長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

名護屋城 ~名古屋城ではないナゴヤジョウ~

2013年09月30日 | 落城戦記
一月以上経ってしまいましたが、あこがれの名護屋城のことを。


その昔、尾張名古屋に住んでいた小学生だった私は「なごやじょう」という巨城がもう一つあると聞いて妙な競争心を抱いた記憶があります。
まぁ、偏狭な郷土愛とも言うべきものでしょう。

その後、名護屋城は織豊系城郭の最高峰とも言うべき相当の城だと聞きつけ、行きたいと熱望する城へと変化する。しかし、なかなか馴染みの無い佐賀県にあるだけに、きっと定年後にでも行くのだろうと漠然と思っておりました。

が、案外とあっさりとその夢は叶いまして、本来は吉野ヶ里よりも名護屋城が、佐賀遠征の最大の目的でした。

憧れの名護屋城。
駐車場にとめるとこんな感じでお出迎え。


とにかくでかそう。
さすがに日本中の主要大名が渡海遠征のために集まっただけのことはある。
この城は豊臣秀吉が国内を統一し、海外出兵の拠点とした場所だけに錚々たるメンバーが集結しています。徳川家康、伊達政宗、小早川隆景、宇喜田秀家、上杉景勝・・・。まさに戦国の有名どころが全て。軍勢も多かっただけに、突然の巨大都市が出来上がったわけです。
その、中心となる拠点施設が名護屋城。

博物館から見た景色としてはこんな感じ。


周りに何も無く、青空の中にスカーンと聳えるのは見ていて壮観。
だいたい、城はその後の行政の中心地になるなどして、周囲に高層ビルなどが立ち並んでいることが多いのですが、なにぶんこの城は突如できあがり、そして目的終了とともに消えただけあって、周りが発展していない。だからなんとなく昔の感じが想像できるわけです。

さて、城へ侵入を開始。
入口を見た瞬間に「でかい。」


おなじ「なごやじょう」の名古屋城などは、石垣もでかいのですが郭も広々としているので石垣に近寄れずその巨大さをあまり感じないのですが、ここは際まで寄っていけるので大きさを身近に感じられます。

※唖然と見上げる一同。

石垣に上から下に向けて三角形のような形で柴が生えている部分があります。
「これが破城か!」
一同感動。

江戸時代に各大名は、一国一城令で城は原則一つまで、と、されたがために、国内の居城以外の城を壊さないといけなくなります。
そうした際に、全部を壊すのは大変なのと、いざというときにもう一度使えるようにするため、適当な壊し方をします。なので、外からよく見える部分の石垣の上部分だけを壊したりするわけです。どうやら名護屋城も破城の憂き目にあったようで、石垣がところどころ壊されています。
こうした点も、県庁所在地にある大名の居城から残ってきた城達と違う部分です。

まさに兵どもが夢のあと。

ところで、このときはお盆真っ盛り。
何でこんなクソ暑い時期に、と、いいながらも灼熱の日差しに焼かれながら登城する。
大手道がまっすぐと伸びてます。

その左側には石垣があるので、当然のことながら攻撃をされつづけることになりますが、名護屋城が敵襲を受けることは、さほど意識していないでしょう。どちらかというと安土城の大手道のような感じを受けました。
ちなみに、道の向かって右側はこんな感じ。


開発の手が入って無いだけに良い感じで朽ちてます。

さきほどのまっすぐの大手道の先の虎口を抜けると、ヘアピンカーブがお出迎え。


ここで180度、ぐいっと曲がる羽目に。
そして、やはり破城のときのものでしょう。壊された石垣の石が随所に。


本丸へどんどん近づいていきますが、階段の巨大なこと巨大なこと。

※宝塚のフィナーレで鈴を持った人達が並んでも大丈夫、という広さ。

そして、この城が良いのは木が少なく、見通しが利くことです。
なので、他の郭の状況がよくわかる。

※これは攻撃しやすい。


空と海が混ざり合う場所。カラッとして、本州にはない雰囲気です。
この鄙びた場所にこれだけのものが突如として現れれば、現地の人はさぞ驚いたことでしょう。

天守台には敷石まで。


どんだけ金かけとんじゃ、という感じがしますが、当時の日本は空前のゴールドラッシュ。
そりゃあ、金は唸ってるわな。さすが黄金関白。

石垣の補修工事なども行われておりました。


二の丸を巡っていると、より破城の跡がわかる場所も。


こうして色々と回ってきましたが、さすがに大きいのと暑いのとで、うっかり、山里丸を巡ってくるのを忘れてしまいました。無念。

とにかく巨大だった名護屋城。
巨大ながらも建物も無く、石垣は壊され、草が生い茂るのみ。
景色は遠く晴れ晴れと見渡せるのですが、侘しさを妙に感じさせる城です。

城好きがこんなことを言うのもなんですが、やっぱり平和が一番かと。

この中に一人、家族に内緒で参加している人がいます。

2013年09月25日 | 日記
また!

※佐賀に引き続き!誰だ?!

今回、彼は妻が実家に帰省していることをいいことに、家族に内緒で参加。
日曜日に雨が降った際、家がある稲沢の降水量を調べ、
「今、家ですごい雨が降っているが、大丈夫だ。」
と、電話をしたとか。
京都の宿から。

私は残念ながらその場を見ておらんのですが、他のメンバーからの報告ですので間違いは無いかと。
なぜ、そこまでして嘘をつかなければならないのか。
不思議でなりません。

さて、今回は京都2泊3日の旅です。
私は仕事やらボランティアガイド講習会やらがあり、最終日のみ日帰りでの参加となりました。

既に他面子は2日間の行程をこなしており、お疲れ気味。
今回は自転車を持っての旅だったため、2日間は自転車だったそうですが、いずれも折りたたみ自転車だったことから自転車の椅子がよくなく、皆、臀部に痛みを抱え、かつ、疲労が蓄積しており、最終日の今日は歩きと自動車がメインでした。

当初は太秦の広隆寺へ。
ここで私と他メンバーが落ち合う。


久々に半跏思惟像の弥勒菩薩とご対面。

紀伊守が言うには、
「この絶妙な笑みがたまらん。『ククク』でもなく『クスクス』でもなく『うふふ』という吹き出しが似合いそうな表情がいい。」
とのこと。

確かにその通り。
この微笑の絶妙さが古来から人の気持ちを捉えて離さず、教科書にも載っている状況となっているのでしょう。

その後、
「朝テンイチを食べるんだ!」
と、息巻いた団にょだったのですが、11時までの開店まで空腹に耐え切れず太秦の喫茶店でモーニングをくってしまいました。

で、今回は城旅ではなく寺旅。
どこへ行こうか、と、喫茶店で作戦会議。
「そうだ、京都国立博物館へ行こう!」
と、なって、車で駐車場に入ると・・・。


だぁぁぁぁぁ~!
事前のリサーチ不足で撃沈。轟沈と言っても良い。
まぁ、元々が行き当たりばったりだし、ご利用は計画的に、という訳でも無いので・・・。

どうしようか、と、考えると目の前には。


さて、どこでしょう?
ひっじょうにわかりにくいと思いますので、別のアングルで。


三十三間堂でした。

私は小学校5年生以来。
1001体もの観音像は、圧倒されすぎて途中、しっかり見ないで流すような状況に。
しかし、よくよく見てみると、顔の形も体型も結構違う。手に持ってるものも違うので、そうした違いを見ておりますが、なにせ、あまりにも多すぎて・・・。

ただ、ただ、圧倒されました。

さて、おみくじがある。
ここで私が言う。

「妻子を里帰りさせている最中に、内緒で京都旅行をしてしまった貴公。今後を占ってみてはいかがか。なんなら、当方で出捐負担するが。」

と、言うことで、引いていただきました!


♪だかだかだかだかだかだかだか(ドラムロール)

小吉!


そして、
「旅行:出る時に気をつけてよし。」


なんと・・・。
と、いうことは既に出てしまった以上はよい、ということか!
無念・・・。

三十三間堂のおみくじは当たると思います。
さすが元三大師の天台宗。
あ、ちなみに、元三大師はおみくじを作った人と言われています。

さて、その後、個人的には非常に寄りたい「夜泣き封じの井戸」へ。
うちの子どもは夜泣きがひどいときがあります。
最近では落ち着きつつありますが。

もともと、水がちょろちょろと流れる場所で、それが夜泣きの声のように聞こえたのが、いつしかここに供えた地蔵の前掛けに祈願すると夜泣きが治ると言うことになったようです。
で、とりあえず祈ってきました。


そして、今回の寺旅でなぜか佐渡守が五山に拘るので、京都五山第三位建仁寺に行くこととする。


ここが大当たり。

なんか最近京都の拝観料の相場が上がっているようで、広隆寺も三十三間堂もそれぞれ700円。
建仁寺はどうか、と、いうと500円でした。
駐車場代も1時間無料券つき。こりゃお得。
そして、「写真撮り放題です。」
とのこと。
なんとも驚きのフランクな対応。
これが禅か?!

そして、正面にお出迎えは、

風神雷神図。by越前屋俵太俵屋宗達

高細密度複写だそうなので無造作に置かれています。
が、かなりの迫力があります。

その後、やたらとくつろげる場所がある。

実際、寝転がっている人も多数。
なぜ、畳と庭を見ると日本人は寝転がるのか。不思議だが、わかる気もする。
我々もかなり長いこと座ってぼんやりし庭を眺めておりました。
「俺、宝くじ当たったら新城にこういう家建てて庭を眺めて暮らす。」
などの、極めてどうでもいい、脳内の言葉を何のフィルターにも掛けずに垂れ流す会話をしながら。

その後、秀吉の茶室があるというのでそちらに向かう途中、城旅メンバーとしては見逃せないものが!

安国寺恵瓊の首塚です。

毛利家の使僧として活躍。織田信長と謁見して「高転びに転び候」と没落を予想。その後、秀吉の将来性を見込んで毛利家を秀吉に協力させます。そして自らも僧侶でありながら秀吉に大名に取り立てられるも、関ヶ原の戦いでは石田方に加担して斬首されてしまいます。

そんな彼の首がなぜ建仁寺に?
どうも、荒廃していた建仁寺を立て直したのが彼だとか。それで曝し首になっていた彼の首を持ち帰って弔った場所が、そこだそうです。

合掌

さて、その後、龍安寺の石庭にも負けないほど立派な庭を見る。

ここでも捕まってしまい、ぼんやり座っておりました。

大学時代を京都で過ごした団にょは、大学時代によく寺へ来て一日寝っ転がっていたそうです。
なぜか京都の寺の庭は人をひきつけます。
そして、最近できた天井画の双龍図。
最近作ったもんだし、と、気無しに見に行ったのですが、

迫力に驚く。
一見の価値アリです。

これはええもんを見させてもらった、と、思いながら寺を出ると看板が。
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)で特別拝観中とのこと。

なんだと!

六道珍皇寺といえば小野篁(おののたかむら)。
小野篁は閻魔大王の助言者的な役割をしており、夜な夜な六道珍皇寺の井戸を通って冥府に行き、閻魔大王の裁きに対して助言をして、夜明けになると別の井戸から帰ってきた、という話が有名。
その昔、京都へ行った際、一人で自転車に乗ってわざわざこの寺までやってきたことがあります。
そんなお寺で特別拝観中、と、いうことで、私が「どうしても見たい!」と叫んで2泊3日でくたびれている、紀伊守、佐渡守、団にょの3名を無理やり連れて行く。

六道の辻、というさびさびとした石碑が何となく怖い六道珍皇寺。


特別拝観中と言うこともあり、寺が持っている地獄極楽絵図などを基にしたボランティアガイドによる絵解きもある。


そして、何より、普段は塀の外から覗くしかない篁の井戸が間近で見られる!

※写真中央の井戸が地獄へ行く井戸。その奥に最近発見された黄泉帰りの井戸もあります。

覗いてみるとシダで覆われてよく見えない。
が、それが冥界と繋がっているような感じがして、なんとなく恐ろしさもある。

で、黄泉帰りの井戸を見学した後、本堂へ戻ってくる際、なぜか赤松氏について書かれた看板がある。なぜこんなところに赤松?と、不思議に思ってワイワイ言っていると、寺の方が「嘉吉の乱で将軍足利義教を殺害した赤松満祐の遺児を匿ったのがこの寺の住職。赤松氏が復権を果たした際に寺の再興に尽力をしてくれたためです。」と説明してくださいました。

なんとぉ!
戦国時代も面白いが、実は室町時代の狂いっぷりも面白いよね、と、いうのがこのメンバーでのいつもの会話。その中でも我々の心を捉えて離さないものは、万人恐怖の足利義教、やられる前にやってしまえの嘉吉の乱赤松満祐、それと、空飛ぶ管領細川政元、吐き関白二条持基あたり。

その満祐とゆかりが深いとは。
一同感動。

その他、黄泉帰りの井戸は元々場所はわかっていながら寺じゃない土地だったのですが、売りに出たので、すかさず購入して無事に井戸のありかが判明した、ということだそうです。
なるほど。こういう話は特別拝観ならではですね。

その後、京都のお盆の時には十万人が期間中にやってきて鐘をならしにくるという鐘。


ご先祖をお迎えするための鐘だそうで、この音を聞いてお盆に戻ってくるそうです。
そして、送り火で帰っていくとか。そのため、まずは招かねばならないので、このお寺へ皆がやってくる、ということだそうです。
もともと、この寺の前の道が五条大路だったそうで、この寺より西が京内で無くなった庶民を葬る場所だったとか。そうした背景があって、この寺が六道の辻と呼ばれるようになったとか。

前回、ただ見ただけの時とは違い、色々とお話が聞けて良かったです。

と、まぁ、城ではなくて寺を巡る旅も、たまにはしております。

設楽原ボランティアガイド養成講座 第1回

2013年09月23日 | 奥三河
設楽原ボランティアガイドの養成講座第1回を受講してきました。

本当であれば別の日だったのですが、この日が残念ながら先約有。
仕方なく休みましたが、別の都合の良い日にくればいいよ、とのことでした。

この講座自体は全6~7回あるそうです。

第1回目は設楽原歴史資料館に関するガイドの注意事項。

※設楽原歴史資料館

設楽原合戦などの内容についてよりも、ガイド方法や注意点についてでした。

ガイドの目的としては、当然のことながら来訪客対応。
ただ単にカセットテープのように同じ事を話すのではなく、相手の来訪の目的を最初に掴むことが大切とのこと。

大きく分けると、この資料館には、長篠・設楽原の合戦について知りたいという方と火縄銃など銃に関して知りたい、という方が来訪されるとか。

そして、合戦について知りたい方にあっては、武田方の武将について知りたい、という方の来訪が多いため注意が必要との事でした。
甲斐から来訪される方が、武田信玄や武田勝頼のことを「信玄」や「勝頼」と呼び捨てにされると郷土の英雄を粗末に扱われているように感じてしまう場合があるので、『信玄公』『勝頼公』のように配慮が必要との事でした。

また、来訪者は遠くから資料館のことだけを見に来ているわけではない。
馬防柵や長篠城、思い入れのある武将の墓などをセットにしていることがあるため来訪時間には限りがある。そのため、来訪時間をしっかりと把握した上で対応しないと、例えばツアー対応時に「あそこは時間にルーズで時間が読めない。」という評判が立ってしまうと次に繋がらないので注意すること、というものもありました。

なので、湯浅主任学芸員が解説されるときは、大体20分で合戦の概略と資料館の見所などを話して、後はご随意に、という形にしているそうです。

なるほど。

自分もガイドを受ける立場になることが多いのですが、まさにそのとおりなんです。
1時間ものガイドはよっぽど時間が取れる場合のみ。やっぱり10分~20分位がありがたい。そして、その後にガイドの人の知識量や説明方法を見て、自分達の今後の旅程を考えながら質問をするかしないかを決めています。
やはりガイドさんが客観的に周辺知識を含めて話を筋道立ててする場合、この人ならば少々突っ込んで質問しても大丈夫、通り一遍だったり、自信なさげだと質問するだけ無駄だろうと考えて、一通りの説明を受けて「ありがとうございました。」となります。

要は、普段自分がされていることの逆をすればいい、ということか、と。
「己の欲せざるところ、人に施すこと勿れ。」ということですね。

しかも、来訪客にも温度差があり、めちゃくちゃ詳しい人、それこそ行くところが無いから涼みに来た人などがいる。そうなると、相手方のペースを考えないと押し付けになってしまいます。

後、湯浅氏が特に気を配っているのは、
「現地」
というところだそうです。

長篠合戦図屏風で説明をする、模型を前に説明をするのは、別にどこでもできてしまいます。特に、白帝文庫や蓬左文庫には長篠合戦図屏風の本物があるので叶わない。
しかし、ここは現地。
なので、実際の風景を見て、そして気温や音、風などを感じてもらいながら説明をすると、これは設楽原歴史資料館でしかできない。

まさにそのとおり。

なぜわざわざ現地に行くかと言えば、現地の状況を少しでも理解したいから。
仮にその場所が現在川の中だろうが、埋め立てられて住宅地になっていようが、やはり、そこはそこ。だからわざわざ見に行くわけです。現地で無いとできないのは、現地を見ながら、ということ。
人によっては「意外と近い」と思うのか「案外遠い」と感じるかはそれぞれでしょうけど、それを感じてもらうことが大事、ということに気をつけてガイドされている、ということは、改めて勉強になりました。

資料館2階からの眺めは良いので、寒暖ありますが、できるかぎり2階から説明するようにしているそうです。

そして、もう一つの目玉『鉄砲』
日本一の火縄銃収蔵、というのがこの資料館の売り。


火縄銃に興味のある方も多く訪れるそうです。
国友や松本城などが他にも火縄銃所蔵では水準が高いそうです。

湯浅氏などは設楽原鉄砲隊に入って実際に火縄銃を撃ってみえるので説明できる部分も多く、私などにはとてもできないな、と、思う説明もありました。こうなると、やはり、自分なりに調べていかないと、とても来訪者の満足を得るような説明ができない。

一応、それなりに流派別の特徴や火縄銃が目的によって違いがある点や銃身が長いものは射撃競技を意識したものだとか、などの話をお聞きしました。
撃鉄と火縄銃の考え方なども面白かったです。武芸と実戦は違うのだな、と、認識した次第です。

この他、現在洋式銃の展示も比較のために行っているのですが、やはり「八重の桜」を御覧になっている方が多く、ゲベール銃、スペンサー銃は皆さん知っている方が多いそうです。
こういう時代時代のブームなども抑えておかないと、うまく話が進まない、ということもあるようです。

と、色々とお聞きした後、
「そういえば、先ほど家康や勝頼、信長の布陣の考え方について戦術的な面から説明する場合もある、と、言ってみえましたが、どういうことなんでしょう?」
と、質問。
後、
「長篠城攻めの際、吉田城と浜松城を、武田軍はどうするつもりだったんでしょうか?」
ということも質問。


これは。。。
現地で。(笑)

と、聞きながら「本当にガイドできるかや?」と思わんでもなかったですが、とりあえず、講座は続けて受講していく予定です。
と、思っていたら、第2回目の講習会予定日も仕事が入ってる!

仕方なしに「次回も別日可能ですか?」と・・・。

ほんと、すいません。
でも、頑張りって、いつかデビューできるように知識を深めてまいります。

乗り過ごす。

2013年09月19日 | 日記
他人が経験していながら自分は経験できないこと、というものがあります。

『記憶をなくすまで飲む』

私はとてつもない下戸です。
特にビールの味が駄目。人生で最初に酒を飲んだのがビール。で、飲み過ぎて吐きまくって寝込んで震えが止まらない、という明らかに急性アルコール中毒状況になったことが遠因だと思われます。

最近では調子がよければ小さなコップ一杯程度の日本酒や焼酎は飲めますが、それ以上飲むと気分が悪くなるので飲むのは止めてしまいます。

よく、私を「え、飲めなかったの?」という方がいます。
何回か一緒に飲んだ人でも。
どうやら、少し飲んで真っ赤になって陽気に騒いでいる私を見て、めちゃめちゃ飲んでると勘違いしている人達が多いようです。

最近では飲むペースは各人に任せる、という飲み方になっているので助かります。
社会人なりたての頃は「練習すればいい」と飲ませようとする人が多かったので飲み会が苦痛でしょうがなかったのですが、最近はいきなりウーロン茶頼んでも良い風潮が出てきたので助かります。

ちなみに、アルコールを一切飲んでないのですが、アルコール飲んでる人よりも飲んでるような感じになるらしいので、それも私が飲めないと思われない理由の一つのようです。

結局、私は記憶がなくなるまで飲むことは不可能かと。
たぶん、記憶がなくなるまで飲むと、二度と眠りから醒めない状態になると思います。

さて、もう一つに
『眠り込んで電車を乗り越す』
というものがありました。

元々、名古屋駅から至近な距離に生まれ育ったので、眠るも何もすぐ目的駅に着く。
また、あんまり外で寝ない、という体質だったこともあってか、乗り過ごすことは人生で一度もありませんでした。

が、本日。
始めて目的駅を通過してしまいました。

目を覚ますと「次は、大須観音」と言っている。
「え?」
と、我に返る。

「大須観音と言うことは、上前津過ぎた?!」
名古屋ローカルの地名ですいません。
要は乗り過ごしたのです。

幸い、乗り過ごした直後に、なんでか目が醒めたので、次の駅で降りて乗り換えたので特に大変なことにはなりませんでした。
今日は眠気と言うよりも、なんだか疲れてぼやーっと座っていたら、いつの間にやら記憶を失っていた、という感じでした。

人生初乗り過ごし。

気づいたときには、首もものすごい角度で横倒しになっていまして、ありえないくらい凝ってました。

まぁ、名古屋へ行こうと思って米原、とか、豊橋と思って新横浜、とかの致命傷ではなかったのでよいですけど。

歳を取ったのですかねぇ?

妻日

2013年09月17日 | 日記
妻日(つまび)。
妻にとって良い日だった日をさして言う、我が家の方言?です。

専業主婦をしている妻は24時間子どもと離れる暇が無い。
そのため、たまには切り離すことで妻がリフレッシュされる日を長女のみのときは、たまに実行できていました。

が、長男も産まれ、そして、わたしも仕事が忙しかったことから、ここ1年半くらい、そういう日が作れていない状況でした。とてもイクメンなどとはいえない状況に。

16日の台風がやってきた日、車を購入して以来、オイル交換していないことに気づく。
しかも既に1万キロ近く走っており、1年近く経過しそう。

その日の朝は、台風で強風が吹きつけており、雨も酷い。
そして子どもがいる家庭の朝は早い。

「こんな日に外出する人間、まして、オイル交換に行く人間なんていないんじゃないか。」

そう思いついた私は、子ども二人を乗せて、昔名古屋にいるときに利用していた店へ行く。
案の定、
客はほとんどいない。

子どもが多少騒いでも気兼ねする必要は全く無い。
しかも、こうした店はキッズルームを備えていることが多い。そして子連れは私しかいないので子どもがどんだけおもちゃを独占しても構わない状況。

途中、ハロウィン用のお面を作るとお菓子もらえることに気がつき、娘に作らせる。
そんなこんなで1時間半ほど経過。

そのまま近くのホームセンターへ行くが、ここも客が少なく、子どもを連れても気兼ねなく歩ける。

で、併設されているスーパーで食材を買い込み、家に帰ると、数年ぶりに料理を作る。
これでも昔は料理をよく作っていたのですが、妻が出産に伴い専業主婦化してから、冷蔵庫や台所用品に対する妻の管理が強化されて、使いづらくなっていたことから遠のいていたのです。

まぁ、数年ぶりにしては、食べられるものができました。

その後、折角だから午後も子どもを連れ出そうと思い、車に乗せて当ても無く出発。
すると、娘が、
「なに?どこいくの?城?」
と、聞くので、反射的に
「そう。」
と、答える。

で、行き先は岐阜城に。
岐阜城のロープウェー乗り場にある売店に、非常に気になる本があったのですが、買わなかったことを後悔していたので、買いに行きたかったのです。斎藤妙春(さいとうみょうちん)という美濃国の守護代について詳しく書かれた本で、この著者の斎藤道三の本を購入したところ、1次資料に徹底的に拘りぬいた素晴らしい本だったので、どうしても欲しかったのです。

岐阜城へ到着し、信長居館跡の虎口状況などを見て興奮して娘に説明しながら、念願の本を購入する。さすがにこれで帰るのはかわいそうだと思ってロープウェーに乗せる。
ロープウェーの降りた直後にリス園があるので、そこならば娘も喜ぼうて、という計算もある。
案の定、娘はリスに餌をやって満足してました。

その後、岐阜城の模造天守へ向かう。
天守が見えてあと少し、というところで、娘が走り出したものの疲れからか転んで手をすりむいて大泣き。わんわん泣き喚いていましたが「お城やめる?」と聞くと「お城行くぅっ!」と泣きながら主張。
娘は泣きながら天守を登り、そして、降りてきました。

結果的に、この日は、ほぼ1日妻から子どもが離れた日になったため、「妻日」認定された訳です。

ちなみに妻は、たまたま子どもがいない状況で外出しようと化粧をするため自分の顔を鏡で見ていたら、顔のにやにやが止まらなかったそうです。

ま、もう少しこういう日が増やせるといいですけどね。
たまにやった日のことをブログに載せると、
「ああ、また『僕はやったよ』アピールを・・・。」と言われそうです。。。

鳳来寺よ、永久(とわ)に。 ~縁起のいいらしいまち新城 鳳来寺編6~

2013年09月15日 | 縁起のいいまち新城
鳳来寺本堂では愛のパワーを。
東照宮では人生の切所でのパワーを。
奥の院では不可能を可能に変えるパワーを。
傘杉、仁王門では健康のパワーを。

それぞれ得ることができることを確認した我々。

いよいよ、この鳳来寺山も終わりに近づいてきました。

そして、いよいよ我々が行きに目をつけていた、開山の祖。
利修仙人の像がある場所へ。

岩肌をくり貫いた中に石造が安置されています。
開山の祖、仙人。鳳凰に乗った男。
これだけ揃えば相当のパワーがあるだろう。

ただ、あまりに入口に近く、ここでいきなり削っても弁財天のように結果が伴わない可能性を恐れた我々は、石段を登った苦行の果てに、最大の切り札を取っておいたのだった。

コンドロイチンを直接膝にぶち込みたいと思うくらいの痛みに耐えながらの下山。
うっかり通過しそうになるのを見過ごさず検証することができたのは、利修仙人のお導きか。

もはや我々は汗だくで疲労困憊。
邪心も消え、澄み切った境地で自然と祈りは出る。

これだけ条件が揃えば奇跡は起きるかもしれない。
我々の祈りは確信に変わりつつあった。

「当たれ!」

Sさんは叫んだ。

その魂の叫びを動画でどうぞ。



『そんなキャラだったっけ?』
我々も一瞬たじろいだ。
気魄は半端なく、まさに巫女。トランスしてしまったのかもしれない。

自らの殻を破り新たな自分と出会う場所。
それが利修仙人の持つパワーなのかもしれない。

よく考えても見れば、修験者が求めている悟りとは、自らを新たな地平に置くことと言っても良いであろう。
見事にその意義を教えてくれた利修仙人。
ありがとう!利修仙人。


無事に下山した我々であったが、巨漢M田氏が気づく。
「タオルがない!」

神仏は我々の邪な欲に対して天罰を与えたもうたのか?!
よりによって、もっとも0.1tの重力で移動しているM田氏に落し物をさせるとは!

我々は天を仰いだ。
そして、鳳来寺の秘めたるパワーの偉大さと恐ろしさを知った。

誰もが、彼はタオルを諦めると思った。
しかし、彼は違った。

「見てくる。」
なんと、彼はタオルを諦めなかった。
一体どこからその気力と体力が湧き出てくるのか?
その時、我々は気づいた。

このパワーこそが鳳来寺山が与えたもうたものではないのか。

汗と欲にまみれたタオル。
きっと誰も拾わないだろう。

鳳来寺の参道を汚すわけにはいかない。
彼は、足を引きずりながら戻っていった。

我々は彼を追う力が残っていなかった。
が、一人だけ彼を気遣い戻っていく者がいた。
それは、利修仙人の前で新たな地平を開いた最年少の女性Sさんだった。



『やはり、若い者は体力がある。』
不惑を目前に控えた私は思った。

しばらくすると思いがけない速さで帰還してきた。


「え?早い。」
すると、彼は言った。

「落としたと思ったら、シャツの中に入り込んでた。」

なんと。
ここで我々は考えた。

落としたと勘違いしたことを天罰と捉えるのか。
落としたと思ったが結果的にあって良かった、功徳があったと捉えるのか。

功徳、パワー、と、いうものは人により感じ方が違うと言う。

それは、受け取る側の気持ちなのだ。

前向きであれば、どんなに周囲が地獄のようだと考えても本人は満足する。
しかし、後ろ向きであれば、どんなに周囲がうらやむ状況でも本人は地獄にいると感じる。

パワーが感じないと思えばパワーは無く、パワーがあると感じればパワーはある。
色即是空。空即是色。
意味合いは若干違うかもしれないが、そんな感じかもしれない。

そんなことを、我々に気づかせた鳳来寺は、やはり偉大なのかもしれない。

しかし、我々は俗世の人間。
飯が無ければ腹が減る。
やっぱり宝くじは当たって欲しい。

松尾芭蕉が腹痛を起こして寝込んだ屋根屋の跡地を見ながら帰路に着く。


そして、最後に我々はもう一勝負挑むこととなる。
決戦の地、おかめ茶屋。


疲労困憊の我々にとって、五平餅は大事なカロリー補給源。
なによりここの五平餅はうまい。
つけあわせの漬物が嬉しい。温かいお茶も付いている。お得だ。
各地で観光地化して消えてしまったおもてなしの心が、まだ、ここにはある。

我々は焼けるのを待った。

なんと素敵な笑顔だ。
何か好運があるのではないか。

疲労している我々は、鳳来寺の教えから、何もかもに可能性を感じてしまう状況だった。

そして、五平餅キターーーーー!


餓鬼のように貪り食う一同。


「きっと、この五平餅の木で削れば御利益が得られるのではないか?」
五平餅の木に神が宿るのでは無いか。
そのとき、我々はそう信じた。

神の依代。御幣。
その御幣に似ているから五平餅というようになった、という説がある。
そう、まさに『御幣餅』。

これはいける。

我々は確信した。

そしておかめ茶屋のおかみさん達も見守る中、我々は最後の勝負を行った。


スクラッチは削られる。
そして、ついにその瞬間は現れるのか。

この模様は動画もあります。

決戦は終わった。。。

我々は今日一日の疲れを癒すため、集える者たちだけで飯を食うこととし、一度汗を流しに風呂へ行くこととした。
鳳来寺の山麓にある湯谷温泉は暖かく疲れを癒してくれる。

その後、こんたく長篠で流通量が少なく地元でしかお目にかかれない鳳来牛を喰らう。

よくよくみれば、この日は29日。肉の日、ということで全品5%引き。一部メニューは20%引きだった。

これも御利益なのだろう。

そして、我々は肉を貪り食った。
血管が詰まるほど。


こうして健康に美味しく肉が食べられるのも、適度な運動と綺麗な空気のお陰といえる。

今回は見事に高額当選、という結果を得ることはできなかった。
しかし、メンバーの一人は言った。

「今までさんざん鳳来寺の石段登ったけど、今日は今までに無く楽しめた。」

いい歳こいた大人が子どもに戻ることのできるのは幸せなことかもしれない。
直接的な現世利益は得ることはできなかったものの、それに勝るとも劣らない楽しみを提供してくれた鳳来寺山。

やはりパワースポット、

なのかもしれない。

信じるか信じないかはあなた次第。
次は御自身でお試しあれ。

次回は、史上最大のパワーを吐き出すといわれる中央構造線上のパワースポット『百間滝編』。
そこで我々が目にした光景とは?!
お楽しみに。

後日談。
 叫んだSさんは、見事自ら購入したほうのスクラッチで、3,200円を当てました。
 「当たれ!」と叫んだのは、どうも自らの方だったのかもしれない・・・。

城だった吉野ヶ里遺跡

2013年09月12日 | 落城戦記
さて、かなり経ってしまいましたが、吉野ヶ里遺跡について。
嘘をついてまで参加した人がいる肥前遠征記詳細版です。

案外、この細かすぎる嘘を構築していた男のその後について、皆さんの興味を引いていたようで、あちこちで「で、あの人どうなったんですか?」と聞かれました。

結果発表。


「ばれてない」

本当か?!と思いましたが、本当だそうです。奥さんはかなりの善人だと思います。
意外だ。

さて、本題へ。
肥前遠征初日に訪れたのは吉野ヶ里遺跡。


主に戦国時代の城を巡る旅ですが、そのとき、そのときに興味のある歴史スポットへ立ち寄ってしまう我々。戦国時代ではなく弥生時代であるが、かの有名な吉野ヶ里遺跡があると言われれば、行かざるを得ない。

なにせ、
「あの邪馬台国!!か?」
という、東スポの見だしのような場所だから。

別に揶揄しているのでもなんでもなく、実際、九州説・畿内説、邪馬台国論争は決着がついておらず、どちらが邪馬台国だとはいえない状況。なのですが、「限りなく邪馬台国くさい。」ということなのです。
個人的には、私が歴史に嵌るきっかけとなった『少年少女 漫画日本の歴史』(小学館)シリーズでよく見たあの史跡が見られる!というだけに、歳を超越して大興奮。
それに、大学時代は考古学研究会という怪しげなサークルに入って、古墳やらの墓荒らしをしてましたので、なんとなく血が騒ぐ。

吉野ヶ里についた最初の感想は、とにかく、綺麗、そして巨大。
これが国指定史跡の実力か。

もともと企業団地の造成をするために整備したら、土木工事の天敵、埋蔵文化財が見つかり、仕方無しに掘り始めたら、ものすごいものが出てきてしまった、ということだそうです。
今では巨大な史跡として、企業のような雇用は生まないにせよ、人が訪れる一大観光拠点になっています。それなりに意義はあったのではないかと。

『環濠集落』という言葉は知ってましたが、実際目の当たりにすると、その戦闘意欲の高いつくりに驚かされます。


※逆茂木やら堀やら土塁やら・・・。

「これは城だな。」
思わず呟く。

城旅から逸れたつもりが城に行き。(季語無し)

城郭視点で見ていくと面白いと、早速気づかされます。

なにより資料館が充実しているのも嬉しい。
まずはジオラマで全体像を把握する。
全体像を把握してから実際の中を歩くとイメージしやすくなるのです。

すると、こんなものが。

※北内郭。

この出っ張りは横矢掛けたいのか!?
どう考えても不自然な形。シンメトリーさから神域的な部分であるともいえますが、この形の原形は城郭機能を持つ都城を参考にしたのでは無いかと、素人的に思えてしまう。

「これ、城じゃん。」
我々は再び呟いた。

狩猟採集で比較的身分に差が無かった平和な縄文時代、稲作が盛んで身分差が発生し戦乱も多かった弥生時代、という習い方をしてきたのですが、なるほど、こうした遺跡を見ると弥生時代の戦乱と言うものが、結構本格的なものなんだな、と、納得。

金と糞は溜まれば溜まるほど汚い。

という俗諺があります。

金持ちになっても、もっと金が欲しくなる、と聞く。(伝聞系なのは自分が金持ちになったことが無いから。)
稲作により豊かになり、それが故に戦乱が発生したとなると、なんとなくやりきれない。現在の競争社会の雛形なのか、と、思ってしまう。もっとも、縄文時代は自然との闘いに明け暮れ、人間同士が争ってる場合ではなかったのかもしれません。

まぁ、現代の価値観で過去を判断するのは、歴史を考える上で良くないので、ここまでにしておきます。

ここには地図が展示してあり、その地図をみると、吉野ヶ里遺跡との記載の周辺に「伊都国」だの「末蘆国」だのの記載がある。魏志倭人伝の邪馬台国周辺の国があるのだが、吉野ヶ里が邪馬台国だとは書いていない。
でも、伊都や末蘆があるならば、それは・・・。
「結果的に邪馬台国?といいたいんだよね。」と、地図の展示を見ながら笑ってしまいました。

さて、出土物を展示している場所で本を買うついでに、学芸員さんと思しき方と話をする。
流れで、
「ずばり聞きますけど、ここが邪馬台国ですか?」
と、聞くと、
「それはわかりません。笑。」
とのこと。
決して憶測でものを言わないという姿勢に大変好感が持てました。

そして、日本最古の人毛の話を聞きこちらも興奮。
そんなものが残るのか!そして、現物が展示してあるのか!と、驚いてみてみる。

※でらちっさ。でも、すごい。

同行者の紀伊守は、ガイドの話を聞くと話し込んで動かなくなり後の行程に支障をきたす癖があるので、皆で強制終了させて次の場所へ移る。

吉野ヶ里は広いので、一つのところに時間を掛けすぎると全部回れなくなってしまうのです。

少し行くとこんな高い建物が出てきます。


「たけーーー!」
「ほんとにこんなのあったんか?!」
「どうやって登るんだ?!」
と、ワイワイ言っていると、ガイドの方が声を掛けてきました。

「こちらから登れますよ。」
ということで、別の櫓に登る。
上は見晴らしが良い!

※こんなとか。

※こんなとか。

そして上に登ってガイドを受ける。

このガイドさんがまた素晴らしい。
根拠の無いことは言わない。判っていること、確実なことは惜しげもなく答えてくれる。

ここでは珠光改め団にょんが、
「で、ここは邪馬台国なんですか?」
と、聞くと
「どうなんでしょうねぇ。まぁ、答えが出ないで来訪した方が様々に考えて話し合う、っていうのが一番楽しいんじゃないでしょうか。」
と、かわす。

こういう説明の仕方が私は一番好きです。
押し付けない。来訪者の好きにさせてくれる。

よくボランティアガイドの人が根拠は無いけど思い込んでアツく語ることがよくあります。
それはそれで味があって好きなんですが、まれに論理が飛躍しすぎていたり、間違いに近い認識を基に話を組み立てしまったり、そちらの価値観を押し付けてくる場合があります。
そうなるとこちらも「・・・。」と、興ざめにならざるを得ない。

このガイドの方が言われるように、歴史好きは自分達の好きなことをワーワー言ってるのが一番楽しいわけなので、偏向的な考えを聞かされると「いや、それはないわ。」と論争になりかねません。

そういう意味では、流石は天下の吉野ヶ里。
歴史好きを楽しませてくれます。

櫓を降りるとそれぞれの家庭の風景が覗けます。

※髪を結う人の髪を結う紀伊守の髪を結う団にょんの図。

古代人との生活を満喫した後、いよいよ、本丸、いや、最も神聖といわれる北内郭へ向かいます。

この入口!

上記をくぐると

堀があって道は屈折して折れながら次の入口へ。

これを虎口と言わずして何と言おう。

まんま虎口。
どう考えても城としての機能が満載です。

道理で吉野ヶ里が名城百選に選ばれているわけだ、と、佐渡守が呟く。

北内郭には天守閣のように高い楼閣があり、その中を見学できます。

※ガイド風な団にょん。

最上階では眺めがいいだろうと思いきや、

※立ち入り禁止なので残念ながら混ざりたくても混ざれない。

祈りの場でした・・・。
最も神聖な場なので、騒いではいかんのでしょう。

で、その後、甕棺墓が大量に発見されたところへ行く。


実際の甕棺にレプリカの骨やら埋葬品が発掘当時の様子で陳列されており、圧巻です。
その上を歩いて見学、というのに、少々後ろめたさを感じてしまいますが・・・。
でも、迫り来る鬼気とでもいうのでしょうか。ど迫力でした。

その後帰路に付き、別の街に入ると伊勢神宮で見たお社のような倉庫を発見。


珍しいことに、中を乾燥させているところを目撃したのでパシャリ。


と、まぁ、大変面白い吉野ヶ里遺跡。
ガイドの方によると、実際の攻撃に対する防御施設と言うよりは、威容を見せ付けることで戦闘意欲をなくさせる、権威的な意味合いの方が強かったのでは、ということでした。

なるほど、それならば、ますます権威の象徴とも言うべき天守閣の意味に近づいてくる。

昔の今も人間の考え方ってそう変わらん、ていうことですかね。

高村さんと

2013年09月11日 | 日記
歴探の高村さんが名古屋に見える機会に呑みませんか、というお誘いを受ける。歴探と言えば、私的には日頃翻刻文の読み下しに参考にさせてもらっているサイトでして、私のブログのコメント欄に書き込みがあったときには『あの歴探の管理人の方からコメントが!』といたく感動したことを覚えております。

その人が先週の土曜日に名古屋に行くから呑みませんか、とのお誘い。
しかし、これは相当面白い話が聞けそうだけに、行くしかない。

と、いうものの、お互い全く知らない。

事前にメールでやりとりと携帯の番号をやりとりしたのみ。
その昔HPをやっていたときに、神奈川の方から城攻めに参加したい、というメールから一緒に行った、ということがありますが、それ以来です。

無事に落ち合い、18時から呑み始めましたが、実に23時まで。
話は全く尽きません。

そして、私が城所道寿について調べていた際に「わからん、わからん」と言っていたことを覚えていて、一騎合衆に関する資料まで頂いてしまいました。
今、それを読み込んでますので、もう少し自分の考えと合わせて、また、書きたいと思います。

高村さんの桶狭間に関する解釈は「なるほど!」というものがありまして、そのうち書かれると思いますが、よく地形・天候を考えているなぁ、と、驚かされました。
早く書いてくれないかと楽しみにしている次第です。

しかし、共通の話題さえあれば、全く知らない者同士でもどんだけでも話ができるものだ、と、改めて再確認するとともに、ブログとかネットとかは、今まで閉じた世界だったものを結び付けてくれる役割があるなぁ、と、思いました。

冷蔵庫に入ってピースサインしたがために、全く知らない人達と繋がって炎上することもあるご時勢だけに、取り扱いには慎重を要するでしょうけど、ネット社会って使いようによっては、大変面白いと思います。

お互い頻繁に会えるような距離でもありませんが、今後も情報交換を続けて行きましょう、と、なりました。

高村さんの知識・洞察力には遙かに及びませんが、私なりにちょろちょろと考えている分野の参考になることはたくさんありました。

「お互い学者じゃなくて好き勝手なこといえる立場だから、考え付いたことをどんどん主張していきましょう。」というお考えは大賛成です。

違ってても命とられるわけじゃない、ちょっとくらい炎上することもあるでしょうけど(笑)、言論の自由がある国ですから、それなりに考えた内容を発表して、批判を受けて修正して精度を上げていく、ということは大事だと思います。

最近、色々と読んでまして、なかなかこの辺りのことを書いていませんが、そろそろ、現時点で判ったことなどを書けるといいな、と、思います。

に、しても、面白い世の中になったものです。

日本一の杉に祈りを捧げてみた ~縁起がいいらしいまち新城 鳳来寺編5~

2013年09月07日 | 縁起のいいまち新城
鳳来寺本堂では愛のパワーを。
東照宮では人生の切所でのパワーを。
奥の院では不可能を可能に変えるパワーを。
それぞれ得ることができることを確認した我々。

鳳来寺山のパワーは十分に実感した。
しかし、他事例の報告があり、我々が追い求めている「宝くじ高額当選」への効果は、まだ享受できていない。

しかし、まだ、降りがある。

「登りよりも降りの方がきつい。」
重力を腿と膝で支え、勢いが付くため気が付かない間に疲労が溜まるのが降り。
気をつけないと怪我に繋がる。
しかも、前日は雨。
道はぬかるみ、岩は滑る。
実際、足を滑らせ悲鳴を上げたり、尻餅をつくメンバー続出。

しかし、幸いなことに怪我人はいない。
これも鳳来寺山の御加護なのだろう。
そうに違いない。

登りに比べ、降りの足取りは軽かった。
重力という助っ人がいるから。
足に確実に来てはいるものの、登りの半分近くのスピードで降りていく。
ありがたい。

そして、我々は、いよいよ、石段の途中に温存しておいた霊験あらたかそうなスポットで、その威力を試すこととなる。

それは『傘杉』


樹高60mで高さ日本一との呼び声も高い。

その高さを確認すべく、見上げて見るとこんな感じ。

※見上げたときに立ちくらみ要注意!

頚椎ヘルニア持ちには見上げるのが辛い高さです。

高さ日本一の杉ならば、きっと御利益があるはず。
しかし、聞くところによると、あまり無闇に触ってはいけない、と、いう話を聞く。

この杉自体が御神体と考えられており、神様をめったやたらに触るのはいかがなものか、ということだそうです。
実際、木は表皮で水を吸ってるらしく、触って表皮が傷んだり剥がれたりすると、木が弱ったり枯れてしまったりするそうです。
私などは木の真ん中部分で水を吸い上げていると思ってましたので驚きましたが。

と、いうわけで、触らずに祈りを捧げる。

日本一。
きっと御利益はあるはず!

この模様は動画で。



動画で微妙に雰囲気を感じられている方もいるかも知れませんが、本来ならばその荘厳さに打たれた感が出ても良さそうなものです。
しかし、なにぶん降り。
疲労感が勝っております。
傘杉をじっくり見るなら、登りをお勧めします。
案外と入口から近い位置にあるので、傘杉まで登って帰ってくる方も多いようです。

さて、帰るにはさらに降らねばならない。

その途中、立派な山門があります。

※仁王の力を頂くために、仁王のまねをとりあえずしてみる。

この山門にかかる扁額。

特徴的な字で「鳳来寺」と書かれています。

一説には、これは東大寺の大仏を造った聖武天皇の后、光明皇后が書いた字といわれています。
利修仙人は文武天皇の病気を治すため鳳凰に乗って奈良の都に行ったともいわれておりますので、どうやらこの鳳来寺は奈良とつながりが深かったのか、そういった逸話が残っております。

光明皇后と言えば、奈良の非田院だか施薬院だかで全身膿だらけの病者の膿を吸い取る看病をしたところ、たちまち病者が仏に変わったという逸話がある皇后。
この皇后の書いた(らしい)扁額があるのであれば、相当な威力があるのではないか。
そして、仁王とかもなんか力強そうだし、よさげじゃないか。

もはや羞恥心よりも御利益を願う心が勝り始めた我々は、抵抗感無く祈りを捧げることができるようになってきたのだった。

※若干促されてはいますが・・・。

苦行の果てに我々は宝くじによる検証はできなかった。

が、普段全く運動していない不惑手前のおっさんや震える足で0.1tの巨体を支えていても、無事に下山できたということは薬師如来の功徳か、光明皇后のお陰か。
それとも、行きも帰りも我々を上から見守る傘杉のお陰か。

運動不足でも安全に上り下りができる、そんなパワーが得られる場所なのかもしれない。

次回、いよいよ鳳来寺編最終回。

鳳来寺山は最後の最後まで目を離せません。
「鳳来寺山よ、永久(とわ)に。」
お楽しみに!

穴滝 ~幻の名瀑~

2013年09月05日 | 奥三河
宇連ダムが干上がり東三河が大変な状況です。
なぜだか東三河の水がめ部分に雨が降らないようです。
田原の農業や蒲郡の工場も豊川水系だけに心配されます。

そんな心配をしつつも、ダムが干上がる滅多に見られない光景が見られるとあって、観光客も訪れていると言う。
そんな中、多利野日記管理人のおが氏から招待状が届く。

「渇水の時期だけに見ることのできる幻の滝『穴滝』を見に行きませんか。」

穴滝?

聞けば、貯水率を30%を切ったくらいから現れる滝だそうで、江戸時代の「地球の歩き方」というか「るるぶ」とも言える『三河名所図会』にも紹介されていたとか。
穴をくぐり中に入ると、そこに素晴らしい滝がある、というものだそうです。

要は、滅多にないチャンスが巡ってきた、ということです。
「こ、これはぁ!」
と、思ったのですが、最初の招待状は金曜日の平日。
当時めちゃくちゃ仕事が詰っていたので休みが取れず。
無念に思っていたら、新たな日程を企画してくださったので、参加即答。
1歳半の息子まで引き連れての一家で参加となりました。

待ち合わせ場所でしばらく待っていると、山奥へどんどん車が吸い込まれていく。
祭りでもあるのかと思いきや、
「渇水を見に行く人達ですよ。既に100台は通過している。」とのこと。
普段はほとんど訪れる人もいない場所のようですが、渇水が大きな話題なので皆見に行っているようです。

さて、私らは渇水のダムを見るだけでなく滝を体験しようというので、既に水着やラッシュガードを来て山道に入る。細い道をうねうねうねうねと走り、設楽町と旧鳳来町の境目あたりにやってくる。
そこに車を止め、雑木林の中をわしわし進む。


林を抜けると眼前には渓谷美が広がります。


そして何より驚くのがこの光景!!


垂直に切立つ岩の壁。
「え?人工建造物?」
と、思わず見まごう光景がそこに。

※砂防堰堤?と、思ってしまいます。

この岩、『屏風岩』というそうです。

この屏風岩は、石の組成には詳しくない私が見ても一目瞭然。明らかに周囲の岩とは違う。
屏風岩が黒っぽいのですが、周りは白っぽくざらついた感じ。屏風岩はつるりとしています。
どうやら大地の亀裂からマグマが噴出し固まったものらしい、とはおが氏。

この壁のような岩の奥に今回訪ねる穴滝はあります。

いよいよダムの底へ降りていく。
砂や枯葉が積もった場所は大変歩きにくい。
そもそもダムの湖底に入ることなど始めてなので、それもまた嬉しい。

※穴滝と反対側を望む。普段は木の無いところ位まで水がある訳です。

そしていよいよ穴滝前に。

※写真中央の穴を潜ると穴滝が!ちなみにこの手前も深い淵になっており深さ3mは楽勝。

おが氏からライフジャケットを借り準備万端。
子どもには浮き輪もお付けして。
水の中に入ると、

「つめた!」

夏なのに、水が冷たすぎる。
これでは1歳半の息子は冷凍保存されてしまうだろうと判断し、水辺でちゃぷちゃぷ遊ばせることにしました。そうなると、4歳の娘を妻と私のどちらかが連れて行くことになる。
まずは、妻と娘が先行して行きました。

なかなか戻ってこないのぅ、と、思っていると、ようやく妻が帰還。
「すごい!海外のアクティビティみたい!日本でこんなん見れるんだ!」と興奮。
テンションが常に低いうちの妻が珍しく興奮していました。

なんと、そんなにすごいところならば早くみたい。
息子当番を妻と交替して、私も滝へ向かう。

あの妻がハイテンションに・・・。
水冷た。

私の頭の中に上記の二つが交互に思い浮かぶ状況の中、いよいよ穴をくぐる。

少しほの暗い穴の中は、滝の音が反響していました。


上を見上げれば、岩と岩に挟まれた狭い亀裂のような空間から空が見える。
大地の中に包まれたような感じ。
滝の水は、湯谷温泉の板敷川と同じように岩盤の上を流れてきた川の水なので滝壺の水に比べて温かい。滝壺のある内淵の水は冷たく、その温度差も不思議な感じがします。

滝まで行きましたが、なんとも神秘的な空間でした。

※髪の毛が前にぺたんとおりています。

なぜか民話の世界を思い出す。
日本昔話でよく淵を泳ぐシーンがありますが、まさにあれです。
淵の底には枯葉が積もっており、うるしが溜まる淵の話を連想します。

透明度が高くて下が良く見えるので、潜って深さを確認しようと試みましたが、あまりに深くて水面に戻るまで息が続くか不安。
潜ってすぐに上がってしまう始末。

ひとしきり楽しんで気がつくと、娘が唇真っ青で震えながら遊んでいる。
限界を超えてるのですが、楽しさが勝って遊びつづけているようです。
強制終了

しばらくひなたで遊んでいたらにわか雨が降ってきましたので退散しました。
大粒の雨でしたが、水がめを潤すような量ではとても無く、あっという間に大地に吸収されていました。

帰りがてら、滝を上から見てみる。


巨大なポットホールがありました。
大自然の脅威、という感じです。

おが氏はこれが観光資源にできないのが勿体無いと言っていました。ただ、大量の客が押し寄せても収容力がないのでルールなどをしっかり考えないといけないとの意見。
全く同感です。

しかも、この穴滝。
天候次第で様相が一変してしまうそうです。
私達が入った翌日に雨が降り、翌々日に行ったときには、穴の中の内淵が増水しており、内淵から出られない水が中で渦を巻いており、大変危険な状況になっていたそうです。そのため、その日は穴の外側にある外淵だけで遊んだそうです。

穴滝の中を思い切り楽しめた我々は相当な幸運だったといえます。

やはり自然相手は、計画通りに常に同じ品質を提供できるものではありません。
時間に追われて計画通りに動くことに慣れてしまった我々からすると、折角貴重な時間を費やして「駄目でした。」ではがっかりしますし、中には怒り出してしまう人もいるかもしれません。

ただ、たまには時計を外して運を天に任せて自由に動く、ということを体験するのも良いのではないかと。そうした自由を体感できるだけで幸せ、ということがあっても良いと思います。そうした価値観に共鳴してもらえる人に提供する、という方法はあるでしょう。

『運が良くないと見られない滝』

こういう観光名所があっても良いと思います。