長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

祝!のんほいタウン復活!! そして、なんと連載開始。

2014年06月24日 | 奥三河
奥三河に特化した情報誌、と、いう、大変ディープで貴重なフリーペーパーとして愛されていた「のんほいタウン」。ここ数年休刊されてました。

もう辞めちゃったのか、と、残念がる声も身近でよく聞きましたし、私もその復活を待ち望んでおりました。
そして、2014年夏、2年半の沈黙を破り復活されました!

※おめでとうございます!

休刊の間、編集長のF氏には、様々な、ホント、様々な別の苦労がおありで大変だったかと思います。
そのあたりの経緯も少し知っているだけに、今回の復刊は心から嬉しいのです。

ところで、復活するにあたり、F氏からとんでもない申し出がありました。

『城ヲタ目線で記事を書きませんか?』

素人が自分のブログで怪しげな情報書いているのと、他人様が発行される雑誌に記事を書くと言うのは重さが違う。
自分は歴史の専攻でもなく、外野でワーワー騒いでいるだけ。
躊躇しておりますと、

『発言が慎重にならざるをえない専門家でもなく、全く歴史を知らない人でもない。ある意味人生を踏み外したヲタというものを、全くの門外漢が眺めるのは面白いのでは。』

とのこと。

なるほど。
古宮城が好きすぎて新城市に3年間移住した経験を持つ私は、人生踏み外し度は低くは無いと思う。
ブログの延長線上的なノリで良い、ともありましたので、一度挑戦してみようか、と、いうことで、今回の復活から

城好きがこじれ気味

と、いうタイトルで連載をさせていただくこととなりました!

※作者名は丹波守を僭称しております。

今回のリニューアルで様々に新連載もスタートされたようです。
FM豊橋の人気パーソナリティモエモエさん、食道楽の鳳来仙人さんの記事もあります。
そして、我々の宝くじ企画ものんほいタウンとの連動企画として連載されることになりました。

今回から雑誌の大きさもコンパクトになり、ぎゅっと凝縮された感があります。手にとりやすい。丁度7インチのタブレットくらいの大きさです。(私のキンドルと同じ大きさ。笑。)

こちらの雑誌。
現在、配布場所は現在2箇所に絞られているそうです。
と、いうことは、かなりのレアアイテム
入手できたら、それだけでアナタはかなりラッキー。
入手場所はこちら。のんほいタウンさんの頁にリンクします。

こういう雑誌の存在が奥三河を楽しくしてくれると思います。是非頑張って出し続けていただけると嬉しい。また、続くように、私も御協力できたらと思います。

ちなみに、「城好きがこじれ気味」は、全くの『書き下ろし』です。
どうぞ、手にとってご覧ください。

立花道雪 ~ これがホントの雷オヤジ ~

2014年06月22日 | 戦国逸話
 戸次鑑連

 はい、これ読める人。

 正解は「へつぎあきつら」。(べつき説もある)
 もっとも、本名より通称の方がよく知られています。「立花道雪(たちばなどうせつ)」です。

 『信長の野望』で九州に攻め寄せた際に、「何このやたら強い武将。」と驚かされることで有名。(か?)
 中部の武将でプレイすることが多かった自分としては、統一が近づいてきた頃に立ち向かってくる強い武将で、物量作戦で攻めつづけて確保、と、いう武将。

 でも、「誰?」と、いう、そんなあなたにはちら。

〇 鑑連の武勇と士卒愛
 大友氏が衰えたとはいえ、(大友家臣の)戸次鑑連は高橋鎮種と心を合わせて少しも屈しなかった。鑑連は武勇がたくましく部下の面倒をみることは子どもを愛するようであった。戦に臨む時は2尺7寸の刀と鉄砲を駕籠に入れ、3尺の棒を手に駕籠に乗り込み、長い刀をさした若い部下百人を駕籠の左右に配置し、戦が始まれば駕籠を部下に担がせて棒で駕籠を叩いて「えいとうとう」と声をあげ、敵の真ん中に突撃していき、部下もあわせて突撃し、どんな強敵も崩さないことはなかった。また、先陣が追い立てられても「儂を敵のど真ん中へ連れて行け。命が惜しければ儂を敵の中へ駕籠ごと放置してから逃げろ」というので盛り返して勝たないことは無かった。(以下略)

 まさに『神輿

 「えいとうとう、えいとうとう」と、言いながら大軍の中に割り込んでくる異様な集団。
 敵にしてみればホラーそのものかと。さぞかし肝を冷やしたことでしょう。
 部下もよく駕籠を放置プレーせずに頑張ったものです。
 担いでいる部下がやられてしまった日にゃ、バランス崩れて道雪も転落しそうなものですが、もし、そんな事態になろうものなら、怖さ倍増、さらに倍、で、
 「あいつじゃあ!あいつがワシの大事な部下を!えいとうえいとうえいとうとう!」と絶叫して頸を取るまで追いかけて来るでしょう。敵領の真っ只中であろうがなんだろうが。
 
 この剛直さは敵に向けてだけでなく、内なる敵にも向けられています。
 内なる敵。
 それは、主君の大友宗麟。
 宗麟が酒食に溺れた時に道雪はひるむことなく諫言します。

○ 大友義鎮(宗麟)を諫む
 大友宗麟は九州の北半分を制覇したあたりで酒食におぼれだした。昼も夜も寝所からでず、老臣が出仕してもあわない。そして適当に論功行賞を行いだした。
 鑑連は大いに憂いなんとか諫言しようと日々登城するも対面できなかった。どうしようかと思い、一計を案ずることにした。
 鑑連も踊り子を呼び日夜酒食に耽りだした。鑑連は元々月見、花見、酒宴、乱舞は大嫌いだったため宗麟は「硬骨漢鑑連が一体どうしたんだ。俺の機嫌を取ろうとしているのか?ならば行こう。」鑑連の邸にやってきた。珍しい踊りなどをみて宗麟が上機嫌なところを見計らって、鑑連は涙を流して諫言を行った。翌日七夕のため諸将が登城すると、昔のようにきちんと儀式が行われた。皆、鑑連の諫言が効いたと喜んだ。

 主君にも諫言する硬骨漢。宴会嫌いでストイックな武将。

 まさに武将の鑑。

 と、ここで、ふと気づく。
 このような武将といえば、どこかで見たような・・・。
 そう、上杉謙信。
 謙信といえば若干(で、済むか?)の狂気を見せることで有名ですが、実は、この鑑連にも謙信系の逸話が。

○ 雷切(らいきり)
 鑑連が若い頃、夏の暑い日に大きな木の下で涼んでいた。すると突然すぐ側に落雷した。
 鑑連は千鳥と名付けていた刀で雷と思われるものを斬った。
 それ以来、千鳥を雷切となづけて常に所持していた。
 しかし、雷に打たれ、あちこち大怪我を負い、遂に足腰が立たなくなってしまった。歩けない為、戦場に出る時には常に駕籠に乗っていた。

 最初の逸話で駕籠に乗っていたのには理由があったのですね。雷と格闘した時の傷が原因だったのです。

 「て、いうか、木陰で涼んでいたら刀に落雷してきたってこと?」

 あ、そんなことを言ってしまったアナタ。
 本日の夢で道雪が駕籠で突入してきますのでお気をつけください。

 むしろ、落雷で大怪我しても雷公を斬り捨てた、そう解釈すべきなんでしょう。

 まさに雷オヤジ。
 そりゃ、主君宗麟も言うこと聞かざるをえんですわな。。。

 肖像画を見ると、目玉ひん剥いて口をへの字に曲げた坊主頭の爺さん。さぞかし頑固そうな感じです。
 九州男児。この言葉が一番似合う漢です。

信長の城

2014年06月18日 | 
お城博士、千田嘉博奈良大教授が書かれた本です。

2013年1月発行ですので、ちょっと前の本。

前から欲しい欲しいと思いながらも、キンドル版で出るまで待ってたのですが、たまたまブックオフで発見。迷わず購入しました。期待にたがわぬ内容でした。

清須城、小牧山城、岐阜城、安土城の発掘成果や歴史地理的な観点を含めて、従来文献史学のみで語られることの多かった城について新たな解釈から信長の思想を考える、という内容になっています。

私的には、昔から安土城の大手道って、まっすぐ伸びて防御的に弱いよねぇ、と、不思議に思ってましたが、そのあたりも信長の山上と山麓に期待した機能的な違いからの解釈を述べられています。
信長の中央集権的な発想を、家臣の居住実態から読み解いているのは面白い。

小牧山城の評価が「仮住まい」から「本格的居城の筈が岐阜城が早く手に入ったので結果的に(仮)」というものは、最近、小牧山城の発掘調査が進み、整備された城下町が出てきた成果なども踏まえたものになってます。

そして、安土城の「懸造」。
千田氏の懸造、と、いえば結構代名詞的に有名なようですが、そのあたりをしっかりと読んだのはこの本が始めて。ほぅほぅ、皆さん、このあたりのことを言ってたのか、と、面白く読めました。
名古屋城天守台のように石垣を一気に立ち上げる技術がなく、石垣が段積みになっているのを利用して清水の舞台用のような建物を造ることで防御や大きさや見栄えなどを説明しています。

そんな考え、思いもよらんわ、と、思いながらも、現在のように整備される前に安土城へ行ったきりなので、一度現在の安土城を訪れてみたい、と、思いました。

再度この本を片手に掲載されている城を巡りたくなる、そんな本です。

ちなみに、つくで手作り村等で売られている、作手古宮城手拭の縄張図は、千田先生の図を利用していますので、こちらも要チェック。

月夜の散歩

2014年06月12日 | 日記
年初にダイエットに成功したのですが、新年度に入り多忙になった途端に太りだし元の木阿弥。

少しくらい整えておかないと健康診断が怖い。
ので、今週から少し時間を見つけて歩いております。

今日は子どもが早く寝てくれたので、本でも読もうと起きて窓の外を見ると、満月。
名古屋では満月のありがたみを感じることも少ないのですが、昨日雨が降ったせいか、めずらしく空気が澄んでおり、夜景が綺麗だったので久々に夜の散歩をすることとしました。

『月のでない夜には気をつけろ。』

と、よく時代劇の悪役がいいます。
あちこちに電気のあかりがある現在では月夜の明るさを認識できませんが、新城にいたときは実感したものです。

久々に月明かりでも楽しもうと散歩してみますが、やはり都会は明るい。
電気なのか月明かりなのかよくわからない状況で歩いておりました。

建物の明かりなどをみると、人が住んでいるんだねぇ、そこに生活があるんだねぇ、などと思うのですが、なんとなく気が休まらない。建物が立ち並び、そこに人の気配を感じてしまうんでしょうか。人込みが基本的に嫌いな人間としては落ち着かないのです。

新城の場合、猪とかにあったらどうしよう、とか、狐にばかされて肥溜めで体洗ってたらどうしよう、とか別の心配はありましたが、夜、月明かりに照らされながらあるいていると、腹の底から息を吐きながら「ああ、いいなぁー。」などと独り言を言っておったものです。名古屋だと独り言を言おうものなら、人がいないと思っていたところにいたりして変人扱いされてしまう。

そりゃ、血圧も上がるわなぁ、と、妙に納得。

新城にいた3年間だけ、不思議と正常血圧だったのです。これは会社の健康診断の結果が証明してくれています。
確かに最近気が抜けないな、と、思う。

早くリタイアして田舎暮らしがしたいと思った月夜でした。

一粒千円(!)の『寒熟』イチゴ  ~縁起がいいらしいまち新城 作手編4~

2014年06月07日 | 縁起のいいまち新城
 古宮城近くでふと、。
「そういや、このあたりで一粒千円のイチゴを作ってる人がいたよね。」
ことに気づく。

「一粒千円・・・?」
 一箱千円の間違いではない。
 
一粒が千円

 一粒千円のイチゴなんて現物を見たことがない。
 そんなすごいイチゴを作っている場所ならば、宝くじ当たるんじゃないか。

 と、いう思いを抑え切れなくなった我々は、突撃してみることとした。

 商売で真剣にやってる人に迷惑掛かるから難しいかねぇ、と、思いながらも、知り合いのメンバーがいるので交渉すると、なんとOK!
 ファームトヨヒロの塚本さん。

※快諾ありがとうございます!

 栽培しているイチゴに雑菌が入るといけないので、人数を制限して代表がビニールハウスの中で祈るのであれば良い、とのこと。やはり代表は我々の勝利の女神を投入。我々は入口から撮影。

※めっちゃ真剣に祈っています。

 そして、出荷する一粒千円のイチゴを特別に見せてもらいました!


 おおおお!
 こ、これが千円。これ一粒で千円の『寒熟』イチゴ。


 色、ツヤ、ハリ。全てが私達庶民の知っているイチゴと違う!
 白や緑の部分がなく、全てが赤い。そして、その赤さも普通のイチゴの赤さよりも赤い。
 何より実物を見て驚いたのが、そのツヤとハリ。 
 はちきれんばかりのハリと光沢輝くそのツヤは、まさに『宝石』。

 そして、比較対象物がないので解りにくいですが、大きいのです。
 大きさは上記の動画だとよく確認できます。

 特別な品種とかではなく、イチゴを促成栽培ではなく、ゆっくりと熟させることで、この状態にまで仕上げることが可能になるそうです。と、聞けば「ふ~ん」と思いますが、実際には、温度や水の管理の試行錯誤を繰り返されたそうで、一瞬目を離した隙に熟しすぎてイチゴが傷んでしまうとか。包装にも細心の注意を払わないと圧力が掛かった部分が傷んでしまうので、出荷の際の包装にも相当な熟練の技が要るそうです。
 バレンタインやホワイトデーのようなイベント時の需要が盛り上がるときに、いかにうまく熟成のタイミングを合わせるかが難しいそうで、うまくいかないこともあるとか。

 このような事情から量産ができず、希少なものとならざるを得ず一粒千円となるそうです。
 現物を見ながらのお話を聞けば、納得の価格。

 我々素人にはイチゴが最高の状況とかを見極めることなどさっぱりわかりませんが、塚本さんはさすがプロ。
 まさに『職人』でした。

 正直、宝くじ当たらなくても、一粒千円のイチゴの生産現場を垣間見て、現物を見ることができただけでもよかったわぁ、というのが、我々一同の感想でした。

 なお、見学は一般受付しておらず、アポなし突撃訪問には対応していないのでご注意ください。
 また、一粒千円のイチゴは、お店では銀座千疋屋、名古屋弘法屋、新城市内のカネキンでしか購入できないうえ、入荷したら、ということのようなので、売ってるのを見るのもラッキーなようです。

 宝くじ当て、いざ喰わん!と、いうのが我らの結論。

 ところで、一粒千円レベルではないのですが塚本さんのイチゴを、実は一度食べたことがあります。
 当然自分で買うなんて事はできず、出産祝のお返しに頂いたので、私のような貧乏家庭でも口にすることができたのです。
 5歳の娘と2歳の息子は、常ならばイチゴの甘い部分(とがった先端部分)のみを食べて葉のついている酸味の強くなる方を残すという、お大尽的な食べ方をするのですが、このイチゴだけは猛烈な勢いで全てを完食していました。子どもの舌は確実に普通のイチゴとの違いを感じていたようです。
 私自身も食べましたが、経験したことのない甘さに驚きました。酸味がなくイチゴの甘さと美味さのみが口に広がる。なにかお菓子を食べているような感覚になったのを覚えています。しかも、それが一粒全体均等なのが驚きました。
 正直、
「こんなイチゴ喰ったら、これから別のイチゴ食べれんじゃん!」
 と、一家で大騒ぎしたことを覚えています。

 そんなイチゴの生産現場を見ることができる、ということで、私自身、大興奮していたのです。

 その後、鳥居強右衛門勝商様のお墓があるという甘泉寺へ。
 長篠合戦で有名な鳥居強右衛門は、作手出身。長篠城を脱出して作手へ到着。ここで馬を借りて岡崎の徳川家康のところまで向かったのです。たまに、強右衛門が全行程を走った、と、誤解されている方がいますが違います。

 やはり郷土の英雄である以上、ふんどしつけて百間滝に飛び込んだ我々である以上、敬意を表してお参りせねば、と訪れました。

 作手の幹線道路から少し脇に入るので、静かで落ち着いた雰囲気です。


 石段を登ると、立派な石垣が目に入ります。
 この石垣を見るだけでもこの地域の往時の豊かさがわかります。

 そして、山中の静かな佇まいのお寺に強右衛門様の墓がありました。


 そして祈る。


 この静かな感じにそぐわない欲望をぶつけてきましたが、そんな我々の情念をも鎮める甘泉寺。
 強右衛門ファンのみならず訪れることをお勧めします。

 さて、最終結果です。
 残念ながら、今回はジャンボの当選は古宮城の白鳥神社で祈ったものが300円の当選のみとなりました。
 しかし、スクラッチくじは手づくり村の五平餅、亀山城でそれぞれ5,000円の当選と、過去最高を記録。

 スクラッチ5,000円が連発したことで、旅が大盛り上がりになったのは事実です。
 我々としては、作手はやはり宮城谷昌光氏が言う『縁起のいい土地』という感触を得たことから、再度作手の別のポイントに挑戦する意思を固めております。
 
 さぁ、次はサマージャンボだ!

スマートテレビ時代における字幕等の在り方に関する検討会

2014年06月05日 | 日記
たまたま、総務省の「スマートテレビ時代における字幕等の在り方に関する検討会」の「多言語字幕ワーキンググループ」という研究会の資料を目にする機会がありました。

何の感情も持たずにパラパラと見ていたら、突然馴染みがある文字を目にした気がして一瞬「?」となる。
資料を戻して見てみると・・・、

※研究会資料の画像

織田鉄砲隊方式

私の目はこの文字を目ざとく認識したのでした。
「え?え?スマートテレビでなんで?」
と思ってよく読めば、「熟練した技能とチームワークが必要」なので「織田鉄砲隊方式」と呼ばれた、と、日本民間放送連盟の資料に記載されています。

単に鉄砲三段撃ちではなく、熟練した技能とチームワークが必要、なんて、最近の長篠合戦研究を踏まえて命名されてんじゃん!と、嬉しくなる。
まぁ、長篠合戦で鉄砲がさほど使われなかった、などという過激な意見もありますが、号令一下整然と撃つことなど火縄銃の不発発生率や轟音、そして音響設備がない状況ではできない、また、三人が交互と言うよりは、弾込め、射撃、鉄砲交換などを分業して行ったほうが命中率もあがるし現実的、という話が主流。そうした点を踏まえて命名した、誰かが民放の字幕検討者の中にいる、歴史オタクがいるんだ!と、嬉しくなるとともに、それが国の資料として利用されていることにも感動しました。

変な人募集、とか、最近話題の総務省。
資料も変なものが混ざっているようで、目が離せません。

池田恒興の刀『笹の雪』 ~ 美談ではないとおもう・・・ ~

2014年06月03日 | 戦国逸話
久々に甲子夜話などを読んでおりました。
美談として載っている話が、どうにも「そうかねぇ・・・?」というものがありまして。
世の中の判断基準や価値観が変わったから、ということを実感させられる話です。

〇池田勝入斎恒興の刀「笹の雪」(巻69)
 (儒家の)林家の人に聞いた話。このごろ阿部大学の家で集まりがあった際、その家の昔話の話になり、池田勝入斎恒興の持っていた刀といわれる『笹の雪』を見たという。

※池田勝入斎恒興(参照:ウィキペディア)

 この刀がその家に伝わる来歴だが、そもそも笹の雪は、小牧・長久手の戦いで永井伝八郎直勝が池田勝入斎を討った際に分捕って持っていたものである。その永井伝八郎の娘に醜女(ひどい不細工)がいて、歳をとっても結婚できないでいた。阿部大学の先祖がこれを聞き、人を介して永井家のその娘に縁談を申し込んだ。その際、阿部家では引き出物として笹の雪を希望。永井家も承諾してめでたく縁談成立。約束どおり刀は阿部家のものとなった。そして、今まで伝わっているとのこと。
 縁談当時は、まだまだ武が盛んな時代であったようで、百年たった今でも臆病者でも勇気が湧いてくる話だ。愛人を馬と換えるよりは愉快な話で、武人の鑑のようだ、と。

 うーん・・・。
 甲子夜話の作者、松浦静山は刀を重視して不細工を承知で嫁にもらった話を「武夫の鑑たるべきこと也」と手放しで絶賛しています。
 しかしこの話って、フェミニズム研究者達が聞けば卒倒するような内容。現代の我々からすると、美談ではなくて人の弱みにつけこんでるような結構ひどい話のような気がします。むしろ娘を持つ親となった私なぞは、娘の幸せを願って家宝クラスの刀を手放した永井伝八郎の気持ちの方に共感してしまいます。

 似たような話が毛利元就の息子吉川元春にもあります。熊谷信直の娘がブサイクで引き取り手がないのをあえてもらい、武勇に優れた熊谷信直が感動して吉川元春に助力したので吉川は強くなった、というのがあります。
 ただ、実際信直の娘が本当にブサイクだったのか、と、いうのは疑問があるようで、元春はこの嫁を愛しており子どもも沢山いるし側室を持たなかったと、言われています。

 阿部家も子孫が続いていると言うことは、永井の娘と夫婦関係が正常に行われたことが推測されますが、ひょっとすると養子かもしれない。そこまではわからない。

 女性と物の価値を比較した場合、物の方が上になることがありうる時代。
 現代の感覚からはわかりませんが、そういう時代だったんでしょう。

 でも、『ドカベン』の岩鬼が「夏子はん」にベタ惚れだったように、「あばたもえくぼ」と言う諺があるように、実は阿部は永井の娘がどストライクだったのかもしれません。。。