長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

岐部城 ペトロ岐部の故郷 ~中年男4人旅 in 豊後 その1~

2015年09月26日 | 落城戦記
毎年開催される中年男4人の城旅。
今年は豊後。

常ならば飛行機で飛んで、と、なるところなのですが今年は一味ちがう。
神戸からフェリーに乗って豊後入りすることに。当初は関ヶ原で負けた島津を体験しよう、という紀伊守の提案で大阪南港から出港する予定でしたがチケットが取れず、神戸から大分市入りすることに。

時間があったので新幹線を使わずに金山から芦屋まで新快速を乗り継いでの旅。
ちなみに4千円でした。安い。
神戸からは国内フェリー旅行。初めての経験です。


4人一組だと1室を取ることもできる。
船内には大浴場もあって快適。
夜景を見ながら「島津義弘もこの辺りだと、一息ついているあたりかね?」だの「ちょっとでも舟が見えると「敵?!」と、怯えることだろうよ。」と、付近のカップルの振る舞いを遠慮のない視線で眺めるオッサン4人で島津義弘の心境をひとしきり皆で楽しんだ後、ベットに横たわると船の揺れもあって爆睡。
この揺れが慣れない人もいるようですが、私にはちょうど良い揺り籠のよう。
翌朝目が覚めると5時半。ジジィなので眼が覚めるのが最近早い。
折角なので日の出をみようとデッキに。すると、他のメンバーもやってくる。流石同年代。一緒にジジィになりつつあるのがよくわかる。

※日本の夜明けぜよ!と叫びたくなるが、それとはちがう場所へ。

船上でGPSの場所を表示させるとこんな感じに。


この歳になると時間をかける、ということが最高の贅沢に感じます。
さて、大分に上陸して駅までのバスに乗ろうとすると、妻子を騙して参加する佐渡守が気づく。

メガネがない!

妻子を騙した報いか。
聞けば最近買い直したばかりのメガネだそうで、それを無くしたとなると妻の詮索が厳しくなってしまい、奈良の大学のスクーリングに通っているという嘘が破綻してしまう可能性が。
慌てて船内に戻る佐渡守。
幸い見つかりました。

さて、北へ向かうか南へ向かうか。
まずは私が前から見たいと言っていた「ペトロ岐部」関連施設に。

ペトロ岐部とは?

※ペトロ・カスイ・岐部記念公園にある銅像。

戦国時代に歩いてローマまで行き、最後は凄絶な殉教を遂げるキリスト教徒です。
天正15年(1588年)の豊臣秀吉によるキリスト教禁教令が出た年に国東半島に父母がキリスト教徒の産まれます。その後、主君大友吉統が石垣原の戦いで敗れ浪人となった一家は長崎へ行き、有馬で司祭になるべく修行するも弾圧が激しくなり、慶長20年(1615年)にマカオへ渡航。しかし、マカオでは修行が進まないと見た岐部は総本山のローマを目指します。そのため、インドのゴアへ船で向かい、さらにゴアからは一人陸路でローマを目指します。途中エルサレムにも立ち寄ったようです。この辺りの記録がないそうですが、どうにかこうにかでゴアからエルサレムへの横断に成功。エルサレムからは船でローマに向かい、浮浪者のような姿で到着したようです。
そして、遠く日本から途中陸路を使ってエルサレムにも立ち寄りローマまでやってきた無謀な冒険野郎の強烈な情熱にイエズス会も共感したようで、ローマで岐部は修行を積み司祭となります。
しかし、日本での布教の意欲に燃える岐部は、殉教覚悟で帰国。
寛永7年(1630年)7月に日本に到着し、仙台に向かったようです。伊達家は比較的キリスト教に穏やかだったことが理由のようです。が、幕府の禁教令の締め付けが厳しくなり伊達家も取り締まりが強化。密告を奨励したことから岐部も捕らえられ、江戸に送られます。
寛永16年(1638年)に幕府のキリシタン奉行井上筑後守の取り調べが始まりました。

※ペトロ岐部を詮議する井上筑後守の銅像。(記念公園内)

どうも、この井上奉行、極度のサディストのようで、とんでもない拷問を繰り返していたようです。
肉体的だけでなく精神的にも追い詰めるタイプのようで、数々の有名キリシタンを転ばして(転教)させていました。

ペトロ岐部は、まず穴吊るしの刑に処せられます。


まず、逆さに吊るします。すると、頭に血が行き目鼻をふさいでしまい窒息死してしまうので、それでは拷問にならないため耳に穴を開けて血が少し抜けるようにします。そして、首から頭を地中に掘った穴の中に入れ、首だけ入るようにした板を填め込みます。
真っ暗な地中に首だけ入れて、逆さに吊るされることで肉体的だけでなく精神的にも不安で追い詰められるようで、岐部と一緒に穴吊りにされた2人は転びます。
しかし、岐部だけは全く動じず、それどころか残る2人を励ます始末に呆れた井上筑後守は、岐部を穴から引き出し、地面に寝かせた岐部の腹の上に火のついた薪を置くという火あぶりにします。
それでも転ばない岐部は、とうとう腸が体外に出てしまうという凄絶な状況になりながらも棄教せず、そのまま殉教してしまいました。
そして、平成20年(2008年)に、ペトロ岐部はキリスト教の「福者」に列せられました。

ペトロ岐部の話を聞いて、あまりの凄さに「一体、どんな奴なんだ?」という興味だけから、わざわざ名古屋から国東半島の資料館を目指した我々。彼の生まれ故郷は静かな街でした。


ひとりきり資料館の中を見学した後、どうも、資料館の隣の山が城らしいと判明する。
城に情熱があるのが私と佐渡守であるため、2人で向かう。紀伊と珠光は資料館2階の畳の部屋でまったりと待つことに。

どうも、ペトロ岐部は岐部地区の領主の息子のようでして、岐部屋敷とその詰めの城に該当する岐部城がある場所で産まれたようです。

公園として整備されているようで、すでに道も整備されていることから、あまり期待せずに登る佐渡と私。

※この石垣は近年のものだろうと推測。

ところが、ここで我々は驚愕の城郭遺構を発見することになる。


ものすごい堀切が登場!
写真では伝わりづらいもどかしさ。
かなり掘り下げた人工的な堀切に興奮する佐渡と私。思わず
「うぉぉぉぉぉぉ!なんじゃこりゃあああ!」
「スゲー、こりゃスゲー!なんじゃこれぇ!」
と絶叫。

しかも、この堀切が連続して登場するのですよ。


この深さ、そしてこの広さ!
相当な意図を持たねばこんな堀切は作らない。しかもこれが4つくらい連続している。
あきらかに尾根筋を登ってくる敵を遮断するために尾根を人工的に分断しています。虎口的な遺構は確認できませんでしたが、これだけ巨大なものだと、戦国でも末期の時代のものでしょう。大友氏と島津氏の戦いのあたりか、その後の石垣原の戦いで黒田官兵衛の軍勢を迎え撃つための岐部氏の城であれば、時期的にも一致するのではないかと思います。

そして遮断遺構とは反対側には尾根の末端がありますが、ここからは綺麗に海が見えます。
きっと、海上からの敵も想定していたでしょうし、岐部氏自身も水軍的な性格があったかもしれません。

なんにせよ、ペトロ岐部を見られれば、それだけで満足だったにもかかわらず、ものすごい城を見ることができたという、一粒で2度美味しい場所。

その後、近くの道の駅でたこ飯を買って食べましたが、タコが柔らかくて絶品でした。


幸先の良いスタートを切ったこの旅。
報告はまだまだ続きます。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。