長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

山城を巡るといふこと⑥ ~体力消耗萌え~

2012年01月31日 | 山城を巡るといふこと
 山城跡を攻める場合には、激戦となることがあります。
 きつい斜度に苦しめられ、

 現在は草が生い茂り、

 転落の危険性すら…。


 こうしたハードな行軍時に、苦痛に顔が歪む軍勢の中に、稀に恍惚の表情を浮かべ陶酔しながら歩いている者がいます。けして苦しみのあまりおかしくなったのではなく、体力の消耗を無上の喜びと感じているためで、これが体力消耗萌えの正体です。
 また、突然猛スピードで走り出して、普通の人があえぎながら登っている山道を高速で駆け上がっていく場合もあり、周囲を唖然とさせることも多い。こうした己の体力の限界に挑戦する喜びを持っている場合がありますが、周囲からドン引きされている場合もあります。
 このタイプは城にあまり興味のない場合も多く、城好きと分類してよいかどうか疑問が残るため、今後、さらなる研究が必要です。

 城そのものというよりも、城攻め時における現地の食べ物や温泉に萌えるタイプもいます。城攻め時付随のものに萌える、という点で共通しているため、共通のカテゴリーで語られることも多いようです。

設楽城 ~意外とすごい城~

2012年01月30日 | 落城戦記
東栄町にある設楽城。国道151号を走っていると目立つ看板がありますので、迷うことはないかと。途中城下施設のあった辺りは道が細いので対向車が来ないかヒヤヒヤしますが、そこを抜けるとコンクリの登坂道を走って広い駐車場へ。そこから歩いて3分で城に到着すると言う、大変お得な城です。
まちづくり団体の方々がこの城の整備を行っているらしく、木も伐採されて、竪堀が見やすくなっていたり、ありがたい状態になっています。
現地案内看板には復元図と縄張図が載っており、なかなか親切。


縄張図は結構載せてくれるところが多いですが、復元予想図は少ないです。
この城、振草川の蛇行により三方を川に囲まれた尾根の突端に造られているため、尾根筋に堀切を入れてしまえば、あら不思議。城の出来上がりです。こうした選地のよさもありますが、上記縄張図でお分かりいただけるように、大堀切と丸い土塁が目を引きます。実際、この現物を見たら、城好きならば興奮すること間違いなし。
派手なエピソードがなく、若干東三河の平地部からは奥に入るため、ひっそりとたたずむ地味な城ですが、山城の面白さが凝縮した素晴らしい城です。
実際、この城を下見した城に興味の無い方でも「あの城はすごいわ。」とおっしゃるくらいです。複雑な縄張で玄人向けの技巧が凝らされた古宮城よりも、シンプルで一つ一つの機能がわかりやすいこの城の方が城初心者には親切なのかもしれません。そして、玄人好みの方でも、よくよく見ると飽きの来ない城となっています。

遊歩道の先にある大堀切から丸い土塁を見上げると、優に3mはあるのではないかと言う巨大さ。この土塁があるため、主郭部分へ侵入するには、そのまま遊歩道から主郭部分へ上がる道と堀切を通って反対側から登る道の二つになります。
こりゃどうみても丸馬出の機能だ。

写真ではなんともその迫力が伝わらず、何度も撮りなおしたのですが、これが限界。大堀切から連続する形で東西に竪堀が落としてあるのは、現地を見ればすぐにわかりますし、縄張図を見ても如実に現れているかと。残念ながら遊歩道を作る際に、西側竪堀の一部を壊したのでしょう。コンクリ舗装の下の土が流れて、若干浮いた形になっていました。
丸い土塁がある郭から本丸までは意外と広さがあり、そこそこの人数を収容できます。とにかく切り立った崖の上にあり、木が無ければ相当見通しが聞いたであろう事は簡単に想像できます。

そして、この城、大堀切を挟んだ反対側の尾根にも城郭的な工夫がなされています。
途中、尾根を切岸で細くしており、更に進むと、虎口的なものが現れます。

上は主郭へ向かう道(南側)から撮影したもの。写真左の高まりと手前の方に堀が入って道が狭くされています。
大堀切で敵を遮断する前に、まずはここで尾根筋からやってくる敵を食い止めることを考えたのでしょう。

堀切と丸い土塁は、明らかに武田の影響を受けていると言って間違いないのではないでしょうか。『愛知の山城ベスト50を歩く』(サンライズ出版)でも「戦国末期に改修されて現在のような形になったと考えられる。」と言っていますが、全く同感です。自然地形を生かして竪堀や堀切で守っていた城に、武田の築城術が入り込み、堀を深くして大堀切にするとともに、丸土塁で馬出機能を持たせたのでしょう。

残念ながら、この城に関して有名武将のエピソードがないので見落とされがちですが、縄張が好きな方なら、きっと満足していただける城だと思います。

ここは、本当に一見の価値有りです!

また、この近くに「とうえい温泉」という立ち寄り湯があります。結構いろんな風呂が合って楽しめますし、広いのでゆったりできます。お勧めはチキンカツ。えらいことデカイのです。そして確か800円程度。安い。最近胃袋が小さくなった私だと、食べきると腹がはちきれそうな大きさです。
城で動いてガッツリ行きたい方は是非。東栄町は東栄チキンといって鶏肉を売り出していますので、から揚げかチキンカツをお勧めします。確かに美味しいですよ。
ただ、チキンカツがたまに売り切れのときがあるので、要注意です。

奥三河城攻めスタンプラリー 全城制覇!

2012年01月29日 | 奥三河
本日、全七城を制覇しました!

まぁ、7つの城では少なすぎるかな、とも、思ったのですが、企画段階では国道151号の太和金トンネルが謎の土砂崩壊を始めるし、国道301号が深層崩壊系で路肩崩落するわは、どちらも復旧の見通しが立たない、という状況だったので、7つでも難しいか?と、思っていたのですが、301号も片側のみとはいえ復活したので難易度が下がっています。もっとも、1日で全部となると、スタンプラリーだけやる、ということなら可能ですが、しっかりと城を見ようと思うと最低2日は必要かと思います。

本日は、主催者が開催した郷土史家による現地ガイド開催日でした。対象は宇利城と古宮城。なにせ、どちらも縄張的には特徴がありますし、現地の人の話と言うのは聞いていて外れたことがない。地元だけに伝わる伝承などは勿論のこと、ガイドさんの語り口だとか、その人特有の解釈などを聞き、『なるほどそうきたか。』とか『いやー、俺の解釈は違うけどねぇ。』などと自分の中でツッコミを入れると本当に面白いのです。当然マナーとしてガイドさんのお話はお聞きしています。あくまで心の中です。

どっさぶい中、朝、宇利城へ行くと…。
駐車場が満杯でめちゃくちゃ人がいるのに驚く。40~50人はいようか。まぁ、20から多くて30かと思っていたのでびっくり。また、ナンバーも名古屋だ岡崎だと市外から結構来ているようです。
現地ガイドは安形伊佐男さんという元教員の方だそうです。御年84歳と聞いてびっくり。めちゃくちゃ滑舌が良く、声もよく通る。マイクいらずでした。参加者の呟きじゃないですが「見てきたように話すねぇ。」という感じ。「あそこから煙が立って山に向かってたなびいて、一気に景気をつけた。」とかです。松平清康の布陣場所や戦闘経過に伴う陣移動など、やっぱり現地の人だからこそ土地勘がある話で面白かったです。こういうのは現地に行かないと体験できません。

安形さんは麓で説明を終え若い人にバトンタッチする予定だったようですが、久々に大勢の人が宇利城にやってきて気分が高揚されたのか、なんと最後まで登られてガイドされていました。こういう何気ないエピソードが私的にはツボなんですよね。
戻りがけに、城北側の堀切、巨大な古井戸(天水溜りだろうとのこと。)

を見たあと、今回私が一番見たかった『石垣』を見に行きました。古絵図を見ると総石垣づくりかのような書き方がされており、「えー、この時代に石垣?」という感じだったので、どうしても見たかったのです。すると、ありましたよ。木の根っこのおかげで保持されていた石垣が。確かに。

まぁ、評価は専門家の方にお任せします。

その後、宇利城攻めで燃やされたという伝承を持つ慈廣寺(じこうじ)さんを見学。

このエピソードは風は山河よりでは割愛されたそうです。寺を燃やすというのを武田の大悪事とみなす宮城谷さんの話では、ヒーロー清康が寺を燃やすのはよろしくなかったのか、それともご存じなかったのか。

その後、片側通行可能になった国道301号を。

通行は結構普通です。しかし、片側の道がごっそり落ちてますので、そりゃあ、相当なもんだのん、と、思わず唸る。この辺りの土はザバ土という、それこそザバザバ落ちてくる脆いものだとか。怖いものです。寒い中、日差しも無いのに交通整理している方には本当に頭が下がります。

その後、愛知県最高の縄張を持つ(と、私が勝手に思っている)古宮城を。の、前に昼飯をつくで手作り村で食ったのでついでに亀山城を落としてくる。古宮城は歩いて移動の予定だったのですが、地元で「ばばころがし(おばあさんが転がされるほどの強風)」という名前が付くほどの強風が吹きつける時期らしく(現地ガイド原田さん曰く。笑。)、急遽ピストン輸送が行われ助かりました。
原田さんの声の調子が悪いとのことで、若いガイドの人とコンビでガイドされていました。しかし、あらためて巨大枡形をじっくり見ましたが、鳥肌モノですね。

真ん中の大堀切、西城の芸術的なまでの複層の円形の堀と土塁。思わず「美しい」と見とれてしまうレベルです。本当、写真では平板な感じになってその迫力が伝わらないので、是非、現地で見て感じてもらいたいです。その後、東城も見学していると鹿の皮というか死体が。。。聞けば区有の場所らしく鳥獣害で駆除した動物が埋められているそうです。それを、狐だかが掘り返して食ってしまうようです。驚きましたが、これも現地ならではのもの。

帰りにつくで手作り村で買い物したら、なんと白菜一玉60円!あまりの安さに二玉買いました。しんなりしていたのですが、家で食べると歯ごたえがすごくて見た目との違いにびっくり。つかの間の独身者の食卓を彩ってくれました。


各城についての詳しい説明は、また、日を改めて。
まずは全城制覇のご報告です。

清盛

2012年01月29日 | 日記
大河ドラマ『清盛』をはじめてみました。
いや、面白い。
中井貴一が良い。武田信玄を主演した時に比べて深みが増してイイ味を出してますね。松山ケンイチは線が細いのでは?と、思っていたのですが、なかなか好演していますね。若干足りなさを感じる部分も無いでは無いですが、全然許される範囲です。
第四回目は有名な「伊勢の瓶子(=平氏)は素甕(すがめ=眇目)なり。」の話ですね。
これは、平忠盛が眇目(外斜視)だったことを朝廷でからかわれた話です。踊りを踊っているときに、「伊勢の瓶子(徳利だと思っていただければ。)は素焼き(釉薬などの無い陶器)だ。」と場の風景を描写したように見せかけ、「伊勢出身の平氏である平忠盛は外斜視だな。」と意味をかけて忠盛をからかっているのです。
さすが貴族。性格悪。
もっとも、忠盛役の中井貴一は外斜視ではなく、そのくだりは酒を掛けられるというひどい扱いを受ける、という内容に変えられてました。さすがに、このご時勢「伊勢の瓶子は・・・」とやると心無い誹謗中傷を助長しかねないので止めたのでしょう。賢明な判断だと思います。

この後、源為義の一件では隠された本性を出して舐めんな的な痛快さがありました。
こうした新参者イジメのようなものを受けながら、頑張って息子の清盛の代で見返す、ということですが、なぜか駄目駄目な忠盛、天狗の清盛的な見方をされつづけて不当に評価が低い平氏の扱いだっただけに、面白い感じがいたします。まぁ、滅んだ者に主張権がないので不当に評価され続けたのが平氏だと思っていただけに『よしよし』という感じがしました。

本当は第1回目から見たかったのですが、何かと忙しく録画し忘れて見られずじまい。海の色が汚いと兵庫の知事が言ったとかで話題になっていましたが、そんなことはどうでもいいのでは?そんなことでわざわざケチつけてどうなる、という感じがします。まるで大河ドラマの時代考証が間違っていると鬼の頸を取ったようにNHKに電話をする自称歴史に詳しい人達と同レベルだと思います。
本日自分で清盛を見てみて、そんなことよりもドラマとしての内容を評価すべきだと思いました。

なんでここまで清盛を誉めるのか。
それは、私の家は平家の落武者伝承を持っているからです。そういや、このブログタイトル、何気に長篠落武者日記と付けましたが、長篠付近に住んでいる落武者の子孫という意味では、あながち間違いではなかったかと・・・。
ま、貧乏寺の住職だったと聞いておりますが、その場所は確かに鎌倉街道が通っており、とんでもない山の中ですから、あながち落武者で間違いないのかな?と思わんでもないですが、家系図をみたら、やたらと昔の先祖が長生き(80歳代がザラ)なので、明らかに系図偽造だろうと思いますが、平氏のよく知らない人に辿り着いていました。和田義盛という人ですが、鎌倉幕府の侍所所司で有名なあの人ではなく、同姓同名の人で実績がよくわからない人がうちの先祖だとか。
そんなんでも、「あ、俺平家系か。」と小学生の頃刷り込まれてしまったのですから、何かと平氏びいきなのです。でも、世の中源氏万歳の小説、ドラマが多くて憤慨し、タッキー「義経」は絶対に見なかったものです。
でも、系図は平氏に辿り着いていますが、本当は源氏の血筋だったら・・・。

うーむ。
まぁ、この歳まで平氏びいきで来たから、このままでいいや。

城攻めスタンプラリー in 奥三河。四城落城。

2012年01月28日 | 奥三河
早速城攻めに行ってきました。

ルートは、田峯城→黒川城→設楽城→長篠城という周回コースです。もっとも、現在は151号の太和金トンネルが崩落して通行止めとなっているため、完全な周回ではなく、黒川城へ行って、少し戻る格好になります。田峯城からは県道を利用して津具を経由し豊根村黒川城へ向かうため、地理不案内な人にはわかりにくいルートです。そこは地元の強み。慣れた山道を12年目のフォレスターで気分よく走ってきました。久々の単独行なので、同乗者のことを気にせず運転できるのはありがたい。
昨日は山の方が雪雲に覆われ見えなくなっており、朝もうっすらと白かったので危険かな?と思ったのですが、心配された道中の雪は全くありませんでした。田峯城へ行く途中の道はこんな感じ。

硫安を撒いてありましたので、凍結も心配なし。道路管理の方々に感謝です。
11時頃に田峯城へ着きましたが誰もいない・・・。

受付の方は掃除をされていましたが、暖かいお茶を振舞ってくださり、寒かっただけに大変ありがたかった!来訪帳にもお茶への御礼の言葉が多く、こういうところが田舎の良さだな、と、しみじみ。人もいないので、好き放題見て回っていましたが、やはり田峯城の建造物とは関係がないのですが、近世の御殿のような感じのものを復元した施設を建築するにあたり、縄張的にはあまりよろしくない事態になっているような感じを受けました・・・。
もっとも、駐車場側からは郭の下を回らせ攻撃導線を増やす配慮で道が作られていたり、筆頭家老城所道寿の名を冠した道寿曲輪が主郭近くを守るように配置されていたり、と、それなりに見所はありました。
その後、黒川城へ向けてGO。津具から豊根に抜ける道は意外と広く、雪も無く快適でした。城攻めを行う場合には、ぜひともこのルートを押さえておいたほうが良いかと。(国道257号から設楽大橋東交差点で県道10、県道427で津具に入り道なりに県道428から国道151号を経由し、ゆーらんどパルとよねを目指して県道428へ再度入るルートです。県道10が途中対向車要注意ですが、それ以外は全て対面通行可能です。)
黒川城はゆーらんどパル豊根の駐車場を使わせてもらい、そのまま観音巡りの場所へ。史跡の破壊が著しいですが、城の東側にある道を登って上がっていくのですが、郭と思しき場所との関係性からこれは城の道を利用したのではないかと思われます。そういう目で建物や忠魂碑のある場所を見ると、遺構…?と、思えるような場所もある。

上の図は、ひょっとして虎口を利用したのか?と思われる場所です。城で最も高い場所です。郭をめぐらせ、直角に道がついています。

で、落城したスタンプラリーの中身を見ると「ゆーらんどパルとよねが200円で利用できます。」とある。まじすか、200円?!聞けば151号が通行不能になり、誘客のため300円に値下げしており、なおかつスタンプラリーは割り引かれるので200円とのこと。入る気は全く無く来たのですが、無類の風呂好きなので、以降の城攻めによる湯冷めを心配しつつ入湯。冷え切った体(豊根の気温は1度)にお湯が染込む染込む。ちょうど昼飯時なので客も少なく、最高でした。200円ならば入るべしです。

その後、道を戻りいよいよ151号の迂回路へ。ちなみに太和金トンネルの現状↓

道の狭さや雪を心配しながらだったのですが、杞憂に終わりました。

綺麗な道で全て対面通行可能。時間はかかりますが、同乗者がいない状態では、むしろ運転が楽しかったです。

次は設楽城。ここも誰もいない…。今までの城で誰とも出会わなかった…。大丈夫なのかスタンプラリー、と、思いながらも、気を取り直して登る。やっぱりこの城すごいですわ。
実は、実際に訪れた人の評価がずば抜けて高い城なのです。古宮城とかは広すぎて疲れてしまいますが、この城はコンパクトでありながら技巧が凝らされており、見やすい!しかも、まちづくりをしている人達が見やすく手入れをして下さっており、竪堀などが以前に比べ格段に見やすくなっていました。ありがたいことです。
この城の見所へはコンクリの道を登るので楽なのですが、反面、縄張をぶった切った部分も一部あり、そこだけが残念。まぁ、楽なので贅沢はいえません。しかし、登った先に現れる大規模な堀切と丸い土塁の組合せは圧巻です。
この丸い土塁は明らかに丸馬出と評価して問題ないと思います。

川に囲まれ、尾根を断ち切り、なんて、山城のお手本のよう。主郭と反対側の尾根も是非。堀切と、虎口があったりして、うれしくなってしまいます。

その後、きてみん奥三河!の温泉系のオープニングイベントを見た後、長篠城へ。このとき16時20分程度。やっぱり、ここの入口にある土塁の屈曲はいつ見ても見事です。

時間的に人がいなかったため、結局本日私以外にラリッてる人にあえず鳥居強右衛門並に無念、という感じでした。

さて、各城のもう少し詳しい話は別の日にじっくり行いたいと思います。

明日は、宇利城と古宮城の現地ガイドの日。これに参加すれば、亀山城にも行けるので、一気に全城制覇だ!

さまざまな調べものが・・・。

2012年01月27日 | 日記
 一オタクに過ぎない私ですが、今回の城攻めスタンプラリー企画に多少携わっているため、さまざまに調べものをしなければならなくなることがあります。愛知県史だ作手村史(新・旧あります。)だ愛知の山城ベスト50だその他もろもろ資料だと比較して眺めておりますと、食い違う箇所が出てきてしまいます。
 やはりベスト50が一番学術的にも最新の状況を反映した記述がコンパクトになされている、さすが、という感じです。

 と、調べものをしながらも、生業としている本業も本業で結構調べものがあります。城とは全く畑違いなのですが、これまたあれやこれやと資料を比較し、実例を見比べる必要があるので、作業的には城とかぶる部分があります。そして、どちらもモノを書かなければならないのです。
 本業の方では、現在月イチ連載でコラムを担当しており、一緒に掲載される4コマ漫画の原案(私が書いてもいいのですが時間が無いので会社の中で漫画の書ける人に画を書くことはお願いをしています。)も考えないといけない。しかも、ものすごく狭い範囲ではありますが、目を皿のようにして読む人たちがいますので、気が抜けません。おかしなことを書こうものなら、どんだけ攻撃されるかわからない。内容は慎重に慎重を期しますし、高校生レベルならば理解できる程度にしなければならない。やっと本日5回目がほぼ完成し、後1回で終了します。やれやれです。

 その他、今度の日曜日に一緒に城へ行ってくれる方達の手配やら借りた資料の返却、その他突然の来客だので、最近わけわかんなくなっています。現在妻が出産で里帰りしているため、自分のことに専念できるからこそやれていますが、とても小さい子と一緒に暮らしながらでは無理だなぁ。あんまり家族をほったらかしにしたくないですからねぇ。

 まぁ、忙しいうちが華ですかね・・・。

独身

2012年01月26日 | 日記
今、久々の独身生活を送っております。
妻が嫡男出産のため里帰りしてしまい、独身になった訳ですが、これが結構疲れる。上の娘のときにも同じように独身生活を送った経験もありますし、そのときはほぼ毎日日付変わるまで残業の日々だったものですから、今の方が楽。幸い大学時代下宿暮らしだったので、一通りのことはできますのでなんとなりますが、苦手なものが「アイロン」
Yシャツだけをかけていますが、1日1枚が関の山。それ以上になると貴重な夜の時間がなくなってしまう。自分の実家がクリーニングやっており、娘の出産時には親の店へ持っていったのですが、今は遠く新城へ来たため、アイロンがけをやっております。まぁ、こっちの皺をとれば、あっちに皺が付き、あっちの皺を取ったと思ったら、そっちに皺が・・・。という感じ。ああ、めんどくさ。

外食すると高いし、安いところはカロリーが高くてダイエット中の今は適さないし、で、飯も作っているため時間がなかなかありません。ついつい夜0時を過ぎてしまいます。
里帰りする前は、子どもが一緒に寝ないと起きてきてしまうので下手すれば夜の9時台に寝てしまっていましたが、久々の夜更かしをしていると、体力の衰えを感じてしまいます。

アラフォーに突入してしまったので、体力が落ちて当然。しかし、定年後の居場所を確保するためにも、自活できる技術は付けておかないと、まずい世代だということは認識しております。

でも、アイロンだけは苦手なんです。。。

古宮城 ~各種資料から縄張をかんがえる~

2012年01月25日 | 古宮城
 奥三河の城で最高の縄張を持つ城です。実際、過去の『歴史読本』の城ランキングでは愛知県第3位、『日本名城百選』(小学館)では愛知県ベスト5に選出されています。

 独立丘陵を丸ごと要塞化した城であり、土木量の多さからかなりの力を持った大名でなければ作れません。『当代記』を基に『愛知の山城ベスト50を歩く』(サンライズ出版)には元亀4年(=天正元年=1573年)4月に”普請”の記述があり、武田により元亀四年に築かれたとされています。しかし、『三河国二葉松』という地誌を基にした『旧作手村史』には元亀二年の武田氏の奥三河侵攻時に構築されたとしています。
 最近、元亀2年の武田信玄による奥三河侵攻は、根拠文書の比定年代が間違っていたとの説から確認できていないというか、そもそもなかったのではないか、という説が有力だそうです。最近どこかの講演会で小和田哲男氏がおっしゃられたので、wikiで調べたら、やはりそのとおりだと載っていました。wikiの根拠の新書を私は読んでおらず、至急読まねば、という感じです。そうなってくると、やはり二葉松の元亀二年説よりも元亀四年説をとりあえず信じることがよろしいかと。
 しかし、そうなると天正元年(=元亀四年)に奥平家は武田勝頼を裏切って徳川家につきます。これが、8月。9月16日には長篠城番になり、9月21日には人質である奥平仙千代を勝頼によって殺害されてしまいます。この裏切った際に、この辺りの町村史では、奥平勢は武田勢を撃退して、その際、古宮城は自焼陥落したとされていることが多いのです。さらに、奥平勢はこのとき作手から武田勢を一掃したとも書いてあるものもあります。そうなると、この古宮城、たった四ヶ月でこれだけの土木量をこなしたことになるのか、という疑問が。
 ところが愛知県史を眺めておりますと、天正二年11月に武田勝頼が小幡与一等へ作手城番を命じるものがあったりします。また、この時期近くに鳳来寺に対して武田勝頼が禁制を出しています。その他、奥平当主貞能の母が永住寺と言う作手の麓にある旧新城市の場所に鐘を寄進したりしていますので、奥平は少なくとも作手を完全掌握したとまではいえず、武田が古宮城を作り続けていたと考えた方が妥当ではないかと思います。そうでなければ、こんな複雑な城はとても作れないと思います。

 縄張は『二葉松』によれば築城の名手馬場美濃守信房とされています。
 馬場信房。信長の野望とかでもかなり知力も武力も高い武将です。設楽原の決戦では、殿を努めて武田勝頼を逃がしたのを確認して敵に討たれるなど、信長公記でも「馬場美濃守、手前の働き比類なき」と絶賛されています。個人的には大好きな武将の一人です。馬場美濃の築城術はあの山本勘助仕込な訳です。ちなみに、山本勘助の生誕地とされている場所が、この近くの豊川市の本願寺というお寺にあります。(勘助生誕地は静岡と言う説もあります。)
 
 現在、城の西側を国道301号、南側を県道が走っていますが、中世も似たようなところを道が走っていたようで、岡崎、豊川、豊田、鳳来、新城、設楽(田峯)と繋がる重要なポイントに立地しています。国道301号を挟んだ西側の山には『塞ノ神城』があり、両城が連携して機能した場合、敵の行動は丸見えとなり、苦戦を強いられることになったと思います。
 
 なお、城の東側と北側は湿地帯であり、天然の防御設備として利用されたことが想像されます。
 大きさは250×200mで、この土地の領主奥平氏の居城亀山城の150×60mを遥かに上回る規模です。いかに武田の権力が強かったのか、ということが窺えます。『日本城郭体系9』(新人物往来社)には「武田氏の東三河進出から上洛するための西三河攻略の一大拠点として、もっとも重要な役割を果たすべくしてこの地に構えられた城であったと思われる。」とあり、やはり巨大さそのものに、周囲を威圧する効果も求められていたのかもしれませんね。

 城の特徴としては、真ん中を大きな堀で断ち切り、あたかも二つの城が並んでいるような『一城別郭』式の造りと、城の西側に念入りに施された弧状の幾重もの堀、城の東側にある巨大な両袖枡形虎口です。この3つを抑えれば、とりあえず『この城を見た!』と言ってよいかと。

 弧状の堀や枡形虎口などは武田軍が好んで利用する技術のため、馬場信房の縄張の伝承もあながち間違いではないかと思われます。武田式城郭といえば、丸馬出と三日月堀ははずせませんが、そのセットが見当たりません。もっとも、西城自体が東城の馬出に相当する造りとなっており、これをもって丸馬出に該当すると評価する方も多いです。城の大手口は城の西側に開けており西城主郭へは回りこむ形となり、そこを通過して東城へ移るので、結果的に西城は丸馬出と同じ効果をもたらします。丸馬出として考えてよければ、武田の設計思想が如実に反映された城といってよいでしょう。
 ちょうど、城の大手口にあたる部分が現在、残念ながら民家となって破壊されてしまったため、この部分がわかれば、ひょっとすると丸馬出と三日月堀でも出てくるかもしれません。
 
 『愛知の山城ベスト50を歩く』では、山麓を横堀で囲い込む形態を武田式城郭では見ないために、小牧・長久手の戦いの時に、徳川家康により増強された、という仮説も提供されています。近年、愛知県史の史料編纂が進み、研究成果がさまざまに報告され、小牧・長久手の戦い時における徳川領国の総力戦体制が指摘されていることから、そうした仮説も成り立ちうると思います。そもそも、城は誰か”だけ”が作ったものは少なく、昔あった小さな城を後世に改築を重ねてできたものが多く、一時期だけに限定するのはかえっていけないのかもしれませんね。まぁ、この辺りの話は、私レベルではわかりませんので、今後の研究が進むことを望んでおります。
 時間があれば、城の東側主郭の東にある土塁に囲まれ、出入り口のない郭を見学されることをお勧めします。どうしても西側の幾重の堀を見て満足してしまい勝ちなので、見過ごされやすい場所です。出入り口が無いために、人質を収容していたのではないか、はたまた食料庫?弾薬庫?とさまざまな説が出されていますが、確定していません。

 今回の城攻めデジタルスタンプラリーの縄張図を見比べていただければ、古宮城の縄張の常軌を逸したともいえる細かさがお分かりいただけると思います。現地でこの複雑さを眺めていると、城全体から何ともいえない緊張感が漂ってきて、敵の最前線にぽっかりと浮かぶ城の持つ性格がなんとなくわかった気がします。
 
 しかし、そんな緊張感を一気にほぐすものがあったりします。

 古宮城の一角は白鳥神社となっており、そこの狛犬(稲荷の狐?)です。なぜか、やたら現実の犬っぽく、耳が垂れており、なんとも愛嬌がある狛犬さんです。ぜひ、この狛犬さんの頭を撫でて、日頃の生活の疲れを癒されてみてはいかがでしょうか?

 とにかく保存状態の良さは、過疎地だからこそ。何度来ても新たな発見があるこの城。是非、一度ならず二度・三度と訪れることをお勧めします。

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城攻めスタンプラリー 奥三河 プロモツアーについて

2012年01月23日 | 奥三河
奥三河の城攻めスタンプラリー企画に連動したプロモーションツアーなどが実施されるそうで、本日その詳細が記者発表されたようです。


(上記は別の企画による原田純一氏による古宮城案内時の写真)

(1) 郷土史家と歩くフィールドワーク 平成24年1月29日(日)開催
  「山城日和(やまじろびより)」
  松平清康※1による攻略で有名な宇利城と県内屈指の縄張り※2を持つ古宮城の2城の見所を、郷土史家による現地解説でお楽しみいただけます。
 ※1:徳川家康祖父 ※2:堀や郭の配置プラン
     
(2) 奥三河の山城を徹底攻略するための歴史講座 平成24年3月10日(土)開催
「山城街道攻略指南(やまじろかいどうこうりゃくしなん)」
  建造物がなく堀や土塁などの遺構が残るのみである奥三河の山城群は、ただ見るだけではその面白さが伝わりません。戦国時代の奥三河を巡る情勢や数々のエピソードから、先人の知恵の結晶である縄張をどう読み解くのかを御紹介する講座です。
場所 新城市設楽原歴史資料館
講師 設楽原歴史資料館主任学芸員 湯浅大司 氏
   「奥三河を巡る情勢と山家三方衆」
   三河城郭史談会会長 高橋 延年 氏
   「奥三河の山城と縄張」
定員 先着50名
     
(3) 山城攻略実“戦”ツアー 平成24年3月11日(日)開催
   実際に山城をガイドと共に歩いて城にまつわるエピソードと城の凄みを実感していただくバスツアーです。対象となる城は、戦国時代奥三河の領主達であり、長篠の戦いでも重要な役割を演じた『山家(やまが)三方(さんぽう)衆(しゅう)』の居城である亀山(かめやま)城、田(だ)峯(みね)城、長篠(ながしの)城です。
  三河城郭史談会会長 高橋 延年氏とともに、亀山城、田峯城、長篠城を郷土史研究者等の案内によりバスで巡ります。亀山城:郷土史家 原田純一氏、田峯城:設楽町文化財保護審議会会長 今泉宗男氏、長篠城:長篠城址史跡保存館館長 山内祥二氏
定員 先着20名
 
詳細は下記アドレス愛知県HPで↓
http://www.pref.aichi.jp/0000048023.html

 ようやくこの企画の全貌が明らかになってきました。この地域の地理に不案内だ、という方はご利用されるとよろしいのではないでしょうか。

山城を巡るといふこと⑤ ~現説萌え~

2012年01月23日 | 山城を巡るといふこと
 各地で行われる発掘調査などの現地説明会や学者などが講師として登壇する歴史に関する講演会に出向くことを生き甲斐としている、最も学術的なタイプです。


 専門的な知識も豊富で学者顔負けの人も多いのですが、研究時間を取ることができるという条件が必要なので高齢の方が多いのも特徴です。
 講演会や現地説明会には、本来知的欲求を満たすために参加している筈なのですが,説明や講演を聴いているうちに自らの知識を披露したくなり、質疑応答時にひたすら自分の知っていることを蕩々と述べだし、質問なんだか自慢なんだかよくわからない話を延々と始めてしまう傾向にあります。こうした場合、自分が得意満面になればなるほど、周囲の失笑を買っていますので、十分に注意しましょう。
 なお、このタイプが惚けてしまった場合、介護に困惑することが多くなりそうです。自分の配偶者がこのタイプの場合、要注意です。