長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

迷宮 古宮城でまたしても! ~縁起がいいらしいまち新城 作手編3~

2014年05月30日 | 縁起のいいまち新城
 手づくり村亀山城で、それぞれスクラッチくじ5千円当選!
 

 こんなのは初めてだ。
 さすが作手は宮城谷昌光氏が「縁起のよい地」と言っただけのことはある。
 と、我々は改めて思った。

 次に向かう場所は、作手の迷宮『古宮城』。

 さて、この古宮城。
 麓は白鳥神社になっています。

 東海地方における白鳥神社は、作手から恵那のあたりにかけて分布しているらしいです。祭神は日本武尊。豊作祈願的な神社のようです。そしてなにより狛犬が尋常じゃなくかわいいのです!


 犬、そのもの。

 普通、狛犬というと、獅子がモチーフになっていますが、ここの狛犬はまるっきり犬。
 しかも、口を閉じている方は耳を垂れており、犬が人になついている時の表情そっくり。
 無意識に頭を撫でてしまいます。ついでに、宝くじで頭を撫でてみる。


 是非動画でも狛犬の模様を確認↓


 立ち耳の方は、お稲荷さんの狐のようにも見えますが、お稲荷さんはこの神社には合祀されていません。
 青崩峠山方面には山住神社だかがあり、そこは狼を信仰していたと記憶していますが、狛犬の造型だけをみるとそうした山犬信仰と結びつきがあるようにも思えます。
 が、詳しいことはわからない。
 わかっているのは、「ここの狛犬はかわいい。」ということだけ。

 そして、本殿で皆がおのおの購入の宝くじも一緒に奉納する。

※共同購入よりも個人購入が優先されるのが当然となってまいりました。

 そして、祈る。

※例の修羅の群れ的な図

 さぁ、2度有ることは3度あるか?!

 と、思いきや、残念ながらスクラッチ当選は、神社ではなかった。

※苦笑い。

 さて、その後、神社東側の階段を登り、神社の奥へ。
 いよいよ古宮城内へ攻撃を開始です!

※階段的な足場はありますが、結構な急斜面で場所によって滑ることもありますので要注意。

 でました古宮城の見所その1!
 巨大『両袖枡形虎口(りょうそでますがたこぐち)』

 
 城内の一番重要と思われる区域に入るための場所です。
 最も厳重な警戒が必要で、その工夫が見て取れます。 
 写真手前の坂を上り(当時はそこに門があったと思われます。)、奥の土塁がVの字に切れる部分にあった門を突破する必要がありますが、一旦坂を上って中に侵入すると、左右と正面の三方向から攻撃されるという素敵な特典が付いてきます。

※袋の鼠。

 これだけの大きな土の壁に阻まれては、飛行機や大砲などが無い時代、なかなか攻略が難しい。
 人力のみの人工構造物として、これだけのものを造るのは相当大変だったはず。
 そして、これほど良好に保存されている史跡は貴重。

 試しに攻撃してみる。

※逃げるO蔵氏。

 ここには立派な大ヒノキがあります。
 このヒノキは、この城が使われなくなってから生えたものと推定されています。
 やはりここでも当選を祈願。

※木とかに霊的なものを感じるのは、日本古来のアニミズム信仰がDNAに刷り込まれているからか?

 虎口(城の入口)を抜け、古宮城最大の曲輪(くるわ)に到着。城の最高部になりますので、ここがきっと城の総大将クラスがいた場所では無いかと推定されます。
 そして、その後、古宮城の見所2『城を隔てる大堀切(ほりきり)』を見下ろす。


 元々独立丘陵で一つの丘のを2分割して西と東に城の機能を分けています。
 「一城別郭(いちじょうべっかく)」と呼ばれています。いわば船の隔壁のような感じで片方が落ちても、まだ片方で粘れる、という仕組みです。これだけの土木量を戦国時代にこなした人々の努力とそれを指示した大名の執念に敬意を表し、西の曲輪で宝くじを祈る。近年整備が進み間伐が行われているようです。
 へだまの水で間伐した木にこすりつけたら当選したことがありましたので、やはりここでも同様に。


 気がつくと黙々と削ってる人達がいる。



 酷寒の中、人も来ない城で黙々とスクラッチくじを削る人々。
 真剣すぎて、ちょっと怖い。。。
 しかし、その結果はなんと・・・。↓


 なんと、500円の当選が出る!
 出したのは手づくり村で5千円を出したH川さん!
 ちょっと、すごすぎ。
 喜びの模様が上記の動画で確認できます。

 その後、城の北側に降りて古宮城のありえなさを体験してもらう。どんなに城に興味がない人でも、巨大迷路と化している異常な構造には気がつける威容を誇っています。


 と、言っても我々にとっては、当たるか当たらないか、それが問題なのです。
 そしたら?!

 
 ここで、さらに倍率ドン、さらに倍(byクイズダービー)的に200円を追加したのは、既に5千円と500円を当てているH川さん
 S田さんが持つ勝利の女神の称号を奪い新女王として光臨したと言って良い。



 こんな情景が見られる城。
 本当はもう少しゆっくりと見て回りたかったのですが、なにぶん気温が低い上に木立で陽が遮られている状況。
 早々に退散しました。

 作手の迷宮、古宮城。
 その造りの複雑さと保存状態のよさで、名古屋城、犬山城に次ぐ愛知県内第三位の評価を得た城です。

 つくで手づくり村、亀山城、そして古宮城。
 連続して当選を出してくる場所、驚異の作手
 恐るべし。

 いよいよ次回は最終回。一粒千円のイチゴと鳥居強右衛門が登場でします!

亀山城でさらに ~縁起のいいらしいまち新城 作手編2~

2014年05月27日 | 縁起のいいまち新城
 つくで手づくり村のハート型五平餅の串を利用してスクラッチ削ったら
 いきなり5千円の当選
 一気にテンションがあがる一同。

 最初に盛り上がってそのまま下降、と、いう出オチ的な展開は避けたいところ。

 ちなみにこの撮影日は春が近い冬。
 作手は標高500mに位置しているため、平地に比べると5度低い。
 そのため、この日は春が近いといいながら

 3度。

 寒風吹きすさぶ中ではあるものの、スクラッチ5千円で景気が付いた我々は意気揚々と外に出る。
 そして縁起がいい土地と宮城谷昌光さんもおっしゃる根拠、作手奥平氏の居城「亀山城」へ向かいます。

※手づくり村からすぐ。見えます。

 この城は地元の方々により長年整備されており、何の気なしに訪れた人でも余裕で見学することができます。

※砂利が敷かれて非常に歩きやすくなってる!

 新城市はこうした地域の活動を支援する仕組みが充実しているようです。

※市町村合併後に地域自治区制度を導入したのは日本初らしい。

 奥平氏について書き出すと止まらなくなるので、今回は「けっこう出世した大名=奥平氏」とだけ覚えてもらえば大丈夫です。
 ところで、この亀山城。縁起がいいらしいだけあって、面白い造りをしています。

 上記の写真。砂利が敷かれている道が『く』の字に曲がって、奥の土の壁の間の道へと続いているのがお解かりいただけるかと。
 これこそが城の造りの面白さ、なのです。
 道がまっすぐだと、敵が一直線に進んできて、その勢いのまま城の中に攻め込んしまいます。そのため、道を曲げて敵の勢いを弱めるとともに、城の入口へ殺到する敵を攻撃するための距離を稼ごうとしているのです。また、敵からすると見通しが悪くなると城の中の様子がわかりにくく攻めにくい。
 なぜ籠城戦になると、数万の敵を下手すると数百の兵で撃退できるのかといえば、このように障害物をうまく組み合わせた仕組みを造ることで、ポイントポイントの戦闘場面では守備側の兵が有利な状況を作り出しているためです。こうした築城者の意図を読み解いていく作業こそが城好きの血をアツくさせるのです。

 さらに、この亀山城。城の造りが丸っこくて、これは、武田信玄の武田家の城造りに多い・・・、とかは、今回はまぁ、良いでしょう。そのあたりは、今回の動画の前半20秒程度で解説されていますので、ぜひ。

 我々の今回の目的は城ではなく高額当選。

 高額当選の欲で血をたぎらせながらも、この日はとにかくさぶかった。
 証拠の霜柱。


 手の大きさと比較。


 都市部で生まれ育った私にとっては驚異的な大きさ。
 しかし、地元の他メンバーは「あ、霜柱」と、普通の反応。
 ヒートアイランドが進み、土もあまりない都市部の人間だと、こんな霜柱見る機会がないんで、これだけでテンション相当あがります。

 さて、せっかくなので城の来歴を話そうとしても、寒さと宝くじが気になって誰も聞いてない。

 と、いうことで、まずは城址碑にジャンボをなすりつける。

※なすりつけるは我々の中で当選確率が良い幸運の女神S氏。


 そして、気がつけば削っている。
 すると、4歳の子連れで参加のM田氏。


 200円当選!

※おめでとうございます。

 M田氏の購入枚数は5枚。10枚買えば必ず200円はあたりますが、10枚未満の場合、200円野当選がない場合も多い。200円当選しただけでも運がいいな、さすが縁起がいいと言ってるだけあるな、と、そこそこの盛り上がりをしていたところ、過去のツアーで大量に宝くじを購入しながらも、千円以上の当たりが全く出ておらず、本人も周囲も千円以上の当選を諦めていたO蔵氏が突然叫ぶ。


 
 キターーーーーーー!5千円!

※満面の笑みのO蔵氏。
 
 この「当たったーーーー!」というO蔵氏の力強い声はこちらの動画で是非確認を!↓

縁起がいいらしい開運のまち新城「亀山城」編


 スクラッチで5千円が2回も出た日は過去にはない!
 盛り上がる一堂。
 しかも、ノーマークだったO蔵氏に!

 これで出オチ的展開は避けられた。
 そして、皆の口からは自然発生的に出た言葉は、

 「驚異の作手

 こんなのどかな風景に何かを隠している恐るべき場所、作手。


 我々は、その欲望をますます膨れ上がらせるのであった。

 次回は、作手の迷宮『古宮城』だ!

前田玄以 ~ 都会コンプレックス ~

2014年05月22日 | 戦国逸話
 前田玄以?

※出典:ウィキペディア

 と言う人の方が多いことでしょう。
 ゲーム好きならば、「ああ、あの内政に使える奴ね。」と、いう感じかと。
 まぁ、文治派の人です。
 武将と言うより官僚というとイメージしやすいかも。

 信長の部下から秀吉の部下になり石田三成達と五奉行をやっています。前田は前田でも傾奇者の前田慶次郎や加賀百万石の前田利家とは全く関係がない。そんな前田玄以のエピソードはこちら。

〇 所司代となる
 前田玄以は尾張の小松原寺の住職だった。秀吉がまだ貧しかった頃から親しい間柄であった。ある日、秀吉が雑談していて、
 「もし儂が天下とったら、あんた何になりたいだね?」と聞くと、
 「わしゃ(京都)所司代がよいのう。前から京都の奴等が横柄で憎たらしいからのう。」と言う。
 その後、秀吉が天下を取ったところ玄以を所司代にした。すると好業績を挙げた。
 (中略)
 京都所司代となってから、京都を巡回中の時、東寺の辺りで牛車が道をふさぐ形で停まっていた。玄以は非常に怒り、家来へ「所司代の通り道を塞ぐとは、けしからん!斬り捨てよ!!」と命令した。従者はそこまでせんでも、と、ためらっていると、「主人の言うことがきけんのか!!!!」と大激怒するので、仕方なく従者は牛を斬り殺した。
 これを見聞きした人々は「今度の所司代は気が狂うとる。牛ですら斬ってしまう位だから、気にいらん奴がいれば問答無用で斬り捨てるに違いない。くわばらくわばら。」と言い合い気をつけた。
 そのため、訴訟事もあまり発生せず、人を殺すことも無かった。

 『京都の奴等が横柄で憎たらしいから所司代になりたい。』
 と、いうのはすごい理由。とんだ生臭坊主ではないか。
 そもそも、何が彼をそこまで京都の人間を憎むきっかけにさせたのか、そこも知りたいところですが、残念ながらそこには言及がない。だいたい、復讐するためのポストを希望する、ということ自体が結構異常。そもそも、彼は僧侶じゃないか・・・。

 結果的に玄以は京都所司代になってしまうわけです。
「そういや、玄以の奴、京都が憎いで京都所司代を希望しとったなぁ。よし、あいつじゃ!」
という感覚での任命ならば、豊臣秀吉も相当な能天気人事をしたといえる。サプライズ人事。
 ところで秀吉も若い頃京都所司代的な仕事をさせられたことがあって苦労したようです。実は秀吉自身が「うわぁ、京都の奴にくぅぅぅい。」と思って、あえて玄以を据えた、と、いうことならわからんでもないです。
 秀吉は案外根に持つタイプだったようですし。

 そして、後半は牛を見せしめとすることで、京都の治安維持を図った話です。
 でも本当のところは、
 『くわぁぁ、俺様の通り道に!やっとなった京都所司代様の通り道にぃぃぃぃ!!!きぃっ!これだから京都の奴等は憎いんじゃあ!』と思って、
 「斬り捨てぇぇぇぇぇ!!!」
 と言った、というのが本当のところだったかもしれません。
 と。いうか、前半からの話の流れを考えると、そちらの方が可能性が高いと思えるのですが。

 訴訟事も発生しなかったのは「今度の所司代には何を言っても無駄。」と思われていただけで、京都の人達が自分たちで争いごとを解決しようとしていた結果かもしれません。まぁ、結果的に争い事の件数そのものが減ったのであれば、名奉行でしょうが、残念ながらそこのところまでは教えてくれません。

 ま、京都の奴等に一泡ふかせる、という当初の目論見は見事に達成したわけです。
 本人は満足だったことでしょう。
 
 でも、僧侶が殺生していいのか?

つくで手づくり村でいきなりの。 ~ 縁起のいいらしいまち新城 作手編1 ~

2014年05月19日 | 縁起のいいまち新城
長篠城編では4万2千円の当選
初の万単位の当選登場に喜びに湧く我々。
新城市のパワー、あなどりがたし。

いいじゃん新城。

新城市政広報番組タイトルと同じ感想を持つと同時に、確かな手ごたえを感じたのだった。
しかし、人間の欲望にはキリがない。良くも悪くも欲が出る。
あれも欲しい、これも欲しい、もっと欲しい、もっともっと欲しい、とは、ゲーテが言ったとか言わないとか。(言わない。)

億単位の当選を求める我々は、基本に立ち返ることとした。
宮城谷昌光氏の著書『古城の風景』をよく読む。


「『作手は縁起が良い土地である』って、あるじゃん。。。」

旧新城市と旧鳳来町、旧作手村が合併してできたのが、現在の新城市。
よくよく考えても見ると、鳳来寺山、百間滝、長篠城。これらは旧鳳来町に所在しているが、本企画を始めるきっかけとなった『古城の風景』には「作手」と明記されていた。

「鳳来でさえアレだ。作手に行けば、きっとすごいことに・・・。」

そして。
我々は宮城谷氏の言葉の意味を思い知る。


旧作手村の縁起のいいらしい場所と言えば、ココ。
古城の風景にも出てくる『亀山城』

ここを居城にしていた奥平氏は、結果的に長篠合戦での籠城に成功。当主の息子は織田信長から1字を拝領。かつ、徳川家康から長女を嫁にもらう。そして、なんやかんやで子孫は中津藩10万石の領主となり幕末を迎える。徳川譜代大名で10万石を超える所領を貰った家臣は井伊、本多等、案外少ない。徳川四天王と呼ばれる井伊や本多に比べれば、非常に地味な奥平氏ですけど、案外いい仕事してる一族だったりします。

そんな一族の出身地。
これを開運の地と言わずしてなんと言う。

腹が減っては戦ができぬ。
腹ごしらえのため、城の麓にある道の駅「つくで手作り村」へ。
この手作り村の名物と言えば五平餅。

五平餅とは信州、美濃、奥三河のあたりで食べられる郷土料理です。うるち米を潰して板に楕円形にくっつけて、味噌ダレやしょうゆダレで焼き上げた一品。いろんな地域で味が違います。一本辺りの米の量はご飯茶碗一杯分程度あるので、1本食べれば腹一杯に。手づくり村の五平餅は、特にでかい。女性だと一本食べきれるか、という感じ。
で、手づくり村では、都会の女性が奥三河の山村に住んで魅力を発信する企画「山里80日間チャレンジ」の新城市担当だった加藤夕沙さんとコラボして「ハート型」の五平餅を開発。↓

量も控えめで女性に丁度よいサイズ。おやつ代わりになります。

ただし、作るのと焼くのにコツがいる。普段から販売しているわけではなく、たまに販売しているそうです。
そしてこの日は、たまたま、たまの販売日。
ならば食らわねばならない。

たまの販売日に運よく遭遇したのであれば、この串でスクラッチを削れば、何か良いことあるんじゃないか。
と、考えて早速削る。

※手に五平餅のタレがだらだらに垂れてきても宝くじへの執着が勝るの図。

私はハズレ。

※後1つ「1」が出れば50万なのにっっ!

が、隣で無言で黙々と削ってたH川さんが、


突然笑顔。

※心なしか肌ツヤがよい。

驚きの結果は、臨場感溢れる動画で是非。↓


そう、その手には、

5千円の当選を示すマークが。

いきなりこの日5千円!
あんた、長篠城編の時も5千円当てたよね?!

どよめく一同。声が裏返るH川さん。
なんという強運。
それは、H川さんか、それとも作手なのか。

とにもかくにも、いきなり5千円の当選が飛び出して、大いに一堂、盛り上がる。
しかし、いきなりクライマックスが訪れて、この後、だらだら盛下がり、ってなったらどうすんだっ、という心配もよぎる。

しかし、作手はそんなもんじゃなかった。
さすがに宮城谷氏のお墨付きのまち。

驚異の作手。
そう呼んで差し支えなかろう。

次回、開運の一族、奥平氏の居城の亀山城へ。

明石城 ~弾丸四国最終章~

2014年05月15日 | 落城戦記
四国の弾丸旅もいよいよ終わりをつげ、四国を離れて本州へ上陸する。
名残惜しい。

しかし、明日からのご飯を食べることを考えると帰らないわけにはいかない。
このまま帰ることも考えたのですが、やはり運転は2時間おきに休憩を挟むのが良い。
なにより、お尻に良い。

そこで目をつけたのが子午線の町にある明石城。


どうせなら百名城を潰しておくか、と、常ならばマニアックな縄張を持つ山城専門の私ですが、今回は折角の遠方。メジャーどころをまず抑えておきたい。

特に予備知識も無く、休憩ポイントとして訪れた城ですし、街中にあるので旅情ないと思いながら見に行きましたが、なかなかよかったです。

まず、ナビの案内に沿って図書館側から侵入したのですが、一旦淵のようなもので遮られるんですね。

※現地案内看板

そのあたりに虎口的な防備を発見して興奮。

※やっぱり土の城に興奮してしまう性質のようです。

しかも、その先には石積みがある。これで、自然地形ではなく人工造形物として虎口化されていたであろうことは十分に想像できる。この石積みがまた搦め手にあるせいか、若干の適当感があって微笑ましい。


こんな街中、城の周りは図書館だの野球場だの完全に近代的な公園施設に囲まれているにも関らず、こんな荒々しい土の造形が残っているのに驚くとともに感動。俄然やる気が出てくる。

元々この城、元和四年に二代将軍徳川秀忠の命により西国諸藩の備えとして藩主小笠原忠真に命じて作らせたものだとか。四国からの帰り道に寄れる場所にあるように、交通の要衝にあることから睨みを利かす必要でつくらせたのでしょう。城造りにあたって、小笠原は義父で姫路城主の本多忠政の指導をうけるように命じられたとか。この本多は、あのウンコを踏んでしまった本多忠勝の長男です。

さて、この城、どうやら天守のある本丸、二の丸、東の丸は連郭式的なつくりで丘の頂上を利用したような造りのようです。で、この東の丸への入口がまた複雑怪奇で、迷路状になっています。要は複数の道が最終的にここに収斂される造りになっているようで、どこがどう繋がっているのかわかりにくい。

※どこがどこへいくのだ。ワシは本丸へ行きたいのだ。

しかも、こんな立派な道があれば歩きたくなってしまう。

※そして遠回りすることになるが、それも致し方ない。城好きの悲しい性(さが)。

どう攻めていいのかよくわからんな、と、思いながら多分本丸だろう、と、思われる方向へ進む。
この城、曲輪の中では比較的低い垂直に切立った石垣で構成されています。

※似たような写真だらけになってしまい、どこがどこやら解りにくくて整理に困る。

とにかく散歩している人が多い。それに、新入生の来る時期。どこかの学生さん達がオリエンテーリング的なことをやってて、男女が取り混ざってなにやら先輩的な指導者の指示のもと、仲良くお遊戯的なことをして遊びに興じていました。ああ、ワシにはこんな明るい学生時代は無かったな、せいぜい、部屋に引きこもってスーファミをひたすらやってる、今なら非常に危険視される存在だったなぁ、と、感慨にふける。たまに学校に出てくれば学部の学問とは全く関係ないサークルの考古学研究会で古墳とか掘ってたし、周りからすればとんでもない人間だったな、と、懐かしく思う。今時の学生さん達が群れて楽しんでいる様を見て、ああ、リア充って彼らのこと言うのだろうか、と、思いながらも、よくよく集団を観察していると、その中でもモテのヒエラルキー的なものが少しずつ構成されつつあるような様が見受けられ、うむ、もっと観察していたい、と、思いながらも、そんなことしてると明日からの仕事に差し支えるので城を見学するという本来趣旨に立ち戻ることとする。

そんなどうでも良い事を考えながら本丸前の土橋に到着する。
石垣で作られた立派な土橋です。そして、門は既に無くなっていますが、櫓から狙われれているのはよくわかる。


さてこの櫓、こんな感じ。


ザ・櫓っていう感じがします。中が無料開放されていまして入ればこう。


障子があったりする点が珍しい。


この巽櫓は明石城築城前の小笠原の居城船上城の資材を利用したとか。
対するヒツジサル櫓はなんと伏見城などの資材を幕府から貰い受けたとか。

2番目の瓦が唐破風の上に千鳥破風、というなんともよくわからない破風破風づくしなのが珍しい。ちょっと変わっています。やっぱり伏見城の資材を使ったといわれるだけあり、優美な感じがします。


そして、この二つの櫓から見渡す明石市街はこう。

※殿様気分です。

さて、その後天守台へ移動。

結果的に天守は作られなかったそうです。

※遠くに見える集団が、例のヒエラルキーが形成されつつある集団。

縄張の妙を楽しみたい人間としては、モテラルキーの形成にも興味があるものの天守台から見える虎口の形状に興奮。

※捻じ曲げてくれています。

本丸からの虎口はこう。


下から見上げるとこんな高石垣が。ただ、丸亀城とか見てきた後だけに、若干荒さが見受けられる。やはり指導される必要がある技術力だったのか?たまにこんな石垣の下にもう一段あったりするのを見ると、今治城、丸亀城のように一気に高く積み上げる技術が無かったのか?と、思ったりする。ひょっとすると何か意味のあるスペースかもしれませんが、狭いし何に使うのか不明。やはり土留めとしての段構えではないかと。


しかし、縄張は見ごたえがあります。下の曲輪から本丸へ登ろうとすると高低差もさることながら複雑に屈曲した通路を通らねばならない。しかも櫓から丸見えの。

※攻撃されまくり。

このあたりの造形は見事です。

からの


そして、土の造形を見つけてやはり興奮。

虎口ですねぇ。やっぱり土の造形を読み解くことに喜びを感じてしまいます。

※ちなみにこの先は池。

大手門からでるとこんなに大きな堀が。


明石焼の店を探そうとしましたが、なかなかみつからず時間オーバーで断念したことだけは悔やまれます。

その後、250kmを運転して無事に帰宅。
四国弾丸旅行もこれにて終了。

弾丸一人旅が案外自分のペースで好きに回れて面白かった!
嵌ってしまいそうです。

高松城 ~弾丸四国 その6~

2014年05月12日 | 落城戦記
丸亀城に引き続き、こちらもかなり有名な高松城へ。

石落しが取り込まれて末広がりで優美なウシトラ櫓の写真はあちこちの素材で使われており、どんなものか、と、見に行って驚く。

からの


堀を隔てているとはいえ電車走ってるし、近くの公園駐車場(無料)には、びっしーと車並んでるし、なんか、こう、生活感が丸出しと言うか、写真から感じていた城の雰囲気とあまりに違って驚く。

ちなみに、この櫓は東の丸(現県民ホール)にあったものを旧太鼓櫓跡に移築したものだとか。(公園パンフレット)でも、延宝5年(1677年)創建の重要文化財です。

さて、気を取り直して公園へ入る。橋が斜めに入ってます。

※旭橋だそうです。ちなみに門は旭門。
筋交(すじかい)にして攻撃しやすくしようとしやがって、と、一人嬉しがる。
この門は本当はもっと西側にあったらしいのですが、披雲閣なる藩主の居館を三の丸に新設したことにあわせてリフォームしてこちらに付け替えたそうです。

さて、侵入しようとしている高松城はこんな感じ。

小さくてわかりにくいかもしれませんが、上記の図面の左下から入ろうとしています。

枡形に埋門なんかあったりしてなかなか技巧が凝らされています。

枡形を抜けて城内に入ると生活臭が消えて「ああ、城にやってきた」感が出てきます。
そこで撮影をしてみる。

なんか良い感じです。日常生活との近さに若干旅情が消えかけましたが、ここで復活。

そして桜の馬場と呼ばれる曲輪と三の丸を繋ぐ橋からは堀が見えます。

反対側には天守台。

※うわ、天守あったら直々に攻撃されちゃうよ。(嬉)

天守こんなに近くに見えるのですが、天守のある本丸に入るにはぐるぐると三の丸⇒二の丸⇒本丸と反時計回りに歩く必要があります。この縄張は、今年の大河の主人公黒田官兵衛か細川忠興か、と、言われているとか。見えるのに辿りつけないもどかしさ。じゃあ、堀に飛び込んで、と、思うのですがここの堀は相当深い部分もあるそうですし、何よりこの堀、海水。よく見りゃ海水の色なんですよね。今治城もそうでしたが、高松城も海を利用した水城だった訳です。

※模型写真。城が海に飛び出してる感があります。
瀬戸内がいかに海との距離が近い生活をしているのか、と、いうことがうかがえますね。

さて、三の丸に入るには橋を越えて桜御門跡を通過しますが、その先に蔀(しとみ)的な石垣が!


城内が見通せず、敵は一直線に大軍がなだれ込めずに左右に分割させられる。新府城には土塁で造られた同じ機能のものがありました。桜御門を突破しても簡単には三の丸へ入れない工夫がありました。
そして、披雲閣登場。

現在の2倍の大きさのものが作られながらも明治時代に老朽化により取り壊され、大正時代に復活したものだそうです。県の迎賓館的なものとして使われていたようです。現在でも貸館されており、当日はどこかの同窓会的なものが開かれていました。

そして三の丸を北上すると月見櫓が登場。


ああ、そういや高松城の写真としてこちらを見たこともあったわ、と、思い出す。
天守ないため「高松城と言えばこれだよね。」と、城の写真を撮った人がお互いの写真を見せあうと、ウシトラ櫓と月見櫓とで意見が分かれる、ということなんですね。笑。どうやらウシトラの方が1~3階の縮尺比が綺麗でどっしり感があるためか利用率では優勢ですけど、個人的には月見の方が高松城の特徴をよく現していると思います。なぜか。

この隣の水手御門は満潮時だと水が来て船に乗って出られるのです。

※残念ながら写真は干潮時なので水がない。

水城としての高松城の特徴を現しているのは月見だと思うんですよねぇ。
ちなみに、中を見学できました。渡櫓内部から月見櫓に向かいます。

※薄暗さが再建ではない迫力を感じさせてくれます。

おお、櫓だけあって中は素っ気無い。

でも、ちゃんと石落しとかも整備されてます。


見所は窓からの風景。

さらに外を見てみると、こんな映像。

※海港が近い城って山城めぐりが多い人間には大変珍しく感じられます。

櫓内部を見た後、水手御門を見ると干潮で水がない。なので、外に出て写真を撮ってみる。

※こういうどうでも良いことに喜びを感じます。

面白かったのは、月見櫓から二の丸へ向かう途中、謎の石垣のでっぱりがあること。

※これはなんだ。
たぶん、敵の侵入を妨げるためのものだと思いますが初めて見ました。

そして、三の丸から二の丸へ行く途中「玉藻丸」城舟ガイドなどというものをやっている。
1回500円。
雨が降り出しそうでしたが折角ここまできたのであれば水城を楽しむべし。と、申し込む。


生憎小雨がぱらつく中でしたが、お陰で客は私一人。まさに大名気分。
ゆったりと漕いで堀の中を行く非日常の世界。
だいたい、こんな角度は舟でないと見られない。

※う、美しい。

さらに天守台に肉薄してくれる!

※優美。


※野面積みの荒々しさが間近に迫る。迫力満点。

水城No,1の呼び声高い高松城。堪能するなら玉藻丸乗船をお勧めします。
面白かったのがコレ。


鯛が堀の中を泳いでるんです!鯉じゃない。
さすが海水。
「黒鯛ですか?」と聞くと、
「いえ、真鯛です。」と船頭さん。

ええ!この黒さで真鯛!?
稚魚の段階で堀に入り込んで大きくなったら網目をくぐることができなく堀の浅瀬で生活するので日焼けするとか。それと食べ物の関係でこんなに黒くなるそうです。確かによくみると一部桜色していた奴もいました。
舟から餌付け体験できるんです。
私はその日最初の客だったので、食いが良いこと。

※くれー。

ちなみに国定公園内なので獲ることは禁止。
真鯛にとっては天国のような環境だとか。最近玉藻丸乗船を始めたそうですが、最初の頃は警戒して餌を食べなかったそうです。しかし、慣れるに従って舟と併走して餌をねだる。
鯛が。
ありえない体験です。

その後、船を下りて本丸へ。
先ほど見た鞘橋を渡る。

※屋根があって雨でも安心。

本丸へは虎口がお出迎え。荒々しい野面積みがお出迎え。


本丸の行き着く先に天守台が。


天守台をくぐると中には礎石群。


元々3層5階で四国最大の天守を誇ったそうです。藩主は水戸黄門で有名な水戸松平家の分かれ。壮大な天守を誇れたはずです。残念ながら明治に老朽化から取り壊したそうです。残念。


※変わった礎石配列。

天守台にある展望台からは高松市内が。平城なのでさほど見通せるわけではない。


まさに海に浮かぶ城、である高松城。
舟に乗ることで、より堪能することができました。
いろんな城がある中で、堀の中の鯛に餌付け体験できる城なんて私の知る限りでは他にありません。
櫓も立派。縄張の妙も感じられる高松城。街中にありましたが、城の中は非日常的な世界が広がっていて、大変楽しめました。お勧めの城です。

次はいよいよ最後の城、明石城。
本土上陸だ!

丸亀城 ~弾丸四国 その5~

2014年05月08日 | 落城戦記
弾丸四国旅も後半へ。
体をいたわることを悟り始めた歳だけに、西への強行軍を諦め東へ戻りながら観光しながら帰宅することにしました。今後の四国における戦場を限定するために、この際、潰せる城は潰しておく作戦に決める。

石鎚山SAで、夜の8時に到着。車の中で寝る。(早!)
3時おきで疲労しているとはいえ、狭いし寝心地悪いし車は周りを動くし寝苦しい。
こりゃ、寝られないかもしれないなと姿勢をぐるぐる変えていると、「はっ」と気がつく。
いつの間にか寝ていました。

どうせいつものように夜中の2時か3時の中途覚醒か、と、思って時計を見ると

5時』。

いつもより寝てるし!
と、驚く。
ただ、布団で寝たときならばもう少しすっきりしている感がありましたが・・・。
贅沢はいえない。


車外に出て体を動かした後、SA内で朝食を喰いながら旅程を組み立てようとする。飯を買っている際、会計してたお兄さんが「歴史好きなんですか?」と聞いてくる。「いや、城の本と歴史地図もって歩いて見えたんで、入ってきたときから気になってまして。自分も歴史好きなんです。」とのこと。少し城の話などを交わす。こういう会話が楽しいです。一人旅だと特に。

さて、早朝5時台の四国の高速は空いてる。
丸亀城に7時00分。

※渋谷で5時、は、鈴木雅之。

このアングルを見た瞬間、興奮するしかない。


公園化している丸亀城には散歩中の地元民が一杯。


その中に明らかに不審なカメラ持った城変態が混ざりこむ。そもそも、年齢層がちがう。
そして観光客にしては見るポイントが変。
門をくぐり、


枡形に侵入するとこんなものが。

※もう、撫で回したい。

そして先に進むと見事なまでの石垣がもう。


別アングルからも狙う。


石垣の説明に「石垣の美」と書かれていましたが、本当、その通り。
ここまで高く美しい石垣はそうそうない。
勾配を描きながらビシーっと立ち並ぶ石垣。そして何より色が良い!「THE・石」という感じの質感に興奮するしかない。見事です。

石垣に独り盛り上がってから城を登る。
やっぱり石の城となれば侵入路を限定されるし、道は曲げられるし、そして上から狙われるし、というセオリーどおり。

※遊歩道化されており歩きやすい。

櫓台の先端まで歩けるのは嬉しい。


バカとなんとかは高いところに登りたがる(隠す方を間違えた。)と、いいますが、やっぱり高台から見る景色は最高。


そして見上げればこの構図。

※ひゃー、俺、天守から狙われちゃってるよ~(嬉)。

本丸の石垣をぐるりと一周した後、いよいよ本丸へ侵入し天守とご対面。


写真でよく見る現存三重最小天守!でも、立派!


でも、こっちから見ると、


あれ?


下見板が貼ってあるのは一部なんですね。
そして縦横比の関係からか、下見板のない方向から見ると、「え?」と思ってしまうほど素っ気無い造りになっているのに驚く。なんかカワイイ。これは現地にいかないとわからない。

天守と言うより櫓に近い。

魅せる方向には唐破風や下見板で意匠を凝らしていますが、ついつい内輪のほうには「まぁ、ええやん。」という感じか。四方からの見栄えを気にする天守が多い中、この潔さが逆に新鮮。
残念ながら時間が早すぎて天守内部は見られず。
次回の何かのついでのお楽しみとしておきましょう。

そして、早朝散歩の方に「名古屋から来たの?あっちに井戸があるけど行った?面白いよ。」と教えてもらう。

※この高さに井戸が。確かに珍しい。

このほかにも本丸したの石垣はぐるっと一周できると教えてくれる人もいたり、とにかく親切な人が多い、という印象があります。郷土の誇りでもあるのでしょう。そして、この城は誇るべきものかと。

登りは別の方面から登って気がつきませんでしたが、二の丸(?本丸下をとりまく曲輪)にこんな階段が。


降りの方が石垣が構成する虎口の意図がよくわかると思う。


大手の門にはこんな立派な木が使われていました。これも行きには気がつかず。


さて、野面積みの石垣があるようなので探しに歩く。
するとこんなものが・・・。


なぜ。
なぜこの時期に。(4月中旬)
そして、なぜこの場所に。



「廃墟でおこる恐怖」とありますが、廃墟とは失礼な!この見事な城を!
だいたい、wikiで調べたら『豆腐売りの人柱伝説』ってあるじゃない。

『丸亀城築城の際、石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となった。雨が降る夕暮、工事現場付近を通り掛かった豆腐売りが捕えられ、無理矢理に人柱として生き埋めにされてしまった。豆腐売りは雨で豆腐が売れないため、普段は通らない城の付近を偶然通り掛かったのであった。その後、石垣の工事は完成したが、それ以来、雨が降る夜にはその石垣の辺りで「とーふー とーふー」という豆腐売りの声が聞こえて来たという。』

こえーよ!
て、いうか、折角の地域の伝承。こっちを活かせよ!
もっとも、豆腐売りの人柱伝説なんてお化け屋敷が伝承現場にあったら、怖くて洒落にならんか。

お化け屋敷の違和感はさておき、堀も見事です。


そして、野面積みがありましたよ。


なぜこんな場所にあるのかと不思議でしたが、場所から言って土留めっぽい感じがしました。上に綺麗な石垣があるんですよね。で、ここを抑えておかないと崩れてしまう。実際のところ、どうなんでしょう。

早朝から訪ねた丸亀城。


期待はしていましたが、やっぱりすごい城ですね。
前日は汗ばむ陽気でしたが、この日は曇りでさぶかった!

※車の気温計は10度。。。

城歩きの人間にとっては、歩くと暑いし、脱ぐと寒いし、という感じ。
痛し痒し。
いとしこいし。
車の中で暖をとりながら、次は高松城へ。

道後温泉と湯築城 ~弾丸四国 その4~

2014年05月05日 | 落城戦記
伊予松山城のガイドさん曰く。
「道後温泉は3年後に大規模修繕に入り、しばらく入れないかも。」
とのこと。

えええ!
これは大問題。道後温泉のあの建物の風呂に入るのは長年の夢。今回も伊予松山城と道後温泉を楽しむ、というのが最大のポイントだけに外せない。
(注:ブログにアップするにあたりネットで調べましたが、建て替えについて明快に言及する記事が無かったので、真偽不明。)

時間も中途半端になったので、まずは温泉へ向かう。


油屋。

※湯婆婆はどこだ。

子どもがジブリ作品を見まくるので、千と千尋の神隠しも何度見たことか。道後温泉の外観を見た瞬間に娘を連れてきたかった、喜んだろうに、と、思う。
一人旅なので贅沢に。1,500円の個室は満杯だったため、1,200円の2階霊の湯(たまのゆ)コースにする。2階の霊の湯と1階の神の湯に入浴可能。風呂出た後はお茶とお菓子でおもてなし。

※こんなところに独り座す。


※温泉なのでフルーツ牛乳も購入した。コーヒー牛乳と迷ったが・・・。

いいお湯でした。霊の湯は空いていてゆっくりと浸かれて大変良い。もっと込んでるかと思いました。
ちなみにこの温泉は白鷺が見つけたとの伝承にちなんで、屋根に白鷺が。


そして、どうやら芸術祭的な感じらしいのですが、詳細は不明な湯気が立ち込めるパフォーマンスも。


伊予松山城を走り降りたので汗ばんでいた体を清めて向かうのは、また城。
湯築城が道後温泉の近くにあるのです。湯築公園になっています。


河野氏の城だそうです。村上水軍博物館で買い求めた『水軍誌』では、伊予の国人領主的な高市氏、河野氏等がおり、平家と結びついた高市氏が伸びる中、高市氏と反目して河野氏は源氏に。鎌倉幕府成立とともに強大化するようですが、村上水軍などの近隣の様々な勢力の中で伸びたり縮んだりして、最後は豊臣秀吉の四国征伐の際、小早川隆景に敗れて蟄居するそうです。その小早川隆景が攻めたのが、この湯築城。

堀が公園の池として残っています。


中にはかなり古い時代に温泉で使用されていた石の湯釜が飾られている。一遍の名号が刻まれているとか。一遍は河野氏の出身。一遍て、結構激しい生き方をしてて興味がある人です。一度じっくり取り組んでみたい人です。


元々守護館のような造りがあったところを近くにあった独立丘陵を取り込んで戦国期の城郭化を果たしたそうです。

※現地案内看板図より
堀でぐるっと囲っており、結構な土木量だな、と、思う。古城図の看板などもあったりする。

※現地案内看板図より
上記の古城図を見ると「ん?前方後円墳?」と思えるような形をしていますが、実際はもうちょっとぐにゃりと曲がった感じですのでちがうかと。

公園としてかなり整備されており、山城部分はなんとなく「多分これ切岸的に曲輪を回りこませる道だったんだろうねぇ。」と思わせるものがある。

とか

とか

とか。

元々さほどマニアックな造りはしていないと思われる。自然地形と削平地の組合せではないかと。この城の見所は、この詰めの城的な部分と麓の武家屋敷群、それをとりまく堀の見事さなんでしょう。

その後、本丸というか最上部に到達すると展望台が。
展望台の上では、インドかブラジルの方と思われる一家がコーラのでかいペットボトル飲んで遊んでいました。伊予松山にも結構外国人がいるのか、と、驚く。
展望台からは松山市内が一望。

遠くには伊予松山城も見えます。

※と、いうことは向こうから湯築城も見えるわけだ。

麓の武家屋敷群跡へ向かう。整備がかなりされています。

手前の土塁で屋敷群内への侵入を制限しています。城らしい!

そして守護の館らしく立派な庭園が。

手前の池の部分は堀となって相当大きなものです。

※立派な土塁と堀だ!

建物の露出展示もあります。


謎の窪みとかも・・・。


そして、石垣の残存もある。ただ、主だった石垣は伊予松山城築城時に持ってかれたとの話もあるようです。

※若干土留め的な感じもしますが。

土塁の内部も見られます。時間切れで柵の外から写真撮影。暗くて若干怖い。


武家屋敷が再現されていたのですがタイムオーバーで中まで見学できず。無念。

中では連歌の模様を再現した人形があったようで、混ざりたかった・・・。
建物近くまで侵入。勝手に人の家に入る感覚があります。


全く何に使ったか不明な石で囲った穴がありました。便所なのか水関係なのか・・・?


ここが開いていれば、もっと情報が得られたであろうに、と、思うと残念でならない。資料館。


山頂の城部分も残りながらの守護館部分がこれだけ整備されている城って珍しいのでは。温泉に来たついでに城が見られるラッキーなところです。(城に興味ない人には全く加点要素がないですが・・・。)
守護館は普通方形単郭で、そこから城郭へ発展していったのが見て取れる。円形の縄張と堀と土塁が見事な城です。湯上りの散歩には最適かと。

そして、この日は車中泊することに決める。
大洲城、宇和島城へと足を伸ばすのか、年齢を考えて帰路に着くのかの決断を迫られる。
とりあえず地元の海産物(安い!)を買い込んで車の中で貪り食う。うまかった。

※これで千円強。やっぱり太るわなぁ。こんだけ喰えば。

さて、足を伸ばすのか、帰路に着くのか。
次回の城で判明します。

伊予松山城 ~弾丸四国 その3~

2014年05月01日 | 落城戦記
現存12天守で評価も高い伊予松山城。
坂の上の雲でも秋山真之だ正岡子規だのが遊んだ城。
関ヶ原の戦いで伊予半国をもらったのが自分の手を焼肉にしちゃった加藤嘉明。(詳しくはリンク先)
この嘉明、1603年から築城をするものの、あちこちお手伝い普請に借り出されたりして完成するのは24年後。しかも、完成直前に会津へ転封。結果的にこの城は久松松平氏のものとなり明治を迎えることに。

私にとっても憧れの城のため、ずっと機会を狙っていました。
今回の一番の目的。この城を見るためにわざわざ早朝から車運転してやってきたのです!
結構な高台にあると聞いていたので心配していたのですが、ロープウェーがあるらしい、ということは地図を見てわかっていました。しかし、現地に行って驚いたのがリフトがある、ということ。

※リフト、ロープウェー、歩き、を一つに収める。

往復切符は買わずに降りは歩きとするため片道切符を。やっぱり城は上り下りせねば。時間短縮のために上りだけはリフトにしました。

さて、伊予松山城はこんな城。

山頂を丸ごと城塞化した感じです。

目に飛び込んできたのがコレ!


何この石垣!何この高さ!何コレ!
思わず「すごいわー。」と独り言。独り旅だし。
なにせ石垣の綺麗さが半端無い!
切込接とみまごう打込接。一直線に立ち上がる石垣に正直感動。この石垣だけでも来た甲斐あるわ~と、目を潤ませながら石垣を撫でる。

するとふと視線を感じる。

「加藤嘉明も築城名人なのに、隣の今治城、藤堂高虎の方が有名だし、加藤と言えば清正だし。」


ボランティアガイドさんでした。

思わず、
「そうですよねぇ。」と。

特に誰かをガイドしているわけではなさそう。
少し会話をしているとガイドしてくれることに。独り旅だし勿論お願いする。

先ほどの石垣を過ぎるとこの有名なアングルに到達。

※石垣たっか~。
ここって向かって左側にもこんな道がありまして、これが麓の二の丸へ続く大手道のようです。


ツヅラ折れのように何度もクランクを通過させられる。こうした攻撃導線を増やすとともに敵を迷わせる仕組みって城主が攻められることを想定して必死に考えた感が出てて好き。こうした築城者の執念を感じるのが城見学の醍醐味ってもんです。坂を上ると雲はまだなく道が二手に分かれている。直進すると行き止まり。180度で切り返すと戸無門。

※ここでどちらに行こうと迷っていると上の太鼓櫓から攻撃される。

ここ、扉がないんですね。だから戸無門。扉が無いのは創建当初からだとか。

※見学者が多すぎてわかりにくいか。

そのまま城兵は突入してきます。
そしてさらに180度折り返すと筒井門。

かなり頑丈な造りです。

ところがこの筒井門の奥にわかりにくいのですが門がある。その名も隠門。

※写真手前が筒井門。奥が隠門。少し角度が付いて登ってきた人にはわかりにくい。

ガイドさんが言うには、戸無門があることで勢いづいて入ってきた敵兵が筒井門で止められて門攻めに夢中になっている際に隠門から城兵が突出して攻撃するようにしていたのではないか、とのこと。あくまでも推測で理由は不明だそうです。不思議なものつくるもんです。門だけに。(爆)
ひょっとすると、間違えて行き止まりの方に行ってしまう家臣が続出して、「おい、あっちが登城道だとわかりやすいように門でもつけとけ。」的な感じで「でも別に門じゃなくてもいいから。」ってなったのかもしれません。ここで食い止めれば筒井門の上の櫓から攻撃されるので扉があってもおかしくは無い。それだけに無いのが不思議です。まぁ、実戦経験豊富な加藤嘉明築城の城だけに、戸無門があった方が隠門の効果があると判断したからかもしれません。

運が良いことに、隠門の上の櫓が開放してました。

※隠門の出入口。門が相手も坂を上らねばならないのが、また、大変。

※隠門を登ったところ。

例によって例のごとく、カメラで門の下にいる人を狙う。

※討取ったり。

そして筒井門から太鼓門へ移動となるのですが、筒井門から対角線上に折れた場所に入口が。ここが突破されると本丸に突入されるので頑固なつくりとなっています。門から門の連続。クランクの連続で導線が延びつつ、山登りつつ、なんで相当大変だと思います。
ちなみに、この松山城、空襲にあって天守は残るもののその他の建物はかなり焼失したそうです。ガイドさんが大変残念がっていました。ついでに名古屋城が空襲で燃えてしまって残念だ、という話をしたら、「あれ残ってれば国宝、世界遺産間違いなしだったのにねぇ。残念だねぇ。」とのこと。しかもこの方、戦中派なので戦争で逃げたりして大変だったそうです。
そんな爪あとと思しきものがこの石垣。


欠けちゃってるんですけど、どうやら空襲のときの火事のせいじゃないかとのこと。なるほど。普通、ここが欠けるようでは城が崩れてしまいますからねぇ。
この太鼓門をくぐると下が見上げられます。

なんだか底が抜けそうな感じもありますが、珍しいものを見ました。

さて、ここを抜けると本丸。

本丸は谷を埋めて造型したらしいとはガイドさん。
こんだけのものを造成したとなれば、そりゃ時間かかるわね。この井戸が掘ったのではなくて、元々あった泉の上に石を積んでそこを本丸として土で埋めてしまった、とのこと。当時の技術ではほれない深さだとか。


うーむ。こんだけの宅地造成を人力で。そして埋めた土を石垣で囲うって、すごい。


よっぽど家康が怖かったのか。実際、この加藤家は嘉明の息子の代で取り潰されてしまいます。まぁ、息子の不行跡が原因のようです。ところでガイドさんは名古屋城にも来たことがあるそうで「名古屋城で清正は石曳いてる銅像とかあるのに、嘉明も手伝ってるのに何もないのは悲しい。」とのこと。そこで「黒田長政にいたっては、名古屋城の自分の持ち場に大きな石を石垣に嵌め込んだのに『清正石』と呼ばれている。清正の人気が高いのが原因でしょうねぇ。」と慰めました。
こういう会話が全く知らない人とすぐに交わせると言うのは楽しいことです。城好きの特権ですね。笑。

さて、天守が近づいてくる。

なんだか「ぶにっ」と押しつぶしたような天守は前から気になる。この感じは彦根城天守にも感じるもの。
すると、ガイドさん「加藤嘉明は5重の天守を作ったらしいが、地盤が弱いか江戸幕府に配慮したかで久松松平家の代で3重の天守に改装したから。」とのこと。やっぱり。縦横比が変だもん。この天守。特に最上階の屋根に違和感がありすぎ。やっぱり改装したのか、と、納得。

とうとう本壇といわれる連立式天守へ突入します。


正面から見るとこう!


ああ、もう、こりゃ生きて帰れるとは思えない、と、いう感じがたまらない。
正面の天守からも左右の櫓からも。もう、畑中葉子状態。

ちなみに天守の瓦に葵の御紋が。さすが久松松平家。

だいたい、天守が燃えたから建て替えたい、なんてことが許されるのが譜代大名だからだよねぇ、と、納得。
黒船来航時に再建されたので最新の天守、という称号も持っています。

さぁ、先ほどの天守が睨む道を曲がるとこんな門。


振り返れば奴がいる。

※あの櫓から撃たれているな、俺、的な図。

そこを抜けるとまた180度ターン。


そして、ほっそい道を抜けるとまた門。杉山城以来のくどさが・・・。

そしていよいよ天守に侵入。城主のみが入る玄関は唐破風。郭式が高い。残念ながらこの日は城主がいないので開いていません。


連立式天守はこんなに複雑。

※こんな城は攻めたくないわぁ。

そして、天守の玄関に靴箱発見!

※実はこれ、江戸時代から・・・、と、いうのは嘘で当然近代のもの。

さぁ、いよいよ櫓をわたって城へ。

※やっぱり本物が持つ迫力は違いますね。

鉄砲狭間や


石落し


なども見られます。(石落しは危険なのでガラスが嵌めてあります。)

天守から門を見るとこんな感じ。

そりゃ、自分が訳わからんくなるわね、という納得の造り。徹底的な防御思想が窺えます。

そして天守にこんなものを発見。


部屋が。畳の敷ける。ふすまも嵌められます。上の階に行ってもそう。


さらに上に行っても。




しかも床の間まである。


櫓ではなく天守なので畳が敷けるようになっていてもおかしくは無いのですが、畳の保存だけでも手間がかかるので最初はともかく次第に畳など引かないようになっていったのが天守。
パンフにも
「松山城代天守の不思議」として「・・・当時の城主、12代松平勝善はここを何の用途にしようとしたのか、定かではない。」とまで書かれています。名古屋城では天守に登るのがめんどくさくて、ほとんど城主が登ってないとも聞いています。まぁ、勝善公は「わーい!僕の城、僕の天守ができたぁ!ここに住むんだぁ!だから住めるようにしてねぇ!」と無邪気に指示したのかもしれません。わかりませんが。今となっては実態は薮の中。
戸無門に続く謎の設備になってしまったわけです。

最上階にはこんな回廊も。

飾りでしょうね。犬山城もそうです。

最後はこんな急な階段を登った分、降りる。


今治城が徳川家の城とすると伊予松山城は徳川家から攻められる側の城、という感じです。
それぞれに特徴が出ていて、この二つの城を比較しながら見てみると面白いですね。