長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

秦桐若、湯治に死す。

2016年01月17日 | 戦国逸話
武将感状記を読んでいたところ、中身を読んで唖然とした話があったのでご紹介。

◯ 秦桐若、湯治に死す
秦桐若は黒田官兵衛に仕えて度々戦功を挙げ、首を31も取った。
兵庫県の近郊の者は、秦の旗印である唐団扇(長さが約3m)あるので知っており、敢えて近づかなかった。敵に向かって行く時は旗印を隠し、近づいて突然旗印を出すと、敵はすぐに逃げていった。
天正10年の山崎の合戦でひどい傷を負い、療治したところだいたい治ったものの、快復までには至らなかったので翌年有馬温泉で湯治したところすぐ治った。
桐若が思うに
「この湯を浴びて傷が癒えた。もし、この湯を飲んだら更にすごい効用が得られるのでは?」
と、3杯飲んだところ、猛烈な腹痛に襲われ酷い下痢になり、傷口が再破裂して死んでしまった。

「秦桐若、湯治に死す」

て、2時間枠のサスペンスドラマのタイトルのようですが、要は無茶した話。
その落差に唖然。

そもそも、その旗印を見ただけで敵が逃げ出すような猛将。
でもそれでは手柄が立てられないからか、旗印を隠して近づき突然見せる、ということをしていた、という話も興味深い。しかも、見た敵は逃げていく、って、どれだけ脅威に思われていたか、ということが伺えます。

傷を早く治そうと焦って、よせば良いのにガブガブ飲んだら死んでしまった、という、まさに
「過ぎたるは猶及ばざるが如し。」
という諺がぴったりな話。

有馬温泉のホームページをみると、様々な種類が入っており、モノによっては飲料用の温泉もあるようですので飲んだからといって死ぬ、ということではなさそう。
やっぱり体が相当弱っており、風呂の負担に暴飲が加わったのが良くなかったのか。

しかしまぁ、旗印を見ただけで敵が逃げ出す武者の最期としては、残念な感じがしてしまいます。
戦国時代の侍達は死に様にも気をつけないといけないですね。

織田信長の思考回路がどS過ぎて謎。

2015年09月09日 | 戦国逸話
武将感状記を読んでいると、いろんな知らなかった昔話が出てまいります。

その中で、信長様のエピソードが出てくるのですが、思考回路がドS過ぎて、もはや謎の域に達している話を発見。


〇秀吉の大志、小辱を忍ぶ(続武将感状記)
 信長が鷹狩りに出かけて鶉を取ろうとした。鶉の多そうなところを秀吉に見張らせて、まず左右の鶉を取ってから秀吉の場所へ取り掛かったところ、鶉が遠くに這って行ってしまい犬を入れてもどうしようもなかった。信長はこれに怒り、

「猿!お前、何やっとっんだ!立ちながら寝とったか!真菰で皮膚をこすると、どえらい腫れるらしいと聞いたで、やったれ!」

と、信長は命じて秀吉の服を脱がせて裸にし、真菰でこすらせると皮膚が細かく切れて血が流れた。家に帰ってから熱を出して傷がうずくこと甚だしかった。

秀吉はその夜、夜警当番だったので城に行って泊まった。

恨み言を言ったり、うらんでいる様子は無かった。

翌日、信長は秀吉を見つけて笑いながら呼んだ。

秀吉は目も腫れあがって塞がり、見ることもできなかった。足も腫れて歩くこともできず、柱にぶつかって倒れ、起きあがって這って進んだ。

これを見て皆は「なんと恥知らずな。」と嘲った。
しかし、ある人は
「大志がある人は小さな屈辱を憂えない。これは後に大将軍となった古代中国の武将韓信が街のごろつきに絡まれて、ごろつきの股をくぐれといわれたが、自分の将来が大事と恥を忍んでくぐり、身を大事にして出世した。きっと秀吉もそうなるだろう。」
と、いい、そのとおりになった。

と、いうお話。
秀吉が小さな屈辱は耐え忍んで天下を取った、と良い話のようですが、自分としてはどういう経緯で信長は真菰で体をこすると腫れあがるという話を聞き、それを秀吉が鶉の見張りに失敗したときに応用しようと考えたのか、という思考回路が謎過ぎる点が気になってしょうがない。

真菰


たぶん、秀吉が失敗する1週間くらい前に信長は真菰の話を聞き、
『うわー、そりゃ、一体どうなるんかね?気になるね。』
と、思い続けてたところに秀吉が失敗をやらかしたので思わず試した、ということなのでしょうか。

その結果、秀吉は熱は出るは全身腫れあがって目は開かず、歩行困難で這いずり回る羽目になり、しかもその夜当直が当たってたので当直もこなしています。そして、秀吉はそんなになりながらも信長への恨み言を言わない。

しかし、そんな秀吉を見て、信長は笑いながら呼び寄せる。

信長、どんだけサディストだ。

きっと、秀吉が黙って耐えていたか、耐えられずに「勘弁してください。」と言ったかは、わかりませんが、真菰でこすらせているときにも、信長はニヤニヤ笑っていたことが想像されます。

こんな状況が日常茶飯事の織田軍団だったのかもしれません。
こうした恨みつらみが鬱積して、本能寺の変後に秀吉が、織田を見捨てて独立し始めることに繋がったのかもしれません。

なんにせよ、信長の思考回路は、極度のサディスト仕様になっていることは間違いないです。
皆、ようこんな恐ろしい主君に仕えたものです。

敵に塩を送る ~美談の裏側~

2015年09月05日 | 戦国逸話
世の中、美談の裏側には実は大いなる打算が隠されていたりします。

武将感状記なる本を読んでいたところ、かの有名な上杉謙信の敵に塩を送る送る話、実は謙信に隠された意図があって、単なる美談ではなかった!と、いう話を発見。



『謙信、塩を甲信に送る』(巻之三)
北条と今川とが相談して、静岡や関東からの塩商人を足止めして、武田信玄の領土である山梨や長野に塩がいかないようにした。塩を止めて信玄の兵を困らせようとした。
上杉謙信はこれを聞いて、謙信領国(新潟)に命じて塩を山梨や長野に運ばせた。
謙信は言った。
「ワシは戦で信玄と雌雄を決したいと思っている。塩を止めて困らせる事はせぬ。」
と、言って送ったので、信玄はこの措置をありがたく受けた。
しかし、信玄は、
「これは謙信の義によるものであり、かつ、勇気あることだと言っても、必ず深慮遠謀がある。
信玄は謙信より年上で、北条、今川を侵略できる力があるのは、まず信玄だ。だから、信玄を敵とすること、中国古代の春秋戦国時代の秦に他の六国が合従して対抗する時のようだ。
信玄が困ることになると、今、信玄と戦っている北条、今川等の連合体は謙信と戦うこととなる。信玄が連合体と戦っていれば、謙信はその間に北陸地方を制圧して勢力を強大にすれば、東海地方の国々が力を合わせて一つになっても、恐るに足らん、という思惑だろう。」
と、言ったとか。

謙信が敵に塩を送る送り、義将としての評価を高めたこの話。
信玄は隠された意図があると考えたようです。
武田、今川、北条の三国同盟を結んでいたものの、今川義元が桶狭間の戦いで敗れ、今川氏真が今ひとつ領国を抑えきれない中、謙信との戦いが膠着状態に陥り、海に出られなくなった信玄は家中の反対を押し切って今川との同盟を破棄して駿河へ侵攻。
今川氏真とその妻は城から這々の体で逃げ出して浜松方面の掛川城へ逃走します。これに怒ったのが氏真の妻の父、北条氏康。信玄と断行して駿河出兵中の信玄の甲斐との通路を遮断して駿河に閉じ込めてしまいます。
信玄最大の危機となります。この後、なんとか脱出して甲斐に戻りますが、北条、今川との戦いにより苦戦させられます。

塩の話はこの時期のことだったでしょう。

実際、昭和の初めころまで、山の民にとって塩を入手することは難しかったようで、塩漬けの魚を何日にも分けて食べて塩分を確保していたという話が宮本常一の書籍などに出てきます。塩漬けの魚が塩辛いのは塩だけ運ぶよりも塩漬けにして付加価値をつけることで商売としていたようです。それだけに、今のように塩が簡単に手に入る時代、昔のような塩漬け魚を食べればあっという間に高血圧になりますわね。

信玄にとって塩が止められることで、領民生活が脅かされ、かなり困る事態になるでしょうが、謙信から「ワシはお前と戦場で白黒つけることのみを望む。」と言われて塩が送られてきて、受け取りながらも謙信の隠された意図を読む訳です。

信玄が関東、東海の敵と戦っている間に謙信が北陸を抑えてしまうと、越後一国ですら関東諸将を翻弄しているのに、北陸を抑えた日には関東、東海の国々では止められない。そのために、信玄を使って時間稼ぎをしているくせに、フンっ。

と、肚の中で笑いながら塩をもらったとのことです。

塩を送った話ですが、謙信は塩を同時期に止めなかった、ただし高値で売らないようにさせた、とかで、実際には手紙をつけて塩を送ったという話自体が嘘、という話も。

まぁ、謙信も金山開発や海運で大儲けした武将。一筋縄ではないでしょうから、仮に信玄に塩を送ったとしても単なる美談だけで行動するようなことはしないでしょう。信玄が思ったようなこともあったかもしれません。

ただ、謙信が本心から信玄を哀れんだのであれば、信玄は性根のねじ曲がった人間であることを自ら白状してしまった話にもなります。

塩をめぐるこの話。
塩を送った謙信は、信玄が死去してしばらくしたら、脳卒中で便所で倒れ数日後に亡くなります。
やっぱり塩が豊富にありすぎる地域だったからか?

足の痺れ

2015年06月03日 | 戦国逸話
正座。


仕事などでイスがなく、座って話し込むことがあります。
自分はこれが苦手。
正座ならば足が痺れる。足を崩して胡坐をかくにも体が固いので、すぐ背中が凝って痛くなる。背筋を伸ばすと「ボキっ」という音がするとしばらく痛みは消えるのですが、やはりまた痛くなる。
正座は慣れだとも聞きますが、座って生活していた昔の人と言うのは体が柔らかく、正座も慣れていたのだろう、と、漠然と思っていたのですが・・・。

こないだ神保町の古書店街で入手した「武将感状記」なる本を読んでいたら、昔の人も足は痺れるということがわかりました。

〇戸田越後、久しく座して足痺れる(189ページ)

 時代が経って、今は陪臣(家来の家来)の勢いはおとなしくなった。
 豊臣秀吉が醍醐の花見を行った際、諸大名が参集した。
 諸大名の刀持ちは玄関の上に座っていたが、係員は刀持ちを玄関から降りるように指示をした。
 前田利家の刀持だった戸田越後は、そのとき20歳くらいだったが、結構座っていたので足が痺れてすぐに立てなかった。
 それを見た係員は「誰だ言うことを聞かない奴は。降りないとぶっ叩くぞ!」と言った。
 戸田は激怒して「侍には上下は無い。このような恥辱を受ける理由は無い。身を裂かれ頭を砕かれても此処は立ち去らん!降ろすと言うなら刀で勝負するぞ。」と、刀の柄に手を掛けて怒気を含んだ目で覚悟を決めた感じだった。
 係員達は降ろさねばと騒いだので、利家が「何事だ」と走ってきたところ、秀吉も刀を持って出てきた。
 利家は戸田を見て叱って立ち去らせた。
 秀吉は「あれは誰だ?」と利家に聞くと「私の家来です。どうも足が痺れて立てなかっただけのようです。」と申し上げると、秀吉は部屋に戻って、「戸田は素晴らしい侍だ。役に立つ者だろうから寵愛してやれ。」と言って、特にお咎めは無かった。

 なんだ、昔の人も足が痺れて立てなかったのか。
 しかし、足が痺れることで命を掛けた大騒動になってしまう、というのが戦国時代の大変なところです。
 平和な時代に産まれてよかったと思う。

 自分は、昔、崩すわけにはいかない会合があって足の感覚が無くなってしまったものの、やむなく正座していたことがあります。
 そして、痺れまくった状態で、足の感覚が無いまま歩いて退出したことがあります。
 感覚が無いので転びそうで危なかったです。

 が、上には上がいるもので、私の上司で法事の際に足が痺れてしまい、焼香だかで歩いた際に感覚がないために変な転び方をして両足を捻挫した人がいます。
 
 両足捻挫って・・・。

 たかが足の痺れと思っていましたが、危険なものだなと改めて認識すると共に、両足捻挫ってなかなかやろうと思ってもできない技だな、と、妙な関心をしつつ、場面を想像して爆笑した覚えがあります。

 そう考えると、昔も今も足の痺れは、結構重大な結果を引き起こすようです。
 御用心。

長篠合戦のときの武田軍

2015年01月17日 | 戦国逸話
最近、久々に戦国の逸話集「常山紀談」を読み返しておりました。

常山紀談とは、江戸時代中期、岡山藩池田氏に仕えた湯浅常山という人がまとめた武将達の逸話集で、幕末に編纂された名将言行録に比べると、あまり著名で無い武士や細かい内容も乗っています。
その時期に流布していた話が書かれているので、真実が書いてある、というよりは、そういう話があったとさ、的なものとして捉える必要があります。

が、読み物になっているので、面白いは面白い。


で、たまたま読んでおりましたら設楽原合戦時の武田布陣を見た、織田信長や徳川家康の反応について記載しているものがあったので、ご報告。

〇長篠合戦に武田勝頼人数を出す事
 長篠合戦で武田勝頼が五月二十一日に人数を出してきた。(うらにわ注:設楽原に現れたことを指しています。)
 織田信長は武田勢を見て
 「敵も大勢だ。三万はいるのでは。」
 と、いう。
 徳川家康が言うには、
 「今回は味方の勝ちかと。敵が丸く固まっているときは難しいが、人数を散らして大勢いる様に見せかけるのは、勢を頼みにするので大方勝ちになる。」
 酒井忠次は、それを聞いて
 「もっともだ。」
 と、感心した。

 設楽原合戦で一番議論になるのは、
「なんで武田勝頼は、わざわざ馬防柵がある設楽原に出てきたのか。」
と、いう点。

 こればっかりはその時の勝頼の考えを直接的に示す史料がないため、全て状況証拠の積み上げで、それぞれに議論が展開されています。また、信長は自信満々で来たのか、それとも結構不安を抱えながら来たのか、と、いう点も同様です。

 実際に常山紀談の発言を信長や家康がしたのかはわかりませんが、信長は武田勢を過大に見積もり脅威を感じているようにも見えます。しかし、家康は敵が広く薄い、と、見て勝てると踏んだわけです。

 結果的に、設楽原の合戦の状況は、家康の言ったとおりになってるわけですが、江戸時代に編纂された物だけに、家康のすごさをたたえるために後から作った話の可能性も高い。信長だって歴戦の勇将。敵勢を見ての判断は、そう家康に劣るとも思えません。まぁ、対武田経験の豊富さでは家康には負けるので、こうした差が出る、ということも、絶対無いとは言えないですが。ただ、こうした話が江戸時代にあった、ということは間違いないのでしょう。

 この話が真実かどうかは別として、非常に興味深かったのが、家康がなぜこういう判断をしたのか、と、いう点。よくよく考えて見ると、家康は勝頼の立場を経験済み、と、言えます。
 
 三方原の合戦で家康は、数で圧倒的に優位な勝頼の父武田信玄を相手に、浜松城を出て会戦。待ち構えていた信玄の大軍に、木っ端微塵に打ち砕かれます。
 その時、武田勢は魚鱗の陣形と言う密集隊形をとり、家康は鶴翼という横に広がる隊形を取ったとも言われています。通常、軍勢が多い方が包囲陣形を取るといわれているだけに、このとき、なぜ家康が数で劣るにも関らず(武田2万5千、徳川1万3千程度)鶴翼を取ったか、という理由もよく分かっていません。数が少ない方が包囲しても包囲陣を破られて、かえって陣形が乱れて収集が付かなくなる可能性が高いですよね。

 家康は祝田の坂を下っているであろう武田軍の背後を襲えば勝ち目ガあると出てきたら、信玄はそれを予想して待ち構えており、徳川軍は進むこともできず、退けば武田軍に追い崩されてしまうため、大変に困ったとも言われています。そのため、中央が凹む鶴翼であれば、大将である家康が逃げやすいから、ということを書いてある小説などもあります。

 しかし、今回の長篠における家康の発言からすると、

 「兵を多く見せようと思った。」

 と、いう考えだった可能性が高い。
 
 話が逸れましたが、設楽原では織田信長は兵力を少なく見せかけるようにしている布陣している様が『信長公記』に見えます。

 敵に数を少なく見せようと思った織田・徳川軍。
 敵に数を多く見せようと思った武田軍。

 こうした対比も考えられる逸話だけに、面白い話かと。

細川忠興 ~ 忠興・細川のつかえない話 ~

2014年07月22日 | 戦国逸話
最近歴史系の話がないので久々に在庫を漁ってみる。
ありました。

細川藤孝の息子、細川忠興の話で、名将言行録に載っている話です。

※画像出典:ウィキペディア

 すべらない話、というのはありますが、つかえない話、というのも世の中にはあるようです。
 知れば『へぇ』くらい言うかもしれませんが、知ってどうなるものでもない。
 そんな話です。

〇戦死者は下帯なし

 医者の伊藤三白が細川忠興に聞きました。
「戦で深手を負った人や討ち死にした人は、みんな下帯(ふんどし)が無いのです。大坂夏の陣の時も、安藤正次が討死にしたので死骸を家来が回収したら褌がない。さっき討ち死にしたばかりなのに、と不思議がってました。たとえ、戦死者から着物を剥ぎ取るにしても、甲冑とか刀ならわかるんですが、褌をかっぱらう意味がわからんのです。」
 すると、忠興は
「なるほど、褌が無くなってしまうのは本当です。私の考えだと、人間は血の気で保たれていると思います。血が体の中にある時は、褌も結ばれているのでしょうが、死ぬとすぐに肉が落ちてしまうものです。特に、戦死者は、血も沢山出るので病死した人と違い、すぐに身がやせ細ってしまい、結んであっても褌が緩んでしまい落ちるのです。なので、戦慣れしている人は、褌の結び目と前の方に紐を付けて肩にかけ、あるいは、前の垂れている端に紐を付けて首にかけ、もっこ褌と言って使っています。これは、死んだ後に抜け落ちないようにしている用心です。」
と言ったとさ。

 ふーむ。確かに、挿絵や文献などを読んでいると首まで褌を伸ばしている絵を見ます。そういう理由だったのですね。「中にも戦死の者は、血も多く出る間、病死せし者とは違ひ、忽ちに身も細り」と、いうのは実際に経験している人の意見らしく、迫力があります。

 要は出血多量で死ぬ場合はパンツ脱げちゃう可能性ある、ということ。
 しかし、不思議なのが、別に鎧の下は褌一丁じゃないと思うのですよ。袴とかはいてると思うのですが、袴だと広いので裾から落ちてしまうのですかね?うーん。
 そして、戦場で首までの褌をしている人達って言うのは、他人の最期をみて用心しているのですけど、自分の死後が見苦しくないように、と、いう思いでやってるわけですよね。それもすごい。
 
 さらにこの話、鎧や刀はかっぱらわれる、と、書いてあります。と、いうことは、やっぱり落武者狩と言うか戦場での追いはぎ的行為が頻繁にあったことがわかります。

 最近、ふんどし女子なんていうのもいるそうですから、褌ネタはありかもしれませんが、
「いやね、出血多量で死ぬとパンツ脱げるかも。」
とか飲み会で突然言い出せば、通報間違いなし。

 まぁ、なかなかつかえない話だと思います。
 こういう話がつかえない世の中の方が平和で安全と言うことなんですけどね。

立花道雪 ~ これがホントの雷オヤジ ~

2014年06月22日 | 戦国逸話
 戸次鑑連

 はい、これ読める人。

 正解は「へつぎあきつら」。(べつき説もある)
 もっとも、本名より通称の方がよく知られています。「立花道雪(たちばなどうせつ)」です。

 『信長の野望』で九州に攻め寄せた際に、「何このやたら強い武将。」と驚かされることで有名。(か?)
 中部の武将でプレイすることが多かった自分としては、統一が近づいてきた頃に立ち向かってくる強い武将で、物量作戦で攻めつづけて確保、と、いう武将。

 でも、「誰?」と、いう、そんなあなたにはちら。

〇 鑑連の武勇と士卒愛
 大友氏が衰えたとはいえ、(大友家臣の)戸次鑑連は高橋鎮種と心を合わせて少しも屈しなかった。鑑連は武勇がたくましく部下の面倒をみることは子どもを愛するようであった。戦に臨む時は2尺7寸の刀と鉄砲を駕籠に入れ、3尺の棒を手に駕籠に乗り込み、長い刀をさした若い部下百人を駕籠の左右に配置し、戦が始まれば駕籠を部下に担がせて棒で駕籠を叩いて「えいとうとう」と声をあげ、敵の真ん中に突撃していき、部下もあわせて突撃し、どんな強敵も崩さないことはなかった。また、先陣が追い立てられても「儂を敵のど真ん中へ連れて行け。命が惜しければ儂を敵の中へ駕籠ごと放置してから逃げろ」というので盛り返して勝たないことは無かった。(以下略)

 まさに『神輿

 「えいとうとう、えいとうとう」と、言いながら大軍の中に割り込んでくる異様な集団。
 敵にしてみればホラーそのものかと。さぞかし肝を冷やしたことでしょう。
 部下もよく駕籠を放置プレーせずに頑張ったものです。
 担いでいる部下がやられてしまった日にゃ、バランス崩れて道雪も転落しそうなものですが、もし、そんな事態になろうものなら、怖さ倍増、さらに倍、で、
 「あいつじゃあ!あいつがワシの大事な部下を!えいとうえいとうえいとうとう!」と絶叫して頸を取るまで追いかけて来るでしょう。敵領の真っ只中であろうがなんだろうが。
 
 この剛直さは敵に向けてだけでなく、内なる敵にも向けられています。
 内なる敵。
 それは、主君の大友宗麟。
 宗麟が酒食に溺れた時に道雪はひるむことなく諫言します。

○ 大友義鎮(宗麟)を諫む
 大友宗麟は九州の北半分を制覇したあたりで酒食におぼれだした。昼も夜も寝所からでず、老臣が出仕してもあわない。そして適当に論功行賞を行いだした。
 鑑連は大いに憂いなんとか諫言しようと日々登城するも対面できなかった。どうしようかと思い、一計を案ずることにした。
 鑑連も踊り子を呼び日夜酒食に耽りだした。鑑連は元々月見、花見、酒宴、乱舞は大嫌いだったため宗麟は「硬骨漢鑑連が一体どうしたんだ。俺の機嫌を取ろうとしているのか?ならば行こう。」鑑連の邸にやってきた。珍しい踊りなどをみて宗麟が上機嫌なところを見計らって、鑑連は涙を流して諫言を行った。翌日七夕のため諸将が登城すると、昔のようにきちんと儀式が行われた。皆、鑑連の諫言が効いたと喜んだ。

 主君にも諫言する硬骨漢。宴会嫌いでストイックな武将。

 まさに武将の鑑。

 と、ここで、ふと気づく。
 このような武将といえば、どこかで見たような・・・。
 そう、上杉謙信。
 謙信といえば若干(で、済むか?)の狂気を見せることで有名ですが、実は、この鑑連にも謙信系の逸話が。

○ 雷切(らいきり)
 鑑連が若い頃、夏の暑い日に大きな木の下で涼んでいた。すると突然すぐ側に落雷した。
 鑑連は千鳥と名付けていた刀で雷と思われるものを斬った。
 それ以来、千鳥を雷切となづけて常に所持していた。
 しかし、雷に打たれ、あちこち大怪我を負い、遂に足腰が立たなくなってしまった。歩けない為、戦場に出る時には常に駕籠に乗っていた。

 最初の逸話で駕籠に乗っていたのには理由があったのですね。雷と格闘した時の傷が原因だったのです。

 「て、いうか、木陰で涼んでいたら刀に落雷してきたってこと?」

 あ、そんなことを言ってしまったアナタ。
 本日の夢で道雪が駕籠で突入してきますのでお気をつけください。

 むしろ、落雷で大怪我しても雷公を斬り捨てた、そう解釈すべきなんでしょう。

 まさに雷オヤジ。
 そりゃ、主君宗麟も言うこと聞かざるをえんですわな。。。

 肖像画を見ると、目玉ひん剥いて口をへの字に曲げた坊主頭の爺さん。さぞかし頑固そうな感じです。
 九州男児。この言葉が一番似合う漢です。

池田恒興の刀『笹の雪』 ~ 美談ではないとおもう・・・ ~

2014年06月03日 | 戦国逸話
久々に甲子夜話などを読んでおりました。
美談として載っている話が、どうにも「そうかねぇ・・・?」というものがありまして。
世の中の判断基準や価値観が変わったから、ということを実感させられる話です。

〇池田勝入斎恒興の刀「笹の雪」(巻69)
 (儒家の)林家の人に聞いた話。このごろ阿部大学の家で集まりがあった際、その家の昔話の話になり、池田勝入斎恒興の持っていた刀といわれる『笹の雪』を見たという。

※池田勝入斎恒興(参照:ウィキペディア)

 この刀がその家に伝わる来歴だが、そもそも笹の雪は、小牧・長久手の戦いで永井伝八郎直勝が池田勝入斎を討った際に分捕って持っていたものである。その永井伝八郎の娘に醜女(ひどい不細工)がいて、歳をとっても結婚できないでいた。阿部大学の先祖がこれを聞き、人を介して永井家のその娘に縁談を申し込んだ。その際、阿部家では引き出物として笹の雪を希望。永井家も承諾してめでたく縁談成立。約束どおり刀は阿部家のものとなった。そして、今まで伝わっているとのこと。
 縁談当時は、まだまだ武が盛んな時代であったようで、百年たった今でも臆病者でも勇気が湧いてくる話だ。愛人を馬と換えるよりは愉快な話で、武人の鑑のようだ、と。

 うーん・・・。
 甲子夜話の作者、松浦静山は刀を重視して不細工を承知で嫁にもらった話を「武夫の鑑たるべきこと也」と手放しで絶賛しています。
 しかしこの話って、フェミニズム研究者達が聞けば卒倒するような内容。現代の我々からすると、美談ではなくて人の弱みにつけこんでるような結構ひどい話のような気がします。むしろ娘を持つ親となった私なぞは、娘の幸せを願って家宝クラスの刀を手放した永井伝八郎の気持ちの方に共感してしまいます。

 似たような話が毛利元就の息子吉川元春にもあります。熊谷信直の娘がブサイクで引き取り手がないのをあえてもらい、武勇に優れた熊谷信直が感動して吉川元春に助力したので吉川は強くなった、というのがあります。
 ただ、実際信直の娘が本当にブサイクだったのか、と、いうのは疑問があるようで、元春はこの嫁を愛しており子どもも沢山いるし側室を持たなかったと、言われています。

 阿部家も子孫が続いていると言うことは、永井の娘と夫婦関係が正常に行われたことが推測されますが、ひょっとすると養子かもしれない。そこまではわからない。

 女性と物の価値を比較した場合、物の方が上になることがありうる時代。
 現代の感覚からはわかりませんが、そういう時代だったんでしょう。

 でも、『ドカベン』の岩鬼が「夏子はん」にベタ惚れだったように、「あばたもえくぼ」と言う諺があるように、実は阿部は永井の娘がどストライクだったのかもしれません。。。

前田玄以 ~ 都会コンプレックス ~

2014年05月22日 | 戦国逸話
 前田玄以?

※出典:ウィキペディア

 と言う人の方が多いことでしょう。
 ゲーム好きならば、「ああ、あの内政に使える奴ね。」と、いう感じかと。
 まぁ、文治派の人です。
 武将と言うより官僚というとイメージしやすいかも。

 信長の部下から秀吉の部下になり石田三成達と五奉行をやっています。前田は前田でも傾奇者の前田慶次郎や加賀百万石の前田利家とは全く関係がない。そんな前田玄以のエピソードはこちら。

〇 所司代となる
 前田玄以は尾張の小松原寺の住職だった。秀吉がまだ貧しかった頃から親しい間柄であった。ある日、秀吉が雑談していて、
 「もし儂が天下とったら、あんた何になりたいだね?」と聞くと、
 「わしゃ(京都)所司代がよいのう。前から京都の奴等が横柄で憎たらしいからのう。」と言う。
 その後、秀吉が天下を取ったところ玄以を所司代にした。すると好業績を挙げた。
 (中略)
 京都所司代となってから、京都を巡回中の時、東寺の辺りで牛車が道をふさぐ形で停まっていた。玄以は非常に怒り、家来へ「所司代の通り道を塞ぐとは、けしからん!斬り捨てよ!!」と命令した。従者はそこまでせんでも、と、ためらっていると、「主人の言うことがきけんのか!!!!」と大激怒するので、仕方なく従者は牛を斬り殺した。
 これを見聞きした人々は「今度の所司代は気が狂うとる。牛ですら斬ってしまう位だから、気にいらん奴がいれば問答無用で斬り捨てるに違いない。くわばらくわばら。」と言い合い気をつけた。
 そのため、訴訟事もあまり発生せず、人を殺すことも無かった。

 『京都の奴等が横柄で憎たらしいから所司代になりたい。』
 と、いうのはすごい理由。とんだ生臭坊主ではないか。
 そもそも、何が彼をそこまで京都の人間を憎むきっかけにさせたのか、そこも知りたいところですが、残念ながらそこには言及がない。だいたい、復讐するためのポストを希望する、ということ自体が結構異常。そもそも、彼は僧侶じゃないか・・・。

 結果的に玄以は京都所司代になってしまうわけです。
「そういや、玄以の奴、京都が憎いで京都所司代を希望しとったなぁ。よし、あいつじゃ!」
という感覚での任命ならば、豊臣秀吉も相当な能天気人事をしたといえる。サプライズ人事。
 ところで秀吉も若い頃京都所司代的な仕事をさせられたことがあって苦労したようです。実は秀吉自身が「うわぁ、京都の奴にくぅぅぅい。」と思って、あえて玄以を据えた、と、いうことならわからんでもないです。
 秀吉は案外根に持つタイプだったようですし。

 そして、後半は牛を見せしめとすることで、京都の治安維持を図った話です。
 でも本当のところは、
 『くわぁぁ、俺様の通り道に!やっとなった京都所司代様の通り道にぃぃぃぃ!!!きぃっ!これだから京都の奴等は憎いんじゃあ!』と思って、
 「斬り捨てぇぇぇぇぇ!!!」
 と言った、というのが本当のところだったかもしれません。
 と。いうか、前半からの話の流れを考えると、そちらの方が可能性が高いと思えるのですが。

 訴訟事も発生しなかったのは「今度の所司代には何を言っても無駄。」と思われていただけで、京都の人達が自分たちで争いごとを解決しようとしていた結果かもしれません。まぁ、結果的に争い事の件数そのものが減ったのであれば、名奉行でしょうが、残念ながらそこのところまでは教えてくれません。

 ま、京都の奴等に一泡ふかせる、という当初の目論見は見事に達成したわけです。
 本人は満足だったことでしょう。
 
 でも、僧侶が殺生していいのか?

奇祭

2014年01月23日 | 戦国逸話
祭り。

東三河では手筒花火などという伝法なものがあり、それこそ侠気を発揮して男としてナンボ、という世界観があるように見受けられます。
私も一度だけ上げたことがありますが、やった後の爽快感は確かに得難いものでした。


※私です。

各地で神事、祭りで人々が熱狂しています。
が、その元を辿ると、相当に荒々しい原型にたどり着きます。

今回は戦国時代ではありませんが、明良洪範という本の話を読んでいましたら、尾張のお祭りの話が出てきまして「え・・・。」とドン引きした話があったのでご紹介を。

〇尾張大納言光友(巻15)
 尾張大納言光友卿は光義と名乗っていた時、法を厳重にして万事を先代義直の掟を守らせていた。

 正月25日は熱田で神事がある。
 この神事は、名古屋の者と熱田の者が打ち合うもので、昔からの行事である。
 昔は、鑓や薙刀で戦っていたが、やめさせて、今では刀で打ち合い、双方に少々怪我人が出ると奉行が棒を入れて双方を引き分けている。

 また、正月13日は多田の神事があるが、この神事は、昔は道を歩いている人を捕らえて生贄にしていた。
 今では雉肉を人肉に代えて行っている。

 これらは皆、義直公の仁政の賜物である。(以下略)
 
 え~と。。。
 まず、1つめから参りましょうか。

 「うらにわさん、引越してきたばかりで知らないかもしれませんが、今月の25日にこのあたりの人は熱田の人達と刀で斬りあうことになってるんですよ。今年は当番ですからよろしく。あ、槍とか薙刀はだめですよ。」

 と、いう話は、今のところ自治会から来てません。
 熱田に住んでる先輩とかもいますけど、
 「いやー、昨日さぁ、例の祭りで斬られちゃって・・・。」
 みたいな話は聞いたことがありません。

 既に無くなったお祭りなのでしょう。
 て、いうか、無くなって良かったよ!!!

 鑓や薙刀を廃止して刀で斬りあうようにした、というも仁政の一つとなっているところを見ると、鑓や薙刀の方が死傷者が出やすい、ということを意味しているように見えます。
 戦国時代の戦争でも刀で打ち合うなんてことは頸でも取りに行く場合で、よっぽど槍や鉄砲で戦っていたようですから、初期の頃の熱田VS.名古屋の祭りは、実戦に近い。祭りと呼んでいいのかどうか、というレベルです。

 たぶん、それこそ、昔、何か遺恨があって、祭りにかこつけてやりあっていた、というのが真実に近いと思われます。

 しかし、奉行たちも大変です。
 怪我人が出始めた段階で「はい、終了~~~!」といいながら割って入るわけです。

 怪我人がでるような激しさが出ているときは、皆アドレナリン全開で燃え上がっているときに仲介に入らなきゃならないわけで、奉行にも怪我人がでたかもしれません。
 それこそ、
 「てめぇ、いてぇじゃねぇか!やめろって言ってんだろうがぁぁぁ!」
 と、熱田VS.名古屋VS.奉行の三つ巴になって・・・、という年もあったやもしれません。

 この祭りがなくなってほっとしているのは奉行達だったかもしれません。

 さて、問題は2番目、。

 『今では雉肉を人肉に代えて行っている』
 
 さらっと書いてくれていますが、ものすごい怖いことを書いてます。
 
 儺追系の神事というのは、地域にもたらされる災いである『厄』を引き受ける役に押し付けて地域から出てってもらうことで地域の厄が無くなる、という発想のもとで行われているようです。

 稲沢市国府宮はだか祭りなどでは、神男に裸男達が群がり、神男に厄をなすりつけるために押し合いへしあいするという結構危険な祭りで知られています。
 神男は公募制で、男を魅せるステータスにもなっていますが、裸男に引きずりおとされて揉みくちゃにされて亡くなってしまうこともあります。

 こうした儺追系って元々は、運悪く儺追の時期に地域を通りがかった旅人が住民に捕獲されて、厄落としとしてぼこぼこにされて、最後、ありがとよ、という意味も少しは込められたでかい餅を背負わされて地域から放り出される、という、旅人にしてみれば、とんでもない災難な神事であったようです。

 多田の神事とは、どこの神事を指しているのかよくわかりませんが、ここの神事でも道を歩いている人を捕まえる、と、ありますので、まさに該当してくると思います。

 その昔、旅人と言うものは、ある意味地域社会に属していない危険因子として認識されていた部分もあるので、こうした目に遭うこともあったのでしょう。

 もっとも、多田の神事では本当の意味で「生贄」にされてしまっていたようで、相当に物騒な神事だったことがわかります。

 そして、これも徳川義直公によって雉で代替するようになったとあります。

 しっかし、無実の人を生贄にして、厄が逃れられると考えていたようですが、その人達が祟る、とはかんがえなかったのでしょうかね。それこそ、猟奇小説であるように、やたらと歓待されて最後の最後に突然生贄にされてしまう、という恐ろしい状況が待っていたのかもしれませんが、そこまでは明洪良範は書いていません。

 徳川義直って言えば、江戸時代の人。
 そんな時代まで、結構今からみると恐ろしげな風習があちこちにあったのですね。
 今の時代に産まれて良かった。

 て、明日、突然総代さんがやってきて、
「あ、うらにわさんね、25日なんだけど・・・。」
 と、言ってきたらどうしよう。