長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

富永家の人々① ~家臣が強くて困ります (TnT) ~

2012年02月29日 | 日本史
城所道寿を追いかけていたら、どうやらこの城所家というのは『風は山河より』(宮城谷昌光新潮社)
の主人公菅沼定則と大きく関係があるのでした。設楽町田峯方面の人だと思って調べていたら、なんのことはない、思いっきり地元の人だった訳です。
この菅沼定則は、あの武田信玄2万5千の軍勢を野田城にひきつけ、500の軍勢で守り最後は井戸の水を武田軍の金堀衆に掘りぬかれて降伏した名将菅沼定盈の祖父です。

そもそもこの城所家は、東三河と豊田市の山間部を領地としていた富永家の有力な家臣だった家柄のようです。
富永氏は応天門の変で失脚したことで有名な伴善男を祖先とする伴氏の一族で、足利尊氏に従い、活躍した一族のようです。野田城近くの豊川付近に野田館に住んでいたようです。野田戦記なる本には「三州東は富永家西は吉良氏一国両家の守護たり」などと、隆盛振りをうたっていますが、実際には足利義氏が守護で、富永家は守護ではなく富永保(郡内にありながら郡司の勢力が及ばない荘園のようなものらしいです。)の保司であったようですので、荘官のようなものだったのでしょう。

※野田館を示す看板。現在遺構は確認できない。

時代が下がるにつれて、菅沼氏だ奥平氏だのが作手高原に移り住んできて、彼らが力をつけて領地を拡大していくと、富永氏は逆に実効支配地域が減少していく状態となり、8代目の千若丸の頃には、今の新城市野田、大野田、中市場、稲木、諏訪などしかないような状況になったようです。(ちなみに、上記の地域は現在でもかなり強固な地縁的結合があるようです。面白いものです。また、八名井や山吉田、下条、長山なども領地としていたと言う説もあります。)ところが、この千若丸は乱心して自刃してしまいます。『野田の今昔』だかには乱れた世に対応できず、領土も減り続けていたことで勇気が無く自刃したと書いてありますが、新城市誌などでは淡々と乱心自刃の事実のみが記載されています。菅沼家譜などには「千若丸若年而作法不正、後乱気自殺」とあるので、若い頃から素行が良くなく、後におかしくなって自殺した、ということになります。作法不正というのが素行不良=やんちゃで粗暴な奴、というよりも、神経がか細く欝っぽい状況だった、ということも考えられるのではないかと思います。やんちゃで粗暴な人が自殺するとは考えにくい。もっとも、家臣団が優秀な家だった、という記述もあるので、あまりに横暴な主君を実力ある家臣団が自刃に追い込んだ可能性もあります。ひょっとすると、主君の権力を拡張しようとして家臣団と対立し、粛清された結果なのかもしれません。が、こればっかりは「これだ。」という文書が残ってないので、いずれも「かもね。」ということを私が言っているにすぎません。

なんにせよ、家臣団を残して主家の血筋がいなくなってしまったことから、富永家の猷子にもなっていた近くの勢力家、田峯菅沼家から子を貰おうという話になったようです。どうも田峯菅沼氏とはいうものの、この時は新城市の平井という地区にある大谷城あたりまで進出してきているので、野田の富永家とはかなり近い距離にいたといえます。直線距離で言えば8kmくらいじゃないでしょうか。自転車で30分もあればいける距離です。(すいませんねローカルな話で。新城市のことがわからない方は、こちらの地図をどうぞ。)

このとき、田峯菅沼氏から人を貰おうと話し合ったのが、今泉四郎兵衛と城所浄古斎という家臣だったのです。この城所浄古斎こそが、城所道寿信景の親父なのだそうです。
さぁて、長くなってきましたので、続きは明日へ。

嫌々戦う領主達 ~田峯菅沼家老のケース~

2012年02月28日 | 戦国逸話
 城所道寿を調べる、という話でブログを引っ張ってきました。
 「誰?」という声がそろそろ強くなってきた頃だと思いますので、ここら辺りで城所道寿氏にまつわる逸話を御紹介し、なぜ私がこの人が妙に気になるのかを本日はお話したいと思います。

一、大野田城の戦い
 元亀二年(1571年)四月二十八日夜、武田信玄は作手の奥平貞能、田峯の菅沼定忠を案内役とさせて、大野田城の野田菅沼定盈を攻撃させることとした。しかし、野田菅沼は田峯菅沼から養子を迎えていたためお互い親類が多く、夜襲を成功させてしまうと親類縁者に多数の死傷者が出てしまうことを恐れた菅沼定忠は、家老の城所道寿と一計を案じた。
 わざと道に迷った態で山の中をあっちこっち行った後、夜が明けてから大野田城へ向かった。菅沼定盈は当初抵抗しようとしたものの、あまりの大軍に籠城不利とみて城に火を放ち、豊橋の西郷氏を頼って落ち延びた。(参考 新城市三十年誌 533頁)

二、奥平貞能尋問
 天正元年(1573年)八月中旬、武田信玄が死去したとの情報を得た奥三河領主連合山家三方衆の最大勢力奥平氏当主奥平貞能(さだよし)は、武田を見限り徳川家へ臣従することを決定します。
 武田信玄死去の報を受け、徳川家康は長篠城を奪回します。長篠城は落城してしまいましたが、長篠城の後詰として来援した武田軍は、長篠落城後付近に居残っている徳川家康を包囲殲滅する作戦を立てます。貞能はこの作戦を家康へ通報。家康は慌てて浜松へ逃げ帰ります。これにより武田軍は内通者の存在に気づき、奥平貞能を疑います。
 武田勝頼の従兄弟で後詰軍の大将武田信豊(武田信玄の弟典厩信繁の息子)は、奥平貞能を鳳来玖老勢(ほうらいくろぜ)の塩平城へ召還し尋問することとします。
 一歩間違えばその場で討取られる危険がある状況下で、奥平貞能は数人の供だけを連れて現れます。そして、到着した奥平貞能を見るなり「徳川家に内通したと言う噂があるのに、よくぞ来たもんですな。」といきなり浴びせかけたのは城所道寿。
 このやりとりを障子の影で聞いていたのは武田信豊。落ち着いて対応する奥平貞能を試すため、数刻歓談した上、碁を一緒にうつことで動揺しないかを確認したものの貞能は全く動揺した態を見せない。
 碁の間、信豊の家老小池五郎左衛門が貞能のお供に「お前らの主君は裏切りが判明した。よって討取った!」と言うが、お供は「何かの間違いでしょう。」と取り合わない。これは事前の打ち合わせで貞能の首本物を見るまでは騒ぐな、と、合図していたことによります。
 で、ようやく奥平貞能が武田信豊の尋問を終わり帰ろうと門外に出たところを城所道寿が呼び止め「作手までは遠いから夕飯食ってけ。」と呼び返し反応を見たが、貞能は平気であった。
 が、作手へ帰った奥平貞能はこの晩武田氏を裏切って徳川へ内応するため作手を大脱走することとなる。(参考 寛政重修諸家譜 奥平貞能)

三、設楽原合戦山県隊の模様
 (1) 最近徳川氏を裏切って武田の山県昌景隊に属していた節木久内、豊田作右衛門、城所道寿等は(織田・徳川方の)鉄砲風に恐れをなし、所詮はかなわずと思ったのか「火ともし山」を指して走り去り、山県もまた虎口を逃れた。(参考 口語文全訳三州長篠合戦記 49頁)
 (2) 山県昌景が鞍の前輪を鉄砲で打ちぬかれ討死したことを受け、山県隊の先手が崩れ始めた。田峯の豊田作左衛門が鉄砲を討って織田・徳川軍に応戦しようとしていると田峯の家老城所道寿が来て、山県は討死したので早々に退却せよと指示したので、足軽たちを引き連れ火燈山の麓まで引きのいた。(参考 改定増補 長篠日記〔長篠戦記〕57頁)

四、武田勝頼締め出しを食らう
 長篠出陣前に田峯菅沼氏は、武田派の当主菅沼定忠&筆頭家老城所道寿、徳川への帰順をとく定忠の叔父で養父の菅沼定直&次席家老今泉道善の二派に別れて対立した。結果的に戦場へは定忠達、残って城を守るのは定直達となった。
 設楽原合戦で敗れた武田勝頼の一行と行き会った菅沼定忠と城所道寿は、田峯城へ武田勝頼一行を案内し開門を命じたところ、門が開かない。定直派が裏切ったのである。追手も気になるので、一行はそのままやむなく武節城まで退却。ここで梅酢を飲んでようやく武田勝頼は一息付いたといわれる。
 この時、田峯城内にいた城所道寿の親族は定直派の動きに気がつき嫡子らは城内を脱出。嫡子の妻は城近くの川に身投げしたといわれる。(参考 設楽町史167頁)

五、裏切りへの落とし前をつける
 武田勝頼逃避行時に裏切った田峯城に残る菅沼定直一派にたいして、一ヵ月後、菅沼定忠主従は報復措置にでます。天正四年(1576年)七月十四日の明け方、突如として田峯城へ乱入した菅沼定忠達は城内の老若男女九十六人を惨殺。特に次席家老今泉道善への恨みは激しく、後ろ手に縛り上げ、生きながらに鋸引きにしたと言われれる。
 武田家滅亡後天正10年五月十日、菅沼定忠と城所道寿は牛久保城主牧野康成により討たれたという。(参考 設楽町史168頁)

 こうした各種のエピソードを見ますと、当主が幼い田峯菅沼氏を彼なりに必死に守り抜こうとし、一時期は当主から半独立に近い立場にまで登りつめながらも、残念ながら状況分析に失敗し、最期は全てを失った、という感じがします。
 巨大勢力に挟まれた奥三河の地は「風になびく葦」として強者に翻弄される悲哀を強調した論調が目立ちます。確かに武田を裏切った奥平氏は人質を武田氏に殺害されていますし、城所道寿も徳川が強ければ武田になびくこともなかった、と、言えますので悲哀を感じないわけでもありません。
 しかしながら、きっと彼らなりに状況分析を行い、それこそ一族や自分の命を賭けて積極的に行動していたのではないか、というのが私の考えです。
 今も世の中がめまぐるしく変わっていますが、悲哀だけで我々は生きているわけではありません。むしろ、なんとかしようと思って日々さまざまに活動しているのではないでしょうか。そういう視点で山家三方衆を見てみたいなぁ、と、思っております。

 この城所道寿というのは、後世の史家により悪く書かれている可能性も高そうですが、非常に人間くさい。
 すごいことを成し遂げたヒーローよりも、こういう人間くさい人に、なんとなく親近感を感じます。それが「城所道寿って何者?」という探索を続けている原因なのです。

 だってねぇ、世の中、私らのような凡百の人間の方が多いし、昔だってそういう人の方が多かった訳でしょう?この歳になると自分の行く末もある程度見えてくるわけでして、ヒーローなんかよりも普通っぽい人の方に共感しますわね。

大日本史料

2012年02月27日 | 日本史
それは『城所道寿信景』という田峯菅沼の家臣を調べたい、ただ、それだけのことから始まりました。

今までのように、そこそこ資料を集めていれば大方の人物像は現れようて…、と、たかを括って調べ始めましたが、どうにも掴めない。

新城市が発行している『山家三方衆』という本にある「城所道寿が田峯菅沼の中で特別扱いを受けている。」という趣旨の記載は、どうやら甲陽軍鑑に寄っているらしい。
なので、甲陽軍鑑品十七をコピーしてくると、田峯菅沼氏とは別の記載方法となっているが「一騎合衆」という分類がなされている。説明書きに『是はさかひめにて関をとり或陣へ立ても寄合とて牢人衆と一備有。』とあるため、国境付近の守りを固めて合戦時などは牢人衆と一体となって行動する、ということかな?と、理解しました。(が、どうなんでしょうか。詳しい方が見えたら「こう解釈するのだ。」と教えていただけるとありがたいです。)
もっと端的に「一騎合衆」を説明している資料が無いかと仕方なく手当たり次第に関係ありそうな本をコピーしてきたものの説明している資料が無い!、という悲痛な叫びは前々回に書きました。

とりあえず資料を読み始め、甲陽軍鑑品十七にある「惣人別之事」を論評した『武田氏の研究』(吉川弘文館 編者柴辻俊六 S59.3.1初出)の中にある「一「甲陽軍鑑」の武田家臣団編成表について」(小林計一郎)を読んでおりましたところ、甲陽軍艦の記述は当時のなにかの資料を参照したっぽく、それなりに注意して使えば信頼できるんじゃない、という結論に至っていました。「一騎合衆」については「いわゆる一騎合衆は除いているのだろう」と、さらっと書いてくれているため「だからその一騎合衆ってなんなんだよ!!!!」と絶叫したくなり、相変わらず不明なままですが、どうやら武田遺臣団が徳川家康に起請文を提出したことがあるらしく、その家臣団をまず当たるのが武田家臣団調査の常套手段のよう。もっとも、城所道寿は家康に成敗されたらしいので、起請文に名を連ねることはありえないのですが、では、その起請文が見てみたい、と、思う。

で、手当たり次第に検索しまくっていると「大日本史料」というものにぶち当たる。なんか図書館だかで見たことある名前だぞ…、と、思いながら検索をかけていくと、どうやら東大の史料編纂所がデータベース化してみることができるらしい。適当に入力していくと、なんと、見ることができるではないですか。そこのなかに確かに起請文に名を連ねた武将が列挙されている!

おおおお、と、一人感動しておりました。
全くの素人でも、色々と調べることができる世の中になったんですねぇ。
でも、内容が難しいものが多いので、解釈に誤りをおかしそうで、友人の佐渡守のように通信の大学へ通って、しっかりと勉強したいものです。

日本史を専門に勉強されてきた方やお詳しい方からすると「なんだ、うらにわは今頃こんなことに気づいたのか。」と笑われるかもしれませんが、新書レベルを読んで面白がっている、歴史は趣味レベルの人間としては、新鮮な発見だったわけです。

もっとも、発見に感動してブログに書いたのは良いのですが、肝心の城所道寿については全く関係の無いことなので、無駄足踏んだ、ってことを報告しただけになりますが。。。

へんば餅

2012年02月26日 | 日記
三重の隠れた名物へんば餅。三重に行くと言ったら、以前土産でたべた職場の人から、買ってきて欲しいとのリクエストがあり、本日買いに行きました。できたては柔らかくもちもちで最高。自分用な餅を6つ平らげました。どれだけでも食べられます。伊勢神宮へ参拝する客が馬を降りる場所、馬を返す場所、返馬の餅、という由来だそうです。地元の人は万札握りしめて取り付け騒ぎのように奪いあって買う餅です。ぜひ一度ご賞味を。

越後の龍、蛇にやられる。

2012年02月25日 | 戦国逸話
名将言行録という戦国武将のエピソード満載の本があります。
そこの中からトンデモ系のエピソードを紹介してみたいと思います。一緒に城を巡っている人達向けのホムペで連載していたものからイロモノ色が強いものを厳選してブログに復活させてみました。

不肖うらにわが現代語訳するため、わかりにくい部分はすっ飛ばして訳しますのでご了承ください。

第一回は戦国武将人気No.1の呼び声も高い越後の龍『上杉謙信』です。
謙信と言えば、大河ドラマ「天地人」で阿部寛が演じてうまくはまった感がありましたね。名将言行録ではこう特徴を言っています。

輝虎(謙信の本名)は、体が小さく、左脛にはれ物があって、引きつっていた。
 
え?謙信て小さいの?阿部寛でかいけど…。
さらに左の脛にはれ物があって足が不自由なの?
はれ物は晩年になってできたのだと思われますが(結構馬に乗って戦う話が他にあるから。)、身長はそう変わらないでしょう。戦国時代の日本人は今より小さいわけですから、その中でも小さいと記述されたと言うことは、かなり小柄だったのではないか?
うらにわ(174cm)と謙信が並んだら「おい謙信、小田原のコーラが飲みたいから買ってこい。」と頭を小突いくことができるかもしれません。(もっとも、その後斬殺される事必定。)
 
と、まず外形的なイメージをぶち壊したところで、謙信の無軌道ぶりを描きます。

『巨蛇を打つ』
 謙信が諏訪神社を参拝すると、大蛇が出てきました。
 これを見た巫女さんが言うには
 「この蛇は神の化身です。神様がお出になったからには、あなたの願望は叶います。おめでとうございます!」
 すると、謙信、いきなり鉄砲をぶっ放して大蛇を撃つ。
 大蛇は大怪我をして逃げていき、その時、神社の木々は一斉にざわめいたとか。
 しかし、謙信が笑って言うには、
 「神に形など無い!あの長いモノが何の神だというのだ。人が神だと騒ぎ立てていると騒ぎが大きくなって、必ず後で害になるのだ。今、儂は民の害を除いてやったのだ。良いことをした。」と、神社を拝んで帰る。
 家臣達は祟りを恐れるものの、謙信には何も言えない。

 夜になって、謙信は熱を出して寝込み、医者が診ると、全身から蛇が出ている状況に。しかし、謙信は部下に命じて燭をともさせ、一匹ずつ取り除かせたところ、しばらくして治ったそうな。

謙信…。
豪快だかなんだかよくわからない話です。

神の化身だ、と言っているのに鉄砲で撃つのも大概ですが、まぁ、言わんとすることは理解できます。それで話が終わればいいんですけど、どう考えても祟りに遭ってるとしか思えない状況になっている。オチつけてどうすんだ。

全身から蛇が出ている状況というのも、どんな状況か不明です。
想像するとかなり怖い。
一匹ずつ蛇を取り除かせられた部下も気味悪いでしょうし、そのうじゃうじゃした蛇はどうしたんでしょうか。そもそも、諏訪大社って武田色の強い神社のような気もするし。だから撃ったのか?原文は「諏訪祠」となっているので、どの諏訪神社かはわかりませんが、謙信が生きている間に武田領だった諏訪大社には行ってないと思うので、たぶん、領内の分社なんでしょうかね。
謎が謎を呼びます。

でも、鉄砲で撃った後にすごく得意気になっている謙信公が目に浮かぶようでほほえましい。巫女さんは唖然とし、部下もびびってるけど謙信には畏れ多くて意見できていない。なんか組織に属している人間の悲哀がにじみ出て、なんとまぁ人間くさい話じゃないですか。現代でもありがちな話。

『越後の龍』なのに蛇にやり返される、っていうのも、なんだかねぇ。

恐るべし、城所道寿。

2012年02月24日 | 日本史
昨日、定時後に車でわざわざ岡崎市まで出向き、リブラ(中央図書館)でコピーしまくってきた資料達です。

写真のものは、
『甲州武田家臣団』土橋治重著 新人物往来社
『戦国史研究』 戦国史研究
『當代記 駿府記』 続群書類従完成会
『戦国大名論集 武田氏の研究』柴辻俊六編 吉川弘文館
『戦国期武田氏領の展開』柴辻俊六著 岩田書院
『武田氏家臣団の系譜』服部治則著 岩田書院
『戦国期静岡の研究』 静岡県地域史研究会
の一部コピーです。(もちろん著作権に触れない程度の量です。岡崎市はコピーした内容を図書館の方がチェックすると言う結構厳重な扱いをしています。)

なんでわざわざ定時後に車飛ばして岡崎くんだりまで行ったかと言うと、『城所道寿』が原因。

甲陽軍鑑品十七で城所道寿を調べたら「一騎合衆」に分類されている。
「何それ?」とネットで調べたが明確な答えが無い。が、結構皆当たり前のように使っている人も多い。「なんだよ、なんで明確な定義づけがでてこないんだ。なのになんで当たり前のように使っている人がいるんだ。一体これは何なんだ。」と拘り始めたら止められない。運悪く新城市のふるさと図書館は館内整理で3月2日までやってない。
しょうがないので、一番近くで最も歴史関係が充実してそうな岡崎市中央図書館まで飛んで行った訳です。(今は妻子が家にいませんから。独身ですから。ククク。妻にばれたら怒られる。と、いってもブログに書いてしまえばバレタも同然ですが。)
1時間半近くそれっぽい本を探しては斜め読みして…、を繰り返し、それらしい記載がありそうなものや、全然関係ないけど気になる部分を閉館30分前からコピーを開始し、ぎりぎり間に合いました。実に132枚。1,320円です。

しかし、しかしですぞ。これだけ気合入れて調べに行ったにもかかわらず、結果的に『一騎合衆』に明確な答えをくれている資料はありませんでした。泣。

ただ、どうやら武田に降伏した有力家臣である『先方衆(さきかたしゅう)』の規模が小さい版のよう、といってもヨサゲな感じ、と言う感触は掴めました。
まだ、冒頭の写真の資料はこれから読み込みますので「いや、実はちゃんと書いてあった。」という結果もあるかもです。
このブログ読んでる方でご存知の方が見えたら御教示いただけると幸いです。あっさり教えていただけると、それはそれで昨日の私は何なんだ、という話になってしまうので、少々勿体つけて教えていただけるとありがたいです。

冒頭の資料を入手するため、コピー代の他に、高速代往復で千円近く+ガソリン代。駐車場代はギリで2時間無料対象となりセーフでした。上記の本達はそもそも入手できないし、できたとしても1冊8千円だの9千円だのとんでもない高額なので、まぁいいんですけど、研究者でもないのに自腹で調達している安月給の身としては痛い!しかも、別にそこまで拘る必要があったのか、この城所道寿に、という疑問が自分の中にもある。

恐るべし城所道寿。

山城街道攻略指南

2012年02月23日 | 奥三河
このブログをご覧の皆様にお知らせです。
城を見て回っている、と言う方ならばよってらっしゃい、城の知識を深めたいという方ならば是非、長篠に興味があるこれから歴女デビューを飾ろうと言うあなたならば鉄板、という講座が3月10日に新城設楽原歴史資料館で開催されます。
その名も「山城街道攻略指南」です。

この講座の特徴は、奥三河の戦国時代の概説と東三河の城を中心に城の見方を解説すると言う二部構成。総論と各論、という感じでお聞きいただけます。

奥三河を取り巻く戦国時代の状況は、あの宮城谷昌光氏の小説「風は山河より」の時代考証を担当した新城市主任学芸員の湯浅大司氏による解説となります。
そして、東三河の城を中心とした城解説は、昨年NHKで城の見方を12回シリーズで説明していた奈良大学教授で城界の巨頭千田嘉博氏の師匠筋にあたるという、三河城郭史談会会長の高橋延年氏です。現在の城マニアに崇拝されている千田氏、中井均氏という両カリスマのもう一世代上のカリスマですので、一度聞いてみる価値はあると思います。

ちなみに、時間は午後1時30分から午後4時30分まで。
当日資料代として500円が必要です。先着50名ですが、まだ席に余裕があるそうです。
「おう、そりゃ聞いてみてもいいかも。」という方は、平成24年2月末日までに下記へメール、FAXまたは郵送でお申込ください。
〒441-1326 愛知県新城市中野15-10
 (社)奥三河ビジョンフォーラム「奥三河山城攻略講座」係
 Mail:ovf@tcp-ip.or.jp

この地域は地味ですが先人達の積み重ねが大きく、在野の歴史研究のレベルも高いため、一度お越しいただくと面白いのではないかと思います。
詳しくは↓
http://www.pref.aichi.jp/0000048023.html

当然のことながら、私も当日傍聴しております。
色々と城好き同士で話ができるといいですね。

武田信玄

2012年02月22日 | 日本史


奥三河の戦国時代は、武田を抜きにしては成立しません。いろいろと趣味で、どうでもいいことを調べていると「ん?」ということも多い。結果的に「このときの武田の動きがようわからん。」ということになってしまうわけです。以前、著者の平山優氏の講演を聞いて「なんとわかりやすく面白い。」と思ったことから、この方の本を購入しております。色々読みましたが、要はこの一冊から波及しているな、という感じがします。なので、まずはこの本を読んでから他の平山本にあたるべきであったな、と、思っている次第です。
元亀二年四月の奥三河への武田侵攻はあった、という前提で書かれています。これは本の発刊が2006年と元亀二年否定説の鴨川本より先になっていることが大きいと思いますが、現在の平山氏がどのように考えているかは、ちょっと知りたいところです。

また、武田信玄の編年的な動きだけでなく、棟別役、知行、軍制などについても詳しく書かれており、単に読み物としてだけでなく、なるほど、学者さんというのはこういうことを調べているのね、ということなどもわかって、初心者にはとっつきやすい作りとなっています。

武田信玄を巡る現在の動きは、この本を読めば大体のことはわかってしまう、という優れた本だと思います。

田峯城② ~城にまつわるエピソード~

2012年02月14日 | 日本史
田峯城は丸みを帯びた曲輪が連続して配置し、常に高所から攻撃されつつ本丸へ向かうところが見所。立地も台地から一旦切れた川沿いに配置されており防御がしやすかったでしょう。

※手前が台地で奥の木々が田峯城です。

さて、前回の田峯城話で城所道寿という筆頭家老について少し触れました。
この田峯城は長篠合戦で重要な役割を果たしますので、ぜひ現地でそのエピソードを思い描いていただきたいと思います。城ヲタ分類『逸話萌え』向きの城です。
今からの話は結構メジャーなので「ああ、あれね。知ってるよ。」と言う方も多いかもしれません。「ええ、こんな話あったの?」と言う方は、まだまだ城に毒されていない幸せな方です。
引き返すならば今です。

長篠合戦当時の田峯城主菅沼定忠は、複雑な過去を持っていました。
弘治二年(1556年)に定忠の父親である菅沼定継は、今川家に対して叛旗を翻します。しかし、今川義元の命を受けた弟の菅沼定直を始めとする連合軍に敗れ命を落とします。定直は、まだ幼い甥()の命を奪うことはせず、を養いながら田峯城を治めていたようです。ところが永禄四年(1561年)、菅沼氏が今川氏真から松平元康へ乗り換える際、元康はを取り立て定継の後を継がせることとし、の親である定継を倒した叔父達に後見をさせました。
このように、菅沼定忠は、親の敵に養われて後見を受けていることになります。彼らの間にどのような感情が流れていたのかは、非常に興味深いところです。ただ、定忠自身の権力基盤は、さほど強いものではなかったでしょう。

そして、元亀年間に武田軍が奥三河侵攻を開始します。その際、武田に近い田峯菅沼は降伏します。その際、定忠が幼かったため人質に提出できる身内が無かったためか、家老の城所道寿の娘ともう一人家老の娘が武田に差し出されます。その後、城所道寿は長篠菅沼の調略や奥平の徳川寝返り時の詰問使など表舞台へやたらと登場してきます。甲陽軍鑑でも武田の武将として田峯菅沼40騎と並び城所道寿3騎と記載されるなど、独特の地位を築いて、ブイブイ言わせていたようです。
ネットで身元を調べてみると、どうやら野田城攻めで武田信玄に最後まで抵抗した菅沼定盈の野田菅沼の前身である富永氏の家老の家柄らしい、という情報もありますが、私自身は資料で確認しているわけではありません。
結構定忠が若かったので、取り立ててくれた徳川家康を裏切ったりしていることから、城所道寿の影響力が強かったのでは、と見ている郷土資料が多いです。

さて、この道寿と田峯菅沼当主の定忠は長篠合戦に武田方として参戦し、敗れた武田勝頼を警護しながら田峯城へ案内しますが、なんと、後見人であり、かつて父を殺した菅沼定直と次席家老今泉道善が反逆し、入城を拒みます。長篠合戦で負けた勝頼が一息つこうとしたら締め出しを食ってしまったのが、この田峯城なのです。
この時、城所道寿の家族は城の不穏な雰囲気を察知して事前に逃げ出しましたが、奥さんは近くの川へ身投げしたため、梅が淵という名になっているとか。

やむなく稲武の武節城まで引き上げ、ようやく武田勝頼は梅酢で一息ついたとされています。そして、なんとか甲斐まで勝頼は落ち延びて行きます。
しかし、憤懣やる方ないのが菅沼定忠と城所道寿。武田勝頼と別れ、自分達は面目を失ったので自害したと言う偽情報を流し田峯城を油断させ、一ヶ月後に突如として急襲。菅沼定直はこの時討取られたとも言われますが、そうでもない、という説もあるようです。しかし、96名全員が討取られ、さらに、次席家老今泉道善は恨みが集中したためか、鋸引きの刑に処されてしまいます。
今でも、その場所は『道善畑』として残されています。この場所は結構祟りが恐れられており、将門塚のようにふざけてみると結構ヤバい目に遭うらしいので、お気をつけください。

※道善畑です。南無阿弥陀仏。写真取るときにはひたすら念仏を唱えてシャッターを切りました。

なお、残りはさらし首にされてしまったそうで、その場所が『首塚』とされています。

さて、そんなおどろおどろしい歴史にまみれた田峯城。
見学の際には、併せて霊験あらたかな田峯観音をお参りされることをお勧めします。

ここは、昔殿様の山でうっかり木を切って田峯観音の建物資材に使ってしまったことがばれて、殿様の検使が来る際「なんとかしてください。もし願いを聞いてくれたら家が3軒になるまで歌舞伎を奉納します。」と祈ったところ、夏なのに雪が降り、雪が積もって見れないのと寒いのとで、検使が遠くから見て不問にして帰っていった、という伝承が残されています。
そのため、会計検査などがあるときなどは、ここでお参りすると良い、とも言われています。田峯歌舞伎は地歌舞伎として、大変頑張って地元が盛り上げていますので、一見の価値があると思います。私もまだ見てませんが、今年は見てみたいものです。
今ネットでみたら、今年は2月12日だとか。

あっ!終わってる!!がーん。。。