昨日 師家の月例公演がありまして、『難波』の珍しい小書「鞨鼓出之伝」(かっこだしのでん)が上演されました。
能『難波』は仁徳天皇に仕えた王仁(わに=能の中では「おうにん」と読む)博士が「難波津に咲くや木の花冬ごもり 今は春辺と咲くやこの花」の歌の縁で木華咲耶姫とともに現れて、この御代の太平を言祝ぐ、というストーリーの脇能のひとつです。
ところがこの曲はなかなか厄介な事情がある曲でして。まず観世流だけが他流と大きく演出が違うのです。いわくこの能の後シテは他流では悪尉の面を掛ける老神の姿で現れるのですが、観世流だけは邯鄲男の面を掛けた若い男神の姿です。これに従って後シテが舞う舞の種類も異なり、他流では「楽」を舞うのに対して観世流では「神舞」を舞います。観世流では後シテは『高砂』に似たイメージとなります。
ところが観世流には この「鞨鼓出之伝」という小書がありまして、小書の名称は観世流では常には出さない鞨鼓台の作物(『天鼓』や『富士太鼓』などでも使われる作物)が後場の舞台に出されることから来ているのだと思いますが、最も大きな特徴は 後シテが悪尉の面を掛けて「楽」を舞うことにある。。つまり他流の常の場合と同じ演出になる、ということです。
。。ところが今回の『難波・鞨鼓出之伝』の能では ぬえは主後見のお役を承っておりまして、この能を勤めたことのない ぬえにとっては恐縮のお役で、おシテにお願いして事前に型を伺っておいたのですが、なんとこの小書には上記の通り「悪尉面で楽を舞う」というスタイルのほかに、もう一つ別のやり方があるのだそうです。それは「邯鄲男で神舞を舞う」というもので、ええ?? それじゃ観世流の常の『難波』とどこが異なるんだろう。。?
正解は、鞨鼓台の作物を出し、「打ち鳴らす」の文句のところでシテが鞨鼓台から撥を抜き持って鞨鼓を打つ型をすること(『天鼓』など鞨鼓台の作物を出す際のシテの典型の型)、神舞の三段目でサシ分ケの型が入ること(これも『高砂・八段之舞』等に類例あり)、キリの「寄りては打ち返りては打ち」と左袖を作物に掛ける型をする、という程度でしょうか。シテが「神舞」を舞う曲で小書がつく場合は、その神舞が替の譜に変わったり緩急がつくなど舞の中に大きな変化があるものなのですが、この『難波・鞨鼓出之伝』にはそういった大きな変化はなく、師家の型付には「三段目から急に速くなる」という指示が書いてある程度でした。
先日の『現在七面』でも思ったことですが、珍しい曲や小書では意外に細部まで決められていない、すなわち申合として定まっていないこともあって、今回はこの「鞨鼓出之伝」にも同じ事を思いました。すなわち、まず「鞨鼓出之伝」の小書がついた場合の後シテが悪尉の老神と邯鄲男の若い男神の二つのやり方が併存してあった場合、多くの演者は 当然悪尉を選ぶと思うのです。邯鄲男では小書がつかない常の『難波』を演じているのとあまり変わらず、小書に挑戦する意義もやや不分明になってしまいます。ましてやシテ方は、同じ曲を次にいつ舞う機会が巡ってくるのかわかりませんので、必然的に常の『難波』とは全く違った演出となる老神での上演に意欲を感じるのは当然のことだと思います。
そこで老神の「鞨鼓出之伝」ですが、こちらは常の『難波』と比べて面も装束も、そして位(簡単にいえば上演の速度)も、舞う舞もまったく違ってきます。観世流としては常の『難波』と「鞨鼓出之伝」は別の曲と言っても過言でないほどに違っているのですが、それに対して若い男神としてのこの小書の演出には、案外工夫を重ねて伝えられてきた形跡があまり感じられません。
能『難波』は仁徳天皇に仕えた王仁(わに=能の中では「おうにん」と読む)博士が「難波津に咲くや木の花冬ごもり 今は春辺と咲くやこの花」の歌の縁で木華咲耶姫とともに現れて、この御代の太平を言祝ぐ、というストーリーの脇能のひとつです。
ところがこの曲はなかなか厄介な事情がある曲でして。まず観世流だけが他流と大きく演出が違うのです。いわくこの能の後シテは他流では悪尉の面を掛ける老神の姿で現れるのですが、観世流だけは邯鄲男の面を掛けた若い男神の姿です。これに従って後シテが舞う舞の種類も異なり、他流では「楽」を舞うのに対して観世流では「神舞」を舞います。観世流では後シテは『高砂』に似たイメージとなります。
ところが観世流には この「鞨鼓出之伝」という小書がありまして、小書の名称は観世流では常には出さない鞨鼓台の作物(『天鼓』や『富士太鼓』などでも使われる作物)が後場の舞台に出されることから来ているのだと思いますが、最も大きな特徴は 後シテが悪尉の面を掛けて「楽」を舞うことにある。。つまり他流の常の場合と同じ演出になる、ということです。
。。ところが今回の『難波・鞨鼓出之伝』の能では ぬえは主後見のお役を承っておりまして、この能を勤めたことのない ぬえにとっては恐縮のお役で、おシテにお願いして事前に型を伺っておいたのですが、なんとこの小書には上記の通り「悪尉面で楽を舞う」というスタイルのほかに、もう一つ別のやり方があるのだそうです。それは「邯鄲男で神舞を舞う」というもので、ええ?? それじゃ観世流の常の『難波』とどこが異なるんだろう。。?
正解は、鞨鼓台の作物を出し、「打ち鳴らす」の文句のところでシテが鞨鼓台から撥を抜き持って鞨鼓を打つ型をすること(『天鼓』など鞨鼓台の作物を出す際のシテの典型の型)、神舞の三段目でサシ分ケの型が入ること(これも『高砂・八段之舞』等に類例あり)、キリの「寄りては打ち返りては打ち」と左袖を作物に掛ける型をする、という程度でしょうか。シテが「神舞」を舞う曲で小書がつく場合は、その神舞が替の譜に変わったり緩急がつくなど舞の中に大きな変化があるものなのですが、この『難波・鞨鼓出之伝』にはそういった大きな変化はなく、師家の型付には「三段目から急に速くなる」という指示が書いてある程度でした。
先日の『現在七面』でも思ったことですが、珍しい曲や小書では意外に細部まで決められていない、すなわち申合として定まっていないこともあって、今回はこの「鞨鼓出之伝」にも同じ事を思いました。すなわち、まず「鞨鼓出之伝」の小書がついた場合の後シテが悪尉の老神と邯鄲男の若い男神の二つのやり方が併存してあった場合、多くの演者は 当然悪尉を選ぶと思うのです。邯鄲男では小書がつかない常の『難波』を演じているのとあまり変わらず、小書に挑戦する意義もやや不分明になってしまいます。ましてやシテ方は、同じ曲を次にいつ舞う機会が巡ってくるのかわかりませんので、必然的に常の『難波』とは全く違った演出となる老神での上演に意欲を感じるのは当然のことだと思います。
そこで老神の「鞨鼓出之伝」ですが、こちらは常の『難波』と比べて面も装束も、そして位(簡単にいえば上演の速度)も、舞う舞もまったく違ってきます。観世流としては常の『難波』と「鞨鼓出之伝」は別の曲と言っても過言でないほどに違っているのですが、それに対して若い男神としてのこの小書の演出には、案外工夫を重ねて伝えられてきた形跡があまり感じられません。