長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

小牧長久手の戦い

2015年10月29日 | 日本史
古宮城の整備活動も終わり、若干惚けておりブログの更新が止まっておりました。

その間ですが、小牧長久手の戦いについて少々整理しておりました。
なぜかといえば、うちの会社では職場の親睦を図るために課内サークル活動というものがありまして、今年は私が城サークルを開催しております。

そこで、小牧長久手の戦いの跡をウォーキングしたいので、ついでにガイドして欲しい、という要望がありました。で、せっかくなのでやりましょう、と。

数年前にも一度小牧長久手の戦い跡を巡ったことがあり、今回はガイドを頼まれたのでレジュメなどを作って戦いを自分なりに整理しておりました。

すると、前には気づかなかった点が出てきて面白いのです。
例えば、

小牧長久手の戦いも、結局のところ小牧山城と清洲城を拠点に籠城する織田・徳川連合軍を羽柴軍が誘いだそうとして失敗した、ということか、とか、

池田恒興の動向が小牧長久手の戦いを左右していますが、秀吉は池田の動向をどこまで掴んだ上で出陣していたのかがよくわからない、とか、

秀吉は織田家の簒奪を決めた状態で出陣したのか、織田家の主導権争いとして考えていたのか、とか、

色々と疑問も含めて出てきます。

特に、この今まで抱かなかった疑問に気がついて調べるという作業が至福の時。
先行研究で既に解き明かされているのかもしれませんが、今の時点では専門家でも研究者でもない自分としては、こうした疑問を考えていると退屈しません。

数年前は地図を眺めていて、「なぜ戦場が国道41号や19号沿いなのか。通常岐阜などの西へ向かう際は国道22号を使うのに、戦場が東にずれている。」と、不思議に思って調べたところ、美濃を抑えていた池田恒興が羽柴方になり、東濃から進撃することが可能になり徳川としては防衛上戦場を東にずらさざるをえなかったれ、ということがわかりました。

今回も色々と疑問が湧いてきましたので俄然興味が。
ちなみに、古宮城は小牧長久手の戦いの際に防衛を強化した説がありまして、こうした観点からも今回は調べています。

こんなことで幸せを感じられる幸せ。
金がかからなくて良いです。
妄想してるだけで良いですから。

古宮城の整備活動に多数のご参加ありがとうございました。

2015年10月19日 | 古宮城
今年も無事に実施されました古宮城の整備活動。




地元の方や県大の学生さんなどにより、今年も綺麗になりました。
樹木が生えており、下草の生育が遅いことから、4年もやっていると雑草等の生育スピードを整備するスピードが上回っており、徐々にですが古宮城の風景が変わりつつあります。


※東西をつなぐ土橋東側から西の曲輪を見た状況。前はこんなはっきりと形状を観察できませんでした!感動です。

特に従来は低木が生い茂って全く地表観察ができなかった東曲輪の東側が相当に見やすくなっており、土塁の形状や虎口(城の入り口)などがわかりやすくなりました!


「いや、4年も続けてみると違うもんだねぇ。」
と、連続参加の方々と話をしておりました。

なかなかただ見るだけではわかりにくいと思いますが、それでも、人為的な土木改良の痕跡は相当にわかりやすくなったと思います。

来年もできたらな、と、思っております。
整備がなった古宮城に、皆様もぜひお越しください。

本日10月17日の古宮城整備活動は開催します。

2015年10月17日 | 古宮城
本日の古宮城整備活動は開催します。
現在は晴天ですが、作業時間となる13時半から15時半の間は天気が崩れる予報です。
ご参加いただける方は濡れても大丈夫な格好をご用意ください。
また作手の現地は平地よりも5度ほど気温が低くなります。
濡れた体のままですと体調を崩す可能性もありますので、着替えをご用意いただくなど準備いただくと良いかとおもいます。

また、濡れた体を温めるならば少し離れますが湯谷温泉などもありますので帰りにはご利用いただければとおもいます。笑。

では、現地でお待ちしています!

明日10月17日の古宮城整備活動について

2015年10月16日 | 古宮城
明日開催予定の古宮城の整備活動ですが、16日の朝時点での天気予報が曇り時々晴れとなっております。

活動場所は木立の中となるため、多少の雨であればあまり濡れませんの小雨決行です。
なお、下草が濡れている可能性があるため、長靴やレインコート、濡れても良い作業着等をご用意ください。また、現場は平地より気温が低いため、着替えのご用意をお勧めします。

また、現地の雨の状況により、翌18日日曜日に延期することもあります。

明日17日の本ブログの9時半頃には小雨決行又は延期のお知らせを掲載する予定ですので、ご参加を予定されている方は、お手数ですが本ブログでの確認をお願いします。
(基本は17日開催を考えております。)

篠島城は愛知県内唯一の島にある城だった。

2015年10月14日 | 落城戦記
篠島を巡る旅で最大の目的だったのが篠島城。


事前のネット情報によれば、篠島には愛知県内唯一の城があるという。
本当かと思って「愛知県中世城館跡調査報告」全4冊を調べてみると、確かに城としての分類で掲載されているのは篠島だけ!

日間賀島にも一応城と思われる史跡があるようですが、参考地扱い。
城としての登録があるのは篠島城だけでした。

これは貴重だ。
もっとも読んでみると室町時代の城としての伝承が残っており、城としてのマニアックな見所があるわけではなさそう。しかし、県内唯一の島の城と言われると向かわざるをえないのが城オタクの性(さが)。

この城のいわれですが、建武の新政の後、吉野に立て籠もった後醍醐天皇は巻き返しを図るために皇子を各地に派遣して地方から勢力を盛り返そうとします。

そこで、宗良親王と義良親王の2人を北畠氏をつけて東北に派遣しようとします。
しかし、途中で嵐に遭い難破。

義良親王は伊勢に、宗良親王は遠江に漂着します。
義良親王は伊勢にしばらく滞在したのち、後醍醐天皇に呼び戻され後村上天皇として即位し、南朝勢力の代表者となります。

実はこの義良親王が漂着したのが篠島なのです。

ん?

伊勢でしょ?
と、いう疑問があるのですが、篠島は伊勢に属していた時期が長いのです。尾張藩になったときに領地替えで尾張藩に組み込まれているため、当時は伊勢。伊勢に漂着したというのは間違いではないのです。

そして、突然の貴人の来訪に驚いた村人は篠島城を築いて滞在していただいた、ということのようです。
このとき遠江に漂流した宗良親王は、井伊谷に身を寄せ信州まで落ち延び、三遠南信地方を南朝勢力として掌握します。

おお。なんか篠島と奥三河というか三遠南信繋がってるじゃん!と、感動。
そうした航路があった、ということが推測できます。

さて、その篠島城。


現在は城山と呼ばれていたりするようです。そして金比羅様が鎮座まします。


それ以外にも色々な祠が乱立しており、なんとなく異次元空間のような、神聖な侵すべからず的な雰囲気を醸し出していました。


※城山水神天狗、って、天狗を祀っているのですかね?!

残念ながら神社等を作ったり、近隣に家屋が立つ際に削られたり、草木が生い茂っていたりで、遺構らしきものは確認できませんでした。

ただ、地元での崇敬を受けている場所であることはなんとなくわかります。伝承とも一致するのではないかとおもいます。

そして、城山を下って周囲を歩いていると「皇子が膝」という案内表示を見つける。


案内表示によれば、義良親王が滞留している間、島民はここから漁に出入港する際、膝まづいていたことからそう呼ばれるようになったとか。相当な崇敬の対象となっていたのですね。

なお、もう一つ「帝井(みかどい)」というものも、少し離れた場所にあります。


義良親王が滞留した折に飲料水として献上した水の井戸だそうです。今も水をたたえており、岩壁は往時のままだとか。
海に囲まれた島にこれだけ豊富な水量の井戸がある、ということも貴重ですね。だからこそ、10年くらい前の調査で人口密度が日本でも一位の島と言われただけの人口を養えるのかもしれません。

なんにせよ、初めて篠島行きしたが、なかなか味わい深いところです。
大人の篠島。
そんな感じがしました。

命がけとなった名古屋城の石垣採石地 in 篠島

2015年10月13日 | 
篠島には名古屋城の石垣の採石地で、あちこちに矢穴と呼ばれる石を切り出すための跡がある石が残っている、と、いう情報を知る。


まして、加藤清正が立派な石をみつけたものの重すぎて運べない石があって、清正の枕石と名付けられているとか。
これはすごいと1人で興奮する。

まず向かった先は石垣採石地。
船着き場からは徒歩25分と一番遠い方にあると言える。

途中、神明神社や八王子社の式年遷宮奉祝祭の大名行列などを眺めた後、歩いて行くと看板が。


看板によれば現在までに篠島本島、離島を含めて35箇所、約200の石垣として使われなかった石が確認されているとのこと。

篠島は日間賀島や佐久島と違い、中央構造線で隔てられて領家帯花崗岩からなる島だとか。花崗岩は硬くて利用しやすく、石垣だの一里塚だのによく使われるとか。墓石などに使われる御影石という別称の方が自分には馴染み深い。(このあたりはウィキペディア情報。)

採石地はの看板は親切すぎるくらいわかりやすい。

※迷う人が多いのか?

立派な足場が組まれており歩きやすいのですが、この日は雨。足元が滑りやすいので注意して歩く。

※この画像だけだととんでもない場所のように思える。

すると弁財採石地に大きな石に矢穴が確認できる。


石を切り出すには、割りたい部分に上記のような矢穴と呼ばれる穴を開け、たがねなどを突っ込んだ状態で火を焚き、その後水で急速に冷やすことで割っていたとか。そのため、試したもののうまく割れなかったりしてこうした後が残るのです。名古屋城の石垣などでも、こうした矢穴跡は確認できます。

なお、運ぶ途中に落ちた石は「城が落ちる」という言葉を連想させるので、利用されなかったとか。

なかなかの巨石を見つつ、石を運んだ道、という看板に沿って進もうとするも、木々が繁って進む気にならないので断念。


石もすごいですが、足場もすごい。


その後、清正の枕石を目指す。
事前のネット情報では、運び出せずに残念がった清正が寝転んで枕代わりにした、という記述と寝転んでいる人の写真を見たので是非行きたいと思う。

ネットやパンフにもバンバン載っているので簡単に行けるだろう、と、思ったのが甘かった。

え、ここを行くの?と、ひるむ。

※左側の草木の生い茂る穴の方。
※10月16日にミチタカ様からご教示があり、左側ではなく、右側の篠島小学校の門をくぐって直進し山を越えていくのが正式なルートで、こちらだと潮の干満の影響もなく安全に行けるそうです。行かれる方はご注意を。


今回は城メインの旅ではないのでレインコートなどを持ってきていない。
しかし、ここで止めては城好き失格のような気がするので進む。幸い、トレッキングシューズで来ていたので足元には不安はない。
道は整備されているのですが、雨に濡れた草木の場所を行くのは足元が滑るので要注意。こんな南国チックな場所もあるし、ここを残したのは整備した人たちのお茶目さでしょうか。期待と不安がよぎる。


無事に浜に出ることができました。
が、どこに枕石があるのか途方に暮れる。


ここから看板はない。雨で石が濡れており滑りやすそうなのは目に見えている。
幸い、雨がやんだので傘をポケットにねじ込んで歩き出す。両手を開けておかないとこうした時は危険、ということは山城探索の経験。

ここの浜の石がすごい。
地質学や石好きの人ならきっと興奮するでしょう。


しかし、結構近くまで波がざばざばと押し寄せるし、雨で足元滑るし、すごい岩場だし、なかなかの難易度。そして、枕石の場所はよくわからない。

途中に、矢穴が空いている大岩を見つけ、ここが枕石か?と、思う。


実際、ネットを見るとここが枕石と紹介しているサイトもある。
が、枕石の表示がある場所を教えてくれるサイトもあり、そことは風景が違う。
ここで撤退するか、と、思うが、もう1人の自分が「それで良いのか?」と囁く。

しばし逡巡した後、進むこととする。

誰もいないし、1人旅だし、空は鈍色の雲が漂うし、雨降りで足元は滑るし、岩の険しさもアップするし、波はすぐ足元まで押し寄せるし、崖を回り込むから先が見にくいし、と、悪条件は揃っているが好奇心が勝る。

ああ、こうして人は死んでいくのかな、とか、思う。
ネットとかでは道中の難儀については一切触れられていない。不思議だ、などと、アレコレ考えながら
進む。やはり雨降りだった、というのが一番良くなかったようです。

そして、しばらく進むと、とうとうこんなものが!


さらにコレ!


親切にわかりやすく案内看板があります。できれば、道中にも「こちら」というのがあるとありがたかった。結構、ネットの他の記事を見ると「わからない」という意見も散見する。自分と同じように不安に思って断念してしまったり、矢穴の空いた大岩を枕石と勘違いする人がでるのもわかる気がします。

なお、清正が寝転んだ写真の印象が強かったのですが、よくよく案内看板を見ると運び出したい大きな石を動かすための「枕石」をかって動かそうとしたものの動かなかった、ということらしい。


清正、寝てないようです。
では、事前に私が見たあのサイトは?と、思って確認しようとすると見つからない。
幻のサイトでも見たのか。

まぁ、念願の枕石は見たので満足する。
しかし、サスペンスドラマのエンディングで犯人が自殺しようとする場所みたい。
1人だと危ないので早々に退散する。


昔の人達は、こんな場所でよく石の切り出し、積み出し作業をしていたな、靴も無かっただろうに、と、感心しながら帰途につく。

なかなか迫力がある場所です。
季節と天候と体力とご相談の上、訪問することをお勧めします。

篠島の式年遷宮とおんべ鯛船を見に行ってきました。

2015年10月11日 | 日記
式年遷宮に湧く篠島へ行ってきました。

※奉祝祭直後の神明神社。

ここの式年遷宮は特別です。
この神明社は、伊勢神宮内宮に鎮座まします東宝殿の用材を貰い受けて作られているためです。

なので、伊勢神宮の式年遷宮が行われてから、この神明社も式年遷宮が行われることになるそうです。伊勢神宮の内宮で決して目に触れることのない場所にあった建物が見られる、という、ありがた~い場所になのです。なお、この用材は、さらに近くの八王子社の式年遷宮に利用されるそうです。
そして、今回の八王子社は、前回の式年遷宮の西宝殿だとか。

※八王子社

と、いうことは、東西揃って見ることができる、という仕組みになっているようです。
ありがたや。
今日はその奉祝祭。大名行列というのがありまして、これは、八王子社の神様が神明社に挨拶に行く、という行事だそうです。毎年正月に行われているそうですが、遷宮もあったためかやっていました。


ちなみに、今回の伊勢神宮の式年遷宮では、妻の実家が神社に関係していることから、新設する伊勢神宮の御用材を運ぶ御木曳きと神社の玉石を運ぶ御白石持ちの両行事を体験しています。

御白石持ちは、神様が御渡りになると二度と入ることができない場所に入れる特典があります。
と、いうことは、次回(20年後)の篠島神明社の式年遷宮では、私が御白石持ちで参加した時に見た建物が利用されたものになるのか、と、思うと、なんとなく歴史の重み、ありがたみを感じます。

もともと、篠島は伊勢神宮領だったので伊勢神宮の遷宮が行われると、篠島の土之宮も併せて行われていたそうです。しかし、篠島が尾張藩に領地替えされて以降、伊勢神宮式年遷宮の翌々年、御古材が下賜されて造営されるそうになったとか。(参照;篠島フェリー乗り場「篠島の御遷宮」説明案内書)

歴史を感じさせる逸話です。

そして、篠島といえばおんべ(御幣)鯛。


おんべ鯛の行事は翌日のため見られませんでした。
ちなみに、おんべ鯛の行事は毎年行われます。
伊勢神宮の大きな祭事に利用される鯛を奉納する行事です。
特に神嘗祭という神様の最大の宴会で利用される際、この鯛が神饌の中でも中央に近く置かれ、奉納品の格式の高さを現しているそうです。そんな格式高いものを奉納するとあって、誇り高き祭となっているのではないかと思います。


ちなみに、このおんべ鯛。ものっすごい塩の量で干されるため「ものすごく固い塩の塊が鯛の形をしている」と、研究者の方が評しています。(参考;『愛知県史研究』第17 伊東久之)

ところで、このおんべ鯛を奉納する際に「太一御用」の旗が立てられます。


「太一」とは唯一無二の大事な、と、いうような意味で、天照大御神を現しているようです。
この旗の下、伊勢神宮の港に入ると大歓迎を受けるとともに、他の船は遠慮して道を譲ることになるそうです。そして、この鯛を取る際も、太一御用の旗を立てるとか。そうなれば、他の村の船は漁場を譲らざるをえない。

結果的に、強力な漁業権の主張につながる訳です。
過去神宮領であった経緯に加えて、現実的な権利主張が重なった結果が、おんべ鯛の奉納、とも言えそうです。

ちなみに、愛知県史研究には面白い話が載ってまして、江戸時代、篠島のお隣の日間賀島では家康公、将軍家に干鯛を献上することを始めたそうで、丸に八の字の旗を立てて他村の漁船を追い散らしていたそうです。しかし、明治時代になって、日間賀島が同じように追い散らそうとしたら反撃を食らって、江戸時代が終わったことを痛感することになったとか。

よくよく考えても見れば、寄進地系荘園などというものを平安時代の日本史で習いますが、地元国司等の税取り立てに対抗するため、国司よりも上位の摂関家や院などに自分の土地を差し出す代わりに、国司たちが税収を取りに来れない荘園が成立した、というのを習いましたが、まさにアレの考え方に近い。

篠島の伊勢神宮、日間賀島の徳川将軍家。
では、近隣の佐久島はどうやって対抗していたのか?していなかったのか?
そこまでは調べてませんのでわかりません。

考えれば考えるほど面白い。
民俗、歴史、風習って興味がつきません。

FM豊橋さんで古宮城整備活動の告知をさせてもらいます!

2015年10月09日 | 古宮城
のんほいタウン2015年秋号がすでに出てます!


今の所、まだ、私の連載「城好きがこじれ気味」も続いております。
今回は表紙裏すぐの場所に。
さすが、同人誌的フリーペーパーを標榜して好き放題やらせてくれる雑誌だけのことはある。。。

さて、今回のテーマは4年目に入りました作手、いや新城市、いや東三河、いや愛知県、いや東海地方、いや日本的に素晴らしいと、その筋では評価が鰻登りの古宮城の清掃活動。

この内容について、今週土曜日のFM豊橋「スヤンコイトル」に、またまた出させていただいて、少し宣伝をして良いとのこと。
ありがたい限りです。

しかし、FM豊橋も好き放題やらせてくれるから、大好き。大丈夫なのか?と、心配してしまいます。
私の出囃子というか、専用ジングルまであるし。
名古屋じゃ電波は届かないもんですから、アプリをダウンロードして聞いています。鳥取城でも良好に聴けることは確認済みです。(アプリはこちらから。)

ちなみに、スヤンコイトルのパーソナリティ、モエモエさんものんほいタウンに連載してますが、奇しくも今回のテーマが道作り、草刈り。古宮城の整備活動とやる内容についてテーマが一緒。

スヤンコイトルは10時から12時まで、みっちり三河弁でモエモエさんが新城と奥三河のことだけをテーマに話し続けるコアな番組です。私は10時45分か11時00分くらいのところで出てくると思います。お暇ならぜひお聞きください。

富来城 ~暑すぎる妄想を楽しむには注意が必要~

2015年10月07日 | 落城戦記
ペトロ岐部の故郷を訪ねたところ、岐部氏の城郭が相当なものであることを発見してテンションが上がった我々は、石垣原の戦いを訪う旅を始めることとした。
石垣原の戦いとは、関ヶ原の戦いの直前に行われた別府を舞台とした戦いで、西軍石田方として旧地回復を狙う大友吉統と東軍徳川側としつつも九州制覇を目論んだと言われる黒田如水が争った戦いで九州の関ヶ原とも呼ばれます。

大友吉統は、九州の国東半島に到着し、周辺地域を制圧しようとしたところを黒田が攻撃、別府温泉のある石垣原で決戦。結果、黒田軍が勝利。黒田如水は島津征伐をしようとしたところ、関ヶ原の戦いが終了したとの連絡が届き、九州で自立を目論んだとも言われる黒田如水も戦いをやめたとか。(参考;Wikipedia)

国東半島から大分市にかけては西軍方が多く、ペトロ岐部と同じ名字の岐部氏も大友軍に従い、西軍方についています。
その西軍方の城の一つ、富来城。


石垣原の合戦時は垣見一直という秀吉配下の武将が城主。
朝鮮出兵の際に、秀吉の意向に沿って石田三成側となり、加藤清正達とは対立関係にあったそうです。
関ヶ原の戦いでは、一直は大垣城を守備し、配下の垣見理右衛門が城代として黒田如水に抵抗したものの、すでに関ヶ原で敗れていた主君からの勧告に従い開城した城とか。

ここ、「富来路(とみくじ)」として「開運ロード」として売り出しているではないか!


新城市は縁起がいいらしいまちらしく、多数あるパワースポットを巡っていた身としては気になる。

ので、富来城に立ち寄る。

と、既に遺構は相当破壊されているようで、現在は城趾公園があるのみ。


そして、ここの看板を見て我らは少々期待する。


こうした手作り系の看板がある場合、得てして、地元で熱心すぎる人が暴走した結果であること多い。
そして、地元に伝わる伝承等を調べた結果に自分の想像をMIXして『俺の史実』を語りだす。虚実ないまぜ妄想には、触れれば火傷する熱さがあり、その暑苦しさを楽しむのです。

例えば、


激戦の末、無血開城
無血開城しちゃったら、それは、激戦だったのか?

激戦で、結構な死傷者が出たとの伝承もあるようです。しかし、最後には主君の説得に応じて開城したことを言いたかったのでしょうが、筆が走り過ぎて無血開城と書いてしまったと想像されます。
そして、こうした部分が私のツボです。

後、なんとなくジブリチックな絵柄の黒田如水とか。


石垣もある、との看板に向かうとこのような石垣が。


この写真部分だけ見る限りでは、とても当時の石垣とは思えません。
他の城巡りブログを見ると、違う角度から撮った写真を見ることができ、石垣として見えるものがあります。時代や場所からいって石垣があってもおかしくない城なので否定はできませんが、少なくとも一部は後世に積まれた石垣が混在しているように見受けられました。こうした部分は、見学の際に注意が必要ではないかと思います。


※私と同様の感想を持った、妻子を騙して参加している佐渡守。

また、ありがたいことにこの看板を作った人と思われる人が作った資料が置いてある!
もう、読んでみると、色々と調べて伝えたいことが多すぎる内容で、この旅の途中、暇な時に読んでは楽しんでおりました。
裏面もあるのですが、もう、ここに至っては、NHK大河ドラマと絡めたがりすぎて、ひいきの引き倒しという感じ。『自由奔放』という表現がぴったり。
ああ、絶対この文章書いている時、この人楽しかっただろうな、と、思います。

ちなみに「2015.3.23邦前文吾」なるクレジットが記載されている。
きっと、このパンフを作った人なのだろうと思うのですが、読み方を考えたところ
「くにさきぶんご」さんなのではないかと思う。

国東半島(くにさきはんとう)
豊後国(ぶんごのくに)

きっと、この二つを合体させたペンネームなのではないかとの思いが頭をよぎる。
と、いうことは、きっとこの人、相当気合入れて活動してるな、と、邦前さんの人柄が偲ばれて、お腹一杯になりました。ここの教育委員会の人達は、かなり邦前さんの持論を聞かされているのだろうな、と、少々同情しつつ。。。

残念ながら富来城自体は、相当遺構が失われて当時のよすがを想像するしかない場所でした。


しかし、我々は、この富来の地を愛しすぎた暑すぎる思いに触れ、十分に楽しむことができました。

史実と妄想。。。
歴史好きの永遠のテーマですから。