古宮城の整備活動も終わり、若干惚けておりブログの更新が止まっておりました。
その間ですが、小牧長久手の戦いについて少々整理しておりました。
なぜかといえば、うちの会社では職場の親睦を図るために課内サークル活動というものがありまして、今年は私が城サークルを開催しております。
そこで、小牧長久手の戦いの跡をウォーキングしたいので、ついでにガイドして欲しい、という要望がありました。で、せっかくなのでやりましょう、と。
数年前にも一度小牧長久手の戦い跡を巡ったことがあり、今回はガイドを頼まれたのでレジュメなどを作って戦いを自分なりに整理しておりました。
すると、前には気づかなかった点が出てきて面白いのです。
例えば、
小牧長久手の戦いも、結局のところ小牧山城と清洲城を拠点に籠城する織田・徳川連合軍を羽柴軍が誘いだそうとして失敗した、ということか、とか、
池田恒興の動向が小牧長久手の戦いを左右していますが、秀吉は池田の動向をどこまで掴んだ上で出陣していたのかがよくわからない、とか、
秀吉は織田家の簒奪を決めた状態で出陣したのか、織田家の主導権争いとして考えていたのか、とか、
色々と疑問も含めて出てきます。
特に、この今まで抱かなかった疑問に気がついて調べるという作業が至福の時。
先行研究で既に解き明かされているのかもしれませんが、今の時点では専門家でも研究者でもない自分としては、こうした疑問を考えていると退屈しません。
数年前は地図を眺めていて、「なぜ戦場が国道41号や19号沿いなのか。通常岐阜などの西へ向かう際は国道22号を使うのに、戦場が東にずれている。」と、不思議に思って調べたところ、美濃を抑えていた池田恒興が羽柴方になり、東濃から進撃することが可能になり徳川としては防衛上戦場を東にずらさざるをえなかったれ、ということがわかりました。
今回も色々と疑問が湧いてきましたので俄然興味が。
ちなみに、古宮城は小牧長久手の戦いの際に防衛を強化した説がありまして、こうした観点からも今回は調べています。
こんなことで幸せを感じられる幸せ。
金がかからなくて良いです。
妄想してるだけで良いですから。
その間ですが、小牧長久手の戦いについて少々整理しておりました。
なぜかといえば、うちの会社では職場の親睦を図るために課内サークル活動というものがありまして、今年は私が城サークルを開催しております。
そこで、小牧長久手の戦いの跡をウォーキングしたいので、ついでにガイドして欲しい、という要望がありました。で、せっかくなのでやりましょう、と。
数年前にも一度小牧長久手の戦い跡を巡ったことがあり、今回はガイドを頼まれたのでレジュメなどを作って戦いを自分なりに整理しておりました。
すると、前には気づかなかった点が出てきて面白いのです。
例えば、
小牧長久手の戦いも、結局のところ小牧山城と清洲城を拠点に籠城する織田・徳川連合軍を羽柴軍が誘いだそうとして失敗した、ということか、とか、
池田恒興の動向が小牧長久手の戦いを左右していますが、秀吉は池田の動向をどこまで掴んだ上で出陣していたのかがよくわからない、とか、
秀吉は織田家の簒奪を決めた状態で出陣したのか、織田家の主導権争いとして考えていたのか、とか、
色々と疑問も含めて出てきます。
特に、この今まで抱かなかった疑問に気がついて調べるという作業が至福の時。
先行研究で既に解き明かされているのかもしれませんが、今の時点では専門家でも研究者でもない自分としては、こうした疑問を考えていると退屈しません。
数年前は地図を眺めていて、「なぜ戦場が国道41号や19号沿いなのか。通常岐阜などの西へ向かう際は国道22号を使うのに、戦場が東にずれている。」と、不思議に思って調べたところ、美濃を抑えていた池田恒興が羽柴方になり、東濃から進撃することが可能になり徳川としては防衛上戦場を東にずらさざるをえなかったれ、ということがわかりました。
今回も色々と疑問が湧いてきましたので俄然興味が。
ちなみに、古宮城は小牧長久手の戦いの際に防衛を強化した説がありまして、こうした観点からも今回は調べています。
こんなことで幸せを感じられる幸せ。
金がかからなくて良いです。
妄想してるだけで良いですから。