長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

安岐城と奈多宮と速吸日女神社 ~焼くなって言うことは焼ってことですよね?~

2015年11月23日 | 落城戦記
ちょっと間が空きましたが、9月に実施された大友宗麟ツアーの様子を。

地元愛が贔屓の引き倒し気味な富来城の次に訪れたのが安岐城。


この城、私は知らなかったのですが同行者の佐渡守と団にょが「九州の関ヶ原」とも言われる「石垣原の戦い」を予習してきており、どうしても寄りたいと言った城。

関ヶ原の戦いが起こる際に西軍方として豊後に上陸してきた大友宗麟の息子義統。豊臣秀吉に取り潰された大友家の復活をかけての蜂起に東軍方となった黒田官兵衛が攻撃。別府市内の石垣原の戦いで黒田軍が勝利し大友は降伏。その際、大友軍を攻撃するため素通りしていった西軍方の城の1つがこの安岐城。

安岐港の台地上にある大規模な城ですが、現在は開発が進み隅櫓や天守台があったと想定される土塁と堀などが残っていました。

※天守台跡に立つ神社。


※安岐港を臨む。

なお、国東市教育委員会が発行している「安岐城跡」によると、南北朝時代に大友史の一族である田原氏が安岐郷へ入り居館あるいは城郭を構えたのが始まりとされており、発掘調査により三度の増改築が行われたことが確認されているそうです。

天文19年(1550年)に大友宗麟(当時は義鎮)が大友家の当主となった際に、田原親宏が安岐と国東の政所職が与えられ居館を築いたようです。
天正6年(1578年)に大友氏が島津氏に敗れ、田原氏の家督が親宏から親貫になったころ、9ヶ月に及ぶ大友対田原の戦いが勃発したころに増改築が行われたとか。結果的に親貫は討たれ、大友宗麟の次男親家が跡取りになったそうです。
最終的には文禄の役で活躍が認められた熊谷直盛が1万5千石で安岐城主となり、大規模に改修をしたようです。

関ヶ原の戦いの際、当主の直盛は大垣におり結果的に殺害されます。
留守を守った伯父の熊谷外記が城を守り、黒田軍の攻撃により援軍のあてもなく黒田軍の呼びかけもあり投降した城です。

城を偲ぶよすがも少なく、まぁ、戦国時代の逸話の残る場所に行けてよかった、という感じであっさりと終わりました。

その後、どうしても団にょが行きたいという奈多宮へ。
なんでそんなに行きたいのか、と、聞くと

「だって、紹忍の実家だよ。」
とのこと。

田原紹忍は信長の野望をやっていれば名前くらいは知っています。
が、なにがそんなに団にょを惹きつけるのか、その理由がわからない、と、問うと、

紹忍のね、ダメっぷりがすごすぎて堪らない。
とのこと。

○妹が大友宗麟の妻なので大友家の宿老になるが、その前の宿老の立花道雪からはあいつを宿老にしてはいかんと言われていた。
○その奥さんを宗麟は嫌ってたみたい。
○でもなぜか宗麟は紹忍を気に入ったみたいで、大友家中で権勢を振るうことに。でも、宗麟の代理で戦った耳川の戦いでは軍勢の統制が取れず大敗。大友家衰退のきっかけを作ってしまう。
○そんな大敗を喫しながら、ほとぼりが冷めるまで帰らず、数ヶ月経ってから突然大友家中に復帰。何食わぬ顔で宿老を続ける。
○大友家が秀吉に取り潰された後、中川家に客将として世話になったにもかかわらず、大友義統が関ヶ原の戦いの際、大友家再興のために九州で挙兵すると中川家の旗を盗んで石田三成側として働いたために、黒田官兵衛が石垣原の戦いの際に中川家の旗を敵方に見て中川家が裏切ったと思ってしまったため、恩人である中川家を苦境に陥れる。
○中川家の疑惑を晴らすため速吸日女神社を攻めることとなった際、絶対に敵に回すな、味方につけろ、と、言われていたにも関わらず、神社に火をつけて敵に回してしまった。

さすがに、これだけの逸話を聞かされると、
「なぜ、そんなにダメっぷりがすごいのに重要な役回りを演じ続けることができたんだ。」
と、逆に驚嘆してしまう。

あまりのことに我々は、彼の実家を見ずにはいられなくなった。


※奈多宮

目の前は素敵な海岸。


とりあえずお参りする。


静かで訪う人も少なく、ここで静かに一生を終えた方が幸せだったんじゃないか、紹忍よ、と、思ったりする。あまり紹忍についても記載はなく、「静かにしておいてくれ。」と、いう感じでした。



ちなみに、田原紹忍が
「焼くなよ、焼くなよ。」と、言われて
「焼くなってことは、焼ってことかと思いました。」
と、ダチョウ倶楽部並みの言葉を吐いたであろう速吸日女神社は翌朝訪れることになりますが、併せてご紹介。



タコが吸い付いていた宝剣を取り上げて奉納したことで、この変わった名前の神社の由来とか。
案内板には「兵火により社殿、宝物一切を焼失」とかかれていますが、これが紹忍の所業かと盛り上がる一同。

※案内板

消失した社殿は、ここが肥後藩の飛び地となったことで加藤清正や細川家により再興され、現在の立派な社殿となっているそうです。


なお、この旅の3日目に団にょは体調が悪くなり、
「紹忍をおちょくって話した呪いの気がする。」
と、必死に心の中で「ごめん紹忍」と謝っていたとか。

先ほどの紹忍の所業の数々ですが、紹忍に同情すべき余地のあるものもあるらしいです。
と、私も紹忍の呪いに遭ってしまうと嫌なのでフォローを・・・。

篠島城は愛知県内唯一の島にある城だった。

2015年10月14日 | 落城戦記
篠島を巡る旅で最大の目的だったのが篠島城。


事前のネット情報によれば、篠島には愛知県内唯一の城があるという。
本当かと思って「愛知県中世城館跡調査報告」全4冊を調べてみると、確かに城としての分類で掲載されているのは篠島だけ!

日間賀島にも一応城と思われる史跡があるようですが、参考地扱い。
城としての登録があるのは篠島城だけでした。

これは貴重だ。
もっとも読んでみると室町時代の城としての伝承が残っており、城としてのマニアックな見所があるわけではなさそう。しかし、県内唯一の島の城と言われると向かわざるをえないのが城オタクの性(さが)。

この城のいわれですが、建武の新政の後、吉野に立て籠もった後醍醐天皇は巻き返しを図るために皇子を各地に派遣して地方から勢力を盛り返そうとします。

そこで、宗良親王と義良親王の2人を北畠氏をつけて東北に派遣しようとします。
しかし、途中で嵐に遭い難破。

義良親王は伊勢に、宗良親王は遠江に漂着します。
義良親王は伊勢にしばらく滞在したのち、後醍醐天皇に呼び戻され後村上天皇として即位し、南朝勢力の代表者となります。

実はこの義良親王が漂着したのが篠島なのです。

ん?

伊勢でしょ?
と、いう疑問があるのですが、篠島は伊勢に属していた時期が長いのです。尾張藩になったときに領地替えで尾張藩に組み込まれているため、当時は伊勢。伊勢に漂着したというのは間違いではないのです。

そして、突然の貴人の来訪に驚いた村人は篠島城を築いて滞在していただいた、ということのようです。
このとき遠江に漂流した宗良親王は、井伊谷に身を寄せ信州まで落ち延び、三遠南信地方を南朝勢力として掌握します。

おお。なんか篠島と奥三河というか三遠南信繋がってるじゃん!と、感動。
そうした航路があった、ということが推測できます。

さて、その篠島城。


現在は城山と呼ばれていたりするようです。そして金比羅様が鎮座まします。


それ以外にも色々な祠が乱立しており、なんとなく異次元空間のような、神聖な侵すべからず的な雰囲気を醸し出していました。


※城山水神天狗、って、天狗を祀っているのですかね?!

残念ながら神社等を作ったり、近隣に家屋が立つ際に削られたり、草木が生い茂っていたりで、遺構らしきものは確認できませんでした。

ただ、地元での崇敬を受けている場所であることはなんとなくわかります。伝承とも一致するのではないかとおもいます。

そして、城山を下って周囲を歩いていると「皇子が膝」という案内表示を見つける。


案内表示によれば、義良親王が滞留している間、島民はここから漁に出入港する際、膝まづいていたことからそう呼ばれるようになったとか。相当な崇敬の対象となっていたのですね。

なお、もう一つ「帝井(みかどい)」というものも、少し離れた場所にあります。


義良親王が滞留した折に飲料水として献上した水の井戸だそうです。今も水をたたえており、岩壁は往時のままだとか。
海に囲まれた島にこれだけ豊富な水量の井戸がある、ということも貴重ですね。だからこそ、10年くらい前の調査で人口密度が日本でも一位の島と言われただけの人口を養えるのかもしれません。

なんにせよ、初めて篠島行きしたが、なかなか味わい深いところです。
大人の篠島。
そんな感じがしました。

富来城 ~暑すぎる妄想を楽しむには注意が必要~

2015年10月07日 | 落城戦記
ペトロ岐部の故郷を訪ねたところ、岐部氏の城郭が相当なものであることを発見してテンションが上がった我々は、石垣原の戦いを訪う旅を始めることとした。
石垣原の戦いとは、関ヶ原の戦いの直前に行われた別府を舞台とした戦いで、西軍石田方として旧地回復を狙う大友吉統と東軍徳川側としつつも九州制覇を目論んだと言われる黒田如水が争った戦いで九州の関ヶ原とも呼ばれます。

大友吉統は、九州の国東半島に到着し、周辺地域を制圧しようとしたところを黒田が攻撃、別府温泉のある石垣原で決戦。結果、黒田軍が勝利。黒田如水は島津征伐をしようとしたところ、関ヶ原の戦いが終了したとの連絡が届き、九州で自立を目論んだとも言われる黒田如水も戦いをやめたとか。(参考;Wikipedia)

国東半島から大分市にかけては西軍方が多く、ペトロ岐部と同じ名字の岐部氏も大友軍に従い、西軍方についています。
その西軍方の城の一つ、富来城。


石垣原の合戦時は垣見一直という秀吉配下の武将が城主。
朝鮮出兵の際に、秀吉の意向に沿って石田三成側となり、加藤清正達とは対立関係にあったそうです。
関ヶ原の戦いでは、一直は大垣城を守備し、配下の垣見理右衛門が城代として黒田如水に抵抗したものの、すでに関ヶ原で敗れていた主君からの勧告に従い開城した城とか。

ここ、「富来路(とみくじ)」として「開運ロード」として売り出しているではないか!


新城市は縁起がいいらしいまちらしく、多数あるパワースポットを巡っていた身としては気になる。

ので、富来城に立ち寄る。

と、既に遺構は相当破壊されているようで、現在は城趾公園があるのみ。


そして、ここの看板を見て我らは少々期待する。


こうした手作り系の看板がある場合、得てして、地元で熱心すぎる人が暴走した結果であること多い。
そして、地元に伝わる伝承等を調べた結果に自分の想像をMIXして『俺の史実』を語りだす。虚実ないまぜ妄想には、触れれば火傷する熱さがあり、その暑苦しさを楽しむのです。

例えば、


激戦の末、無血開城
無血開城しちゃったら、それは、激戦だったのか?

激戦で、結構な死傷者が出たとの伝承もあるようです。しかし、最後には主君の説得に応じて開城したことを言いたかったのでしょうが、筆が走り過ぎて無血開城と書いてしまったと想像されます。
そして、こうした部分が私のツボです。

後、なんとなくジブリチックな絵柄の黒田如水とか。


石垣もある、との看板に向かうとこのような石垣が。


この写真部分だけ見る限りでは、とても当時の石垣とは思えません。
他の城巡りブログを見ると、違う角度から撮った写真を見ることができ、石垣として見えるものがあります。時代や場所からいって石垣があってもおかしくない城なので否定はできませんが、少なくとも一部は後世に積まれた石垣が混在しているように見受けられました。こうした部分は、見学の際に注意が必要ではないかと思います。


※私と同様の感想を持った、妻子を騙して参加している佐渡守。

また、ありがたいことにこの看板を作った人と思われる人が作った資料が置いてある!
もう、読んでみると、色々と調べて伝えたいことが多すぎる内容で、この旅の途中、暇な時に読んでは楽しんでおりました。
裏面もあるのですが、もう、ここに至っては、NHK大河ドラマと絡めたがりすぎて、ひいきの引き倒しという感じ。『自由奔放』という表現がぴったり。
ああ、絶対この文章書いている時、この人楽しかっただろうな、と、思います。

ちなみに「2015.3.23邦前文吾」なるクレジットが記載されている。
きっと、このパンフを作った人なのだろうと思うのですが、読み方を考えたところ
「くにさきぶんご」さんなのではないかと思う。

国東半島(くにさきはんとう)
豊後国(ぶんごのくに)

きっと、この二つを合体させたペンネームなのではないかとの思いが頭をよぎる。
と、いうことは、きっとこの人、相当気合入れて活動してるな、と、邦前さんの人柄が偲ばれて、お腹一杯になりました。ここの教育委員会の人達は、かなり邦前さんの持論を聞かされているのだろうな、と、少々同情しつつ。。。

残念ながら富来城自体は、相当遺構が失われて当時のよすがを想像するしかない場所でした。


しかし、我々は、この富来の地を愛しすぎた暑すぎる思いに触れ、十分に楽しむことができました。

史実と妄想。。。
歴史好きの永遠のテーマですから。

岐部城 ペトロ岐部の故郷 ~中年男4人旅 in 豊後 その1~

2015年09月26日 | 落城戦記
毎年開催される中年男4人の城旅。
今年は豊後。

常ならば飛行機で飛んで、と、なるところなのですが今年は一味ちがう。
神戸からフェリーに乗って豊後入りすることに。当初は関ヶ原で負けた島津を体験しよう、という紀伊守の提案で大阪南港から出港する予定でしたがチケットが取れず、神戸から大分市入りすることに。

時間があったので新幹線を使わずに金山から芦屋まで新快速を乗り継いでの旅。
ちなみに4千円でした。安い。
神戸からは国内フェリー旅行。初めての経験です。


4人一組だと1室を取ることもできる。
船内には大浴場もあって快適。
夜景を見ながら「島津義弘もこの辺りだと、一息ついているあたりかね?」だの「ちょっとでも舟が見えると「敵?!」と、怯えることだろうよ。」と、付近のカップルの振る舞いを遠慮のない視線で眺めるオッサン4人で島津義弘の心境をひとしきり皆で楽しんだ後、ベットに横たわると船の揺れもあって爆睡。
この揺れが慣れない人もいるようですが、私にはちょうど良い揺り籠のよう。
翌朝目が覚めると5時半。ジジィなので眼が覚めるのが最近早い。
折角なので日の出をみようとデッキに。すると、他のメンバーもやってくる。流石同年代。一緒にジジィになりつつあるのがよくわかる。

※日本の夜明けぜよ!と叫びたくなるが、それとはちがう場所へ。

船上でGPSの場所を表示させるとこんな感じに。


この歳になると時間をかける、ということが最高の贅沢に感じます。
さて、大分に上陸して駅までのバスに乗ろうとすると、妻子を騙して参加する佐渡守が気づく。

メガネがない!

妻子を騙した報いか。
聞けば最近買い直したばかりのメガネだそうで、それを無くしたとなると妻の詮索が厳しくなってしまい、奈良の大学のスクーリングに通っているという嘘が破綻してしまう可能性が。
慌てて船内に戻る佐渡守。
幸い見つかりました。

さて、北へ向かうか南へ向かうか。
まずは私が前から見たいと言っていた「ペトロ岐部」関連施設に。

ペトロ岐部とは?

※ペトロ・カスイ・岐部記念公園にある銅像。

戦国時代に歩いてローマまで行き、最後は凄絶な殉教を遂げるキリスト教徒です。
天正15年(1588年)の豊臣秀吉によるキリスト教禁教令が出た年に国東半島に父母がキリスト教徒の産まれます。その後、主君大友吉統が石垣原の戦いで敗れ浪人となった一家は長崎へ行き、有馬で司祭になるべく修行するも弾圧が激しくなり、慶長20年(1615年)にマカオへ渡航。しかし、マカオでは修行が進まないと見た岐部は総本山のローマを目指します。そのため、インドのゴアへ船で向かい、さらにゴアからは一人陸路でローマを目指します。途中エルサレムにも立ち寄ったようです。この辺りの記録がないそうですが、どうにかこうにかでゴアからエルサレムへの横断に成功。エルサレムからは船でローマに向かい、浮浪者のような姿で到着したようです。
そして、遠く日本から途中陸路を使ってエルサレムにも立ち寄りローマまでやってきた無謀な冒険野郎の強烈な情熱にイエズス会も共感したようで、ローマで岐部は修行を積み司祭となります。
しかし、日本での布教の意欲に燃える岐部は、殉教覚悟で帰国。
寛永7年(1630年)7月に日本に到着し、仙台に向かったようです。伊達家は比較的キリスト教に穏やかだったことが理由のようです。が、幕府の禁教令の締め付けが厳しくなり伊達家も取り締まりが強化。密告を奨励したことから岐部も捕らえられ、江戸に送られます。
寛永16年(1638年)に幕府のキリシタン奉行井上筑後守の取り調べが始まりました。

※ペトロ岐部を詮議する井上筑後守の銅像。(記念公園内)

どうも、この井上奉行、極度のサディストのようで、とんでもない拷問を繰り返していたようです。
肉体的だけでなく精神的にも追い詰めるタイプのようで、数々の有名キリシタンを転ばして(転教)させていました。

ペトロ岐部は、まず穴吊るしの刑に処せられます。


まず、逆さに吊るします。すると、頭に血が行き目鼻をふさいでしまい窒息死してしまうので、それでは拷問にならないため耳に穴を開けて血が少し抜けるようにします。そして、首から頭を地中に掘った穴の中に入れ、首だけ入るようにした板を填め込みます。
真っ暗な地中に首だけ入れて、逆さに吊るされることで肉体的だけでなく精神的にも不安で追い詰められるようで、岐部と一緒に穴吊りにされた2人は転びます。
しかし、岐部だけは全く動じず、それどころか残る2人を励ます始末に呆れた井上筑後守は、岐部を穴から引き出し、地面に寝かせた岐部の腹の上に火のついた薪を置くという火あぶりにします。
それでも転ばない岐部は、とうとう腸が体外に出てしまうという凄絶な状況になりながらも棄教せず、そのまま殉教してしまいました。
そして、平成20年(2008年)に、ペトロ岐部はキリスト教の「福者」に列せられました。

ペトロ岐部の話を聞いて、あまりの凄さに「一体、どんな奴なんだ?」という興味だけから、わざわざ名古屋から国東半島の資料館を目指した我々。彼の生まれ故郷は静かな街でした。


ひとりきり資料館の中を見学した後、どうも、資料館の隣の山が城らしいと判明する。
城に情熱があるのが私と佐渡守であるため、2人で向かう。紀伊と珠光は資料館2階の畳の部屋でまったりと待つことに。

どうも、ペトロ岐部は岐部地区の領主の息子のようでして、岐部屋敷とその詰めの城に該当する岐部城がある場所で産まれたようです。

公園として整備されているようで、すでに道も整備されていることから、あまり期待せずに登る佐渡と私。

※この石垣は近年のものだろうと推測。

ところが、ここで我々は驚愕の城郭遺構を発見することになる。


ものすごい堀切が登場!
写真では伝わりづらいもどかしさ。
かなり掘り下げた人工的な堀切に興奮する佐渡と私。思わず
「うぉぉぉぉぉぉ!なんじゃこりゃあああ!」
「スゲー、こりゃスゲー!なんじゃこれぇ!」
と絶叫。

しかも、この堀切が連続して登場するのですよ。


この深さ、そしてこの広さ!
相当な意図を持たねばこんな堀切は作らない。しかもこれが4つくらい連続している。
あきらかに尾根筋を登ってくる敵を遮断するために尾根を人工的に分断しています。虎口的な遺構は確認できませんでしたが、これだけ巨大なものだと、戦国でも末期の時代のものでしょう。大友氏と島津氏の戦いのあたりか、その後の石垣原の戦いで黒田官兵衛の軍勢を迎え撃つための岐部氏の城であれば、時期的にも一致するのではないかと思います。

そして遮断遺構とは反対側には尾根の末端がありますが、ここからは綺麗に海が見えます。
きっと、海上からの敵も想定していたでしょうし、岐部氏自身も水軍的な性格があったかもしれません。

なんにせよ、ペトロ岐部を見られれば、それだけで満足だったにもかかわらず、ものすごい城を見ることができたという、一粒で2度美味しい場所。

その後、近くの道の駅でたこ飯を買って食べましたが、タコが柔らかくて絶品でした。


幸先の良いスタートを切ったこの旅。
報告はまだまだ続きます。

竹田城 ~ 40代からの弾丸一人旅 in 山陰 ~

2015年08月05日 | 落城戦記
天空の城として近年大人気の竹田城。
日本のマチュピチュとも言われています。


城が一過性のブームではなく観光目的となったことを象徴する城に思えます。
なにせ、この城には天守がない。建物がない。石垣のみ。でも、大量の人々が押し寄せると。城にさして興味がない人から「こないだ竹田城へ行ってきてね。」という話をよく聞くのです。

これだけ城が好きと公言している私がまだ未制覇。。。

姫路城、熊本城、竹田城は、観光ルート化されており、結構多くの人が行っているにも関わらず、城好きを公言する自分が行ってないことに、いつしかコンプレックスを抱いておりました。
『いつかはクラウン』的に大事に取っておきすぎた城なのです。

鳥取城から名古屋への帰路に位置し、宿泊地の城崎温泉からも近い。
こんなチャンスはない。己の引け目を解消するまたとないチャンス!

大人気だと聞くので早朝を狙い、6時起きで出発。
年間数万人だった観光客がマチュピチュとか天空の城とかの売り込みで人気大爆発。年間数十万人に膨れ上がった城だけに、じっくり見学するためには工夫が必要と考える。

城崎温泉から山沿いの道を気持ちよく走り、9時頃に麓の道の駅に到着する。
すでに第1便のバスが出立して、30分後に第2便がでるという。タクシーでも行けるということだが、歩いても30分程度と聞く。ほんなら歩いて行くべし。


道は太閤ヶ平のときと同じく既に舗装がされており歩きやすい。この道はバスと観光タクシーのみが走れるそうです。
テクテクと歩き続けていくと石垣っぽいものが見えてくる。いやが上でもテンションがあがる。


たまに降りてくる人とすれ違う。
その人たちの表情を見ていると、なんとなく暗い。
城好き、という感じの人達ではないように見受けられる。

そこで推測。

①無理やり城好きの彼(旦那)に付き合わされて登ったものの、見所がわからず一人だけ先に下山することとした。
②今、話題の場所だから行ってみたが、何が良いのかよくわからず、あっという間に見終えてしまい、バスの時間がかなりあるので歩いて帰ることとした。

竹田城は案外ハードルが高い城だと思っていたのです。石垣と縄張りの妙を楽しむ城なので、それなりの知識がないと楽しさがわかりにくい。なのに大型バスが連なって大挙して観光客が押し寄せる、という事態になんとなく違和感を感じていたのです。

と、そんなことを考えながら歩いていくとバスの降車場が。
そして、ここからは、全ての人が歩いていかねばならないようです。


車で行ける道と違い斜度が増す。舗装はされているので歩くに不便はないのですが、結構な斜度だなと思いながら歩いていく。果たしてこの斜度を名古屋城などの観光系の城と同じ感覚で訪れた人は結構後悔するんじゃないだろうか、と、思いながら歩くに。


まぁ、丁度朝飯前の運動としていい程度なのですが、シャツは汗ばんだ状態で到着。
案内看板を見て興奮する。


この山の頂上を要塞化したような三方に睨みを利かす造り!
素晴らしい!

目の前に現れるこの石の光景。この有無を言わさぬ迫力は一見の価値あり。

もっとも、この城は最初から石造りであった訳ではなく、土の城から石垣化されたようです。
和田山観光協会作成の『国史跡 竹田城跡』によると永享三年(1431年)に山名宗全が造らせたようです。山名四天王と呼ばれる重臣のひとり太田垣氏の光継が13年もかけて作ったそうです。嘉吉三年(1443年)に土塁の城が完成し、太田垣氏が守っていたようです。羽柴秀吉が織田の部将として進出してきた際、元々尼子氏をめぐって同盟関係にあった毛利と山名は連携して織田に対抗したようですが、わずか3日で落城したようです。そして羽柴秀吉の弟秀長が城を改築しこの際に石垣の要塞化が図られた様子。その後、桑山重晴が入城し、最後は赤松廣秀が城主で廃城となったそうです。

近くに生野銀山があったことが極度の要塞化を招いたようです。

この城に入って連続する枡形虎口を体験すると、なんか秀吉っぽい、と、感じる。
この感覚は名護屋城でもあったぞ。と。秀吉の作る城は、なんとなくですが城の入り口である虎口に侵入する前に180度のターンをさせ、攻撃導線を伸ばしていることが多いように感じます。城に入るときに一本突き出た石垣をぐるっと回らさせられる感じです。


折れの連続で迷路が連続する感も城の置かれた緊張状態を現しているようにかんじます。


そして石垣の城としての凄みを感じたのがここ。


遠景だとこの写真。


ちょっとわかりにくいのですが上の写真の左側の中程から伸びる城の道なんですが、ものすごい斜度の絶壁に造られています。土だと崩れてしまうようなところを石垣で補強している。石垣によって、より城の作りが作り手の意図通りになっていく感があります。

まさに芸術作品と言って良いかと。

と、個人的にへー、ほー、ふーんと歩いていると別のグループが。

話の内容を盗み聞きしていると写真の愛好家の集団のようです。なるほど。
城そのものにはあまり興味が無い様子。

観光客が増えるということは、こういう城には興味が無い客層が増えるということなんだな、と、改めて実感する。

そして、天守があった本丸は立ち入り禁止になっている。


まぁ、承知の上で来たのですが、なんとも無念。
ボランティアガイドの方にお聞きしたところ、あまりに人が来すぎて生えていた草が踏まれてなくなり、土が露出した状態に雨が降ったところ土が流れて石垣が崩落する危険が発生したため、やむなく立ち入り禁止にしたそうです。

実際、この写真にありますように通路部分には黒い養生シートがずっと被せられていました。


その昔、本丸の石を400個くらい直すのに数千万円かかったとお聞きしました。
いやー、維持費がかかる!
そりゃ入場料取るのも仕方ないわ、と、納得。むしろ取るべきだわ、と、思う。

足助城も木を切って土の剥き出しで展示していたら土が崩れたと聞いたことがあります。
新城市の名城古宮城は木が生えており見通しは悪いのですが、その分、雨による土の崩落が防がれている、と、作手山城案内人の原田純一氏が述べておられるように、城にとって土が剥き出しになるということは、かなり保存のうえでマイナスになるのだな、と、改めて実感。

そもそも城は崩れたりすることは普通にあったようで、その都度付近住民がかり出されて修繕に当たっていたわけです。現在でも見やすいように木を切り草を刈った状態で人が殺到すれば土が痛むし雨にも晒されて城が壊れるのは当たり前なわけですね。

保存と観光とのバランスについて改めて考えさせられました。

そして、ボランティアガイドの方に最後の山道、舗装されて整備されているとはいえ結構きついですよね、と、話を振ってみたところ、山城ですので当然厳しい傾斜があるのですが、観光名所となったのでハイヒールの女性や老人が姫路城のような平城の感覚で訪れるので途中で断念せざるを得ないことも多いとお聞きしました。

だよねぇ、週3から4、朝に4km走ってる自分でも汗ばむ斜度。夏の暑いさなかに訪れれば木が無いだけに直射日光を遮るものもなく飲み物も売ってないので、結構ヤバい。今後訪れることを検討されている方は十分な準備を。


しかしまぁ、この城、本当に素晴らしい。

石垣で急斜面と狭い道、そして複雑に折れ曲がる通路によって山上の要塞と化している竹田城。間違いなく名城です。
建物はなくても感動する城がある。
それをまさに現している城と言えます。城が一過性のブームで終わらないのは、こうした城がクローズアップされていることからも伺えます。



本丸部分の立ち入り禁止が一刻でも早く解除され、縄張りの素晴らしさを堪能できる貴重な観光名所として輝き続けていただきたいものです。

鳥取城 ~40代からの弾丸一人旅 in 鳥取 その2~

2015年07月21日 | 落城戦記
『日本二ツ之御弓矢境』で城兵を助けるために切腹した吉川経家。


織田、毛利という当時の日本を代表する二大勢力の狭間で、兵糧攻めにより凄惨な状況が現れる中、城兵をよく統率して200日に及ぶ籠城を耐え抜いたという日本史の現場を見てみたい。

と、いう理由で今回の旅の最重点項目となった鳥取城。
太閤ヶ平(たいこうがなる)という秀吉本陣から山伝いに鳥取城を目指します。


道中、秀吉側が築いた土塁があるらしい、のだが、とても確認できるような状況では無い。

結構な険しさの道が続くのと草が生い茂っているので、下手に横道にそれると崖下に転落、あるいは来た道がわからず遭難、と、いうことにもなりかねない。


完全にトレイルランのコース状態。しかも前日までの雨でぬかるんでいるというおまけ付き。
前までならば死にそうになっていたのですが、この時までにダイエットと早朝ランニングを行っていたおかげで、楽勝とまではいかないものの、従来のように必死の形相で道を行く必要が無い。何と言っても、腿の筋力に余裕がある。これはありがたい。
と、言っても、そこは中国自然歩道。容易な道ではありませんでした。


こんなところを甲冑着て合戦するなんて正気の沙汰では無いな、と、実感。
籠城戦と言われる羽柴秀吉による鳥取城攻めですが、自分の移動している尾根筋上では小規模な戦闘が繰り返されていたそうです。

途中、草木が生い茂って『あれ?この道で大丈夫か ?」と、一瞬肝を冷やすような道を鳥取市歴史博物館で入手したパンフレットを頼りに歩き続ける。太閤ヶ平では人とよくすれ違いましたが、この道では誰一人すれ違う人はいない。やってくるとしたら野生動物しかない。熊でも来られたらやなので、鳴り響くのは三河弁。iPadでFM豊橋のスヤンコイトルを大音量で鳴らしながら歩く。藤本さんだのモエモエだののトークを聞きながら歩くのは疲労が減る。しかし、鳥取城で三河弁が聞けるとは便利な世の中になったものじゃ、秀吉もびっくりじゃ、などと独り言を言ってみる。

咳しても一人。

独り言を言っても一人。

気儘な一人旅だから構わない。が、途中で暑いはずなのに一瞬鳥肌が立つ。
空気が変わった感じがする。と、地図で確かめると秀吉陣地内から鳥取城内に入っている。ひょっとして、このあたりに避難してきた住民が
『とりわけ頭味わい宜しきとみえ』
と、いう、例の人の頭を奪い合う光景を秀吉軍に見せてしまったあたりではないか?と、いう思いがチラリと横切る。
どの辺りで繰り広げたかはよくわからないので、私の勝手な思い込みにすぎないのですが、なぜだかヒヤリとする場所があったのは確かです。たまに陰惨な光景があった場所を訪れた際に感じる奴です。

と、そんなこんなで、数十分のことだと思うのですが、ひどく長く感じていると、こんな物が目に飛び込んでくる。


石垣!
中世的な感じを受ける、宮部継潤が作った時代の奴ではないか、などと考える。
ここは、外神砦(十神砦)と呼ばれる場所で、関ヶ原の戦いの時などに亀井琉球守の軍勢を退けたり、山中鹿之介がやはり撃退されたりと、鳥取城を守る上で重要なポイントのようです。

そりゃそうでしょう。

ここに来るまでに尾根を結構上下させられてキッツイところを、急に登っていった先に、城郭機能を作られた日にゃ対応できませんわ、と、息を切らしながら思う。


※こんな虎口が。

しかも、まだ、鳥取城の山上ノ丸には到着していない。
どえらい険しい城だのん、と、三河弁で根を上げてみる。

根を上げても一人。

一人旅はくどくなる。なにせ本厄のおっさんですから。

そこからきつい斜度を登っていくと、とうとう出てきた鳥取城山上ノ丸!


こんな立派な石垣造りの虎口ががお出迎えしてくれれば、こちらの疲労も吹っ飛びます。
ちなみに、この日は朝食を取らずに登っているため、まさに、朝飯前。

要所要所に石垣が使ってある、というところが、なんとなく秀吉時代の城っぽい。
高さがそんなにないのも西国チック。造りそのものは、連郭式で虎口が石垣化されているという感じです。ただ、急斜面なのと足場の良い場所がすくない、ということで、なかなか攻めにくい感じがします。竪堀が縄張図で確認できないのも頷ける。敵が斜面を移動することを想定する必要があまりなく、城の入り口を防御すれば十分かと。石垣化は吉川時代ではなく、その後の宮部時代からその次の池田時代に行われたようです。

そして、三ノ丸、二ノ丸下の道を移動していくと、忽然と現れる立派な石垣!

※興奮するしかない。

こんな石垣をこんな山頂によく作ったな、と。
ちなみに山上ノ丸はこんな感じ。


ここで発見。


やっぱりな、と、思うと同時に、麓に書いておいてくれないと、登って来る途中で遭遇しちゃうじゃん、たまたますれ違う人すれ違う人、皆ラジオ付けてるから、熊がいるだろうと推定できたから良いものの、と、苦笑。

ようやく本丸に到着しますが、あまりの立派さに感動。
吉川時代に石垣があったかどうかはよくわかりませんが、現在目にする石垣は無かろう。
※涙目になるくらい立派な石垣。疲れが吹っ飛ぶ。

感動のあまり「すげー!こりゃすげー!」と大声で叫ぶ。
が、誰もいないと思った本丸にに登ると、人がいた・・・。
恥ずかしい。
今まで誰にも会わなかったのに。。。まぁ、鳥取城だけを登ってきた人がいるのでしょう。

本丸からの眺めは別格。
それまで木々に遮られてよく見えなかったのですが、鳥取市内が一望できます。


残念ながら曇ってよく見えない。
反対側は海もよく見て鳥取砂丘も。


正直、籠城戦の間、羽柴勢にぐるっと囲まれているのも一望できるわけです。
援軍も撃破されたことがあるようですので、絶望に追い込まれていった光景だったのかもしれません。平和な時代に呑気に眺められる幸せ。

天守台もあります。


だいぶ草が生い繁り、石垣が崩れている部分もありますが、宮部時代の石垣を池田氏が拡張した部分が伺えます。

天守台の上も広い。


日の本にかくれなき名山と言われる久松山。
確かにこの上に立てば鳥取平野や日本海が一望できて領主の城としてはぴったりだと思います。

この城で、山名禅高が家臣に追放されて、呼び込まれた吉川経家が切腹したのかと思うと感慨深い。まさに歴史の舞台にやってきた、という、この感動。
一人で名古屋から早朝発で車運転して来ただけのことはある。

戦闘の城から権威の城へと変貌したのも仲々珍しい。
そういう意味では、城としても、歴史の現場としても、二つの意味で楽しめる城です。

そして、いよいよこの過酷なトレイルランも終盤に。
城を下り、麓の近世城郭としての鳥取城を見学に向かう。


下りは膝に来る。
グルコサミンを膝にぶち込んでやりたい、と、思いながら、若干痛みがではじめた右膝をいたわりながら下る。

ようよう降ってくると、これがまた、なかなかの城。


完全に江戸時代の殿様の城、という感じです。
姫路を追い出されてなんだかんだで鳥取にやってきた池田氏。

もちろん祖先は小牧長久手の戦いで首を取られた池田勝入斎恒興。
一番驚いたのが、天球丸と呼ばれる郭の石垣。


何これ!

石垣が異常増殖してしまったかのような、この尋常ならざる石垣。
更にドン。


この石垣があるから天球丸と名付けられたのか、と、思ったら、さにあらず。
天球院という池田光政の伯母がいたからだそうです。その後の、この石垣が崩落しそうになり、積み直すと金がかかるからか、巻石垣と呼ばれるもので江戸時代の河川の制水施設や護岸に用いられる技術を使ったものだそうです。同時期に主要な場所は解体工事を行い、石垣を積み直していることから、安価に石垣の安定を図ったものと考えられているそうです。
ちなみに、この石垣は平成23年度、24年度の2ヶ年で復元をされたものだそうです。

山上の天守が落雷で消失したのちは、麓の三階櫓が天守に代わる象徴となったそうです。
残念ながら現在はありませんが、山陰初の層塔型の櫓だったそうです。

※現地案内看板より

全体を引きでみるとこんな感じ。


この、城と山が一体化した感じのお城って素敵。
平野部かつ徳川系の城が多い地域の人間としては、最期に抵抗するための拠点が政庁機能と一体化している城を見る機会が少ないのです。

外様大名系の城に行くと、毛利の指月城もそうですが、詰めの城と殿様が暮らす城と一体化したものを見ることがあり、違いを感じます。
なんていうんでしょうか、自分の暮らす地域と違う文化の場所に来た感が強く感じられます。

と、いう感じで鳥取城を堪能して太閤ヶ平から2時間半の道程。麓のボランティアガイドさんと話をすると、3時間位はかかるので早いねぇ、と、言われる。これもトレランの成果か。

この後、鳥取城に補給を入れようとする毛利軍を封鎖していた場所でもある鳥取砂丘を見学。


スタバは無いけど砂場はある、と、知事が言っただけのことはある。
めちゃくちゃでかい砂浜、という感じです。


今じゃスタバもあるようです。
と、ここまで来て時間が中途半端にあまる。さて、どうしたものか、と、悩んで地図をながめていると、城崎温泉が近いことに気がつく。

あの、ネズミが串刺しで川を泳がされるシーンが頭に焼き付いてしまっている城崎温泉に泊まりたい、と、おもってネットで検索すると、まぁまぁ安い宿が見つかる。午後4時に確保して泊まったりました。

夜、11時位に城崎温泉レポートをブログにアップして寝た後、隣の部屋から怪しげな声が。
ふーむ。
こうした温泉に旅館だと、このような経験をすることになるのか。子連れの旅の場合は、気をつけないといけないな、などと、考えながら、それをBGMにしながら就寝する。

一人旅は、人が多いところに泊まるものではないな、昨年の弾丸四国は車中泊だったからこのような寂しさを感じずに済んだのか、と、気づいた夜でした。

太閤ヶ平(たいこうがなる) ~40代の弾丸山陰一人旅 その1~

2015年07月12日 | 落城戦記
中世の城攻めでは、一ヶ月くらい籠城して応援がこない場合、降伏するパターンが多かったようです。そんな中、200日も籠城し、食料不足から凄惨な状況となった日本戦史上有名な戦いがあります。

鳥取城です。


攻めるは羽柴秀吉。守るは吉川経家(きっかわつねいえ)。

※吉川経家銅像と鳥取城のある久松山。

何と言ってもこの城、籠城の描写が残されており、あまりの飢餓状態から食人の話が残されています。柵際で助けてくれと叫ぶものの鉄砲で撃たれ、倒れた人を周りの人たちが寄ってたかって解体して奪い合い、「とりわけ頭(こうべ)あじわいよろしきとみえ…」と味が良いらしい頭部を奪い合う様が伝承されています。

こんな凄惨な戦いでしたが、のちに秀吉は
「三木の干し殺し、鳥取の飢え殺し」と呼んで、快心の戦いと思っていたようです。

恐ろしい。
が、その現場を一度見てみたい。

と、いうのが長年の願いでした。

厳密に言えば、鳥取城主は山名豊国(後の禅高)だったのですが、毛利氏に差し出していた人質を置いていた城が秀吉によって落城させられ、人質が織田方の手に落ちます。その人質を交渉カードに秀吉は山名の降伏を迫り、豊国は降伏。鳥取城は織田方になるのですが、殿の山名はともかく、重臣は納得していなかったようで山名豊国を追放。
豊国に代わる城将を毛利氏に要求して、やってきたのが吉川経家です。

しかし、吉川経家が来てみると大変な事態が。

前の年の秀吉との戦いで田畑が荒らされたことで、この地方は凶作に見舞われ、羽柴軍も兵糧が少ない状況だったようです。

それでも雪が降るまで頑張れば羽柴も退却せざるを得ないと思ったようですが、羽柴軍は厳重な包囲網を敷き、なおかつ、鳥取城と毛利の間の南条氏の頑強な抵抗で援軍も送れず、鳥取城は孤立。
「とりわけ」の事態が発生したようです。それでも200日の籠城に耐えた吉川ですが、最後は自分の命と引き換えに城内に籠る人々の命を助けようとします。

この時に経家が子供達にあてた手紙が残っておりますが、もう、同じ年頃と思われる子供を持つ親としては涙なしには読めません。(年取って涙脆くなってます。)

と、いう状況の鳥取城攻め。
どんなところで行われたのか、実に興味深い。

まずは、包囲した羽柴方の陣地へ。


麓の東照宮から登り始めます。
舗装した道が続くので楽。朝の10時に登り始めましたが、朝の散歩帰りと思われる人達と大量にすれ違いました。道が整備されているので急傾斜もなく、ちょうど負荷をかけるには良い感じ。


雨上がりで程よい涼しさ。こちらも気分良く登っていると、ふと、気づく。
やたらとラジオを鳴らしている人が多い。

よく年配の方がラジオをイヤホンではなくて音が出る状態で散歩していることが多く、いつものそれだろう、と、おもっていたのですが、その率がやたら高い。不思議に思っていると、思い当たる。

「ひょっとして、熊が出るのでは?」

一人旅。
熊に襲われ、虚しく屍を因幡の地に晒すことになっても誰も発見してもらえない。

ちょうど一人で退屈もするので、わしも何か鳴らそうと思いiPadをみると、FM豊橋のアプリが。
おお、モエモエさんの「スヤンコイトル」始まってるじゃん、と、いうことで、因幡の地に、どすごい三河弁を鳴り響かせながら登山することに。

結果的にこの判断は正しかったようで、鳥取城に到着した際、熊に注意の看板を発見。


しかし、登る前に教えてくれよ、と、看板を発見した際は苦笑。

そんなこんなで藤本さんの「ヨロシクぼた話」が始まり、私の名前などが出てイジられている。ので、因幡からコメントを送ってみたら読まれました。偉大なりネット。

最近、トレランに出てからというもの、走ったりしているので従来になく山道が楽。
いっそ、走ってやろうか、と、思いましたが体力は温存するに越したことはないのでやめておく。

30分程度の散歩ののち、忽然と現れた秀吉本陣。

※「太閤ヶ平」と書いて「たいこうがなる」と読む。

この時期、信長配下武将の秀吉なので太閤では当然ない。後に太閤となることから名付けられたようです。そして、この陣城。ただの陣城ではなく、相当すごい、という情報は予め入手しており、今回の旅のメインのひとつでした。

そして、期待にたがわぬ凄さ!

※地形を活かした土の城はやっぱり良いですねぇ!

虎口から侵入。


土塁の高さと堀の深さに驚くとともに、当時、まだ一部将にすぎない秀吉なのにこの大きさ。当時の織田軍の規模の大きさがよくわかる。城を見た後に鳥取城のボランティアガイドの方にお話をお聞きしたのですが、一説によれば、越前攻略を信長に命令されながら柴田勝家と不和になり戦線を無断離脱。信長の不興を買っている状況で必死にアピールする必要があり、死に物狂いで山陰攻略を行っており、鳥取城攻めで毛利との決戦を想定して信長が出馬してきても大丈夫なように作った可能性もあるそうです。


※広い!写真だとわかりにくいですが。。。

四角形に近く、鳥取城方面には櫓台が設置されていた模様。

ちゃんと鳥取城も見えます。近年、見えるように伐採したそうです。

※実験では太鼓の音なども聞こえたそうです。

一箇所、隅が突出し、なぜかその中に土の高低があって歩きにくくしている場所がある。ただ単に自然地形を利用した突出部にしては工夫が多く、何の施設か謎でした。その他、色々と写真を撮ったのですが、なにぶん木々が生い茂っているのと写真では高低差がでにくいのでわかりにくいかも。






中々の規模と工夫。
秀吉の陣城というともう少し虎口を迂回させるような複雑さが特徴な気がしますが、これはどーんと構えて結構な大軍を収容するもののように見えます。信長を呼ぼうとした、という話もうなづける。
まぁ、鳥取城に対して威圧するとなると、できるかぎり軍勢を見せる必要があったでしょうから、人数が集まって敵からわかりやすくするために大きく場所をとったとも考えられます。

長篠の合戦からしばらく経って、東国の不安が消え織田の勢力が巨大化しつつあることが、東三河の諸城と比較して思ったことです。

続いて悲劇の場所、鳥取城は次回に。

城納め 清洲城

2014年12月30日 | 落城戦記
今年の最後の城納めは、超地元の清洲城。


いつも年末とお盆に高校時代の友人と3人で会っております。例年夜会うのですが、昨日私が風邪でダウンして翌日の昼に延期されたのです。
いずれも現在は地元を離れており、地元に帰るであろう時期に連絡を取って会うのです。この人たち、特に歴史に興味はないのですが、珍しく「清洲城が見たい。」という御仁がおり、久々に行ってみることに。

何が思い出深いって、上記写真手前にある広場で高校時代、体育祭のダンスの練習に呼び出されてわざわざ夜遅く遠くまで自転車で漕いで向かった、という共通の思い出がある場所なのです。高校時代、私を含めもう一人はイケてないので、こういうダンス的な動きもさることながら、集団行動が苦手なのでイヤイヤ参加していた、という共有の財産がある場所だったりします。

そしてこの天守。
お城博士で有名な奈良大学学長千田嘉博先生は、こう言っています。
「なお現在、清須には天守型の博物館が建てられていて新幹線からもよく見えます。しかし信雄が建てた天守は五条川の対岸の西岸にあったので、位置は完全に間違っています。また天守の意匠や大きさも、本来あった信雄時代の天守にもとづくものではありません。」(「信長の城」 岩波新書 38頁)

そう。
この清洲城は完全なるFAKE。
そして、この天守を建てたことと豪勢な屋内プールを建てて財政状況が悪化した旧清州町は町長が交替したとかしないとか。

と、いう説明を城素人の2名にする私。

残念ながらこの日は天守に入れなかったのですが、結構来客があり駐車場は空けておいた方が良かったと思います。(少ない駐車スペースが奪い合いでした。)
さて、この天守の下に便所があったのですが、不思議な注意書きが。

「芳香ボールを持っていかないでください。」
持って行く人がいるんだ。。。使ってる奴を。。。
そ、そんな地元で俺は育ったのか、と、少々衝撃を受ける。

さて、そんな城素人のお二方に、本当の城を知っていただきたいと、川を渡り西岸に渡る。
そこに顔ハメがあったので、ハメ撮り。

※タモリ倶楽部で「ハメ撮り」と呼んでいたとは、写真右のツレの言。

その近くにある石垣の作成段階がわかる仕組みを説明する。
そして、清州古城跡にある神社を詣でる。


案内看板を見て衝撃を受ける。

信長と濃姫でこれからの恋愛成就のパワースポットと堂々と宣伝しています。
こ、これは、言ったもん勝ちなんだな。

さて、その後信長の銅像などを見たのちに名古屋名物のコメダコーヒーにいつものように入り浸る。
そして、気になっていたチョコノワールを頼む。


うーむ。
個人的にはいつものシロノワールが良かったです。
と、高校卒業後からえんえんと常に特に山場もない例会が終了。

ただ、一つ常と違ったのは、厄年で同い年の我々のうち、1人だけ独身だった人間が、ようやく長かった独身時代に終止符を打った、という報告があったこと。
一緒の生活を始めて色々と今までのお互いの違う生活スタイルのすり合わせに戸惑っている様に、私ともう一人は「結婚なんてそんなもんだ。」と、冷たく突き放していました。

S君に幸あれ。

室城

2014年11月03日 | 落城戦記
以前、野田菅沼氏の前の領主、富永氏に関する話を書きました。

その富永氏の有力家臣富永半五郎勝光が頼った先が、吉良義昭。
吉良義昭が徳川家康と対決姿勢を示した際、善明堤の戦いで松平好景を敗死させますが、藤波畷の戦いで家康勢に破れ流浪したようです。
その吉良義昭の家老として武勲を讃えられたのが富永伴五郎忠元。勝光さんとは違うようです。
享年25歳と大変に若い忠元さんは、大久保彦左衛門が書いたことで有名な『三河物語』で、敵・味方もともに「伴五郎が死んだら、(吉良の)落城は近い」と記して忠元を褒めたたえています。

ウィキペディアには「富永氏は伴氏の後裔で設楽郡富永荘の領主。東条吉良氏の譜代の家臣であり、代々室城主を務める。」とあり、やっぱり野田の富永氏とは何らかの血族関係があったんだと思われます。足利家の一族として勢力を振るった吉良に近い富永一族は服属せざるを得なかったのではないかと想像されます。

野田の富永氏関係での最後の華ともいえる室城を一度見たいと思っておりました。

ので、見に行ってきました。

※ 遠景

現在は神社になっている部分が浅野家の「諸国古城之図」では蔵屋敷と呼ばれる場所のようです。


立派な神社です。


『愛知の山城ベスト50』(サンライズ出版)の「室城」の項には、
「大手門の外にあるきおとでは、籠城用の米蔵というよりは、恐らく地域の年貢米を収納するセンターなどの場所であったと思われる。」
とのことです。

もっとも、この神社は相当な高台にありまして、

※神社から南を望むとこの高低差。

結構な防御力があったのではないかとも思われます。

さて、神社の東側には駐車場がありました。神社か地域の倉庫として使われているものも。


しかし、古城之図を見ると、ここも結構複雑な曲輪として構築されていたようです。
が、今では道も通ってしまい相当削平されており城っぽさはない。

さて、ここから階段がありまして、上に登ることができます。


ここを登っていくと、おお、曲輪を改変したんだ、ということがわかります。


そして、階段が90度折れ曲がり上に到達する前に、土橋っぽく道を細くしている部分らしきものが見られる。


階段を登るとそこには墓場が。
お城の主郭が地域の墓場になっている例は多く、ここもそうなのでしょう。
土塁と思しき高まりが見られました。

※とてつもない蚊に襲われる。デング熱の恐怖に怯える。

この曲輪は相当厳しく切岸を切り立てていました。
古城之図では馬出のようにも見える曲輪ですが、実際の形状を見てみると、馬出というよりは連郭式の城で曲輪を土橋で繋いだ城に思えます。

周りは深田に囲まれていたようですから、ぽっかりと水の上に浮かぶ城のように見えたことでしょう。

※旧道っぽい道。

防御力は相当高い城ではなかったかと思います。

富永保の領主として三河に勢力を誇った富永氏の最期の華ともいえる忠元の居城。
一見の価値がありました。

川尻城

2014年10月24日 | 落城戦記
奥平氏が始めて群馬県から作手にやってきて築いたとされる川尻城。



現在公園化されておりアスファルト舗装された道が本丸と思しき曲輪まで続いています。


実際の城郭としての道がショートカットされてるため、城の印象がかなり変わっていると思われます。たぶん、上記の写真の冠木門からつづく舗装道はなく、冠木門から東へ回り込む形で本丸へ登るのが正しい登城ルートだと思います。
ちなみに、このアスファルト舗装された道路。なれた人だとアルファードで上がってしまいますが、

※同乗者にとっては絶叫アトラクション。

慣れない方には絶対にお勧めしません。川尻城の東側に大きな駐車場があり、そこから足で登っても5分もかからないだけに、歩いて登ることをお勧めします。
なお、駐車場奥の城山ハイツは子宝アパートとして有名です。

この川尻城、愛知県中世城館調査報告Ⅲの縄張り図を見ると東側に土塁を複数に入れて防御を厳重にしているさまが窺えます。今回、草がしっかりと刈られており城が見やすくなっていました。
比較写真。
前回


今回


前回夏の真っ盛りの際は、腰近くまで草が茂り、地面形状など見ることは不可能。蚊もすごい。いかに『城の草刈を実施する』ことが、城を見やすくするかお解かりいただけるかと。笑。
(川尻城は公園なので公園管理者か地元の方が草を刈ったのだろうと思われます。)

前回は宝くじの祈願、今回は城郭状況確認。気合の入り方が違います。
私も前回は素足にサンダル。今回はトレイルラン用のシューズに山城探索用の格好。どんな薮の中でも突っ込んでいけます。まして、今回は大学生の皆さんが同行。天然の蚊取り線香が一緒にいてくれる訳です。蚊は若い人の血を好むようで、加齢臭が漂い始める前厄のおっさんには来ない。

さて、草がないので本丸に回りこむ曲輪の下の腰曲輪がしっかりと見学できる。
ので、知らず足はそちらの方へ。


土塁と濠の高低差が失われつつあるものの、色々と複雑にやってくれています。
この手の込みようからすると、とても奥平が最初にやってきた時の城の状態とは思えない。後世に明らかに改修を加えているのだろう、と、推測が立ちます。

このようにしっかりと土塁が。


ここは腰曲輪から回りこんで本丸へ向かう際に遮蔽するようにある土塁です。
そして、我々は驚愕の光景を目にします!


長さがわかりやすいのはこちら。


愛知県中世城館報告Ⅲの縄張り図では、直線的に描かれさほど高さが無く東(本丸とは反対方向)へ方向性を見失ったように伸びる土塁が一本描かれています。
が、現地を実際に目にしたところ、この土塁、本丸東の曲輪の北側を防御するように結構な高さでしっかりと築かれている!しかも、上記の写真を見てわかるように折れが途中に入り、横矢が掛けられるように意識していると思われます。

しかも、この土塁は明らかに自然地形とは違い、そのままこの曲輪と思しき部分が谷で落ち込むところまで続く。
たぶん、この土塁を作る際に、併せて曲輪北側の防御面を強化したのでしょう。切岸が作られて斜度がきつくなっています。

※わかりにくいですが、かなりの高低差を切立った状態にしています。
 なお、画面の中央から少し右上にある水色は精霊ではなく学生さんです。

これは大発見!
現地に行かなければ絶対にわからない!

私も3回目で始めてみることができました。そのため、めちゃくちゃ興奮して「なんじゃこれー!」「すげー!」を連発。城館調査報告の図面では土塁は行き場を失うような形ですけど、現物ではちゃんと切岸に沿って屈曲しながら土塁が続いていますので、山城マニアの方は、是非、その目でご確認ください。

そして、興奮のあまり、もっと何かないのかと全速力で学生さんを置き去りにして走り出す。
すると、やはり本丸の北側にこんなものが。


こんなものが、と、言われても大抵の方は「は?」という代物だとは十分にわかっております。
これ、横堀的な感じです。土塁の上が細くなり、まるで関東の方の城に出てくる馬出チックな感じ。

いや、川尻城。
しっかり見なくてごめんなさい。

この城すごいわ。
どう考えてもこんな土木量でマニアックに作るのは奴らしかいないと思う。

武田。

曲輪が丸い、やたらと超絶技巧を使いたがる。そして、情念を感じる。

大島城だの丸子城だの諏訪原城だの新府城だの武田の城を訪れると感じる、あの妙な感覚。
あの感覚が蘇ってきました。
今まで川尻城も本丸に上がる前の土塁や土橋

※写真右側の切立った部分が本丸。その手前の高いところが土橋。冠木門から進むと左手に見える光景です。

を見て
「なんか結構手が入っているんだが、規模の割りに手数が少ない。」
と思っていたのは、草が多くて地表が見られなかったから。
今回の屈曲した長大土塁や本丸西北の腰曲輪の馬出チックな土塁。

古宮城や亀山城と共通する技術を感じます。

本丸が広々としていますが


現在忠魂碑が立っている高まりは、元々櫓台があったのでは無いかと想像させてくれます。
ただ、妙に忠魂碑下の地面が高いのは、忠魂碑を作る際に西側を削って盛ったのでは?と、思う部分もある。

なお、川尻城から古宮城、亀山城が見えます。
古宮城と塞之神城に挟まれた国道301号を過ぎると亀山城下。川尻城を造った後、すぐに奥平は亀山城に移ったようですが、想像するに市場が既にある地域へ入り込むことができたのが亀山城に移った原因では、という作手山城案内人原田さんの説は、川尻城に立つとよくわかります。

こうしてしっかりと見てみると、川尻城は北側に重点的に防御面を置いており、方向的には岡崎につながる方面となります。

今回の川尻城の印象で、根拠は何も無く今まで山城を巡ってきた勘でしかありませんが、
「武田は作手地域を軍事拠点として要塞化しようとしていた。」
という印象を強く受けました。
今までは古宮城を拠点に、と、思ったのですが、今回の川尻城で、作手地域そのものを軍事拠点としていたという感が強くなりました。

川尻城から古宮城+塞之神城、亀山城、文殊山城。
この4つの城は、同じ技術を持った人達が作り、その技術は明らかに三河の他の城と違う。
奥平がこんな技術を単独で開発することは考えられないので、やっぱり武田でしょう。下山と作手が武田と徳川の境界線になるような気がしますので、もう一度下山の城をしっかりと見てこないといかんな、と、思った次第です。

いや、川尻の屈曲土塁で大興奮したので、文章に力が入りすぎているかもしれませんが、それくらい見事だ、ということ。

絶対に見てくださいね!