長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

松山城 ~なぜ太田三楽斎は松山城の攻撃を知ったのか?~

2012年09月28日 | 落城戦記
問題です。

戦国時代、太田三楽斎(太田道灌の曾孫に当たります。)が後北条氏の関東制覇に抵抗するため、岩付城と松山城を防衛ラインとしました。が、どうにも連絡が遮断されがち。
あるとき、後北条氏は松山城と外部との連絡の遮断に成功。一気に松山城へ攻め寄せ落城させようとしました。

しかし。
なぜかありえない速さで岩付城から太田軍が救援に来てしまい失敗しました。
ちなみに、後北条氏は松山城から岩付城へ連絡が行かないように、厳重に伝令がでるのを見張っていました。

一体どうして太田三楽斎は後北条氏の松山城攻撃を知ったのでしょうか?


答えは「犬」。 

太田三楽斎は、こうなることを予想して、予め岩付城と松山城で50匹ずつ犬を飼っておき、犬を一斉に交換して配置していました。そして、夜陰にまぎれて犬の首に密書をくくりつけて松山城から犬を10匹岩付城に向けて放ったところ、帰巣本能で犬は岩付城へ帰還。
犬まで見張っていなかった後北条氏は、太田三楽斎が攻撃を察知したことに驚いた、というエピソードです。

我々はその松山城へやってきた訳です。

「犬、犬。犬を連れてくるべきだった。」
紀伊守実家のハチ(茶柴)か丹波守実家のユキ(黒柴)を連れて来れば、さぞ画になっただろうに、と、思うものの、さすがに一瞬の為に犬連れで2泊3日は無理。
ましてユキなど放とうものなら、どこかへ放浪してしまう。。。

あまりの技巧に少々食傷気味だった杉山城の次、そしてこの日3城目だけに、有名エピソードでもないと攻略意欲が萎え気味のアラフォー部隊。エピソードがある城だけに戦闘意欲を取り戻しました。

案外この城も、うにゃうにゃしてます。

※現地案内看板
郭が雑然と重なり合って、なおかつ、連絡の土橋と待避所的な広場が馬出的な感じになってるのは、北関東城郭の特徴か?
なんだか草創期の地球の大陸移動を見ている感じがします。

さて、上り口がよくわからずウロウロと歩いていくと結構な坂を発見。
いい加減膝腰に来ており、グルコサミンでも飲まないかんなぁと思ったころに虎口発見。


やる気が復活します。
いきなり本丸へ到達。落城です。

しかし、先の杉山城に比べて手入れがなされておらず、草が生い茂っていました。

曲輪の形状がわかりにくいのが残念。

そりゃ、城廻に最適なのは草木も枯れて虫もでない冬が良いのはわかってますけど、仕事してるとそうも言ってられない。行ける時にしか行くしかないのです。

本丸はさほど大きいとは思えません。
本丸現地案内看板の説明を念のため掲載します。老眼鏡の必要な方はご準備を。




そして二の丸へ向かいます。

土橋の両側は深い堀で、なかなか見ごたえがあります。しかも、横矢が掛かるように雁行してますし。

二の丸から下へ降りる遊歩道としてコンクリの階段がありましたが、草が生い茂り行き止まり状態。

進んでも良いのですが、ハチか蛇に襲われること必定、そうでなくても、マダニだのヒルだのに食いつかれそうで進む気になりません。

草が生い茂って、なんとなく頭の中の地図と一致しないのが残念です。

その後、二の丸から帯状曲輪へ向かう途中に馬出発見!

土橋の連結部が膨れているだけのような感もありますが、馬出機能といわれれば確かにそのとおり。このあたりでは、一見馬出?と、思えるこの機能が多いですね。

帯状曲輪から三の丸へ向かう。この三の丸は比較的手入れされているような感じがしました。


三の丸と帯状曲輪の間、馬出ができている分堀の形状が複雑さを増し、迷路状になっているのは個人的にはかなり好きな造形です。


杉山城で少々食傷気味な我々としては、結構素晴らしい縄張でありながら、通り一遍の感想しか漏らせませんでした。

一旦本丸に戻り、その後、車の止めてある岩室山龍性院方向へ向かう。
結構な下り。


しかも、最後には道?崖?的なところを降る羽目に。

急傾斜で足も滑るしかなり怖い。何より恐ろしいのは蚊の大軍が「飯じゃ、久々の飯じゃ。」と襲い掛かってきたこと。ウナコーワを持参していて良かった・・・。

なかなかに自然地形を活かして作られたこの城。
坂東武者的な荒々しさを感じさせてくれます。

後、やっぱり、犬連れが似合う城かな?

杉山城

2012年09月15日 | 落城戦記
「もう腹一杯だ。」
わざわざ休みを取って城を見に来た筈の我々が、思わず漏らした一言がコレ。

馬出、枡形(食い違い虎口?)、横矢、馬出、枡形、横矢、、…。


※全体図。現地案内看板。

延々と続く見どころの連続に、思わず、
「もうええわぁぁぁぁ!」
と、言ってしまいたくなります。

『中世山城の最高傑作のひとつ』という現地案内看板の言葉に嘘偽りは一切ございません。こんなすごい城は滅多にあるもんじゃありません。これは城巡礼を行っている我々のような人間としては、訪れなければならない聖地のひとつに間違いございません。(自然と敬語になってしまいます。)


※現地案内パンフを見る我々。立派なパンフでありがたい。しかし、固まる。

しかし、この城の『クドさ』と言ったら、もう・・・。
そう、この城、くどいんです。

この城については、あまり資料が残ってないようで、詳細についてよくわかっていないようです。
しかし、なんでこんなすごい城について、あまりわかってないのか、というのも不思議。

曰く、後北条氏が作ったのだ。
曰く、その前の杉山氏が作ったのだ。
曰く、織豊系城郭に似てるので、かなり後だ。

まぁ、私のような素人には、出土物や縄張状況からの考察・比定などと言った高度なことはわかりません。
大いに議論して盛り上がってもらうことが一番楽しい、と、言うのが正直なところです。

さて、そんな杉山城の分かっているところはこんなところ。

長享2年(1488年)に須賀谷原で多くの戦死者を出す激しい戦闘の記録があり、杉山城から出土した遺物の年代がこの戦いの少し後に当たることから、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したと考えることができるそうです。
発掘調査では焼土があったそうで、戦いのあったことがわかります。輸入陶磁器なども見つかっているようで、出土物は15世紀末から16世紀初頭だそうです。
この杉山城がある比企地域には69もの城館群(!)があるそうで、比企城館群として国指定史跡になっています。
高度な築城技術から後北条氏の城だろうといわれていたそうですが、発掘調査により、それより前の両上杉、古河公方の戦いの城と考えているそうです。
(以上参照:現地案内パンフ「比企城館群 杉山城跡」(発行:埼玉県比企郡嵐山町))

ただ、重複しますが、上記のような主張に対し、出土品の少なさから、あまりに高度な縄張のためにもう少し時代が下がったものだろう、という論争が続いているようです。(参照:『日本名城百選』小学館)

ま、私にとっちゃ、どっちゃでもいいです。
とにかく結果的に存在している城の凄さは堪能できましたので。

個人的には、かわらけなどが出ているので居住使用もされていて、磁器などがあれば、結構身分の高い人もいたのだろうという推測は成り立つと思いますが。
後、これは完全に私の戯言ですけど、こんだけスゴイ城にもかかわらず、あまり書物に残らず地域で謎扱いされている、という点では、新城市作手の古宮城と共通する部分があります。あれは、地元民からすると敵方の城(武田方)だったため、愛着がなかった故だろうと考えています。実際、古宮城近くのオラが殿様の城である亀山城は、地元の手により大切に保存されています。
杉山城の記録の少なさは、そうした影響もあったかも?
ま、わかりませんけど。

さて、城です。まず、入口から進むと、


写真撮ってる場所は既に写真右の高台から猛攻撃されてることになる訳です。そして我々は中央の土橋から左手の郭に行った後、攻撃してくる写真右の高台への土橋を再度渡ることになる訳です。

高台へいく土橋はこんな感じ。

虎口で綺麗に守られてますね。
しかし、ここで突っ立っていると、

写真中央の佐渡は写真左手の紀伊と珠光から攻撃されるようになっている訳です。

切岸の高さも見事です。


さらに本丸目指すには、こんな道をうねらせて攻撃ポイントを増やしているんですね。


とにかく、こんなのが連続する。

気がつけば横矢。そんな感じ。

なんか、築城者の執念を通り越した「情念」を感じさせます。
この城の築城に出役した住民にしてみれば、
「殿様も、ここまでやらんでもええんではないかのぅ・・・。」
と、思わずつぶやきたくなるんじゃないでしょうか。

それこそ今なら、
「殿、クド杉ワロス」
と、つぶやかれるとおもいます。

我々もあまりの城から受けるインパクトに食傷気味。
しばらくは写真でお楽しみください。







そして、なんとか落城させてます。


その後、北側の郭も全て見ましたが、北の方が造りがあっさりとしており、今まで見てきた城的には、通常な感じがして、好感が持てました。

そしてそれは、皆、同じ意見でした。

若干郭の配置の見事さと考えると、堀の狭さを感じますけど、高低差や狂気すら感じる横矢掛かりへの執念がカバーしている感じがしました。

とにかく、いろんな意味でスゴイ城です。

参りました。

野田城伝

2012年09月09日 | 奥三河
野田城を巡る菅沼定盈と武田信玄の戦いを偲ぶ祭り「野田城伝」が開催されました。

非常に盛況でした。


出店も沢山出ていまして、家族連れや子どもで一杯。

「地元に住んでるけど初めて来たわ。」
と、いう方にもお会いしました。

そしてクライマックスは夜の部。

地元の伝承として、武田信玄は野田城を包囲中、たまたま城に居合わせた笛の名人村松芳休の笛の音に聞きほれ、毎晩聞いていたところを菅沼側に狙撃されて落命した、というものがあります。
狙撃された場所も残っていますし、最近、伝狙撃した場所にも看板が立ちました。
そして、地元には「信玄砲」という信玄を狙撃したときに使われたという火縄銃も残されており、実際に戦国時代の火縄銃らしく、非常に貴重なものだと言われています。


※設楽原歴史資料館に保存されている「信玄砲」

夜の野田城でのコンサートは大変幻想的な雰囲気の中で行われました。



雅楽の演奏や、


篠笛、踊りなども披露されました。


野田城本丸で聞く笛の音は、地元の伝承を偲ぶには最高の環境です。
実際、笛の音を戦場で吹く風流な人もきっといたことでしょう。そして、その笛の音に慰められた人もいたのではないかと思われました。

と、聞き惚れておりましたが、ふと思いつく。

「実際、信玄が撃たれた辺りでは、どのように聞こえるのか。」

法住寺の辺りまで移動して聞くと、本丸のようなキレのある音ではなく、高音は聞こえますが低音は聞き取りにくい。地図で確認すると直線距離で60m。実際の伝狙撃された場所は本丸と高さがほぼ等しいので、もう少し聞こえるかもしれません。
まぁ、聞く分には支障は無いでしょう。

そして100mほど離れた千郷西保育園の辺りまで来ると、結構小さい。

これでは、法住寺の被狙撃場所まで移動してくるのも理解できる。

まぁ、本丸の木々は無かったわけですし、建物もないとすると、もう少し聞こえたかもしれません。
ただ、聞きたい場合は近くまで移動するのは、さもありなん、と言う感じでした。

非常に幻想的な会だっただけに、これをきっかけに地元の人達にも知っていただき、広まっていくといいな、と、思います。


鉢形城

2012年09月08日 | 落城戦記
鉢形城には資料館がある!

そんな情報に我々は胸を躍らせ資料館へ向かうと、
『月曜日休館』
の無情の文字が・・・。

一気にテンションが下がる。
城旅の注意事項に、
「月曜日を見学の主要日程にするな。」
という一条が追加されたことは言うまでも無い。

さて、気を取り直して見学開始。
鉢形城は、文明8年(1476年)に長尾景春(山内上杉氏の家臣ながら家督争いで主君から冷遇されたことから反逆をすることとなる。このあおりを喰って滅んだのが太田道灌。)が築いたとされます。その後、山内上杉氏が在城(長尾は帰参を許されます。)。永禄年間中に城主藤田康邦は後北条氏康から四男氏邦を養子として受け入れ、氏邦は鉢形城を改修。本城として使用します。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で前田、上杉などの北陸勢に攻撃され落城。その後廃城となったそうです。
(参照:現地案内看板と『日本名城百選』(小学館))

城の縄張図はこんな感じ。

※現地案内看板

荒川と深沢川に挟まれた台地の上に主要な曲輪があり、さらに深沢川の外に沿って外曲輪が設けられています。
長尾景春の時には荒川に面した部分だけで、北条氏邦がその外側に大規模な増設をしたようです。深沢川が自然地形で城内に取り込まれているため、縄張が複雑になってます。
現在では、本丸下の曲輪や二の丸を道路が通過し、普通に建物が建っているため、縄張図をよく頭に入ってない状態では、一体どこからどこまでが城やらわかりにくい。

まして資料館が閉鎖時にも利用できる駐車場から、まず目に入る城の景色はコレ。


おお、こりゃすごい、きっと写真右が二の丸で左が本丸か?と、思ったらさにあらず。
左は秩父曲輪という曲輪で、機能的には三の丸です。

これを見た紀伊守。
「本丸に近い方が低いって、変な城。」
と、言う。

言われるまで気づきませんでしたが、確かに。
拡張したことの影響なんでしょう。

さて、気を取り直して二の丸と秩父曲輪の間にある馬出を見に行く。


THE角馬出。見事です。丸くなく四角いのは角馬出を特徴としている後北条氏の城だからか。馬出から二の丸には細い土橋でつながっています。

虎口へ回り込む形となっており虎口防衛の度合いが高くなっています。

秩父曲輪には、石垣や庭園などもあったようです。

やはり石垣と言っても、西日本系の石垣とは様相が違います。
この辺りが東国っぽさを感じて嬉しくなります。

そして秩父曲輪にある、非常に見事な食い違い的な虎口(ある意味枡形)。

土塁の上に立ってもらいました。


珠光の決めポーズについてはともかく、虎口土塁の巨大さが窺えます。

そしてこの虎口の向こう側には「諏訪曲輪」なる曲輪がありますが、形状的には完全に馬出機能を担っています。


そして、今度は大手口から城内へ入ることとします。


まずは土橋の隣の堀。
まだ、水気があります。


そこを抜けると巨大な平坦部。

しかし、単に平ではなく、堀が存在し曲輪が単純に破られないように工夫されています。

一旦駐車場に戻り、本丸を目指す。
と、その前に秩父曲輪と二の丸の間にある堀障子。

山中城のような堀ではありませんが、堀底を遮断する高まりがあり移動を困難にしている機能は一緒。

で、二の丸はどどーんとした平坦部です。

丁度草刈してまして、広さが見渡せてよかったです。

本丸は一度この平坦部を抜けて道路に出て、しばらく歩くと出てきます。
最初は「ええ、本当か?」「城から出てまってないか?」などと心配したくらいです。
そして、道を行くと本丸への入口が。


しかも、石垣まで。


本丸では荒川方面に向けて土塁が作られていました。
まずは城址碑を見つけて落城とする。


荒川はこんな感じで。


なんとなく分断されてしまっており、わかりにくさが伴う城でした。
大層立派な資料館だっただけに、見学できなかったのが悔やまれます。それを見ていれば、もう少し見所があったのかもしれませんが。

そして次の杉山城へ向かう途中に我々が見つけたのは、コレ。


「男衾だ!三郎だ!」
色めき立つ我々。

特に紀伊守は、
「馬庭の末に生首絶やすな、だ!」
と興奮。

『男衾三郎絵巻』という鎌倉武士の生き様が良く理解できると言われている絵巻物があります。どうやら観音信仰をすることで救われた、というストーリー仕立てが想像されるものです。
途中を散逸しており、結果的にどこまでわかっているかと、雅な兄吉見二郎と典型的な坂東武者男衾三郎がいて、雅な兄は京都へ行く途中優男だからと山賊に殺されてしまいます。で、吉見二郎の娘は男衾三郎に引き取られますが、下女のような扱いを受け悲惨な状況に陥ります。

そこまでです。

なので、現存している部分だけでは、ただの悲惨な話です。

で、現存部分に男衾三郎が「馬場の角には人の生首を常に置いとけ」というくだりが出てきます。
どうやらこれは三郎が異常者と言うわけでなく、荒々しい坂東武者はそんな感じだったのだろう、と言われています。
で、その生首はどう調達されたかと言うと、男衾館の近くを歩いていた不運な旅行者、な、訳です。
「え?」

そうです、そこらへん歩いていると私刑にあって殺されてしまうわけです。
おっそろしい世の中。

そんな現代とはかけ離れた規範意識が現代に残されている男衾三郎絵巻。
その男衾に我々は来たのだ、と、興奮したわけです。

よくよく冷静に考えてみれば、千年前なら、私ら多分、とっ捕まって犬追物の代わりに矢を散々射掛けられて、挙句の果てに首を切られている旅行者側なだけに、平和な現代でよかった、と、思います。

で、昼飯によった道の駅の看板。


『道の駅は、なぞの年中無休』
ではなく

『道の駅 はなぞの 年中無休』
でした。

前向き思考でいこう ~神流川の戦い~

2012年09月05日 | 日本史
鉢形城へ向かう前に、関東最大の野戦ともいわれる神流川の戦いの場へ。


長篠合戦における設楽原決戦場もそうですが、野戦の現場なんてあちこち移動してるので、古戦場碑は一つの目印に過ぎません。が、当時を偲ぶよすがにはなります。

神流川の戦いは、天正10年(1582年)6月16日から6月19日に行われた戦いで、本能寺の変で動揺する織田家の隙をついて、北条氏が関東の覇権を取り戻すべく上野へ侵攻したことが発端です。
織田方の部将で関東方面司令官的な立場である滝川一益は迎撃を開始。
先遣隊の北条氏邦を一度は退けたものの、北条氏直の本隊が到着し北条勢5万6千VS滝川勢2万弱となってしまうと、どうにもならなくなったようです。
滝川勢は旗下に加わってから日が浅い混成軍だったこともあり、北条本隊到着後の合戦で陣形の伸びたところを伏兵にやられて大敗。滝川方関東勢はこの様子見をしつつ戦場離脱。滝川は箕輪城へ逃げ帰り、その後なんとか居城の長島城まで逃げ帰ったようです。(戦いの顛末はwiki参照)

これにより、滝川一益の織田家における発言力が低下し、豊臣秀吉の天下へと動き出します。そして、結果的に秀吉の小田原征伐まで話がつながってしまう訳です。そういう意味では、戦国史に大きな影響を及ぼした戦いと言えます。

この戦いで滝川一益にケチがつきます。


清須会議に出席を許されず、気が付けば織田家重臣の列から転落していた一益。
柴田勝家と歩調を併せて失地回復を狙うも羽柴秀吉に負けて出家する一益。
出家して隠居してたら小牧・長久手の戦いの余波で秀吉に召喚されて蟹江城を攻撃する一益。
舟で海上から敵の真っただ中の蟹江城に侵入する一益。
家康の素早い反撃に会い、戻ろうにも潮の満ち引きに翻弄され孤立する一益。
結果的に降伏⇒開城という情けない展開になる一益。

一益。。。

信長にすら鼻白まれたあざといまでのキレが、信長死去後は全くありません。
少し気の毒なくらいです。

ところで、碑の隣に石碑で謂れが彫られており、世情不安のときにこの近くの宿には暴徒が発生せず不思議だった。それは、きっとこの戦いの戦死者の霊が守ってくれたからだとありました。戦死者の霊が地域を救った、という考え方がちょっと新鮮でした。

長篠合戦後では、戦死者を生めた塚から蜂が大量発生して、戦死者の祟りと考えて鎮魂の祭(火おんどり)が始まったという伝承がありますが、おかげさまで、というのは聞いたことが無い。
そういう意味では、神流川近くの人達は、ポジティブシンキングなのかもしれません。

資料が見つかりませんが、蟹江城攻撃時の一益は、あまり乗り気でなかったという話があった記憶があります。
もし、そうだとするならば、神流川住民を見習ってポジティブシンキングで行けば、ひょっとして・・・。

箕輪城

2012年09月03日 | 落城戦記


×噛みつけ。○上毛野。

上毛野(かみつけ)とは群馬県の古い国名です。後に上野(こうずけ)となり、そちらの方が有名化と思います。こんな名前を持ち出して我々を試してくるとは、なかなか侮れないぞ箕輪城。
まずは、我々が上州へ侵入したことを改めて認識させてくれた看板です。

そんな箕輪城メモ。
箕輪城は、武田信玄を退け続けた関東管領上杉氏の重臣、長野業正の居城として有名。業正の子業盛の代で武田に滅ぼされてしまい、その後には武田四天王の一人内藤昌豊が入ります。武田滅亡後は一瞬、後北条氏が占領しますが、織田信長が当然のように進駐し、部将滝川一益が入城。本能寺の変後には後北条氏の部将北条氏邦の持ち城になります。この氏邦は、豊臣秀吉の関東惣無事令発令後に真田家の名胡桃城へ突如侵攻。激怒した豊臣秀吉に小田原征伐の口実を与えてしまいます。天正18年(1590年)の小田原攻めの際、落城。
その後、徳川家の関東国替に伴い、やさぐれひこにゃん井伊直政が入城し、慶長三年(1598年)高崎城落成と伴に廃城となります。

めまぐるしい。しかも、名のある武将が次から次へと。
それだけ重要な地と言えるのでしょう。

さて、駐車場から伸びる道は箕輪城搦手口でした。
持参した『日本名城百選』(小学館)の地図には、搦手口方面に見事な丸馬出が描かれているため、まず見に行く。なんと、関東地方で唯一の現存丸馬出だとか。やはり、武田や徳川の手が入っているからだろう。ならば見に行かねば。

と、やってきたのですが、鬱蒼と草が生い茂り地形的にも高低差があまりなく、よくわかりませんでした。。。どうやら耕作などで本来の高低差がなくなっているようです。

ちょっとがっかりしながら、搦手口から城内へ侵入。
しかし、本丸へ至る堀を歩いていくと、そこはまるで五叉路。


堀底から周囲の曲輪を見てみると、どえらい高低差があります。


呑気に城内へ侵入した我々は、ここで殲滅されるわけです。
四方八方から矢が飛んできて前へ進めない。何とも恐ろしい。こんな枝分かれの激しい巨大迷路みたいな城は初体験と言ってよいかも。攻撃側にしてみれば、どこへ行ったらいいのか検討がつかない。と、いうか、身を守ることもできずに呆然としているうちにやられてしまいそうです。
これは自然地形ではなさそうですが、人工物だとするとこの土木量を可能にしたのは、武田?北条?徳川?はたまた長野?
一体誰がこんなマニアックなもの作ったんだ、いう疑問が残ります。

本丸へ至る遊歩道が整備されていたので、我々は矢玉が飛んで傷だらけになっている自分を想像しながら、進みます。


遊歩道の終点には公園として見事に整備された曲輪が現れました!堀底の険しさからは想像も付かない削平地です。


しかし、そこは本丸ではなく「御前曲輪」なる場所でした。


ここは、本丸の更に奥にあたり、いわゆる詰丸(つめのまる)。実際、武田の攻撃を受けた長野業盛はこの曲輪で自刃したそうです。
井戸もあり、


本丸との高低差はなく、堀で区切られ土橋的な細い通路でつながっています。水も確保でき、本丸から退避して時間を少し稼げる場所だけに、城における最期を飾る場所としてはふさわしい感がありました。
そしてこの曲輪からは大手側から堀底を回りこんできた敵が一望できる場所があります。

堀の左右は絶壁に近く、御前曲輪と左右の曲輪から攻撃された敵は相当なダメージを受けることになります。

御前曲輪から本丸へ。
本丸は北と言うか東側、川と反対側に土塁が設けられています。長野氏時代にはこちらが大手だったという話も聞きますので、防御が厳重なのでしょう。


この本丸がとにかく広い。軍事拠点ではなく居城だとするとコレくらいの広さはいるのかもしれません。


本丸から二の丸へ至る虎口の辺りに石碑が建っています。

ちなみに、この辺りには関東では珍しい石垣が見つかったそうです。

本丸虎口を越えるとちょっとした広場があります。馬出と説明されていますが、ちょっとわかりにくい。広場からは二の丸へ向かう道と長野氏時代の大手へ向かう道に分岐しているようです。柵や塀などの建造物があると、もっとこの広場の意図がはっきりするかもしれません。

さて、広場の反対側を眺めてみると、本丸土橋に対して横矢がかかるように本丸が飛び出ています。

急傾斜の土塁と組み合わさって相当なものです。なんか名古屋城的な近世城郭を見ている気がしました。そして、この辺りから我々のテンションが上がり始める。やはり大手側に工夫が凝らされているようで、見ごたえがあるのはこちらなんですね。

二の丸からつながる馬出曲輪へと向かう。


見事な土橋。相当な高低差があります。堀底から見上げるとこんな感じ。


二の丸の橋頭堡と言えるこの馬出曲輪。しかしながら、外へ出る土橋は1方向となっています。馬出というより、直角に折れた土橋の角部分が巨大に膨らんで曲輪化したような感じです。「馬出」というよりも「複雑な郭配置」と言った感があります。正直、図面を見ながらでないと馬出と認識しにくい。この後訪れる北関東の城には、こうした工夫・曲輪が多く、この辺りの特徴のように感じました。

とにかく、土橋、曲輪、土橋、曲輪、で、何がなんだかわからなくなってきます。

※珠光の今回の旅の決めポーズ。意味は無い。

とにかくこの城は横矢掛かりまくりの迷いまくりで、考えている間に秒殺されてしまうことでしょう。


その後、二の丸から三の丸へ向かいます。


すると、奥に石垣発見!


関東には石垣の城が少ないだけあって、なかなか貴重なものをみせてもらいました。高さは2~3mといった高さでしょうか。さほど高さは無く、石の組み方も野面というか、なんとなく素朴な感じを受けました。

その後、本丸下の堀底を通っていると、またまた石垣発見!


草で見えにくくなっていますが、上部が破壊されているようで城割のあとではないかとの指摘もあります。(『日本名城百選』小学館)
ここまで来ると、最初の五叉路部分に戻ってまいります。

いや、とにかく規模がでかいのと、郭配置がわかりにくくなっています。途中途中で見る景色は、いつまでたっても迂回が続いて本丸に続かない、そんな感じです。
また、堀も大規模。鉄砲などの使用を想定しているのかもしれません。

所有者が変転したことで、一体誰がこの城をここまでにしたのか、が、わかりにくい部分がありますが、一度見て回ると、そのすごさが実感できます。
信州や三河とは違った城の感覚を受けます。

それぞれ特性があるんですねぇ。