長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

豊橋市中央図書館 ふるさと探訪記念行事「城を楽しむ」

2019年02月24日 | 
豊橋市中央図書館で、平成31年2月9日から3月17日まで、平成30年度図書館資料展で大人気企画の「ふるさと探訪 続・ふるさと城めぐり」企画が開催されています。


その記念行事の「城を楽しむ」講演会が2月23日(土)に開催されました。


個人的には昨年度開催の第1回の前回の講演会も参加したかったのですが、仕事で行けず。
今回は念願かなっての参加です。
とにかく自分としては加藤理文氏の話は聞きたいところ。
千田嘉博氏、中井均氏と並ぶビッグネームだけに、ぜひ聞きたいと前々から思っていたのです。

いや、本当に面白かったです。

前々から疑問に思っていた「古宮城は誰が作ったか」問題。
徳川は武田の城を攻めたり接収したりすることで武田の技術を学んでいったため、徳川と武田が激戦を繰り広げたこの地域の城は、どちらの手が多く入っているのかがわかりにくいのです。
そのため、古宮城は武田氏の城として最終形態という見解もあるのですが、小牧長久手の戦いの際に徳川方の大改修を受けたという見解もあり、どちらかわからない。私自身はどっちかなんていうことを判断できるような知識はないので、いろいろな本に書いてある、それぞれの説を紹介するような形でボランティアガイドをしておりました。

で、加藤先生はというと。

『徳川』という見解でした。

おおおおお!
なぜか?

横堀という等高線に沿って掘られる堀に関して、武田は永禄年間から使い始めるそうですが、徳川は武田との戦争が激しくなる天正年間ころから使い始めるそうです。そして、武田の横堀と徳川の横堀を比較すると、武田の方が規模が小さいそうです。
そのため、古宮城の横堀の入り方の規模から言って徳川方と見て良く、改修時期としても小牧長久手の戦いの際に織田信雄が降伏してしまい戦場が尾張から三河へずれる可能性が出た際に徳川方が領国の城を大改修したときだろう、とのこと。
古宮城の西側については城と言うよりも「丸馬出」の巨大版と考えられており、その根拠として西の郭は東の郭に対して並行ではなく垂直に近い形で存在していることが根拠とのことでした。西の方が非常に厳しいつくりをしている事も豊臣を意識した造りと一致する、とのことです。
ちなみに古宮城は堀底が逆台形になっており通路として使っていたことがわかり、東側の曲輪に竪土塁が入っており通路として利用されていた、とのことです。そうなると私が常々疑問に思っていた東側曲輪のあちこちにある閉鎖的な曲輪が何の目的だろう?という疑問も、曲輪を造成するために土塁を築いたのではなく、通路を築くために土塁を築いて結果として閉鎖的な曲輪ができた、と、考えるとすっきりする。

おおおおお。
見事…。
堀のあたりは諏訪原城や新府城などの例をもとに、もう少し詳細な説明がなされていました。
あまりに整然とした説明で今までの疑問が氷解し、ああ、素晴らしい、と、目から鱗どころか目が落ちました。

それ以外にも、浜松城の説明で天守曲輪は織豊大名が東海道に配置された際に作る城に特徴的で、10万石以上の大名は天守を作ることとなっていたとか、山城を見る際には、攻撃側が郭に対して横向きにさせられることを常に意識しよう、とか、小牧山城は信長は石垣を見せようとしており、足利義昭を奉じて上洛することとなり、建物を作ることのできる工人集団を得てからは建物を見せるように意識が変わったため岐阜城は建物を見せている。ただし、現在の城の形態は安土城をその祖とすることから、その以前の城の形態が見られる城として小牧山城と岐阜城を見ると面白い、とか、土塁は45度が限界なものの、河岸段丘とシラス台地の城だけは90度が可能とか、豊田市の旧小原村にある市場場が、築城時期が豊臣大名側が統治した時期でありながら、なぜこんな厳しい防御構造を持った城をだれが何の目的で作ったのがさっぱりわからず、疑問が多すぎてすごく面白いとか、もう、聞いてるだけで「ふおぉぉぉぉぉお!」と感嘆せざるをえない話のオンパレード。

もう、備忘録としてこのブログを書かなければならない!と、思ってしまいました。
興奮状態で、このブログ書いてます。

そして、個人的に加藤先生に設楽城の丸馬出状のものについて、丸馬出とみて良いか、と、お聞きしたところ、
「規模から言って武田のものでしょう。」
とのこと。

うおおおおおおおおおおおお!

武田の丸馬出っぽいなぁと思ってましたが、城の神からそれでよいとの御託宣を頂く。

もう感動。
武田!武田の城の形態が見られるわけですよ!皆さん!
いやー、やっぱりすごいわ。
設楽城に新たな名物が加わりました。

はぁぁぁ。
もう、昨日はあまりのことに興奮しすぎてよく眠れませんでした。

最後に加藤先生とのツーショット写真も撮ってもらいました。笑。
最近、個人的な事情で講演会にあまり行けていなかったのですが、やっぱり行くと最新情報を素人にわかりやすく解説していただけるので面白くて仕方ない。
ああ、はやく事情を片付けて、以前のような講演会巡りをやれるように戻りたい…、と、切に思いました。

古宮城と設楽城。
スゴイ城ですねぇ。やっぱり。

宇利城シンポジュームが開催されました。

2016年02月22日 | 
宇利城シンポジュームが開催されました。


宇利城麓の中宇利多目的集会施設で50名以上の地元の方々にお集まり頂き、盛況に開催されました。
今回のシンポの目的ですが、基調講演で安形会長が言われた

「宇利城について解説できる地元の人が一人でも増えると良い。」

ということに尽きます。

本日の参加者の方は宇利城に登ったことがある方が結構お見えで、関心の高さが窺えました。


基調講演の後、宇利城址保存会の森さんから今年までに行われた宇利城保存活動について報告がありました。
本丸からの眺めがよくなり、歩きやすいように階段が付けられる等、地道ながらも宇利城の魅力を高める活動について知ることができました。

さて、その後がシンポジューム(シンポジウムではなくジュームという拘りが個人的には好きです。)。
なんと言ってもシンポ最大の目玉は、地元中宇利出身で㈱ジェイテクト社長の安形哲夫氏。
来場者も昔を知っている安形社長を見に来た、という方も多かったのではないかと思います。

本日は一城好きとしての立場でのご参加。日本百名城を選定したことで知られる日本城郭協会の会員でもあり、各地の城を訪れているということで宇利城についても解説をしていただきました。

御馬平で敵兵が2分割されて本丸などへ攻めかかる兵を分散させる機能や尾根を断ち切る堀切について全てを掘ってしまうのではなく片側に細く土橋として残す形態、尾根伝いの防御などを城のことをあまり知らない方にもわかりやすく説明されるのを聞いて、これは本格的に踏査されている城好きだということがよくわかりました。

また、城のまわりの状況について説明する際、字名などの超地元な話をされていても、聴衆の方達も普通に『あ、あそこね。』的な反応をされているのが個人的には面白かったです。
地元の方同士だからこそ通じる話、というのも本日の「地元の方に宇利城をより好きになって欲しい」という目的に適っていました。

地元ラジオ局パーソナリティの原田さんには、どちらかというと聴衆の方に近い感覚で参加してもらい、城好きだけにわかる話にならないように話を整理してもらう役割をしていただきました。
また、地元の東郷や千郷といった新城市の他地域の状況をお話いただき、八名地区や中宇利区との比較の参考となりました。
やっぱりしゃべりが本職だけあって、聴衆を盛り上げるのもさすが、といったところ。

そして、古宮城を含む作手亀山城下町の景観復原に取り組んでいただいた大学四年生の吉田さんからは、景観に関する話から宇利城の下に広がる街並みに関する視点をいただき、安形社長と宇利城だけでない麓集落全般の景観に関する話で盛り上がりました。

安形社長からは、宇利城だけでなく附近の比丘尼城や慈眼寺館といった全体的な保存状態が良好な中宇利区全体で保存を考えていくと面白いのではないか、というご意見も頂きました。



パネリストの皆様が大変に素晴らしく、一般の人には馴染みが薄い「土の城」がテーマであるにも関らず、結構会場からは笑いが起きるなど、ただ単に話をするだけでなく聴衆を沸かす話をしていただきました。

しかも、よくパネルディスカッションではパネリストが暴走気味に時間超過で話すことが多いにも関らず、本日のパネリストは全て明快かつ簡潔にまとめて話をしてくださるおかげで、当初予定していた時間が大幅に余ってしまい、ファシリをしている身としては時計を見ながら冷や汗がだらだら流れて止まりません。
あまりにさくさく話が進んでいくので、こちらも当初予定に無いことを聞いてしまったりしてパネリストの方々もさぞ迷惑しただろうな、と、思いながらも、私自身が大変楽しんで話を聞いていました。

後で時間があったならばフロアから質問を受け付ければよかったのに、と、指摘されて
「ああ、その手があったか。」
と、事前には想定していたにも関らず、慣れないファシリということもあって、完全に頭から飛んでました。
自分自身は反省すること多々あり、従来どおりの裏方仕事に徹しようと心に誓ったところです。

しかし、パネリストや聴衆の皆さんが素晴らしかったことに助けられてなんとか最後までたどり着きました。
また、今回は市民活動として開催されており、会場準備などをしてくださった皆さんに感謝申し上げます。
忙しい中、わざわざ他行事から駆けつけてくださった地元代議士の今枝議員や区長さん始め地域の役員さん方にも感謝申し上げます。

宇利城、古宮城、亀山城は国道301号で繋がり、国道151号と交差して、野田城、新城城、長篠城とも繋がります。
新東名も開通しましたので、長篠・設楽原の戦いの跡へ訪れたついでにどこか城を訪ねるのも面白いかと思います。
是非奥三河へ。

宇利城の保存を考えるシンポが開催されます。

2016年02月04日 | 
宇利城。

※宇利城石垣

どんなお城かと言えば
徳川家康が天下を取ることができたきっかけのお城
と、言ってよいかと。

① 徳川家康が江戸幕府を開けたのは松平家が三河国の支配者として戦国大名化できたから。
   ↓
② 松平家が三河国の支配者となったのは、家康祖父の松平清康が三河国を統一したから。
   ↓
③ 清康が三河国を統一できたのは、三河で松平家に最後まで抵抗した宇利城の熊谷氏を滅ぼしたから。

よって、家康が江戸幕府を開けたのは宇利城による、と、証明されました。(?)
風が吹けば桶屋が儲かる的な発想なのは否定しません。

宇利城攻めは、天下の御意見番として有名な大久保彦左衛門が書いた『三河物語』に詳しく記載がされているため、歴史好きにはそこそこ知られた戦いです。

吉田城の牧野氏を討った松平家は東三河の武士達をかなり帰服させますが、宇利城の熊谷家は松平家になびく気配がない。
この熊谷家は、源平合戦の一の谷の戦いで平家の若武者平敦盛を討取り武士稼業の業の深さを嘆いて出家した熊谷直実の末裔だそうです。この末裔の気概がぽっと出の松平家に従うことを潔しとしなかったのか何なのかよくわかりませんが、周囲の領主達と違い松平家に抵抗します。
そこで、松平清康は軍勢を率いて戦いを挑みますが、熊谷家も武名で有名な家なので激戦になります。
特に松平家の歴戦の特攻隊長松平右京亮親盛が大手口で孤立し討死。
右京と同じく大手口を担当していた清康の叔父松平内膳信定が救援しなかったことに激怒した清康は「一国にも代えがたい右京を討死させるとは!」と信定を激しく非難します。

以上の経緯が『三河物語』にはもっと詳しく記載されています。

ちなみに、宇利城で恥をかかされた信定は清康を恨み、この遺恨が松平清康が尾張織田家を攻めようとした際に部下に暗殺される「守山崩れ」を引き起こす原因となります。松平家は大混乱に陥り、織田家や今川家から侵略され孫の家康は人質生活を送る羽目になってしまいます。

清康が死ななければ徳川家が天下を統一したのはもっと早かっただろうに、というのが大久保彦左衛門の見解でした。

なお、熊谷家は織田家と結び松平家と対抗したという説を唱えているのが『改正三河後風土記』です。このあたりは証拠となる文書も無いので何とも言えません。

ちなみに、搦手口を担当していた清康は、内膳が助けず右京亮が討死する様を見て

「「内膳はどうして助けないのか」とこぶしをにぎりしめ、目をみ開き、顔をあからめ、歯をくいしばり、白泡をふいて、突立ち、にらみ、汗をおながしに」(ニュートンプレス社 原著:大久保彦左衛門 訳:小林賢章『原本現代訳 三河物語(上)』81頁)

なったそうです。

清康、激怒しすぎて血管キレそうになっています。

と、まぁ、こんなキレッキレな逸話を持つ宇利城の戦いですが、享禄三年(1530年)に松平清康は宇利城の熊谷備中守直盛を滅ぼした、と、『徳川実記』と『改正三河後風土記』に記載されています。『徳川実記』は徳川家の公式見解のようなもので、徳川家に都合の悪いことは書きません。『改正三河後風土記』も様々な既にあった文書をまとめたものなので、両書とも信憑性には注意が必要です。愛知県に関係のある古文書を集めた「愛知県史資料編10 中世3」の享禄3年を見ても特に宇利城に関する文書はありません。ただし、清康が文書を発給していない、あるいはこの時期の文書が散逸しているだけなのかもしれず、愛知県史にないから無いとも言えないため、通常は享禄三年が宇利城攻めの年とされます。

さて、この宇利城。
産廃施設を麓に作る計画があり、史跡としての保存が危ぶまれた時期もあったのですが地元中宇利区の尽力もあり、現在も見ることができます。
さらに、住民活動により間伐整備が進み、史跡としての整備も進んでいます。

こうした状況を踏まえ、今一度、地元の方や興味のある方に宇利城の歴史や保存活動を知っていただくとともに、今後の保存のあり方を考えるシンポジウムが開催されます。


2月21日(日)の午後2時から4時まで。
中宇利集落センターで行います。

宇利城保存会会長の安形伊佐男氏による基調講演や地元中宇利出身で㈱ジェイテクト社長の安形哲夫氏や地元ラジオ局アナウンサーらによるシンポです。
なお、安形社長は相当な城好きだそうでして、今年1月にはNHK大河ドラマの歴史考証等で有名な小和田哲男氏と対談もされているそうです。安形社長の宇利城トークも聞ける貴重な機会となっています。

参加は無料。
事前申込は不要です。
お気軽にお越しください。

なお、当日の同時間帯に、設楽原歴史資料館でも長篠・設楽原合戦を巡る最新の研究動向についてのシンポが開かれています。偶然日にちが重なってしまったのが大変残念です。
歴史資料館のものは今後の学説に影響を与えるようなスゴイ内容ですし、宇利城シンポは宇利城の保存活動を知っていただくとともに今後の保存を考えるための第一歩的な内容です。
それぞれ特徴がありますので、是非歴史にご興味のある方は、どちらかに参加して新城市の歴史デーを楽しんでいただけたらと思います。

開催日には、既に新東名も開通してますよ!

真田丸を見ていた娘が驚きの一言を放った。

2016年01月19日 | 
「真田丸」を見ることで子どもを歴史好きに洗脳しようプロジェクトが進んでいます。
娘は小1。そろそろ頃合かと。

※出典ウィキペディア 真田家の家紋「六文銭」

まずは真田丸の第2話について。
第1話に比べだいぶ冗長な部分があったな、と。
信玄の霊が現れるのも唐突感がありましたし、高畑淳子が扇子落とす奴とかも話を引き伸ばそう感が出ているような感じがしましたが。まぁ、1年間通じて話を持たせないといけないからしょうがないか、と思いましたが。
第1話が良すぎただけに、第2話の期待値が上がりすぎたのかもしれません。
でも、最後の方で「自立する」と草刈昌幸が宣言するあたりは、やはり良いなと。
草刈昌幸でなるべく話をつなげてくれ、と、思ってしまう。後、本多佐渡守正信を近藤正臣、というのは嵌ってるな、と。

さて本題。

オープニングの映像を見ていた娘が、城の狭間(さま)を見て言う。
「なんで△とか□とかあるの?」

※出典:ウィキペディア 姫路城の狭間

「長四角は矢、三角とか丸は鉄砲を撃つために開けた穴だよ。」
と、私が説明をすると、

「じゃあ、守る場所が決まっちゃうね。」

と、いう。
この一言を聞いたときに脳天をぶん殴られたような衝撃を受ける。

今まで狭間の形状や使い方を知ることで自分は満足してしまってましたが、確かに娘が言うように、塀のその位置に、その形状の狭間を開けると言うことは、城が保有する武器や人員構成を判断の上、迫り来る敵をここで効果的に殲滅しよう、という考えがあったはず。
今まで、それをあまり意識せず、形状を知って満足していた自分に気づき恥じ入るばかり。
また、さして歴史に興味の無い6歳の娘が、そこに気づいたことに驚く。

「すごい!すごいぞ!よくそんなことに気がついたね!それはすごい!!}
と、アルキメデスがエウレーカと叫んで素っ裸で走り出すくらいの全力の勢いで褒め称えました。
褒める事で子供が歴史への興味を深めることに期待もしつつ。

しかし、娘の指摘のおかげで、今後城を見るときにもう少し注意深く見ようと思った次第です。
全く興味のない人の根源的な質問と言うのは貴重です。

「親馬鹿」と言うのかもしれませんが。。。

真田丸の謎 戦国時代を「城」で読み解く

2015年12月08日 | 
なんだか意図せず前回と似たタイトルにになってしまいましたが、今回は本のタイトルです。


お城博士奈良大学学長千田先生の本。
別に私は千田先生と全く面識はありませんが、勝手に崇拝しています。

来年の大河ドラマが真田丸だとかで、現在本屋では真田関係の本が乱立気味。
すでに読んだことのある内容の焼き直しが多そうだな、と、いう中で異彩を放っていたこの本。
つい先日、新聞記事で千田氏が「真田丸はただの丸馬出ではなく、大規模な城だ!」みたいなことを言ってる記事を見ていたので「これか!」とアマゾンに薦められた際にポチッとしてしまいました。

いや、期待に違わぬ面白さ。
アマゾンの書評欄には「第4章がいただけない。真田以外の城のことに60頁もさいて、そんなことは関係ないのだ。」的なことが書いてあったのを見た際に、逆に私は「これは読まねば!」と思ってしまったのです。

真田好きには熱狂的な人達がいるので、関係ない部分を読みたくない人もいるでしょうが、真田丸の形状を考える際に、真田の城の歴史や他の城との比較をしなければ理解できるわけがない。だからこれは面白いはず、と、逆に書評から私は判断したわけです。

あ、ここまで読んでくださった方で

『真田丸』って何?

と、いう方も多いかも。

豊臣秀頼を滅ぼそうとする徳川家康は、まず大坂冬の陣で全国の大名に動員をかけ、秀吉が築いた大坂城を囲みます。このとき、豊臣方は豊富な資金にモノを言わせて関ヶ原の戦いで負けて牢人中の全国の有名武将をスカウトします。その最有力武将が俗に言う「真田幸村」。現在、正確には「真田信繁」という名前だったとかで、この本では信繁で統一されています。

この真田信繁が、大坂城防衛のために弱点とされる南側に「真田丸」と言われる防御施設を作り、そこに3千の兵で籠って徳川の1万以上の軍勢を思う存分に引きつけて撃破し大いに武名を上げたのです。

で、この真田丸は城の門を守るために門の前に橋頭堡を築いて防御を強固にするものと考えられてきたのですが、そこはお城博士。色々と調べる中で従来考えられていた単純な「馬出」機能ではなく、それこそ敵前にぶら下がった孤立した城、という結論を導き出しています。

そして、なぜ信繁はそのような城を作ることができたのか、ということを、真田や武田が作ってきた城の形状から推理しているのです。

しかも、武田氏が築いた境目の城の代表例として
「武田氏領国の「境目の城」というと、遠江国金谷、現在の静岡県島田市にあった諏訪原城や、同じく遠江国土方、現在の静岡県掛川市にあった高天神城、そして三河国の作手清岳、現在の愛知県新城市にあった古宮城などが代表的です。いずれも武田氏が徳川氏攻略のために築いたものです。」(169頁)
とある。

古宮城!!!!

皆さん!古宮城ですよ!古宮城。ちゃんと出てますよ!
そして、境目の城の作り方から武田氏領国の脆弱性を考えるあたりは、さすが千田嘉博、と、唸ってしまいます。
もっとも、現在の諏訪原城、古宮城の遺構は徳川氏による改造が加えられている部分も考えられますけど。その辺りは話がややこしくなるのか、この本では触れられていません。

さらに、三方原の戦いで信玄が上洛を目指していたという説について
「信玄は、かつて小田原城を囲んで攻め立てた時のように、適当に織田領を荒らしまわって、略奪をし、打撃を与えた上で頃合いを見計らって帰国することを考えていたのではないでしょうか。しかし、織田や徳川の勢力圏を攻撃するには大義名分が必要なので、上洛するとして将軍や天皇を推戴するというスローガンを掲げたのだと思います。」(172頁)

おお!
偶然にもこの本を購入する前のブログで私も適当な思いつきで、三方原の信玄の行動について上洛目的ではなく、小田原城攻めと同じく浜松城を攻めたのでは、という記事を書いています。こちら

なんか、「お前、この本を読んでたのでは?」と、言われてしまうくらいタイミングがあってますが、逆にこの本を読んでいたら恥ずかしくて書けない記事。

千田氏は城から単に軍事的な観点で考えるだけでなく、大名権力のあり方や社会などについて考えることを提唱しており、本書もその視点から書かれています。

真田のことを純粋に知りたい、来年の大河ドラマの予習がしたい、という人は、もっと、別のムック系の本を読まれることをお勧めしますが、城の魅力や様々な事例を簡単に読むには最適な本だと思います。

個人的には最新の城に関する動向なども知ることができて、大変楽しめる本でした。
オススメです。




命がけとなった名古屋城の石垣採石地 in 篠島

2015年10月13日 | 
篠島には名古屋城の石垣の採石地で、あちこちに矢穴と呼ばれる石を切り出すための跡がある石が残っている、と、いう情報を知る。


まして、加藤清正が立派な石をみつけたものの重すぎて運べない石があって、清正の枕石と名付けられているとか。
これはすごいと1人で興奮する。

まず向かった先は石垣採石地。
船着き場からは徒歩25分と一番遠い方にあると言える。

途中、神明神社や八王子社の式年遷宮奉祝祭の大名行列などを眺めた後、歩いて行くと看板が。


看板によれば現在までに篠島本島、離島を含めて35箇所、約200の石垣として使われなかった石が確認されているとのこと。

篠島は日間賀島や佐久島と違い、中央構造線で隔てられて領家帯花崗岩からなる島だとか。花崗岩は硬くて利用しやすく、石垣だの一里塚だのによく使われるとか。墓石などに使われる御影石という別称の方が自分には馴染み深い。(このあたりはウィキペディア情報。)

採石地はの看板は親切すぎるくらいわかりやすい。

※迷う人が多いのか?

立派な足場が組まれており歩きやすいのですが、この日は雨。足元が滑りやすいので注意して歩く。

※この画像だけだととんでもない場所のように思える。

すると弁財採石地に大きな石に矢穴が確認できる。


石を切り出すには、割りたい部分に上記のような矢穴と呼ばれる穴を開け、たがねなどを突っ込んだ状態で火を焚き、その後水で急速に冷やすことで割っていたとか。そのため、試したもののうまく割れなかったりしてこうした後が残るのです。名古屋城の石垣などでも、こうした矢穴跡は確認できます。

なお、運ぶ途中に落ちた石は「城が落ちる」という言葉を連想させるので、利用されなかったとか。

なかなかの巨石を見つつ、石を運んだ道、という看板に沿って進もうとするも、木々が繁って進む気にならないので断念。


石もすごいですが、足場もすごい。


その後、清正の枕石を目指す。
事前のネット情報では、運び出せずに残念がった清正が寝転んで枕代わりにした、という記述と寝転んでいる人の写真を見たので是非行きたいと思う。

ネットやパンフにもバンバン載っているので簡単に行けるだろう、と、思ったのが甘かった。

え、ここを行くの?と、ひるむ。

※左側の草木の生い茂る穴の方。
※10月16日にミチタカ様からご教示があり、左側ではなく、右側の篠島小学校の門をくぐって直進し山を越えていくのが正式なルートで、こちらだと潮の干満の影響もなく安全に行けるそうです。行かれる方はご注意を。


今回は城メインの旅ではないのでレインコートなどを持ってきていない。
しかし、ここで止めては城好き失格のような気がするので進む。幸い、トレッキングシューズで来ていたので足元には不安はない。
道は整備されているのですが、雨に濡れた草木の場所を行くのは足元が滑るので要注意。こんな南国チックな場所もあるし、ここを残したのは整備した人たちのお茶目さでしょうか。期待と不安がよぎる。


無事に浜に出ることができました。
が、どこに枕石があるのか途方に暮れる。


ここから看板はない。雨で石が濡れており滑りやすそうなのは目に見えている。
幸い、雨がやんだので傘をポケットにねじ込んで歩き出す。両手を開けておかないとこうした時は危険、ということは山城探索の経験。

ここの浜の石がすごい。
地質学や石好きの人ならきっと興奮するでしょう。


しかし、結構近くまで波がざばざばと押し寄せるし、雨で足元滑るし、すごい岩場だし、なかなかの難易度。そして、枕石の場所はよくわからない。

途中に、矢穴が空いている大岩を見つけ、ここが枕石か?と、思う。


実際、ネットを見るとここが枕石と紹介しているサイトもある。
が、枕石の表示がある場所を教えてくれるサイトもあり、そことは風景が違う。
ここで撤退するか、と、思うが、もう1人の自分が「それで良いのか?」と囁く。

しばし逡巡した後、進むこととする。

誰もいないし、1人旅だし、空は鈍色の雲が漂うし、雨降りで足元は滑るし、岩の険しさもアップするし、波はすぐ足元まで押し寄せるし、崖を回り込むから先が見にくいし、と、悪条件は揃っているが好奇心が勝る。

ああ、こうして人は死んでいくのかな、とか、思う。
ネットとかでは道中の難儀については一切触れられていない。不思議だ、などと、アレコレ考えながら
進む。やはり雨降りだった、というのが一番良くなかったようです。

そして、しばらく進むと、とうとうこんなものが!


さらにコレ!


親切にわかりやすく案内看板があります。できれば、道中にも「こちら」というのがあるとありがたかった。結構、ネットの他の記事を見ると「わからない」という意見も散見する。自分と同じように不安に思って断念してしまったり、矢穴の空いた大岩を枕石と勘違いする人がでるのもわかる気がします。

なお、清正が寝転んだ写真の印象が強かったのですが、よくよく案内看板を見ると運び出したい大きな石を動かすための「枕石」をかって動かそうとしたものの動かなかった、ということらしい。


清正、寝てないようです。
では、事前に私が見たあのサイトは?と、思って確認しようとすると見つからない。
幻のサイトでも見たのか。

まぁ、念願の枕石は見たので満足する。
しかし、サスペンスドラマのエンディングで犯人が自殺しようとする場所みたい。
1人だと危ないので早々に退散する。


昔の人達は、こんな場所でよく石の切り出し、積み出し作業をしていたな、靴も無かっただろうに、と、感心しながら帰途につく。

なかなか迫力がある場所です。
季節と天候と体力とご相談の上、訪問することをお勧めします。

城好きがこじれ過ぎ ~友人佐渡守のこと~

2015年07月14日 | 
城好きがこじれ気味
と、いうのは、私が奥三河の同人誌的フリーペーパーのんほいタウンに連載しているタイトル。


※最新号でてます!モエモエさんと新城警察署の皆さんが表紙。インパクトある。

よく、
「こじれ気味、と、言ってるけど、十分にこじれてるよね。この人」
と、いう御意見をいただきます。

何をおっしゃる。
私などこじれ気味と名乗るもおこがましい。

真のこじれとは、このような人のことを言うのです。
それは、友人の佐渡守。

我ら城仲間は互いを受領名で呼びます。勿論僭称。
(訳すと、私の城好きが仲間は、あだ名を中世の武将のように「◯◯守」という名前につけています。もちろん勝手に名乗っているだけで、天皇から正式に任命された訳ではない。)

本日、昼に仕事をしているとメールが届く。
友人が少ない私にメールとは面妖な、と、思うと、数少ない友人の佐渡守から。

『休んで来てしまいました。』
とのこと。

「?」と思っていると2通目。
そこには白亜の姫路城が。。。

我々城仲間で年1回開催される遠征。この際、常に家族に嘘をつき、毎回騙して参加する佐渡守が、とうとう、仕事へ出て行くふりをして、そのまま新幹線に乗って単独で姫路城へ見学に来てしまった、と、いうことが判明。

もちろん、スーツに革靴で…。

とうとうやってしまったか、と、いう思いと、なんだ、その手があったか、という思いが交錯する。
と、考えているとメールが。

『今日100万人達成したそうな。よかった、ジャストの人にならないで。取材も来ていて妻バレするところだった。』(原文ママ)
という文書と以下の写真。


惜しい!
毎回家族にバレてしまえば面白いのに、と、思うが、すんでのところでバレずに済んでいる佐渡守。無念、と、思っているとメールが。

『庭園は畳でゴローンできるとこではなかったので疲れを癒しきれないが行くべきところは行った、見るべきものは見つ!
これで帰っても普段より早い帰りなので家庭的にもウインウインなんだな』(原文ママ)

うーむ。
民は依らしむべし、知らしむべからず、という徳川幕府の方針を彷彿とさせるような佐渡の悪行。さすがは佐渡守を名乗ることだけあり、本多佐渡守正信並みの悪知恵じゃ。
と、感心。

彼こそ
『城好きがこじれ過ぎ』
の称号が相応しい。

40代からの弾丸一人旅 2015 in 因幡、但馬 その1 ~ なぜ40代から弾丸一人旅か~

2015年07月10日 | 
日本各地の名城をいつか見てやろう、見てやろう、と、思っていたら、はや41年。

※天空の城で名高い竹田城

「まぁ、そのうちに。」

と、のんびり構えていたのですが、最近不安になる。
『本当に行けるのだろうか。』
と。

本厄。
実際、自分の行きたい城は、かなりな山の上にあることが多い。道無き道を行くこともある。

定年後に果たして体力が残っているのか。
これから病気とかしやすくなる。親の介護とかの問題も出てくるかもしれない。

と、考えたら案外自分に残された時間は少ないのではないか。

そういう不安に突き動かされ、今までは金がかかるから、疲れが残るから、と、諦めていた遠方の城を落城させることを始める。しかし、金もなければ時間もない。

申し合わせて友人と行く旅は面白いが、幼児がいては長期間の旅行は家族に申し訳ない。
そこで、エアポケットのように突然訪れる自由時間を最大限活かすために、弾丸一人旅を開始したのが昨年。

昨年は、車中泊で一人で0泊2日1,000キロを運転しての四国城攻め。
今年は、旅館宿泊という豪華さをプラスしての1泊2日800キロを運転しての山陰遠征。

鳥取城と太閤ヶ平、竹田城という山城ツアーをやってみて、これは歳食ったらキツイは、と実感。この歳でやっておいて良かった、と、しみじみ思う。やっぱり攻めにくい場所も、身を守るために高低差を利用している城というのは、当然のことながら登るのは骨。
20代からこの弾丸一人旅をやっていれば、と一瞬後悔しますが、定年後に「あと20年早く始めていれば。」と後悔しなくて済むようにやってるから、まぁ、良いかと思ったりする。

さて、こうした城を訪れる楽しみの一つに

地元ならではの資料を買い漁る。

と、いうことがあります。


地元に行くと、コンパクトかつディープ、しかしリーズナブル、という本が出ていることが多く、これらを帰宅後に読むことで知識が深まります。
本当は行く前に読めると良いのですが、行く前には入手しずらいですから仕方ない。もともと予習はせず、復習をするタイプだったので、こうしたスタイルが自分にはあっているのでしょう。

こうした資料を入手するのは地元の資料館へ行くのが一番。

※鳥取市博物館

無料の案内パンフレットも充実してるので、それで現地を攻め、その後資料を買う。
こうしたスタイルも数々の城を攻める中で確立されてきた手法です。

ところでこうした資料は、現地以外では希少価値が出るため、東京や名古屋の古書店を覗いて遭遇すると、とんでもない高値が付いています。まぁ、旅費を考えれば安いのですが、一冊500円の資料が2千円位になっている、というのが経験則です。

売る気はないので、そのまま備蓄に励んでおります。
現在、鳥取城攻防戦を読みこんでおります。この復習が終わり次第、ブログ記事化されることになりますので、今しばらくお待ちを。

松江城国宝指定で考えた。

2015年05月20日 | 
松江城が国宝に指定されるそうです。

※画像出典:ウィキペディア

なかなか城郭で指定が厳しい中、創建を示す棟札が見つかり年次がはっきりしたことで歴史的に価値が出たことが大きいようです。(各種新聞記事等の説明)

松江城は20年近く前に一度訪れたことがあります。島根全体が落ち着いた雰囲気で何ともゆったりとした気分にさせてくれる良い場所だと思ったものです。
国宝に指定されるべくして指定されたと言って良いかと。
城好きとしてはおめでたい限りです。

さて、これで国宝天守は4から5になる。

4だから四天王とか表現することもできた訳ですが、5になると何か良い表現はあるだろうか。
と、すごくどうでも良いことが頭をよぎる。

5だと「5大○○」が多そう。
しかし、これでは四天王のような歴史チックな響きが無い。

五大陸、というのは変だ。何かのたとえで聴いたことが無い。
五輪もおかしい。オリンピック限定。
白波五人男とかもあるが、五人って数を使うのは、ちょっと四天王的なものとちがう。

五特有の表現てないだろうか。

そんなことを考えていると
『五虎大将軍』
というフレーズが、急に頭に浮かぶ。

中国じゃん!
と、自分で自分に突っ込みを入れるが、妙にツボに嵌る。

五虎大将軍(ごこだいしょうぐん)は、小説『三国志演義』、及び、その派生作品に登場する、架空の称号。五虎大将軍は、趙雲、関羽、張飛、黄忠、馬超の五名。(以上ウィキペディア情報)

NHK人形劇三国志に小学校6年生くらいではまり、その後、吉川英治の三国志からのKOEI三国志をプレイ、という経歴を持つ人間としては、架空の称号だろうがなんだろうが、五虎大将軍というのは重みのある称号なのです。

そして、ふっと頭をよぎる。
姫路城、松本城、彦根城、犬山城、松江城。
この五城は誰に該当するのか。

城と言う建築物が歴史上の人物の誰に該当するとか、もはや意味が全くわからないかもしれませんが、戦艦だの刀剣だのが擬人化されてゲーム化される時代。(城もあったようですが、イマイチ話題にならないですね。)
好きな物が好きすぎて擬人化してしまう、という思考回路が起動するのがオタクの宿命(さだめ)。

じゃあ、考えてみよう。

五虎大将軍の筆頭と言えば関羽。
5城で唯一世界遺産ということを考えても、規模から言っても筆頭に上がるのは姫路城。

※画像出典:ウィキペディア

次に来るのは張飛でしょう。
5城の中で規模的には松江城も大きいが過去から国宝として君臨している松本城に軍配が上がる気がする。

※画像出典:ウィキペディア

そして次は趙雲。
やはり、後の劉禅を懐に抱えて敵陣を突破したりと華があるだけに、国宝四城時代からの城で彦根と犬山を比較すると彦根の方が規模が大きく意匠も派手。と、なると彦根城か。

※画像出典;ウィキペディア


残る五虎大将軍は、黄忠と馬超。
老黄忠と何かと年齢で軽んじられながらも意地を見せる黄忠と錦馬超とも言われる馬超。

自分的には黄忠の渋さが、なんとなく黒板張りで実戦志向の強い松江城と被る。
犬山城も小さいながらも唐破風などを載せたり、高欄と廻縁を廻らす、華灯窓風の意匠をつけるなど飾った感があるので錦馬超に通ずるものがある。

と、いうことで、
黄忠は松江城。

※画像出典:ウィキペディア

馬超は犬山城。

※画像出典:ウィキペディア

で、決定。
決定と言っても、私が勝手に妄想してみただけですが、何か。

あ、じゃあ、四天王時代は誰が何に相当するのだろうか。。。

本当に実現。正月ラジオで城話。

2015年01月03日 | 
本当に実現して今年一番驚いた(今年一番認定早すぎ)のが、FM豊橋での正月ラジオで城話。
今回、豊橋へ向かうにあたり、ふと気づく。

「帰省ラッシュは3日、4日がピークです。」

結構正確に予測を当てる渋滞予測を見ると行きが「岡崎ー音羽蒲郡10km」、帰りが「豊川―岡崎間30km」とある。
行きも大概ですが、帰りは地獄の渋滞距離数。この分では、23号へ逃げる車もいるだろうから国道23号も使えないだろう、と、予想。

結果的に往復切符が激安の電車にしました。
340円払えば新幹線にアップグレードも可能。

電車なら大丈夫やろう、と、思っていたら、この日は京都方面で大雪のため30分程度の遅れが生じている!
げぇ、と、思っていたら、予定していた電車とほぼ同時刻に30分程度遅れて発車する新幹線が停車中。
結果的に、何の不都合も無く豊橋に到着。しかも、こだまは空席が結構あって、快適に座って豊橋まで行けました。
名古屋ー新城・豊橋間の往復を、もう相当な期間繰り返していますが、名古屋―豊橋間は新幹線がお得感が強くてお勧めです。なにせ足元は広いしシートはリクライニングするし、楽できます。

そして、豊橋駅からは正月の食べすぎをリセットするために駅から小畷のFM豊橋のスタジオまで歩く。


1,7kmくらいの距離で、これまた丁度ウォーキングにぴったりの距離。
もっとも、スタジオに着いたときには汗だくになってしまいましたが・・・。

先についていた藤本さんと簡単な流れを打ち合わせ。
今回は、渡辺さんのザバーン、ということで、いつものモエモエさんのスヤンコイトルとは違うので、うまく話せるだろうか、モエモエさんのFBなどを見ていると、厳しさと愛情を併せ持つ師匠として描かれることの多い渡辺さん。スタジオ外でお見かけはしたことがあるものの、怒られたらどうしよう、などと、勝手に妄想を膨らませておりましたが、スタジオに入ると、妄想は誠に勝手な妄想だったと判明し、リラックスして話をすることができました。

私は、とりあえず話し出す癖があるため話がぐるぐるすることがあったり、考えながら話していると「あれ、今何を話してたんだっけ?」ということも多い。自分で自分の話が何言ってるんだか全くわからんな、と、いうことが多いことを知っております。そんな私の話に「今、うらにわさんは、関係者への配慮を考えて発言をしています。」等のフォローを入れてくださるなど、さすがはプロ、と、腹の中で感謝しておりました。
こういうフォローをしてくださると、素人のこちらとしては焦りが抑えられて、落ち着きを取り戻して話をすることができます。

と、取り留めの無い私の話に皆様お付き合いいただいていたら、結果的に、なんと、2時間も出演させていただきました。

ええのか、ええのか、こんな素人が2時間も公共の電波で話をして。

と、帰りの電車で少々不安に思う部分もありましたが、やっぱり、通常のサラリーマンがラジオで話す、という経験は大変貴重なので、新年早々面白い経験ができまして、大変感謝しております。

また、私のブログをご覧の方からのお話などもお聞きできて大変嬉しかったです。
ラジオを聴いていただいていた方に感謝、感謝です。

今年も早速良いことがあった一日でした。

と、ここまで書いて、本日スタジオ外で作業されていたモエモエさんのブログ見たら「どっ楽しい」とのコメントが。嬉しい限り。
「レギュラーやっとくれんかやぁ」とのコメントも。
いつでも豊橋行きますよ~。って、あんまり調子に乗ると怒られますね。