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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その35)

2009-09-24 02:52:47 | 能楽
霊夢によりはるばる都より此の山に来り給い、御身を清め給えば本のごとく平癒あり。その時、姫君のたもうは、我は此の池にすむいわれありと池の中へ入り給うと見えしが、二十ひろばかりの大蛇となりて浮かび上りて見え給えば、供人驚ろき都へ帰りぬ。

池の宮は兼言の契りはあれども、新枕を見るよしもなき御うらみ、床は涙の淵となり、袖のしがらみひまもなくまします所に、姫君は不思議の病を受け給い、甲斐の国七面の山中に身を捨て給うと聞し召し、いかなる山の奥までも尋ね逢わんと思召し、御病の御薬など取持ち給い都を忍び出で、九重の雲井はるばると波木井の郷に尋ね入り、七面の山中を隈もなく尋ね給えども見え給わず。
麓へ下り、かなたこなたと尋ね給えども知りたる人もなし。ある里にてこまごま問い給えば、里人さようなる人は見ないとぞ申しける。宮は、もはや此の世にはなき人と思召し、都より持ち来り給う御薬もよしなしとて捨てさせ給う。その里を見ないの里と申し、文字には御薬袋と書くなり。そののち笛を吹き、経を読み給う所を管絃島・経が島と申すなり。御身を投げさせ給う所をば身投げが池と申してあり。御死骸を取り上げ一つの墓をつき御所墓と申すなり。その後、夢の告げありて一つの社を建て池の太神と申すはこれなり。本地は毘沙門天王なり。


う~む、美人が登場しながら重い病に苦しみ、霊夢によりこの七面山に来たところたちまち平癒したけれども、今度は突然の狂気(?)によって池に入水し、ところがたちどころに姫は大蛇に変身し。。一方彼女に心を寄せる「池の宮」はついに彼女の心を射止めたけれども、病のためとて彼女の突然の失踪を知り後を追いながらついに再会は果たせず、これも池の中に身を投げて死んでしまう。。

なんだか悲恋物語なのだか何だか、いまいちテーマがつかめない話ではありますが、それでもこの姫君は父親である「京極中納言師資卿という公卿」が厳島弁才天に祈誓をしたところ授かった子。となれば、はじめて七面池を見て「我は此の池にすむいわれあり」と言って池に入る彼女の奇行も、先に引いた『身延鑑』の物語を考えれば自然な流れで、要するに姫君は厳島弁才天が仮に人間の姿をとって、子宝に恵まれない 京極中納言師資卿の娘として誕生したものなのですね。

また「池の宮」が入水自殺を遂げてから夢の告げがあって神社を建て、彼を「池の太神」と祀った、という記録も、その本地仏が毘沙門天だとなると、興味が出てきます。毘沙門天の妻はふつうは吉祥天とされているのですが、それとは別の伝承として弁才天を充てることもあるからで、『身延鑑』の前掲の部分には「此の御神と申すは本地弁才天功徳天女なり。(略)北方毘沙門天王の城、阿毘曼陀城妙華福光吉祥園にいますゆえ、吉祥天女とも申し奉る。」とも見えるので、この書では弁才天と吉祥天を混同しているのかもしれませんが、いずれにしてもこの物語の要点は、子宝に恵まれなかった京極中納言師資卿の娘と、彼女に心を奪われた池の宮が、ともに人間としてこの世に生まれながら、添い遂げることができなかった悲恋の物語であるように見えながら、じつはこの七面池を介して本性たる弁才天と毘沙門天としての自覚を取り戻し、同時に人間界から姿を消し去った、という奇跡潭が描かれているのでしょう。

それはすなわち神の人間界への影向の形のひとつにほかならず、それが子宝に恵まれなかった父に娘として降臨し、またその娘に思いを掛ける男として登場する物語とすることで、畏怖すべき存在でない、もっと人間界に近しい、親近感を持たれる神として描こうとする意図が働いて作られた物語。。なのかもしれませんですね。