奥三河の城で最高の縄張を持つ城です。実際、過去の『歴史読本』の城ランキングでは愛知県第3位、『日本名城百選』(小学館)では愛知県ベスト5に選出されています。
独立丘陵を丸ごと要塞化した城であり、土木量の多さからかなりの力を持った大名でなければ作れません。『当代記』を基に『愛知の山城ベスト50を歩く』(サンライズ出版)には元亀4年(=天正元年=1573年)4月に”普請”の記述があり、武田により元亀四年に築かれたとされています。しかし、『三河国二葉松』という地誌を基にした『旧作手村史』には元亀二年の武田氏の奥三河侵攻時に構築されたとしています。
最近、元亀2年の武田信玄による奥三河侵攻は、根拠文書の比定年代が間違っていたとの説から確認できていないというか、そもそもなかったのではないか、という説が有力だそうです。最近どこかの講演会で小和田哲男氏がおっしゃられたので、wikiで調べたら、やはりそのとおりだと載っていました。wikiの根拠の新書を私は読んでおらず、至急読まねば、という感じです。そうなってくると、やはり二葉松の元亀二年説よりも元亀四年説をとりあえず信じることがよろしいかと。
しかし、そうなると天正元年(=元亀四年)に奥平家は武田勝頼を裏切って徳川家につきます。これが、8月。9月16日には長篠城番になり、9月21日には人質である奥平仙千代を勝頼によって殺害されてしまいます。この裏切った際に、この辺りの町村史では、奥平勢は武田勢を撃退して、その際、古宮城は自焼陥落したとされていることが多いのです。さらに、奥平勢はこのとき作手から武田勢を一掃したとも書いてあるものもあります。そうなると、この古宮城、たった四ヶ月でこれだけの土木量をこなしたことになるのか、という疑問が。
ところが愛知県史を眺めておりますと、天正二年11月に武田勝頼が小幡与一等へ作手城番を命じるものがあったりします。また、この時期近くに鳳来寺に対して武田勝頼が禁制を出しています。その他、奥平当主貞能の母が永住寺と言う作手の麓にある旧新城市の場所に鐘を寄進したりしていますので、奥平は少なくとも作手を完全掌握したとまではいえず、武田が古宮城を作り続けていたと考えた方が妥当ではないかと思います。そうでなければ、こんな複雑な城はとても作れないと思います。
縄張は『二葉松』によれば築城の名手馬場美濃守信房とされています。
馬場信房。信長の野望とかでもかなり知力も武力も高い武将です。設楽原の決戦では、殿を努めて武田勝頼を逃がしたのを確認して敵に討たれるなど、信長公記でも「馬場美濃守、手前の働き比類なき」と絶賛されています。個人的には大好きな武将の一人です。馬場美濃の築城術はあの山本勘助仕込な訳です。ちなみに、山本勘助の生誕地とされている場所が、この近くの豊川市の本願寺というお寺にあります。(勘助生誕地は静岡と言う説もあります。)
現在、城の西側を国道301号、南側を県道が走っていますが、中世も似たようなところを道が走っていたようで、岡崎、豊川、豊田、鳳来、新城、設楽(田峯)と繋がる重要なポイントに立地しています。国道301号を挟んだ西側の山には『塞ノ神城』があり、両城が連携して機能した場合、敵の行動は丸見えとなり、苦戦を強いられることになったと思います。
なお、城の東側と北側は湿地帯であり、天然の防御設備として利用されたことが想像されます。
大きさは250×200mで、この土地の領主奥平氏の居城亀山城の150×60mを遥かに上回る規模です。いかに武田の権力が強かったのか、ということが窺えます。『日本城郭体系9』(新人物往来社)には「武田氏の東三河進出から上洛するための西三河攻略の一大拠点として、もっとも重要な役割を果たすべくしてこの地に構えられた城であったと思われる。」とあり、やはり巨大さそのものに、周囲を威圧する効果も求められていたのかもしれませんね。
城の特徴としては、真ん中を大きな堀で断ち切り、あたかも二つの城が並んでいるような『一城別郭』式の造りと、城の西側に念入りに施された弧状の幾重もの堀、城の東側にある巨大な両袖枡形虎口です。この3つを抑えれば、とりあえず『この城を見た!』と言ってよいかと。
弧状の堀や枡形虎口などは武田軍が好んで利用する技術のため、馬場信房の縄張の伝承もあながち間違いではないかと思われます。武田式城郭といえば、丸馬出と三日月堀ははずせませんが、そのセットが見当たりません。もっとも、西城自体が東城の馬出に相当する造りとなっており、これをもって丸馬出に該当すると評価する方も多いです。城の大手口は城の西側に開けており西城主郭へは回りこむ形となり、そこを通過して東城へ移るので、結果的に西城は丸馬出と同じ効果をもたらします。丸馬出として考えてよければ、武田の設計思想が如実に反映された城といってよいでしょう。
ちょうど、城の大手口にあたる部分が現在、残念ながら民家となって破壊されてしまったため、この部分がわかれば、ひょっとすると丸馬出と三日月堀でも出てくるかもしれません。
『愛知の山城ベスト50を歩く』では、山麓を横堀で囲い込む形態を武田式城郭では見ないために、小牧・長久手の戦いの時に、徳川家康により増強された、という仮説も提供されています。近年、愛知県史の史料編纂が進み、研究成果がさまざまに報告され、小牧・長久手の戦い時における徳川領国の総力戦体制が指摘されていることから、そうした仮説も成り立ちうると思います。そもそも、城は誰か”だけ”が作ったものは少なく、昔あった小さな城を後世に改築を重ねてできたものが多く、一時期だけに限定するのはかえっていけないのかもしれませんね。まぁ、この辺りの話は、私レベルではわかりませんので、今後の研究が進むことを望んでおります。
時間があれば、城の東側主郭の東にある土塁に囲まれ、出入り口のない郭を見学されることをお勧めします。どうしても西側の幾重の堀を見て満足してしまい勝ちなので、見過ごされやすい場所です。出入り口が無いために、人質を収容していたのではないか、はたまた食料庫?弾薬庫?とさまざまな説が出されていますが、確定していません。
今回の城攻めデジタルスタンプラリーの縄張図を見比べていただければ、古宮城の縄張の常軌を逸したともいえる細かさがお分かりいただけると思います。現地でこの複雑さを眺めていると、城全体から何ともいえない緊張感が漂ってきて、敵の最前線にぽっかりと浮かぶ城の持つ性格がなんとなくわかった気がします。
しかし、そんな緊張感を一気にほぐすものがあったりします。
古宮城の一角は白鳥神社となっており、そこの狛犬(稲荷の狐?)です。なぜか、やたら現実の犬っぽく、耳が垂れており、なんとも愛嬌がある狛犬さんです。ぜひ、この狛犬さんの頭を撫でて、日頃の生活の疲れを癒されてみてはいかがでしょうか?
とにかく保存状態の良さは、過疎地だからこそ。何度来ても新たな発見があるこの城。是非、一度ならず二度・三度と訪れることをお勧めします。
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