長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

太閤ヶ平(たいこうがなる) ~40代の弾丸山陰一人旅 その1~

2015年07月12日 | 落城戦記
中世の城攻めでは、一ヶ月くらい籠城して応援がこない場合、降伏するパターンが多かったようです。そんな中、200日も籠城し、食料不足から凄惨な状況となった日本戦史上有名な戦いがあります。

鳥取城です。


攻めるは羽柴秀吉。守るは吉川経家(きっかわつねいえ)。

※吉川経家銅像と鳥取城のある久松山。

何と言ってもこの城、籠城の描写が残されており、あまりの飢餓状態から食人の話が残されています。柵際で助けてくれと叫ぶものの鉄砲で撃たれ、倒れた人を周りの人たちが寄ってたかって解体して奪い合い、「とりわけ頭(こうべ)あじわいよろしきとみえ…」と味が良いらしい頭部を奪い合う様が伝承されています。

こんな凄惨な戦いでしたが、のちに秀吉は
「三木の干し殺し、鳥取の飢え殺し」と呼んで、快心の戦いと思っていたようです。

恐ろしい。
が、その現場を一度見てみたい。

と、いうのが長年の願いでした。

厳密に言えば、鳥取城主は山名豊国(後の禅高)だったのですが、毛利氏に差し出していた人質を置いていた城が秀吉によって落城させられ、人質が織田方の手に落ちます。その人質を交渉カードに秀吉は山名の降伏を迫り、豊国は降伏。鳥取城は織田方になるのですが、殿の山名はともかく、重臣は納得していなかったようで山名豊国を追放。
豊国に代わる城将を毛利氏に要求して、やってきたのが吉川経家です。

しかし、吉川経家が来てみると大変な事態が。

前の年の秀吉との戦いで田畑が荒らされたことで、この地方は凶作に見舞われ、羽柴軍も兵糧が少ない状況だったようです。

それでも雪が降るまで頑張れば羽柴も退却せざるを得ないと思ったようですが、羽柴軍は厳重な包囲網を敷き、なおかつ、鳥取城と毛利の間の南条氏の頑強な抵抗で援軍も送れず、鳥取城は孤立。
「とりわけ」の事態が発生したようです。それでも200日の籠城に耐えた吉川ですが、最後は自分の命と引き換えに城内に籠る人々の命を助けようとします。

この時に経家が子供達にあてた手紙が残っておりますが、もう、同じ年頃と思われる子供を持つ親としては涙なしには読めません。(年取って涙脆くなってます。)

と、いう状況の鳥取城攻め。
どんなところで行われたのか、実に興味深い。

まずは、包囲した羽柴方の陣地へ。


麓の東照宮から登り始めます。
舗装した道が続くので楽。朝の10時に登り始めましたが、朝の散歩帰りと思われる人達と大量にすれ違いました。道が整備されているので急傾斜もなく、ちょうど負荷をかけるには良い感じ。


雨上がりで程よい涼しさ。こちらも気分良く登っていると、ふと、気づく。
やたらとラジオを鳴らしている人が多い。

よく年配の方がラジオをイヤホンではなくて音が出る状態で散歩していることが多く、いつものそれだろう、と、おもっていたのですが、その率がやたら高い。不思議に思っていると、思い当たる。

「ひょっとして、熊が出るのでは?」

一人旅。
熊に襲われ、虚しく屍を因幡の地に晒すことになっても誰も発見してもらえない。

ちょうど一人で退屈もするので、わしも何か鳴らそうと思いiPadをみると、FM豊橋のアプリが。
おお、モエモエさんの「スヤンコイトル」始まってるじゃん、と、いうことで、因幡の地に、どすごい三河弁を鳴り響かせながら登山することに。

結果的にこの判断は正しかったようで、鳥取城に到着した際、熊に注意の看板を発見。


しかし、登る前に教えてくれよ、と、看板を発見した際は苦笑。

そんなこんなで藤本さんの「ヨロシクぼた話」が始まり、私の名前などが出てイジられている。ので、因幡からコメントを送ってみたら読まれました。偉大なりネット。

最近、トレランに出てからというもの、走ったりしているので従来になく山道が楽。
いっそ、走ってやろうか、と、思いましたが体力は温存するに越したことはないのでやめておく。

30分程度の散歩ののち、忽然と現れた秀吉本陣。

※「太閤ヶ平」と書いて「たいこうがなる」と読む。

この時期、信長配下武将の秀吉なので太閤では当然ない。後に太閤となることから名付けられたようです。そして、この陣城。ただの陣城ではなく、相当すごい、という情報は予め入手しており、今回の旅のメインのひとつでした。

そして、期待にたがわぬ凄さ!

※地形を活かした土の城はやっぱり良いですねぇ!

虎口から侵入。


土塁の高さと堀の深さに驚くとともに、当時、まだ一部将にすぎない秀吉なのにこの大きさ。当時の織田軍の規模の大きさがよくわかる。城を見た後に鳥取城のボランティアガイドの方にお話をお聞きしたのですが、一説によれば、越前攻略を信長に命令されながら柴田勝家と不和になり戦線を無断離脱。信長の不興を買っている状況で必死にアピールする必要があり、死に物狂いで山陰攻略を行っており、鳥取城攻めで毛利との決戦を想定して信長が出馬してきても大丈夫なように作った可能性もあるそうです。


※広い!写真だとわかりにくいですが。。。

四角形に近く、鳥取城方面には櫓台が設置されていた模様。

ちゃんと鳥取城も見えます。近年、見えるように伐採したそうです。

※実験では太鼓の音なども聞こえたそうです。

一箇所、隅が突出し、なぜかその中に土の高低があって歩きにくくしている場所がある。ただ単に自然地形を利用した突出部にしては工夫が多く、何の施設か謎でした。その他、色々と写真を撮ったのですが、なにぶん木々が生い茂っているのと写真では高低差がでにくいのでわかりにくいかも。






中々の規模と工夫。
秀吉の陣城というともう少し虎口を迂回させるような複雑さが特徴な気がしますが、これはどーんと構えて結構な大軍を収容するもののように見えます。信長を呼ぼうとした、という話もうなづける。
まぁ、鳥取城に対して威圧するとなると、できるかぎり軍勢を見せる必要があったでしょうから、人数が集まって敵からわかりやすくするために大きく場所をとったとも考えられます。

長篠の合戦からしばらく経って、東国の不安が消え織田の勢力が巨大化しつつあることが、東三河の諸城と比較して思ったことです。

続いて悲劇の場所、鳥取城は次回に。

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