続く訳がない。

と、いうものの、
とにかく最近の学説動向がコンパクトにまとめられており、わかりやすいので大変お勧めです。

是非。

古宮城の整備

2012年10月20日 | 古宮城
新城商工会議所さんが「地域の宝物みがき」と称して、古宮城の整備を行うこととなりました。

私も企画段階から少し関与させて頂きました。

地権者の方の了解を得て、下草刈やら間伐材の運び出しを行うという重労働。


地域の方々と一緒になって古宮城が整備されました。
お陰で素晴らしく見学しやすい城になっています。

例えば、両袖枡形虎口の城内側。


こんな段差があったんだ!と、長いこと古宮城を見てきましたがよくわかって嬉しい。
城の形が見えることで城の機能が一段とよくわかるようになり、古宮城の凄みが増した気がします。
私は別用があって、整備作業が丁度終わったときに到着。
古宮城の整備を長年やりたかっただけに、ちょっと残念でした。

その後、原田純一先生の案内で亀山城を見学。


そして古宮城へ移動してここも見学。

※みよ!この道のわかりやすさを!こんな古宮城は未だかつて見たことがありません!地権者の方も最近整備されているようで、相乗効果で素晴らしい状況となっています。

その後、城攻め体験なども行い、盛り上がりすぎた点もありましたが、大変素晴らしい取り組みだと思います。

所有者の方、地域の方、見学に来る方、誰もが嬉しい大変素晴らしい企画。
こうした活動を青年会議所の方たちが企画して行っていただいたことに大変感謝しております。

野田城も有志の方たちが整備を行っています。
新城市の城も徐々に整備され始めていますね。まさに宝物が発掘されて磨かれていくようです。

是非今後もこうした取り組みをつなげていけるよう頑張っていきたいものです。

作手を歩こう会と古宮城

2012年10月08日 | 古宮城
市内を歩こう会 in 作手で、作手の山城案内人の原田純一先生が亀山城のガイドをされるのに併せて人を案内することになり参加してきました。

最近はウォーキングやトレッキングなどが盛んなこともあって、多くの方が訪れていました。


大変天気もよく、また、最近整備したのか、亀山城から反対にある稜線上に文殊山城の復元櫓が良く見える状態でした。

この写真を拡大すると・・・。


的に。

その後、古宮城を原田さんのガイド付きで久々に回ってきました。


そしたら、どえらいこと整備されてる!

祭りに併せて整備されたそうで、歩きやすい上に、城の構造がよくわかる状況です。
古宮城を訪れるなら今!

特に見所の一つ、両袖枡形虎口なんて、もう、こんな感じ。



これは土塁上から見下ろした感じ。


これは土塁上から虎口を見下ろした感じ。

いや、こんだけ草木がないと、ものすごく見やすい!
整備していただいている方々に大感謝です。

さらに、最近、持ち主の方が整備を積極的になさっているそうで、大変見やすくなっています。

こんなが、

こんなで、

こんな感じで、

こう。

いや、絶対今が見頃です。
巴川の紅葉と(こうよう、と、打つと甲陽が先に変換される。笑。)併せて、是非秋の作手高原へ。

見晴らしが利くため、古宮城から亀山城も良く見えました。

杉などの植林がされていない、雑木の辺りが亀山城。

素晴らしき古宮城でした。

富永神社例大祭 花火編

2012年10月07日 | 奥三河
富永神社例大祭の花火です。
本当は、各地区の打ち上げ花火競演が本番なんですけど、子どもの都合で始めの頃の手筒花火しか見られませんでした。それでも、一斉に上がる手筒は勇壮そのもの。
動画を載せたかったのですが、動画掲載機能は無いので写真で。


まず、手筒に火をつけるための景気づけです。


手筒に引火しました。これを各人が持ち上げます。


立てていきます。これが横のままだと大惨事になりますので、一番気合が入るときです。


綺麗に競演しています。最後に「跳ね」と呼ばれる部分に引火すると爆音と伴に底が抜けます。そうすることで火薬が残ることなく安全に終了できます。

私も作手地区で2年前に手筒を上げましたが、あっついあっつい。
溶けた鉄が降り注ぐ訳ですので、そりゃ熱いわけです。

でも、これが東三河の男場。

やっぱり華がありますね。

ちなみにこの花火。自作するのがこの辺りの風習です。

富永神社例大祭

2012年10月06日 | 奥三河
新城市の中心地に富永神社があります。
新城市の下平井村にあった牛頭天王を祭った天一天王社の分霊を慶長8年(1603年)に勧請し、若宮と称されていた神社が明治11年に富永神社とされたそうです。
安政元年(1854年)に本町地区が本格的な山車を作り、嘉永元年(1848年)に囃子用の屋台を作ったそうです。以後6つの庁内でそれぞれ作られることになります。
山車の内容は、本町:神功皇后と武内宿禰、下町:仁徳天皇と皇后、橋向:楠木正成と正行、的場:和気清麻呂の奏上、西新町:明治天皇と徳大寺実則だそうです。多分に勤皇的な思想を感じさせますね。幕末から大正に掛けて作られただけのことがあります。


そして、明日(7日)夜はクライマックスの打ち上げ花火奉納です。
手筒や打ち上げ花火が神社境内で行われます。

この花火、とてつもなく間近で見られます。
名古屋から移住した我が家一家では「え、まさか、ここで上げる訳無いよね?」と言っていたら、本当に上げ始めたので「ありえん!でも、すごい。」というのが感想でした。

新城にしては人が多いのですが、見学することは十分可能です。
とにかく、このありえない距離でうちあがる花火は、一見の価値有りです。

実はスゴい! 大人のラジオ体操

2012年10月03日 | 日記
たまには近況のつれづれを。

最近、また、太ってきました。妻が出産のために帰省していた際に、食事制限によるダイエットを行い、7kg落としました。が、じわじわじわと体重が戻っており、4kgほど戻っておりました。
しかも、最近ちょっとお菓子を食べ過ぎまして、車でドアミラーに写った自分をふと見て、信じられないくらい「ぶー」としているのを見て「こりゃヤバイ。」と。

このまま太り続けると、また、睡眠時に呼吸ができなくなってしまう、と、いうことで、どうしたものかと思案していると、妻が自分用に「実はスゴイ! 大人のラジオ体操」という話題の本を買ってきました。

ラジオ体操と言うのは、大変よく考えられた体操で、しっかりやると痩せるよ、というもの。

ホントかよ、と、思いながらも、苦しくないし、何より時間が3分強と短い。しかも、職場で朝流れている、と、なれば、試しにやってみない手は無い。
コツとしては真剣にやるだけ。

で、1週間を経過しました。

びっくり。

正直、体重はさほど変化がありませんが、明らかに体型変わってる!
あんだけ出ていた腹が凹み始めています。

そりゃ、ラジオ体操開始とともに、ご飯を茶碗1杯までにしましたが、たったあれだけでこんなに腹が凹むかね?という感じです。

一応痩せたい人は連続2セットやってください、ということなので朝に2セット、夜に1セット、一日計3セットをやってました。それとは別に、私は頚椎ヘルニアなので肩と首に筋肉をつけるため筋トレを毎朝やってまして、これは従来どおり継続してます。

体型が変わったことに満足しております。何より忙しくても継続できる。
まだまだ太っていることには変わりないので、これから続けてみようと思います。

手軽なのがいい。

忍城 ~のぼうの城の世界~

2012年10月01日 | 落城戦記
忍城といえば、ニュータイプ歴史小説「のぼうの城」の舞台として有名です。

※復元された天守閣

なんと言っても「浮城」の異名を持つ城。
城主は成田氏。

武蔵の七党と呼ばれる坂東土着の有力武士団がありまして、その一つに成田氏があります。

この成田家、源氏の棟梁源頼義の外戚の叔父にあたる助高がおり、前九年の役(1057-63)で安倍貞任を追討に向かう際、助高と頼義が行き会いお互いに下馬して挨拶をしたという経緯があります。(武士団という観点からは、源氏の棟梁かつ鎮守府将軍なので頼義が下馬をする必要はないのでしょうが、外戚の叔父と言う血縁関係からは謙譲の意を表する必要があったということでしょう。)
この逸話から、成田家は大将と対面するときでも、先に下りるのではなく互いに下りる、という慣習が許される一族となります。が、これが、後に困った事態を引き起こすことになります。

さて室町幕府の時代になってから関東が大混乱に陥ります。その際、成田下総守入道宗蓮が強固な城を築くため、沼の中に城を作りました。それが現在の忍城です。なので、もともと水に囲まれた攻めにくい城な訳です。

※現地案内看板
さらに、この宗蓮。城を築く際に近隣領主に人工の応援を頼んでいるうちに、なんとなく皆、彼のために人を出さなきゃならんような感じになって領主化した、という話が残っています。
(以上参考『小田原北条記』(ニュートンプレス)

この沼の中の城、と言う特性がこんな逸話を残すことにつながっています。
今では埋め立てられて面影がありません。

※のぼうの城当時のものではなく後世のものかもしれませんが土塁。

が、近くの公園の池が当時を偲ばせます。


成田氏は北条付いたり上杉付いたりと領主を替えるのですが、極めつけは上杉謙信が引き起こした事件でしょう。

成田長泰の代に長尾景虎が上杉家を継ぐことになり、北関東勢を従え後北条氏を討伐します。ついでに鎌倉の鶴岡八幡宮へ向かい関東管領世襲を報告するのですが、その時に成田助高からの例に従い長泰は馬上で待っていました。
すると、謙信は激怒して「昔は叔父だったかもしれんが、今は違うだろうがぁぁぁ!!!」と長泰を馬から引きずり落とし烏帽子を落とされる辱めを受けます。烏帽子を脱がされる、というのは、今で言うとパンツを脱がされると同じくらいの恥辱だったそうです。
そして長泰はこの恥辱に怒って後北条氏に味方してしまい、他の武将も「あんな乱暴な武将の下は嫌だ。」と一緒に寝返ってしまいます。

で、この後成田氏は、長泰と子の氏長の間で確執があったりします。この氏長の子長親が「のぼうの城」の主人公です。

豊臣秀吉の小田原征伐の際、長親が籠城します。
この低湿地にある城を攻めるのに石田三成はその地形を逆利用することを思いつきます。
それは、近隣の川を堰き止め、城に水を流し込み水攻めにすると言うもの。
それもこれも、彼の主君豊臣秀吉が備中高松城攻めのときに行った方法。結果的に生活に困った高松城では、城主清水宗治の切腹と引き換えに城兵の助命を行います。
同じ方法で落城させようとして、石田堤と呼ばれる堤防を築いています。
石田三成が本陣を敷いたのはさきたま古墳群の古墳。
そこから現在も道として残っているのが堤です。

※光って見難いですが丁度光ってる辺りが石田堤


※暗くて道しか写すことができませんでした。

しかしながらこの作戦、大失敗に終わります。
なんと作った堤が切れて石田軍へ水がなだれこんで、包囲軍に大損害が出てしまいます。結局、小田原攻めが終わるまで攻め落とせず、石田三成の戦下手としての評価が決定してしまう結果となってしまいました。
どうやら、この城、意外と周囲より高い位置にあるらしく、水攻めにするには湛水量がかなり必要だったようで、堤の厚みが足りなかったのが原因のようです。

※古墳の上から忍城を望む。写真中央に忍城があります。

この戦いも石田三成が手柄に逸って、上司の真似をしたのだといわれていましたが、最近では、どうやら秀吉の指示によるものらしい、と、言われています。結果的に上司のミスを部下が被った形のようです。
秀吉の同じようなものに小牧・長久手の戦いにおける三河中入りがあります。池田恒興が提案したことになっている三河侵攻ですが、これもどうやら秀吉の指示で行い失敗したのを死人に口無しで、なすりつけた、という説が最近有力です。

なんにせよ、小田原攻めをしのいだ城になった訳です。
ちなみにこの城、奥三河と大きな関係があります。
後に奥平松平家がこの城の当主となっているんです。

※出土した石垣の石。

奥平松平家は奥平本家ではなく(こちらは大分県中津藩。福沢諭吉の出身地です。)、信昌四男忠明の系統です。信昌の奥さんは徳川家康正室築山殿の長女亀姫。信昌の子は家康の外孫に当たります。なので、めちゃくちゃ家格が高い訳です。それもこれも長篠籠城戦を信昌が凌ぎきったことが始まりです。

ちなみに、今年ののぼりまつりだったか、新城市の歴史的なお祭りに忍城のある行田市から観光促進隊が来てました。殿様の出身地に敬意を表されているのでしょうか?

つながっているもんですねぇ。