また七面神の神力についても次のように記されています。
七面宮の御霊験さまざまありし中にも天文年中の比なり。此の国の守護信玄のたまひけるは、身延山を中野の杉山に移し、その跡を城郭になし給はんと安間弾正左衛門を使者として越し給ふ。貫首老僧一同して私の返事成りがたし。祖意にまかすべしとて、満山祖師の宝前に集会して一万巻の陀羅尼を誦し、御くじ両三度に及ぶといへども祖師御心にかなはざるよし返事なり。その儀ならば軍勢を以て破却してとらんとの事なり。此の事身延に知れければ護法の神力を頼まんにはと、満山大堂に集まり、一万部の読経を始め衆怨悉退散と祈り給ふ。
惣大将信玄出馬あれば先陣の軍勢身延山の東の麓、早川河原に着く。早川を渡さんとすれば俄かに雨車軸を流し、川水まさり波瀬まくらを打ち岸を洗ふ事おびただし。先陣の軍勢渡りかね、身延の峯を見上ぐれば旌旗(せいき)天にひるがえり、木のかげ、岩のかげに兜の星をかがやかし、軍兵雲霞の如く見えければ、案に相違して進みかねたる所に、本陣の惣大将信玄御不例なりとて俄かに甲府の城へ帰り給ふゆえ、その軍勢も引き返しぬ。
その前の夜、先手の惣がしら侍大将の一同に夢見しは、身延山の鎮守七面大明神女体に甲冑を体し、九万八千の夜叉神を左右に随へ、仏法破却の大将を射ると放ち給ふ。その矢、大将の口の中に入ると見えしと語りしが、果して明くる日惣大将信玄俄かに口中を痛み、歯瘡(はくさ)といふ煩ひにて死去し給ふなり。夢見し人々の語り伝へし事なり。
信玄が死去したのは天文年間ではなく元亀四年(1573)年なので、ええ~?? と思わず叫びたくなる内容ですが、『身延鑑』解説によればどうやらまったく荒唐無稽なお話でもないとのこと。信玄死去の2年前の元亀二年に織田信長が比叡山を焼き討ちし、再興を堅く禁じたのに対して、信玄は天台座主の覚恕法親王を保護して権僧正の位を得、翌年には信長と対立していた足利義昭の求めに応じて信長討伐のために挙兵しています。『身延鑑』解説によればこのとき法親王から延暦寺の再興を求められた信玄は、自分の領国である甲斐に天台宗の本拠地を築くことを構想し、要害の地である身延山をそれに充てる意図を持った旨が学究によって明らかにされつつあると。
なるほど延暦寺の再興は京都に近い比叡山では当時はとても無理でしょうし、天台座主の法親王を自国に迎えた信玄が、自分の身近な場所に比叡山を再興しようとしたのは話として自然です。しかも比叡山焼き討ちのわずか2年後に信玄が死去している事実も、延暦寺の再興のために信玄が身延山を攻略したための「仏罰」と説くのに説得力もあるような。しかし信玄は領内に昔から存する身延山には保護を与えていたようですし、これはもう少し精査した方がよい問題ですね。
『身延鑑』にはこんな記事も。
又、ある時風はげしきをりふし盗賊忍び入り、本院の大庫裏に火を付けしかば、諸堂の鐘をつき、貝を吹きならすといへども、山を越え谷をのぼる事なれば、大衆の集まる時うつり、すでに二三間燃え上り、あれはあれはとばかりなりし所に、七面山より黒雲一村吹き来り、雨車軸を流し、刹那に火を消し子細なかりしとなり。その時の焼け残りたる棟木虹梁今にあり。
ん~。ちょっと批評の言葉もない記事ではありますが。。それほど身延山は法華宗の聖地として畏敬され、そうして愛されてもいた、その証左でありましょう。そういった信仰のひとつの現れとして、そういった素地の下で能『現在七面』も生まれたのではないかな~? と考えると、ちょっとうれしくなってきました。それはそれで美しい信仰のかたちでしょう。
お客さまが手を合わせて能『現在七面』をご覧になっている。。そういった場面が、この能の上演史には必ずあるはずです。今とちょっと違った能の上演の風景がそこにはあるはずです。そう思うと ぬえもその場に居合わせてみたかったな~。
<了>
七面宮の御霊験さまざまありし中にも天文年中の比なり。此の国の守護信玄のたまひけるは、身延山を中野の杉山に移し、その跡を城郭になし給はんと安間弾正左衛門を使者として越し給ふ。貫首老僧一同して私の返事成りがたし。祖意にまかすべしとて、満山祖師の宝前に集会して一万巻の陀羅尼を誦し、御くじ両三度に及ぶといへども祖師御心にかなはざるよし返事なり。その儀ならば軍勢を以て破却してとらんとの事なり。此の事身延に知れければ護法の神力を頼まんにはと、満山大堂に集まり、一万部の読経を始め衆怨悉退散と祈り給ふ。
惣大将信玄出馬あれば先陣の軍勢身延山の東の麓、早川河原に着く。早川を渡さんとすれば俄かに雨車軸を流し、川水まさり波瀬まくらを打ち岸を洗ふ事おびただし。先陣の軍勢渡りかね、身延の峯を見上ぐれば旌旗(せいき)天にひるがえり、木のかげ、岩のかげに兜の星をかがやかし、軍兵雲霞の如く見えければ、案に相違して進みかねたる所に、本陣の惣大将信玄御不例なりとて俄かに甲府の城へ帰り給ふゆえ、その軍勢も引き返しぬ。
その前の夜、先手の惣がしら侍大将の一同に夢見しは、身延山の鎮守七面大明神女体に甲冑を体し、九万八千の夜叉神を左右に随へ、仏法破却の大将を射ると放ち給ふ。その矢、大将の口の中に入ると見えしと語りしが、果して明くる日惣大将信玄俄かに口中を痛み、歯瘡(はくさ)といふ煩ひにて死去し給ふなり。夢見し人々の語り伝へし事なり。
信玄が死去したのは天文年間ではなく元亀四年(1573)年なので、ええ~?? と思わず叫びたくなる内容ですが、『身延鑑』解説によればどうやらまったく荒唐無稽なお話でもないとのこと。信玄死去の2年前の元亀二年に織田信長が比叡山を焼き討ちし、再興を堅く禁じたのに対して、信玄は天台座主の覚恕法親王を保護して権僧正の位を得、翌年には信長と対立していた足利義昭の求めに応じて信長討伐のために挙兵しています。『身延鑑』解説によればこのとき法親王から延暦寺の再興を求められた信玄は、自分の領国である甲斐に天台宗の本拠地を築くことを構想し、要害の地である身延山をそれに充てる意図を持った旨が学究によって明らかにされつつあると。
なるほど延暦寺の再興は京都に近い比叡山では当時はとても無理でしょうし、天台座主の法親王を自国に迎えた信玄が、自分の身近な場所に比叡山を再興しようとしたのは話として自然です。しかも比叡山焼き討ちのわずか2年後に信玄が死去している事実も、延暦寺の再興のために信玄が身延山を攻略したための「仏罰」と説くのに説得力もあるような。しかし信玄は領内に昔から存する身延山には保護を与えていたようですし、これはもう少し精査した方がよい問題ですね。
『身延鑑』にはこんな記事も。
又、ある時風はげしきをりふし盗賊忍び入り、本院の大庫裏に火を付けしかば、諸堂の鐘をつき、貝を吹きならすといへども、山を越え谷をのぼる事なれば、大衆の集まる時うつり、すでに二三間燃え上り、あれはあれはとばかりなりし所に、七面山より黒雲一村吹き来り、雨車軸を流し、刹那に火を消し子細なかりしとなり。その時の焼け残りたる棟木虹梁今にあり。
ん~。ちょっと批評の言葉もない記事ではありますが。。それほど身延山は法華宗の聖地として畏敬され、そうして愛されてもいた、その証左でありましょう。そういった信仰のひとつの現れとして、そういった素地の下で能『現在七面』も生まれたのではないかな~? と考えると、ちょっとうれしくなってきました。それはそれで美しい信仰のかたちでしょう。
お客さまが手を合わせて能『現在七面』をご覧になっている。。そういった場面が、この能の上演史には必ずあるはずです。今とちょっと違った能の上演の風景がそこにはあるはずです。そう思うと ぬえもその場に居合わせてみたかったな~。
<了>