豊橋市中央図書館で、平成31年2月9日から3月17日まで、平成30年度図書館資料展で大人気企画の「ふるさと探訪 続・ふるさと城めぐり」企画が開催されています。
その記念行事の「城を楽しむ」講演会が2月23日(土)に開催されました。
個人的には昨年度開催の第1回の前回の講演会も参加したかったのですが、仕事で行けず。
今回は念願かなっての参加です。
とにかく自分としては加藤理文氏の話は聞きたいところ。
千田嘉博氏、中井均氏と並ぶビッグネームだけに、ぜひ聞きたいと前々から思っていたのです。
いや、本当に面白かったです。
前々から疑問に思っていた「古宮城は誰が作ったか」問題。
徳川は武田の城を攻めたり接収したりすることで武田の技術を学んでいったため、徳川と武田が激戦を繰り広げたこの地域の城は、どちらの手が多く入っているのかがわかりにくいのです。
そのため、古宮城は武田氏の城として最終形態という見解もあるのですが、小牧長久手の戦いの際に徳川方の大改修を受けたという見解もあり、どちらかわからない。私自身はどっちかなんていうことを判断できるような知識はないので、いろいろな本に書いてある、それぞれの説を紹介するような形でボランティアガイドをしておりました。
で、加藤先生はというと。
『徳川』という見解でした。
おおおおお!
なぜか?
横堀という等高線に沿って掘られる堀に関して、武田は永禄年間から使い始めるそうですが、徳川は武田との戦争が激しくなる天正年間ころから使い始めるそうです。そして、武田の横堀と徳川の横堀を比較すると、武田の方が規模が小さいそうです。
そのため、古宮城の横堀の入り方の規模から言って徳川方と見て良く、改修時期としても小牧長久手の戦いの際に織田信雄が降伏してしまい戦場が尾張から三河へずれる可能性が出た際に徳川方が領国の城を大改修したときだろう、とのこと。
古宮城の西側については城と言うよりも「丸馬出」の巨大版と考えられており、その根拠として西の郭は東の郭に対して並行ではなく垂直に近い形で存在していることが根拠とのことでした。西の方が非常に厳しいつくりをしている事も豊臣を意識した造りと一致する、とのことです。
ちなみに古宮城は堀底が逆台形になっており通路として使っていたことがわかり、東側の曲輪に竪土塁が入っており通路として利用されていた、とのことです。そうなると私が常々疑問に思っていた東側曲輪のあちこちにある閉鎖的な曲輪が何の目的だろう?という疑問も、曲輪を造成するために土塁を築いたのではなく、通路を築くために土塁を築いて結果として閉鎖的な曲輪ができた、と、考えるとすっきりする。
おおおおお。
見事…。
堀のあたりは諏訪原城や新府城などの例をもとに、もう少し詳細な説明がなされていました。
あまりに整然とした説明で今までの疑問が氷解し、ああ、素晴らしい、と、目から鱗どころか目が落ちました。
それ以外にも、浜松城の説明で天守曲輪は織豊大名が東海道に配置された際に作る城に特徴的で、10万石以上の大名は天守を作ることとなっていたとか、山城を見る際には、攻撃側が郭に対して横向きにさせられることを常に意識しよう、とか、小牧山城は信長は石垣を見せようとしており、足利義昭を奉じて上洛することとなり、建物を作ることのできる工人集団を得てからは建物を見せるように意識が変わったため岐阜城は建物を見せている。ただし、現在の城の形態は安土城をその祖とすることから、その以前の城の形態が見られる城として小牧山城と岐阜城を見ると面白い、とか、土塁は45度が限界なものの、河岸段丘とシラス台地の城だけは90度が可能とか、豊田市の旧小原村にある市場場が、築城時期が豊臣大名側が統治した時期でありながら、なぜこんな厳しい防御構造を持った城をだれが何の目的で作ったのがさっぱりわからず、疑問が多すぎてすごく面白いとか、もう、聞いてるだけで「ふおぉぉぉぉぉお!」と感嘆せざるをえない話のオンパレード。
もう、備忘録としてこのブログを書かなければならない!と、思ってしまいました。
興奮状態で、このブログ書いてます。
そして、個人的に加藤先生に設楽城の丸馬出状のものについて、丸馬出とみて良いか、と、お聞きしたところ、
「規模から言って武田のものでしょう。」
とのこと。
うおおおおおおおおおおおお!
武田の丸馬出っぽいなぁと思ってましたが、城の神からそれでよいとの御託宣を頂く。
もう感動。
武田!武田の城の形態が見られるわけですよ!皆さん!
いやー、やっぱりすごいわ。
設楽城に新たな名物が加わりました。
はぁぁぁ。
もう、昨日はあまりのことに興奮しすぎてよく眠れませんでした。
最後に加藤先生とのツーショット写真も撮ってもらいました。笑。
最近、個人的な事情で講演会にあまり行けていなかったのですが、やっぱり行くと最新情報を素人にわかりやすく解説していただけるので面白くて仕方ない。
ああ、はやく事情を片付けて、以前のような講演会巡りをやれるように戻りたい…、と、切に思いました。
古宮城と設楽城。
スゴイ城ですねぇ。やっぱり。
その記念行事の「城を楽しむ」講演会が2月23日(土)に開催されました。
個人的には昨年度開催の第1回の前回の講演会も参加したかったのですが、仕事で行けず。
今回は念願かなっての参加です。
とにかく自分としては加藤理文氏の話は聞きたいところ。
千田嘉博氏、中井均氏と並ぶビッグネームだけに、ぜひ聞きたいと前々から思っていたのです。
いや、本当に面白かったです。
前々から疑問に思っていた「古宮城は誰が作ったか」問題。
徳川は武田の城を攻めたり接収したりすることで武田の技術を学んでいったため、徳川と武田が激戦を繰り広げたこの地域の城は、どちらの手が多く入っているのかがわかりにくいのです。
そのため、古宮城は武田氏の城として最終形態という見解もあるのですが、小牧長久手の戦いの際に徳川方の大改修を受けたという見解もあり、どちらかわからない。私自身はどっちかなんていうことを判断できるような知識はないので、いろいろな本に書いてある、それぞれの説を紹介するような形でボランティアガイドをしておりました。
で、加藤先生はというと。
『徳川』という見解でした。
おおおおお!
なぜか?
横堀という等高線に沿って掘られる堀に関して、武田は永禄年間から使い始めるそうですが、徳川は武田との戦争が激しくなる天正年間ころから使い始めるそうです。そして、武田の横堀と徳川の横堀を比較すると、武田の方が規模が小さいそうです。
そのため、古宮城の横堀の入り方の規模から言って徳川方と見て良く、改修時期としても小牧長久手の戦いの際に織田信雄が降伏してしまい戦場が尾張から三河へずれる可能性が出た際に徳川方が領国の城を大改修したときだろう、とのこと。
古宮城の西側については城と言うよりも「丸馬出」の巨大版と考えられており、その根拠として西の郭は東の郭に対して並行ではなく垂直に近い形で存在していることが根拠とのことでした。西の方が非常に厳しいつくりをしている事も豊臣を意識した造りと一致する、とのことです。
ちなみに古宮城は堀底が逆台形になっており通路として使っていたことがわかり、東側の曲輪に竪土塁が入っており通路として利用されていた、とのことです。そうなると私が常々疑問に思っていた東側曲輪のあちこちにある閉鎖的な曲輪が何の目的だろう?という疑問も、曲輪を造成するために土塁を築いたのではなく、通路を築くために土塁を築いて結果として閉鎖的な曲輪ができた、と、考えるとすっきりする。
おおおおお。
見事…。
堀のあたりは諏訪原城や新府城などの例をもとに、もう少し詳細な説明がなされていました。
あまりに整然とした説明で今までの疑問が氷解し、ああ、素晴らしい、と、目から鱗どころか目が落ちました。
それ以外にも、浜松城の説明で天守曲輪は織豊大名が東海道に配置された際に作る城に特徴的で、10万石以上の大名は天守を作ることとなっていたとか、山城を見る際には、攻撃側が郭に対して横向きにさせられることを常に意識しよう、とか、小牧山城は信長は石垣を見せようとしており、足利義昭を奉じて上洛することとなり、建物を作ることのできる工人集団を得てからは建物を見せるように意識が変わったため岐阜城は建物を見せている。ただし、現在の城の形態は安土城をその祖とすることから、その以前の城の形態が見られる城として小牧山城と岐阜城を見ると面白い、とか、土塁は45度が限界なものの、河岸段丘とシラス台地の城だけは90度が可能とか、豊田市の旧小原村にある市場場が、築城時期が豊臣大名側が統治した時期でありながら、なぜこんな厳しい防御構造を持った城をだれが何の目的で作ったのがさっぱりわからず、疑問が多すぎてすごく面白いとか、もう、聞いてるだけで「ふおぉぉぉぉぉお!」と感嘆せざるをえない話のオンパレード。
もう、備忘録としてこのブログを書かなければならない!と、思ってしまいました。
興奮状態で、このブログ書いてます。
そして、個人的に加藤先生に設楽城の丸馬出状のものについて、丸馬出とみて良いか、と、お聞きしたところ、
「規模から言って武田のものでしょう。」
とのこと。
うおおおおおおおおおおおお!
武田の丸馬出っぽいなぁと思ってましたが、城の神からそれでよいとの御託宣を頂く。
もう感動。
武田!武田の城の形態が見られるわけですよ!皆さん!
いやー、やっぱりすごいわ。
設楽城に新たな名物が加わりました。
はぁぁぁ。
もう、昨日はあまりのことに興奮しすぎてよく眠れませんでした。
最後に加藤先生とのツーショット写真も撮ってもらいました。笑。
最近、個人的な事情で講演会にあまり行けていなかったのですが、やっぱり行くと最新情報を素人にわかりやすく解説していただけるので面白くて仕方ない。
ああ、はやく事情を片付けて、以前のような講演会巡りをやれるように戻りたい…、と、切に思いました。
古宮城と設楽城。
スゴイ城ですねぇ。やっぱり。