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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その33)

2009-09-22 01:10:19 | 能楽
『身延鑑』の記すところによれば、日蓮の庵室を日参したのは「二十ばかりの化高女」で、日蓮はその者の人でないことを看破して、ある日素性を問うたところ、女は「我は七面山の池にすみ侍るものなり」と直ちに認めて日蓮に結縁を願います。日蓮はこれに応じ「輪円具足の大曼茶羅」を授け、重ねてその名を問うたところ女は「厳島女」と答え、日蓮は彼女が「安芸の国厳島の神女」であることを悟ったのでした。女も自ら「我は厳島弁才天なり」と明かし、「霊山にて約束」した通り「末法護法の神なるべき」と誓い、そのとき日蓮は「垂迹の姿」を見せ給えと傍らの花瓶を差し出したところ、女はその姿を水に映すと思うや、たちまち「一丈あまりの赤竜」となったのでした。

ややあって赤竜は「本の姿」すなわち女の姿に戻り、かつて霊鷲山にて釈迦自身から法華経の説法を聞き、「末法法華受持の者には七難を払い、七福を与う。誹誇の輩には七厄九難を与え」る守護神の役目となったことを言い、この「身延山に於て水火兵革等の七難を払い、七堂を守るべしと固く誓約」すると再び池に帰ったのでした。

能『現在七面』と比べると、能ではシテの本来の姿が大蛇で、日蓮の供養と法華経の功徳によって大蛇が天女に変身するのに対して『身延鑑』では化高女の真の姿は「厳島弁才天」なのであり、として出現するは赤竜で、これこそ厳島弁才天の「垂迹の姿」つまり真の姿であって、天女の姿はついに登場しないのです。

さらに厳島弁才天が日蓮に語ったのは、みずからが法華経の守護神となるのは「霊山にて約束」したからなのであり、すなわち釈迦が法華経を説いたその時にその場に居合わせ、その時に法華経の守護をする誓いを立てたからであって、決して日蓮の供養によって立てられた誓いではありません。

。。つまり『身延鑑』に描かれる赤竜の姿は「厳島弁才天」そのものの姿であって、能『現在七面』の後シテが「懺悔」のために本性を現した「大蛇」の「悪」のイメージとは正反対のものなのです。そしてこの「末法護法の神」は法華経のために往古より存在し続けたのであって、この物語において日蓮の存在はその高い徳のために「末法護法の神」が影向したのではあっても、能『現在七面』に描かれる、大蛇という「悪」が天女という「善」にその性格を反転させるのが日蓮および法華経の霊力によってとされるのとは大きく異なった比重を持っていると考えられます。

いま仮に『身延鑑』の物語が能『現在七面』よりも先だって成立し、なおかつ能の作者がこの物語から何らかの印象を受けて『現在七面』が書かれたのだとしたら、能の作者は『身延鑑』の物語を独自の視点で拡大させたのであって、それは法華経そのものの霊力と日蓮の徳とを同一視する視点によるものなのでしょう。

『現在七面』は成立時期は確定できないものの、江戸初期に作られた能であることはほぼ確実で、ぬえはこの能は法華宗の内部、あるいはその周辺で作られた能なのではないかと感じています。この能は法華経と日蓮を同時に同レベルで賛嘆するのが主眼で、ある意味でのテーマでもあり、目的でもあるように感じるのです。なによりこの能は一般観客の鑑賞の場を想定して作られたとは思いにくい部分が多い。どうも法華宗の信者が集うような場面でまず上演されることを目的として作られた能であるようにさえ感じられるのです。

そうであるならば、この能の作者は あるいは能楽師ではないが能の台本を書くことにも精通した当時のプロライターのような者があったのかもしれないし、そうであれば ある意味でこの能は『身延鑑』と通底した目的を持っているのでしょうし、それを補完するような役割も持っているのではないか、と感じます。
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