長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

三方原の戦いの理由。今後の検討のための備忘録として。

2015年11月30日 | 奥三河
昨日子供を寝かしつけて一緒に寝たものの目が覚めたら夜11時。(寝たのは夜8時半)。。。

もう一度寝ようとするも目が冴えてしまい寝られないので、暇つぶしに何かを考えようと思う。
その際、ふと三方原の戦いで武田信玄の目的はなんだったのか、と、思う。

この内容については様々に学者の方々が考えられており、今更自分が考えたところで誰か既に思いついている可能性もありますが、でも、こういうことをアレコレ考えるのが好きなので、布団の中でぬくぬくしながら、考えてみた。


※家康公。

よく信玄は上洛を目指しつつも、途中で無念の死を迎えた、と、言われていました。
これに対して三河や遠州を制圧する目的で上洛までは考えていない、というものや、東濃を制圧するのが本線で三河や遠州は陽動作戦だ、という説が近年有力です。

そこで自分が着目したのが「東濃」。
前々から東濃遠山氏の動向が奥三河に影響を与えていたという発想から気になっていたのですが、東濃は本来親武田側として活動しながら当主の病死により織田方が主導権を奪い、それを武田側が奪い返した、というのが最近の考え方。

確かに、信玄は上杉対策として越中の扇動を前から行っており、そのためには東濃を確保⇨飛騨への影響力確保⇨越中へ影響力を行使、という図式が成立しています。

三方原の頃は親武田だった遠山氏の主導権を織田方が奪い、それを秋山虎繁が入城し、織田信長叔母と虎繁が婚姻することで動揺を抑えた時期。
東濃の動揺を抑えるには奥三河を抑え、奥三河を抑えるには遠州北部を抑えることで、安定が図れます。

信玄の過去の戦歴に小田原城攻めがあります。
この時、小田原の北条氏を本気で落城させる気は無かったはずで、小田原城を包囲して信玄の威力を見せつけて北条氏を威嚇すれば目的達成で撤退しています。

と、いうことは、三方原の時も同じではなかったか、と、寝床で思う。
いくらなんでも浜松城に籠る家康を本気で攻略できるとは信玄も思ってなかったと思います。

たまたま、あの時は家康が飛び出してきて三方原の戦いが起きわかりにくいのですが、信玄は家康を脅かして東濃や奥三河、遠州北部の領主層を武田側としてしっかり固める作戦の一環として、浜松城の威嚇行為を行っただけかと。実際、信玄は家康が数年前から上杉氏と結んで信玄を攻撃するような姿勢を見せていたことに、相当怒りを溜めていた様子が、当時の文書から指摘されています。

そう考えると、武田氏と常に対立を続けている野田城の菅沼氏を攻めた理由も、自分に逆らう者への見せしめであり、体調不良でお茶を濁すためでもなんでもなく、元々本来の目的だった、と、考えることができます。
信玄が上洛すると考えるから野田城の攻撃がなぜ?と、わからなくなってしまう訳です。

家康は信玄の意図を汲んで自分に従う領主層をつなぎとめるために浜松城から飛び出さざるをえなんだ、と。信玄はまさか出てくることはないだろうけど、もし、出てきたらラッキー位で出てこなければ野田城の菅沼をいたぶって、家康を辱めれば、東濃、奥三河、遠州北部を制圧する目的は十分に達成できたことになります。

ところが、途中で死にそうに体調が悪くなったのは、信玄の想定外だったのではないかと。
ただ、駿河侵攻により家中が動揺している中で勝頼への円滑な家督継承を考えた場合に、武田家の出口を西に確保しておくというつもりだったのではないかと。

と、勝手なことを寝床の中で考えていたら、目が冴えてしまい、かえって眠れなくなってしまいました。
さらにこの妄想は長篠の合戦にも続くのですが、長くなったので次回へ。

こういう、まったく根拠も学者の検討状況も考えず好き勝手に書くのは楽しいものです。

安岐城と奈多宮と速吸日女神社 ~焼くなって言うことは焼ってことですよね?~

2015年11月23日 | 落城戦記
ちょっと間が空きましたが、9月に実施された大友宗麟ツアーの様子を。

地元愛が贔屓の引き倒し気味な富来城の次に訪れたのが安岐城。


この城、私は知らなかったのですが同行者の佐渡守と団にょが「九州の関ヶ原」とも言われる「石垣原の戦い」を予習してきており、どうしても寄りたいと言った城。

関ヶ原の戦いが起こる際に西軍方として豊後に上陸してきた大友宗麟の息子義統。豊臣秀吉に取り潰された大友家の復活をかけての蜂起に東軍方となった黒田官兵衛が攻撃。別府市内の石垣原の戦いで黒田軍が勝利し大友は降伏。その際、大友軍を攻撃するため素通りしていった西軍方の城の1つがこの安岐城。

安岐港の台地上にある大規模な城ですが、現在は開発が進み隅櫓や天守台があったと想定される土塁と堀などが残っていました。

※天守台跡に立つ神社。


※安岐港を臨む。

なお、国東市教育委員会が発行している「安岐城跡」によると、南北朝時代に大友史の一族である田原氏が安岐郷へ入り居館あるいは城郭を構えたのが始まりとされており、発掘調査により三度の増改築が行われたことが確認されているそうです。

天文19年(1550年)に大友宗麟(当時は義鎮)が大友家の当主となった際に、田原親宏が安岐と国東の政所職が与えられ居館を築いたようです。
天正6年(1578年)に大友氏が島津氏に敗れ、田原氏の家督が親宏から親貫になったころ、9ヶ月に及ぶ大友対田原の戦いが勃発したころに増改築が行われたとか。結果的に親貫は討たれ、大友宗麟の次男親家が跡取りになったそうです。
最終的には文禄の役で活躍が認められた熊谷直盛が1万5千石で安岐城主となり、大規模に改修をしたようです。

関ヶ原の戦いの際、当主の直盛は大垣におり結果的に殺害されます。
留守を守った伯父の熊谷外記が城を守り、黒田軍の攻撃により援軍のあてもなく黒田軍の呼びかけもあり投降した城です。

城を偲ぶよすがも少なく、まぁ、戦国時代の逸話の残る場所に行けてよかった、という感じであっさりと終わりました。

その後、どうしても団にょが行きたいという奈多宮へ。
なんでそんなに行きたいのか、と、聞くと

「だって、紹忍の実家だよ。」
とのこと。

田原紹忍は信長の野望をやっていれば名前くらいは知っています。
が、なにがそんなに団にょを惹きつけるのか、その理由がわからない、と、問うと、

紹忍のね、ダメっぷりがすごすぎて堪らない。
とのこと。

○妹が大友宗麟の妻なので大友家の宿老になるが、その前の宿老の立花道雪からはあいつを宿老にしてはいかんと言われていた。
○その奥さんを宗麟は嫌ってたみたい。
○でもなぜか宗麟は紹忍を気に入ったみたいで、大友家中で権勢を振るうことに。でも、宗麟の代理で戦った耳川の戦いでは軍勢の統制が取れず大敗。大友家衰退のきっかけを作ってしまう。
○そんな大敗を喫しながら、ほとぼりが冷めるまで帰らず、数ヶ月経ってから突然大友家中に復帰。何食わぬ顔で宿老を続ける。
○大友家が秀吉に取り潰された後、中川家に客将として世話になったにもかかわらず、大友義統が関ヶ原の戦いの際、大友家再興のために九州で挙兵すると中川家の旗を盗んで石田三成側として働いたために、黒田官兵衛が石垣原の戦いの際に中川家の旗を敵方に見て中川家が裏切ったと思ってしまったため、恩人である中川家を苦境に陥れる。
○中川家の疑惑を晴らすため速吸日女神社を攻めることとなった際、絶対に敵に回すな、味方につけろ、と、言われていたにも関わらず、神社に火をつけて敵に回してしまった。

さすがに、これだけの逸話を聞かされると、
「なぜ、そんなにダメっぷりがすごいのに重要な役回りを演じ続けることができたんだ。」
と、逆に驚嘆してしまう。

あまりのことに我々は、彼の実家を見ずにはいられなくなった。


※奈多宮

目の前は素敵な海岸。


とりあえずお参りする。


静かで訪う人も少なく、ここで静かに一生を終えた方が幸せだったんじゃないか、紹忍よ、と、思ったりする。あまり紹忍についても記載はなく、「静かにしておいてくれ。」と、いう感じでした。



ちなみに、田原紹忍が
「焼くなよ、焼くなよ。」と、言われて
「焼くなってことは、焼ってことかと思いました。」
と、ダチョウ倶楽部並みの言葉を吐いたであろう速吸日女神社は翌朝訪れることになりますが、併せてご紹介。



タコが吸い付いていた宝剣を取り上げて奉納したことで、この変わった名前の神社の由来とか。
案内板には「兵火により社殿、宝物一切を焼失」とかかれていますが、これが紹忍の所業かと盛り上がる一同。

※案内板

消失した社殿は、ここが肥後藩の飛び地となったことで加藤清正や細川家により再興され、現在の立派な社殿となっているそうです。


なお、この旅の3日目に団にょは体調が悪くなり、
「紹忍をおちょくって話した呪いの気がする。」
と、必死に心の中で「ごめん紹忍」と謝っていたとか。

先ほどの紹忍の所業の数々ですが、紹忍に同情すべき余地のあるものもあるらしいです。
と、私も紹忍の呪いに遭ってしまうと嫌なのでフォローを・・・。

2015年11月15日 | 日記
ブログを書いていてよかったな、と、思うことに、どうでもよい日常のことを書いておくことで振り返ることができることがあります。

特に病気。

秋になると咳がひどく眠れなくなることも多いのですが、ブログを読み返すことで「あれ、昨年度も同じ時期に同じ症状。」と、いうことがすぐわかります。
医者に行った際「今までどうでした?」と聞かれて、
「少なくとも3年前からは同じ症状が同じ時期に。」と説明でき、
「何かアレルギーありますか?」と聞かれ
「イネ花粉です。」と。

で、アレルギーとあたりをつけた先生の処方により症状が静まったのが昨年。
今年は花粉などのアレルギーに効くというヨーグルトを飲んで春先の花粉症は見事にマスクなしで過ごすことができたのですが、秋の咳の時期はダメでした。
今年は昨年のこともあり、なった瞬間に医者に駆け込み薬を処方してもらいました。
治ったと思ったら、またぶり返してしまい、また医者に駆け込む羽目に。

抗生物質とステロイド吸入という結構きっつい薬を処方されていますが、一気に治す、というのが今の先生の考え方なので、こちらも症状が短期間で治るので助かります。

咳というのは厄介なもので、リラックスすると出るものなので寝入り端に咳き込んで起こされ、体力が奪われる、という悪循環に陥ります。
そのため、鎮咳剤と去痰剤の2つは常備しておかないと仕事が辛くなってしまいます。

40過ぎてから発症した咳喘息も完治することはなく、一生付き合うことになるようなので、こちらも気長に対応するつもりです。20のときに椎間板ヘルニアになって、完治せず一生付き合う症状には慣れてますが、今後、こういうものが増えていくのかなぁ、と、思うと憂鬱です。

ま、厄年ですから体力的にはどうしても衰えが目立ち始めますわね。

しかし、咳のせいでランニングができなくなってしまい、少々太ってしまいました。
そろそろ咳も治まってきたので再開したいのですが、布団が恋しい季節だけに朝起きることが難しい。
布団の温もりが良き季節になりましたね。

皆様も体調にはご注意ください。