長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

安岐城と奈多宮と速吸日女神社 ~焼くなって言うことは焼ってことですよね?~

2015年11月23日 | 落城戦記
ちょっと間が空きましたが、9月に実施された大友宗麟ツアーの様子を。

地元愛が贔屓の引き倒し気味な富来城の次に訪れたのが安岐城。


この城、私は知らなかったのですが同行者の佐渡守と団にょが「九州の関ヶ原」とも言われる「石垣原の戦い」を予習してきており、どうしても寄りたいと言った城。

関ヶ原の戦いが起こる際に西軍方として豊後に上陸してきた大友宗麟の息子義統。豊臣秀吉に取り潰された大友家の復活をかけての蜂起に東軍方となった黒田官兵衛が攻撃。別府市内の石垣原の戦いで黒田軍が勝利し大友は降伏。その際、大友軍を攻撃するため素通りしていった西軍方の城の1つがこの安岐城。

安岐港の台地上にある大規模な城ですが、現在は開発が進み隅櫓や天守台があったと想定される土塁と堀などが残っていました。

※天守台跡に立つ神社。


※安岐港を臨む。

なお、国東市教育委員会が発行している「安岐城跡」によると、南北朝時代に大友史の一族である田原氏が安岐郷へ入り居館あるいは城郭を構えたのが始まりとされており、発掘調査により三度の増改築が行われたことが確認されているそうです。

天文19年(1550年)に大友宗麟(当時は義鎮)が大友家の当主となった際に、田原親宏が安岐と国東の政所職が与えられ居館を築いたようです。
天正6年(1578年)に大友氏が島津氏に敗れ、田原氏の家督が親宏から親貫になったころ、9ヶ月に及ぶ大友対田原の戦いが勃発したころに増改築が行われたとか。結果的に親貫は討たれ、大友宗麟の次男親家が跡取りになったそうです。
最終的には文禄の役で活躍が認められた熊谷直盛が1万5千石で安岐城主となり、大規模に改修をしたようです。

関ヶ原の戦いの際、当主の直盛は大垣におり結果的に殺害されます。
留守を守った伯父の熊谷外記が城を守り、黒田軍の攻撃により援軍のあてもなく黒田軍の呼びかけもあり投降した城です。

城を偲ぶよすがも少なく、まぁ、戦国時代の逸話の残る場所に行けてよかった、という感じであっさりと終わりました。

その後、どうしても団にょが行きたいという奈多宮へ。
なんでそんなに行きたいのか、と、聞くと

「だって、紹忍の実家だよ。」
とのこと。

田原紹忍は信長の野望をやっていれば名前くらいは知っています。
が、なにがそんなに団にょを惹きつけるのか、その理由がわからない、と、問うと、

紹忍のね、ダメっぷりがすごすぎて堪らない。
とのこと。

○妹が大友宗麟の妻なので大友家の宿老になるが、その前の宿老の立花道雪からはあいつを宿老にしてはいかんと言われていた。
○その奥さんを宗麟は嫌ってたみたい。
○でもなぜか宗麟は紹忍を気に入ったみたいで、大友家中で権勢を振るうことに。でも、宗麟の代理で戦った耳川の戦いでは軍勢の統制が取れず大敗。大友家衰退のきっかけを作ってしまう。
○そんな大敗を喫しながら、ほとぼりが冷めるまで帰らず、数ヶ月経ってから突然大友家中に復帰。何食わぬ顔で宿老を続ける。
○大友家が秀吉に取り潰された後、中川家に客将として世話になったにもかかわらず、大友義統が関ヶ原の戦いの際、大友家再興のために九州で挙兵すると中川家の旗を盗んで石田三成側として働いたために、黒田官兵衛が石垣原の戦いの際に中川家の旗を敵方に見て中川家が裏切ったと思ってしまったため、恩人である中川家を苦境に陥れる。
○中川家の疑惑を晴らすため速吸日女神社を攻めることとなった際、絶対に敵に回すな、味方につけろ、と、言われていたにも関わらず、神社に火をつけて敵に回してしまった。

さすがに、これだけの逸話を聞かされると、
「なぜ、そんなにダメっぷりがすごいのに重要な役回りを演じ続けることができたんだ。」
と、逆に驚嘆してしまう。

あまりのことに我々は、彼の実家を見ずにはいられなくなった。


※奈多宮

目の前は素敵な海岸。


とりあえずお参りする。


静かで訪う人も少なく、ここで静かに一生を終えた方が幸せだったんじゃないか、紹忍よ、と、思ったりする。あまり紹忍についても記載はなく、「静かにしておいてくれ。」と、いう感じでした。



ちなみに、田原紹忍が
「焼くなよ、焼くなよ。」と、言われて
「焼くなってことは、焼ってことかと思いました。」
と、ダチョウ倶楽部並みの言葉を吐いたであろう速吸日女神社は翌朝訪れることになりますが、併せてご紹介。



タコが吸い付いていた宝剣を取り上げて奉納したことで、この変わった名前の神社の由来とか。
案内板には「兵火により社殿、宝物一切を焼失」とかかれていますが、これが紹忍の所業かと盛り上がる一同。

※案内板

消失した社殿は、ここが肥後藩の飛び地となったことで加藤清正や細川家により再興され、現在の立派な社殿となっているそうです。


なお、この旅の3日目に団にょは体調が悪くなり、
「紹忍をおちょくって話した呪いの気がする。」
と、必死に心の中で「ごめん紹忍」と謝っていたとか。

先ほどの紹忍の所業の数々ですが、紹忍に同情すべき余地のあるものもあるらしいです。
と、私も紹忍の呪いに遭ってしまうと嫌なのでフォローを・・・。

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