「『ぺとろきべ』という人に昔興味を持ちまして・・・。」
と、職場のKさんが言った。
ペトロ木部?
頭の中で即座に変換されたのはこの漢字。正式には
「ペトロ岐部」
でした。
その昔、大分で「ペトロ岐部」というお菓子を見つけ、「誰それ?」と思ったKさん。
調べたら、戦国時代に歩いてローマまで行った、という相当な冒険野郎だったそうで、最期はキリスト教迫害の殉教者となってしまったそうです。
ローマまで歩く。
戦国時代に。
興味を抱いたKさん。
国東半島のあたりに小さな資料館へ改めて行き、墓も見たとか。
Kさん自体が結構ペトロ岐部的な素質を持ってるんじゃないか、と、いう疑念が浮かびましたが、私自身も相当興味を抱きました。そして、Kさんから借りた本を読みましたが、大友宗麟が死去した年に生まれ、キリシタンに対する豊臣秀吉の迫害が始まり、日本から追放されてマカオへ行くも冷たい仕打ち。そこでローマへ向けて司祭になるべく出発するのですが、道中日記を残しておらず、後世の研究者の書が中心となって描かれています。
砂漠を横断してエルサレムにも立ち寄り、ローマで念願の司祭までなるも、日本の迫害されているキリシタンへの義務感からか日本へ舞い戻り潜伏生活。
伊達領まで行くも結局捕まり、最期は江戸で残忍な穴吊りの刑になるも他の信者を励ましてしまうので怒った役人に大変酷い仕打ちを受けて殉教してしまう、というもの。
うむ、最初に思った単なる冒険野郎では無いようです。
相当に壮絶な人です。
最近、戦国のエピソードはあらかた掘り尽くされた中、キリシタン、という分野には、今まであまり興味がなかっただけに、私にとって大変新鮮でした。
そういえば、昔、職場でキリスト教なんですよ、と、いう方がいて、へぇ、と、思ったら、実は先祖は九州で隠れキリシタンの流れなんです、と、のことで、えーーーー!そういう方がいるんだ、そりゃ、いるわな、でも、初めてそういう人にあった、と、驚いたことがあります
その時の衝撃は、新城で「庚申様があるでのん。」と言って定時退社した人がいるのを見たときに「えーーーー!庚申講ってまだあるの?!」という驚きと同レベルです。
ま、要は私がモノを知らんだけ、ということ。
世の中には色々な人がおり、それで成り立ってる、ということです。
しかし、信仰に殉じるというのは、ものすごい。
私など拷問器具見せられた瞬間、
「いや、私、転びますよ。なまんだぶ、なまんだぶ。百回でも二百回でも唱えますが、何か?」
と、言うと思います。いやですもん、穴吊りとか火あぶりとか。
実際、転向の証に南無阿弥陀仏といえ、と、迫った、というシーンには「へぇ」と思わず言ってしまいました。その、追い込み方ってすごいな、と。人間、どこまで残酷になれるんだ、それも心理的に追い詰めるやり方ですもんね。
それでも転ばずに殉教するっていうのは、ある意味信仰しない人にとっては理解できずに不気味であったことでしょう。為政者の立場ではなおさら。一向一揆で酷い目にあった徳川家康にとって、一神教であるキリスト教は警戒すべきものだったのかもしれません。まして植民地戦争をやってるスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスが付いてくるわけですから、物騒極まりない。
キリシタンへの迫害は、配下奉行が行うわけですが、どう考えてもサディスト。
サディストの気があったのが歯止めが利かなくなった、と、いう感じがします。人間的に何か一本線が切れちゃった的な感じです。知れぬ恐ろしさを感じます。
そして、転向せずに殉教する人、しない人、それぞれ、どんな思いで亡くなり、また、その後人生を生きたのか、それに思いを馳せるとかなり興味深い。
自分だったら「転びました。転びました。」と言って、夜だけこっそり信仰すりゃいいじゃん、的な、まさに
『嘘も方弁』
という発想しかないだけに、そこまで一途になれる理由ってなんだろ、と、思うわけです。
一度しっかりと隠れキリシタンツアーでもやってみたいものだ、と、思いました。
九州と東北か。
遠いな。。。
と、職場のKさんが言った。
ペトロ木部?
頭の中で即座に変換されたのはこの漢字。正式には
「ペトロ岐部」
でした。
その昔、大分で「ペトロ岐部」というお菓子を見つけ、「誰それ?」と思ったKさん。
調べたら、戦国時代に歩いてローマまで行った、という相当な冒険野郎だったそうで、最期はキリスト教迫害の殉教者となってしまったそうです。
ローマまで歩く。
戦国時代に。
興味を抱いたKさん。
国東半島のあたりに小さな資料館へ改めて行き、墓も見たとか。
Kさん自体が結構ペトロ岐部的な素質を持ってるんじゃないか、と、いう疑念が浮かびましたが、私自身も相当興味を抱きました。そして、Kさんから借りた本を読みましたが、大友宗麟が死去した年に生まれ、キリシタンに対する豊臣秀吉の迫害が始まり、日本から追放されてマカオへ行くも冷たい仕打ち。そこでローマへ向けて司祭になるべく出発するのですが、道中日記を残しておらず、後世の研究者の書が中心となって描かれています。
砂漠を横断してエルサレムにも立ち寄り、ローマで念願の司祭までなるも、日本の迫害されているキリシタンへの義務感からか日本へ舞い戻り潜伏生活。
伊達領まで行くも結局捕まり、最期は江戸で残忍な穴吊りの刑になるも他の信者を励ましてしまうので怒った役人に大変酷い仕打ちを受けて殉教してしまう、というもの。
うむ、最初に思った単なる冒険野郎では無いようです。
相当に壮絶な人です。
最近、戦国のエピソードはあらかた掘り尽くされた中、キリシタン、という分野には、今まであまり興味がなかっただけに、私にとって大変新鮮でした。
そういえば、昔、職場でキリスト教なんですよ、と、いう方がいて、へぇ、と、思ったら、実は先祖は九州で隠れキリシタンの流れなんです、と、のことで、えーーーー!そういう方がいるんだ、そりゃ、いるわな、でも、初めてそういう人にあった、と、驚いたことがあります
その時の衝撃は、新城で「庚申様があるでのん。」と言って定時退社した人がいるのを見たときに「えーーーー!庚申講ってまだあるの?!」という驚きと同レベルです。
ま、要は私がモノを知らんだけ、ということ。
世の中には色々な人がおり、それで成り立ってる、ということです。
しかし、信仰に殉じるというのは、ものすごい。
私など拷問器具見せられた瞬間、
「いや、私、転びますよ。なまんだぶ、なまんだぶ。百回でも二百回でも唱えますが、何か?」
と、言うと思います。いやですもん、穴吊りとか火あぶりとか。
実際、転向の証に南無阿弥陀仏といえ、と、迫った、というシーンには「へぇ」と思わず言ってしまいました。その、追い込み方ってすごいな、と。人間、どこまで残酷になれるんだ、それも心理的に追い詰めるやり方ですもんね。
それでも転ばずに殉教するっていうのは、ある意味信仰しない人にとっては理解できずに不気味であったことでしょう。為政者の立場ではなおさら。一向一揆で酷い目にあった徳川家康にとって、一神教であるキリスト教は警戒すべきものだったのかもしれません。まして植民地戦争をやってるスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスが付いてくるわけですから、物騒極まりない。
キリシタンへの迫害は、配下奉行が行うわけですが、どう考えてもサディスト。
サディストの気があったのが歯止めが利かなくなった、と、いう感じがします。人間的に何か一本線が切れちゃった的な感じです。知れぬ恐ろしさを感じます。
そして、転向せずに殉教する人、しない人、それぞれ、どんな思いで亡くなり、また、その後人生を生きたのか、それに思いを馳せるとかなり興味深い。
自分だったら「転びました。転びました。」と言って、夜だけこっそり信仰すりゃいいじゃん、的な、まさに
『嘘も方弁』
という発想しかないだけに、そこまで一途になれる理由ってなんだろ、と、思うわけです。
一度しっかりと隠れキリシタンツアーでもやってみたいものだ、と、思いました。
九州と東北か。
遠いな。。。