長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

ミステリーバトル ~怪盗TKDからの挑戦状~

2014年01月31日 | 奥三河
新城市作手にある旧協和小学校を舞台にした謎解きイベントが開催されます。

その名も「ミステリーバトル ~怪盗TKDからの挑戦状~」

県内でもかなり早い時期(初めてくらい?)に鉄筋コンクリートで作られたという協和小学校。
校内ではアマゴを沢水使って飼育していたりする、素敵な小学校でした。
残念ながら少子化の流れには勝てず、平成25年3月をもって廃校となってしまいました。

しかし、
「この小学校の校舎内には、古より伝わる秘宝が隠されて」おり、
「その秘宝の隠し場所は、歴代校長にのみ代々受け継がれてきた」そうですが、
「昨年3月その長い歴史に幕を閉じ廃校になったため、秘宝の在り処を誰も知る術はなくなった。」
のだそうです!!

決して、歴代校長が何か不正な経理処理を引き継いできたわけではなく、古より伝わる秘宝が隠されていたわけですので、誤解なさらないように。

その秘宝を
「世間を騒がせている大泥棒「怪盗TKD」より一通の予告状が届い」たそうで、
TKDなる方は、
「「協和小学校に眠る秘宝を頂戴しに参上する」」
との予告状を出してきたそうです!

ところでこの予告状。
廃校の協和小に出しても放置されるだけでしょうから、きっと、新城市役所の財産管理の担当部署に転送されてきたんだと思われます。

しかし、愛知県警の方々も行政合理化などで人手が不足していて、とても手が回らないのだと思います。
「さあ名探偵諸君!怪盗TKDからの予告を打ち破り、協和小学校に眠る秘宝を守ってくれ!! 」
と、皆様方へ協力をお願いすることにしたようです。

どうやら御協力頂き見事守り抜いた方々には、なんと

『豪華賞品』

がもらえるそうです。

ちなみに、2名以上のチーム戦になるそうで、7名以上の場合は2手に分かれて守っていただくことになるようです。

開催日は、平成26年3月2日(日)。
第一部:午前10時00分START(午前9時00分受付開始)
第二部:午後2時00分START(午後1時00分受付開始)

参加費は500円で2月21日までのお申し込みが必要です。
申し込みや企画の詳細はこちらから↓
ミステリーバトル http://www.tees.ne.jp/~yasu-325/index.html

ところで、協和小に眠る秘宝とはなにか。

自然薯?
アマゴ?

いや、そんなものではきっとないのだとおもいます。
元々小学校と言うものは、地域が自分達の子弟のために地域の中心部に地域の皆で建てたものが多い。

昔、山林で大儲けしていたこの地域であれば、相当な何かがあるのかもしれません。
いや、それよりも戦国時代、この地域は徳川将軍家と直接血のつながりがある奥平家が出た地域。
ハンパなものではなく、それこそ伏見城の床が抜け落ちたというほど金銀を蓄えた徳川家康の埋蔵金レベルのものなのかもしれません。

何なのか?

気になる方は今すぐお申し込みを!↓(再度掲載したる。)
ミステリーバトル http://www.tees.ne.jp/~yasu-325/index.html
ちなみに、本ブログの紹介記事は、企画の設定と現実をかなりごっちゃにして書いております。
この記事のせいで、旧協和小の歴代校長の家が家宅捜索されたり、旧協和小跡地の校庭にとんでもない大きな穴が掘られていたらどうしよう・・・。

なお、対象年齢としては小学校高学年以上であれば、楽しめる内容となっているそうです。
協和地区は自然が本当に豊かでのんびりとした、大変良い地区です。
お時間のある方は是非。

写真

2014年01月29日 | 日記
こないだ自分の映っている写真を見ました。

すると、そこには太ったおっさんが・・・。

うーむ。
自分の頭の中ではもう少し痩せているはずなのだが、と、思いながら改めて写真を見ても、変わりわない。
大変に醜悪な状態で映っている。

写真に映っている他の方を見た場合、自分が普段認識している状況と大差ない。
と、いうことは、普段他の方が認識している私というものも、この写真の状態な訳か、と思う。

要は、他人の目に映る自分はこの写真のとおりである、ということ。

おおおお・・・、神よ。
写真とはかくも残酷なものか!

鏡に映る自分、というものは、いつの間にやら自分の過去の記憶映像により脳内補正されているのか、と、思い至る。

元々、血圧や脂質といった数値はよろしくない上に、体重計に乗るまでもなく体重は増加していることはわかっているのです。
ベルと締めるときの穴が増えたり減ったりすることや、ズボンの太ももや尻に対する当たり具合ですぐわかる。

ただ、「ま、いいか。」という軽い気持ちで特に節制もしないため、元に戻れなくなってしまうのです。

今までも体重を落とすことはあったのですが、いつの間にやら戻る、ということの繰り返し。

間もなく不惑を前にして、今後の体調変化に今までは考えられないようなことが起こる、と、先輩諸氏から脅されているだけに、ネットの広告で爺さんが「あのとき血圧管理をしておけばよかった」という広告が最近やたら出てくるようになったのが気になってしょうがない。

正しい現状認識が無ければ改善の必要性もわからない。

ちょっと、ここは本気で減量しなければ、と、思っております。
幸い、今月に入ってから昼に歩く時間が確保できるようになったので、毎日30分でも歩くようにしています。

さて、今後どうなることやら。

奇祭

2014年01月23日 | 戦国逸話
祭り。

東三河では手筒花火などという伝法なものがあり、それこそ侠気を発揮して男としてナンボ、という世界観があるように見受けられます。
私も一度だけ上げたことがありますが、やった後の爽快感は確かに得難いものでした。


※私です。

各地で神事、祭りで人々が熱狂しています。
が、その元を辿ると、相当に荒々しい原型にたどり着きます。

今回は戦国時代ではありませんが、明良洪範という本の話を読んでいましたら、尾張のお祭りの話が出てきまして「え・・・。」とドン引きした話があったのでご紹介を。

〇尾張大納言光友(巻15)
 尾張大納言光友卿は光義と名乗っていた時、法を厳重にして万事を先代義直の掟を守らせていた。

 正月25日は熱田で神事がある。
 この神事は、名古屋の者と熱田の者が打ち合うもので、昔からの行事である。
 昔は、鑓や薙刀で戦っていたが、やめさせて、今では刀で打ち合い、双方に少々怪我人が出ると奉行が棒を入れて双方を引き分けている。

 また、正月13日は多田の神事があるが、この神事は、昔は道を歩いている人を捕らえて生贄にしていた。
 今では雉肉を人肉に代えて行っている。

 これらは皆、義直公の仁政の賜物である。(以下略)
 
 え~と。。。
 まず、1つめから参りましょうか。

 「うらにわさん、引越してきたばかりで知らないかもしれませんが、今月の25日にこのあたりの人は熱田の人達と刀で斬りあうことになってるんですよ。今年は当番ですからよろしく。あ、槍とか薙刀はだめですよ。」

 と、いう話は、今のところ自治会から来てません。
 熱田に住んでる先輩とかもいますけど、
 「いやー、昨日さぁ、例の祭りで斬られちゃって・・・。」
 みたいな話は聞いたことがありません。

 既に無くなったお祭りなのでしょう。
 て、いうか、無くなって良かったよ!!!

 鑓や薙刀を廃止して刀で斬りあうようにした、というも仁政の一つとなっているところを見ると、鑓や薙刀の方が死傷者が出やすい、ということを意味しているように見えます。
 戦国時代の戦争でも刀で打ち合うなんてことは頸でも取りに行く場合で、よっぽど槍や鉄砲で戦っていたようですから、初期の頃の熱田VS.名古屋の祭りは、実戦に近い。祭りと呼んでいいのかどうか、というレベルです。

 たぶん、それこそ、昔、何か遺恨があって、祭りにかこつけてやりあっていた、というのが真実に近いと思われます。

 しかし、奉行たちも大変です。
 怪我人が出始めた段階で「はい、終了~~~!」といいながら割って入るわけです。

 怪我人がでるような激しさが出ているときは、皆アドレナリン全開で燃え上がっているときに仲介に入らなきゃならないわけで、奉行にも怪我人がでたかもしれません。
 それこそ、
 「てめぇ、いてぇじゃねぇか!やめろって言ってんだろうがぁぁぁ!」
 と、熱田VS.名古屋VS.奉行の三つ巴になって・・・、という年もあったやもしれません。

 この祭りがなくなってほっとしているのは奉行達だったかもしれません。

 さて、問題は2番目、。

 『今では雉肉を人肉に代えて行っている』
 
 さらっと書いてくれていますが、ものすごい怖いことを書いてます。
 
 儺追系の神事というのは、地域にもたらされる災いである『厄』を引き受ける役に押し付けて地域から出てってもらうことで地域の厄が無くなる、という発想のもとで行われているようです。

 稲沢市国府宮はだか祭りなどでは、神男に裸男達が群がり、神男に厄をなすりつけるために押し合いへしあいするという結構危険な祭りで知られています。
 神男は公募制で、男を魅せるステータスにもなっていますが、裸男に引きずりおとされて揉みくちゃにされて亡くなってしまうこともあります。

 こうした儺追系って元々は、運悪く儺追の時期に地域を通りがかった旅人が住民に捕獲されて、厄落としとしてぼこぼこにされて、最後、ありがとよ、という意味も少しは込められたでかい餅を背負わされて地域から放り出される、という、旅人にしてみれば、とんでもない災難な神事であったようです。

 多田の神事とは、どこの神事を指しているのかよくわかりませんが、ここの神事でも道を歩いている人を捕まえる、と、ありますので、まさに該当してくると思います。

 その昔、旅人と言うものは、ある意味地域社会に属していない危険因子として認識されていた部分もあるので、こうした目に遭うこともあったのでしょう。

 もっとも、多田の神事では本当の意味で「生贄」にされてしまっていたようで、相当に物騒な神事だったことがわかります。

 そして、これも徳川義直公によって雉で代替するようになったとあります。

 しっかし、無実の人を生贄にして、厄が逃れられると考えていたようですが、その人達が祟る、とはかんがえなかったのでしょうかね。それこそ、猟奇小説であるように、やたらと歓待されて最後の最後に突然生贄にされてしまう、という恐ろしい状況が待っていたのかもしれませんが、そこまでは明洪良範は書いていません。

 徳川義直って言えば、江戸時代の人。
 そんな時代まで、結構今からみると恐ろしげな風習があちこちにあったのですね。
 今の時代に産まれて良かった。

 て、明日、突然総代さんがやってきて、
「あ、うらにわさんね、25日なんだけど・・・。」
 と、言ってきたらどうしよう。

新版 古文書学入門

2014年01月20日 | 日本史
こんな本が欲しかった!


新版古文書学入門(佐藤進一著 法政大学出版局)です。

私のような独学者にとって常に悩まされるのが
「なんかもっと良い方法があるんじゃないのか。」
と、いうこと。

大学だの文化講座などで金払えば、体系だって教えてくれる(はず)。
我流で古文書の翻刻などを読んでいても、いまひとつ意味が理解できなかったりなんと読めばいいのかわからなかったりする。

それどころか、その文書のそもそも発信意義だって、よくよく考えても見ればわからない。
軍忠状と感状の正確な違いもウィキに頼っているレベル。それだってよく理解しているわけではない。

それこそ数年前までは真剣に通信の大学へ通うつもりだったのですが、子どもができてスクーリングなんかに行ってる余裕は無い。だいたい、子どもの教育費がこれから掛かるって言うのに、自分の学費など出している場合ではない。

半ば諦観してやれる範囲内でやっておりました。

が、常に
「なんか体系だって教えてくれるモノは無いものか。」
と、思っておったのです。

突破口は、やはり図書館でした。
たまたまなんかの本を見に来た際、偶然目に入ったのが「中世軍忠状とその世界」なる本。

ほぉ。
これは面白そうと思って、ぱらぱらと読んでみるとレベル高い。
どうにも『何か元となる知識習得を行った上で読むべき本』くさい。

法律で言うと、本の書き方が、有力説が書いてある感じ。そして、通説・判例に批判を加える形で説明がしているような感じを受ける。要は通説・判例を知ってないと、この論者の批判や主張がよく理解できない、と、いう感覚に陥る。

そして、しばらく読み進めていると「〇〇の定義は『新版 古文書学入門』にあるように、」的な記載があることを発見!!

体積の測り方を発見して風呂から裸で「エウレーカ!」と叫んで走り出したアルキメデスの気持ちがよくわかりました。

※出典:ウィキペディア「アルキメデス」

きっとこの本ならば、私の長年の願いを叶えてくれるのではないか?
そう考えてアマゾンで速攻で購入。

現在半分程度まで読みましたが、期待にたがわぬ内容でした。
嬉しい。

自分的には室町末期から戦国時代のことがわかれば良いのですけど、文書と言うものが公式令から始まって、それらがどのように骨抜きにされたり簡素化されていったりしたのか、という説明になっているので、飛ばすわけに行かない。奈良時代から始まり、ようやく、今、鎌倉時代に入りました。

でも、面白いですわ。
詔勅と綸旨、下文と下知状の違いなんて考えたこと無かったですし、三位以上の公家には家司が付与されてそこが文書を書いて出すとか、者で「てえり」と読んでそこまで引用部分とか、「且は」が「~したり」だとか、なんじゃそら、というオンパレードです。

黄色マーカー引きまくって、書き込みしまくりです。
たぶん、一度読んだだけでは理解できないので、3まわしくらいは読んでみたいと思っています。たぶん、回を重ねるごとに新たな発見があったりすることでしょう。この手の本は。

そして、この本を読みきってから、再度翻刻文の読解に入ろうと考えています。

いや、ほんと、こんな便利な本があるなんて知らんかったわー。
3,300円しますけど、大学の通信講座申し込むこと思えば安いもんですわ。

と、いうわけで、しばらく奥三河関連の調べ物が滞っています。
バージョンアップしてから再挑戦だ!

細川藤孝 ~一子相伝の伝承者 戦国のケンシロウ~

2014年01月15日 | 戦国逸話
東京都知事選に元熊本県知事で首相経験者の細川護熙氏が立候補するそうですね。

別に今回のテーマはそれとは関係が無く、細川氏の遠い先祖がテーマです。

肥後細川氏の創始者ともいえる細川藤孝(幽斎)、その人です。

※出典:ウィキペディア

細川藤孝。
一体、どんな人だったのか。
人となりをイメージするエピソードとして、名将言行録はこんな話を残しています。

〇 勅命により田辺城を去る

 細川藤孝は大変和歌が得意で、和歌の奥義「古今伝授」という一子相伝の技を伝授されていました。
 関ヶ原の戦いの時には、藤孝は徳川家康に味方し田辺城に籠城しますが石田三成軍に攻められ、滅亡寸前まで追い込まれます。しかし、藤孝が死ぬと和歌の奥義を伝える人がいなくなってしまう事を憂いた時の天皇から、石田三成に対して藤孝を許すよう依頼があり、藤孝にも降伏するよう天皇が勧告した為、堂々と開城した。

と、のこと。

一子相伝の奥義を伝授された男、細川藤孝。
和歌の奥義と侮る勿れ。
なんと戦を停めて命を救ってしまったわけです。
芸は身をたすく、の諺を地で行く話です。

「古今伝授」がどれほどの威力があるのか。

この相承者に美濃郡上の篠脇城主東常縁(とうのつねより)と言う人がいます。藤孝よりずっと前の時代の人です。
この人は、本家筋の争いを止めに東国へ行っていたら、自分の城を美濃の斉藤妙椿(さいとうみょうちん)に奪われてしまいます。
帰る場所がなくなってしまった常縁は嘆き悲しみ歌に詠んだら妙椿が感動して城を返してくれた、という逸話もあります。

奪われた所領を取り戻し、面子を保って命を救う。
すごいぞ古今伝授。

ウィキペディアには
「古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。」
との記載があり、大きな権威でもあったようです。

藤孝は和歌だけでなく、茶道、連歌、蹴鞠、囲碁、料理、猿楽など、とにかくありとあらゆる文化に通暁していたとされており、当代一流の文化人だったことには間違いないようです。

そして、この人は政治力にも優れ、14代足利将軍になり損ねた足利義昭を助けて奔走し、織田信長というスポンサーを見つけてきて義昭を15代将軍にすることに成功しています。しかし、義昭と信長が対立すると義昭に見切りをつけて信長に従属し、豊臣秀吉、徳川家康の時代も見事に乗り切って武将としても一流なところを証明しています。

私としては、なんとなく教養があって政治力が高いエピソードから、どちらかというと知将的なイメージが強く、戦場で荒れ狂うイメージはありませんでした。
上記の写真でもなんだか、なよっとした感じで座ってて、公家的な匂いすら漂わせています。

ところが、そんな私のイメージを一瞬で吹き飛ばすエピソードを言行録では載せていました。

〇 膂力あり

 藤孝は膂力(りょりょく。うらにわ注:ちから)がありました。
 牛車が暴走してきた時に、その牛の角を持って押し返したところ牛がずるずると後退しました。
 また、北畠信雄(信長の次男)の邸で能が開催された時、門番が通さず、竹杖を振り上げて来たので、杖と門番の手を強く握ったら門番の骨が砕けてしまい、湯治せざるを得なかった。
 細野入道伊三が藤孝邸にやってきて、話をしていたついでに力の話をしたら藤孝は、
 「それは若い頃の話です。今は何もかも力が落ちました。しかし、和歌だけは読む形式はともかく和歌の心はうまくなったと思います。」

と言ったとさ。

私のイメージは吹っ飛びました。
そして、別のイメージが。。。

突進した牛を停め、門番の骨をも砕く、一子相伝の奥義伝承者。

北斗の拳のケンシロウじゃん!

無慈悲にも竹杖をたたきつけようとする門番。
その門番の腕をむずと掴み秘孔を突く藤孝。
「五指烈弾!」
と、藤孝が言うや否や、
門番は、「はうわぁ!」と叫んで腕が吹っ飛ぶ。

名将言行禄は控えめに書いていますが、牛も「ひでぶ」と叫んでミンチになったと思います。

そう考えると、田辺城の籠城戦も天皇の停戦命令が無くても落城することは無かったと思います。
なにせ、藤孝独りいれば敵は木っ端微塵になるでしょうから。

服がびりびりに破れて上半身裸になったあと、
「あたたたたたたたたたたたたたぁ~!」
と叫んでパンチを繰り出し、

「古今百裂拳!」

と叫ぶ藤孝。

ちょっと見てみたい。

三連休の無駄遣い

2014年01月13日 | 日記
三連休。
住んでる階の電球換えて子どもと遊んで、歴史関連の本読んで、、、
と、目論んでおりました。

金曜日に残業したのですが、うちの会社は残業中は一切冷暖房が入りません。
しかも、とんでもなく冷えていたので体が冷えきってしまい、家に帰って熱い風呂に入って対策を取ったつもりなのですが、20代のときのようにはいかないのですね。

布団に入った際、寒さで布団が冷えていつもより寒い寒いと思っていたのですが、どうやら違ったようです。

土曜日の朝に熱が出始める。日曜日は出席しなければならないイベントあるし、と、焦りながら薬を飲みながらひたすら寝る。やっぱり体調不良時はどんんだけ寝ても寝れるもんですね。
日曜日になっても熱は引かないところか熱が高くなる一方。

歩くこともままならない。仕方無しに妻を代理に行ってもらう。

日曜日の夜に熱が下がったような気がしたのですが、月曜日の早朝、汗で全身びっしょびしょな状況で目が覚める。

こんな状態では風邪引いてしまうので着替える。
妻子を起こさないように一人着替えていたのですが、この年でお漏らしをして密かに着替えていると誤解されたら嫌だなぁ、と、思う。

結果的に月曜日の昼くらいに体が元に戻った感がありました。

全く無駄な三連休になってしまいました。
寝て過ごすだけ、と、いう、これが健康ならば最高の贅沢な過ごし方でもあったわけですけど、風邪引いているときは、ただ辛いだけ。

そして、妻からは「病気だから仕方ないよ」と、誤解した発言がありました。
否定すれば否定するほど深みに填まっていくのですが。。

bluetooth キーボード for Kindle Fire HD7

2014年01月10日 | 日記
ノートパソコンを持ち歩くことが多かったのですが、やはり重い。
結構、タブレットにキーボードを接続している人を見ることが多くなってきたので、どんなもんやろ、と思っていました。

タブレットのほうが当然のことながら軽く持ち運びも便利なんですけど一つ問題が。。。

文字入力です。
タブレット入力の際にはタッチパネルキーボードが出てきますが打ちづらい。
キーボードで20年近く入力してますし、入力スピードも早い方なのので正直タッチパネルのキーボードではもどかしくてイライラする、

と、いうことでBluetoothキーボードを購入してみました。


テキスト入力をする分には問題がないです。
ただ機能的にパソコンと同じように利用するのは難しいかな、と。

出張帰りに経過を入力しておく、時間が空いたときにブログのネタなどを仕込んでおく、などには十分使えそうです。

ちなみに今回のブログはタブレットとキーボードでの入力です。

なれもあるので今のところはパソコンのほうが圧倒的に楽ですけどね。
時おり状況をご報告します。

合格祈願に長篠城?

2014年01月07日 | 
もうすぐセンター入試ですね。
私学の入試も始まり、その後、高校入試なども控えています。受験期のお子さんをお持ちの親御さんもさぞかし気をもまれていることでしょう。

うちも10年後くらいには気をもむことになるやも。
そして、20年くらい前には自分も親に気をもませていた訳です。

このシーズンになりますとあちこちで縁起担ぎの話が出てきますが、個人的にはなんで長篠城が取り上げられないのか不思議に思っています。

長篠合戦は、当時戦国最強の呼び声高い武田の精鋭をわずかな兵で猛攻をしのいだ長篠城、
長篠城が落城しなかったため、武田軍は釘付けになってしまい、長篠城救援軍の織田・徳川連合軍と戦う羽目になり、結果的に鉄砲三千丁三段撃ちによって武田の騎馬隊が殲滅されてしまう、という筋書きで教科書に載っています。

落ちない城「長篠城」。
当時から有名だったようで、城が廃城になった際、近隣の大名が争って資材を貰っていったこともあったとか。
縁起を担ぐので落ちない城の資材が欲しかったそうです。

ところで。

近年、長篠合戦については、武田には騎馬隊が無い、鉄砲は三千丁もない、三段撃ちもない、と、さまざまな説が出ましてホットな状況です。そして、長篠城が落城しなかったのは武田が本気で攻めてなかったからで、長篠城の落城しなかった手柄を大きく言いすぎ、という説も見ました。

まぁ、織田・徳川をおびき出すためだから落城させたら駄目だ、と、いう理由だったかと思いますが、来るかどうかもわからない上に、兵糧もいる、前線同士の兵士のにらみ合いから偶発的事態も発生する、ということを考えた場合に、おびき出すためだから本気ではない、と、結論付けてしまうのはいかがなものか、と、思っておりました。

久々に常山紀談を読んでおりましたら、こんな話がありました。

〇(京極)高次大津の城を出られし事
 (前略)一説に関ヶ原の戦いが終わり、関ヶ原の合戦前日に石田方に降伏してしまった京極高次の大津城を再占領して入城した徳川家康。山岡道阿弥がお供して言うには
「京極宰相はよく持ちこたえたのですが、あと一歩のところでこらえきることができませんでしたな。」
と、言うと、
家康はそれには直接答えず
「奥平が長篠合戦のときに武田を防いだ際、戸や障子に鉄砲の弾のあとが鹿の子を結った様(穴だらけ)であった。壁土も落ちて板も抜けた部分を筵を張ったり畳を立てかけたりして持ちこたえたのだ。」
と言った。(後略)

 京極高次の籠城は、結果的に西国の猛将立花宗茂を足止めして関ヶ原に到着させなかったことから家康は高次が開城してしまったとはいえ、その功を評価して大名として開城後に剃髪して高野山に行ってしまった高次を呼び戻して大名にしているのですが、「一説によると」と、いうことで、こんな冷ややかな家康の話も紹介しています。
 この話の裏には、豊臣秀吉の側室淀の妹、家康の息子秀忠の室江の姉が高次の妻初、という関係から何かと優遇されていたことに昔から陰口を叩かれていた高次に対するやっかみから生まれた可能性も高い。

ただ、この時点では煮ても焼いても喰えない、戦国最後の生き残りである家康からすると、本音だったかも、とも思わせる部分もある。

「あと一日持ちこたえれば大手振って誉めてやれたのに。」
と、少々イラっとしたかもしれません。

こうしたときの対比として長篠城の様子が出てきます。

ま、常山紀談は後世の人が当時世情に流布されている話をまとめた類のものですから、史料的な信憑性は低いのは承知しておりますが、結構細かな状況が描かれてます。

常山紀談の話が本当であれば、城の中にいても矢玉が相当飛んできてたということがわかります。
しかし、こんな状態でよく籠城を続けたもんだと感心してしまいます。
だから、家康の長女を嫁に貰ったり、信長から「信」の字貰ったりしたのか、と納得できる。

ところで、長篠城が落ちなかったと言うのは長篠・設楽原合戦のときの話であり、城自体は武田に落城させられ、その後、徳川が奪還する際に落城するなど、落ちたこともある。

じゃあ駄目じゃん。

と、結論付けるのはまだ早い。
『最後の最後は落城せずに、結果的に城主は飛躍的な幸運を手に入れている。』のです。
なので、模試で失敗している人、あるいは、浪人生などに効果が高い。

かも。(効果の程は保証いたしかねます。)

なんにせよ、客観的な結果として確実に言えることは
『一番大事な場面で長篠城は落ちなかった。』
と、いうこと。

これから受験シーズン。
気は心で長篠城へ行ってみると良いかも。

ちなみに長篠合戦は天正3年(1575年)。関ヶ原の戦いより前、姉川の戦いより後。信長が生きてる時代だから清須会議よりも前。
このあたり、試験によく出るから注意してください。

当たった!

2014年01月03日 | 日記
当たった!!!

のは、食あたり・・・。

昨日、今日と雪山へ行ってきました。昔はスキーでシーズンごとに6~7回程度、土日にスキー場へ行っていたのですが、子どもが産まれてそれどころではない状況が続いており、ここ3年ほど行ってませんでした。

が、娘も4歳。
そろそろ雪を見せてやりたいと思いまして、親の4駆を借りて雪山へGO。
正直乗りなれない車で久々の雪道は怖かったのですが、仕方ない。子育てを優先してスライドドアで経済的な車を選択したため四輪駆動を捨てたゆえ・・・。

途中、道の駅的なところで飯を食っていよいよ宿泊先に近づいてきたのですが、頭が痛い。
睡眠不足のときによくなる奴に似ていたのですが、若干いつもと違う感じ。
夕方になって飯を食っているときに頭痛と気分の悪さがピークになってしまい飯が食べられない。
吐きそうだが吐くまでではなく、腹がくだり気味。
トイレに籠もって下から出し切って薬を飲もうとして考える。

胃腸薬にするか、風邪薬にするか。

風邪薬ならば胃腸の調子が悪くても効くんじゃないかと勝手に考えて、風邪薬にする。
すると、しばらく我慢していたら、突然体調が良くなり始める。
それこそ45度の線で低下した体力が、底を打って45度の線で上昇していく感じ。
吐き気も頭痛もウソのように引いていく。

体調の変化が時計で計ったように正確だったので、
『これは何かに当たったな。』
と、思い、妻に告げる。
すると、私だけが食べたメニューがあったことを妻が指摘。

保健所等で調べたわけでは無いので本当に食あたりかどうかわかりませんが、風邪ひいたときに、こんな回復の仕方は普通しないのと、過去の経験から食あたりだろう、そして、時間の経過具合から、私の食べたあるメニューの可能性が濃厚。

宝くじではなくて食に当たってしまったようです。

ただ、夜には体力が回復して、娘と夜に雪道の散歩ができました。
この程度の食あたりで済んでよかったと考えるべきか、前厄だから当たったと考えるべきか。
個人的にはもっと酷い食あたりも経験していることを考えると、この程度で済んでよかった、と、思っております。

完全復活しまして、雪を掘ってかまくらなど作ってみる。

※この後、さらに掘って自分と娘が入れる大きさまで拡大。

しかし、息子は場所見知りで昨晩から激怒りで母親の後追いがひどい。
息子をあやしながら歩くが息子激怒り。その様子を激写。

※何撮っとんじゃ、われぇ。の図。

そういや、息子がほえー、と、初日雪山着いた際に突っ立っていたところ、屋根の雪が落ちてきて危うく息子が巻き込まれそうになる。その場所は、数分前まで娘が遊んでいた場所。
いや、危なかった。

こちらは当たらなくてよかった。

なんでも当たりゃいい、ってもんでもないです。

謹賀新年

2014年01月02日 | 日記
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

2014年第1回めのブログは、いきなり欲まみれの話。
「年末ジャンボ」のご報告。

昨年末、職場の先輩方と忘年会を行った際、
「宝くじというものは、当たりだすと連続する。なので、毎回小額ずつ購入し当たりだしたら購入金額を上げる。」
との話を聞く。

その方はtotoだったかを購入され続けており、その当落結果が記録されているそうなので見せてもらうと、確かに当たるときは連続する傾向が強い。

そこで、はっと気づく。
『こないだスクラッチで当たったじゃん。』

よくよく考えてもみれば、その他なんやかんやと普段は無いようなこともあった。
『こ、これは、今回はいけるのでは。7千万も購入してるし。』

と、早速元旦に確認したところ、

いつもどおり300円が当たっただけ。(ToT)
※あまりのがっかり加減に滅多に使わない顔文字使ったった。

まぁ、本当に高額当選したらブログで報告などしようものなら、私の知らない親戚がわんさかと増えることが想像できるだけにわざわざ報告などしませんわね。。。
やっぱり時間がなくて、購入後にパワースポットに行くことができなかったからではないか、と、反省しております。多少時間がかかっても、行っとくべきであった。

くぅ~。

その後、中日新聞にある運勢の欄を見る。
「とら年 宝船の帆はあがらざる象。勤勉努力を以って他日の発展に備えよ」
とのこと。

地道に働け、と、既に予言されていました。

いよいよ不惑となりますが、惑いまくってる前厄。
今年もよろしくご指導、ご鞭撻のほど、お願いします。