え? 今さら? と思われるかもしれませんが。。『現在七面』の考察、番外編~
いまここに『身延鑑』という元禄頃の身延山・久遠寺の参詣手引き書の翻刻が ぬえの手元にあります。これは10年ほど以前、中森貫太氏の催しで久遠寺で『現在七面』が上演されたときに ぬえもお手伝いに参上し、この折 久遠寺より戴いたもの。まさかこの本を熟読する日が来るとは夢にも思いませんでしたが。。 この書の存在については以前に言及させて頂いたのですが、まだ内容のご紹介に至っておりませんで。今日はこれについて記しておこうと思います。
この書には『現在七面』の能の原拠となったと思われる大蛇の話が出てくるのですが、まずはその書き出しから面白い。なかなか文才のある方の筆によるもののようです。
せめて世を逃れし甲斐の身延山にまいり、祖師の御真骨を拝み奉らんと思いたち、心を友として。此の年、延宝四丙辰の弥生の空、九重の都を出であずまの海の道遠き、八重の潮路をはるばると日を重ねつつ旅衣、甲斐国波木井郷身延の総門にやすらい、山の眺望をおがみ侍りし所に、耳順う老僧のすみの衣に香色の袈裟かけて、半水晶の数珠をつまぐり、口に経題目を唱え来り給いける立寄り申し侍る。
これは都かたより初めて詣でしなり。此の御山のありがたき所々教え給えかし。
と申し侍る。老僧うちうなずきて、
ありがたくもはるばると参給うものかな。今日は日も麗なれば愚老も諸堂巡礼し侍る。いざさせ給え教え申さん。まず此の山は甲斐の国巨摩郡波木井の郷の乾にあたり。。
『身延鑑』は初めて身延山を訪れた都の者が、通りかかった老住僧に案内を頼み、僧もこれに快く応じて山域をことごとく見て回る、という内容。延宝四年は1676年ですから江戸前期といったところですね。四代将軍・家綱の治世で世情も安定していた頃。この書はいわば身延山参詣のガイドブック兼おみやげのような書で、時代も安定して寺社への参詣も盛んになって、また同時に商業も興隆して印刷技術も進歩して、このような版本が盛んに作られるようになりました。概してその内容はとても文章が上手くて、思わず引き込まれてしまう筆致。以前 ぬえは『隅田川』の物語を伝える東京・浅草の木母寺(もくぼじ=梅若丸の「梅」の字を分解したもの)で寺の縁起(おそらく江戸時代に整備された)を読んだときにも筆致に感心しましたが、この書にもプロライターの存在を感じます。
で、『現在七面』のシテ大蛇が棲む七面池についてはこのように説明があります。
身延川を上り侍れば、石巌屏風のごとく峙ち、岩間の道ほそく九折の路なり。左は竜が鼻、三十三の滝、雨乞淵。右の方は太郎が峰。次郎が尾。これは妙太郎、妙次郎とて天狗の棲む峰なり。(略)これより五十町、楯を上るがごとく休所三所あり。下乗の鳥居より随身門まで二町あり。鐘楼堂、籠屋。
御本社は山八分にあり。(略)池は曲蛇の形なり。底より水は涌出で、落下る水は春気滝とて百丈の白布をさらすに異ならず。此の滝の流れには金砂あり。甲州の砂金とこれを云う。天竺の無熱池の水末なり。七不思議の池なり。
これより二十町上りて奥の池とてあり。常に池波空にうずまき、白雲池に覆うて、女人童子など卒爾に参詣なりがたし。(略)あれなるは池の太神なり。拝み給えと申され侍る。その時に問わく、此の御神の本地はいかなる仏菩薩にて、何時の頃よりか此の山に跡を垂れ、末法法華の守護神とはなり給うや。又、七面とはいかなるいわれにて申し候や。老僧の云く。
此の御神と申すは本地弁才天功徳天女なり。鬼子母天の御子なり。右には施無昆の鍵を持ち、左に如意珠の玉を持ち給う。北方毘沙門天王の城、阿毘曼陀城妙華福光吉祥園にいますゆえ、吉祥天女とも申し奉る。
山を七面というは、此の山八方に門あり、鬼門を閉じて聞信戒定進捨懺に表示、七面を開き、七難を払い、七福を授け給う七不思議の神の住ませ給うゆえに七面と名付け侍るとなり。
いまここに『身延鑑』という元禄頃の身延山・久遠寺の参詣手引き書の翻刻が ぬえの手元にあります。これは10年ほど以前、中森貫太氏の催しで久遠寺で『現在七面』が上演されたときに ぬえもお手伝いに参上し、この折 久遠寺より戴いたもの。まさかこの本を熟読する日が来るとは夢にも思いませんでしたが。。 この書の存在については以前に言及させて頂いたのですが、まだ内容のご紹介に至っておりませんで。今日はこれについて記しておこうと思います。
この書には『現在七面』の能の原拠となったと思われる大蛇の話が出てくるのですが、まずはその書き出しから面白い。なかなか文才のある方の筆によるもののようです。
せめて世を逃れし甲斐の身延山にまいり、祖師の御真骨を拝み奉らんと思いたち、心を友として。此の年、延宝四丙辰の弥生の空、九重の都を出であずまの海の道遠き、八重の潮路をはるばると日を重ねつつ旅衣、甲斐国波木井郷身延の総門にやすらい、山の眺望をおがみ侍りし所に、耳順う老僧のすみの衣に香色の袈裟かけて、半水晶の数珠をつまぐり、口に経題目を唱え来り給いける立寄り申し侍る。
これは都かたより初めて詣でしなり。此の御山のありがたき所々教え給えかし。
と申し侍る。老僧うちうなずきて、
ありがたくもはるばると参給うものかな。今日は日も麗なれば愚老も諸堂巡礼し侍る。いざさせ給え教え申さん。まず此の山は甲斐の国巨摩郡波木井の郷の乾にあたり。。
『身延鑑』は初めて身延山を訪れた都の者が、通りかかった老住僧に案内を頼み、僧もこれに快く応じて山域をことごとく見て回る、という内容。延宝四年は1676年ですから江戸前期といったところですね。四代将軍・家綱の治世で世情も安定していた頃。この書はいわば身延山参詣のガイドブック兼おみやげのような書で、時代も安定して寺社への参詣も盛んになって、また同時に商業も興隆して印刷技術も進歩して、このような版本が盛んに作られるようになりました。概してその内容はとても文章が上手くて、思わず引き込まれてしまう筆致。以前 ぬえは『隅田川』の物語を伝える東京・浅草の木母寺(もくぼじ=梅若丸の「梅」の字を分解したもの)で寺の縁起(おそらく江戸時代に整備された)を読んだときにも筆致に感心しましたが、この書にもプロライターの存在を感じます。
で、『現在七面』のシテ大蛇が棲む七面池についてはこのように説明があります。
身延川を上り侍れば、石巌屏風のごとく峙ち、岩間の道ほそく九折の路なり。左は竜が鼻、三十三の滝、雨乞淵。右の方は太郎が峰。次郎が尾。これは妙太郎、妙次郎とて天狗の棲む峰なり。(略)これより五十町、楯を上るがごとく休所三所あり。下乗の鳥居より随身門まで二町あり。鐘楼堂、籠屋。
御本社は山八分にあり。(略)池は曲蛇の形なり。底より水は涌出で、落下る水は春気滝とて百丈の白布をさらすに異ならず。此の滝の流れには金砂あり。甲州の砂金とこれを云う。天竺の無熱池の水末なり。七不思議の池なり。
これより二十町上りて奥の池とてあり。常に池波空にうずまき、白雲池に覆うて、女人童子など卒爾に参詣なりがたし。(略)あれなるは池の太神なり。拝み給えと申され侍る。その時に問わく、此の御神の本地はいかなる仏菩薩にて、何時の頃よりか此の山に跡を垂れ、末法法華の守護神とはなり給うや。又、七面とはいかなるいわれにて申し候や。老僧の云く。
此の御神と申すは本地弁才天功徳天女なり。鬼子母天の御子なり。右には施無昆の鍵を持ち、左に如意珠の玉を持ち給う。北方毘沙門天王の城、阿毘曼陀城妙華福光吉祥園にいますゆえ、吉祥天女とも申し奉る。
山を七面というは、此の山八方に門あり、鬼門を閉じて聞信戒定進捨懺に表示、七面を開き、七難を払い、七福を授け給う七不思議の神の住ませ給うゆえに七面と名付け侍るとなり。
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