長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

城攻めスタンプラリー in 奥三河。論功行賞。

2012年03月31日 | 奥三河
 奥三河七名城を巡るデジタルスタンプラリーの七城陥落者のみに与えられる名誉の品々が飛脚により届けられました!

 私には馬場美濃守信房様からの感状と、田峯城の縄張が描かれた手拭が届きました。感状も大変立派な装丁と厚紙による保護があり、この感状が平成二十四年度の設楽原歴史資料館と長篠城址保存館の年間無料通行手形となるそうです。まぁ、ちょっとかさばりますけど、これをもっていれば両館とも入り放題と言うことだそうです。これで友人などをいろいろと案内をする際に自腹を切らずとも入館できる。ありがたし。
 縄張手拭は素晴らしい出来具合。


 なかなか等高線というものを図案化してもスタイリッシュにはならないのですが、大変綺麗にまとめられています。ちなみにこの縄張図を描かれた高橋楠城氏とは三河城郭史談会会長高橋延年氏のこと。こないだ日本城郭体系を読み返しておりましたら、愛知県部分は氏が書かれていることを発見。知らぬこと自体失礼でしたが、改めて氏のすごさを実感した次第であります。
 本当は古宮城の手拭が欲しかったのですが、田峯城でした。田峯城は自然地形を活かした丸い郭の連続した城だけに、いい感じに仕上がっています。家の壁にでも飾ろうと思っています。
 しかし、この手拭いいですよね。集めたくなる。
 どこかで売ってくれないものか。

大島城

2012年03月29日 | 落城戦記
 3月10日の夜のちょっとした会合で話題が丸馬出に及びました。その際、高橋延年氏から素晴らしい丸馬出がある城がある。とお聞きし、どうしても見たくなったのが3月25日の城旅の動機です。途中で上野南本城だの松岡城だのとんでもない物件に遭遇し危うく『遭難』しかかりましたが、何とかたどり着きました。
 この大島城、期待にたがわぬ名城です。現在、城は丸ごと「台城公園」という公園になっています。

○大島城
 大島城跡は松川町南端の古町地籍に所在しています。城跡の西側一帯は大嶋町と呼ばれた往時の城下町である古町の平坦面に続き、北から南、西の方向は天竜川に面した段丘崖で、特に北から東側は天竜川の激流が裾を洗う断崖絶壁となり、眺望にすぐれた天然の要害の地に城が構えられていることが知られます。
 大嶋城跡は東西360m、南北225m程の範囲で、規模の大きな複雑な空堀によって区画された郭は大きく三つに分けられ、西より三の丸、二の丸、本丸と続き、馬出・井戸曲輪をはじめとする小曲輪を各所に配置しています。大島城は旧記によれば「台城」「大蛇ヶ城」「猿ヶ鼻城」の呼び名があり、一般的には「台城」あるいは「台城の城」と呼ばれて古くよりこの地方の人々に親しまれてきました。しかし、こうしあた呼び名は城にまつわる伝説からきたもので、往時は「大島の城」と呼ばれていたものとみられます。(参考 『大島城跡』発行:松川町教育委員会)
 大島城の縄張について『大島城跡』の説明を要約しますと、元亀2年(1571)に秋山伯耆守信友(虎繁)が大規模な修復を行い、高遠城・飯田城とともに伊那郡経略の拠点となったそうです。城普請の際の文書が残っているそうでして、下伊那二十一郷の百姓が人足として徴用されたとか。結果的にこれだけ迫力のある城でありながら、天正10年(1582)には織田氏の伊那郡侵攻により戦わずして自焼陥落。この時の城番は武田逍遥軒信廉。(以上参照『大島城跡』)
 この後、高遠城で仁科五郎盛信が抵抗らしい抵抗をみせますが、武田家は一気に崩壊し天目山麓で武田勝頼一行が無念の自刃を遂げ滅亡します。

 さて、この大島城、公園に入る入口から、もうすごい。
 車を運転しながら「すげーーーーー!」と一人で絶叫しました。だって、いきなりこの三日月堀ですよ。

 で、たぶん堀を埋めて作ったと思われる駐車場に車を止め、三日月堀を堀底まで降りて堪能した後、城内へ侵入。

 いきなり右手に巨大な丸い土塁上のものが現れ「馬出」とか言ってる。なぜここに?と思ったのですが、縄張図を見て疑問氷解。
 現地は公園化されてわかりにくいですが、縄張図をみると、本来は先ほどの三日月堀から現在民家となっている丸馬出を経て三の丸に入り、二の丸へ渡るのが正解のようです。その場合、三の丸・二の丸間の連絡通路を防御しつつ、本丸近くにある井戸を防御する役割がこの馬出だと思います。この馬出から塹壕状の土塁が複雑に走っており迷路状になっています。こりゃあ攻め込んだら迷う。

 右手に折れて三の丸へ侵入。二の丸との間の堀がこれ。

 弧を描きながらの大規模な堀に萌えない城ヲタはいない。
 そして本来の入口であった付近へ向かうと、現在は人家が立っており中は拝見できず。でも、三日月堀に守られた丸馬出から土橋でつながる三の丸の入口には両袖枡形があったらしいのです。写真のまきが置いてあるあたりが枡形内部。私が写真撮影をするために立っている高台が枡形の土塁です。

三日月堀→丸馬出→両袖枡形。見事な武田流築城術三連コンポにやられてしまいます。
 そして三の丸をぐるりと回って二の丸へ向かい、脇にあるなんや訳のわからないうねうねした感じの堀にいちいち絶叫しながら本丸へ。とにかく土木量が半端ない。この本丸と二の丸の間の広いこと!

 そして本丸内部。広い!

 木が無ければ天竜川が一望できます。とにかく奥三河と比較して思うのが曲輪がでかいこと。相当な兵力を駐留させることができたでしょう。
 忘れてならないのが井戸。井戸そのものもすごいが、井戸自体が曲輪になっており必見です!

 ちなみに「堀底の井戸」も武田流築城術の一つ。天水だまりの場合が多いそうですが、天竜川沿いだから掘れば沸いたかもしれません。井戸内部は石組みで、現在も残っています。そして、この井戸は土塁で周囲を囲い見えなくしています。井戸へ入る虎口には天然石を活かして狭くしてあり、もうこの用心深さには脱帽です。

 こんな城落とせるんか!?と、突っ込みたくなりますが、実際、落ちている訳です・・・。すごい造形の割りに、自焼陥落という運命を辿ったのは奥三河の古宮城と同じ。

 まさに「人は城、人は石垣、人は堀」なんですね。どんなに立派に作っても守る人がいなければ駄目な訳です。
 もっとも、武田信玄は本当にこの言葉を言ったらしい訳ではないですけど。

 造形がすごいだけに、その末路に一抹の悲しさを感じます。
 もののあはれ。

松岡城

2012年03月27日 | 落城戦記
上野南本城から大島城へ向かう途中に砦を陥落させる。
○大下砦

フルーツラインなる道を作るときに壊してしまったのでしょう。跡地に看板が立っていました。松岡城の砦としての役割を果たしていたようです。この砦も台地の先端に位置して大変見通しが利きます。

で、そのまま大島城へGO! と、思ったのですが、途中で立派な看板に目が止まる。「松岡城」と書いてある。何の気なしに立ち寄ったのですが、これがびっくり大当たり。

※『松岡城跡』(松岡城址愛護会発行)記載の松岡城・松岡南城跡鳥瞰図(宮坂武雄氏作)このパンフレットは城入口に置かれており無料配布されています。松岡城が詳しく、かつ、わかりやすく解説されており、城に対する愛が感じられます。素晴らしい。
まずは松岡城の概略をまたまた『南信州の山城』様の助けを頂いて。
松岡城
北側を間ヶ沢、南側を新井沢で開析された段丘上に位置する。松岡氏一族の築城と伝えられ、主郭・二の郭~五の郭からなる連郭式の城である。築城時期は定かではないが、室町時代前期(14世紀代)ともいわれ、1400(応永7)年の大塔合戦、1440(永享12)年の結城合戦には小笠原氏の有力武将として参戦している。1588(天正16)年頃徳川氏により改易され、廃城となった。1990年に公園整備に先立ち主郭を中心に試掘調査が、町道改良工事で五の郭「五の堀」調査が実施された。高森町史跡指定。(南信州山城マップ『南信州の山城』説明文。発行元:飯田市美術博物館、飯田市上郷考古博物館)

この城、串に刺さった団子のように5つの郭が並んでいます。と、いうより、堀切+竪堀のセットで台地を大規模に削って連郭式の城にしたといった方がわかりやすいかも。

ただ、各郭間に高低差がなくズドンと見渡せる状況となっています。

そのため、堀切は広く深く箱型です。現在、柴で綺麗に整備されており、大変見やすい状態になっています。きっとパンフを作った松岡城址愛護会を始めとする地域の方々によるものでしょう。大変ありがたいです。

そして、この城が何よりすごいのが、城好きでなくても感動してしまうこの光景。

飯田市が一望できます。この城の城主は、きっと気持ちが良かったでしょうね。

※落城記念に城址碑を撮影。
本丸下の帯郭などに武田の影響が感じられます。

上の写真を下で見るとこんな感じ。

攻め手としては写真右の見切れている上方の主郭から攻撃されるのは勿論の事、左側から何が出てくるかわかったものではない。武者隠し的な使われ方も想定されます。
この写真の更にしたから主郭を見上げるとこんな感じ。

時間の関係でこれより台地を下ったところにあると思しき畝状竪堀群や近くの支城松岡南城までは見られませんでした。残念。
しかし、とにかく広い。
台地の先端を利用した連郭式の城は、奥三河ではすぐに野田城が思い浮かびます。が、あれは三連。また、一つ一つの郭も小さい。そういう意味では、武田氏が野田城を見て一ひねり、と、考えてもおかしくはありません。これだけ広い城ともなれば、相当な経済力が予想されますが、松岡氏の軍役は『松岡城跡』パンフによれば50騎。たぶん、甲陽軍鑑の品十七を参考にしていると思われます。ちなみに作手領主奥平氏は150騎。動員数は新参者に厳しめだったにしても、この城の大きさの違いを考えると、一体、松岡氏の経済力はどうなっていたのか不思議でしょうがない。どうも、小牧・長久手の戦いの影響を受けている〔天正13年(1585年)に松本の小笠原貞慶は徳川から豊臣に寝返り、徳川方の保科氏の高遠城を攻め、その際に松岡城主松岡右衛門佐貞利も裏切っている。それがために天正16年に松岡氏は改易されてしまいます。〈『松岡城跡』参照〉〕ようなので、その時に手が入った?それとも武田が松岡氏の城を大拡張したのか。
ちなみに、この城には町道を作るときの発掘調査結果なのか、『松岡城跡』の図面には台地と城の間に三日月堀があったとされています。と、いうことは、丸馬出があったことも考えられます。
三河城郭史談会の高橋延年氏によると丸馬出は台地に築かれた城の台地付け根部分に作ることが多いので、武田流のセオリーどおりといえばそうなる。
気になったのでネットで軽く調べて見ると、松岡城の最終形態製作者については、武田氏、武田氏の作った大島城を松岡氏がまねた、もともと松岡氏が作っていた、と、諸説が別れており、丸馬出など私と同じような感想を抱いているのが面白い。やはり皆気になりながらも史料が無いのか決定できないようです。
私的には武田の影響を感じます。しかし、これだけの城を作り、維持する経済力を松岡氏独自で持っていたのか?ここが不思議です。見える距離に上野南本城・北本城があり、松岡城も武田が維持したとなると、なんか不経済な気がします。もっとも、上野両城を一体運用した場合、松岡城を遥かに凌駕する規模になりますので、松岡氏の単独の城と考えた方がすっきりします。
奥三河で言えば作手の武田方が築いた大規模な古宮城と目と鼻の先に地元領主奥平氏の亀山城があり、亀山城も本丸両端に馬出機能を備えるなど、武田の影響を受けた造りとなっており、類似性を感じます。

うーん、昨日の上野南・北本城のときと同じで、奥三河と比較してみるとなかなか面白いぞ。一度じっくりと腰をすえて調べてみたい城です。

上野南本城・上野北本城

2012年03月26日 | 落城戦記
上野南本城は、驚愕の城でした。

※現地案内看板の縄張図

上野南本城跡(飯田市史跡)
天竜川右岸の段丘先端に立地し、北側は並木沢を挟んで上野北本城に対面し、南側は西の沢川に画される。尾根の枝分かれする部分に主郭が、そして三方に小規模な郭や帯郭が複雑に配された連郭式の城である。上野北本城が居住的な性格が強いのに対し、上野南本城は防御専一の城で、上野北本城跡との間に城郭施設が発見されつつあり、一体的な城として捉えられる。築造時期等詳細は不明であるが、16世紀初めの陶磁器が確認されている。大規模かつ縄張が複雑な城で、保存状態が良好である。(以上の説明は『南信州山城マップ 南信州の山城』(飯田市美術博物館・飯田市上郷考古博物館発行記載のもの)

とにかく巨大、とにかく丸い、とにかく複雑、とにかく迷路。とにかくマニアック。
嗚呼、どうして武田が作る城は、かくも美しいのか!
城好きならば絶叫せざるをえません。(実際私は叫びました。人がいなくて良かった。)城好きじゃない人でもとりあえず手軽なハイキングにはなるでしょう。空気が美味しいし。

何がすごいって、まず入ってからすぐ現れる馬出。

馬出虎口前の土橋の両側は堀切が入って細くて深い。虎口の向かって左側には小高い場所があり土橋は若干写真右手に向かって斜めっているので、横矢がかかるようにしてあります。
虎口をくぐると道はクランク状に右に折れます。この道が先ほどの馬出しの土塁で囲われた状態なのを確認できます。そして、ここでよくよく見ると馬出が来た方向に伸びているので行って見ると、先ほど渡ってきた土橋が見える。

※写真中央の枝がない辺りが土橋。
要は、土橋を渡っているとすぐ左からの横矢と遠くの右からの横矢が掛かるって寸法。流石は武田。マニアック。

馬出からの道が更に右に折れつつ下って北郭へ。ここに大きな竪堀連携の堀切が入っている訳です。北郭がまた複雑な構造となっており泣かせます。しかも、本郭から見れば北郭自体が馬出的機能を果たしています。この北郭の西側に塹壕状の弧状土塁が何気にたたずんでいます。

※この写真左手の高い北郭から右手の弧状土塁を見た写真がこのブログの上野南本城からリンクした地図には載っています。
これは静岡県丸子城で似たものを見た。うーむ、武田は弧状土塁が好きだのう、流石甲陽軍鑑に丸く作ると書かれているだけのことはある。実際この城は全て丸い、という印象があります。
そして北郭から本郭へは、常に上方からの攻撃を受けるよう、回り込むように道が付いています。そして現れるのが、このツヅラ折れの虎口までの道。

うっひゃー、何コレ何コレと興奮しながら虎口を上がる。ちなみに、この写真をとった場所の背後下方にはこれまた帯郭が弧状土塁とセットで控えており泣かせてくれます。
そして本郭虎口からツヅラ折れを見下ろしたもの。

THE虎口って感じです。
そして本郭の中が広い!!!

とにかく広い。今まで通過した郭も大概広いのですが、これは広い。日本城郭体系の愛知県編を執筆されてもいる高橋延年氏が「奥三河の城は全般的に小さい」と言っていた意味が体感できました。なるほど。古宮城は200m×200mででかいなぁ、と思っていましたが、明日以降ご紹介する城を含めて、信州の武田の手が入った城はとにかく広かった。これは飯田市の西側が台地が大きく舌状台地が張り出しており、面積を確保しやすいことがあると思います。奥三河は山が迫っており、ここまで広い面積を確保できる土地はない。各地の城を見比べる楽しさを高橋氏から教わったと勝手に思っています。
後はひたすらぐるぐると歩き続けました。とにかく広いし高低差がある。
弧状土塁と堀切が周囲を巡り、まさに迷路。
そして、帰り道にキツネが走っているのを発見!

かわいい!じっとこちらを見て警戒していました。こんなにしっかりと野生の狐を見たのは初めてです。エキノコックスなどの伝染病もありますので触ろうとは思いませんでしたが、化かされたらどうしようかと思っていました。美女で出てくれば化かされるのも悪くはないですけどねぇ。(爆)
とにかく、1時間でお腹一杯になりました。独り言炸裂の城でした。

さて、この後は既に遺構が破壊されてしまった上野北本城をちらっと見ておく。

※現在は座光寺小学校です。
○上野北本城
座光寺氏の居城といわれ、1568(永禄10)年武田晴信(信玄)が生嶋足嶋神社に捧げた起請文には座光寺三郎左衛門尉貞房の名が登場する。1575(天正3)年織田信忠が美濃国岩村城を攻略した際、城主秋山信友とともに磔死し、以後急速に衰えた。築城時期などは不明であるが、15世紀後半から16世紀前半の遺物が出土している。座光寺小学校・保育園建設により、主要な南・東・西・北の各郭などは残存していない。(『南信州の城』)
保育園の隣に土塁跡がありました。

まぁあまり偲ぶよすががありませんが、南本城でお腹一杯でしたので、食後のデザートと言うことで・・・。

近くの耕雲寺には素敵な楼門がありましたので、立ち寄られると面白いかと。

遭難しかかる ~かつてない恐怖の城旅~

2012年03月25日 | 
昨日のブログは「果たして私は城へ行くのか?乞うご期待!」で終わりました。

書き終えた後「そうだ甲府へ行こう。」とJR東海のCMみたいなフレーズが頭に浮かびルートを確認する。
「今(24日22:00)から出れば新府城や要害山城など見放題では・・・?」と、思ったものの「いやいや今日は1時間半しか寝てないし。」
そうなのです。
私は下戸でして、酒を飲むと体調がおかしくなって眠れなくなることの方が多いのです。で、どうせ2日間休みだし、と、そのまま本などを読んで土曜の朝を迎え、掃除に勤しんで土曜日は終わったのでした。
椎間板と頚椎のWヘルニア持ちなので寝ていないと腰や首など脊椎系に痛みが走る。その前兆が感じられたので「今から寝て朝4時半に起きれたら甲府へ行こう。」に切り替えました。

朝4時半に携帯が犬のお父さん(北大路欣也)の声で「おはようございます。」と連呼する。(ソフトバンク携帯に入ってる。)しかし眠いだるい。そのまま寝ることとする。この時点で甲府は断念。
ようやく目が覚めると7時半。「これなら飯田方面はいける。」と思い、素早く身支度を整えGO!
昨日の質問「私は城へ行くのか?」の正解は「行った」でした。
正解の方々には、たぶん明日ちょっとした幸せが訪れると思います。

新城市は晴れだ、さぁさぁと鼻歌交じりで気楽な一人旅。丁度奥田民生の「イージュー☆ライダー」などがかかって気分よく走っていると、おかしい。

雪が降り出した!
どうやら飯田は雪後雨後曇。なんとかならんものか。でも、道に雪が積もらない程度ならいけるさ。行けるとこまで行こう、と、腹を括ると辺りが雪景色に。

いやいやいやいやいやいや。いまさら静岡の勝間田城へ変更するったって時間ないし、とぐずぐず進むと、やがてわだちができている状態の道へ。
タイヤはノーマルにこないだ交換したばかり。
「こりゃあ駄目だわ。」と諦めて、来た道を引き返すが、豊根村坂宇場を過ぎた辺り。このあたりに砦山城なる、ちょっと気になる城があるので、せめてそれだけでも見ようかと思いナビで検索してみる。が、どこがどこやらさっぱりわからない。
で、図面を頼りにそれらしきところを登る。
が、見当たらない。そして雪だらけの上にとてつもなく険しい。
比高差60mというので大したことないと思って上がり始めますが、どこがどこやら。今まで経験したことのない藪漕ぎをする。夏場ならば虫や獣やダニでとても怖くて登れないが冬なのでワシワシ登る。しかし、笹というものは下に向かって生えるため、まるで槍衾のように行く手を阻む。

※この光景がひたすら続くのです。斜度は45度以上。滑ればとまらない。
目を突きそうになるわ、足に絡みつくわで何度も辞めようと思いながらもここまできたのに、と更にあがる。
「こうして人は遭難するのかもしれない。」
という言葉が頭の中で鳴り響く。しかも、どこかで救急車のサイレンも鳴っている。藪と坂と格闘すること1時間半。いつまでたっても上がある。流石に「おかしい。いくらなんでも60mを越えてるだろうし、本と違って険しすぎる。」自分ならばとてもこんなところに作るわけがないと思って断念。

※断念記念にセルフタイマーで写真を撮る。眼鏡が曇って目伏せする必要がない。
雪で本はぐちゃぐちゃになるわ、手袋忘れて気温0度近くの雪の中で素手だわ、カッパは防水だからいいものの中は汗だくで眼鏡は曇るはで最悪。下山する途中で足を滑らし転ぶこと2回。あやうく転落するところでした。転ぶことにはスキーやインラインスケートで慣れているので怪我はしませんでしたが汚れ放題。結果的に家に帰ってきて調べたら、全く違う場所を登攀していました。。。嗚呼。事前の調べが大事ですね。

この格闘2時間半のお陰で日が差してきた。そのため、いけるところまで再チャレンジしたところ、道に雪がない!それでは一路大島城へ!と走り出す。途中、また雪の積もった場所がありますが、雪も無いし日も照ってるし、この後は溶ける一方で午後4時過ぎくらいに飯田を出れば凍結前に帰れるだろう、との読み。
と、そこに衝撃の光景が。
流石に写真は取れませんでしたが、道に雪が残る場所の下り坂対向車線で止まりきれずにガードレールに突っ込んで前がぐちゃぐちゃになってる車を発見。警察がまだいました。先ほどの救急車はこれか・・・。と背筋が寒くなる。
その後、気温は4度以下の中、日がさしていたこともあり、大島城へ向かう途中、上野南本城、上野北本城、大下砦、松岡城を攻略。結果的に五城を落城させました。それもこれも気軽な一人旅のお陰。これらの城についての詳細は、明日以降に写真とともにご紹介する予定です。

しかし、この予定外の寄り道が多かったため、夕方5時近くに松川インターから帰宅の途に着くことになりました。中央道を飯田山本インターまで行き、国道153号ならば行きの国道151号のように狭くないし、交通量も多いから安全ではないか。駄目ならば中央道に戻って最悪東名豊川経由で大回りもできるし、と、考えて走り出す。
駒ヶ根から飯田へ向かい雪雲が出始めており、逃げるように走る。153号で結構走り出したとき、電光掲示板に「積雪路面あり。雪チェーン要」と書いてある。
げぇ、積雪路面!どれくらい?!と思いながらも、まだ日は差していたはずだから、わだちができてタイヤ設地面だけでも雪がない状態ならば、と祈るように走っていく。
そしてどこだかのトンネルを抜けると、衝撃の光景が。。。

雪で道が白い。
そして下り坂。
更に橋で道をつなぐことが多用された道。

この程度の雪道はスキーで何度も走っていますが、ノーマルタイヤで遭遇したのは人生初。名古屋でもこの程度の積雪はありますが、そういう時は車を使わなくても良い生活でしたので経験がない。

恐怖で凍りつく。

今履いているノーマルタイヤも結構減ってる。一旦脇に寄せて停車し、ゆるゆると走り出してわざと急ブレーキを掛けて、何キロまでならばスリップしないか確認をする。まだ降りだしたばかりの新雪だったため雪をよくタイヤが噛み、40kmまでならば走れる。しかし、この後ヘブンス園原だとか治部坂スキー場だとかも経由するので、駄目かも、と、思いながら必死に走っていく。この辺りで宿に入っても明日雪が溶けている保証もないし、むしろ凍結して今より条件は悪いだろう。
念のため外気温を測ると無情にも0度の表示。これでは路面が凍結している可能性が高い。と、思っていたら、道路脇の温度計が「-4」を指している。。。
行きに見た事故の光景が頭をよぎり、恐怖で顔がこわばるのがわかる。また、間の悪いことに今日に限って携帯電話を忘れてきてしまったので、事故った場合連絡をすることもできない。
-3度以下になると車内に暖房を掛けていても窓ガラスから寒さがしんしんと入り込んできます。そして、ワイパーのゴムが硬くなって「ゴっゴっ」と不気味な音を立てる。スタッドレスならば-6度でも経験あるから安心して走れるのに、と、思いながらもタイヤが地面をつかんでいる感覚はあるので走り続ける。
そして治部坂を越えたあたりから車道の雪が消え始める。-2度表示なので凍結しているかもしれないので前の車の動きを見ながら慎重に運転を続ける。
ひたすら下り続けるうちに、ようやく路面が乾きだし、念願の外気温0度表示まで戻る。
事故らずに済んだわ・・・。と愛知県境を越えたときに心の底から安堵しました。

まぁ、今日は身も心も凍る体験をして、なんとか家にたどり着きました。
家で携帯をみると、妻からメールが。そして返信をしたのですが返事が来ません。

本当の恐怖はコレなのかもしれません・・・。

徒然

2012年03月24日 | 日記
昨日夜は退職者歓送会でした。去り行く方々を見ていると、こちらも寂しさを覚えてしまいます。と、同時に羨ましくもある。近年では年金受給年齢の関係で定年後も働くことが多く完全フリーとまでは行きませんが、明らかに現役時代よりは自由時間が増えるはず。
城へ行き放題じゃん、貯えさえあれば。。。

今週水曜日からいよいよ妻子が家に戻ってきます。と、なれば夜だってろくに寝れないでしょうし、歴史に浸っているような時間も極めて少なくなることでしょう。娘相手に『日本名城百選』を絵本代わりに読んでも、すぐよそ事を始められてしまうのがオチ。

※『日本名城百選』小学館。オールカラーの素敵な本なのに…。
そして「ああ、もうしばらく城や温泉には行けないのか!」と、改めて気がつく。部屋を掃除して、今までに溜まりに溜まった諸資料をちまちまとスキャナで取り込んで捨てる作業もしていたら昼3時近く。
「とりあえず温泉。」と、足を伸ばしてお隣の東栄町の「とうえい温泉」へ行ってきました。今後を考えて1時間半くらい粘りに粘って湯につかる。本当はそういう浸かり方って良くないそうですけど。

帰り道に悪魔が囁く。
『明日、城いっちゃう?』
朝早く出立も可能なようにガソリンも入れてきました。
が、肝心の目的地が決まらない。
「ああ、大島城(長野駒ヶ根方面)見たいな。勝間田城(静岡県遠州)も捨てがたい。お、無理してあこがれの新府城(山梨県…。)へ。いや、でもこの辺りの細かい城を徹底的に攻めるのも素敵。」と、2時間ほど前から考え続けていますが、いまだ結論が出ておりません。

果たして明日私は城へいけるのか?!
乞うご期待。

朝来市竹田城課と戦国時代の城の維持管理

2012年03月22日 | 
神戸新聞の記事に詳しいのですが、朝来市(あさごし)が「竹田城課」を新設して竹田城址を総合的にPRすることに乗り出すそうです。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004879965.shtml
~~ 以下記事転載 ~~

朝来市が「竹田城課」新設へ 城趾を総合的にPR(神戸新聞)
 「天空の城」として知られる国史跡・竹田城跡がある兵庫県朝来市は12日、4月1日付で「竹田城課」を新設するため、条例の一部改正案を市会定例会に提出した。城跡とJR竹田駅周辺の城下町を最大限に活用したまちづくりを目指す。
 雲海の美しさが評判を呼ぶ竹田城跡は、観光客数が過去3年で約4倍になるなど、全国的な人気となっている。その一方で観光客の受け入れ態勢の強化が課題。また、関連業務を担当する課が市内に複数ある庁舎や支所に分散しており、「コミュニケーション不足」と指摘されていた。
 新設の「市長公室」に統括され、複数の課から職員を充てる方針。多次勝昭市長は「貴重な観光資源を生かす具体的な戦略が不十分だった。総合的な施策を担う部門として新設に踏み切った」とコメントした。(竹本拓也)

~~ 以上記事転載 ~~

竹田城。
憧れの城です。
姫路城へ実はまだ行っていなかったりと、意外と「ええ、そんなメジャーどころ行ってないの?」と驚かれることもあるのですが、こうした素晴らしい城はじっくりと見たいため、日程をきちんと確保して行きたい。そのため、早急な城攻めをせず、時期を見計らっているため、いってない、と言う事態が多いのです。
日本三大山城に上げられるこの城は、近年朝霧に浮かぶ写真とともに、城ブームに乗って素晴らしい観光施設となっています。
そうした観光施設を総合的に活かす為、とうとう市役所に「竹田城課」などという課が新設されたそうです。城好きにとっては大歓迎な話です。是非、課長は「城主」という肩書きにしてもらいたい。

さて、この竹田城。
突然脚光を浴びて世に出たのではないのです。
何かの資料で読んだのですが、竹田城を昔から地域で大事に整備をしつづけたことで、城好きの間では聖地となり、今では一般客をも集める一大拠点へと育ったらしいのです。その資料を探したのですが、残念ながら手元にありません。

竹田城は昭和18年に国の史跡指定を受けており、昭和31年に大字竹田の財産区の所有となったそうです。
ここで若干の補足を。
『財産区』は都市部の方にはなじみが薄い地方自治法上の制度です。
要は中世の入会権の名残で、地域で所有する共有財産を管理する集まりが財産区です。中世には薪山など地域で所有する山などがありましたが、それがそのまま移行したものが多いのです。そんなものが財産になるのか?と思われるかもしれませんが、その山が高速道路やゴルフ場などの借地となったり売却されたりで得たお金が対象となる場合が多いようです。財産区の資産は財産の維持管理にのみ使えることとなっていたり、厳しい制約があります。
この制度は明治維新のときに個人所有を厳密に決めて課税を確実なものにするとともに、共有財産は極力国のものにして国を富まそうという方針によるものです。地域の共有財産といった曖昧なものは基本的に存在を許さないこととしたのです。
もっとも、こうした地域共有物を排除してしまったことが、地域社会への関心が薄らいだ原因の一つとも言われており、財産区制度のあやふやな部分を解消するため、現在は地縁団体の設立を認めて地域へ返す動きが出てきています。
こうした財産区として地域が所有し、住民の手による保護を受け、昭和46年から昭和55年にかけての石垣の復元工事により、現在のような見事な石垣へと変貌したようです。その後も、地域住民の手によって整備され続け、朝来市に合併してからも地域の宝として大事にされ、とうとう行政を突き動かしたと言えます。

ちなみに竹田城を検索していたら、こんなものが引っかかりました。
竹田地域まちづくり計画』(PDF)
朝来市は自治基本条例を制定しており、住民自治の形として地域自治協議会の設置ができるようになっています。朝来市に合併した旧竹田町は地域自治協議会を設置し、自分達でまちづくりの計画を立て、その心理的な統合の象徴として竹田城があるようです。それだけ地域の誇りなのでしょう。

行政が「竹田城課」を作ったら整備が進んだのではなく、地域の動きが行政も動かした、と、考えた方が良さそうです。こうした地域全体の盛り上がりが城の維持管理には大事なんだな、と、改めて気づかされます。そして地域の盛り上がりを継続する制度的保障として、行政を巻き込んだのだと思われます。(もともと行政もそれなりに盛り上げには参加していたのだろうな、ということは想像できますけど。)

さて、こうした城を保存する動きですが、実は、戦国時代の城の維持管理方法となんとなく似た部分があるので、面白く思いました。

城は作れば終わりではなく、雨が降ったり風が吹いたりすると土塁が崩れたり、塀が壊れたりするので、地域住民に対して夫役が課せられます。城の維持補修管理の労役を提供する代わりに年貢の徴収が一部免除されたりするのです。そして、この城の維持補修管理の労役については、かなり厳しく催促され、他の労役を免除することはあっても城の維持は絶対扱いに近かったようです。
このように、城の維持補修というものは地域住民が行うものだったのです。

武家による強制的なものもあったのですが、どちらかというと戦時に自分達も逃げ込める施設としての役割もあったためか、地域もそれなりには協力的にやっていた場合も多いようです。
奥三河の城、例えば、武田方が新城市作手に築いた古宮城などは強制的に従事させられたと思われますが、領主奥平氏の城亀山城は、どちらかというと後者の可能性もあったのではないかと思われます。
現在、亀山城は保存活動が盛んですが、古宮城は近年になるまで地元の人もよく知らない城だった、ということがあります。

ひょっとしたら、そうした中世からの流れが、そうさせたのかもしれませんね。
長々と書きましたが、城って案外地域が話し合いをするときの材料としてはいいのかもしれませんね。

火縄銃の使用方法

2012年03月21日 | 戦国逸話
本日はネタに詰ってなんかないかと甲子夜話を読む。
神田の古書店めぐりをやった時に偶然見つけて即買いしたものの、本棚の飾りとなっていましたが、引っ張り出しました。
これは江戸時代後期に平戸藩主松浦静山が書いた随筆集で、結構どうでもいい様なことも載っていることで有名な奴です。たまに戦国時代のエピソードなども載せています。

そんな中で、火縄銃の使用方法についての記載がありました。
長篠・設楽原の戦いの場である新城市。設楽原鉄砲隊という実際に火縄銃をぶっ放す方々まで見えるこの地で、お前ごときが火縄銃の使い方について書くなど!と、思われるかもしれませんが、まぁ、話をお聞きなさい。なぜ、私が取り上げたのかお解かりいただけるかと。

○火縄銃と徳川家康
 家康が狩りを行ったとき、五月白(サツキジロ)という古猪が突進してきた。この猪、歳を取っており、鼻先が白色で、背中には小さな木が生えて白い花が咲くのでこの名が付いたと言われている。
 そんな猪が怒って突進してきたので周りの人は皆恐れた。
 家康は十匁の火縄銃で撃とうとしていたが、御付の者達は危険だと判断して家康の前に立ちふさがり突進を止めようとしたが、皆突き飛ばされ、家康の間近に迫る。

 あわや!
 と、言うところで、家康は火縄銃を振り上げてしたたかに猪の頭をぶん殴った。流石の猛獣もこれにはひるんでふらついたところを、周りの人々で寄ってたかって仕留めた。
 皆家康の胆力を褒めたが「これくらいのことで…。」とだけ言って自慢気な様子は無かった。
 ちなみに猪は泥で背中を冷やしたりするが、その泥から毛に入り込んで木が生えたのだ。これだけでも古猪ということがわかろうというものだ。


火縄銃、そんな使い方もある訳ですね。
確かに鉄と木の塊ですから間近な敵には武器に早がわり。何も火を噴いて弾を撃ち込むだけが使い方ではない。要は敵を倒せばいいのだ、という大変実戦的な教訓かと。なかなか味わい深いです。戦国最後の生き残りともいえる家康らしいエピソードです。
ちなみに家康には、鉄砲を撃ち損じた部下に、息が切れているときは呼吸すると体制が崩れるので鉄砲は手前だけで持たずに、片方は銃身の中ほどを支えて撃て、と、具体的にアドバイスする話も残っています。あの織田信長の遊び相手をしていた訳ですから、鉄砲を小さいときから使っていたのかもしれません。
そんな彼からすると、撃ち殺すのではなく打ち殺さざるをえなかった点に納得がいかなかずに「これくらいのことで…。」と言ったのかも知れません。

設楽原の戦いでは、二重・三重の柵をぶちやぶって織田・徳川の陣に乱入した武田兵も居ましたので、ひょっとすると、火縄銃を家康のように使って応戦した場面もあったのかもしれませんねぇ。

イクメン ~戦国時代の育児~

2012年03月20日 | 日本史
息子が本日で生誕1ヶ月。来週、一ヶ月謙信いや検診を経て、いよいよ妻子が戻ってきます。で、本日妻子の帰宅に備え、ベビーベッドを組み立てる。

妻実家から帰宅する際、娘が「パパ会社?」と聞いてきて「いっちゃやだ。」としがみつく。よく見れば涙が。。。お父ちゃんの方が、よよよ、と、なりながら新城へ帰宅し、後1週間で一家が揃うなぁ、長かったなぁ、と、思う。
帰ってくれば、ブログの更新はかなり滞るだろうし、夜中に起きてミルク&ゲップ&おむつ替えという事態が待ち構えているだけですが、それでも一家で暮らす方が、特に子どもが小さいうちは良いに決まっています。

で、ふと、思ったのが「戦国時代の育児って、どうだったのか?」ということ。
名のある戦国武将であれば乳母などが付いているので、ゲップがでんなぁ、とか、ミルク吐いた、とかを戦国武将自体がやることはなかったことでしょう。オムツも大変ですよね。布オムツを冬のさぶい時でも洗わねばならんわけですし、洗剤なども無いわけですから汚れを落とすのも一苦労だったことでしょう。
下級武士ならば自分でやらないかん訳です。そうなると戦前の農民の暮らし、というものはある程度参考になるのか。親は忙しいのでエジコとかいうものに突っ込まれて垂れ流し、ということになりますね。うーむ。今のうちの子は恵まれているな。

やっぱりそういう具体的な世話に関する逸話は少なく、ある程度育ってからの逸話が多いです。ささっと名将言行録を走り読みしたところから拾ってみましょう。まずは有名どころから。
○竹中半兵衛重治(豊臣秀吉の懐刀)
 重治が戦の話をしているときに、子の左京がまだ幼い時に座を立ってどこかへ行き、しばらくして帰ってきた。重治は戦の話をしているときにどこへ行っていた!と、叱ると、左京はトイレに行ってました、と答える。重治は怒って「小便に立つとは何事か!なんで座敷で漏らさんのだ!竹中の子が武道の話に聞き入って座敷を汚したといわれれば、我が家の面目も立つと言うものだ!」

 うーん。きっとトイレトレーニングされて、ようやくトイレで用を足せるようになったと思いきや、親父からこんなことを言われた日にゃ、左京君も混乱したことでしょう。たぶん、半兵衛自身が左京のトイレトレーニングはしておらず、こんな勝手なことを言ったのではないかと…。まぁ一度くらいならいいですが、何度も何度も漏らされても畳が腐るので困りますわな。
 あと、半兵衛は、実は話が長いのではないか、という疑念もあります。

○前田利家(加賀百万石の祖)
 前田玄以(京都所司代。前田利家とは同姓だが血縁関係はない。)は、子左近将監秀以を行儀悪いので勘当した。人々が取り成したが玄以は聞き入れない。とうとう豊臣秀吉の耳にも義絶の話が知られてしまった。利家はこれを聞いて「玄以は智者だと世上に言うが、こればかりは間違っている。わしの息子の利長も若いころは大概な悪ガキだったが、安土に置いているときは、わしの家臣団をやって行儀良くしろと諭させたし、利長が言ったことを、素晴らしいことを言ったように家臣団が言ったので、自然と行儀良くなっていき、信長公の婿にもなった。それを父親が息子を悪く言って主君の耳に入るなどと、玄以殿もわかってないのでは。」と言ったところ、玄以はそれを聞いてモットもだと考え、秀以の勘当を解いた。

 若い頃ヤンキーだった人が、歳を取って味がでてくるパターンがありますが、利家はそれだったのでしょう。自分は散々カブイただけに、どうやると息子のイキガリを治められるか知っていたのでしょう。まぁ、今でも「誉めて育てよ。」というのが流行りですが、その先取りとも言えますね。

○武田信繁(武田信玄の弟)
 信繁は聡明沈毅、謹信周密で武略勇威兼ね備わり、武田家中の見本だった。信繁は子の戒めとして九十九条の掟を作った。その第一条には主君には未来永劫絶対的に服従せよ、主君から納得のいかないことをされても不満は絶対漏らすな、どんなに主君が親しくしても馴れ馴れしく家政に立ち入ってはいけない、真の友と言えども、淫乱雑談をするな。もし人がしてきたら、目立たないように席をはずせ、等々。

 なかなか良いことを言ってますね。特に最後、淫乱雑談は何も猥談と言う意味だけでなく、人を悪く言ったりすることなども入るのだと思います。なかなか含蓄があるのですが、九十九条もの掟を「覚えろ!」と言われても…。もう少し減らしてくれ、と、言いたい気もします。
 もっとも、これは子に向けたものに見せかけて、武田家中第一の家臣典厩家がこうした姿勢を示すことで家中の引き締めを図ったものです。

○北条氏康(後北条家三代目で武田信玄、今川義元と対等に駆け引きした。)
 氏康が子の氏政と食事をしたとき、氏康は落涙して北条の家はワシで終わりだ、と、言う。氏政をはじめ皆驚く。氏康が言うには「氏政が食べているのを見ていると、飯に汁を2回掛けて喰った。人間であれば一日二回も食事をしているので、訓練されて飯にかける汁の量は大概わかるはずだ。それが二回もかけるということは、愚か者ということだ。朝夕の飯でこうなのだから、人の心のうちを読み取り評価するなんて事はできん。人の評価ができなければ良い家臣を持てん。良い家臣がいなければ、明日にも隣から名将が攻めこんで氏政を滅ぼしてしまうだろう。だからワシの代で北条は終わりといったのだ。」

 息子が味噌汁をご飯に掛けて飯を食うときには、よく観察をしていないと駄目ですね。もし、氏康がひつまぶしを食べている日本人を見たら「嗚呼!日本も終わりだ!2度ばかりか3度まで!」と絶叫してしまうかもしれません。
 まぁ、氏政が結果的に家を滅ぼしてしまったので、悪く書かれている気もしますが、氏政にはこんな話もありますから、このことを氏康は見抜いていたのかもしれません。でも、もし、氏康が満座の家中に氏政のことを悪しざまに言うのではなく、前田利家のように褒めて育てたら、もう少し違った氏政になっていたかもしれませんね。

この他にも探せば結構面白い話はありそうです。気が向いたら、また、この特集をやってみても面白いですね。

流石に、私は話の途中で漏らすくらいならば、トイレへ行ってくれと思います。
だって、後始末が大変ですから・・・。

カントーカンレー 不識庵 ~賛否両論を読んだ問題小説~

2012年03月19日 | 日記
くだらない広告シリーズに引き続きお送りするのは「カントーカンレー不識庵」という小説。城旅仲間と深夜城攻めでくたくたになった状態で帰途についている時、一同深夜特有の変なテンションで車中が盛り上がり、その時の会話から産まれたヒーローです。
瓦版に掲載したところ「めちゃくちゃウケる。」「さっぱりわからない。」と賛否両論を呼んだ問題小説です。
私的にはめちゃくちゃウケるんですが、わかんない人には何がなんだかさっぱりわからないようで、全く面白くないという意見も頂きました。ちなみに、この小説を楽しむためには、一定の上杉謙信に関する知識が必要となりますので、末尾に小説を楽しむための豆知識をつけておきました。
深夜の車中という一番危険なテンションの時に産まれたニューヒーロー。わずか2回の連載で終了したいわくつきの問題小説。果たしてブログでの評価は如何に?!
乞う!ご期待!

~~以下小説~~

「誰か助けてー!」

悪の軍団キバタインが村上少年を誘拐しようとしている!
しかし、キバタインの報復を恐れる大人達は誰も手を出す事ができない。この世を守っていたスワジンジャーを滅ぼしたキバタインのため、今は暗黒の世の中となってしまっているのだ。

「無駄だ無駄だ。どれだけ叫んだ所で誰もお前を助ける者などいる者か。ウグゥワハッハッハッハ!」
煙草を咥えて現れたのはキバタインNo.2のイタガーキーだ。「お前をシンゲン総統の元へ連れて行き、お前の親父が開発した天下統一爆弾の設計図の在処を吐いて貰うぞ。これで、我々の天下統一は現実のものとなり、シンゲン総統が全てを支配するのだ~~~!」

「誰がお前なんかに言うもんか!」村上少年は精一杯の強がりを見せ、イタガーキーに唾を吐きながら言った。

「そういって強がっていられるのも今のうちだ。シンゲン総統にかかればどんな少年も抵抗できない。こないだは春日源五郎という少年が・・・。おっと、あまりしゃべっては今後の楽しみが減るというものだ。イヒヒヒヒ。」
イタガーキーは煙草の煙を村上少年に吹きかけた。

「さぁ、キバタイン共よ!この少年を総統の元へひったてろ!」
「ヒヒーン!」(注:キバタイン達の声)

「助けてー!誰か!誰かー!」村上少年は絶望的な悲鳴を上げた。
その時だった。

「待て待てぃ!イタガーキー。貴様の乱暴狼藉はそこまでだ!」
 
「何!!誰だこの俺様にそんな偉そうな口を叩く奴は!ゆるさんぞ!」
イタガーキーが周りを見るが誰もいない。
「誰だ!今この俺様に偉そうな口を叩いた奴はどいつだ!貴様か?!」
周囲の大人たちにイタガーキーが詰め寄ろうとしたその時だった。

太陽の方角から複数の人影が回転しながら村上少年の近くへ現れたのだった。

「何だ!お前達見た事もない奴等だ。スワジンジャーは滅ぼしたはずだ!」
イタガーキーは喚いた。

「初見参だ!よく覚えておけイタガーキー。俺はフシキレッド謙信!」
「フシキブルー輝虎!」
「フシキイエロー政虎!」
「フシキグリーン景虎!」
「フシキピンク虎千代!」

「5人揃って、『カントーカンレー 不識庵』!!」

「なんだとぉ?カントーカンレー?フシキアン?聞いた事がないな。お前達もこの間のスワジンジャーのように詰め腹斬らされたいのかぁ?グワハッハッは。覚悟しろ!いけ!キバタイン!」

「ヒヒーン」
キバタイン達は目にも留まらぬ速さで襲い掛かった。
あっという間に囲まれてフシキソルジャー達が見えなくなったと思った刹那、5人のフシキソルジャー達は瞬く間にキバタイン共を倒して村上少年を救い出した。

「うぬぅ。キバタインNo.2のイタガーキー様を本気で怒らせたな。」
血走った目でこめかみに血管を浮かび上がらせたイタガーキーは煙草を投げ捨てた。

「目にもとまらぬ速さの我が秘剣、『上田原』を受けて見ろ!」

さすがはキバタインNo.2。
その剣風はすさまじく、避け損ねたフシキピンク虎千代が吹っ飛ばされた!
虎千代にトドメを刺そうとイタガーキーが近寄ったその時隙が生じた。

『秘技!車懸りだ!』
フシキレッド謙信が叫ぶ。
するとブルー、イエロー、グリーンの3人が代わる代わるイタガーキーに波状攻撃を行った!

「うぐぅわぁ!ぐほぉ!」

車懸り攻撃によりイタガーキーは爆死した。

「大丈夫か村上少年!」フシキレッド謙信が呼びかけた。
「うん、大丈夫だよ。設計図のありかも守ったよ。でも、お父さんがキバタインに・・・。」
「よし、任せておけ!必ず君のお父さんを救い出す。待っててくれ!」

彼らの戦いは、まだ始まったばかりだ!ゆけ!カントーカンレー不識庵!

(次号予告)
川中島で待ち受けるキバタインの参謀カンスケ。カンスケの秘法「キツツキ」により大苦戦に陥るフシキアン達。どうする、どうなる!?次回「川中島」お楽しみに。

【不識庵を楽しむ為の豆知識】
※1 カントーカンレー…関東管領。室町時代、鎌倉を分任支配する鎌倉公方を補佐する職名。代々上杉家が就任しており、上杉家の養子となった長尾景虎は上杉政虎と名乗り関東管領に就任した
※2 不識庵…上杉謙信が出家後名乗った号。上杉不識庵謙信となる。
※3 キバタイン…武田の騎馬隊がモデル。大変強く、長篠の戦いにより鉄砲で殲滅されるまで日本最強とされていた。近年、武田の騎馬隊の存在については、議論が別れている。
※4 イタガーキー…板垣信方がモデル。武田信玄を補佐した名将。上田原の戦いで武田軍が村上義清に破れた際敗死。煙草好きで知られる。上田原の戦いは武田信玄にとって始めての敗戦らしい敗戦だった。
※5 シンゲン総統…武田信玄がモデル。上杉謙信の好敵手。
※6 スワジンジャー…諏訪大社。武田信玄は甲斐から信濃へ進出する際、諏訪付近を領有する諏訪大社の神主一族で豪族の妹婿諏訪頼重を呼び寄せ無理やり切腹させて諏訪一族を滅ぼした。
※7 虎千代、景虎、政虎、輝虎、謙信・・・全て謙信が使用した名前。ちなみにこの順番で変えている。
※8 村上少年…村上義清がモデル。武田信玄を二度破るも、信玄に圧迫され上杉謙信を頼って信濃から逃げ出す。
※9 車懸り・・・そういう戦法があるそうで、上杉謙信が川中島の戦いで使ったとされる。
※10 春日源五郎・・・高坂弾正という武田四天王と呼ばれる名将の幼名。武田信玄のお稚児さんだったとされており、武田信玄から春日源五郎あてに他の男に浮気してごめんでもお前が本命だよ、と送った文書が現存している。