長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

岩屋城 ~豊前征伐4~

2014年09月28日 | 落城戦記
今回の豊前征伐最大の目的『岩屋城』


時は天正14年(1568年)。
龍造隆信の首を取って勢力を拡大してきた島津軍。
九州北部の大友に攻めかかります。
5万の軍勢に包囲された大友方の岩屋城760名あまりは13日間の籠城の末、城主高橋紹運は切腹、そして全員が玉砕するというすさまじい結果になります。
しかし、この籠城により島津勢は足止めされてしまい、紹運の息子で立花道雪の養子になっていた立花宗茂が立花山城を島津軍が包囲している最中に豊臣勢が九州に上陸。島津勢は城の包囲を撤退。
(参考:『西日本文化』財団法人西日本文化協会 「岩屋城と戦国時代の山城」岡寺良)

結果的に九州に橋頭堡を確保した豊臣勢は九州を制圧。
そして、立花宗茂は「西の立花宗茂、東の本多忠勝」と並び称される大名として戦国時代を生き延びます。

そんなエピソード溢れる高橋紹運と岩屋城。
そして冒頭の迫力溢れすぎの石碑。

このダブルインパクトによって私達は岩屋城への訪問を心待ちにしていたのであった。

そして、大宰府を過ぎたところで発見した店。


大宰府で、伊達政宗と織田信長と真田幸村は無いだろう・・・。
大宰府ならば高橋紹運だろうがっ!! 
て、いうか、菅原道真だろうがっ!!!

と、激怒する4名。
道真ショップ。イケメンに迫力満点で描かれた道真。雷神と化し復讐する道真。迫力ありすぎかも。

さて、この日、大宰府を過ぎた辺りから晴天になり、お盆としての暑さが戻ってきた。
そのため、なるべく歩きたくない。特に最終日だったこともあり、夜の10時まで新幹線に乗る予定。汗だくになってしまうと、その状況で夜まで、と、考えるとできる限り歩きたくなくなる。
と、いうことで限界ぎりぎりまで車で行く。


※今までサンダルで来たが、いよいよ靴に履き替え本気モードへ。

まずは、高橋紹運公と城兵の墓へ向かう。


大宰府市が一望できる場所。なるほど、ここに城を構えたくなるわな、と、納得の景色。


やっぱり夏は城めぐりに向かないなぁ、と、しみじみ思うこの道。


案内そって行くこと数分。
高橋紹運公の墓が現れました!


※写真を撮る前に敬意を表して少し墓前を掃除させていただいております。

700名の城兵が玉砕する、という指導力。すごい統率力です。
個人的には信長の野望で立花道雪と並びやたら強い武将として九州北部に登場する武将として気になっていた人。
憧れの武将の一人だけに、その墓に参れただけでも嬉しい。
なんか信長の野望では、赤い兜にマントみたいなのを羽織った渋い武将として登場していた印象が強すぎて、私の中の紹運はそのイメージで固定されています。
ところで、紹運が切腹した年齢は39歳。
これには一同驚く。

「俺、どう考えても紹運年上だと思ってた。」
と、4名全員が納得。

もう、そんな歳なんだな、俺ら、と、気持ちは20代の会社同期として飲み会やってた頃と変わらない面々だけに、若干狼狽する。そりゃそうだ。暑いから、と、いって車でぎりぎりまで向かうようにいつの間にかなっていたのだ。

結果的に息子の名将立花宗茂を送り出す捨て石になったのであれば、きっと、にっこり笑って死んでいったのではないか、と、思ってしまう40歳二人の子持ちの私。特に宗茂は相当その素質を見込まれていたようなので、安心して逝けたことでしょう。と、墓前でしんみりする。

現在では知る人ぞ知る、という渋すぎるオヤジ。それが高橋紹運なのです。

さて、そんな紹運が籠った岩屋城。
本丸を目指して歩きます。
ところどころで城郭遺構のようなものを発見する。
畝状竪堀に特徴があるのですが、まさにそれ。


あちこちに堀切が出てきて山城らしさが一気にUP!
迂回させる道とか、やっぱり土の城はいいですネェ。


主郭前に堀切があります。


そして、主郭に侵入するには主郭下を回りこんで入り込む。
山城の鉄則です。

※こういう造りに興奮しますね。

そして主郭に到着すると、素晴らしい眺望が!


風が一気に通って、暑いながらも涼しさを感じます。
そして、我々が目当てとしていた迫力ありすぎの石碑も発見!


佐渡守と私は大興奮していました。
やっぱこの字が迫力ありすぎだよね、と。

そして、この山からは300度近いビューが現れる。


大宰府が!


水城が!

※ 画面の緑の森がそれ。

この景色を見れば大宰府の全てが分かる。ここに陣取ったのもわかります。
しかし、この城を5万の軍勢が囲うのも一目瞭然。そんな中奮闘した一同って素晴らしい。

※ 思わず見とれる。

本丸下には腰曲輪登場。


山全体が要塞化されているこんな城を十七日間で落城させたということは、相当無理攻めを島津はしたのだろう、と、いうことが想像されます。実際、ここで消耗したことで島津軍のスピードが鈍ったわけですから、すさまじい力攻めだったのだろうと。あれだけの比高差があって、堀切や竪堀で防御した城を落とすって相当だと思います。

やっぱり紹運ってすごいな。

と、一同思う。
やっぱり紹運好きだわ、と、改めて思った城でした。

※スズメバチの巣を撮影する紀伊守。

さて、次回は最終回。
古代山城の「大野城」です。

名古屋城 ~ 城ヲタ養成ギプスを嵌められた子ども達 ① ~

2014年09月26日 | こどもと百名城
家族に気兼ねなく城に行くにはどうしたら良いのだろうか。

私は常々頭を悩ませていました。

「城」を「ゴルフ」や「飲み会」に置き換えれば、万人共通の家族持ちの悩みだろう。
しかし、足利義教並に「万人恐怖ス」という妻(夫)の存在により、遠慮しぃしぃ次なる休みの子どもの世話やらを引き受ける交換条件により参加を認められる、そんな流れでは無いかと思います。

実際、我々の城仲間、佐渡守などは妻に隠れて城に参加するため、実際の行程とは別の架空の職場旅行をでっち上げたりしています。

私が城に行く、ということは、城に興味がない妻にとって子どもの世話をして待っている事になり、私は「借金1」が加算されます。そして、別日に子どもの世話をして妻を解放する日を作る必要が出てくるわけです。借金を清算せずに積み重ねる事もできますが、利率はナニワ金融道並みになってしまうので、ある日突然三行半という形で慰謝料請求されることが想定されます。
そうでなくても、例えば、血圧が高めでメタボ気味の私としては将来脳梗塞等で倒れる可能性が高い。きっと、半身不随になったときに、あっついお粥をわざとこぼされて「あらぁ、ごめんなさいアナタ。でもきっと麻痺してるから大丈夫よネェ。」とか、言われるに違いない。(実際我が家では、この手の会話が交わされている現実があります。)

恐ろしい・・・。

そんなことを考えていたとき、新聞を見ていたら小学生が日本の3,000m級の山を全部制覇した、という記事が。
「山好きの父親に連れられていくうちに好きになり、自分で登るようになり・・・。」
的なことが書いてありました。

『これだ!』

思わず叫びそうになる。

日本の城には「百名城」というものを認定した団体があり、スタンプラリー形式で100の城を巡る、というものがあります。そして、実際、多くの方が巡られているようです。
私の場合、百名城に興味があるのは当然ですが山城の縄張に興味があることや百名城は遠かったり混雑していたりすることもあり、百名城を中心に城めぐりをする、ということはしていません。そもそも、百名城の認定が行われる前から巡っている城もあり、スタンプの押しようがない。後、私、スタンプラリーにあまり興味がなく、よく御朱印帳を忘れてしまう、という性格上の問題もあります。

が、娘がやっている教材などを見ていると、やる気を出させるためか、必ずシールを張らせるなど、到達度合を目に見える形にすることで喜んでやらせよう、というものが多い。そして、どちらかというと、うちの娘はそういうのが好き。

娘はスタンプラリーに興味があるに違いない。

私は、そう、踏んだわけです。

城に興味がなくても、スタンプを押すことに興味がある筈だ。
最初はそれで良い。
しかし、行く場所が城ばかりになっているうちに自然と知識が貯えられていき、ある日、一定量まで達した知識はきっと娘や息子を城好きの海へと押し出すことだろう。

そして、娘に言う。
「ねぇ。○○ちゃんはスタンプ押すの好き?」
「好き!」
「お城のスタンプを集める、っていうのがあるけど、やってみる?」
「やるぅ!!」





早速、一番近くの百名城、名古屋城に連れて行くと、娘は喜んでスタンプ押してました。
隣で建っているのは息子。息子は1歳半にして名古屋城本丸御殿の一般参加開放日初日に行った男。(父親が抱っこして連れて行っただけだが。)
娘は城自体も結構好きなようです。
この日は本丸御殿の建設資材の木の組み方を積み木のようにして遊べるもので遊んでいました。


さぁ、これで大手を振って百名城に行けるぞ!

こうして、子ども達は城ヲタ養成ギプスを嵌められた訳です。
星一徹と呼んでくれ。

サラリーマンの山田さん

2014年09月23日 | 日記
鳥取県境港市で「妖怪そっくりさんコンテスト」が開催されたそうです。

ゲゲゲの鬼太郎でおなじみ、水木しげるさんの出身地が境港市だそうで、妖怪でまちおこししてる、ということは知ってましたが、妖怪コンテストは初耳。
今年度で9回目だそうです。

そして、今年の優勝者は、

「サラリーマン山田」

に扮した方だった、とのこと。

サラリーマン山田氏はこんな方。
「あなたの周りにもいそうな、メガネに出っ歯の人間のおじさん。数々の水木漫画に登場し、名前はその都度違うがこの風貌は不変。平凡で小心者、控えめな性格の彼だがなぜかいつもひどい目に遭わされる。水木先生の貸本劇画時代の友人、桜井昌一氏がモデルになっている。」
(参照「境港市観光ガイド」)

あの、よく話の最初の方に現れて、妖怪に襲われるサラリーマン。
屋台の飲み屋で一杯やってると襲われて、そこから話がスタートする、あの役の人。

この人をコンテストで選んだ、そのセンスが好き。
大好きだ。

前々から気になっていた人物なんですよね。

なぜ気になっていたのか?
それは、

「そっくりな人が身近にいたから。」

私ね、今回選ばれた方よりも、ずっとそっくりな方を2名ほど知ってます。

が、さすがに御本人さんに応募を勧める勇気まではありませんが。

水城・大宰府 ~豊前征伐 その3~

2014年09月21日 | 落城戦記
豊前征伐二日目は無事に終わるかに見えた。
が、ここで思わぬトラブルが発生。

レンタカーを駐車場に入れ、翌日わかりやすいようにと、駐車券をナビの隙間に挟もうと少し差したら、
「する~~~」
っと吸い込まれていくではないか!

「え、え?」
と、思っている間に駐車券は消えた・・・。

これでは出庫できない。消えた場所が不明だがナビの後ろにはCDを入れる場所があり、そこに入り込むとCD再生ができなくなるかもしれない。
そこで、駐車券がなくなった旨を駐車場に話すとともに、こういう場合の修理についてレンタカーの保険屋に連絡したり、自分の保険屋に連絡したりしたが、結局、皆、想定外、ということでよくわからない、という回答。

幸いレンタカー屋は宿泊施設近くなので朝イチに持ち込む。

※これが問題の車。

CDのところに吸い込まれたのか、と、探してもらうが見つからない。


結果的に、
「CDのところを探したけど見当たらない。ナビと車の隙間に入り込んだんじゃないかと。ナビも正常に動いているので、このまま旅をお続けください。」とのこと。
3日目は修理か何かで潰れてしまうかと思いましたが、素早い対応で助かりました。
ありがとう!バジェットレンタカー!

慌てさせられましたが、早起きして対応したため3日目の日程には幸い影響がでず、当初の目的地大宰府へ向かう。

最初の目的地に到着した我々は叫ぶ。

着いたぜーーーーーーーーっ!

なぜなら、到着した場所は


「水城」だから。

水城⇒みずき⇒水木一郎⇒マジンガーZ
当然、
水木⇒みずき⇒水木しげる⇒ゲゲゲの鬼太郎
と、いうバージョンもある。
40代男性4名。
これが日本の現実。

さて、水城とは何もの?という話ですが、663年に天智天皇が唐・新羅連合軍に対して百済救援軍を派遣するも白村江の戦いで破れます。唐・新羅からの攻撃を恐れた当時の朝廷は大パニックに陥り、九州から瀬戸内海、朝廷までの間に多数の城を築くとともに、朝廷そのものを水辺の難波から内陸部の近江へ移動してしまいます。

水城はこのときに築城されたとされており、福岡平野からの外的を防ぐために丘陵と丘陵の間を防ぐように作られた土塁です。

※現地写真。緑の部分が水城。

ただ、この土塁が全長1.2km、幅77m、高さ9mという巨大なもの。



土塁の外側には濠(幅60m!)も掘られて水が湛えられていたようです。

※現地案内看板

※大宰府資料館の復原図

濠の内側に溜まった水を排水する木樋という設備もあったようです。

※再現されている木樋。


日本書紀には「大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。」と記載されているとか。
(以上参考:現地案内看板、ウィキペディア)

水城の防衛目的は大宰府。九州の統括の他に外交の最前線の拠点である大宰府を博多湾から上陸してくるであろう敵を迎え撃つために、まず大土塁による遮蔽で防ぎ、その後、大宰府近くにも大野城などに籠って防戦、という想定を立てていたようです。
後に元寇があった際には、もっと水際ですが石塁を築いて元軍の上陸展開を防いでいますが、発想的には似たようなもの。ある意味、最もシンプルな城と言えます。

ところどころ門があったようで、門があった場所が現在の道になった様子。

※画面の中央が道。こんな感じ↓



※門が立っていた場所。

水城が作られたのは664年。訪問した今年は1350年に当たり、少し盛り上がっていました。
1350年前にこんなものを人力で作らせた、というところに、如何に当時の朝廷が唐の侵攻を恐れていたかがわかります。教科書で知ってはいましたが、実際に水城を見ると恐怖感が伝わってきます。

※水城の上に東屋がある。登る。


※水城上から道を挟んだ反対側の水城を見る。

版築の技法により突き固められた地盤は容易に崩れず、1350年経った今でもその姿を留めている訳です。

※ちょうどトレンチがあって地盤が観れました。

巨大な土塁を見ながら、やはり国直轄の土木事業ってすごいよね、と、認識する。常は地元の領主層による城を見ることの多い我々。それこそ市町村や県管理の土木事業を見ているのと一緒なわけで、その違いに唖然とした、という訳です。

さて、その水城が守ろうとした『遠の朝廷(とおのみかど)』とも呼ばれる「大宰府」へ。


あまりのだだっ広さにおどろくとともに、当時の繁栄振りが偲ばれる。



大宰府を囲うように堀もあった様子。


大宰府近辺は条防制が引かれていたようで、造りは都といっても間違いない。それに貿易拠点でもあったことからむしろ舶来の珍しい物品などで溢れかえっていたのではないかと。
大宰府といえば、藤原純友の乱の際、純友が上陸して略奪だの放火だのをしてしまいますし、その後、平氏が大宰大弐になって経済力を貯える、などしています。

しかし、何より朝廷で失脚した貴族が配属される先としてもよく利用されていました。
有名どころでは菅原道真公。
結局この地で亡くなり、遺体を運んだ牛が止まって動かなくなった場所に太宰府天満宮が作られた、と、言われています。

ここに道真が来たのか、と、感慨深いものが。


近くには資料館がありまして、わかりやすい再現模型が。


そして説明をしていただけました。


やはり、説明を聞くと現地の事情に詳しい人が話をするのでよくわかる。水城や大野城の情報もここでかなり仕入れることができました。ありがとうございます。

そして、朝から降っていた雨が上がり晴れだして暑さが酷くなる頃、大宰府を後にして、いよいよ山城へ向かいます。


次なる場所は戦国時代。
岩屋城へ!

五十音表 再び

2014年09月18日 | 日記
昨日のことでした。

仕事を早めに切り上げて息子を風呂に入れました。
常ならば私が洗ってから息子を呼んで風呂にいれるのですが、この日は息子が一緒に風呂場に来たので先に息子を洗い、そして、私が洗う、という順番になりました。

トミカの50音順表もあることだし、息子も退屈しないだろう。
そう、考えたのです。

私は強度の近視なので風呂でも眼鏡を掛けていますが、流石に洗髪するときには外します。
眼鏡を外し、髪を洗い始める。

息子はトミカの50音表を見てご機嫌。
「パパ、これなに?」を連発しますが、
「うーん、お父ちゃんねぇ、今、頭洗ってるから見えないの。」
と、いいながら下向いて頭を洗っておりました。

「なんで見えないの?」
「お父ちゃんねぇ、目が悪いの。だから眼鏡掛けないと何も見えないの。」

「ねぇ、これなぁに?」
「お父ちゃんねぇ、頭洗ってるから見れないー。」

と、他愛のない会話を続けながら、私はシャンプーをし、リンスをし、そして洗い流して眼鏡をようやく掛けて息子が指差しているであろう50音表を見ようとしました。

が、眼鏡を掛けた私の目に、風呂に入る息子の足元に茶色のゴミが大量に沈みつつある光景が飛び込んできました。

『何これ?』
と、思った瞬間、私は全てを悟りました。

息子は数日前から胃腸炎を患っており、ひどい下痢だったのです。

「うわーーーーーーっ!」

私は気がついたら叫んでいました。

まず、次なる放出を避けるため、息子に
「待て、お風呂でしてはいかん。いかんのだよ。」
と、いい、息子を湯船から上げる。

息子は、
「なんでぇ?」
と、言います。
「あのね、お風呂入れないでしょ。汚いから。」
「なんで汚いのぉ?」
「うんちはね、いろいろとばい菌が入っていたり、くさかったりして汚いものなの。」
「なんできたないのぉ?」
「とにかく、汚いの。」

と、会話を続けながら息子をシャワーで洗い流しつつ、お風呂の栓を抜いて湯船からモノを排出する。
私の悲鳴を聞いた妻がやってきて、息子は結構風呂に浸かっていたので、妻に引き渡す。

ところで私は、湯船から湯を掬って体を洗い流す方法で体を洗っているのです。
当然、頭も湯船の湯を使っております。。。

「げぇぇぇぇええぇぇ。」
と、私は再度頭をごしごしと洗ったわけです。
顔も念入りに。

そして、お湯の抜けた湯船を風呂洗剤でごしごしと、すさまじい勢いで、いつもよりも数倍念入りに、そして丁寧に洗い、洗い残しのない様にシャワーで洗い流しました。

そして、新しいお湯をはる。当然、湯の出入り口も念入りにあらい、最初の方のお湯は少し流して。

お湯が増えていくわけですが、なんとなく抵抗感があるもののお湯に浸かりました。

まぁ、こんなことは育児をしている人達には結構ある話なのかもしれませんが、上の娘は一度もお風呂中に大も小もしたことがなく、息子も今まで一度もしていないので安心していたのです。
初めてのことにかなり動転したことは、間違いありません。

その後、息子はやはりおむつに下痢をしており、途中だったのだろう、と、いうことがわかる。
お尻が荒れてお尻拭きでは痛がるので、お風呂で洗い流しておりました。

それにしても、洗髪後の眼鏡を掛けて明快な視界とともに現れた光景。
目に焼きついております。

ああ、おどろいた。
ちなみに、息子の下痢は徐々にですがよくなっているようで、出る頻度が少なくなりつつあります。

季節の変わり目。
皆様も御自愛ください。

五十音表

2014年09月16日 | 日記
お子さんがお見えになる家では、お風呂に五十音表だの九九だのを貼って覚えるようなことをしているご家庭も多いのでは無いかと。
うちもご他聞に漏れず、貼っております。
貼っているだけで、特に意識はしていないのですが、風呂で閑になると子どもが読んでいたりするので、それなりに効果はあるのかもしれません。

さて、今日は本業で遅くなってしまい独り風呂へ入ると見慣れぬ五十音表が貼ってある。


なんと、トミカ・プラレールとひらがな、という画期的(?)なもの。
ミニカー大好き少年だった自分からすると、こんなのがあればもっと頭がよかったろうに、と、思うような代物。どうやら、息子用に買った雑誌の付録のようで、息子を風呂に入れる際に貼ったものと思われます。

個人的には大ウケだったので、よくよく見ていると、
「なぜ、この配列なんだ。」
と、いうものもある。

例えば


「て」⇒「アテンザ」(MAZDA)
いや、普通「あ」だろう、とか。

「ま」⇒「前田工業所かにクレーン」
マニアックなものを持ってきたな、それに、普通「か」じゃないの?とか。

まぁ、本業で疲弊した心に、ちょっとした笑いの癒しが。

娘の時はオーソドックスな「て」が「てぶくろ」とか「ま」が「まゆ」とかの奴だっただけに、そのぶっとび振りに笑ってしまいました。
なかなかやるな、トミカ。

こうして、お父ちゃんは息子にミニカーをねだられる、という図式か。
ふむ。

中津城 ~豊前征伐その2~

2014年09月13日 | 落城戦記
豊前二日目。


我々は、城ではなく神社にいた。


「儂はどうしても宇佐八幡に行きたいのだ!」

事前のルート選定会議をお好み焼き屋で行った際、紀伊は強硬に主張した。
その昔、神社仏閣を巡ると自分が浄化されてしまい、邪悪な生き方を貫きたい自分としては神社仏閣などには絶対に行かぬ、と、あれほど言っていた紀伊守であったが、歳を取ったのだろう。神社仏閣に抵抗が無くなるどころか、積極的に参拝を主張するようになった。
そして、二日目は宇佐⇒中津ルートに決定されたのだった。

そして、団にょは、サンダル履きを貫く。


実は、サンダル履きと神社は相性が悪い。
格好がだらしない者に対する神罰なのだろう。小石が入りまくって足ツボを刺激しまくるからである。
しかし、そこは神。
痛さの後には、健康を授けてくださる、という算段のようである。

と、そんなことを書いている私も。

だったりする。
石を入り込まないようにするには、足を引きずらず、しっかりと歩くことが大事。

さて、宇佐八幡は全国最多数の神社八幡社の総本山。石清水八幡宮も宇佐八幡を勧請したものだそうです。
祭神は応神天皇。そして、なによりその母、神功皇后が祀られていることでも有名。

この神社が歴史上、最も有名になったのは『宇佐八幡神託事件』

奈良時代末期。
称徳天皇を誑かし天皇位を狙う道鏡。そこに道鏡を天皇にすれば国は安泰、との神託があった、と、宇佐八幡の神官からの申出が。流石にあまりに重大な内容なので和気清麻呂が再度宇佐八幡に送られることが決定。
清麻呂の復命により次の天皇が決まる。
天皇位を狙う道鏡、阻止を目論む藤原氏の板ばさみの状況で、必死に神託を聞こうと祈る清麻呂。
そこに降りた真の御託宣は!

「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」

復命した清麻呂は、天皇と道鏡の怒りを買って「別部穢麻呂」と名前を変えられ、足の筋を斬られて流刑に。本当は清麻呂の姉の和気広虫が宇佐に行く予定だったので、姉も「別部狭虫」と名前を変えられて流刑。
しかも、道鏡からは刺客を差し向けられますが、猪の大群が清麻呂を守ったそうです。 
結局、道鏡は天皇になれず、清麻呂も姉も名前を基に戻して復職します。しかも、宇佐八幡のおかげで足の筋も治ったそうです。

国を守った忠臣、和気清麻呂のお話。個人的には漫画日本の歴史を読んだときのインパクトが大変に強い話だったので、二度目の参拝ですが満足。

「無道の人は宜しく早く掃除すべし。」は、我々のこの日の流行語大賞でした。

そんな神社にお参りに行くわけですから、やはり禊は大事。

※禊の団にょ。

やっと砂利地獄から開放されるが、今度はサンダルだと滑る地獄の石畳。


清冽な空気から神域であることが感じられる。
現在改装工事中なのが残念ですが、宇佐八幡宮本殿到着


この神社は「四礼四拍手一礼」と他の神社とは参拝方法が違います。

紀伊守はやたらとリズミカルに四拍手をして楽しむ。

その後、私は珍しくおみくじに挑戦。

なんと、大吉先生登場!
ひさびさに大吉をひく。大変気分が良い。
大好きだ、宇佐八幡。

そして、下宮も忘れずに参拝。

※大吉の御礼もかねて。

さて、ホテルの朝飯がバイキングでつい食べすぎ、満腹だったため昼はしじみ汁一杯の私。


そして、いよいよ中津へ向かい、城攻め開始!と、なるのですが、佐渡守の携帯に妻からの電話が。

よくよく聞いていると、彼は今、尾張北部の自分の実家にいるそうです。
昨年度は架空の旅行話をでっち上げて、佐賀とは正反対の長野へ旅行に行っていたことにして、様々な旅の思い出話を考えていた彼ですが、色々とめんどくさいためか、今回は家からあまり動いていない設定にしたようです。奥さんがスマホのGPS機能で追跡していれば良いのに、と、一同願う。

さて、宇佐から中津へ移動。


私にとって中津には親近感がありました。
それは、奥平家が最終的に中津藩主だったから。
長篠の人間にとって中津というのは、おらが殿様が最終的に落ち着いた場所、という感じなのです。
郷土史研究でも中津藩史が重要な資料として利用されていたりします。

そして、始めて中津城を目の当たりにしたのですが、再建天守なのだろうけど何か変。
なんだ、この違和感、
と、思っていたらそれもそのはず。
天守とは別の櫓の場所に天守を復元してた・・・。

どおりで!
石垣と天守のバランスが悪いと思ったわ。。。

市民の寄付と城主だった奥平氏の寄付により萩城を模して造られたとか。
その熱意は評価されるべきものでありますが・・・。
ちなみに模擬天守の場所は北東隅櫓だそうで、手前の小天守っぽいところにも櫓があったようです。

中津川沿いの鉄門脇に三重の櫓があったそうで、天守っぽいものといえばコレのようです。天守の存在自体はよくわからないというのが正直なところのよう。(ウィキペディア情報)

※城のすぐ脇を流れる中津川。天然の堀の役割もあったことでしょう。

なにせこの中津城。築城主は今年の大河ドラマの黒田官兵衛。
なので盛り上がってました。
こんなんや、

※黒田官兵衛。
こんなんが。

※黒田長政。
展示してありました。ちなみに大河でもやるようですが、この城に反抗的な地元領主を誘い込んで謀殺した、という暗い過去もあります。

ちなみに、我々的な見所としては、黒田氏が築いた九州最古の石垣に後に領主となった細川氏が黒田氏の石垣に繋げて造ったという石垣。この継ぎ目は滅多にないところだけに面白い。

※分かりにくいかもしれませんが、写真中ほどに石垣が斜めに入ってるところがあります。そこより右が黒田。左が細川の増築部分。

大河ドラマの影響でしょう。
大変な数の人が訪れていました。中は完全に公園化されています。


大河ドラマとタイアップした施設が多数あり、みやげ物を買うのに困らない。また、歴史を振り返るにあたって、大変わかりやすい。このあたりは、さすがドラマを作ってる人達が作るだけのことはあります。

そして、奥平神社と模擬天守。

祭神は奥平貞能、信昌、家昌、仙丸の4名でした。
ここに武田の人質で犠牲となった仙丸公がいるのは、やはり奥平家の礎となった、ということを忘れないということでしょう。

さて、前々から実は中津市の動向を観察していたのですが、強右衛門絶叫大会などを開催するなど、長篠合戦を観光資源として活用しようとする意気込みを大変感じておりました。実際の場所だった新城市の場合、やはり地元の人、ということもあってか、若干、そうした地域おこし的観点で利用することを嫌う風潮があるので、その違いが面白いな、と、思っていたのです。
そしたら、こんなものが。

せ、千円ですか。

さらに倍。

家康の長女亀姫の写真に逆玉祈願と。おおお、新城では冗談で出ますが、なかなかやりづいらいことをあっさりと突破してくれています。なんか長篠周辺との気質の違いが感じられて、個人的には面白い。やっぱり遠い話だからではないかと思います。
ただ、個人的には、この時期の奥平氏は、徳川氏にとって主君と正妻の娘をやってもよい、という状況であったといえますし、奥平家は織田信長の家臣的な感じも受けることがあります。結果的に徳川家が天下を取ったので逆玉と言えますし、当時の関係からも逆玉といえば逆玉ですが、そう奥平家も馬鹿にしたもんじゃない状況だったと、私なぞは思うのですけどね・・・。まぁ、客観的にみれば否定はできませんが。

しかし、どうもここはこういうのが好きなようです。

まんだらけが万引き犯人画像を公開しようとするのと似た思想(ちょっと違うか。)を感じてしまいました。。。

中にはこんなおどろおどろしい展示も。

前田利家公だそうです。

そして最上階から見下ろしていたら、ゆるキャラ発見!


よくよく見ていると、結構暑いのでしょう。帽子を被ってるあたりの髪の毛に猛烈な汗をかいておみえのようです。


そりゃ、お盆ですからね。お疲れ様です。
このゆるキャラ、中津城公式キャラクターの「おっくん」だそうです。
モデルは家康からみたひ孫の「忠昌」

いや、ちょっとまて、それなら「たっくん」だろう。
忠昌の父親家昌、祖父信昌、曽祖父貞能だって「おっくん」になってしまう。このあたりのセンスは、こういうツッコミをわざと狙ったのではないか、という疑いがあります。
なぜなら、このおっくんこと忠昌は母方の曽祖父の徳川家康に拝謁した際に、まだ6歳の子どもだったので「何か欲しいものあるか」と聞かれて「あの槍ちょうだい。」といって、名槍をもらい、それが中津城に展示されているのです。そして、おどろくなかれ。君死にたもうことなかれ。

おっくんは、やんちゃのなので、家宝の槍で中津の名物を何でも突き刺しちゃいます。」(中津城公式ホームページ「おっくん活動記録」記載を転機)

と、いうことで、名物のからあげだのはもだのを突き刺している絵もあり、はもなどは目が「×」になっており、結構ひどいな、おっくん、という感がありありです。
て、ことは何か、先ほどの写真で、子どもがいますが、ひょっとすると鑓で突かれる直前映像だったのかもしれません。まぁ、名物しか突かないようですけど、やんちゃんなので何するかわからないですからね。

どうやら、ウィキペディアに現在の城の運営会社に関する記載があり、民間会社に城の建物部分だけが売却されたようで、こんな自由な感じでやっているようです。思い切りよすぎる。。。

さて、その後、城内のお土産屋で、地元で作られた「マンガ黒田官兵衛と宇都宮鎮房」を買う。大河で盛り上がろうとしているようですが、実は、地元の意識の中に黒田家は外来侵入者でおらが殿様を虐殺したのだ、という念が思いっきり入っていることがわかる。

宇都宮家は鎌倉時代から豊前を治めていたようですが、秀吉により国替えが命ぜられてしまいます。そして、なんと秀吉に「なんとかなりませんかね?」と聞いてしまったことで秀吉の不興を買う。宇都宮家は叛旗を翻し、黒田家は何とかしなければならなくなってしまいます。戦争をすることになりますが、最後は宇都宮の娘を黒田長政の嫁に貰い本領安堵する、ということで和睦するのですが、結果的に宇都宮鎮房を中津城内に誘い込み殺害、鎮房の部下を合元寺で一気に殲滅してしまいます。しかも、嫁にきた娘を含む宇都宮一族を川原で磔にしてしまいます。

※合元寺に向かう我々。

合元寺には恐ろしい伝承があります。

※合元寺。

宇都宮の家来を殲滅した際、飛び散った血をふき取ってもふきっとっても浮かび上がり、壁を塗りなおしても血が浮いてくるので、やむを得ず壁を赤色に塗った、ということです。

※これも!

※これもか!

まさに身の毛もよだつ恐ろしい話。
私は思いました。愛知県に住んでいるとわかりにくいのですが、愛知以外の場所に暮らす人にすると、愛知出身の武将やその配下武将達は『侵略者』なんだな、と。
黒田官兵衛で盛り上がろうと幟は立っているのですが、底流には怨念が流れているな、と、思った次第です。

さて、中津城を見た後、中途半端な時間になってしまい、我々は小倉に戻りました。
そして、時間が余った我々が向かった先は・・・。

『コロナワールド』

愛知県を本拠にするスーパー銭湯。
豊川のコロナワールドを愛用している団にょが見つけての希望。

そして、我々は、

みそかつだのきしめんだのの名古屋飯を北九州小倉で喰らい、名古屋で花開いたスーパー銭湯文化に入り浸ったのであった・・・。


「我々、今、一体どこにいるのでしょうか?」

たぶん、最後の3枚の写真を見ただけでは、誰も小倉にいるとは思わないことでしょう。

さて、次回はいよいよ、大宰府で本格的な城旅を行います。

結構な体調

2014年09月09日 | 日記
風邪をひいた、と、ご報告をしたのは日曜日。ブログを書いてる時分には熱も平熱になり、

「休みの日の間に病気して月曜日から出社って、俺ってサラリーマンの鑑だよな。」

とか思っていたのですが、その日の夜中の1時に悪寒で目が覚める。

『え?』

と、不思議に思うが、これはどうやら今から熱が上がるのだろうと予想が付く。
げぇ、治ってくれ、と、思いとりあえず寝る。
が、3時に目が覚めた時には
「あれ、熱が最も高かった昨晩より高い気がする。」
と、思い熱を測るとやはり39度。

なんじゃあ?一体、こんなことは初めてだ、と、思い熱で苦しみながら考える。

はっ!

ひょっとして土曜日の蚊で本当に俺はデング熱になったのでは?と、不安になる。
名古屋でそんな報告はないが。俺が初の症例?とか考えていたら寝入っていたようで、次に目が覚めたのが5時。

残念ながら体温は下がっていないのですが、下痢なので腹が痛くなりトイレに向かう。
すると、突然大量の冷や汗が流れ出して吐き気も。散々下痢で下から出してる上に食欲もないので何も食ってない。なので、出るものがない。なのに、吐き気が。すると、今まで感じたことがないような内臓全体がひっくりかえりそうな感じになって、手足が痺れだして何か硬直している。

やっばーー!

この状態で倒れたら尻丸出しで救急車か、いやだな、ケツまだ拭いてないし、とか、そんなところは結構冷静に考える。
しばらく様子を見ていたら、なんとか普通の高熱がある人に戻ったので寝る。
当然、この日は医者に。

息子も鼻水と咳がひどかったので、自分と一緒に見てもらう。
血液検査の数値で私が結構悪かったようで、なんらかのウイルス性のものが悪さしているらしい。
盲腸とか食中毒を疑われまして、結局抗生物質を点滴に処方されて、ようやく熱が下がり始める。

本日再度病院へ来てくれ、と、言われていたので朝に行く。
腹の調子は今も悪いですが、前に比べて「食べる⇒即トイレ」という状況ではなくなりつつあります。

思い当たる食べ物がないのですが、ブログ書いていて気がつきました。
実は全く同じ症状を大学時代に経験していたのです。

独り暮らしで、独り寂しくスーパーの刺身を買って喰ったのですが、刺身買った後、うっかり本屋で1時間半くらい立ち読みしてしまったんですね。そしたらどうもウニが腐ってしまったようで、同じ状況に。その時、ウニを初めて食ったくらいだったので、こんな味かね、うまくないね、と、思って喰ったのです。

今回はそんな当たるようなもの喰った記憶がない。
普通、なんらか思い出すものなんですけど。

まぁ、風邪気味で体力が衰えていたのも良くなかったのでしょう。

しかし、今回の食欲不振で少し痩せた私を見た妻は、
「わ、なんか独りだけ痩せた。許せん。」
と、言ってます。
意味不明すぎる・・・。

風邪をひく

2014年09月07日 | 日記
9月6日は地域清掃の日。草が伸び放題だったので鍬でわっさわっさと草を刈る。蚊もかなりいることが想定されるので、長袖、長ズボン、首を頭には手拭い。そして蚊が嫌がる薬を振りかけまくって実施。昨年度は背中に数十箇所の刺され跡があったので、今年は万全の対策を。
今年は蚊といえば、デング熱。血が出まくって死んでしまうのは嫌なのでこちらも必死。
対策のおかげか、蚊に一箇所刺されただけでジャングルのようだった公園も普通にあるけるようになりました。

その代償として、とんでもない量の汗をかき、風呂に入ってお茶を飲む。

その後、子供達を岐阜県のファミリーパークに連れて行き、

遊んだのですが暑さと湿気で、どうにも体調が悪くなる。元々木曜日位から鼻喉が腫れて風邪気味だったのが土曜日朝に調子がよかったので治ったと思って草刈りやら子どもの相手やらをしたのですが、体調が本復していたわけではなかったようで、とてつもない疲労感に襲われる。

なんとか車を運転して帰宅。
熱を測ると38度7分。結構高いので驚く。そりゃ、尋常じゃない疲労感だったからなあ、と納得。

風邪薬飲んで寝ましたが、寝られない、暑い、寒気がする、と、めちゃくちゃな状態でなんとか朝を迎える。朝測ると37度2分。その後もう一度寝たら、相当楽になりましたが、まだ、だるい。

明日までに治るかやぁ。。。
昨年度からしっかりと休みを取ってないので疲労が溜まっていたのが原因かと。
今から、もう一眠りしたいところですが、何分、小さい子どもがいると、落ち着いて寝かせてくれませんからねぇ。。。

小倉城 ~豊前征伐1~

2014年09月01日 | 落城戦記
お盆の行動は高くつく。
当初、我々は島津征伐を行う予定であったものの、交通費プラス宿泊費で10万円。と、いう時点で私が降参。
石曼子はさすがに強敵。

今回は勘弁してやるぜ、と、いうことで、結果的に小倉を根城に2泊3日になる。
新幹線で九州に向かうのは昨年度に引き続き。昨年度は博多までだが今回は手前の小倉。近く感じる。
さて、小倉で降りると
「名古屋より涼しい・・・。」

湿気が高くて少し動くだけで汗が滝のように流れる名古屋とは違い、海が近いせいか小倉は割りとすごしやすい。
早速の小倉で名物といわれる焼きうどんを食べることに。


反応は。


焼きうどんというと醤油味を考えていたらソース味でした。そして結構上品。B級グルメ的なものとしてくどさを期待していた我々には若干パンチが・・・。
なにせ、京都の有名料理人に「料理が不味かったら殺す。」と言って、出てきた料理に「なんじゃあ!不味い!打ち首じゃ!」と怒ったところ「造りなおすから待て。」と言われて作り直したら「うまいがや。」と言ったところ「最初は将軍家に出す上品な味。二回目は味付けを濃くした田舎料理の味。」と、言われた織田信長の国から来た我々。
我々の舌が駄目だったのでしょう。

さて、レンタカーを借りて小倉城へ向かう。


雨の小倉。
夏のお盆の時期に催行される遠方征伐で雨が降った記憶は過去にない。
それだけでも珍しいのに、結構な豪雨。

なのに、こんな足元で挑戦するのは団にょ。

泥はねもあるし雨は入り込む。

そんな我々に追い討ちをかけるのがこの看板。


『んNO~~~!』

と、天才クイズの正答発表のときのような叫びを上げたくもなりますが(天才クイズは東海ローカルネタ。)、実は事前にリサーチ済み。模造天守に用はない。城の縄張が確認できればよく、模造天守は興味がない。中の収蔵品は少し未練がある程度。

どちらかといえば、こんな石垣。

隅石が真っ二つじゃん!
こちらの方がよっぽど大事、と、考えるグループなのです。

「いや、これ、よく崩れないね、石垣。」とか、
「どういう材質なんだろ。」とか、
神社側から入る虎口が枡形になりつつ階段で上る形状なのも嬉しい。


そして大砲が現れる。
ので、お約束。

※覗いたら撃たれた人。

さて、現れたのは模造天守。

下の階よりも上の階が張り出す「南蛮造(なんばんづくり)」の城。
岩国城とかもありますけど、結構珍しい。回廊部分を内装に取り込んだ形状であることが多いようです。小倉城もこうした珍しい造りだったようです。

が。

どうやら、再建時に色々と夢や希望をぶち込んでしまい、城によくある三角形の「破風(はふ)」と呼ばれるものをくっつけてしまってます。どうやら本当はこちらのよう。

※現地案内看板

昔の図面を見ると、プレハブのように四角い階をぽんぽんと積み上げる層塔式のようで、最上階だけ南蛮造で張り出しがあります。実際、案内看板にも「・・・天守閣の屋根には、破風が無く・・・」と、あっさりと明言しています。

むむ。

川平〇栄ばりに唸る。

破風のある城を見慣れている身としては、むしろ、破風がない城をそのまま復原した方が格好良いのにね、と、思う。そりゃ破風がないと「え・・・。」と、現代の一般人にとって中途半端感がものすごい城が出来上がってしまうので、寄付金やら税金やらで建てる場合、「まあ、そんな過去のもんに拘らんと、ワシらの誇りになるような現代の城を建てればええんやっ!ぐわっはっは。」と、いう主張が勝ってしまうのかもしれません。
ただ、そう何度も建てられないものだけに、そして、そこにわざわざ建てるのであれば、過去の状況を復原する方に価値の高さを感じてしまう我々ですので、少々残念です。ま、建てるには様々な人の理解や協力が必要ですから、部外者がとやかくいうべきことでは無いでしょうけど。


石垣からはみ出てますが、こんな造りをすることは考えにくいのですが・・・。どうなんでしょうか。

そして、この城、三角形の形状をしていてわかりにくい。
こんな感じ。


そして、現在はこう。

車で上がる道を作ったのだと思いますが、よくわからなくなっています。
まぁ、こちらの大手は昔からのもの、だと、信じたい。


隅がこのように控えた石垣が出てきました。

変わってるなぁ、と、思ったのですが、その後、どうもこれって後世のものじゃないのか、という疑念が・・・。
ここのあたりの石垣の石だけ、他の石垣と石や積み方が違う。
小倉城のHPにも
「城の石垣は切り石を使わない野面積み(のづらづみ)で、素朴ながらも豪快な風情にあふれています。」
と、あるので、やっぱりこれは違うのかなぁ、と、思う。
ここまで改変されちゃうと訳がわからない。ひょっとしたらこの石垣は本当に昔からあったのかもしれませんが、他の部分の石垣と色が違いすぎるし、積み方も綺麗すぎ。セットバックするなんて、敵が見やすくする仕組みなんかを造るのも変だし・・・。他のメンバーは完全に「最近じゃない?」との意見。
私はこんな沢山のものを後世につくるかね?と、思いましたが、改めてブログ記事書くにあたり、普通、天守前の見栄えのする石垣と天守の石垣は一緒にするだろう、天下普請で持ち場の大名が違う城でもないし、と思うし、なんと言っても天守のこともあるので、違う気が。
どなたか知ってる方がいたら真実を教えてください。

やっぱり、こういうややこしいことになるので、できれば正確な再建をして欲しいと思います。

さて、城を巡り最近発掘されたと言う庭園へ。

その途中、こんな近代的というか前衛的な建物群が。

城とこの建物ってかなりシュールです。

途中ミュージアムショップみたいなところがありました。礼法小笠原流の流れを汲む大名が治めていたためか、小笠原流の展示がありました。その中で、こんな例示が。


紀伊守は
「これは、だれかのイタズラにしか見えない。」
とのこと。

確かに。
これが礼に適っていると言われても、紀伊守の一言で全て台無し。

その後、呈茶をいただく。
雨が降って湿気が高い中、空調の効いた室内で静かにお茶を飲むのはよいものです。






その後、庭園へ。

こじんまりとしていますが、落ち着きます。最近発掘調査を基に復原されたそうです。
城との感じも抜群。


中の造りも落ち着いた感じです。

迎賓館的な使われ方をしていたそうです。
何がすごいって、細い竹で外からは見えにくいが中からは見えやすい、という網戸的な扉。

※手前の扉からは中が見えないが、奥の扉からは外が透けて見える。
この技術には一同興奮。
目が細かいので虫も入らないそうです。
これ、家に欲しい、と、いう者が続出。たっかいから無理だろうけど、と。

そして、雨戸が結構からくりな造りをしていて、実演もしてくれました。
90度回転させる造りとなっているそうです。が、一旦雨戸を外にはみ出させるので、失敗すると下の池に落ちて大変なことになるとか。そして、大変なことに何度かなった、と、いうお話をしてくれる気さくなガイドさんでした。

そして、池には人面魚。

※何の呪いだ。笑。

外からみるとこんな感じ。


ここで雨を眺めながら、1時間ほどだらだらして新幹線での移動の疲れを取っておりました。

さて、夕飯。
お茶の方に聞いた旦過(たんか)市場へ。変わった名前ですが、要は市場。金沢の近江町市場を髣髴とさせる。

※写真右手のスーパーは日本で始めて24時間営業を始めたスーパーだそうです。

が、季節はお盆。なので、当然。


店がやってない・・・。

腹減った。聞いてた店がやってない、と、嘆きの壁。
ただ、偶然一件、中津からあげの店がやっていた!
そこで、地元の名物、ぬかみそだきとのセットを発見。先ほどのお茶の方が好物だ、と、言っていたので、皆、チョイス。

※画面中央がさばのぬかみそだき

ぬかみそで鯖やいわしを炊いたものだそうで、小笠原家が入国した際に藩主がぬかみそ好きだったということが発祥だそうです。そして食すが、確かに美味い!これはご飯が進む。空腹にから揚げとぬかみそだきは最高でした。ちなみにこのメンバー、偶然ですが、皆、酒が飲めません。なので、ご飯で満足するのです。

その後、あてもなく喫茶店を探しながら小倉の町をふらつく。が、ただ単に足が疲れただけだった。。。
途中みつけた居酒屋で「くまもん」の後姿を発見。


馬刺しとか食った帰りのくまもんなんだろうか・・・。
怖すぎる。

次回、長篠とも縁が深い中津編へ!