長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

ミネルヴァ書房の人々

2015年07月25日 | 日本史
いま、こんな本を読んでいます。


山名宗全。

名前位は聞いたことがある、という方も多いかと。歴史の教科書で応仁の乱西軍の大将としてその名が登場します。

戦国時代を読んでいるうちに、最近、徐々に室町時代に興味がシフトしてきまして、なんだか妙に興味が湧いて読み始めています。

期待にたがわぬ面白さ。
感想はまた別に書きます。

今日は、この本を出しているミネルヴァ書房のシリーズについて。
前々からいろんな歴史上の人物を取り上げているこのシリーズの存在は知っていました。
今回の山名宗全も本屋で見て「マニアックな。」と思って手に取ったのですが、よくよくこのシリーズに出てくる人々を見ると、相当なマニア度が高いことに気がつく。

例えば、

阿倍比羅夫、阿弖流為、平維盛、慈円、足利義詮、満済、細川ガラシャ、三好長慶、和宮、山東京伝、ペリー、永田鉄山、中山みき・・・。

古代から現代まで満遍なく網羅されてますが、教科書ではなく参考書を読み込んで名前がようやく発見されるレベルの人かと。

ちなみに、阿倍比羅夫は蝦夷征伐したけど白村江の戦いで負けた人、阿弖流為は坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の大将、平維盛は平清盛の孫で光源氏並みの美男子だったとか、慈円は愚管抄、足利義詮は室町時代第2代将軍、満済は室町時代のフィクサー、細川ガラシャはキリシタン、三好長慶は一瞬天下人、和宮は公武合体、山東京伝は戯作者、ペリーは黒船、永田鉄山は軍人、中山みきは天理教教祖。

これらの人々を調べて一冊の本にしてしまう人がいるのだ。。。

まして、
九条道家、宗峰妙超、冷泉為恭、海老名弾正、辰野隆、長谷川如是閑、サンソム夫妻とか、
『誰⁉︎』
って、いうレベルの人も目一杯。私が知らないだけで知ってる人いるのかもしれませんが。

でも、これで本一冊書いてる人がいる。
一体、どこでこの人たちを知り、そして興味を覚えて本を書くにまで至ったのか。
その作者の動機と熱意の在り処こそ、むしろ興味を覚えるわ、という感じ。

そして、たまにまとめ売りされてる人達もいる。
藤原四子、平時子と時忠、曾我十郎と五郎、真田氏三代、幸田家の人々、
と、いうのもあります。

このシリーズを全て読んだら、凄いことになるだろうな、と。

侮れないシリーズです。

鳥取城 ~40代からの弾丸一人旅 in 鳥取 その2~

2015年07月21日 | 落城戦記
『日本二ツ之御弓矢境』で城兵を助けるために切腹した吉川経家。


織田、毛利という当時の日本を代表する二大勢力の狭間で、兵糧攻めにより凄惨な状況が現れる中、城兵をよく統率して200日に及ぶ籠城を耐え抜いたという日本史の現場を見てみたい。

と、いう理由で今回の旅の最重点項目となった鳥取城。
太閤ヶ平(たいこうがなる)という秀吉本陣から山伝いに鳥取城を目指します。


道中、秀吉側が築いた土塁があるらしい、のだが、とても確認できるような状況では無い。

結構な険しさの道が続くのと草が生い茂っているので、下手に横道にそれると崖下に転落、あるいは来た道がわからず遭難、と、いうことにもなりかねない。


完全にトレイルランのコース状態。しかも前日までの雨でぬかるんでいるというおまけ付き。
前までならば死にそうになっていたのですが、この時までにダイエットと早朝ランニングを行っていたおかげで、楽勝とまではいかないものの、従来のように必死の形相で道を行く必要が無い。何と言っても、腿の筋力に余裕がある。これはありがたい。
と、言っても、そこは中国自然歩道。容易な道ではありませんでした。


こんなところを甲冑着て合戦するなんて正気の沙汰では無いな、と、実感。
籠城戦と言われる羽柴秀吉による鳥取城攻めですが、自分の移動している尾根筋上では小規模な戦闘が繰り返されていたそうです。

途中、草木が生い茂って『あれ?この道で大丈夫か ?」と、一瞬肝を冷やすような道を鳥取市歴史博物館で入手したパンフレットを頼りに歩き続ける。太閤ヶ平では人とよくすれ違いましたが、この道では誰一人すれ違う人はいない。やってくるとしたら野生動物しかない。熊でも来られたらやなので、鳴り響くのは三河弁。iPadでFM豊橋のスヤンコイトルを大音量で鳴らしながら歩く。藤本さんだのモエモエだののトークを聞きながら歩くのは疲労が減る。しかし、鳥取城で三河弁が聞けるとは便利な世の中になったものじゃ、秀吉もびっくりじゃ、などと独り言を言ってみる。

咳しても一人。

独り言を言っても一人。

気儘な一人旅だから構わない。が、途中で暑いはずなのに一瞬鳥肌が立つ。
空気が変わった感じがする。と、地図で確かめると秀吉陣地内から鳥取城内に入っている。ひょっとして、このあたりに避難してきた住民が
『とりわけ頭味わい宜しきとみえ』
と、いう、例の人の頭を奪い合う光景を秀吉軍に見せてしまったあたりではないか?と、いう思いがチラリと横切る。
どの辺りで繰り広げたかはよくわからないので、私の勝手な思い込みにすぎないのですが、なぜだかヒヤリとする場所があったのは確かです。たまに陰惨な光景があった場所を訪れた際に感じる奴です。

と、そんなこんなで、数十分のことだと思うのですが、ひどく長く感じていると、こんな物が目に飛び込んでくる。


石垣!
中世的な感じを受ける、宮部継潤が作った時代の奴ではないか、などと考える。
ここは、外神砦(十神砦)と呼ばれる場所で、関ヶ原の戦いの時などに亀井琉球守の軍勢を退けたり、山中鹿之介がやはり撃退されたりと、鳥取城を守る上で重要なポイントのようです。

そりゃそうでしょう。

ここに来るまでに尾根を結構上下させられてキッツイところを、急に登っていった先に、城郭機能を作られた日にゃ対応できませんわ、と、息を切らしながら思う。


※こんな虎口が。

しかも、まだ、鳥取城の山上ノ丸には到着していない。
どえらい険しい城だのん、と、三河弁で根を上げてみる。

根を上げても一人。

一人旅はくどくなる。なにせ本厄のおっさんですから。

そこからきつい斜度を登っていくと、とうとう出てきた鳥取城山上ノ丸!


こんな立派な石垣造りの虎口ががお出迎えしてくれれば、こちらの疲労も吹っ飛びます。
ちなみに、この日は朝食を取らずに登っているため、まさに、朝飯前。

要所要所に石垣が使ってある、というところが、なんとなく秀吉時代の城っぽい。
高さがそんなにないのも西国チック。造りそのものは、連郭式で虎口が石垣化されているという感じです。ただ、急斜面なのと足場の良い場所がすくない、ということで、なかなか攻めにくい感じがします。竪堀が縄張図で確認できないのも頷ける。敵が斜面を移動することを想定する必要があまりなく、城の入り口を防御すれば十分かと。石垣化は吉川時代ではなく、その後の宮部時代からその次の池田時代に行われたようです。

そして、三ノ丸、二ノ丸下の道を移動していくと、忽然と現れる立派な石垣!

※興奮するしかない。

こんな石垣をこんな山頂によく作ったな、と。
ちなみに山上ノ丸はこんな感じ。


ここで発見。


やっぱりな、と、思うと同時に、麓に書いておいてくれないと、登って来る途中で遭遇しちゃうじゃん、たまたますれ違う人すれ違う人、皆ラジオ付けてるから、熊がいるだろうと推定できたから良いものの、と、苦笑。

ようやく本丸に到着しますが、あまりの立派さに感動。
吉川時代に石垣があったかどうかはよくわかりませんが、現在目にする石垣は無かろう。
※涙目になるくらい立派な石垣。疲れが吹っ飛ぶ。

感動のあまり「すげー!こりゃすげー!」と大声で叫ぶ。
が、誰もいないと思った本丸にに登ると、人がいた・・・。
恥ずかしい。
今まで誰にも会わなかったのに。。。まぁ、鳥取城だけを登ってきた人がいるのでしょう。

本丸からの眺めは別格。
それまで木々に遮られてよく見えなかったのですが、鳥取市内が一望できます。


残念ながら曇ってよく見えない。
反対側は海もよく見て鳥取砂丘も。


正直、籠城戦の間、羽柴勢にぐるっと囲まれているのも一望できるわけです。
援軍も撃破されたことがあるようですので、絶望に追い込まれていった光景だったのかもしれません。平和な時代に呑気に眺められる幸せ。

天守台もあります。


だいぶ草が生い繁り、石垣が崩れている部分もありますが、宮部時代の石垣を池田氏が拡張した部分が伺えます。

天守台の上も広い。


日の本にかくれなき名山と言われる久松山。
確かにこの上に立てば鳥取平野や日本海が一望できて領主の城としてはぴったりだと思います。

この城で、山名禅高が家臣に追放されて、呼び込まれた吉川経家が切腹したのかと思うと感慨深い。まさに歴史の舞台にやってきた、という、この感動。
一人で名古屋から早朝発で車運転して来ただけのことはある。

戦闘の城から権威の城へと変貌したのも仲々珍しい。
そういう意味では、城としても、歴史の現場としても、二つの意味で楽しめる城です。

そして、いよいよこの過酷なトレイルランも終盤に。
城を下り、麓の近世城郭としての鳥取城を見学に向かう。


下りは膝に来る。
グルコサミンを膝にぶち込んでやりたい、と、思いながら、若干痛みがではじめた右膝をいたわりながら下る。

ようよう降ってくると、これがまた、なかなかの城。


完全に江戸時代の殿様の城、という感じです。
姫路を追い出されてなんだかんだで鳥取にやってきた池田氏。

もちろん祖先は小牧長久手の戦いで首を取られた池田勝入斎恒興。
一番驚いたのが、天球丸と呼ばれる郭の石垣。


何これ!

石垣が異常増殖してしまったかのような、この尋常ならざる石垣。
更にドン。


この石垣があるから天球丸と名付けられたのか、と、思ったら、さにあらず。
天球院という池田光政の伯母がいたからだそうです。その後の、この石垣が崩落しそうになり、積み直すと金がかかるからか、巻石垣と呼ばれるもので江戸時代の河川の制水施設や護岸に用いられる技術を使ったものだそうです。同時期に主要な場所は解体工事を行い、石垣を積み直していることから、安価に石垣の安定を図ったものと考えられているそうです。
ちなみに、この石垣は平成23年度、24年度の2ヶ年で復元をされたものだそうです。

山上の天守が落雷で消失したのちは、麓の三階櫓が天守に代わる象徴となったそうです。
残念ながら現在はありませんが、山陰初の層塔型の櫓だったそうです。

※現地案内看板より

全体を引きでみるとこんな感じ。


この、城と山が一体化した感じのお城って素敵。
平野部かつ徳川系の城が多い地域の人間としては、最期に抵抗するための拠点が政庁機能と一体化している城を見る機会が少ないのです。

外様大名系の城に行くと、毛利の指月城もそうですが、詰めの城と殿様が暮らす城と一体化したものを見ることがあり、違いを感じます。
なんていうんでしょうか、自分の暮らす地域と違う文化の場所に来た感が強く感じられます。

と、いう感じで鳥取城を堪能して太閤ヶ平から2時間半の道程。麓のボランティアガイドさんと話をすると、3時間位はかかるので早いねぇ、と、言われる。これもトレランの成果か。

この後、鳥取城に補給を入れようとする毛利軍を封鎖していた場所でもある鳥取砂丘を見学。


スタバは無いけど砂場はある、と、知事が言っただけのことはある。
めちゃくちゃでかい砂浜、という感じです。


今じゃスタバもあるようです。
と、ここまで来て時間が中途半端にあまる。さて、どうしたものか、と、悩んで地図をながめていると、城崎温泉が近いことに気がつく。

あの、ネズミが串刺しで川を泳がされるシーンが頭に焼き付いてしまっている城崎温泉に泊まりたい、と、おもってネットで検索すると、まぁまぁ安い宿が見つかる。午後4時に確保して泊まったりました。

夜、11時位に城崎温泉レポートをブログにアップして寝た後、隣の部屋から怪しげな声が。
ふーむ。
こうした温泉に旅館だと、このような経験をすることになるのか。子連れの旅の場合は、気をつけないといけないな、などと、考えながら、それをBGMにしながら就寝する。

一人旅は、人が多いところに泊まるものではないな、昨年の弾丸四国は車中泊だったからこのような寂しさを感じずに済んだのか、と、気づいた夜でした。

ビブリオバトル参戦

2015年07月18日 | 奥三河
新城の農家レストラン「はちどり」でビブリオバトルが開催される、という連絡がフェイスブックで告知され、招待通知が来る。

ビブリオ?

最初に頭に浮かんだことは、クリオネみたいな生物。

※画像出典;Wikipedia

腸内細菌みたいな名前だな、と、思いながらも、昔、剛力彩芽主演のビブリオなんたら堂とかいうドラマがあったので本関係のものなんだろう、という想像はつく。

で、読んでみると、どうやら書評バトルのようなものらしい。

これは。。。

出てみたい。

と、思う。

ジャンルに偏りはあると思うが比較的本好きだと思う方ですし、こうした文科系のお遊びイベントって中々ないので、これは面白いという興味が非常に湧いてくる。
まして、投票者でなく、発表者も募集していたので、これに参加できるとなれば中々無いチャンス、と、思うと、常なら妻に遠慮してこうしたイベントのお誘いをスルーしている身ですが、今回ばかりは妻に

「これ、出たいのですが。」

と、結構な有無を言わさぬモードで話を進める。
この後、高い代償を払うことになっても。

いよいよ開催が明日というか本日に迫ってまいりました。
発表者にエントリーしたものの、では、どうやってやるのかも全くわからず、とりあえず一昨日くらいにやり方のホームページを見てある程度の組み立て方を知る。
そして、会社帰りに歩きながら自分なりの組み立てを行う。

私、歩いていると知らぬ間に考えていることを口に出してしまうことがあるので、ブツブツ言いながら歩くヤバイ人になりながらも、ある程度の組み立ては完成。
後は、時間内に収めるだけ。

ストップウォッチを見ながら家で独り言を言ってみると、若干時間がオーバーする。

あまり早口でもわかってもらえない。
もう少し削る必要があるな、などと、考えて、少し組み立てをいじってみる。

などと、やっているとこんな時間。
果たしてどうなることやら。
無事にできるのだろうか。

何にせよ初参加、初挑戦。

楽しんでまいります。

城好きがこじれ過ぎ ~友人佐渡守のこと~

2015年07月14日 | 
城好きがこじれ気味
と、いうのは、私が奥三河の同人誌的フリーペーパーのんほいタウンに連載しているタイトル。


※最新号でてます!モエモエさんと新城警察署の皆さんが表紙。インパクトある。

よく、
「こじれ気味、と、言ってるけど、十分にこじれてるよね。この人」
と、いう御意見をいただきます。

何をおっしゃる。
私などこじれ気味と名乗るもおこがましい。

真のこじれとは、このような人のことを言うのです。
それは、友人の佐渡守。

我ら城仲間は互いを受領名で呼びます。勿論僭称。
(訳すと、私の城好きが仲間は、あだ名を中世の武将のように「◯◯守」という名前につけています。もちろん勝手に名乗っているだけで、天皇から正式に任命された訳ではない。)

本日、昼に仕事をしているとメールが届く。
友人が少ない私にメールとは面妖な、と、思うと、数少ない友人の佐渡守から。

『休んで来てしまいました。』
とのこと。

「?」と思っていると2通目。
そこには白亜の姫路城が。。。

我々城仲間で年1回開催される遠征。この際、常に家族に嘘をつき、毎回騙して参加する佐渡守が、とうとう、仕事へ出て行くふりをして、そのまま新幹線に乗って単独で姫路城へ見学に来てしまった、と、いうことが判明。

もちろん、スーツに革靴で…。

とうとうやってしまったか、と、いう思いと、なんだ、その手があったか、という思いが交錯する。
と、考えているとメールが。

『今日100万人達成したそうな。よかった、ジャストの人にならないで。取材も来ていて妻バレするところだった。』(原文ママ)
という文書と以下の写真。


惜しい!
毎回家族にバレてしまえば面白いのに、と、思うが、すんでのところでバレずに済んでいる佐渡守。無念、と、思っているとメールが。

『庭園は畳でゴローンできるとこではなかったので疲れを癒しきれないが行くべきところは行った、見るべきものは見つ!
これで帰っても普段より早い帰りなので家庭的にもウインウインなんだな』(原文ママ)

うーむ。
民は依らしむべし、知らしむべからず、という徳川幕府の方針を彷彿とさせるような佐渡の悪行。さすがは佐渡守を名乗ることだけあり、本多佐渡守正信並みの悪知恵じゃ。
と、感心。

彼こそ
『城好きがこじれ過ぎ』
の称号が相応しい。

太閤ヶ平(たいこうがなる) ~40代の弾丸山陰一人旅 その1~

2015年07月12日 | 落城戦記
中世の城攻めでは、一ヶ月くらい籠城して応援がこない場合、降伏するパターンが多かったようです。そんな中、200日も籠城し、食料不足から凄惨な状況となった日本戦史上有名な戦いがあります。

鳥取城です。


攻めるは羽柴秀吉。守るは吉川経家(きっかわつねいえ)。

※吉川経家銅像と鳥取城のある久松山。

何と言ってもこの城、籠城の描写が残されており、あまりの飢餓状態から食人の話が残されています。柵際で助けてくれと叫ぶものの鉄砲で撃たれ、倒れた人を周りの人たちが寄ってたかって解体して奪い合い、「とりわけ頭(こうべ)あじわいよろしきとみえ…」と味が良いらしい頭部を奪い合う様が伝承されています。

こんな凄惨な戦いでしたが、のちに秀吉は
「三木の干し殺し、鳥取の飢え殺し」と呼んで、快心の戦いと思っていたようです。

恐ろしい。
が、その現場を一度見てみたい。

と、いうのが長年の願いでした。

厳密に言えば、鳥取城主は山名豊国(後の禅高)だったのですが、毛利氏に差し出していた人質を置いていた城が秀吉によって落城させられ、人質が織田方の手に落ちます。その人質を交渉カードに秀吉は山名の降伏を迫り、豊国は降伏。鳥取城は織田方になるのですが、殿の山名はともかく、重臣は納得していなかったようで山名豊国を追放。
豊国に代わる城将を毛利氏に要求して、やってきたのが吉川経家です。

しかし、吉川経家が来てみると大変な事態が。

前の年の秀吉との戦いで田畑が荒らされたことで、この地方は凶作に見舞われ、羽柴軍も兵糧が少ない状況だったようです。

それでも雪が降るまで頑張れば羽柴も退却せざるを得ないと思ったようですが、羽柴軍は厳重な包囲網を敷き、なおかつ、鳥取城と毛利の間の南条氏の頑強な抵抗で援軍も送れず、鳥取城は孤立。
「とりわけ」の事態が発生したようです。それでも200日の籠城に耐えた吉川ですが、最後は自分の命と引き換えに城内に籠る人々の命を助けようとします。

この時に経家が子供達にあてた手紙が残っておりますが、もう、同じ年頃と思われる子供を持つ親としては涙なしには読めません。(年取って涙脆くなってます。)

と、いう状況の鳥取城攻め。
どんなところで行われたのか、実に興味深い。

まずは、包囲した羽柴方の陣地へ。


麓の東照宮から登り始めます。
舗装した道が続くので楽。朝の10時に登り始めましたが、朝の散歩帰りと思われる人達と大量にすれ違いました。道が整備されているので急傾斜もなく、ちょうど負荷をかけるには良い感じ。


雨上がりで程よい涼しさ。こちらも気分良く登っていると、ふと、気づく。
やたらとラジオを鳴らしている人が多い。

よく年配の方がラジオをイヤホンではなくて音が出る状態で散歩していることが多く、いつものそれだろう、と、おもっていたのですが、その率がやたら高い。不思議に思っていると、思い当たる。

「ひょっとして、熊が出るのでは?」

一人旅。
熊に襲われ、虚しく屍を因幡の地に晒すことになっても誰も発見してもらえない。

ちょうど一人で退屈もするので、わしも何か鳴らそうと思いiPadをみると、FM豊橋のアプリが。
おお、モエモエさんの「スヤンコイトル」始まってるじゃん、と、いうことで、因幡の地に、どすごい三河弁を鳴り響かせながら登山することに。

結果的にこの判断は正しかったようで、鳥取城に到着した際、熊に注意の看板を発見。


しかし、登る前に教えてくれよ、と、看板を発見した際は苦笑。

そんなこんなで藤本さんの「ヨロシクぼた話」が始まり、私の名前などが出てイジられている。ので、因幡からコメントを送ってみたら読まれました。偉大なりネット。

最近、トレランに出てからというもの、走ったりしているので従来になく山道が楽。
いっそ、走ってやろうか、と、思いましたが体力は温存するに越したことはないのでやめておく。

30分程度の散歩ののち、忽然と現れた秀吉本陣。

※「太閤ヶ平」と書いて「たいこうがなる」と読む。

この時期、信長配下武将の秀吉なので太閤では当然ない。後に太閤となることから名付けられたようです。そして、この陣城。ただの陣城ではなく、相当すごい、という情報は予め入手しており、今回の旅のメインのひとつでした。

そして、期待にたがわぬ凄さ!

※地形を活かした土の城はやっぱり良いですねぇ!

虎口から侵入。


土塁の高さと堀の深さに驚くとともに、当時、まだ一部将にすぎない秀吉なのにこの大きさ。当時の織田軍の規模の大きさがよくわかる。城を見た後に鳥取城のボランティアガイドの方にお話をお聞きしたのですが、一説によれば、越前攻略を信長に命令されながら柴田勝家と不和になり戦線を無断離脱。信長の不興を買っている状況で必死にアピールする必要があり、死に物狂いで山陰攻略を行っており、鳥取城攻めで毛利との決戦を想定して信長が出馬してきても大丈夫なように作った可能性もあるそうです。


※広い!写真だとわかりにくいですが。。。

四角形に近く、鳥取城方面には櫓台が設置されていた模様。

ちゃんと鳥取城も見えます。近年、見えるように伐採したそうです。

※実験では太鼓の音なども聞こえたそうです。

一箇所、隅が突出し、なぜかその中に土の高低があって歩きにくくしている場所がある。ただ単に自然地形を利用した突出部にしては工夫が多く、何の施設か謎でした。その他、色々と写真を撮ったのですが、なにぶん木々が生い茂っているのと写真では高低差がでにくいのでわかりにくいかも。






中々の規模と工夫。
秀吉の陣城というともう少し虎口を迂回させるような複雑さが特徴な気がしますが、これはどーんと構えて結構な大軍を収容するもののように見えます。信長を呼ぼうとした、という話もうなづける。
まぁ、鳥取城に対して威圧するとなると、できるかぎり軍勢を見せる必要があったでしょうから、人数が集まって敵からわかりやすくするために大きく場所をとったとも考えられます。

長篠の合戦からしばらく経って、東国の不安が消え織田の勢力が巨大化しつつあることが、東三河の諸城と比較して思ったことです。

続いて悲劇の場所、鳥取城は次回に。

40代からの弾丸一人旅 2015 in 因幡、但馬 その1 ~ なぜ40代から弾丸一人旅か~

2015年07月10日 | 
日本各地の名城をいつか見てやろう、見てやろう、と、思っていたら、はや41年。

※天空の城で名高い竹田城

「まぁ、そのうちに。」

と、のんびり構えていたのですが、最近不安になる。
『本当に行けるのだろうか。』
と。

本厄。
実際、自分の行きたい城は、かなりな山の上にあることが多い。道無き道を行くこともある。

定年後に果たして体力が残っているのか。
これから病気とかしやすくなる。親の介護とかの問題も出てくるかもしれない。

と、考えたら案外自分に残された時間は少ないのではないか。

そういう不安に突き動かされ、今までは金がかかるから、疲れが残るから、と、諦めていた遠方の城を落城させることを始める。しかし、金もなければ時間もない。

申し合わせて友人と行く旅は面白いが、幼児がいては長期間の旅行は家族に申し訳ない。
そこで、エアポケットのように突然訪れる自由時間を最大限活かすために、弾丸一人旅を開始したのが昨年。

昨年は、車中泊で一人で0泊2日1,000キロを運転しての四国城攻め。
今年は、旅館宿泊という豪華さをプラスしての1泊2日800キロを運転しての山陰遠征。

鳥取城と太閤ヶ平、竹田城という山城ツアーをやってみて、これは歳食ったらキツイは、と実感。この歳でやっておいて良かった、と、しみじみ思う。やっぱり攻めにくい場所も、身を守るために高低差を利用している城というのは、当然のことながら登るのは骨。
20代からこの弾丸一人旅をやっていれば、と一瞬後悔しますが、定年後に「あと20年早く始めていれば。」と後悔しなくて済むようにやってるから、まぁ、良いかと思ったりする。

さて、こうした城を訪れる楽しみの一つに

地元ならではの資料を買い漁る。

と、いうことがあります。


地元に行くと、コンパクトかつディープ、しかしリーズナブル、という本が出ていることが多く、これらを帰宅後に読むことで知識が深まります。
本当は行く前に読めると良いのですが、行く前には入手しずらいですから仕方ない。もともと予習はせず、復習をするタイプだったので、こうしたスタイルが自分にはあっているのでしょう。

こうした資料を入手するのは地元の資料館へ行くのが一番。

※鳥取市博物館

無料の案内パンフレットも充実してるので、それで現地を攻め、その後資料を買う。
こうしたスタイルも数々の城を攻める中で確立されてきた手法です。

ところでこうした資料は、現地以外では希少価値が出るため、東京や名古屋の古書店を覗いて遭遇すると、とんでもない高値が付いています。まぁ、旅費を考えれば安いのですが、一冊500円の資料が2千円位になっている、というのが経験則です。

売る気はないので、そのまま備蓄に励んでおります。
現在、鳥取城攻防戦を読みこんでおります。この復習が終わり次第、ブログ記事化されることになりますので、今しばらくお待ちを。

城崎にて ~ 40代の弾丸一人旅 今年は鳥取城を攻略

2015年07月04日 | 日記
鳥取城の飢え殺し。
羽柴秀吉によって包囲された吉川経家以下の籠城兵は餓死者が大量にでて、人肉を食べるという極限状態にまで追い込まれたと言われています。

しかし、よく羽柴軍を防ぎ200日も籠城した鳥取城の戦いはどうしても見たい。

と、いうわけで、妻子の不在を捕まえて、今年もやったりました。

弾丸一人旅。



城の話はまた後日に詳しく。
現在、城崎温泉に泊まって書いております。
まるで文豪のようだ。。。

今年は7月なので流石に車中泊ができないと判断。
どこか泊まるところを、と、探していたら城崎温泉の文字が目に入る。

ああ、あの号泣県議の。

と、いうより、やはり自分としては志賀直哉の「城の崎にて」が一番です。
子供ながらに生と死の対比、死を身近に感じている状態でアンテナ感度が高い人目線で次々と訪れる状況を捉えていく様は、不思議と心に入ってきたことを覚えています、

そんな城崎温泉。

※ こ、この川でネズミが串刺しに?

ある意味聖地だったんです。
ネットで旅館の空きを調べると結構安く泊まれる。
貧乏旅行をせざるを得ない状況ですが、ここはひとつ奮発してみることに。

城崎温泉は外湯を保全するため、内湯の大きさに規制があるそうです。そして、外湯をめぐるチケットが宿泊料金に含まれている。

ので、温泉好きとして、全てを回ってきました。
せっかくですので、その感想を。


御所の湯。
大浴場と滝の見える露天風呂でした。綺麗で大きい。一番格式が高い感じです。そして、人も一杯います。1番人気な感じです。パンフでは美人の湯とされています。


一の湯。
ここも大きくて中心的な場所にあるので人気でした。洞窟風呂なる岩が覆う形の風呂もあります。いい感じした。パンフでは開運.招福の湯だそうです。もう一回入ってくるか。


柳の湯。
1番小さくて、そして熱湯風呂です。ザ・外湯、という感じです。でも、大変新しくて綺麗です。女湯から出てきた人が連れ合いに「激混みだった。」と怒りをぶちまけてましたが、男性は空いてました。ぱんふでは子授けの湯だそうです。私はこれ以上授かると金が。。。


地蔵湯。
文字通り、お地蔵さんがいました。打たせ湯とかジェット湯などの変わり種もあります。外湯というより普通の銭湯に近いです。パンフでは衆生救いの湯だそうです。入るとなんか悩みを救ってくれるのでしょう。


さとの湯。
駅のすぐ横。駐車場も大きく、立ち寄り湯的に使えます。ここはサウナもあるんですが、びっくりしたのが冷温サウナがあったこと。部屋の中が0度。さぶいけど面白かったです。展望風呂やジャグジーなどもあって、外湯というより、立派なスーパー銭湯というべきか。若干施設は古いです。
パンフではふれあいの湯とされてます。鉄道で来る人はここが入りやすいのでしょう。


鴻の湯。
駅から最も遠く、温泉寺の前。すこし中心街からは遠いです。歩いて行くと結構大変かも。
露天風呂と内湯で、少し古め。ここも駐車場が多いので立ち寄り湯的に使いやすいかと。パンフではしあわせを招く湯だそうです。


まんだらの湯。
桶風呂の露天風呂と内湯。新しい作りです。御所の湯と鴻の湯の中間です。中心となる道から一本控えているのでわかりにくいかも。パンフによると一生一願の湯だそうです。

さすがに、全ての外湯に入るのは湯に浸かるのも体力を使う上、結構歩くので一人旅だからこそやれた、という感じがします。笑。
いずれも肌がすべすべになる泉質です。湯は無色透明。結構熱めですが、沸かしていると思われます。

ちなみに、それぞれ600円とか800円とかかかりますが、1200円で共通券が買えます。

全てを入った後、内湯に浸かりましたが、ここで体力を使い果たしても良いので、ゆっくり入れました。外湯にお客さんがいっちゃうので、貸切で入れて意外と良かったです。

さて、ここで泊まって、明日は竹田城に行きたいのですが、雨模様の様子。
どうしたものか。。。

妻子の不在

2015年07月02日 | 日記
金曜の夜から妻子が妻実家に帰省することが決定。
日曜日には妻実家に迎えに行く必要があります。

金曜の夜には残念ながら予定があるのですが、

『土曜早朝から日曜の昼間では自由』

と、いうことに。

ふむ。
このシチュエーションは記憶がある。
そして、一年前は、弾丸四国一人旅をやった記憶がある。

まぁ、土曜の朝に起きれるか。それが勝負の分かれ道。
4時に起きることができなければおとなしくダイエットに励もう。(最近、走りすぎで尻に神経痛のような症状が出てしまい、休んでました。)

しかし、もし、4時台か5時台にスッキリと目が覚めることができたならば。


今回は鳥取城の飢え殺しでも一人で見に行こうかと思います。
かつ江さんに会えるといいなぁ。

しかし、鳥取も遠い。どうなることやら・・・。
車中泊できない季節だし。ネットで当日取れるところで寝るしかなさそうです。

厄年一人旅。
果たして実行されるでしょうか?