長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

木村重成 ~首の取扱説明書~

2013年06月29日 | 戦国逸話
 木村重成は大坂の陣で豊臣方の有力武将。
 父親は殺生関白羽柴秀次の家臣で謀叛事件に連座しています。

 大坂の陣における豊臣方は、真田幸村(信繁)、後藤又兵衛などが有名ですが、この重成も最期華々しく散り、首になったときの処置の見事さに家康が感心した、というのが最も有名なエピソードかと。

 この名場面について名将言行禄にありましたので見てみましょう。

○焚きこめた香

 重成は長い間風邪をひき、月代(ちょんまげの頭剃った部分)を剃らずに長髪でいたが、討死の前日、湯に入り髪を洗い、香を炊き込め、能の一曲を静かに謡い、小鼓を撃った。
 翌日、井伊直孝と戦い討死した。
 家康が重成の首を見た際、髪に炊き込めた香が薫っていたことに大いに感じ入り、
「今は5月の初め(旧暦のため大体7月頃)だというのに、いささかも首に臭気が無く、香を炊き込めたことは勇士の嗜みといえる。皆、近寄って首の匂いをかいでみよ。」
 と、いうので、皆匂いをかいで褒めた。

 また、冑の結び目の端が切ってあるのを見て、
「討死を覚悟した天晴れなる勇将だ。」
 と、賛美された。

 ある人が、
「これほど最期を覚悟した素晴らしい人であるにもかかわらず、月代部分の髪が伸びてるのはなぜなんでしょう?」
と、呟いたところ、家康が聞きつけ、

「これほど最期を覚悟した木村の月代が伸びているのは、何か事情があるのだろう。まぁ、月代の剃りたては冑かぶる時にあまりよろしくないものだ。ひょっとすると、そんなあたりじゃないか。稀代の壮士の討死について、ちょっとしたことでクサすものではない。」
と、言った。

 なるほど。
 戦国最後の生き残りだけあって、家康も死者への礼儀を指導しています。

 が、このエピソードから判るのは『夏場の戦場は相当臭う』ということ。
 木村重成の行動を今風に解釈すると、風呂入って香水つけて、という感じなんでしょう。

 ところで、このエピソードの場面情景を見てみると、
「おいお前ら。この首臭くないからかいでみろよ。」と、大将が言って、皆が匂いをかいで「おお、ほんとに臭くないですね。」と、言ってるわけなんです。

 もっとも、家康のように戦場経験が豊富な武将からすると、相対的な比較評価として『臭くない』と言っているだけの可能性もあります。なので、実際かいでみて『うっ・・・』という人もいたのではないかと。

 特にこの大坂の陣はしばらく平和が続き、戦国時代真っ只中の世代と次世代が丁度世代交代をする時期だけに、修羅場をくぐってない若者なんかもいたことでしょう。そういう若者への指導の一環だったのかもしれません。しかし、そんなときに、鼻を手で覆ったりしようもんなら家康からど叱られるでしょうし、ましてえづこうものなら一生冷や飯喰わされそうです。

 風呂入って香を炊き込めて、という他に臭気が漂わない理由として、その直前のエピソードもヒントがありそうです。

○妻の自害
 重成は5月の初めから(討死は5月6日)食事が進まなかった。妻は之を憂いて今回は落城が近いと噂されているので食が進まないのでしょうか、と、言うと、重成が聞きつけ、

「そうじゃない。昔、後三年の役で瓜割四郎と言う人が、ひどく臆病で朝の食事が喉を通っておらず、敵陣で首を射切られたとき、その疵口から食事が出てきて恥を曝したという。我らも敵に首をとられる。死骸が見苦しくないように心がけて食事を控えておるのだ。」

 と、答えた。
 妻はこれを聞くとさっと立ち退き、遺書をしたため寝室に入って自害した。時に18歳であった。

 このように、死の直前の食事に気を使っているのです。
 食事が体臭に影響することを考えると、食事が控えられているので死臭もきつくなかった、と、考えられます。

 しかしまぁ、この瓜割四郎さん、こんなことで死してなお、恥の見本としてばらされてしまう訳ですから、木村重成も「あいつさぁ、首とったら、もう酷くて酷くて・・・。」と後々まで言われ続けることを警戒したのでしょうねぇ。
 実際、その処置の見事さで、現在にもエピソードが残っているわけですから、当時の武将としては、死んだ後のことにも気を配らざるをえなかったのでしょう。

 話は木村から逸れますが、瓜割さん『首を射切られ』ているんですよね。
 後三年の役は平安時代。当時は騎馬武者が弓で戦っており、戦国時代のように鑓や鉄砲での戦闘が主ではなかったといわれております。そんなこともちょっと考えられます。

 しかし、瓜割四郎氏。
 緊張で飯が食べられない、というのは判るのですが、食事が喉を通らずに戦い続けるって、喉にモノが詰った状態で戦ってたんでしょうか?
 そりゃ、実力も発揮できなかったことでしょうねぇ。

 なんにせよ、首の取り扱い一つで評価が変わるんですねぇ。

奥三河の戦国時代を考えておりまして。

2013年06月24日 | 奥三河
最近、時間がなかなか取れずに遠ざかっておりました、奥三河の戦国時代の話です。

長篠合戦について調べていると、奥平氏という変わった一族がいることに気がつく。
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奥平氏を調べていくと、面白い逸話が多いものの、どうにも作り話臭いものがあったりする。
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実際のところ調べつつ、菅沼氏などの動向を読んでいると、単に大国の狭間であっちこっちへふらふらしているだけではなく、それなりに色々と模索している様子が浮かんでくる。
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で、その動向を調べて表にしてみると、どうにも辻褄があわなかったり、どうしてこうなるのかよくわからないものが出てくる。
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よくわからないものが「証拠は無いが織田信長の仕業に違いない。」と片付けられていることが多い。
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しかし、当時の織田の状況を調べてみると、本当に奥三河まで手が回っていたかどうかが怪しい。
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じゃあ、一体どうしてこんな動きになるのかがわからず、考えていると、どんどん先祖を遡っていってしまう。
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先祖をさかのぼっても、やっぱりわからないことが多いので、周辺地域に手を伸ばし、南信州と静岡と岐阜の地域史もとりあえず読んでみる。
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主だったものを収斂させていくと、「おや?」というものが出てきたり、辻褄が合わないものが出てくる。
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なんでと調べる。。。

の無限連鎖が続いておりまして、なかなかこのブログに書けません。
が、幸いなことに、「歴探」の高村様からのご助言などもあり、色々と考え続けておるところです。

で、本日久々にこんなことを書き始めたのは、なぜかと申しますと、どうにも戦国が始まる前くらいの奥三河の動きと言うものは、当たり前っちゃ当たり前なんですが、守護の動きと関連している、ということなんだな、ということに気づいたから、なんです。

文書にすると「いまさら何を」と思われるかもしれませんが、色々と探っておりますと迷宮に入り込んでいくもんですから、そんなこともある訳です。

特に、たまたま大塚勲氏なる方が書かれた「今川氏と遠江・駿河の中世」(岩田書院)という本を読んでまして、遠江に信州小笠原氏が侵入して斯波氏を援助し、今川氏と対立していた、ということが書かれていた点に引っかかりを感じていたことがあります。

岐阜県の地域史をコピッてきたとき、恵那市も小笠原氏が斉藤氏の抑えで東美濃に乱入して天文年間ぐらいまで粘っていたという記述がありまして、「へぇ」と思っていたのですが、遠江にまで乱入していたとなると、結構強かったんだな、と。
どうしても、信州小笠原と言うと、武田信玄が負けてちょっかい出したら撃破されて・・・、という情けない印象しかないものですから、「そんなにっ?!」という感想を持ったわけです。

斯波氏を遠州から追い出した前後、やたら奥平氏は今川氏や後北条氏から連絡が来るのですが、なぜ奥平なんだ、と、思った訳です。これは全くの推測ですが、東美濃は奥三河に結構近くて影響があります。
斯波・小笠原連合に対して、今川は奥平を利用できると考えたのではないかと。

そうなると、名倉船渡橋だ弘治合戦だなんだと東美濃との関係で奥平がガタガタしてるのと整合性がとれる。
奥平氏は、尾張・西三河より、東美濃や遠江との関係が影響しているのではないか、ということです。

何をいまさら、と、思われる方も多いかもしれませんが、本日久々に資料整理していて「小笠原か。」と思った訳です。

ま、いつものように、だらだらと思い付きを書いてるだけなので、あまりお気になさらず。

かぶる。

2013年06月22日 | 日記
刀傘の話を書いた翌日のことでした。

その日は雨が降っていました。
娘を幼稚園に送っていくのですが、雨が降っていたために歩いて送っていたのでした。

そして、反対側から私より少し若いか同じくらいの年齢で、似たような格好をした人が一人で歩いてきていました。

その人の手には傘が。
その傘からは長い紐が垂れていました。

『え。。。まさか。』

じっと目を凝らす。
傘袋に見慣れたマークが。

騎馬武者のシルエット。

そして、その傘の柄は、刀の鍔と柄を模した物。
そう、その傘はこの時の傘!!!


あ、あぶなく被るところだった・・・。

そして、持ち歩く自分を客観的に見てしまった・・・。

まぁ、自分が満足すればそれでいい。
しかし、この傘でかぶってしまうのだけは、いやだ。

武士の魂、ふたたび。

2013年06月18日 | 日記
こ、この持ち手は!




「また、つまらぬものを ×斬って ○買って しまった。」

と、いうことで刀傘ふたたびです。
以前にも刀傘を買ったのですが、今回は持ち手が豪華。
前回の奴は雨に濡れると16だかの家紋が浮かび上がるというものですが、持ち手は地味です。

日曜日に名古屋市の明道町をふらりと。
ここは御菓子問屋が集積しているところで、昔は卸専門だったのですが、最近では小売もしています。

お菓子といっても「駄菓子」に近い。
あと、お祭りの出店で売っているようなおもちゃも多数。

そこで多数のおもちゃを見て「お、大人買いしてくれるわぁ!」と父ちゃん大興奮。

だって、プリキュアのお面が200円とかですよ。
娘がお祭りでねだれば安くて500、高ければ800とかする。下手すりゃ千円越える。
娘が欲しいといっても「だめ」といってましたが、この値段なら「好きなだけ買っていいよ。」と。
それこそ、
「ここからここまで全部くれ。」
と、成金買いまでできてしまう。

昔自分が欲しくて仕方なかったトミカのミニカーも1つ250円とか言ってるし。。。

まぁ、最初は見るだけ、と、思って寄ったのですが、いきなり店頭の刀傘を見て父ちゃん購入を決定。
そこでタガが外れて「いいぞいいぞ、どれだけ買ってもいいぞ。」と激甘父親に変身。
安いですしね。

懐かしいおもちゃも多数。

他の店でも「しみチョココーン」のでかいバージョンとか、クッピーラムネのグミだとか見たことの無いお菓子もありまして、見て回るだけでも楽しい。

ま、そんなことで、安上がりな家庭サービスをしていたのですが、月曜日から体調が激変。
今日は医者へ行きました。風邪だそうです。
本当は早引けしたかったのですが、仕事が舞い込んで嬉しくない悲鳴をあげながら残業していました。

さて、寝て治すとするか。

茅葺・瓦葺・板葺

2013年06月11日 | 日記
滋賀県高島市マキノ町在原という在原業平ゆかりの地で火災が発生し、かやぶきの建物が8軒全焼してしまったそうです。驚愕したのが、中日新聞夕刊掲載の写真。


画像が荒く見えにくいかもしれません。
この写真、上空から撮影しているのですが、茅葺の家の部分だけが焼けているんです。
途中に家があるのですが、そこをすっ飛ばして、茅葺の家だけが点々と・・・。

よく火事対策として、江戸時代に瓦葺にしたとかいう話を聞いて「へぇ。」とは思っておりました。
「城取り」の軍事学でも「もともとは戦闘時に矢弾に曝される建物を優先的に瓦で葺いていたことがわかる。」との記載があります。

そりゃあ、瓦よりも茅葺の方が火事に弱いだろうねぇ、と、漠然と思っていましたが、今回の写真のように、飛び飛びのスポット単位で焼けた映像を見せられると、衝撃的でした。頭でわかっていることと、実際の凄みとでも言いましょうか。

火柱のあがった家から火のついたかやが飛んできたそうで、言われて見れば、火事になれば上昇気流が発生するので、かやなどの焼けたものが巻き上がって上空から降ってくるわけなんですね。特にこの日は風も強かったそうで、余計に舞ったようです。

運悪く今年は空梅雨。
乾燥しきっていた上に、水も不足しており上水まで動員したため飲み水がないとか。
大変な事態です。

茅葺、板葺などの燃えやすい素材で作られた家と瓦葺の家の違いをまざまざと実感し、そりゃ、昔の人達がすぐに家を焼かれてしまったり、瓦に使用としたわけだ、と、思った訳です。
よく、白川郷などで放水訓練したりしていますが、一軒の火事が集落全体に及んでしまうので、火事対策は真剣なんでしょうね。

で、たまたまネット検索してたら、「文化財の防火について」という文化庁の通知文書がありました。
「檜皮葺や茅葺等の屋根が近年まれになり、一般にその火災や消火の経験が乏しくなっているため、これらが燃え易い屋根であることを周知させることが重要である。」だの、
「乾燥時期に飛火の危険がある場合には、あらかじめ屋根全体に消火栓等で定期的に散水しておくことが不可欠である。」だのの記載は「なるほど」と思わせるものがあります。

昔の人達が火事を恐れたのもよくわかります。

それなのに、本日の中日夕刊、この痛ましい火事の記事の下にはこんな記事が・・・。
『花火で便 飛び散らせた疑い 2少年逮捕』
「・・・北区金城町の金城交番に侵入し、事務机の上に無職少年の便を置き、ロケット花火を差し込んで破裂させたとされる。・・・交番は署員七人が二時間がかりで掃除した。」

文字通りの「クソ餓鬼」共、お前ら二人で交番の掃除せぇっ!!!

まぁ、ロケット花火を破裂させても火事にならなくなった現代の建物はスゴイのでしょう。
なんにせよ、火の用心ですね。

設楽原ボランティア

2013年06月03日 | 奥三河
長篠・設楽原合戦の場である新城市には、長篠城跡に長篠城址保存館、設楽原決戦場付近に設楽原歴史資料館があります。

当然のことながら、長篠付近在住時はよく通ったものです。
そして、遠くから人が来たときなどは、名所旧跡を案内しておりました。

当時、これ以上何か金をかけてモノを作ったりするのではなく、よく他の観光地にある観光ボランティアのような方々を組織して、そうした方とのふれあいによって来訪者が楽しめるような仕掛けがあればいいのに、と、仲間内で話をしていたものです。実際、そうした方々の発掘につながるような企画を立てたりしておりましたが、あえなく私は転勤で異動。

そんな中、設楽原歴史資料館のフェイスブックを眺めていたら、こんなものが。


「今、資料館では、設楽原や長篠城にお越しになられるお客様をおもてなしするために案内ボランティアをしていただける方を募集しています。

安心してご案内いただけるように、年6回程度養成講座を設けますので、特に専門的な知識は必要ありません。

講座も戦いの事や甲冑の身に着け方、火縄銃のことなど、盛りだくさんを計画しています。

特に締め切りは設けておりません。
詳しくは資料館までお問い合わせください。」

おおおおお!
こういうものがあると良いのに、と、思っていたことが始まったじゃんか!!
と、絶叫。(心の中で)

が、今の私は落武者の身。
市外の人間などにボランティアになる資格などない。。。

と、いうのでは面白くない。
なぜならば、私は「市外にボランティアになっても良いと言う人を作れば、その人達はほかっておいても他地域で新城市の宣伝を始める。なぜなら、自分がガイドしたいからだ。」という勝手な理論を打ち立てておったからです。

で、Y氏に聞いてみる。
「市外の人でも参加可能でございましょうや?」

すると、速攻で
「新城の方だけでなく、市外の方も大歓迎です。」
とのレスが。

は、はぇぇぇぇぇ!
このレスの速さ尋常じゃない!
と、驚嘆する。

私は自分の勝手な理論を証明すべく、早速申し込みました。

高速代とガソリン代と妻子の冷たい視線など関係ないのです。
設楽原ボランティアというもので新城市が盛り上がって自分も盛り上がれるのであれば、多少の家族崩壊など気にして入られません。

ま、多少の家族崩壊が、想像以上の崩壊を見せたときは辞めざるを得ませんが・・・。
そういうときには足抜けさせてもらえるのがボランティアの良いところ。

どうせそのうち新城市に戻る身。(のはず。)
早めに老後の手配をしておくのも悪くないかと。

「城取り」の軍事学

2013年06月01日 | 


西股総生氏の本です。

戦国時代の様相が一体どうだったのか、ということに血道を上げている城仲間の紀伊守が、この著者の「戦国の軍隊」という本を読んで「素晴らしい」と絶賛。貸してくれたので読んでみると「うむ、確かに。」とうなずいてしまう内容でした。

従来の研究には無い視点「軍事的」な視点から様々に考察を加えているので、内容が新鮮なのです。
なんだかんだと、あれこれ本を読んでおりますが、最近、似たり寄ったりの内容が多くなってきており、そろそろ食傷気味。

そんな著者が城について本を出していたことを知らず、たまたま本屋に入ったらありましたので衝動買いしてしまいました。

読んでみると、
「おお。やっぱり新鮮。」
というのが正直なところ。

城を作った人は、なぜこの城を作ったのか。

と、いうか、なんでこの縄張にしたのか、というところに拘っているわけです。
あ、縄張というのは簡単に言うと「城の部屋割り」です。(意訳しすぎ?)

どうしてここに堀があって、ここに土塁があって、この曲輪はこの形になっているのか。
それを付近の地形や道などから読み解いていき、単純な解釈を許していません。

個人的に「おお!」と思った部分は、
「(縄張りの)細かな工夫や指向性を捉えなければ、築城者の意図も読み取れないから、その城が、その場所に、その縄張りをもって築かれた具体的な必然性に思いが至らない。具体的な必然性に思いが至らないので、城の存在理由を、歴史学の既存の一般論に落とし込んで理解せざるをえなくなる。」
といもの。

思わず、黄色マーカーを引いてしまいました。

史料を読んでいると城の守備を城番制を敷いている場合が多いな、と、漠然と思うことが多かったのです。
特に作手の古宮城に関する史料を読んでいますと、馬場信房(信春)が縄張りした、土屋が守備兵として入っていた、と、ありますが、じゃあ、城主は?という疑問をずっと持っていたのです。
武田の持ち城であることはわかりますが、城代がいるだけで城主はいないのだろうね、と、ちらと思うことはありましたが、さほど深く掘り下げて考えていたわけではないのです。

が、この本ではそうした部分を重視し、城主がいる前提で考えるな、城代が一般だ、と、言っているのです。
城主が居ることに拘るから、城主に比定しやすい地域の国人領主などを勝手に当てはめ、国人領主のストーリーを探って、城の歴史に当てはめてしまう。領主の歴史と城の成り立ちは、本来違うかもしれないのに、先入観から一緒くたになっている例が多い、と、述べています。

うーむ。これは慧眼。

私の場合、城のガイドなどを聞いていると、「だれそれが作っていつ頃廃城になった。」という「だれそれ」や「いつ」にやたらと拘っている場合があるのですが、そういうの話は「誰それ?」とあまり興味を引かないのです。
それよりも、なんでこんな造作をこの城は施してあるのかね、この配置の意味は、とかを説明してもらう方が好きなのです。

そういう私の傾向からも、この本の主張は「良い!」と感じてしまうわけです。

他にもこの著者の「軍事学」的な視点で、様々な城について述べておられますが、なかなか興味深いものがあります。こうした視点をもって、再度城を見直して見ると、今までとは違った感じに見えそうだな、という期待があります。

なかなか城にいけないので、まずは、縄張り図でも眺めてみるか。