ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その10)

2008-08-11 23:53:08 | 能楽
さて「下リ端」の囃子に乗って登場する子方ですが、子守・勝手の明神二人が登場します。前シテと前ツレがそれぞれ子守・勝手の神の化身ですから、同じ役柄が前場ではシテとツレ、後場ではツレが演じるということになります。この二神はツレが勤めることもありますが、子方でもよいことになっています。今回の『狩野川薪能』では我らが綸子ちゃんとチビぬえが勤めるわけですが、このように子方が勤める場合は、前シテ・ツレの尉と姥が「我々の本当の姿をお見せしよう」と言って中入しておいて、本当の姿は子どもだったという。。(^◇^;)

ま、そうは言ってもこの場合の子方は、型の都合によって(後述)子方が勤めるわけで、決してこの二神が子どもだ、というわけではありません。同様に前シテとツレも本当に老人夫婦であるわけではなく、脇能の前シテがほとんど尉であるように、これは霊力と威厳を持った神の力の象徴と考える方が正しいでしょう。総じて日本を含む東洋の考え方では「老い」を尊びますね。つまりは経験による人間性?の重みを尊ぶのでしょう。老神の面である悪尉の面は若い神の面である「神体」などよりもずっと仰々しい、というか強い表情をしていますが、これも身体的な衰えよりも、経験によって蓄積された内在する「パワー」を表現しているのでしょう。

ともあれ子守・勝手の装束は以下の通りです。

勝手明神 面=小面(子方の場合は直面)、黒垂、天冠、襟=赤、着付=摺箔、白大口または色大口、縫入腰帯、長絹、桜持枝、天女扇。
子守明神 面=邯鄲男(子方の場合は直面)、黒垂、赤地金襴鉢巻、風折烏帽子、襟=萌黄、着付=紅入厚板、白大口、単狩衣、縫紋腰帯、桜持枝、神扇

勝手明神は女神の姿、子守明神は男神の姿です。ところがこの性別の違いはシテ方の流儀によって一定していないようですね。すなわち観世と同じく勝手を女神、子守を男神とするのは喜多流で、宝生・金春・金剛流ではこれとは逆で勝手が男神、子守が女神なのです。

さて来序で前シテが中入し、狂言が立ちシャベリをする場合の常として、ワキの待謡はなく、囃子方が見合わせてツレ(または子方)の登場囃子「下リ端」を演奏することは前述しましたが、「下リ端」という囃子は、登場音楽としては珍しく。。というか能ではこれだけだと思いますが、「囃子本位」の登場音楽です。「囃子本位」とはどういう事かというと、登場する役者の演技。。この場合登場する、という動作そのものが、役者の演技中心ではなく囃子の寸法に合わせなければならない、ということなのです。

ちょっとわかりづらいかも知れませんが、登場囃子というものは「下リ端」を除いてすべて登場する役の動作が基準になっている、というのは、役者の歩速や橋掛りの長短によって、幕から出た役者が舞台または橋掛りの所定の位置に達して止まったところで終了する、という意味なのです。

すべからく登場囃子には「プロローグ」と言いますか、役者はまだ幕を上げて姿を見せずに囃子の演奏だけが行われる小段のようなものが、大なり小なりありまして、それから所定の囃子のキッカケを聞いて役者は幕を上げます。この登場の場面が やはり小段としてプロローグの段とはしっかり区別されている場合は俗に「出の段」などと通称しますが、この出の段だけはほとんどの登場囃子では演奏の長さが決まっておらず、見計らいによって終わりの手を打ち、いよいよ役者が謡い出す、というような流れになっています。この見計らいの基準になるのが、当たり前ですが、登場した役者が所定の位置に止まったところ、となっているわけです。

ところが「下リ端」だけは例外で、これは囃子が打ち、また吹く内容がすべて決められているのです。すなわち「出の段」の中で登場するキッカケの囃子の手があり、さてそこで役者が幕を上げて登場すると、囃子の所定の寸法いっぱいに、役者は自分の所定の位置に到着していなければなりません。歩速が速すぎても遅すぎてもならないことになります。これはツレはともかく子方にとっては至難です。まあ、歩速が速ければ、所定の位置で到着して、あとは囃子が手組を打ち終えるのを立ったまま待ち続ければいいのですが(これとてもあまり誉められたものでもありませんが。。)、歩みが遅すぎる場合はさあ大変。「下リ端」で登場した役者は所定の位置で止まるだけではなくて、まだ登場囃子が続いている中で「左右」「打込」という型をする決マリ(これも「下リ端」の特徴の一つ)になっているので、それが出来なくなっちゃう。。演技全体が総崩れになる危険性さえ、「下リ端」にはあるのです。

テレビ放送に。。ちょっとだけ出ます

2008-08-10 02:12:34 | 能楽
ふとしたご縁から、テレビ番組にちょこっとだけ出演することになりました。ぬえ。

出演したのは伊豆の紀行番組で、金田爽ちゃんという女優さん? が伊豆のあちこちを一人旅して、各地の風物やグルメを満喫する(←こんな表現が ぬえのブログに登場するとは夢にも思わなかった)、という趣向で、爽ちゃんがたまたま訪れた旅館で ぬえが能のワークショップをしていて、そこに参加して能面や装束の体験をする、というもの。

伊豆に9年も通っているご縁から、ぬえは伊豆では何度かワークショップを催したり結婚式に出演したりもしているので、このシチュエーションはあながち適当にでっち上げたわけでもないのですが、今回は撮影もあったので ちょっとサービスしまして、装束を着けて『羽衣』の一部を舞って見せたりもしました。もちろん伊豆で行われる『狩野川薪能』の宣伝もしっかり言ってきましたよ~。

それにしても昨年の後半頃から伊豆との関わりがどんどん深くなっているような気がします。まあ、薪能での子どもたちとの触れあいが、もう歴史と言ってよいほど長く続いているので、ぬえにとって伊豆は故郷のようなものです。東京で生まれ育った ぬえには田舎がないしなあ。

撮影では爽ちゃんに面を掛けさせて体験してもらったり、装束もちょっとだけですが着付けてみて、型も少しだけ教えてみました。撮影中の会話はかなり盛り上がったのですが、さてどこまで放映されるのでしょうか。ちなみにこの番組は30分番組で、そのうち ぬえの出番は数分程度、だそうです。(^◇^;)

いやそれにしても撮影の忙しいこと。能の撮影のあとにはすぐに料理の撮影が控えているそうで、どうぞどうぞ、ぬえには構わずに、と、撮影スタッフには次の現場に行って頂いて ぬえはあと片づけを始めました。面装束があると本当に準備と片づけには手間が掛かります。まあ、小一時間程度は掛かって片づけをして、さあ帰ろうというときに ふと旅館の食堂を見ると。。浴衣に着替えた爽ちゃんがカメラの前で豪華な夕食の撮影中でした。うらやまし~~ あ、それはカニですか??

放映スケジュールは次の通りです。

「いい伊豆みつけた」(ひめの国・はなの国 伊豆の国 夏巡り篇)<仮題>

  千葉テレビ   8月11日(月) 午前8時~
  テレビ埼玉   8月13日(水) 午後2時30分~
  テレビ神奈川  8月15日(金) 午前11時~
  静岡朝日テレビ 8月17日(日) 午前5時20分~

なおテレビ放映後、パソコンテレビ GyaO でも配信されるようです

次は ぬえもぜひカニを食べる役で出演したい。


【追加情報】

 どうやらテレビ会社によっては放映日・放映時間が変更になったようです。

  千葉テレビ →放映日が変更になった模様
  テレビ埼玉 →20:00からの放映に変更の模様 → 番組表
                     しかもレポーターの名前まちがってるし
  テレビ神奈川 →変更なし → 番組表検索
  静岡朝日テレビ →変更なし。。の模様 →基本番組表
                     でも再放送扱いだし

。。意外にテレビ局のHPってアバウトなのねえ。。

なお、この番組HPでは「岩盤浴つきペア宿泊券」が当たる視聴者アンケートがあるようです。 →番組HP

。。岩盤浴ってのはどゆものなんですか??

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その9)

2008-08-09 03:25:15 | 能楽
間狂言が退場すると、囃子方は「見合わせて」、「下リ端」という登場囃子を演奏します。

「下リ端」って、なんだか不思議な名前ですよね。似た名前の登場囃子に「出端」というのがありますが、ここで共通する「端」という言葉は広辞苑には「物の末の部分。先端」とあるほかに「あとが続く最初の部分。きっかけ」とあり、古語辞典でも「物事の端緒。発端。きっかけ」とあります。「出端」というのは即ち、役者が登場する(舞台に「出る」)端緒としての囃子、という、かなり大ざっぱな捉え方の名称なのでしょう。

ほかにも能の登場囃子は多岐に渡ってあるのですが、「一声」とか「次第」という名称は、なんとなく役者の発声や事件の顛末の暗喩というような、戯曲に切り込んだ意味を持つ名称だと思うし、そう考えるからかも知れませんが、どうも実演上も納得できる要素があると思います。「名宣笛」もこの仲間でしょう。また「早笛」「会釈」のように囃子の演奏上の特徴を名称にしてあって、そのままそれが登場する役のイメージに直結するものもあります。さらに「大ベシ」は役者が掛ける能面の名称で、これはまさしく役の性格を直接的に表現している名称です。

ところが「出端」となると、はなはだイメージが曖昧になってしまう。。それだからか、「出端」で登場する役は非常に幅広く、『実盛』も『高砂』も同じ「出端」で登場しますし、『安達原』だって「出端」で出ることもあるのです。当然それぞれの曲によって「出端」は「位」を変えて演奏されるのですが、そのことが「出端」のイメージをさらに不明確にしていると思います。

もちろん「一声」も「次第」もいろいろな役の登場に広く用いられる事は変わりがないのですが、この二つの囃子の名称から受ける、なんとなく、でしょうが、そのイメージは演者に「どう演奏され、どう登場すべきか」という想像力をかき立てます。さらに「次第」には前述の通り、登場した役者の演技を規定する作用もあるため、これがまた役者にとって「一声」と「次第」によって登場するそれぞれの役の相違というようなイメージ作りにまで影響を及ぼしていると思います。それに対して「出端」にはどうも「一声」「次第」のような明確なイメージがありませんね。。

ま、「出端」についての考察は後日に譲るとして、ところが同じような名称を持っているくせに、『嵐山』などに用いられる登場囃子「下リ端」にはハッキリしたイメージがあります。これはね。天から「天下ってくる」役のための囃子なのです。

空から「下ってくる」役が登場する「端緒、きっかけ」としての囃子。「下リ端」のイメージは、音楽的にもまさにそういう感じでしょう。フワフワと天から降りてくる飛天。宇治・平等院の鳳凰堂の阿弥陀如来の周囲で軽やかに飛び回りながら楽器を演奏する飛天。あんな感じを表現することを狙った囃子なのではないかと思います。現に「下リ端」が演奏される曲には『吉野天人』や『西王母』『国栖』など、泰平の御代を(または将来泰平の御代を治める帝を)祝福するために、いかにものどかに現れる天女の役に多く使われているのです。もっとも「下リ端」が用いられる曲の例外として『猩々』(およびその姉妹曲)があります。猩々は水の中から浮かび出てくるので、その登場囃子はむしろ“上がり端”と呼びたいくらいですが、実際には猩々の性格は天女と変わりはなく、祝福が主眼として登場する役だと言えます。

いや、むしろ、ぬえは『猩々』この「下リ端」という登場囃子を端的に捉えて表現しているのではないか、と思います。どうもこの囃子で登場した役。。神仙の役は、人間を祝福するのも目的なのですが、ややもすればそれ以上に、自分自身が楽しむために登場したフシがあります。

たとえば「出端」で登場するような天女・女神の役といえば、『龍田』の龍田明神や『竹生島』の後ツレの天女にしても、また『賀茂』や『難波』の後ツレ天女も、かなりシッカリした態度で衆生を救い、あるいは守ろうとする明確な意志が感じられます。それに対して『吉野天人』や『西王母』のシテは、もちろん天下を守護する大いなる目的はあるにせよ、どうも舞台づらでは、あるいは吉野の桜を愛でるため、あるいは帝に捧げ物をする、というセレモニーのために登場して、自身もそのシチュエーションを興じているという印象をぬぐえない。。

これは『猩々』のシテとも共通するイメージであるわけで、そうなると『下リ端』という名称も、「天から天下ってきた」、という役の個性が反映されて用いられているのではなくて、この囃子で登場した役自身が泰平の世を体現する、いわば平和の指針になっているような、そういう役に多く使われる囃子の名称と考えられるようです。このような役にはどうも衆生を守護する、というような積極的な運動をする神仏とはちょっと性格を異にしていて、主神に守護されているから自分も存在できる、というような、ある意味では泰平の世の無責任な享受者とも言え、神仏とはいっても人間にとっては身近な存在。その代表者が「飛天」で、だから天下ってくる彼らの役の登場囃子を「下リ。。」と大きく捉えたのではないかな? と考えるのです。

確証はないですが、ぬえは「出端」や「下リ端」が持つこういう捉え方の「大きさ」が、登場囃子としての成立。。少なくとも名称がそのように固定された時期が「一声」や「次第」よりも遡るのではないか? という印象を持っています。

ともあれ、「下リ端」には真摯な態度で衆生を守る誓いを決意するというよりも、このように登場した役自身が人が暮らすこの現世を謳歌するような趣があります。その意味では『嵐山』の後ツレ(子方)の登場にはまさにうってつけなのだと思います。

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その8)

2008-08-08 01:05:49 | 能楽
この『嵐山』の初同上歌の構成は『賀茂』によく似ている、と書きましたが、中入のシテの型は脇座の方へ行き正面へノリ込、幕の方へ向いてヒラキ、ここで箒を捨ててそのまま常座に到る、という。。どうもこの場面には『高砂』の影響があるようにも思えます。『嵐山』の作者は金春禅鳳と考えられていて、そうすると祖父・禅竹の作品である『賀茂』と、その禅竹が師と慕った世阿弥の『高砂』の両方の影響が見て取れるというのは、あながち間違いではないかもしれませんですね。ことに禅竹は世阿弥を非常に尊敬していたし、少年から青年に至る時期まで祖父の薫陶を受けた禅鳳に両者の影響が表れるのは当然かもしれません。

さて前シテとツレが「来序」で中入りすると、囃子は急に拍子を改めて「狂言来序」を演奏して間狂言が登場します。「狂言来序」で登場する間狂言の役は「末社の神」「木葉天狗」など、格がやや低めの神仙の役で、「立ちシャベリ」といって、立ったまま一人で物語を語り、所作をする。。自己完結型の演技をすることが多いのも特徴の一つです。

ちなみに『嵐山』の間狂言は末社の神で、吉野の桜が嵐山に移された事情を物語り、ついで勅使の到来を喜んで挨拶をし、ご機嫌がよさそうだ、と言うと勅使のお慰みに、と舞を見せる、という筋立てになっています(狂言のお家によって違いはあるかもしれません。。)。自己完結型、と言う割には勅使と交流があるように見えますが、じつは間狂言がワキの方へ向いて着座して挨拶をしても、ワキは間狂言の方を向きません。おそらく勅使には末社の神の姿が見えない、という設定なのでしょう。それでも舞を「見せる」というわけですから??なのですが、ともあれ末社の神は脇能の立ちシャベリの間狂言ではよく上演される「三段之舞」を舞います。『嵐山』に限ったことではありませんが、末社の神の役の間狂言は登場にも囃子が入り、また囃子の演奏で舞も舞うのですから、間狂言としては演技の時間も長く、またかなり派手な演技をすることになります。

「三段之舞」を舞い上げた末社はさらに「やらやら めでたや。。」と続くやはり常套のめでたい文句を謡いながら舞い続け、それが終わると静かに幕に退きます。

間狂言が幕に入るといよいよ後場なのですが、ここで桜の立木の作物を引っ込めることもあります。後場に登場するツレ(または子方)の演技によって、桜の立木との「絡み」のある型をしない場合は、立木の作物も必要としないわけです。もちろん型がないとしても風情としては作物は舞台にそのまま残して置いた方が春爛漫の景色を表現するのに有利でしょうが、やっぱり舞台が狭くなるしね。それにお客さまからも正先に出された作物は舞台を見るのを妨げる要因ですから、型がない場合は作物もここで退場させることになります。

で、今回は子守・勝手のふた柱の神は子方に勤めさせるのですが、桜の立木に絡む型をさせる事にしました。ありていに言えば、この型は常の能としては「替エ」の型でして、むしろ「白頭」の小書のときにもっぱら用いられる型です。

が、しかし。このたび『嵐山』を上演する『狩野川薪能』は、地元の子方を特訓して登場させるのがひとつの目的でもありますので、ここは師匠に相談して許可を頂き、あえて「替エ」の型、すなわち子方が桜と関係を持ちつつ舞う方の型で勤めさせることにしました。

いやむしろ、この型を子方にやらせたかったから、今回 ぬえは『嵐山』を上演することを決めたのです。この型ひとつのため、子方の演技のための選曲。。 稽古を始めてみたら、やっぱり。。だったんですが、シテはは子方より型が少なかったです。。(・_・、)

まあ、『狩野川薪能』は伊豆の小学生のための催しだもんね~。これはこれで初志貫徹、というか、目的に合致した選曲でしょう。おかげさまで、この薪能の発案者であり総合プロデューサーの役割をしておられる大倉正之助さんには、囃子方でありながら桜の立木の作物を東京から現地まで運ぶご苦労をお掛けすることになってしまいましたが。。m(__)m

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その7)

2008-08-06 01:34:13 | 能楽
地謡「花はよも散らじ。風にも勝手木守とて。夫婦の神はわれぞかし(とシテとツレはワキへ向き)。音たかや嵐山。人にな知らせ給ひそ(とシテは二足ツメ)。
地謡「笙の岩屋の松風は(ここでツレは地謡の前に行き着座)。笙の岩屋の松風は。実相の花盛(右ウケ)。開くる法の声立てゝ今は嵐の山桜(正へ出ヒラキ)。菜摘の川の水清く(角トリ)。真如の月の澄める世に。五濁の濁ありとても。流れは大堰川その水上はよも尽きじ(常座に廻りワキへ向きヒラキ)。いざいざ花を守らうよいざいざ花を守らうよ(ツレへ向きツメ足)。春の風は空に満ちて。春の風は空に満ちて(右へウケ見)。庭前の木を切るとも。神風にて吹きかへさば妄想の雲も晴れぬべし(正へ出ヒラキ)。千本の山桜(と右へウケ少し出〈面つかっても〉)のどけき嵐の山風は。吹くとも枝は鳴らさじ(作物へ向きヒラキ)。この日もすでに呉竹の(幕の方を見)。夜の間を待たせ給ふべし(ワキへ向きツメ足)。明日も三吉野の山桜(脇座の方へ行き幕へ向き)。立ちくる雲にうち乗りて(正の方へノリ込拍子)。夕陽残る西山や(幕へ向きヒラキ、箒を捨て)。南の方に行きにけり(常座へ行きトメ)南の方に行きにけり(右へトリ橋掛りの入口へ行き)中入〈来序〉。

「笙の岩屋の松風は」から「その水上はよも尽きじ」までを見ると、なるほど初同の定型の型、すなわち正へ出ヒラキ、角トリ、常座へ廻りワキへヒラキ、という一連の型があり、そこで囃子の打切がありますから、ここまでの範囲を上歌と考えることができます。がしかし、この文章の内容を見ると、脇能の常套としてワキに対して神の威光を伝えるわけでもなく、まあ仏教の慈悲の顕現と捉えられてはいるとしても、この嵐山の花盛りの景色を描写していて、むしろシテ自身がその美しい光景を楽しんでいるかのようです。

続く「いざいざ花を守らうよいざいざ花を守らうよ」は型としても謡の形としても下歌と考えられますが、これが下歌とされていないのは、この文句の最後に囃子の打切がないため次の文言との境目が曖昧なこと、さらに次の「春の風は空に満ちて」以下の本文の節扱いが上歌やクセなどの定型にあてはまらず、「いざいざ花を」を下歌とするとそれ以下の文に名称がつけにくいことなどによるのでしょう。

また、「春の風は空に満ちて」以下の本文は、今度は神について言及しながら、内容としては「笙の岩屋の松風は」のところと同じく、遠回しな表現ではありながら嵐山の致景の賞賛で、内容としての一致があるため、小段として分けにくい、という事もあるでしょう。

ともあれクリもサシもクセもないままに、『嵐山』は初同がそのまま渾然一体となって中入にまで続いていく、という感じに作られています。儀式性を重んずる脇能としてはまさに破格です。このあたりの文章や作曲には『賀茂』とよく似ているのですが、それでも『賀茂』にはロンギもあり、また中入の地謡は独立して存在しています。女性がシテという脇能としてはやはり破格な『賀茂』と比べても『嵐山』の作者には簡素化、脱・儀式性の明確な意志があったと考えるのが自然ではないかと思います。

ところが中入は本式の脇能の通り、シテ・ツレ二人が「来序」という大小鼓に太鼓、笛も加わった囃子で中入となります。

来序はまさに儀式としての中入で、太鼓の手に合わせていくつか足遣いをしてから幕に入ることになっており、またシテが中入してからは「狂言来序」という洒脱な囃子に変化し、末社の神など立ちシャベリをする間狂言が登場するのも特徴です。来序は脇能に限らず天狗物の能や切能に広く用いられるのですが、足遣いの歩数の長短に、脇能とそれ以外の能とでは多少の区別があります。

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その6)

2008-08-05 23:57:37 | 能楽
「初同」とは、地謡がその能の中ではじめて謡う小段を言います。小段ですから、能の冒頭にワキが「次第」の囃子で登場し、「次第」謡を謡ったあとに地謡が同じ文句を低吟する「地取」などは「初同」とは呼びません。また「一セイ」など短い拍子に合わない謡も初同とは呼びませんですね。事実上、初同は地謡がはじめて謡う「下歌」あるいは「上歌」の事を指すに限られるようです。

そこで『嵐山』の初同ですが、これがまた脇能としては型破りな構成となっています。

たとえば『高砂』では初同(とくにこの箇所を「四海波」〈しかいなみ〉と呼んでいます)があり、そこでシテは初めて演技らしい動作をします。脇能の初同はほかの多くの能の初同と変わることなく、地謡が描く文章の意味に合わせて定型の型、すなわち正へサシ込、ヒラキ、角トリ、左に廻り常座へ戻りワキに向いてサシ込、ヒラキという手順で舞われ、その中に随時 曲によって作物にサシ込、ヒラキをするとか、右へウケて遠くの景色を眺める、などの型が追加されます。

『高砂』ではその後シテが正中に座し、ほぼ地謡だけによってクリ・サシ・クセという膨大な分量の物語が謡われます。『高砂』ではこのクセの後半にシテが立ち上がって落ち葉を掃く所作が入るのが印象的ですが、ほとんどの脇能ではクセの中もシテは正中に座ったままで、文意の区切りのある箇所で何度かワキと向き合うのみです。クリ・サシ・クセが終わるとロンギとなり、主に地謡がワキの言葉を代弁してシテの素性を尋ね、シテは本当は神の化身だと謡うと、やがてシテは立ち上がり、姿を消した体でツレとともに中入するのです。

このように本格的な構成を持った、何というか「シッカリした」脇能では、初同→クリ→サシ→クセ→ロンギと一連の小段が続いて、ロンギの最後で中入となるのが定型なのです。

ちょっと話はそれますが、この本格的脇能の構成は、本三番目の鬘能とよく構成が似ていますね。能の中で脇能と鬘能はともに重視され、尊重されているので、演出にも意識的に儀式性が追求されているのではないかと思います。

ことにクリの前に「打掛ケ」という演式を用いるのが脇能と鬘能(および小書によって重く扱われる能であれば脇能や鬘能でなくても打掛ケになる例外あり)に限られているのも、儀式性を導入しようとする意識が作者か、あるいは歴史の中で先人にあったのでしょう。ちなみに「打掛ケ」とは、クリの冒頭に大小鼓が打つ手組の名称で、常の能ではこの手組にかかわらず地謡が謡い出すのに、「打掛ケ」の場合は、その手組を打ち終わるまで地謡は待機して、そのあとに謡い出す、というもので、難しい技術がとくに必要になるものではないのですが、囃子の華やかな手組が打たれる間に地謡が無言で待機するあたりに、不思議な緊張感が生まれますし、何というか「儀式」という印象も与えるのではないかと思います。

ところがまた、上記のように脇能と鬘能はともに初同~ロンギという本格的な構成を持つ場合が多いのですが、一方この二つの曲籍の違いによって、演出も異なる場面もあるのです。それがロンギで、脇能のロンギでは初句に打切が入ります。『高砂』であれば「げに名を得たる松が枝の」の初句のあとに囃子の打切があり、そのあと地謡はあらためて「げに名を得たる。。」と返シ句を謡います。これは鬘能には行われません。

で『嵐山』に戻って、この曲では初同は「下歌」ですが、そのあとに「上歌」が続き、この上歌は非常に構成が破格です。どうも下歌らしき部分も含んでいるし、さらに別の上歌と考えた方がよいような箇所もあって、しかもそのような小段の集合体のような構成ですから結果的に長文になった上歌の、その終末部でシテは中入してしまうのです。

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その5)

2008-08-04 19:00:40 | 能楽
このあたりのシテとツレの謡の内容は、泰平の御代を満開の桜にたとえて言祝ぐもので、脇能の前シテの登場の場面では常套の文言でしょう。また、ここではワキの言葉と同じく天皇が名花として名高い吉野の桜が遠方のために見ることが出来ず、この嵐山に植えおかれた、という事が語られます。

また型としても、登場した前シテと前ツレが橋掛りで向き合って「二ノ句」を交えた「一セイ」を謡い、それより舞台に入って、ツレが舞台の中央、シテが常座に立って「サシ」「下歌」「上歌」を謡い、その終わりに立ち位置を変えてシテが中央、ツレが角に立つ、というのも脇能に共通した型です。考えてみれば、シテがツレを伴って登場する場合、ツレの方がシテよりも舞台の前方に立っている、という例は脇能以外ではあまり例がないのではないでしょうか。二人が座っている場合にはこういう位置関係もあるのですが、二人がこの位置で立ったままワキと問答するのは、『錦木』などを除いてあまり他に例がないように思いますが。。(詳しくは未調査ですが。。)

ワキ「不思議やなこれなる老人を見れば。花に向ひ渇仰の気色見えたり。おことはいかなる人やらん。
シテ「さん候これは嵐山の花守にて候。又嵐山の千本の桜は。皆神木にて候程に。花に向ひ渇仰申し候。
ワキ「そも嵐山の千本の桜の。神木たるべき謂れはいかに。
シテ「げに御不審は御理。名におふ吉野の千本の桜を。移しおかれしその故に。人こそ知らね折々は。子守勝手の神ともに。この花に影向なるものを。
ワキ「げにやさしもこそ厭ふ憂き名の嵐山。とりわき花の名所とは。何とて定め置きけるぞ。
シテ「それこそなほも神慮なれ。名におふ花の奇特をも。顕さんとの御恵み。
シテ、ツレ「げに頼もしや御影山。靡き治まる三吉野の。神風あらばおのづから。名こそ嵐の山なりとも。

さてワキは嵐山の桜を礼拝する老人夫婦を見て不審し、いわれを尋ねます。シテの答えには、そもそも吉野の桜が神木で、それを植え移したこの嵐山にも子守・勝手の二神が折々に影向するのだ、というのです。

ところが、これを聞いたワキは驚きもしなければ、感興を催すこともありませんですね。「ふうん」という感じで次の質問。ところで「嵐山」というのは桜にとっては不吉な名前であるはずなのに、なぜ花の名所と定めたのでしょうか? これに対するシテの答えは、そのまま地謡が引き継いで説明することになります。

地謡「花はよも散らじ。風にも勝手子守とて。夫婦の神はわれぞかし。音たかや嵐山。人にな知らせ給ひそ。

吉野の桜を嵐山という、花にとっては不吉な名の場所に植えたのは、嵐の風よりも神の力(神風)の方が強く、この治まる御代の下ではその力も増幅されて、風にも桜が散ることがない、という奇瑞を見せるため。そしてまた「風に勝つ」という言葉から、はやくも老夫婦は自分たちが勝手・子守のふた柱の神だと名を明かします。

前シテが自分の本当の名を明かすのは中入の場面の直前とは限りませんが、『嵐山』は自分の正体を明かすのがかなり早いと言えるでしょう。まあ、能にはほかにも早めに名乗る前シテはおりますですが。。『鍾馗』の前シテはワキとの会話の三度目の往復でもう正体を明かしていますし。。

それと、初同(しょどう。地謡がはじめて謡い出す小段)になるまでに、ほとんど和歌が出てこないのも『嵐山』の特徴ですね。上記では「さしもこそ厭ふ憂き名の嵐山 花の所といかでなりけん」という『新千載集』所収の藤原北家道隆流の藤原良基の歌のたった一首。。何気ないことのようですけれども、やはり『嵐山』は破格の能といえるのではないかと思います。

大仁きにゃんね花火大会

2008-08-02 23:58:41 | 能楽

本日は伊豆の国市の子どもたちの稽古でした。もうあと2回の稽古で薪能の本番を迎えるところまできました。なんだかあっという間でしたね~。もうこの時期には各出し物の稽古は1回の通し稽古のみ。あとはそれぞれの役の演技を微調整する、という作業になります。「子ども創作能」もさすがにみんな声が出てきましたし、役に自信もついてきたのではないかと思います。

そう言えば、先日このブログに頂いた「りんちゃん」(←地謡の一人、みさとちゃんのおかあさん)のコメントに「武士役の子どもたちがみんな揃って、申し合わせたように、実行委員会から参加者に配られた黒い薪能のTシャツで稽古に臨んだ」という事が報告されていました。うん、それはその稽古の場でも ぬえも気がついていたんですが、何となくそれは、みんなで示し合わせてそのように決めたのかなあ、なんて思って、あとは気にせずに稽古をしたわけですが。。よく考えてみれば、その稽古のときにはまだ参加者の名簿が整備されて配布されていなかったので、申し合わせることはできなかったんですね。そうすると。。それでは、あの6人もいる武士役の子どもたちが事前に話し合う事もなく みんな揃って同じTシャツを着て来たの!? 。。それはスゴイ事だ。。いつの間にか目に見えない団結力が働くようになっていたんですね~。。 これは ぬえが9年間稽古してきた中でも初めての事件ですよ! 今日、今さらながら彼らを誉めてあげました~

ところで、今回の稽古には ぬえ、別の楽しみがありまして。Y(^^)
ずっと見たかった大仁の「大仁きにゃんね花火大会」を見ることができたのです。

現在は合併して伊豆の国市となった旧・大仁町の花火大会で、『狩野川薪能』も もとはこの大仁町が主催して行われてきました。毎年ここでは8月1日に大規模な花火大会が催されてきたのですが、ず~~っとここに通っていながら、ぬえは未だにこの花火大会を見たことがありませんでした。今年はぜひ拝見したい、と、実行委員会の母体である現・伊豆の国市観光協会にお願いして、1日から伊豆の国市に入って花火大会を見物し、翌日の今日をお稽古日として頂いたのです。

ところが観光協会では気を遣ってくださって、なんと有料の桟敷席を薪能に参加している子どもたちがみんな入場できるだけ確保してくださいまして! 感謝!感謝! 急遽「みんなで花火大会ツアー」の企画となったのでした。

当日は桟敷席の入口で現地集合・現地解散。夜の河原が会場ですから、帰りは必ず保護者が子どもたちを引き取って一緒に帰宅すること。薪能の宣伝の一助となるべく、参加者は薪能Tシャツで参加のこと。引率者の ぬえがいろんなルールを作って、みんなを誘ってみました。

いや~~それが、まあ、あれほど大混雑する花火大会とは思いませんでした。去年見て感動した、伊豆長岡の花火大会の、あまり混み合わない、河原の土手に大の字に寝転がって見ることができるあの花火大会とはずいぶん様子が違いましたが、なるほど、これは伊豆長岡よりも大規模で絢爛な花火大会ですね~。といっても、ま、引率者としましては、最初の30分以上は「な~んにも食べてこなかった~。おなかすいた~」と言っている子どもたちのために 焼きそばを買うために夜店に並んでいたのでしたが。。

で、これが薪能Tシャツを着た参加者の面々! 全員ではありませぬが。



せっかくだから参加者をご紹介しちゃうか!
左より真央、克、礼智(らいち)、瞭、楓、綾。



同じく左より礼智、珠里(みさと)、綾、ありさ、明日香。



同じく左より千早、綸子、真澄。



同じく左より瞭、将人、克、礼智、瞳偉(とうい)、亜里沙、まり菜。



同じく左より悠希、夢知(ゆうち)、彩花。

あとでわかった事ですが、この桟敷席はかなり高額で販売されていたようで、薪能に参加する子どもたちのために人数分の席をプレゼントしてくださるなんて、観光協会や実行委員会の皆さんにも子どもたちは愛されていますね~。

ちなみに ぬえはこの花火大会の前には海水浴を楽しんでおりました。いやいや、夏休み満喫の1日でした~。

でも。。あと3週間で薪能の本番が来てしまうのね~。楽しみでもあるし、また一方、この子どもたちと稽古できるのもあとそれだけなのかと思うと寂しい気持ちもあるし。。なんか、複雑です。